私の研究遍歴から
               

 ベルリンの壁の崩壊に始まり、ソ連の解体など私の退職後の僅かな数年間に思いもよらない歴史的事件が次々と起き、世の流れの早さを感ずる昨今である。私のつたない研究遍歴も遥か遠い昔の話のような気がするが、今回は敢えてそれに焦点を当ててみたい。

1.カイコの味覚の話

 前にも一部報告したが、カイコの味覚や食物選択をめぐっての研究の一端をご紹介する。 

<蚕食>

 「蚕食」という言葉を聞いたことがおありだと思う。“カイコがクワを食べるように片端から次第に侵略すること”と辞書には説明がある。大きくなったカイコがクワの葉を食べる時には通常はその葉の縁の方から連続的に食べていく。これが当たり前である。ところが、この当たり前のことが見られない場合がある。カイコの人工飼料が作られ、大豆の粉や栄養物質などを芋ようかんのように寒天などで固めた飼料を食わせることができるようになった。カイコはそれを仕方なく、穴をほじるように食べていく。ところが、この飼料から急にクワの葉に移すと、カイコは戸惑いをみせ、最初は葉の真ん中から丸く穴を開けるように食べていく。これはクワの葉だけを食べているカイコでは絶対見られない食べ方である。

 ここでは、食べ方についてのそれまでの慣れが、本来のクワの葉に移してもしばしの間続いて、食べ方の異常となって現れるのである。しばらくすると、思い出したように平常の葉縁から食べる食べ方に戻る。しかし、このことはカイコの本性も人為的に狂わされることがあることを物語っている。いわゆる「蚕食」という言葉の基となった食べ方も対象により変化するのである。

<濾紙を食べるカイコ>

 普通のカイコ(最近、何でも食べるカイコが育成されたが、それを除く)は昔からクワの葉しか食べないと言われてきた。ところが、上に述べたように人工飼料も食べるが、さらに、実におもしろい実験がある。濾紙というのをご存じであろう。ものを濾過する時に使う円形のセルローズの紙である。これを燃えないように恒温器の中で温度をかけて、こんがりと焦げ茶色に焼くのである。すると、形はそのままで、触ると直ぐポロポロと砕けるようにもろくなってカイコが食べやすくなる。これを砂糖水に浸してカイコに与えると、それだけでカイコはポリポリと食べ始めるのである。そこにあるのは成分としては砂糖とセルローズだけである。味としては砂糖さえあればカイコは食べ始めることが分かった。クワの葉しか食べないと言われてきたのに、この現象はどういうことなのだろうか。

 以前の人工飼料の発想がなかった時代には、カイコは植物の葉だけを食べるものだという先入観があり、色々な他の植物の葉を食べさせてみると、クワ以外でもいくらか食べる葉も見つかったが、その種類は少なく、育つかどうかまで見れば、クワ以外の葉ではなかなか難しい。つまり、きちんと成長して立派な繭を作ることを前提にするならば、植物の葉の中ではカイコはクワしか食べないというのは間違いではないようである。そこで、カイコはクワという単一の植物葉だけを食べる「単食性昆虫」と言われてきた。しかし、人工飼料の登場によって、この規定はやや実情に沿わなくなってきた。クワの葉でなくても、食べられる条件が整っていれば、カイコは何でも食べ始めるのである。

<カイコの声を聞く>

 では、この食べ始められる条件、つまり、難しく言えば「摂食機構」を規定しているものは何であろうか。まず、物理的に噛み砕けるもの、次に、好ましい味やにおいがあることである。このうち、味について、カイコの食が進むもの、つまり、好きな味と、嫌がるもの、つまり、嫌いな味とを検定するには、通常は上に述べたようななるべく単純な組成の人工飼料に色々なテストする物質を混ぜて、その結果、それによってよく食うようになれば、その物質は好きなもの、食わなくなれば嫌いなものとして判定するのである。しかし、その結果で直ちに、それらが本当に味として感じて好きなのか、あるいは嫌いなのかと断定するには問題がある。それは、物理的に食い易くなったから食が進んだということもあり得るからである。

 一方、京都工芸繊維大の浜村教授達は摂食に関して、誘引因子(引き付けるもの)、噛咬因子(噛む反応を起こさせるもの)、嚥下因子(飲み込む反応を起こさせるもの)、摂食継続因子(食べ続けるために必要なもの)などに分類し、いまでもそれがあちこちに引用されているが、私はこの分類には異議を持っている。誘引はともかくとして、それ以外の分類には問題が多い。噛むことと飲み込むのとの区別、摂食継続とはどの程度からいうのかなど曖昧な点が多いと考えるからである。

