ハートキャッチプリキュア! 〜漆黒の花〜feat.来海えりか
「いやぁ、そりゃ大変だったねぇ〜」
カタカタと音を出すミシンで布を縫いつけながら、机の向かいに座る相手に対し来海えりかは言葉を返す。
しかし、その口ぶりとは裏腹に、えりかの顔には含みきれていない笑みが浮かんでいる。
「え、えりかっ! 本当に大変だったんですからっ!」
「分かってる、分かってるって」
もはや一切隠していないにんまりとした笑みを浮かべながら、えりかは軽い調子で受け応えする。
一方の向かいに座る相手……花咲つぼみは、必死になって弁明したにも関わらず、涼しい調子で返してくるえりかを見て、これ以上ムキになっても無駄と、ふくれっ面になりながらそっぽを向く。
その視線の先には、ハート型のビーズを絡み合わせたアクセサリを、「ハートリンクメーカー」なる小型の器具で作っているシプレとコフレ、ふたりの妖精の姿があった。
今回えりかが考えている洋服のコーディネートにビーズのアクセサリが必要らしく、妖精のふたりにも手伝って貰っているのだ。
「ハートリンクメーカー」は、材料を器具にセットさえすれば、後はボタンを押していくだけでビーズがチェーンになっていくので、体の小さな妖精でも作業が行える。
また、えりか達が作業に集中している時はあまり口数多く喋れる訳でもないので、その間シプレとコフレが暇をしないようにという配慮でもあった。
そう、ここは明堂学園中等部、ファッション部の部室。
今えりか達は新しい洋服デザインの製作作業を行っている。
えりかとつぼみ以外のファッション部員は4人とも今日は用事があるという事で欠席中だが(だからこそシプレとコフレが堂々とアクセサリ作りをしていられる)、家庭の事情があるななみはともかく、他の3人に「用事」と呼べるほどのものがあるかどうかは疑問の残る所だ。
しかしそれでも、元々数合わせのために物で釣って引き入れた部員の割にはよくやってくれている方だと、部長のえりかは納得しているようだが。
つぼみは、シプレがボタンを押し、もう一方のコフレがこんがらがってしまわないようチェーンを引いていく……という、ふたりの息の合った作業を見ているうち、自分の手元にある布と裁縫針による作業が完全に止まっている事に気づいた。
つぼみはまだまだファッションや裁縫ではえりかに教えてもらう側なので、自分の考えたデザインの服を作る、などという大それた事は出来ない。
そのため、今はシプレとコフレ同様、えりかの考えたファッションデザインのお手伝い(裁縫の特訓という意味合いもある)をしているという状況だ。
つぼみは再びえりかに視線を移す。
カタカタカタ、カタカタカタ、というミシンの音は、先ほどからその小気味良いリズムを崩す事なく続いている。
えりかが先ほどのつぼみの話を真面目に聞いていたかどうかは怪しいが、自分の言葉に受け応えしながら悠々と作業を進めているえりかにつぼみは関心するのだった。
「それにしてもさ」
つぼみが作業に戻ろうとしたその時、タイミングを見計らったかのようにえりかが声をかけて来た。
その両目は作業中の布地から離される事はない。
「そうそうある事じゃないよねぇ〜。男の子に告白されたかと思ったら、その直後に女の子から宣戦布告を受ける……なんて」
「せ、宣戦布告って……私にはそんな気は無かったんです」
それは数日前の出来事。
一言で言い表してしまえば、つぼみがある男の子から恋の告白を受けた。
しかし、その男の子を好きな女の子が別にいて……しかもその女の子はつぼみが恋の応援をしていた相手だと言うのだから、事態はややこしい事となった。
元々は、つぼみの家で開いている、「フラワーショップ花咲」でつぼみが両親の仕事を手伝っている時に、常連客である男の子……カズヤと、女の子……マイの二人が、お互いを意識し合っているのではないかと思ったのがきっかけだった。
マイに対してそれとなく話を振ってみると、実際マイはカズヤの事が好きである事が判明、つぼみはマイの応援をしようと考え、告白出来るよう段取り運びも考えていたのだが……あろう事か、カズヤの方が先に告白をしてしまったのだ。それも、マイではなくつぼみの方に。
告白を受けたつぼみは訳が分からなくなってその場から逃げ出してしまうが、程なくして今度はマイから問い詰められる事になってしまう(逃げ出してしまったつぼみを探すカズヤと偶然顔を合わせ、事情を聞いてしまったらしい)。
カズヤに対する気持ちをおどおどとした調子で語っていた時とは違い、その時のマイの剣幕は恐ろしいほどで、つぼみは恋する乙女の凄さというものを初めてその身で感じた。
その勢いのまま、マイは「カズヤくんは絶対に渡さない」と、えりかの言うところの「宣戦布告」をつぼみに突きつけた。
「カズヤさんから受けた告白をお断りする事と、マイさんの誤解を解く事……ここ数日はその方法を考えるだけで頭がいっぱいいっぱいで、夜も眠れないほどでした……」
「だから最近何話しても上の空だったんだねぇ〜。あ、でも、やっぱりカズヤって人からの告白は断っちゃったんだ」
「あ、当たり前じゃないですか!……あ、いや」
つぼみは一瞬顔を真っ赤にするが、出そうとした言葉を言いよどみ、今度はしゅんとした表情になって顔を伏せ、手元の裁縫針で布を縫うフリをしながらぽつりぽつりと語りだした。
「カズヤさんが、その……ダメという訳じゃないんです。優しそうで、かっこいい人だと思うし……それに、マイさんに遠慮したという訳でもありません。ただ……やっぱり男の人を好きになる、って何かピンと来なくて」
「生徒会長に惚れ込んで『初恋です!』って騒いでた事もあったけどねぇ〜……」
えりかが両手で頬を支えながら、にやにやとした表情でつぼみに突っ込みを入れてきた。
いつの間にやらミシン縫いの作業を止めている。
「そ、それは言わないで下さい!……えりか、作業を止めてしまっていいんですか!?」
「ざぁ〜んねんでした〜! えりかちゃんの作業はもう終了で〜す!」
両手を広げて作業終了をアピールするえりかに、上手い事突っ込みを返したつもりだったつぼみはむむっ、と悔しそうな表情になる。
先ほどから話している間にも作業をきっちり続けていたようだ。
これでは、さっきから全然作業が進んでいないつぼみに突っ込みが帰ってくる形になってしまう。
つぼみはコホン、と一度咳払いをしてから話を戻した。
「生徒会長への気持ちも、今思えば『憧れ』以上のものではなかったのかもしれません。マイさんのあの気迫を見たら、何だかそんな風にも思えてきて……そんな、自分の気持ちも良く分からないような状態で、男の人とお付き合いなんて、出来ません」
「ウブだねぇ〜、つぼみってば。小さな付き合いから、始まる恋……なんてのもあるかもしれないのに」
「ちゃ、茶化さないで下さいっ!」
今度ばかりはさすがに悪いと思ったのか、えりかが手をひらひらとさせながらごめんごめん、と謝る。
「それで、二人に言う事は言ったんでしょ? ね、ね、それでどうなの? その後の二人の様子は?」
「それは……良く分かりません。カズヤさんに元々その気は無かったわけですから。でも、今はマイさんがカズヤさんをぐいぐい引っ張ってるみたいですけど」
えりかは先ほど言っていた「凄い気迫」のマイがカズヤを引っ張りまわしている様を想像してみた。
なかなかに凄絶な光景が頭の中で展開し、えりかはハハ、と乾いた笑いを出す。
つぼみも似たような想像をしているのか、困ったような顔で曖昧に笑っている。
「ま、この先どうなるかはマイって子の頑張り次第って事か。……話を聞いてる限りだと何とかなっちゃいそうな気がするけどね〜」
つぼみが再び視線を机に向けてうつむく。
その様子を見てえりかは、自分が想像しているよりもマイとカズヤの関係は難しい状態になっているのかと思った。
しかし、どうやら話題はもう既に次のものへと移ってしまっていたようだ。
「私、今回の事で思ったんです。誰かの事を応援するのって、本当に難しい事だなって」
「つぼみ……」
「自分が相手に優しくしているつもりでも、相手にとってはそうは感じないかもしれないし、誰かの事を応援した事で、別の誰かを傷つけてしまうかもしれない」
つぼみは、自分の頭の中にある色んな感情を、言葉にしながら整理しているようだ。
「今回の事だって、一歩間違っていたらどうなっていたか分かりません。あの勢いのままマイさんに告白をさせていたら……」
そこでつぼみは言葉を止める。
危うく最悪の結果こそ回避出来たものの、今回の自分の行動に、後悔の念を抱いている所があるのだろう。
そして、これからの自分に対する不安も。
そんなつぼみに、えりかは言ってあげた。いや、自然とその言葉が口から出ていたというのが正しいのかもしれない。
「でも、また別に困っている人を見つけたら、助けようとするんでしょ、つぼみならさ」
「……それは!……そうかもしれませんね」
えりかの言葉に一瞬ハッとしたような表情になり、そこからゆっくりと、微笑みがつぼみの顔に戻ってくる。
……つぼみは覚えているだろうか。
三浦ラーメンの一人息子、三浦あきらを応援しようとした時の事を。
あの時のつぼみは自分の行動そのものに臆病になっていて、「あきらを応援する」という事だけが目的となっていた。
そこからつぼみは一歩踏み出して、自分が他人を応援する事の意味、自分の出来る相手にとっての最善の行為を考えるようになったのだ。
……つぼみは気づいているだろうか。
「(それってさ、“変わってる”って事じゃん、つぼみ)」
えりかは、自分が言いたい事ははっきり言わないと気が済まない性格で、つぼみの考える「他人を応援するという事の難しさ」なんて問題はピンと来ないし、その答えなんて分かるはずもない。
でも、つぼみがそれを考える事が出来るようになったというのは、きっととても凄い事なんだろうと、それだけは何となく分かった。
「(そういえば、『あんたは相手の気持ちを考えずにズバズバ言っちゃう』とか、もも姉によく言われてたっけ……)」
えりかは窓の向こうに視線を向けて、“自分は”どうなんだろう、と考えた。
「(もも姉、もも姉か……あたしは、変わってんのかな……)」
「あれ、どうしたんですか、えりか?」
急に黙り込んでボケーッとして考え込んでしまったえりかに、キョトンとした表情でつぼみが問いかける。
「ああ、ごめんごめん! つぼみの話を聞いてたら、あたしもなんか考え込んじゃってさ……柄にもなく」
「えりか〜! 見て下さい! こんなに出来たですよ!」
我に返ったえりかが慌てて答えると、直後にコフレが二人の会話に突然割って入ってきた。
どうやら頼んでいたビーズのアクセサリが完成して、その出来を見て貰いたいようだった。
「お、出来たんだ。ふ〜ん、どれどれ…………って、どっしぇーーーーーーっ!?」
専用の器具で作るアクセサリに出来・不出来も無いものだが、コフレ達の頑張りの成果をしっかり見てあげようと、えりかがコフレ達の元に歩み寄ると……その直後にえりかは素っ頓狂な声を上げた。
つぼみがその声に驚いて振り向くと、そこには優に1メートル以上はあろうかというビーズのチェーンを両手のひらの間から下げて唖然としているえりかの姿があった。
このまま縄跳びでも初めてしまいそうな勢いだ。
「こーんなに長く出来たです!」
「あたし達二人で頑張ったです!」
「な〜〜〜〜がすぎだって! 外せばいいんだけどさ……もう、こんだけ長いとそれも大変だよ〜〜〜〜!」
シプレとコフレが良く分かっていない様子で顔を見合わせ、そんな二人の前でえりかがビーズのチェーンに対して悪戦苦闘している。
つぼみはその光景を見てついクスッと笑いをこぼしてしまうが、自分の作業が話を始めた時から全く進んでいない事に気づき、はぁっ、とため息をついた。
今日の部活は、まだまだお開きになりそうもない。
「……ただいまー」
シプレとコフレの張り切りすぎや、つぼみの作業の遅れなどはあったものの、えりかの的確な指示もあって、何とか作業の遅れは取り戻された。
しかし、そこでつぼみ達がえりかの事をすごいすごい、と持ち上げてしまったのがまずかった。
調子に乗ったえりかは、部活終了後、『無礼講じゃー!』などとわけの分からない事を口走りながら、つぼみを色んな所に引っ張りまわして遊び歩いてしまったため、えりかが帰宅したのは夜も更けて来た頃だった。
「すごいじゃないか、ももか!」
居間からこぼれる明かりが近くなった時、その中からえりかの父・流之介の感嘆のこもった声が響いた。
その一言だけで、居間で話されている内容が自分にとってあまり面白くない話題である事にえりかは気づき、遅くまで外出していた負い目もあるので……えりかは気づかれぬよう居間の前を通り過ぎようとする。
「おっ、えりかじゃないか! おかえり」
「えりかちゃん! 遅かったじゃない。どこに行ってたの?」
しかし、通り過ぎようとした所であっさりと流之介に見つかってしまい、母であるさくらからは非難の声を浴びせられてしまう。
えりかがギクリとして居間に向き直ると、和風の食卓には既に夕食が並べられており、来海家の自分以外の3人が揃っている所だった。
……当然、今話題の中心になっていると思わしき姉のももかもだ。
えりかは観念したようにため息を漏らした。
「パパもママも大げさすぎよ。ママみたいにパリコレに出演するって言うんなら話は別だけどね」
えりかが席に着いた所で来海家の夕食は始まり、それ以後えりかはなるべく早くこの時間を終わらせようと、黙々とご飯を食べ続けている。夕食の会話の9割を占める姉の話題を右から左へと聞き流しながら。
