ここから本文エリア 現在位置:asahi.com> マイタウン> 福岡・北九州> 記事 社会矛盾と格闘46年2011年04月06日
■筑豊の一隅に生きて―牧師 犬養光博さん 中小炭鉱の閉山で疲弊した筑豊に移り住み、教会活動にいそしんだ福智町の牧師犬養光博さん(71)が今月、筑豊を去る。筑豊の一隅(いち・ぐう)に生きて46年。貧困やカネミ油症、人権問題などに関わった犬養さんに会い、その言葉を織り交ぜながら歩みを振り返った。 ●廃鉱地帯 貧困に根張る決意 《初めて筑豊を訪れたのは1961年8月。関東や関西、九州の学生が結成した「筑豊の子どもを守る会」のキャラバン隊に参加した。その前年に日米安保条約が改定され、発効した。反対闘争に打ち込んでいた僕は目標を失い、何も手につかなくなった。見かねた先輩が筑豊行きを勧めてくれた》 国は52年に石炭から石油へとエネルギーを転換し、資力がない中小炭鉱はつぶれていった。炭鉱失業者を救うための「黒い羽根運動」が59年9月、県内から始まった。ほぼ半年で募金3800万円や衣類56トン、粉ミルク2700缶などが全国から寄せられたが、守る会は「物は集まったが人は動かなかった」という反省に立ち、炭鉱住宅の子どもたちに寄り添うために鞍手町の廃鉱地帯に入った。 《相当貧しい暮らしをしてきた僕が見ても衝撃だった。自分が安保闘争を通じて変えようと思った日本には、筑豊の現実が抜け落ちていた。筑豊から始めなければ、ものが見えなくなると思った》 土門拳さんの写真集「筑豊のこどもたち」や、記録作家上野英信さんのルポ「追われゆく坑夫たち」が60年に出版された。その影響で筑豊を訪れた学生も少なくなかった。上野さんは「学生にとって筑豊は必要かもしれないが、筑豊にとっては学生は必要でない」とキャラバン隊にも批判的だった。 《廃鉱地帯で出会った子どもたちは働き者だった。ボタ山に登っての石炭拾いや水くみ、子守などみんなが家の仕事を手伝い、自信に満ちていた。その笑顔に引かれた》 63年4月から1年間、大学を休学して金田町(現福智町)神崎で暮らした。そして65年、素子さんと結婚して神崎に移り住んだ。聖書研究会を始め、66年に日本基督教団福吉伝道所を開いた。子どもたちの登校を見守り、勉強を教え、子ども会活動を導いた。移住した翌年、長男が生まれた。 《息子を見て、上野先生は「あなたもやっと生産的なことをしましたね」と言われた。筑豊に関わり続けることは、代を超えてそこに居ることだという熱い思いを、僕は皮肉としか受け止めきれなかった》 住民の近況や地区の問題、聖書解説などを書いたガリ版刷りの「月刊福吉」を発行し、地区の全世帯に配った。公民館活動や水道整備で住民が協力し合うように呼びかけた。 《かつて炭住では食べ物を貸し借りし、よその子の面倒も見るなど助け合っていたが、その気風が失われていた。以前のような共同体を復活させたかった》 「月刊福吉」では、生活保護を巡る不正を繰り返し批判した。「働く力もあり働く場所もあるのに保護をもらっている人がいる」。これに対して「保護を受けるしかなかった歴史をわかっているのか」といった批判や反発もあった。 《結局、自分の枠組みでしかものを見ていなかった。受けざるを得ない人の気持ちがわかっていなかった。》 筑豊で見た希望がある。上野さんが書いた女坑夫の話。「何に生まれ変わりたいか」と聞かれて、「馬車馬に生まれてきたかよ……(中略)誰かが重い荷ば曳(ひ)かんとならんとなら、あたしゃ、やっぱり、馬になって荷ば曳きたかよ」 《こんな人がいたことが救いだった。これこそ、上野さんが言った「日本を根底から変革するエネルギー」だと思う。そんな鉱脈を僕も探し求めてきた》 ●在日問題 指紋押捺反対 毎月断食続け 《あるときカネミ油症のおじいさんの葬儀に参列した。その人は在日朝鮮人だったが、僕らは日本名で呼んでいた。式場では、僕の知らない人が朝鮮語で何かを言い立てていた》 その人こそ指紋押捺(おう・なつ)拒否闘争をした在日韓国人の牧師崔昌華(チォエ・チャン・ホア)さん(故人)だった。「死んだときくらい、本名で葬って下さいよ」と訴えていたことを知り、在日朝鮮・韓国人問題に本格的に取り組むことになる。 崔牧師は外国人登録証への指紋押捺を拒んで83年に起訴され、1、2審で有罪判決を受けた(最高裁は大赦令による免訴判決)。特別在留許可期間は3年から1年にされ、慰謝料などを求めて国を提訴。犬養さんは押捺反対を訴える毎月2日の断食座り込みに参加した。運動は全国に広がり、永住資格を持つ在日韓国・朝鮮人の押捺義務は93年廃止された。 《在日の人が勇気を持って告発するまで、僕らはこの問題に気づいていなかった。