 カイコがある化学物質を味として感じていることを確定するためには、カイコの味覚器官、人間で言えば、味を感ずる舌のような器官を見付けて、確かにそこで感じていることを証明しなければならない。味覚器官には味覚細胞と呼ばれる感覚神経細胞の末端が分布しており、味のある物質がその感受部位に触れると、感じたという神経の反応が起こる筈である。その反応を捕えて、しかも、それと同じ物質を食べさせて食が進めば、それは好きな味覚物質であると決めることができる。

 その味覚器官の反応を捕えるのに「電気生理学」の方法がある。それは分かり易く言えば、味覚細胞が味覚物質を感じて起こす神経の反応は電気的な反応(電圧の変化、 インパルスという)なので、それを取り出してブラウン管に誘導し、 目で観察すれば一目瞭然である。例えば、砂糖を人工飼料の中に加えて良く食うようになることが分かり、一方、砂糖に対する味覚器官の電気的反応が起こり、それが濃度によって変化する(濃ければインパルスの頻度   一定時間内の数   が増える)ことが観察されれば、それは「砂糖は好きだ」という“天の声ならぬ、天の虫(=カイコ)の声”を直接聞くのと同じである。

<どこでどんな味を感じ、それはどんな役割をしているか>

 この電気生理の方法で、まず、カイコの味覚器官を調べると、口のまわりの“小顋”
(しょうさい、“小あご”ともいうが、機能はあごではなく、感覚器官である)にある2本の毛が主として味を感ずる毛であることが分かった。以前に述べたことと多少重複するが、その1本には砂糖やその他の糖類を感ずる味覚細胞とイノシトールという甘いビタミンの一種のみを感ずる味覚細胞、塩類を感ずる味覚細胞などが別々に分布している。しかも、食べさせる実験を併用して調べると、それらはカイコにとって好ましい味であり、シュウクロースは食べることを決定する上で基本的に必要な物質で、それにイノシトールを加えることによって、さらに相乗的に食が進むことが明らかになった。人間は砂糖(シュウクロース)とイノシトールとは区別できないが、カイコはそれを区別でき、しかも、人間と比べて極めて低濃度で感ずることができる。人間と同様、カイコも甘いものが大好きなのである。よく調べてみると、糖類の中では葡萄糖や果糖などに比べ砂糖(シュウクロース)に対する感度が特に高く、しかも、色々な近縁の植物の葉の成分を調べると、おもしろいことにクワの葉にはシュウクロースの含量が比較的多いことが分かった。 

 小顋にあるもう1本の毛では水も感ずることができるが、その他に、カイコの食べない色々な葉に含まれている多種類の嫌いな味の成分、例えば配糖体やアルカロイドなどと言われている、主に苦味を持っている物質(摂食抑制物質と呼んでいる)を感じとる味覚細胞が分布し、それによってクワ以外の多くの植物の葉を食べないようにしていることが明らかになった。つまり、クワ以外の多くの葉を食べないという「寄主植物選択機構」ではこの摂食抑制物質を感ずる味覚細胞の働きが極めて大きいことが実証された。

 その他に、隣にある小顋肢(しょうさいし、小あごひげ)と呼ばれる毛では食欲を増したり、減じたりするにおいの成分や、特別の味覚性の物質を感じとり、その刺激が中枢神経に伝わって、上に述べた毛からの感覚と統合され、食べることを促進したり、抑制したりしていること、また、口の中の上咽頭と呼ばれる場所にも味覚器官があることなどが分かってきている。 以上を要約すると、以前にも一部述べたが、カイコは“におい”により、引き寄せられたり、食べることを促進されたりするが、どの植物の葉を食物として選ぶかという観点でみると、においだけでは食べられる葉の種類は選別できず、“味覚”で主に判断する。食欲をそそる味はシュウクロース(砂糖)が基本で、他の好ましい味やにおいはそれを助長・促進する働きをする。カイコの寄主範囲(食べられる植物の範囲)を主として規制しているのは葉の中に含まれているある種の摂食抑制(阻害)物質で、葉の種類によって含まれる抑制物質の種類は異なり多様であるが、それらの味を一つの味覚細胞で敏感に感じ取り、それらが含まれている植物を食べないのである。