しかし聞き流すつもりでいても、同じ話を何度も何度も隣で聞かされれば嫌でも内容が頭に入って来る。
どうやら、ももかは今度開かれる大規模なファッションショーのモデルの一人として選ばれたらしいのだ。
ももかはその事について「大した事ではない」といった口ぶりだが、ファッションショーへの出演を大した事では無いと言える事自体がえりかにとっては雲の上の話だ。
だが、他でもないえりか自身が、姉がこういったファッションショーに呼ばれるのは当然、と考えている。
姉のファッション界での影響力は他でもないえりかが良く知っている事なのだから。
しかし、先ほどまでは流之介と同じようにももかを褒め称えていたさくらが、いつの間にか少し渋い表情をしており、それが今の食卓の中で唯一えりかが興味を惹かれるものだった。
「ももかちゃんの凄さは母親である私も良く知るところだけど、色んな所で切磋琢磨を重ねてきたモデルが集まる所だもの、あんまり余裕ばかり見せていると、ももかちゃんもあっさり脇役になっちゃうかもしれないわよ」
さくらが珍しく神妙な面持ちで言う。
カリスマモデルとしてある種の頂点を見て来た者だからこそ思う所があるのだろう。
「調子に乗りすぎるな、って言いたいんでしょ。お仕事をナメてる訳じゃないから、大丈夫。……まああたしは、こういう舞台でこそ主役になって来るつもりだけどね」
「ごちそうさま」
そのタイミングで、夕食を食べ終えたえりかは席を立った。
会話が途切れている間にちゃっちゃと食器を片付けて部屋を出てしまおうとするが、その時ふいにももかが話しかけてきた。
「あっ、そうだ。えりか、ファッション部の活動はどうなってんの? 順調?」
えりかはその場でピタッと立ち止まり、怪訝そうな表情でももかの顔を見る。
――何も自分が席を離れようとした所で話題をこっちに振る事もないだろうに。
それよりも、ファッションショー参加という自分自身の話題で(当然の事のように言いながらも)盛り上がっているももかが、どうして自分の部活動なんかに関心を寄せているのだろうか? えりかには疑問だった。
流之介とさくらもちょっと不思議そうな顔をしている。
「前見せてもらったスケッチブック……結構頑張ってたみたいだからさ。素敵なお洋服とか出来た? いいのが出来たんなら、あたしも着せてもらっちゃおうかな」
「……別に。いつも通りだよ」
カリスマモデルである姉が、部員数6名の零細部活のファッション部で作った衣装を着る。
その話があまりにも突拍子のない事のように思えたので、えりかはももかがいつものように自分をおちょくっているのだと考え、そっけない態度で答える。
それと同時に、今日の部活動での光景がえりかの頭に蘇った。
『うわぁ、えりかの言った通りにやったら上手く出来ました! やっぱりえりかはファッションの天才ですね!』
つぼみの言葉。
それを聞いた時のえりかは、『まぁねぇ〜』なんてその気になって調子付いていたが、ファッションショーの出演を当然の事のように語るももかの姿を見てしまった後のえりかには、自分に捧げられた「天才」という肩書きがあまりにもちっぽけに思えてくる。
えりかは、部活動の内容を知っているのは自分だけであるにも関わらず、自分が姉と比較されているかのような気分になり、ついつい憎まれ口を叩いてしまう。
「何なのよ急に。ファッション部の活動なんて、もも姉からしたらおままごとみたいなもんでしょ」
「おままごとって……あんただってマジでやってんでしょ、ファッション部の活動」
――マジでやっててもその程度?
ももかが言ったわけではない。
誰が言ったわけでもない。ただ……ももかという人間の輝きを見せつけられた後では、自分を持ち上げるような事言われても、えりかはそれを素直に受け止める事が出来ない。
「大マジだよ、あたしは。……ファッションショーに“当然のように”呼ばれたりはしないけどさ」
「……! そういうつもりで言ったんじゃ……」
「そうよえりかちゃん、そんな言い方しなくてもいいじゃない」
えりかとももかの間に生まれた険悪なムードを見かねてさくらが口を出し、えりかはばつの悪そうな顔をする。
流之助はちょっと困ったような表情をするだけで、口出しをするつもりは無い様子だ。
「とにかくさ、ファッション部の事はもも姉には関係ないじゃん。もも姉はファッションショーで頑張って主役にでも何でもなってきてよ」
「ちょっと待って。あんた、今度のファッションショー、見に来ないの?」
その言葉に、えりかは再びムッと来てしまう。
「ももかが出演するファッションショー」を「えりかが見に行く」というのが当然の事であるかのような口ぶりがえりかには引っかかったのだ。
「……来ないのって、何であたしが行くって事になってんの?」
「……え? いや、それは…………ホラ、ファッション部の部長として、流行の最先端をしっかりチェックしとかなきゃでしょ?」
現在の流行の最先端、もしくはこれから訪れるであろう流行の波を間近で感じる事の出来るファッションショーというイベントに対して、えりかが興味津々なのは確かだ。
……しかし、どうしてファッション部の部長としての行動をももかに勝手に決められなければならないのか。えりかにはそれがどうしても許せなかった。
「余計なお世話ですよ〜〜〜〜っだ! あたし、もも姉の出るファッションショーなんてぜぇ〜〜〜〜ったいに見に行かないんだからね!」
「ちょっと……えりか!」
ももかやさくら、流之助らの静止の声に耳を貸さず、えりかはドタドタと足音を鳴らしながら階段を駆け上がっていく。
そして、勢いよく自分の部屋のドアを開くと、同じように後ろ手で勢いよくドアを壁に叩きつけ、そのままベッドへと飛び込んだ。
荷物を置いて来た時に一緒に部屋に残していたコフレが「えりか、どうしたんです?」と声をかけて来たが、えりかは無視してそのまま枕を頭に被せて自分の世界に篭った。
「(あたし、やっぱ変わってないかも……)」
無論えりかも、最初からももかに突っかかる気があった訳ではない。
あまりにも世界が違いすぎるももかの話題に嫌気が差してはいたが、姉の事が話題の中心になるのは良くある事だし、ファッションショー出演で両親が浮かれるのも仕方のない事ではあるだろう。
だから、今回の事は今回の事と、えりかは軽く流すつもりだったし、もっと別なタイミングでファッションショーに呼ばれていたのなら、喜んでOKの返事を出していたかもしれない。
「(もも姉が、ファッション部はどう、なんて言うから……)」
一度は崩壊の危機に瀕したファッション部。
そこからえりかはつぼみと力を合わせて再出発し、なおみ、としこ、るみこの3人を何とか部員に引き入れ、最近ではななみが新しい部員として入って来た。
未だ規模の小さい部活ではあるが、そんな中で手を取り合い協力し、えりか自身も部長として何とかみんなを引っ張って来たつもりだ。
えりかにしては珍しくあまり口には出さないでいるが、つぼみ達とファッション部として頑張ってきた事は、えりかにとっては一つの誇りなのだ。
そんなえりかのささやかな誇りも、ももかという人物の輝きを前にしては、浜辺で作った砂のお城のようなもの。
“本物の城”を持っている人間に、砂の城をあれこれ言われた所で惨めな気持ちになるだけだ。
「(何で、何で、何でさ……ファッション部の事なんて、ほっといてくれればいいのに)」
……えりかは気づいていない。
ももかが「ファッション部について聞いてきた」事自体が、ある意味を持った変化である事に。
「…………いつから、こうなっちゃったんだっけ」
ももかは自分の部屋に戻ると、ベッドに腰掛けぽつりとつぶやいた。
部屋に入る前、えりかに声をかけようかとももかは一瞬迷ったが、またさっきのような口論になりそうだったので……やめた。
ももかは化粧台の引き出しに手を伸ばすと、そこから一枚の折り畳まれた画用紙を取り出す。
その画用紙は全体的にすすけたような汚れが付いており、折り目の部分はちりぢりになっていて今にも破けてしまいそうだ。
ももかは画用紙が破けてしまわないよう、二つ折りにされた紙をゆっくり丁寧に開くと、そこには縦に引き伸ばした三角のような緑色の物体に、赤や黄色の派手なデコレーションがされたクレヨン画が描かれていた。
それが何であるかあらかじめ聞いていなければ、形の崩れたクリスマスツリーに見えてしまう事だろう。
これは、最近ももかが押入れの奥から引っ張り出して来たものだ。
2ヶ月ほど前、ももかは化け物騒ぎ(ももか自身は未だにそれが夢なのか何なのか判断しかねている)に巻き込まれる直前に、初めてえりかのファッション部の活動の成果であるスケッチブックを見せてもらった。
自分の想像した以上に頑張っている妹の活動に驚いた部分もあるが、それとは別に、ももかは記憶の片隅に何か引っかかるものを感じ、この2ヶ月間をかけて、押入れからその“引っかかるもの”の正体を探り当てた。
それを手にして中身を見た瞬間、忘却の彼方に消えていたある記憶がももかの頭にみるみると蘇っていった。
彼女自身も完全に忘れていたのだ……ももかよりも幼かったえりかは確実に忘れ去っている事だろう。
そう、それはももかがモデルとしてスカウトされる前、母親の仕事の手伝いという形で、子役モデルの仕事を引き受ける事になった時の事……
『おねえちゃん!』
小さなえりかがよたよたと走り寄って来る。
慌てていたせいか、つまづいて転びそうになったので、ももかは慌ててその体を支えてあげた。
『もう、あぶないじゃない。そんなにあわてて走っちゃだめよ』
『えへへ……ごめんなさい。ねぇねぇおねえちゃん、モデルさんになったんでしょ?』
『ちがうわよ、えりか。ただママのおてつだいをするだけなの』
『えー、そうなの? なんだぁ……』
しゅん……となって、寂しそうな、ちょっとつまらなそうな、そんな顔をするえりか。
その時になって初めて、ももかはえりかが手に画用紙を持っている事に気が付いた。
『あら? えりか、その手に持ってるの、なぁに?』
『えっ!? えっと、これはね! ……ひみつっ』
えりかは今更ながらに画用紙を背中に隠す。
しかしその露骨な行動は、ももかの好奇心を煽る事となった。
『えー、なによ。見せてくれてもいいじゃない』
『……おねえちゃん、モデルさんじゃないんでしょ?』
えりかが口を尖らせて、ちょっと残念そうな顔をしている。
『今はまだちがうけど、いつかはママみたいなモデルになるの。……わたしは未来のモデルさん。ね? だから、見せてくれてもいいでしょ?』
えりかはちょっと考え込んだ様子を見せ、その後「うん、わかった!」と言ってその画用紙を両手でももかに差し出した。
そこに描かれていたものは……
『えへへ……えりかね、おようふくのでざいんをしたの!』
『へぇ、お母さんみたいなおようふくのデザイン? すごいじゃない、えりか!』
姉の関心する言葉に、妹も素直に喜びの笑顔を見せる。
『あのねあのね、いつかおねえちゃんがモデルさんになったら、えりかがおようふくのでざいんをするの!』
『ホントに? じゃあわたしもぜったいにモデルにならないとね』
姉のその言葉に、妹はうん! と元気よくうなづき、姉妹は一緒に笑い合った。
「『おねえちゃん』が『もも姉』に変わったのって、いつからだっけ……」
一枚の画用紙が思い出させた幼き日の姉妹の記憶は、今のももかとえりかとはあまりにも異なっていた。
ももかがいくら自分の過去を振り返ってみても、『おねえちゃん』と『もも姉』の明確な境目は思い出す事が出来ない。
……いつの間にかそうなっていた。
モデルとしてスカウトされて以降、そしてそれ以前の「えりかと競い合っていた頃」は、ももかにそんな事を考える余裕なんて無かったのだ。
この回想の当時のえりかは、おそらく本気でファッションデザイナーを目標にしていた訳ではないだろう。
まだまだ物心ついて間もなかったえりかにとっては、母が普段家でやっている仕事というのが目に付いていたのだろうし、幼稚園で絵を描く時間もあったはずだ。
そしてある時ふいに「“大好きな”姉がモデルをやる」という話を耳にした。
そんな偶然が、幼い少女の心に「ファッションデザイナーになる」という幻想を生み出したのだ。
しかし成長するにつれ、若かりし頃の母のモデルとしての凄さが理解できるようになってくると、ももかがある程度の実績を出し始めていた事もあって、えりか自身もモデルになるのだと言い出すようになった。
ももかには、その時のえりかの気持ちが良くわかる。
「ファッションモデル」という世界はあまりにも輝かしい舞台で、「ファッションデザイナーになる」などという儚い夢の事など忘れさせてしまうには十分過ぎるものだったのだろう。
自分がえりかといがみ合うようになっていったのはその頃からだったかと、ももかは思う。
ももかが小学生当時にスカウトされ、どんどんステップアップして行ったのに対して、えりかはモデルの仕事などかすりもしておらず、自分が姉と違って母のモデルとしての才能を引き継いでいない事に気がつき始めていた。
そんな自分に対する苛立ちや、姉に対する劣等感が、嫌味やひがみとなって口から出ていたのかもしれない。
えりかは知らなかっただろうが、実はももかの方にも、後からやって来たえりかに「自分の夢」を奪われるのではないかという恐怖や焦りがあった。
そんな気持ちがあったために、ももかは成功している自分を確かなものにするために、えりかに対して勝ち誇ったような事を言ってしまった事があったかもしれない。
