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久しぶりに酷いまとめサイトを見た。「原発関連御用学者Wiki」だ。
タイトルもアレだが、「なぜ御用学者リストを作るのか」からトンデモである。「視聴者に判断・行動してもらうために考えうる危険性を全て報道する」ことこそ善、というのは理解できるのだが、だからといって「危険ではない」と言う人は御用学者だ、信頼できない、というのはいかがなものか。
「安全性の評価ではなく危険性の評価が必要」という意見に至っては何を言いたいのかもうよく分からない。危険性を評価した結果、それが確認できないから安全、という結論なのだが。そもそも低量の放射能の場合、現状では健康への影響を定量的に評価することができていない。たとえば「○○程度の放射性物質を含む水道水を飲むと結果的に○○の確率で○○が発生する」ということすら現在の知見では明確には言えないわけで、逆にこういうことを明言しちゃう人のほうが信用ならない。
御用学者認定基準に至っても意味不明だ。「普段から自然被曝してるんだから同じぐらい原発事故で被曝しても大丈夫」は真実であるし、原子炉の構造や事故の原因、経緯がまったく異なるチェルノブイリとの比較は難しい。環境に放出される放射性物質の量の話なのか、汚染されるエリアの話なのか、その後人間や自然に与える影響の話なのか、そのあたりをはっきりさせないと議論にすらならない。「放出量が減る前提」がおかしいという主張もあるが、原発から無限に放射性物質が湧いて出るわけではない。
そもそも、ここで「御用学者」と指摘されているという人は、「金を貰っているから安全と言っている」わけではない。「安全」には一定の科学的根拠があるのだ。金さえ出せば学者の主張なんてひっくり返せると思っているのであれば、それこそ科学や学者への冒涜だ。
放射線による人間への影響はまだ不明な点が多く、また実際事故が発生した原発内で何が起こっているのかは100%分かっているわけではない。そのため「この程度のことが発生しているだろう」と推測を元にそろばんを弾いているわけだ。そして、「現在こうなり、将来こうなる」という確度が最も高い推測から「安全」という結果が導かれている。この過程には何も非難されるポイントはない。
もちろん、たとえば実際に起こる可能性が極端に低い事象を考慮して「推測」した結果、「危険」との主張がなされることもあるだろう。しかし、この主張は「飛行機は事故で落ちる可能性があるから危険だ」という主張と変わらない。このような危険性を皆が知っておくことは悪いことではない。しかし、これを取り上げるか否かは学者の問題ではなく、マスコミの問題だ。これを「○○は御用学者だ」などいう非難にすりかえ、学者の人格問題にすることは許されない。
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と、いうことにしたい (スコア:1)
のですよ。このwiki作った人は。そうして自分にたまった何かわからないもやもやのはけ口にしたいとか、そうしないと自我が崩壊しちゃうんじゃないかと。
可愛そうな人と思って生暖かい目で見ています。
void氏のこのセリフがここまでぴったりくる例もそう無いですわ。
KyaTanaka
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