2.養蚕農家での調査研究

 技術改善のための作業研究という目的で、6年間余、多くの養蚕農家に通って調査研究をした経験がある。その中から、ある農家をめぐるエピソードを紹介してみたい。

<養蚕の規模拡大>

 昭和40年代は各農家が競って養蚕の規模拡大を図っていた時代である。群馬県の養蚕の盛んな西毛地域に若い独身の養蚕家がいた。二十代のその青年はトラック運送業をしていたが、父親が亡くなったため、農業を継ぐこととなった。彼の家も農地は桑園が主で、彼と嫁入り前の妹とそのお母さんの家族3人で養蚕を発展させていくこととなった。2トントラックの車体には『○△蚕業』と自分の苗字を大きく掲げて彼の意欲は誠に盛んであった。一蚕期に家族従事者3人では少々無茶と言えるほどの最大40箱(80万頭)、4蚕期で年間120箱という当時としては驚異的な量の蚕を飼育し始めた。

 この量がいかに大量かということは、 そのために必要な蚕室や桑園の面積から推定してもよく分かる。最も大きくなった5齢の時期に、1箱(2万頭)当たり約15平方メートルの蚕のいる場所(蚕座)の面積が必要なので、合計600平方メートルもの蚕座面積が必要となる。 蚕座面積は蚕室全体の面積の約60%を占める(通路や作業場所が必要)ので、飼育場所の蚕室だけで、1,000平方メートル(300坪)は最低必要となる。もちろん、その他に繭を作らせる上蔟場所や桑を蓄える貯桑場も必要だ。また、小さい蚕は稚蚕共同飼育所を利用し、その後、自分の家で飼うとして、蚕の飼育時期や桑の与え方などによっても違うが、1蚕期に1箱当たり700〜900 程度の桑(伐採したままの枝つきの桑葉:条桑という、条桑の中の葉の割合は蚕期などにより違うが、通常、65〜70%)が必要なので、平均して年間100トン程の条桑が必要になる。 桑の仕立や伐採方法などによっても異なるが、1ヘクタール当たり平均して年間ほぼ30トンの条桑の収穫量を想定しても、約3ヘクタール余りもの桑園がなくてはな らない。養蚕というものは思ったよりもずっと広い飼育場所と桑園が必要なのである。

 この農家では当時としては珍しい天井の高い鉄骨の広い蚕舎を建設し、それに給桑用の桑運搬のためにリフトを装備した。また、乗用トラクタも持っていたが、桑園は周りの農家と変わらずに1ヘクタール前後しか持っていなかったので、土地を買って必要面積の桑園を 新たに造成するか、または不足分の桑を他の農家から買ってくるかのどちらかが必要だ。この農家では買桑によって大部分の桑を確保していた。その遠方からの調達や伐採・運搬は男手であるこの青年一人の肩にかかる大変な仕事であった。

<全滅のカイコ>

 さて、上蔟(カイコが食べるのを止め繭を作り始める時期に、カイコを蚕座から集め、繭を作らせるまぶし<蔟>に移す作業)の時期にこの農家に出掛けていくと、蚕がぐったりしていてまるで元気がない。よく調べてみると、飼育している蚕全体がウイルスによる伝染病に罹っているのであった。飼育場所がいくつかに別れていたが、どの蚕室に行っても同じで、その悲惨な光景はそう度々見ることができるものではなく、我々もしばし言葉を失った。その当時(昭和40年代半ば)、繭1 の価格は正確に思い出せないが、1,000 円前後と思われるので、災害保険がもらえるにしても、1箱から最低およそ30 の繭が取れるとして、40箱分で1.2トンの繭収量に相当する約120万円分がふいになったことになる。 病気に罹ったのは我々の責任ではなかったが、調査に入っていた手前、黙って見ているわけにもいかず、その原因究明を行い、 前蚕期に飼育した時の蚕の病原菌が入っている糞などのゴミを、次の蚕期の小さい蚕に与えるために作っている稚蚕用の桑園に直接捨てていたことや、何と言っても消毒の不徹底が原因という結論となった。そこで、研究の予定外ではあったが、大規模農家における広面積の清掃・消毒作業もいい経験と考え、18リットル入りのホルマリン容器10本ほどを我々の研究費で買って持ち込み、蚕室始め上蔟室や作業場所全体を床に敷いていたむしろの下まで丁寧に完全に清掃するとともに、我々の研究室員6人の手で動力噴霧器で徹底的に散布消毒し、このように消毒しなければいけないことを認識してもらうため、その様子をその農家の人に見てもらった。なにしろ、約1,000平 方メートル以上の広い場所なのでまる1日がかりとなった。