どちらが先だったのかは分からない。どちらが言い出したかなんて、そんな事は大した問題ではないのかもしれない。
とにかく、姉妹のそれぞれが持っていた「夢」は、いつの間にか姉妹の「競争」になっていたのだ。
最後には、姉であるももかだけがモデルになり、えりかはなれず、そして姉妹の仲は最悪のものになる、という結果だけが残った。
えりかは、容姿に恵まれカリスマモデルとして注目の的となっている姉に対して拭いきれぬ劣等感を感じるようになり、ファッションデザインという道に“逃げ込んだ”。
少なくとも当時のももかにはそういう風に見えていた。モデルになれない自分に対する慰めのようなものなのだと。……ファッション部の活動で使っているあのスケッチブックを見るまでは。
えりかとの「勝敗」が完全に決してからは、えりかに対して性格の問題点をあれこれ指摘したりだとか、「大人の余裕」のようなものを見せていたももかだったが、それをえりかはどう感じていたのだろうか。
ももかは今までえりかの事など何も知らず、えりかが真剣に取り組んでいた「ファッションデザイン」という行為を慰みもの程度にしか考えていなかったというのに。
ももかは再び手元の画用紙に視線を落とす。
この絵を見る度にももかは思うのだ。
えりかのモデルになるという想いが打ち砕かれた後、幼き日の思い出と同じように「ファッションデザイン」の道に進もうと考えたのは偶然だったのだろうかと。
自分が母からモデルとしての才能を引き継ぎ、えりかはそれを引き継いでいないのは、今の結果を見れば明白だ。
だがそれとは逆に、えりかは母からファッションデザインの才能、父から芸術的センスをそれぞれ引き継いでいるのではないかと、ももかは思うようになっていた。
ただ、そこで彼女の頭に浮かぶのは、先ほどの食卓で、ファッション部に触れられた時のえりかの反応だ。
ももかが話題を出すタイミングが悪かったのもあるだろうが、あのえりかの怒り様はあまりにも極端だった。
ももかは、自分と「モデルになる」という夢で競い合っていた過去が、えりかが持つ「ファッションデザインの才能」の足かせになっているのではないかという事が気がかりだった。
妹の事は妹の事と、放っておいてやる選択肢もある。
だが、今のももかにはどうしてもこのまま放っておく事が出来なかった。
あの過去の記憶を思い出してしまったせいだろうか。
それとも、えりかに劣等感を感じさせてしまった事に責任を感じているのだろうか。
自分でも良く分からないまま、ももかは心の中である決心をし、それを両親に打ち明けるため、1階へと降りていった。
「ふん! とあっ! せいっ!」
乾いた空気を漂わせる暗闇の中で、二つの影が舞い踊っていた。
赤髪で大柄の男……クモジャキーの繰り出す拳を、漆黒の衣装を身に纏う片翼の戦士……ダークプリキュアが軽やかにかわしていく。
ダークプリキュアの隙を突いてクモジャキーが繰り出した回し蹴りをダークプリキュアが軽いステップでかわし、両者の距離が離れた所でその場に静寂が訪れる。
「何のつもりだ?」
ダークプリキュアが片目でクモジャキーを睨めつけながら言った。
いつものように冷淡な口調だが、その奥には隠しきれていない怒気が含まれている。
それも当然だろう。ダークプリキュアから見れば部下である相手の所へやって来てみれば、歓迎されるどころか襲い掛かられてしまったのだから。
「フン、知れた事。強い相手と出会ったのなら拳を合わせるのがオレの……いや男の流儀じゃき!」
当然の事ながら、ダークプリキュアは戦うためにクモジャキーの所へやって来たのではない。
“ある作戦”のために手足となる相手が必要となり、その相手としてクモジャキーが選ばれたのだ。
それを選んだのは他ならぬダークプリキュア自身だったが、この状況を見る限りでは、ダークプリキュアは判断を誤ってしまったようだった。
クモジャキーとしては、砂漠の使徒の中でも最強の名を欲しいままにし、プリキュア達をも退ける力を持ちながらも、サバーク博士の側近として手の届かない場所にいるダークプリキュアが、こうして自分と1対1となる場に出て来てくれたのが嬉しくてたまらなかった。
自分の繰り出す拳にどう応えてくるのか……そう考えるだけで全身の血がたぎる想いだったが、先ほどからダークプリキュアが攻撃をかわすばかりで「その気」になって来ないのがクモジャキーには気に入らない。
「……貴様との下らないお遊びに付き合う気は無い」
「だったら……無理やりにでもその気にさせてやるぜよ! ……ビッグバン・クモジャキースペシャル!」
クモジャキーの右拳に赤熱のオーラが宿り、その拳をクモジャキーはダークプリキュアへと繰り出す。
地面を真っ二つに叩き割るほどの威力を持つ、クモジャキーの必殺技だ。
再び自らに襲い掛かるクモジャキーの姿を見ても、ダークプリキュアはその場から微動だにしなかった。
ただ……自らの閉じていた“右目”を一瞬だけ開いた。
その一瞬の間に、黄色い閃光が周囲に広がり、赤く燃えていたクモジャキーの拳はダークプリキュアに届く事なくそのオーラを消失させた。
クモジャキー自身も、その閃光によって吹き飛ばされ、危うい所で体勢を立て直し地面に着地する。
クモジャキーが顔を上げたその時にも、ダークプリキュアはその場を一歩も動かず、ただ冷たい視線をクモジャキーに向けているだけだった。
その様子に、クモジャキーはほんの少しだけ背筋にひやりと冷たいものを感じ、それと同時に全身を巡っていた熱い血潮が冷めていくのにクモジャキーは気づいた。
「……オレのこの熱い拳がクールダウンしてしまうほどの冷たさ……か。今回はこんな所で満足する事にするぜよ」
「…………」
クモジャキーの暴走が止まってもなお、ダークプリキュアは冷淡なその表情を崩す事は無い。
今度はクモジャキーがダークプリキュアに問いを投げかける。
「例の作戦……オレの耳にも少しは届いていたが、ダークプリキュア、お前はサソリーナと組んでやっていたんじゃないのか?」
「状況が変わった……方針を変更するのにサソリーナは邪魔になったのだ。ヤツは余計な事を引きずりそうだったからな」
淡々と語るダークプリキュア。
その答えはダークプリキュアにとっての必要最低限の事を語っているだけで、クモジャキーが状況を理解出るものでは無かったが、元よりクモジャキーには“作戦”の詳しい内容についてそこまで興味は無い。
クモジャキーは気持ちを切り替えて、ダークプリキュアの下でこの先の動向がどうなるのかを見ていく事に決めた。
「まぁオレにはあまり気の進まん作戦じゃが、軟弱な連中の心の花を奪うよりも、面白いものが見れるかもしれんぜよ」
「うぅぅ……私、何か悪い事してしまったんでしょうか……」
「つぼみは悪くないです、元気出すです〜」
下校路をしょんぼりとした様子で歩いているつぼみに、シプレが慰めの声をかける。
今日は朝からえりかの機嫌が非常に悪く、ファッション部の活動も早々に打ち切られて、つぼみは一人で帰宅する事となった。
昨日の夕方引っ張りまわされた時は凄く上機嫌だったのに、どういう事だろう、何か自分が悪い事をしたのだろうか、とつぼみは考えるが、今朝、いつも通りに挨拶をした時点で、えりかは凄く不機嫌そうな顔で振り返り、低く恨めしそうな声で「おはよう」と言って来るという調子だったし、ではその前、前日はどうだったろうと考えてみても、ニコニコ笑顔で手を振って別れたえりかの姿しか浮かんで来ない。
詰まる所、「つぼみには何の非もない」という事なのだが、それで「そうか」と安心や納得も出来ないのがつぼみのちょっと困った性格であった。
下校中もずっと、今朝の挨拶、前日の別れの場面をぐるぐると何度も繰り返し回想し続けている。
日常的に行き帰りを繰り返している帰宅路を辿っているだけのため特に問題は起きていないが、今のつぼみはえりかが不機嫌だった理由、自分に何か落ち度があったのではないかという不安に気を取られていて、周囲の状況が見えていない。
そのため、その時自分にかけられた声にも、つぼみはしばらく気づく事が出来なかった。
声をかけられた事をシプレが教えれば良かったのだが、シプレはつぼみ達以外の人がいる時にはぬいぐるみのフリをしていなければならない。
結局、つぼみは呼びかけの声に気づくまでに十数秒の時間を要した。
「つぼみちゃん? つぼみちゃ〜ん!? 聞こえてる〜?」
「……え? あわわ……は、はい、何でしょうか!」
突然耳元で聞こえた声に、つぼみは心臓が飛び出すかと思うほどに驚き、自分の状況も良く分かっていないのに反射的に返事をしてしまう。
そして頭が混乱した状態で振り向き、その声を発した相手の姿を見たつぼみは、相手の姿を確認して安心するどころか、余計に驚きパニック状態に陥ってしまう。
その相手はベースボールキャップに真っ黒なサングラスをかけており、つぼみがその姿から連想したものは「不審者」「変質者」といったものだった。
つぼみは反射的に逃げ出そうとしてしまうが、瞬間的にその相手に腕を捕まれてしまい、その腕から逃れようとつぼみはもがき、更には叫び声まで上げてしまう。
「あ、あわわわっ……は、離してください〜!」
「ちょ、ちょっとつぼみちゃん落ち着いて! あたしよ、あ・た・し!」
その声が聞き覚えのあるものだという事に気づき、つぼみがもう一度ゆっくりと振り返って相手を見ると、今度は片手で上げられたサングラスの下から、つぼみの良く見知った相手の顔が覗いていた。
「あ……も、ももかさん!」
「しーっ! さっきから声大きすぎよつぼみちゃん。声をかけたこっちの方が驚いちゃった」
「う……すみません」
落ち着きを取り戻したつぼみの姿を確認して、ももかは再びサングラスを下げる。
気づいてみればどうという事は無いが、帽子にサングラスを付けて、髪も後ろで縛っているため、パッと見では誰なのか分からない。
来海ももかは町で歩いているだけで人々の注目を集めてしまうほどのカリスマモデルだ。
この姿は正体がバレないようにするための変装なのだろうと、ようやくつぼみは状況を飲み込む事が出来た。
しかしそれと同時に別の疑問が浮かんでくる。
今までつぼみがももかと会う時は、えりかを通しての場合がほとんどで、ももかからつぼみに会いに来る事など一度も無かった。
最初に声をかけられた時混乱してしまったのもそれが一因しているのかもしれない。
……それとも、えりかに用事があって、居場所を聞くために自分に声をかけて来たのだろうか。
つぼみがあれやこれやと考えていると、ももかがシンプルな言葉でその疑問に答えを出してくれた。
「つぼみちゃん、ちょっと……あたしに付き合ってくれない?」
小洒落た雰囲気の喫茶店につぼみはももかと向かい合って座っていた。
ももかによると、人目を忍んで一人でゆっくりと過ごす時によく来る場所らしく、ここに他の人を連れて入ったのは初めてだとも言っていた。
つぼみはその言葉に喜んで良いのかどう反応して良いのか分からず席に着くも、どうにも居心地の悪さを感じて、膝の上で指をもじもじさせている。
つぼみがももかと会う時は、普段ならばえりかと一緒なので、ももかの事も「えりかの姉」という印象で見ていた所があったが、こうして一対一になってしまうと、ももかが「カリスマトップモデル」である事を嫌でも意識してしまう。
ももかは「変装しているから大丈夫」と言っていたが、つぼみは周囲の客の視線が自分達に集中しているのではないかという錯覚に陥り、キョロキョロとあたりを見渡す。
変装とは言っても、帽子を被って、サングラスをかけて、髪をしばっただけ……分かる人にはすぐに分かってしまうのではないか……と、そこまで考えた所で、何度も間近で本人の姿を見た事があるつぼみ自身が、先ほどももかの事を変質者と勘違いするという失礼をした事を思い出し……いい加減変な心配をするのをやめる事にした。
ちょうどそのタイミングで、注文していた二人分のコーヒーが席に運ばれ、店員が離れていった所でももかが話を切り出した。
何か用件があるのだろう事だけは分かっていたつぼみだったが、その内容を想像する事はつぼみには難しく、実際、ももかが口にしたその内容はつぼみにとって予想外なものだった。
「ねぇ……つぼみちゃんからは、あたしとえりかの姉妹って、どんな風に見える?」
「へ? ええと……とても仲のいい姉妹だと思います! …………あっ、いや、えりかはいつもももかさんの事をあれこれ言ってますけど、ホントは凄く尊敬してるんだと思います。……えっと、はい……」
予想外な質問に反射的に答えたつぼみは、最初の一言でももかの表情が少し曇った事に気がつき、すぐにフォローの言葉を入れるが、そのままももかが表情が暗くしていき、更にはため息をついたのを見て、余計な事を口にしてしまったかと後悔した。
ももかの今の質問が、ももかとえりかの微妙な関係を踏まえた上でのものである事につぼみはすぐ気づいていた。
しかし実際、つぼみの目にはえりかとももかはとても仲の良い姉妹に見えたし、一人っ子で、過去のある出来事から家族のいない寂しさを知っているつぼみには、えりかとももかの姉妹関係はとても羨ましく思えたのだ。
「そっか。……他の人にはやっぱりそういう風に見せるのかな」
「あの……えりかとももかさん、そんなに仲が悪いんですか?」
自分が上辺の部分だけ見て仲が良いと思い込んでいるだけで、見えない所では凄く険悪な雰囲気になっていたりするのだろうか……?