在日の問題が見えていなかった》 この問題は日本の植民地支配に起因する。筑豊の炭鉱には戦時中、強制連行をされるなどして朝鮮人が働かされた。亡くなるとほとんどが無縁仏となった。田川市や飯塚市には慰霊碑や慰霊塔があるが、犠牲者の名前も、犠牲者の正確な数もわからない。 生き延びても、様々な障壁があった。犬養さんが保証人になった在日1世の金鐘甲(キム・チョン・カブ)さん(故人)は特別在留許可を受けたが、居住地を北九州市門司区に制限され、毎年の申請が必要だった。「強制連行されて働かされたのに、なぜこんな煩雑な手続きをしなければならないのか」。サンフランシスコ講和条約発効に伴って奪われた日本国籍の確認を求めて75年、国を訴えた。犬養さんも証言台に立って支援したが敗訴した。 《「ルカによる福音書」に追いはぎに遭う話がある。祭司らは被害者の傍らを素通りしたが、サマリヤ人は宿屋に連れていって介抱した。金さんは「日本人という追いはぎ」に遭った生涯だった。金さんがそこにいてくれたから、傍らを素通りできず、「追いはぎ」でしかなかった者が「善きサマリヤ人」のまねごとをさせてもらった》 無年金状態の在日韓国・朝鮮人は、数万人に及ぶとみられる。国籍条項が撤廃される82年まで国民年金に加入できず、その際も保険料納付期間が規定に足りないとして35歳以上の人は対象外となったためだ。 《日本は、植民地時代は国籍を押しつけ、戦後は国籍を奪った。日本の利益にならない者は排除し、利益になる者には同化を強いてきた。今の僕たちは、それを克服できているだろうか》 ●カネミ油症 座り込み来年500回 添田町のカネミ油症被害者紙野柳蔵さん(故人)との出会いは69年。支援を要請されたが「筑豊の問題をやるために来た」と断った。その後、紙野さんから「無関心は公害の加担者です」という手紙が来た。 《脳天を殴られたような衝撃だった。すぐに福岡の病院に入院中の紙野さんにお会いして、共に歩ませてもらうことをお願いした》 カネミ油症はカネミ倉庫(北九州市)が製造、販売した米ぬか油に毒性の強い物質が混入し、それを使った人たちが皮膚障害や内臓疾患になった食品公害事件だ。68年に発覚したが、63年ごろから被害は始まっていたとされる。 70年5月、「カネミ油症を告発する会」を結成。8月からカネミ本社前で座り込みを始めた。やがて月1回の定例になり、今年3月で488回に。500回までは続けるつもりだ。 《他の被害者がカネミに対して「元の体を返せ」と抗議するとき、紙野さんは「その訴えには同調できない」と話した。「自分が被害を受けるまでは水俣病など公害被害者の苦しみがわからなかった。元の体は、他人の痛みを理解できない体だったから」という理由だった。衝撃を受けた》 紙野さんは被害者の会全国連絡協議会会長を務め、カネミ倉庫などへの損害賠償請求訴訟の筆頭原告だった。しかし、「裁判は結局、人の命や苦しみをお金に換算する場所で、事件が二度と起こらないよう原因を究明する場所ではない」と原告を辞めた。そして、一家で無期限の座り込みを始めた。約10人の支援者とカンパを分け合い、生活をともにした。3年8カ月後、紙野さんは「カネミの正門前には何もなかった」と座り込みを解き、理由を問う支援者との間に軋轢(あつ・れき)が生じた。キリスト教信者の紙野さんが「キリスト者でないとわからない」。「キリスト者ではやっぱりだめだ」と支援者。 《キリスト者と、そうでない者は一緒に歩めないのか。僕は今もこのことを引きずっている。運動をいかに分裂させずに続けていくか。その答えは今も見つからない》 ●「正しく生きる」自問自答の日々 3月27日、犬養さんは伝導所で最後の日曜礼拝を終えた。近く長男夫婦が住む長崎県松浦市に身を寄せ、筑豊での活動に幕を引く。 犬養さんは最近、かつての「教え子」から手紙を受け取った。地元中学校を卒業後、「まっすぐに正しく生きてくれよ」という犬養さんの言葉に送られて県外就職したうちの一人。手紙には「先生、お疲れ様でした。僕は正しく生きます」と書いていた。 《その子は病になり筑豊に帰ってきた。こんな世の中だから「正しく生きよう」と本気でやったら、おかしくなるのは当たり前。「もっとうまく生きよ」となぜ言えなかったのだろう。あの子は僕を責めようとはしない。それだけに「自分は妥協して生きてきたのではないか。本当に、正しく生きてきたのか」と問わざるを得ない。この手紙が、僕の46年間の総括なのかもしれない》 〈犬養光博さんの歩み〉
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