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がれきの下には思い出の品々 「探し隊」必ず持ち主の元へ

足場が悪い中、懸命に思い出の品を探すボランティア=4日、宮城県南三陸町

幼稚園のときの作品を見つけた小野寺君=5日午後5時ごろ、気仙沼市の階上中

 東日本大震災の津波で多くの家屋が流失した宮城県南三陸町で、町災害ボランティアセンターが被災現場で写真や卒業文集などを探し出す活動に取り組んでいる。名付けて「思い出探し隊」。被災者を少しでも癒やそうと、隊員たちはがれきの中を歩き回っている。

 活動は、1960年のチリ地震津波と今回の2度も自宅を流された佐藤仁町長が「自分と同じように思い出の品を失い、つらい思いをしている町民が多いのではないか」と提案。町社会福祉協議会職員でボランティアセンターのまとめ役を務める猪又隆弘さん(52)に相談し、3月28日に始まった。
 今月4日の活動には、大阪府や登米市などから駆け付けたボランティア7人が参加した。至る所にくぎやガラス片が散乱するため、鉄板入りの安全靴とマスク、軍手という完全防備で探索に当たった。
 がれきをかき分け、目を凝らした隊員たちは廃材や泥に埋もれていた写真やネガ、年賀状、表彰状などを次々に発見。顔が写っていたり名前が書かれていたりと、所有者の特定が可能な品を拾い集めた。
 大分県から来た無職尾畠春夫さん(71)は1996年4月に撮影された歌津中入学式の集合写真を探し当てた。「がれきの奥の方に隠れていたが、なぜかよく見えた。呼んでいたのだと思う。何とか本人か家族に渡したい」と大事そうにビニール袋に入れた。
 発見した品は丁寧に汚れを落とし、いったん保管する。「紙1枚でも思い出が詰まっているかと思うと、おろそかにできない」と隊長の山田浩己さん(42)=堺市社協=。活動は今月中旬まで続ける予定で、返却方法を検討している。
 猪又さんは震災で妻を亡くしたが「悲しみ、苦しさをこらえながら頑張っている被災者を手助けしたい」と話している。(宮田建)


◎父の日のうちわ戻る/気仙沼の小野寺君“涙”

 「あ、これ俺のだ」。約600人が避難する気仙沼市階上中。5日夕、新1年生の小野寺颯真君(12)が叫んだ。
 自衛隊ががれきの中から集めたアルバムや思い出の品が体育館前に並べられていると聞き、仮住まいのアパートから駆け付けた。すぐ、黒いフェルトペンで書かれた「おのでらそうま」の文字が飛び込んできた。
 幼稚園の作品集だった。当時5歳だった自分が描いた絵や工作。「お母さん、取っていてくれたんだ」。父の日に作ったうちわもあった。すっかり忘れていた。
 涙があふれると「花粉症なんです」と言って、袖でぬぐった。自宅前に広がる海の絵も見つかった。海水を吸ったせいか、はがすと端が切れた。
 中学生になったら個室をもらう約束だった2階建ての家は、土台しか残っていない。両親と弟、祖父母、曽祖父母の一家8人は無事だった。今は親類宅などに分かれて暮らす。
 震災4日前に手に入れたゲーム機も流された。弟(10)と「一緒に遊ぶ」と約束し、誕生日のプレゼントに買ってもらった。
 ワカメ、カキ、ホタテを養殖する父和義さん(36)が所有する何隻かの船も津波に流され、壊れた。
 「津波は憎い」。でも、海の恵みで家族は暮らしてきた。ワカメ養殖用の船は修理すれば再び使えそうだという。
 小学5年の時、「大変そうだから、俺も漁師になる」と言って両親を喜ばせたことがある。
 父の日に作ったうちわに、同じ思いが湧き上がってきた。
 「お父さん、こんな状況だけど頑張って。俺が後を継ぐ」
(山崎敦)


2011年04月07日木曜日


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