そうつぼみが心配して質問をするが、ももかはちょっと困った様子で少し悩み、言葉を返した。
「仲がいいとか悪いとか……そういう事じゃ無いのかな。ただ……姉妹ってね、物凄く近い存在なのに『自分』じゃないし、かといって『他人』でもないから、一緒に居るとお互いどことなく居心地が悪いと言うか」
「はあ……」
ももかの言葉に、つぼみは曖昧な返事を返す他ない。
姉妹のいないつぼみにはピンと来ない話のようだった。
「それに……えりかから見たら、あたしはモデルって夢を独り占めしたように見えるのかもしれないし……」
「もっ、ももかさん!」
ももかの言葉を困惑しながら聞いていたつぼみだったが、その瞬間、両手をテーブルに付いて勢いよく椅子から立ち上がった。
「えっ、えりかは……確かにモデルになれない事を残念がっていましたけど、今のえりかにはファッションデザイナーって新しい夢が、目標があるんです! えりかはふざけてるように見える時もありますけど、ファッションに関しては本気なんです! ももかさんも分かってあげてください!」
「ちょ、ちょっと、つぼみちゃん……!」
「えっ?…………あっ」
興奮した様子で喋っていたつぼみだったが、ももかが口元に人差し指を当てて慌てた様子で「しーっ!」と声を出しているのを見て、周囲をゆっくり見回した後、すぐに椅子に座りなおした。
周りの客は突然大声を出したつぼみに驚いて視線をつぼみ達に向けていたようだが、つぼみの放った「ももかさん」という言葉と、ファッションモデル・来海ももかとを結びつけた者は居ないようだった。
しかし、店中の注目が自分に集まった事でつぼみは恥ずかしさのあまり赤面し、先ほど以上に縮こまった様子になった。
「つぼみちゃんの言う事、分かるわ。あの子、ファッションの事になると簡単じゃないもんね。……って、それに気づいたのもつい最近なんだけど」
ももかは自嘲気味に笑う。
「それで、今日つぼみちゃんを呼んだ事なんだけど……」
今度は改まった様子となったももかは、昨日の夜両親に打ち明けた「ある考え」をつぼみに語り始めた。
つぼみの方はその話が始まった時から真剣そのものといった表情で、ももかの言葉の一語一句に聞き入っている。
「……こんな風に考えるのって、ただの自己満足なのかもしれないけどね」
「ももかさん……」
ももかが曖昧な笑みを浮かべながら言った結びの言葉に、つぼみは大きく心を揺さぶられた。
誰かのためを思ってやった事も、結局はただの自己満足で終わってしまうのではないか……
そういった不安や、自分の行動に対する疑問は、今まさにつぼみが思い悩んでいる事でもあったからだ。
「私にも……何となく、分かります。自分の相手を想う気持ちが、逆に相手を傷つけてしまうんじゃないかって……そんな不安を感じる事が、最近あって」
「…………」
「……でもっ、相手を大切に想う強い気持ちって、きっと、手段や言葉を越えて伝わるものだと思うんです! だから私、ももかさんのその気持ち、応援します!」
つぼみは悩みながら、今の自分の考えを言った。
答えになってない答えなのかもしれない。
だが、今のつぼみの精一杯を込めた言葉だ。
ももかはその言葉を最後まで黙って聞き、そしてその後に一言「つぼみちゃん、ありがとう」と告げた。
「じゃあつぼみ、これ任せちゃっていいんだね?」
「はい、私に考えがあるんです。大船に乗った気でいて下さい!」
つぼみに紙袋を手渡しながらも、えりかは訝しげな表情を見せたままだったが、つぼみが普段からは考えられないほど自信満々な表情を見せながら“考えがある”と言ったので、えりかの疑惑もついには吹っ飛んだ様子だった。
つぼみはその間、先ほどももかとある事について話していた事に気づかれはしないかと内心冷や冷やしていたのだが、えりかはそういった方面での鋭さは持ち合わせていないようだった。
夕焼けが街を赤く染め、長く伸びる影が自分たちに先行して歩みを進める中、それぞれの家までの帰宅路をつぼみとえりかは並んで歩いていた。
つぼみに突然電話で呼び出された割には、えりかの機嫌もそんなに悪く無さそうで、学校で別れた時のようなイライラした雰囲気も無い。
しかし、いつも周囲に明るさを振りまいているその顔に陰りが射しているように見えるのは、夕暮れ時特有の情景のせいだろうか。
つぼみはえりかとの間に流れる沈黙が耐え難いものだった事もあり、頭に引っかかり続けていた疑問をえりか本人からどうしても聞き出したくなった。
しかし自分の今の立場を考えると、それを直接口にしてしまうのは問題があると気がつき、遠まわしな言葉で話題を振ってみた。
「……えりか、ももかさんと喧嘩でもしたんですか?」
「……えっ!? つぼみ、どうして分かったの!?」
「えっと……何となく……です」
つぼみの答えになってない言葉を怪しむ事もなく、「つぼみって鋭いなー」と素直に関心した様子のえりか。
その様を見ても安心出来るつぼみではなく、心臓が激しく鼓動するのを感じながら、ボロを出さぬようえりかの反応を見守っている。
「…………もも姉がさ、ファッションショーに出るんだって。それもすんごくでっかいやつ。もも姉は大した事じゃないって言ってたけど」
「それで……ももかさんに突っかかってしまったんですか?」
そうではない事をつぼみはももかの話から知っている。
しかし、えりかの反応を見たかったのと、単純に会話の流れとしてその質問をした。
当然、えりかは「違う」と首を横に振って答え、その先を続けた。
「その後に……もも姉が突然、ファッション部の活動はどう? なんて聞いてきたんだ。さっきまでファッションショーの話で盛り上がってたのに、いきなりそんな事言い出すから、あたし、ファッション部の事を馬鹿にされたんじゃないかって思えてきて」
「ももかさん、馬鹿にするなんて、そんなつもりは無かったんじゃ……」
「なんで!? もも姉はカリスマファッションモデルなんだよ? その仕事に集中してればいいのに、なんであたしたちのファッション部にちょっかい出そうとするの!? おかしいじゃん!」
ばっとつぼみの方に振り向き、昨日、ももかと喧嘩した時から押さえ込んでいた気持ちをえりかは爆発させた。
「“あたしたち”のファッション部」という言葉に、えりかから自分に対する仲間意識が込められている事を嬉しく思うつぼみだったが、ももかに気持ちを打ち明けられ、その想いを知ってしまっている今、つぼみにはえりかのこの言葉はとても心苦しく感じられた。
しかし、姉に対して素直になれず、ファッション部での活動をとても大切にしているえりかの気持ちもつぼみには良く分かっていたので、両者のすれ違った気持ちの板ばさみにあい、つぼみは上手く言葉を返せずにいる。
つぼみがももかと会っていた事はえりかには秘密の話だ。
ももかに話してもらった事をそのまま言うわけにもいかない。
結局、つぼみには返す言葉が見つからず、沈黙するその状況を「……ごめん」というえりかの謝罪の言葉が破った。
「つぼみにこんな事言ったって仕方ないのにね。それに、なんであそこまでもも姉に怒ってたのか自分でもよく分かんないし。あたしってば馬鹿みたい、あはは……」
乾いた笑いを出すえりか。その表情は笑ってはいるがどこか悲しげだ。
『えりかはももかの事を本当は嫌っているのか?』
つぼみは、ももかとえりかの両方の言葉を聞いた事で、この疑問についてようやくひとつの確信を持てたような気がしていた。
この二人の気持ちは離れているわけじゃない。……ただ、すれ違っているだけなのだ。
つぼみはももかと話していた時に決意した考えをより強く固め、えりかに言葉をかけた。
「えりか。お姉さんに対して、もっと素直にはなれませんか?」
「え?…………っと、そりゃあさ、あたしだってもも姉と喧嘩したいと思ってるわけじゃないんだけど、でもなんか……気がつくと今みたいになってるんだよね……」
ももかの話していた『お互いに居心地が悪い』というヤツだろうか。
この二人の関係は、はいそうですか、と簡単に気持ちを切り替えられる問題でない事はつぼみにはもう分かっている。
だからつぼみは、ある種の限定的な条件での提案をえりかに出した。
「じゃあ、1日」
「へっ? 1日……?」
「はい。1日だけ、ももかさんに対して素直な気持ちで接してみませんか? その……ももかさんがファッションショーに出る1日だけ」
つぼみの提案に困惑気味のえりかだが、つぼみの言わんとする事を自分なりに解釈しているようだった。
「……ファッションショーに出るもも姉を祝ってあげろって事? ……でもあたし、絶対に行かないなんて言っちゃったし……それに、もも姉には日本中にた〜っくさんファンがいるんだよ? あたし一人が祝おうが祝うまいが関係ないじゃ……」
「違います」
ぴしゃりと言い放つつぼみ。
普段つぼみが絶対しないようなはっきりとした断定口調に、えりかはあっけに取られている。
「ももかさん、えりかがファッションショーに来たら……えりかが祝ってくれたら、きっと喜ぶと思いますよ」
つぼみは笑顔を浮かべ、そして先ほどのきっぱりと言い切った時の強い意志は揺るがせる事なく言った。
気がつくと、いつの間にか二人は互いの家の前までたどり着いていたようだった。
つぼみはぺこりと頭を下げ、「それじゃえりか、また明日」と一言挨拶をした後自分の家に駆けていく。
そしてその途中で一度振り返り、えりかに対して今度こそ最後の言葉をかけた。
「えりか、1日だけでいいから、素直になってみて下さい。きっと、いい事がありますよ」
つぼみが自宅の中に消えていった後も、えりかはつぼみの意図を掴みきる事が出来ずにしばし呆然としていたが、それから何か思うところがあったのか、夕日を見上げながら、一言つぶやいた。
「素直になる日…………か」
……ファッションショー当日。
問題の姉妹は希望ヶ花駅へ向けて二人並んで歩いていた。
色々と支度があるので後から行く、と両親に言われたため、姉妹二人で先に行く事になったのだが、家を出てから今に至るまで、両者に会話らしい会話はない。
あの日の一件以降、ももかの仕事が忙しかった事もあって、二人は家でもあまり顔を合わせる事が無かった。
喧嘩の後の気まずさのせいで、えりかの方がももかを避けていた所もあったのかもしれない。
ももかはつぼみから事の経緯を聞いていた。
しかし、えりかが実際にファッションショーに行くと言い出したのは今朝方の話だ。
本来ならももかは妹の突然の心変わりに驚いている場面のはずだ。