 しかし、そのお陰で、次の蚕期には病気は発生せず、消毒の効果が如実に証明された。徹底消毒こそが飼育成功の基本であることがここに改めて認識された。

<養蚕の手間>

 次の蚕期の上蔟時期に再び行くと、今度は病気の蚕こそいなかったが、その使用している蔟の種類が昔ながらのものであったので、その作業に時間がすごく掛かり、20数人もの近所の奥さんなど多くの臨時雇いの人がいたにもかかわらず、間に合わなくなり、ついに、我々6人の試験場職員も調査を打ち切って手伝うはめになった。農家調査には常にギブアンドテイクの精神が必要である。30人近い全員で夜12時過ぎまでかかってようよう作業が終わって帰るとき、 「あしたも来てもらえますか」と言われたのには参った。我々を臨時雇用として期待していたのである。おばさんやおばあさん達に比べれば、我々の労働力は数倍も質が良かったことは間違いなかった。しかし、この時ほど大規模飼育における上蔟作業の合理化と省力化が緊急に必要なことを身にしみて感じたことはない。それ以降、農家の実態調査の中で、ある工程の省略により、格段に全体の作業能率が向上できることを知り、それについての実証試験を行いながら、少人数でいかに短時間に上蔟作業を仕上げるかという我々として納得できる作業体系を確立できた。 

<作業能率調査>

 桑収穫や飼育などの作業能率の調査をした時のことである。ともすると、試験場の職員はサラリーマンで、農家の苦労は分からないだろうという農家からの陰の批判も聞いていたので、私達も若く、意地もあって、農家の信頼を得ようと、毎日のように朝4時起きして出発し、農家が起き出す前に農家の庭の雨戸の前で待ち、その日一日の桑収穫や給桑などの養蚕の全作業に付き合って時間調査等を行った。研究室の調査員それぞれが農家の作業者を個別に受持ち、その作業内容と能率を詳細に記録するのであるから、農家にとっては全く迷惑千万な話であった。しかし、長年の付き合いの結果、何年かかかった末、ようようあまり嫌がられることもなくこの調査ができる状態を作ることが可能となった。

 さて、桑収穫作業の能率を調査していた時のことである。上述の農家の若い青年の収穫速度の速いこと、速いこと、私達もすっかり驚いてしまった。予想以上の最高能率である。しかし、調査が終わって、我々が引き揚げて、遠くからふと見ると、その青年はガクッと速度を落としてゆっくりと作業をし始めたのであった。その青年は必要以上に私達に良いところを見せようとしていたのである。ここで、私達は現場での作業能率調査の真の値を得ることの難しさをつくづく痛感したのであった。作業能率は速いに越したことはないが、疲れては何にもならず、経済速度というものがあることを知ったのである。

<調査お断りの記>

 昭和40年代半ばの当時は養蚕も旺盛な規模拡大の時代であったので、上に述べた大規模農家の若い独身の青年は買桑依存から脱却し、それに代わって新たに土地を買い、桑園を造成して規模拡大をしたいので、その見本となる先進的な他の農家を見たいと言うので、他の地区の効率的な農家を紹介するなど私達も調査外の協力を惜しまなかった。

 私達の陰の協力もいくぶんはあったかも知れないが、次の年、この農家は群馬で最高の産繭量をあげて有名になった。当然、県内の産繭量十傑とかの公表もあり、税務署が見逃すわけもなく、次の年、税金がかかってきたのである。私達が再び調査に出向くと、いきなり「明日からもう来てくれるな」とけんもほろろである。何が何だか分からず聞きただしてみると、どうやら、私達が調査に入っていたために税金がかかるようになった、もっとはっきり言うと私達が税務署の手先だという誤解であった。とんでもないことだと説明してみても、先方は頭に来ていて聞く耳をもたないのであった。

 そこで、言いたいことも数々あったが、ここはひとつじっと我慢して帰ることに決めた。そして、それ以後、やむを得ずこの農家の調査を中止することになった。

 かなり長い間の私達の努力による省力化などの技術改善の実績も、税金が増えるという予期せぬ事態の前にもろくも「邪魔者の介入」に過ぎないものに化したのであった。農家調査の難しさをこの時ほど痛感したことはなかった。しかし、これもあれも、今から思えば農家の中で過ごした活力に満ちた懐かしい貴重な経験の一駒である。

 目次に戻る

1