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日蓮正宗日記

そのあたま ひとあしさきに じごくまで 〜馬鹿って本当に恥ずかしい!


※あまりに馬鹿げた(道理に合わない)発言・主張は大人として恥ずかしい!

いやはや、帰命戦士やってくれましたね、”信濃町説法”。
警察の全幅の協力を得て、j創価の妨害は皆無の中、「創価撲滅!!」連呼の快気炎を上げて帰ってきたそうです。

返す返すも、警察が積極的に協力してくれたことは、まさしく僥倖でしょう。

さて、そんな辻説法二日目でしたが、一日目は私も合流し、創価狂人らの”ドヘリクツ”に耳を汚しました。

◆ 仏法は時代によって変わる
これは、釈尊が法華経を唱えたときそれまでの諸経は方便であったと明かし、また大聖人の御指導が佐渡前後で変化したことなどを”悪用”し、「日蓮正宗の伝統教義を現代向けにアレンジした創価学会の教えこそ正しい」など恥ずかしい主張を繰り返す。
釈尊も日蓮大聖人も、正しき筋目の頂点にあらせられる方々であり、他方、池田大作や馬鹿な会員たちが考え出した「教義」など一瞥にも値しない!と断言しておきたい。
その一方で創価は、3人の会長を「永遠の指導者」と呼んでいるが、「永遠」という概念は「時代によって変わる」というそれと真っ向から背反する
第一、3人は3人ともそれぞれ教導の内容が大きく異なる。それらが全員「永遠」であるとは、完全に論理が破綻している。

◆ 法主は堕落していて血脈は途絶えている
論ずるに値しない妄論。
クロウ事件も実質的に創価敗訴であり、代々の御法主上人の「堕落した行状」などその根拠をまったく示せないし、「ある」、「見た」、「聞いた」と主張する内容は疑わしいものばかり。
一例を挙げれば、「日顕上人のご自宅はプールつきの大豪邸」との”見てきたようなウソ”は、実際にお宅を拝見すれば事実でないことが判明する。
また「血脈」に言及するなどあまりに恐れ多いが、そもそも対一で口伝えで行なわれる相承を、「証拠が無い」とか「見ていない」とか「やる暇が無かった」など主張すること自体まったくナンセンスである。
御相承を御遷化の”まぎわ”にやると決めてしまったとしたら、それこそ”危なっかしい”こと甚だしいのである。
気狂い創価よ、常識が無いぞ。

◆ 創価の会員数は多く法華講は少ない。これは市民が支持している、本当に幸せになれる宗教がどちらであるかを明確に示している
「世間・出世善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり。然れば何ぞ強ちに少なきをおろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり。木皮は充満すれども布絹は些少なり。汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ(聖愚問答抄)」の御金言を真心から拝するいのちを持つ者がこのような主張をするはずがない。
創価は、日蓮大聖人を信奉するふりをしてその実、自分らに都合の良い所だけを悪用する詐欺集団である。
言い換えれば、日蓮大聖人の御金言を”全て”用いれば、創価には都合の悪い所、矛盾点がぞろぞろ出てきてしまう
それを指摘されると今度は、「時代が移って教義が変わった」など錯乱する。
創価の教義・主張は、うわべを日蓮仏法に見せかけた単なる”たわごと”に過ぎないのであり、なんとなく一般市民に耳ざわりの良いことをゴリ押ししたいだけのようである。
これを仏教であると言うのでは、世の中の全ての人間は”教祖”になれるであろう。

◆ チラシ配布や辻説法なんて誰も顧みないからやる意味が無い
だったらほうっておけばよいではないか。
こちらはこちらの勝手に、しかしわざわざ弁護士に相談したり警察に許可を取ったりして合法的にやっている。
それをことさらに責めるとは、まったく矛盾しているではないか。
創価の本音は、「気になって仕方がない」、「上からなんとしても妨害するように命じられた」、「会員に聞かれたり見られたりしたら脱会されてしまう」といった、顧みないどころか”この上もない大迷惑”なのであろう。
ただし中には、「あんなことをされたら私が上から怒られますので、お願いですからやめてください!!」と””嘆願”した幹部がいるとか。
こちらとしては聞き入れるはずもないが、まだかわいげのある(正直な)言いようである。

創価狂人・社会のクズの皆さん、こちらが恥ずかしくなるので、頭が悪いなら黙ってください!


2011年4月5日


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