そういった事も考慮し、これから先もずっと黙り込んでいるわけにもいかないので……ももかは自分の方から話を振ってみた。
「え、えりか? どうしたの、ファッションショーには絶対来ないって言ってたのに、急に行くだなんて言い出して」
言った後にももかはしまった、と思った。
これでは喧嘩したあの晩と全く同じ、自分がえりかを挑発しているようではないか。
しかし、えりかからはももかには予想外の返答が返ってきた。
「……えっ? そ、そんな事言ってたっけ? いやいや、やっぱファッション部の部長としては勉強のためにも見ておかないと思ってねぇ〜……あっはっは」
えりかは口では笑っているが、顔は完全に引きつっていて歪な笑顔になっている。
つぼみの話の通りなら、こちらのためを思って笑顔を作ろうとしているのだろうが、作り笑いにしてももうちょっとやりようがあるだろうに……とももかは内心ちょっとあきれていた。
「そ、そう……ちゃあんと勉強しないとねぇ〜……おっほっほ」
「そうだよね! そうそう……あっはっは……」
……どっちもどっちであった。
えりかはつぼみに言われた、「今日一日だけ姉に対して素直になる」という言葉を忠実に実行しようとしている。
どうしてつぼみに言われた通りにしようと思ったのか、えりかには自分でも良く分かっていない。
つぼみの含みのあるような言葉が気になったせいだろうか。
しかし「素直になる」と簡単に言ってみても、えりかにはそれを実行するのは非常に難しい事のようだった。
先ほどの言葉でも、「ファッション部の部長だから」という名目を持ち出し、「ももかを素直に祝ってあげる」という事を意図的に避けてしまっている。
これでは素直になっているとはとても言えない。
「(つぼみぃ……素直になるって難しいよ……)」
えりかは遠くの空を見つめながら、今どこで何をしているとも知れない親友に助けを求めていた。
「つぼみちゃん、それに花咲さん達も、わざわざ手伝って下さってありがとうございます」
「いえいえ、困った時はお互い様ですよ」
「はい! それに……えりかやももかさんのためですから! 私、張り切ってお手伝いさせていただきます!」
フェアリードロップ店内の天井に飾りつけをしながら言葉をかける流之介に、同じく店内の飾りつけをしているつぼみと父親の陽一が答える。
つぼみの母のみずきやえりかの母のさくらも同じように飾りつけの作業をしているようだった。
「それにしてもえりかちゃん、今日になるまでファッションショーに行くって言い出さないんだもの。どうしようかと思ったわ」
さくらが慌ただしそうに作業を進めながら言う。
「その時は、私がえりかを連れ出すつもりでした。……でも、えりかはきっと行くって言ってくれると思ってましたよ」
つぼみが答える。
丁寧に飾りつけの作業を進めながらつぼみは、今日はきっと上手く行く……と今日の計画に対しての確信を強めていた。
「おやぁ? 肝心の“アレ”はどこにやったんだい? 記念に一度写真を撮っておこうと思ったのに」
「ああ、あれはももかさんが持って行きましたよ。手元に置いておきたいんだって、そう言って………………きゃっ!?」
つぼみが言い終えるよりも前に、ドンッという低く響くような音と、店内を揺るがすほどの振動がつぼみ達を襲った。
天井の作業を終え、脚立から降りる所だった流之助は危うく倒れこみそうになった所で何とかバランスを取り直し、つぼみはその場で思いっきり尻餅を付いてしまった。
「おっ……とと。……みんな、大丈夫かい!?」
「……地震かしら?」
店の中の一同が突然の出来事によって混乱に包まれている中でも、つぼみは背後の窓ガラスからコンコン、と小さなノック音がしたのを聞き逃さなかった。
振り返って窓に近づいて行くつぼみには、その時点である程度の予想と……覚悟が出来ていた。
窓際に立ったつぼみの視界に写ったもの、それはつぼみには予想通りの相手、妖精のシプレとコフレ。
つぼみは両親達に気づかれぬよう窓を開き、妖精達と小声で会話を始める。
「つぼみ、デザトリアンです!」
「そんな……どうしてこんな時に……」
「とにかく、ボクはえりかにも知らせに行くです!」
その場から飛び去ろうとするコフレを、つぼみは慌てて両手で掴み止めた。
コフレは勢いが止められた事で一瞬前のめりに倒れそうになったポーズとなり、その後驚いたような表情でつぼみの方を見る。
「コフレ! お願いです……えりかには、知らせないでください!」
「つぼみ……気持ちは分かりますが、でも……」
「今日だけは……駄目なんです! デザトリアンは、私が何とかします、だからっ……!」
「つぼみ、どうしたの?」
つぼみがぎょっとして振り返ると、そこには母のみずきが立っていた。
つぼみは掴んだままのコフレを背中に回し、自分の体で妖精の姿を隠しながら、何でもありません、と誤魔化す。
「大変だ、どうやら例の怪物がまた現れたらしい! 来海さん達はえりかちゃん達を探しに行った。僕たちも早く避難しよう!」
お店の外で情報を集めていたらしい陽一が店内に飛び込んで来て、状況を説明した後再び店外へと出て行った。
つぼみはみずきの「早く行きましょう」という言葉に相槌を打ちながら、この混乱した状況を利用して上手く脱出する方法を考え始めている。
外へと駆けて行く途中で見えたフェアリードーロップ店内の様子は、中途半端な所で作業が投げ出されているデコレーションや、床に雑多に散らばった作業道具のせいで、煌びやかながらどこか廃墟のような荒廃した雰囲気を漂わせているようにつぼみには思えた。
……終わりにさせたくない。
素直になるって思ってくれたえりかの気持ちを、ももかさんの想いを、こんな所で。
砂漠の使徒に対する怒りを燃やし、強い意志を固めながら、つぼみはフェアリードロップ店内を後にした。
「……? 何かちょっと騒がしくない?」
「えっ、……そう?」
えりかの一言をきっかけに、二人は周囲を見渡した。
普段通りに見えると言えば見えるが、周囲にざわざわと何事か話している人間が多いようにも思えるし、慌しく走り去っていく人間もちらちらと見える。
そんな周囲の微妙な変化に気づいた人間が、えりかとももかのように足を止め、何があったのか話し始める……といった具合に今の状況が広がっているようだ。
えりかはまさか、と思った。
最初にえりかが周囲の微妙な変化に気づいたのも、その雰囲気に覚えがあったからだ。
えりかにとっては日常的に感じている……ある者達の襲来を意味するその『空気』は、周囲の人間の会話に耳を傾ける事で確かな事実となった。
……怪物……暴れて…
プリキュアが……また…助け……
――間違いない。デザトリアンが現れたのだ。
しかも周囲の人の話しぶりでは、既につぼみが変身して戦っている。
「あっ! もも姉、あたし忘れ物しちゃってたの思い出した! 先に行ってて、すぐに追いつくから……っ!?」
デザトリアンが現れた事にももかが気づく前に、えりかはももかから離れてしまおうと考え、即座に行動に移ったのだが、走り出そうとするえりかの腕をももかが掴んだため、えりかは前のめりになってその場でよろめいてしまう。
「何言ってるの、周りの声が聞こえない!? 怪物が現れたのよ! 暴れてるのは家の近くみたいだし……ここもどうだか分からないわ、すぐに避難しないと!」
デザトリアンの出現とその対処に慣れている自分以上に、ももかが現状をしっかりと把握している事にえりかは驚き、同時にかなり焦っていた。
今のタイミングを逃してしまってはももかと上手く別れるのは難しい。
何より、えりかの腕をがっちりと掴んでいるももかの手が、物理的にえりかの行動を妨げている。
「パ……パパやママ、それにつぼみが心配だよ、あたしちょっと様子を見て来るから…………んも〜! 離してよ〜!」
「パパとママも、みんな平気よ! つぼみちゃんは……その……ご両親と一緒だろうし。とにかく、あんたがここではぐれたら余計に大変な事になるじゃないの!」
ももかの言っている事は正論だ。何よりももかはえりかがプリキュアとして戦っている事を知らない。
だからここでえりかを引き留める事はごく自然な対応なのだ。
だが、親友であるつぼみが一人戦っているであろう事を知っているえりかは、つぼみや街のみんなを助けに行こうとしている自分の邪魔をするももかに、少しづつ苛立ちを感じはじめていた。
「何なのよ〜! ファッション部の事といい今日の事といい! あたしの事なんてほっといてってば!」
「放っておけるわけないでしょ!? たまにはお姉ちゃんの言う事を聞きなさい!」
もうその時には、えりかの頭の中は焦りと苛立ちで一杯になっており、ももかの言葉がまともに耳に入っていたかは怪しい。
ももかに腕を掴まれながら、ももかを引き摺らんばかりの勢いで前に進もうとしている。
「……だったら、妹の言う事だって聞いてよ!」
「……っ、今日は、今日だけは…………駄目なのよ!」
――しん、と、静まり返ったようだった。
周囲の人間は相変わらずざわざわと会話を続けており、デザトリアンが暴れているという事実が伝わり始めた事から、ざわつきは少しづつ騒ぎへと変わり始めていた。
しかし、ももかのその言葉でえりかが動きと言葉をピタリと止めたため、えりかとももかの二人の間だけには、静寂が生まれたように感じられていた。
「……そっか。そうなんだ……」
「えりか……?」
えりかがゆっくりとももかに振り返る。
……怒りの表情。
「自分がファッションショーに出る事や、それを妹に自慢するのが、そんなに大事なこと!? 家族や友達を心配する事より!?」
「えっ……!? えりか、それは違…」
慌てて弁明の言葉を告げようとするももかだったが、その時えりかがももかの腕をいきなり勢い良く振り払ったため、驚いたももかは最後まで喋る事が出来なかった。
「もも姉のバカッ! 一人で逃げて、ファッションショーにでも何でも行けばいいよ!」
呆然とその場に立ちすくむももかを置き去りにして、こちらに逃げて来たであろう人々の波に逆らってえりかは走っていく。
「(つぼみ……素直になる日、って言ったけど、これがあたしの、素直な気持ちだよ……!)」
少しづつ増えている人ごみの中に消えていくえりかの姿をただ見守る事しか出来ないももか。
――本当に、それでいいのか……?
そんなももかの頭の中で、声が響いたような気がした。
――妹が危険な場所に向かっているのに、自分だけ避難するのか……?
「(そんな事……出来るわけない)」
――妹に誤解されたままで、本当にそれでいいのか……?
「(いいわけ…………ないじゃない!)」
頭の中に浮かぶ言葉を振り払うように、ももかは左右に大きく頭を振ると、えりかを追って人ごみの中に飛び込んで行った。
……そんな彼女をビルの屋上で見下ろしながら、笑みを漏らす者が居た事にも気づかずに……
「ブロッサムインパクト!」
手のひらで弾けるピンクの閃光が、冷蔵庫の体を持ったデザトリアンを吹き飛し、その巨体をビルの壁面に叩き付ける。
地面に着地したブロッサムは、若干自分の息が荒くなっている事に気づき、それを悟られぬようゆっくりと呼吸を整える。
今までもマリン抜きで一人で戦った事が無かったわけではない。
しかし、マリンが仲間に加わって以降、共に戦う仲間がいるという安心感が常に彼女を支えていた。
今はその安心感を自分で放棄し、更になるべく早く勝負を決めようとブロッサムは戦いを焦ってしまっている。
えりかやももかが事件を知る前に決着を付けたい……
その気持ちがブロッサムのプリキュアとしての力を高めていたが、同時に焦りを含んだ戦い方のためにその力を効果的に敵にぶつける事が出来ていない。
「どうした、攻撃に腰が入っとらんぜよ! 相方がいなければ所詮は最弱のプリキュアか!」
気持ちだけが空回りしてしまっているブロッサム。
その様子に気づいたのか、両者の戦いを観戦していたクモジャキーが挑発的に言い放つ。
息の調子を整えたブロッサムは、クモジャキーをまっすぐと見据えた。
呼吸を整えるのと同時に、ブロッサムは焦っていた自分の気持ちを落ち着かせようと勤めている。
全ては……あの姉妹のために。
「最弱のプリキュアでは……ありません! 今の私は、あの二人のためならどこまでも強くなれるのです!」
「ほう……面白い。だったらこれならどうぜよ!」
言うやいなや、一瞬姿勢を低くしてからクモジャキーはブロッサムに向けて一直線に突進して来た。
その後ろには、吹っ飛ばされて地面に倒れた状態から起き上がり、ブロッサムに向けてノッシノッシと走ってくるデザトリアンの姿が見える。
ブロッサムは次の自分の行動を直感的に判断し、行動に移した。
「ブロッサム・シャワー!」
ブロッサムの手のひらから生み出された花びらの弾がクモジャキー目がけて飛んで行き、クモジャキーはそれを両手を合わせてガードする。
その両腕に次々と花びらの弾が命中するが、それを受けてもクモジャキーにはかすり傷程度のダメージにすらなっていない。
「ふん、これがどうした…………む!?」
弾幕が過ぎ去ったその時、クモジャキーの眼前にブロッサムの姿が迫っていた。
ブロッサムシャワーの弾幕を追いかける形で接近するブロッサムの姿が、攻撃を真正面から受けていたクモジャキーには見えていなかったのだ。
至近距離まで接近したブロッサムは両腕をクモジャキーに向けて突き出し、両の手のひらがクモジャキーと接触した瞬間、そこから強烈な光が放射される。
「ブロッサム・ダブルインパクト!」
至近距離で発生した二つの強烈な爆発の威力を受けたクモジャキーは踏みとどまる事も出来ず後ろに吹き飛ばされ、その体は後方から真っ直ぐクモジャキーの進路を追い進んでいたデザトリアンに激突した。
「もう一度!……ブロッサム・シャワー!」
体を絡ませながら地面を転がっていくデザトリアンとクモジャキーを無数の花びらの弾が追撃する。
爆風によって巻き上がった土煙によって二者の姿が隠れた後も、ブロッサムは気を緩める事はしなかった。
ブロッサムが用心した通り、デザトリアンもクモジャキーも平然とした様子で土煙の中から姿を覗かせる。
多少のダメージは負ったようだが、どちらも戦闘を続行するのには問題ない様子だ。
「ほーう、虚勢を張っただけというわけでは無い……楽しくなって来たぜよ!」
クモジャキーはダメージを受けてひるむどころか、むしろ嬉々とした表情になって、ファイティングポーズを取り直している。
ブロッサムの奮闘が、クモジャキーの心に火を点けてしまったようだ。
しかし、それを見ても、ブロッサムの心に恐れや迷いが生まれる事はなかった。
「(一度で駄目なら二度、二度で駄目なら何度でも! ……倒せるまでぶつかるまでです!)」
ブロッサムがそう考えて拳を固め、足を踏み出して襲い掛かろうとしているクモジャキーの動きに意識を集中していたその時だった。
「ちょぉぉ〜〜〜〜〜〜っと待ぁったぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
両者の間に張り巡らされた緊張を破る者が現れた。
その声にハッとなってブロッサムが振り返ると、ブロッサムにとっての最高のパートナーにして、今この場に最も現れて欲しくないと考えていた相手……キュアマリンの姿があった。
「マリン!? どうして……ももかさんはどうしたんですか!?」
「えっ…………もも姉は、……先にファッションショーに行ったよ。まさかこの場に連れて来れるわけないし」
「そう、ですか……」
ももかの話題にマリンがかすかな不快感を見せていた事にブロッサムが気づかなかったのと同じように、彼女がこの場に現れた事にブロッサムが落胆の表情を出していたのにマリンは気づかなかった。
えりかには今日一日ももかと一緒に居て欲しいと願っていたブロッサムだったが、こうなってしまった以上は仕方がないと考え、なるべく早く目の前の敵を倒せるよう努めるべきと気持ちを切り替えた。
「マリン、とにかく早くデザトリアンを倒してしまいましょう!」
「……え? うん、まあ……そうだよね! よ〜し、やるっつぇ!」
ももかと喧嘩別れして来た事は別として、マリンとしてはいつもと同じようにデザトリアン出現に合わせて出動して来ただけのつもりだったので、ブロッサムが妙な気合いを入れている事にマリンは違和感を持った。
しかし、街中で暴れるデザトリアンはなるべく早く片付けてしまうべきなのは当然の事だと、マリンは深く考えず納得する。
ブロッサムとマリンが敵に向き直った時には、既にデザトリアンがその巨体を起き上がらせ、ドス、ドス、と地鳴りを響かせながら突き進んできている所だった。
それを見た二人はどちらとともなく駆け出し、同時にクモジャキーもその場から飛び出した。
クモジャキーが一直線にブロッサムへ向けて突進し、ブロッサムがそれに応えてクモジャキーに進路を向けたため、必然的にマリンが相対するのはデザトリアンという形になった。
マリンが射程圏内までデザトリアンに接近したその時、デザトリアンはその場で足を止め、冷蔵庫の体に付いたドアを横に開いた。
開かれた胴体内部から漂う冷気を感じ取ってハッとなったマリンは、駆け足の勢いのまま地面を蹴って上空へと舞い上がる。
間一髪、マリンが地面を離れたその直後、マリンが走っていたであろう地面はデザトリアンの吐き出した猛吹雪によって氷の大地へと変化していた。
「ひぇ〜危ない危ない。肝を冷やしちゃったね、こりゃ」
一歩遅ければ氷付けになっていたかもしれない事に冷や汗を垂らしながら、マリンは空中から垂直降下してデザトリアンの頭部に蹴りをお見舞いした。
デザトリアンはそのまま地面に仰向けに倒れ、蹴りの反動でマリンは再び空中へと舞い上がる。
倒れた勢いでデザトリアンの胴体のドアがバタンと勢いよく閉じたが、それと同時に、そのドアよりも下に位置した場所にある引き出しが勢いよく引き出され、中に入っていた製氷皿から無数の氷のブロックが空中のマリンに向けて発射される。
「うっそ!? そんなのもアリ!? わわわっ」
マリンは目の前に飛んできた氷塊を足で蹴って空中での軌道を変え、また同じように自分めがけて飛んできた氷塊を蹴って軌道を変え……というように、氷から氷に飛び移るかのような動きで攻撃を回避していく。
マリンの後方へ散っていく氷塊はビルのコンクリートの壁に激突して風穴を開けている。マリンも直撃してしまえばひとたまりもないだろう。
攻撃を回避している間、ちょうど自分の真下あたりでクモジャキーとブロッサムが拳を交わしている姿が見えた。
ブロッサムの方はブロッサムの方で、クモジャキーの攻勢によってビルの壁面に追い込まれている形になっており、手助けに入るのを期待するのはとても無理な状況だ。
「こりゃやばいって……あれ?」
マリンがブロッサムの方に注意を向けていたその時、マリンが「足場」としていた氷塊攻撃がバッタリと止まった。
足場としていたものが突然無くなった事に驚いたマリンは慌ててビルの窓ぶちにしがみつき、冷蔵庫デザトリアンを見下す。
マリンは最初、発射する氷塊が切れたものと思っていたのだが、答えは違った。
デザトリアンは既に体勢を立て直しており、製氷皿の入った引き出しを閉め、代わりにドアの方を開いてマリンに狙いを定めている。
「うわわっ……やばっ!」
その場から飛びのこうとしたマリンだったが、慌てているせいか窓ぶちにぶら下がった状態から足を壁に上手く引っ掛ける事が出来ない。
デザトリアンが胴体内部に冷気を集中し、今まさに吹雪を放とうとしていたその時、壁際に追い詰められながらもクモジャキーの攻撃をガードし続けていたブロッサムの耳に、頭上で慌てるマリンの声が届いた。
視線をちらりと動かし、デザトリアンがちょうど自分の頭上に狙いを定めているのを見たブロッサムは、すぐさまマリンの置かれた状況を理解し、咄嗟の行動に移る。
マリンの危機に反応してブロッサムのリズムにズレが生じた事が幸いしたのか、両の拳を順番にブロッサムのガードに叩き付けていたクモジャキーは、ブロッサムがその場で突然かがみ込んだのに反応しきれなかった。
「何っ!?」
クモジャキーの拳がコンクリートの拳に叩きつけられ、自らが拳に込めた勢いのために、一瞬クモジャキーの動きが止まる。
次の瞬間、クモジャキーの体は旋風と共に宙に巻き上げられていた。
「ブロッサム・フラワーハリケーーーーーーン!」
「何だとぉぉぉぉぉぉ!!!」
自らの体を高速回転させ、そこから花の旋風を巻き起こすブロッサムの技。
それによってクモジャキーの体が浮き上がるのと、デザトリアンが吹雪を放つのは同時だった。
「ぬ、ぬおおぉぉぉぉぉ、ひ、冷える!」
ブロッサムの頭上には丁度窓にぶら下がっているマリン。
フラワーハリケーンでブロッサムの頭上に飛ばされたクモジャキーは、デザトリアンからマリンを狙う射線を塞ぐ形となる。
デザトリアンの放った猛吹雪はクモジャキーを直撃し、クモジャキーが壁となった事でマリンは吹雪の攻撃から難を逃れたのだった。
「サンキューブロッサム! でぇぇい!」
マリンは壁を蹴って勢いを付け、そのまま目の前のクモジャキーを蹴り飛ばす。
半分凍り付いた状態のクモジャキーは吹雪の流れを切り裂きながら飛んで行き、デザトリアンの冷気発射口に激突する。
クモジャキーの体によって発射口が塞がった事により、行き場を失った冷気がその場に集中し、クモジャキーの体と自らの冷気が生んだ氷によって冷蔵庫デザトリアンの冷気発射口は完全に塞がった。
「今です!」
ブロッサムは地上で、マリンは空中で、手のひらを目の前でぐるりと一回転させ、その動きによって宙に発生した水と花びらの弾を二人は両手で押し出すように発射する。
「「プリキュア・ダブルシューーーーーーート!!!」」
デザトリアンは封じられたドアの代わりに下の引き出しを開き、再び氷塊を発射したが、それと同時にブロッサムとマリンが地空から放った光弾がデザトリアンに命中した。
「やりました!」
「ぃよっしゃーーーーっ! どうよあたし達のコンビネーション!」
マリンは数発飛んで来た氷塊を難なくかわすと、ブロッサムの傍に着地する。
どっごん、と氷塊がビルの壁面をえぐる音、どっすん、とデザトリアンが地に落ちる音。
それらを聞いた時、ブロッサムとマリンの二人はこの戦いの勝利を確信し、最後のとどめに必殺武器フラワータクトを出す準備に移ろうとしていた…………その時だった。
がらん、ごろごろ、……ぱたり。
地を割り壁を砕くプリキュアと砂漠の使徒の戦いにおいて、コンクリートの壁が打ち砕かれたり、瓦礫が崩れたりした時の音などは聞きなれてしまうものだ。
……しかし、最後の、他の激しい音にかき消されてしまいそうな情けない音は何だろうか?
そして、その直前に聞こえた「きゃあっ」という“声”は?
聞こえるはずがない。
デザトリアンとの戦いが始まってしばらく経ち、近辺の住人は非難が完了している。
こんな危険なデザトリアンとの戦いの現場に好き好んでやって来る人がいるわけがない。
……では、何故聞こえるはずのない、ブロッサムとマリン以外の人間の声が聞こえるのか?
振り返った二人の目に映ったのは信じられない光景だった。
その理由はそれぞれ違っていたが、二人共に「居るはずがない」と考える人物の姿があった。
周囲に転がる瓦礫と共に、地に倒れ付す人物の姿。
「もも、姉……なん…………で……」
「ももかさん!」
目に映った光景を見てあっけにとられるマリンだったが、ブロッサムがすぐさま走り出してももかを抱き起こしたのを見て、自分も慌ててももかの元に駆け寄った。
デザトリアンの吐き出した氷塊によってビルの壁面が崩れ、落下してきた瓦礫の小片が当たった事で気を失ってしまったらしい。
「もも姉、もも姉……! しっかりしてよ! なんで、なんでこんな……」
「マリン! ももかさんは、先にファッションショーの会場へ向かっていたんじゃないんですか!?」
「そ、そうだよ……もも姉はファッションショーに行ってるはずじゃん、こんな所に居るわけない……」
「来海ももかは、ファッションショーになど行ってはいない」
突然聞こえた冷ややかな声に、ブロッサムは全身が総毛立つのを感じた。
振り返ると、そこにはいつから居たのか、漆黒の戦士、ダークプリキュアの姿があった。
「行ってないって何よ……あんた、どういう事か知ってんの!?」
「行くはずが無い。そいつにはファッションショーなどよりよっぽど大事なものがあったのだからな」
「ファッションショーより大事なもの……? 何よ…………何なのよそれ!」
おかしな光景だった。
ブロッサムは突然のダークプリキュアの登場に隠し切れない恐怖と焦りを感じていたのだが、マリンの方はというとそんな事などおかまいなしに最悪最強の敵と“会話”を続けている。
ブロッサムはそんな二人を交互に見つめて狼狽する他ない。
じれったい言い回しをするダークプリキュアに痺れを切らしたマリンの怒りを込めた言葉をぶつけられた後、ダークプリキュアはスッと右手を上げ、マリンに向け人差し指を突きつけた。
「…………お前だ」
「あ……あたし?」
「そう…………来海ももかがファッションショーへの参加を捨ててでも守りたかった大切なもの……それが、お前だ」
えりかはももかといつもいつも喧嘩ばかりしていて、ついさっき別れた時もえりかはももかに怒りをぶつけていた。
そんな自分を、姉が、ファッションショーを捨ててまで守ろうと考える……?
マリンにはダークプリキュアの言う事が全く理解できなかった。
ブロッサムも、ダークプリキュアがどういう意図でこんな事を言っているのか図りかねていた。
「な、何言ってんの……もも姉があたしを……? 意味わかんないよ……」
マリンは視線を宙に泳がせ、そのうちにあるものを発見して、定まらずにいた視線をそこに集中させた。
マリンが凝視したもの、瓦礫の下敷きになっている紙袋……それはももかが今日持ち歩いていたものだ……そして紙袋の口からはみ出て姿を晒していたのは、マリンが良く知っているものだった。
……何故ならそれは、彼女自身が自分で作り上げた衣服だったからだ。
「あ、あれはあたしの……つぼみ、あれ、つぼみに渡したあたしの服だよね!? 何でもも姉が持ってんの!?」
「……………………っ!」
ブロッサムは目を瞑り、奥歯を噛み締めただ黙っていた。
ブロッサムの脳裏には、ファッション部で交わしたえりかとの会話が浮かんでいる。
『えりか、このお洋服大きすぎませんか? 私にも、えりかにも合わないと思いますけど』
『ああ、今回のは違うんだ。そりゃ、自分が着たいと思う服を作るのもいいけどさ、あたし達じゃまだまだモデルさんなんかと違ってちんちくりんで似合う衣装ってのも限られて来るじゃん? スタイルが整ったモデルさんが着るような衣装も作ってみたくてさ』
『わぁ、それは素敵ですね!』
『う〜ん、でも勢いで作り始めたはいいけど、モデルになる人がいないとやっぱ意味ないよね……はぁ〜、困った』
ファッション部でえりかが作っていた新しい衣装。
それはえりかのためのものでも、つぼみのためのものでもなかった。
理想的な体系のモデルに着て貰うための衣装……ファッションデザイナーを目指すえりかとしては、一度は挑戦してみたいと思っていた題材だった。
そしてその想いをえりかは実際に形にした。
しかし、やはりファッションのための服である以上、誰かに試着してもらって出来を確かめたいと思うのがファッションデザイナーを志す者としての本能。
誰かモデルになってくれる相手はいないかとえりかが悩んでいる時に、つぼみがえりかに『ピッタリなモデルが見つかるかもしれません』という話を持ち出したのだ。
……それは、つぼみがももかと密会をしたあの日の出来事だった。
「もしかして……つぼみが言ってた『ピッタリのモデル』って、もも姉の事だったの!? どうしてつぼみがもも姉に…………ねぇつぼみ、どういう事なの? 答えてよ!」
「……今日、ファッションショーが終わった後、えりかの家でサプライズパーティーを開く事になってたんです」
マリンの激しい言葉に、ブロッサムはたまらず口を開き、話し始めていた。
あの日、ももかと二人っきりで話をした時から密かに進めていた計画の事を……
「ももかさんはファッションショーに出演した事、えりかは新しい衣装を完成させた事、そんな二人を祝うための、小さな小さなファッションショーを……」
「…………もも姉が、それに協力するって……?」
ブロッサムはゆっくりと首を左右に振った。
「最初にこの話を持ちかけて来たのは、ももかさんなんです。それで私が、えりかの作った新しい衣装の事を話して、それからだんだん話が膨らんで来て……」
「分かんないよ……何でもも姉がそんな事……」
ブロッサムはうつむいていた顔を起こし、困惑しているマリンの顔を真っ直ぐに見据えた。
「えりか。覚えていませんか? 幼い頃、えりかはももかさんがモデルになったら、自分はももかさんのためにお洋服を作るんだって言っていたそうです」
「えっ…………それは……そんな事もあったかもしれないけど、覚えてないし……覚えてないくらい前って事でしょ……」
「……ももかさん、きっと、その時の約束を果たしたかったんじゃないかと思います。…………それに、自分のせいで自信が持てずにいるえりかを励ましたいとも言っていました……」
「もも、姉、が…………?」
ダークプリキュアやブロッサムの話を聞いて呆然とするマリン。
その時、意識を失っていたももかが小さなうめき声を挙げ、目を薄く開いた。
「もも姉! もも姉! しっかりして!」
「う……え…り……か…………?」
マリンは自分が今変身していて、“来海えりか”では無いという事などおかまいなしに、必死の呼び声をももかにかける。
一方のももかは、意識が朦朧としているのか、目の前にいる人物を完全にえりかであると思い込んでいるようだ。
「どうしたの……えりか…………また……慌てて走って転んじゃったの……?」
「もも姉……?」
……いや、えりかではない。
ももかは、目の前にいる人物を、記憶の世界に存在する“幼き日のえりか”と重ね合わせているようだった。
「素敵なお洋服のデザインが出来たら……また見せてよね…………あたしも……絶対に素敵なモデルになるからさ……だから…………」
薄く開くまぶたから覗くももかの瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「えりかも、その夢……諦めないで…………えりかなら……きっと…………叶えられるから……」
ももかは、力の入らない腕をゆっくりと持ち上げ、それをマリンの顔にゆっくり近づけていく。
「ごめん…………あんたの気持ち……分かってあげられなくて…………あたし達、もう……一…度……」
溜まりに溜まった涙がももかの頬を伝って地面に零れ落ちるのと、ももかの手が力なく落ちるのは同時だった。
「もも姉……? もも姉っ! もも姉っ……!」
ももかは再び意識を失ってしまったようだ。
果たして、最後の言葉は“誰”に向けた言った言葉だったのか。
「妹を想う気持ち……? 結局は伝わらなかったようだがな」
ダークプリキュアがももかを、ももかの気持ちを嘲笑った。
それを聞いたブロッサムの心に浮かんだのは、悲しみと……怒り。
ブロッサムは、先ほどのももかと同じように、目に涙を溜め、キッとダークプリキュアを睨み付けた。
「ももかさんとえりかの気持ちは……ただ、すれ違っていただけなんです! 今日この日で、全て上手く行くはずだったのに…………あなた達が……あなた達さえいなければ!」
ブロッサムは悔しくてたまらなかった。
ももかが自分の過ちに気づき、歩み寄ろうと、もう一度やり直そうと、そう考えた。
すれ違い続けていた二人の気持ちが、もう一度重なる時が来たはずだったのだ。
そんなももかの決意が、気持ちが、姉妹の心が、踏みにじられたのだ。
それがブロッサムには悔しくてたまらなかった。
「…………違うよ、つぼみ……」
「えりか…………?」
「あたしの……せいだ……」
マリンはその場でふらりと立ち上がっていた。
顔はうつむいており、髪の影になっていて表情は読み取れない。
今、マリンの中では様々な感情、記憶が渦巻いていた。
姉に対して思っていたこと、自分の昔の夢、今の夢、姉に対して言ったこと、言われたこと。
「あたし……いつももも姉に八つ当たりばかりして……!」
『あーあ、モデルはいいなぁ。学校は休めるし、ちやほやされるし、撮影で綺麗な服着せてもらえるしぃ』
モデルになる事が出来なかった惨めさに耐え切れず、えりかはももかに何かと突っかかっていた。
それで、自分の心が満たされる訳では無いと分かっていても、えりかには、そうする事しか出来かったのだ。
「もも姉だって辛い事、苦しい事、色々あるって、知ってたはずなのに……!」
『……でもそのせいで、失ったものも沢山ある。普通の生活、普通の友達……えりかが妹がうらやましぃぃ〜〜〜!!』
デザトリアンの叫びを聞いて、えりかは姉が心の内に秘めた苦悩を知った。
自分だけでなく、姉も姉の立場で苦しんでいる。
その事実は、えりかの心の慰めになったのかどうか。
「なのに…………あたし、もも姉が言う事、素直に受け止められなくて……」
『余計なお世話ですよ〜〜〜〜っだ! あたし、もも姉の出るファッションショーなんてぜぇ〜〜〜〜ったいに見に行かないんだからね!』
相手の事を知って、理解したつもりでも、自分の大切な物を失ってしまうかもしれないという恐怖が、相手への思いやりの感情を崩してしまう事がある。
感情家なえりかの性質が、姉との関係に亀裂を生んでしまっていた。
「もも姉はそんなあたしの事……あたしなんかの事を、ただ心配してくれただけなのに!」
『放っておけるわけないでしょ!? たまにはお姉ちゃんの言う事を聞きなさい!』
妹を想ったももかの必死の言葉が、友を想ったえりかの必死の想いが、両者の亀裂を決定的なものにしてしまった。
どちらも、ただ大切な人の事を想っただけなのに。
「あたしのせいだ……! あたしがあんな事言わなければ、あんな風に別れたりしなければ、もも姉がこんな目に遇う事も無かったのに!」
「えりか、落ち着いて……! えりかのせいじゃありません!」
ブロッサムは抱き起こしていたももかを一旦降ろし、両手で頭を抱えながら髪を振り乱すマリンを落ち着かせようと勤めるが、マリンの耳にはブロッサムの言葉は届いていない。
「何で!? 何であんな事言ったの!?」
『自分がファッションショーに出る事や、それを妹に自慢するのが、そんなに大事なこと!? 家族や友達を心配する事より!?』
姉に向けてのえりかの言葉。
今、えりかは思う。守ろうとした相手にこんな事を言われて、姉の心はどれだけ傷つけられたのだろうかと。
これを言うのが当然の事のように思っていた自分が、えりかは憎かった。
「つぼみに言われたのに! 「素直になる日」って、決めたのに……!」
『えりか、1日だけでいいから、素直になってみて下さい。きっと、いい事がありますよ』
つぼみの意味深な言葉も、今のえりかにはその意味がよく理解できていた。
みんな……自分と姉のために一生懸命になってくれたのに、自分がそれを全て台無しにしてしまったのだ。
「何で、何で…………!」
『もも姉のバカッ! 一人で逃げて、ファッションショーにでも何でも行けばいいよ!』
「あ…………」
ブロッサムが両手でマリンを揺さぶって正気に戻そうとする中、はたとマリンの動きが止まった。
「そっ、か………………」
マリンはたどり着いてしまったのだ。
見つけてはいけない“答え”に。
――これが、“あたし”の、“素直な気持ち”なんだっけ…………
半狂乱になったかと思いきや突然ぷっつりと動きを止めてしまったマリンを見て不安になったブロッサムが、うつむいたままのマリンの顔を恐る恐る覗き込もうとするが、その時ぽつりとマリンがつぶやいた。
「…………いらない」
「えりか…………?」
そして今度ははじかれたように、マリンは天を見上げて……叫んだ。
「おねえちゃんを傷つけるような心なんて、あたし、いらない!」
その瞬間、マリンの全身から青い光がはじけ、キュアマリンは、プリキュアとしてのその姿を失っていた。
本来の姿、来海えりかの姿に戻り、えりかはその場でがっくりと膝を落とす。
心の大樹によって選ばれ、人の心を守るために戦うプリキュア。
自分の心を認める事が出来ないものに、プリキュアとして戦う資格は……ない。
突然の出来事にあっけに取られていたブロッサムは、自分の背後に立つ存在の気配に気づく事が出来なかった。
「………………っ!?」
突如として横から強い衝撃を受け、勢いよく突き飛ばされてしまうブロッサム。
いつの間にか接近していたダークプリキュアが、右腕でブロッサムを払い飛ばしたのだ。
えりかはその場で微動だにしていなかった。
変身が解除された状態で、目の前に最強の敵がいるというのに、何の反応もせず、まさに心ここにあらずといった様子だった。
そんなえりかの姿を見て、ダークプリキュアは満足そうな笑みを浮かべる。
「クモジャキー…………いつまでそうしている?」
「……ちっ、最近の俺様は凍えてばかりいるぜよ」
デザトリアンのドア口で氷付けになっていたクモジャキーが自らの体を縛る氷をバリバリと砕きながら起き上がり、一飛びでえりかの目の前に着地した。
「………………………」
「ついさっきまで熱い戦いを見せてくれたと思ったら、今はこうか……心など、弱いものぜよ」
クモジャキーが、えりかを見下ろしながら言う。
その言葉を受けても、えりかは何も言わず、ピクリとも動きもしなかった。
いや……最初から、何も聞こえていないのかもしれない。
「クモジャキー……やれ」
「おう! …………心の花よ、出て来るぜよ!」
えりかの体が光を放ち、その姿を水晶球と、花の入ったクリスタル状の物体「心の花」の二つに変えた。
ダークプリキュアの凄まじいパワーを受けて宙を舞っていたブロッサムが地面を転げ、何とか体勢を立て直したのはそれと同時だった。
「くっ…………え、えりかの心の花が!」
「えりか、えりか〜〜〜〜〜〜!」
「コフレ、駄目ですー!」
戦いの間、離れた場所で一部始終を見守っていた妖精が、我慢しきれずにその場に飛び込んで来ていた。
ブロッサムも、心に抑えきれない焦りを感じながらクモジャキー達の元に走っていく。
――このままでは、またえりかの心が奪われてしまう。
――また、えりかの心が傷つけられてしまう!
「えりかの……えりかの心の花は、渡しません!」
「フン、こいつなら、ホレ、欲しいんならくれてやるぜよ!」
突然クモジャキーは振り返り、走り寄って来るブロッサムに何かを投げ渡した。
ブロッサムは受け止めたそれを見て混乱し、一瞬その動きを止めてしまった。
クモジャキーが投げ、ブロッサムが受け取ったそれは、『えりかの心の花』だったのだ。
ブロッサム、それにシプレが突然の事に混乱して動きを止める中、えりかのパートナーであるコフレだけは、クモジャキーに向かって行くのを止めなかった。
クモジャキーは、えりかの体の収められた水晶球をその手に収めていたのだ。
その事実にブロッサムとシプレが気づくのより一歩早く、クモジャキーとダークプリキュアは、近づいていたコフレと共に自分達を黒い旋風で包み、その場から姿を消していた。
「っ…………え、えりか……えりかが!」
「どうして心の花を残して…………あっ、ブロッサム、大変です!」
シプレがある事に気づきその手を指すと、そこにはブロッサムとマリンの手によって重大なダメージを与えられ、身動き取れなくなったはずのデザトリアンの起き上がろうとする姿があった。
「しまった……デザトリアンが!」
「ブロッサム、とにかくデザトリアンを何とかするです!」
「分かってます、分かってますけど…………えりか……!」
すぐ傍には意識を失ったももかが倒れている。
早急にデザトリアンを片付けなければ危険だ。
砂漠の使徒の行動、奪われたえりかの体、謎めいた状況を考える間も無く、ブロッサムは再びデザトリアンに向かって行った。
「え〜っと、この問題は……と、そうだな、花咲〜? 解いてくれるか?」
「…………あ、はい。………………あ、何でしたっけ」
担任教師である鶴崎の声に反応して席を立ったはいいが、つぼみには今授業で話されている内容、自分が任された問題が頭に入っていない。
そのため、つぼみは起立した状態で何をするでもなく立っているだけになってしまった。
授業中に指名されたのに、ただボケッと突っ立っているだけのつぼみ。
そんなつぼみの姿を見て笑う生徒はいなかった。
魂が抜け切った様子のつぼみの姿はとても笑えるようなものでは無かったし、親友である所のえりかが欠席している事が、つぼみがこんな様子になっている原因である事に皆気づいているからだ。
「つぼみ、大丈夫か? えりかも風邪で休んでるって言うし、お前も具合が悪いんじゃないか?」
「風邪で……休み……」
えりかが今、行方不明になっているという事実……えりかの両親は学校には伝えていないのだろうか。
つぼみ以外の人間には、えりかが姿を消した理由など分かりっこない。
えりかの両親はえりかがどこかからひょっこり姿を現すかもしれないと考えて、学校の皆に不安を与えないよう、今はまだ黙っているのかもしれない。
……何だか上手く考えが纏まっていないように感じられたが、つぼみはその結論で納得する事にした。
一方で、つぼみのつぶやきが耳に届いていない鶴崎は、つぼみが自分の言葉が聞こえないほどに具合が悪くなっているのだと考えたようで、一回大きな溜息をついた後、心配そうな声で言った。
「花咲、保健室で診てもらって来い。それで、具合が悪いようだったら早退するように」
「…………分かりました」
廊下に出たつぼみを出迎えたのは妖精のシプレだった。
「シプレ…………どうして砂漠の使徒はえりかの体だけを奪って行ったんでしょう」
「分からないです。砂漠の使徒は、心の花を傷つけて、心の大樹を弱らせるのが目的のはずです。こんな事、今までに無かったです」
シプレの首にかけたハート型のブローチから、光と共に『えりかの心の花』が出現した。
普段、心の花が奪われた人の体が収められた水晶球を保管する時と同じ様に、シプレは『えりかの心の花』をブローチの中に納め、守っていたのだ。
かつて心の花がサソリーナに奪われ、人形のデザトリアンとして暴れ出した時には、えりかの心の花は嫉妬の赤へと変化していた。
だが、今つぼみの目の前にある心の花は、元の色のまま、ただ弱々しくその花をしなびさせている。
「シプレ、持ち主を失ったこの心の花は、一体どうなるんでしょう……?」
「デザトリアンとして暴れさせられている訳ではないので、いきなり枯れてしまう事は無いと思うです。でも、今のこの心の花は養分を与える土や水を失った状態。放っておけばそのうちに弱ってしまうです」
「そうですか…………」
保健室にやって来たつぼみに対する診断の結果は風邪気味という事だった。
病は気から……とはよく言ったもの、という所だろうか。
その診断を受けたつぼみは、鶴崎の言うように早退する事に決めた。
だがそれは、家で布団に包まって養生するためではない。
つぼみは気の抜けていた自分の体を奮い立たせるべく、来海家の現状を思い起こした。
ももかはデザトリアンの事件に巻き込まれて、病院で意識不明の重態。
えりかはデザトリアンの事件の最中に行方不明。
両親のさくらと流之助は今もえりかの事を探し回っている事だろう。
えりかとももかの事を心から可愛がっていた両親が、今どれだけ悲んでいる事だろうか。
そして、今行方不明になっているえりかは、二人がどれだけ必死になった所で絶対に見つける事が出来ないのだ。
――えりかを見つける事が出来るのは、この事件を解決出来るのは、自分しかいない。プリキュアとして人々を守る使命を託された自分にしか。
校舎の門をくぐる頃には、つぼみの表情に先ほどのようなボケッとした様子は微塵も無くなっていた。
「えりかはもちろん、コフレの事も心配です…………」
「ええ。ふたり共、絶対に見つけましょう。……シプレ、コフレの気配を感じませんか?」
「今は何故か、少しも感じられないです。でも、どこかに痕跡が残っているかも……」
「昨日の事件があった場所から辿ってみましょう。少しの可能性でも、追求するべきです」
次の行動の方針を固め、つぼみは駆け足気味に歩き出した。
――それは、授業も終わり、放課後になった明堂学園の、ファッション部の部室で起こった出来事だった。
ガラガラ、と戸を引く音に気づいて、中で談笑していた四人が入り口の方を向く。
最初に口を開いたのは、ファッション部員の佐久間としこだった。
「あれ? 今日風邪で欠席してたんじゃなかったっけ?」
「あーでも良かったぁ。つぼみちゃんも早退しちゃうし、あたし達だけでどうしようかと思ってたんだよ」
同じくファッション部員の沢井なおみが後に続く。
それを聞かされた相手は何の事か分からないといった様子だったが、それを見てもう一人の部員、眼鏡をかけた女の子、黒田るみこが説明する。
「これから生徒会長が来るんだって。何か、ファッション部の活動の経費について話があるとか言ってたけど……」
「でもこれで安心だね」
最後の部員、志久ななみがホッとしたような表情で言う。
一連の話を聞いていた相手は、そこでにっこりと微笑み、一言だけ、言った。
『もう大丈夫だよ』……と。
「つぼみ、待って下さいです!」
「えっ、もしかしてコフレの気配を感じるんですか!?」
先日の事件の現場を辿る道中、突然シプレが騒ぎ出したので、つぼみは事件の現場に辿り着くまでもなく、シプレが相方の残した気配を探り当てたものと期待したのだが、どうやらそうではない様子だった。
「違います! これは……砂漠の使徒です!」
「砂漠、の…………使徒!」
つぼみは一瞬落胆しそうになったが、砂漠の使徒の登場は、えりかの所在を知るためのこれ以上ない手がかりだ。
無論、心の花を傷つけるべく活動する砂漠の使徒の行動を放って置く事も出来ない。
つぼみははやる気持ちを抑えながら、シプレに尋ねた。
「シプレ、砂漠の使途がどこに現れたのか、分かりますか?」
「はい。砂漠の使徒は……学校にいます!」
放課後という事でもう人もあまり残っておらず、校舎内は静かなものだった。
しかしだからこそ、校舎に残っている生徒というのは目立ってしまう。
早退して家に帰ったはずなのに、放課後学校内を歩き回っている姿を見られでもしたら何を言われるか分からない。
つぼみは周囲の気配に気を配りながら、シプレの感じる反応を頼りに、ファッション部の部室の前までやって来た。
「まさか、ファッション部の部室だなんて……」
「つぼみ、気をつけて下さい、あたしが感じたのは、ダークプリキュアが使う闇の力に近いものがあるように思うです」
つぼみはごくりと喉を鳴らした。
ダークプリキュアの姿はつい先日目の当たりにしたばかりだ。
間髪入れず攻勢に出て来たとしてもおかしくはない。
…………しかし、ファッション部の部室なんて場所にピンポイントに現れるものだろうか。
つぼみは頭に何か引っかかるものを感じた。
校舎に忍び込む際も、何かしらの騒ぎになっているような様子は無かった。
砂漠の使徒が暴れているのなら、学校がこんな静けさに包まれているはずは無いのだが。
そして、部室入り口の引き戸に手をかけた時、つぼみはまたもおかしな違和感を覚えた。
部屋の電気がつけっ放しなのだ。
そして、中には人影らしきものがいくつか見える。
…………それなのに、人の気配らしきものが一切しない。
つぼみは、形容しがたい恐怖が心に浮かんで来るのを抑える事が出来なかった。
「罠かもしれないです、つぼみ、気をつけて」
「…………はい、分かってます。………………っ」
いつまでもこうしているわけにはいかない。
確かめない事には何も始まらないのだ。
つぼみは意を決して引き戸を勢いよく開け放った。
そこでつぼみが目にした物は……!
「一体、何がどうなっているんでしょう……」
「あたしにも何が何だか分からないです……」
ファッション部の部室の中で、つぼみとシプレは途方に暮れていた。
部室に入ったつぼみ達の目に飛び込んで来たものは、放置されたいくつかの『心の花』だった。
そう、えりかの時と同じ様に、心の花の持ち主の体が納められた水晶球だけが持ち去られ、砂漠の使徒の本来の目的であるはずの『心の花』だけが捨て置かれていた。
何よりつぼみ達にとって不可解だったのは、残されていた『心の花』が“枯れていなかった”という事だ。
砂漠の使徒は心の弱った者からしか心の花を奪う事が出来ないはずで、妖精達もそれを肯定していた。
それなのに、今この場には枯れていない『心の花』が現れ、そしてそれはつぼみ達が現れるまで放置されていた。
つぼみは心の花を一箇所に集め、それをシプレに託す。
心の花は光に包まれた後、シプレのペンダントの中に収納された。
「でも……この場が誰かに見つかる前に来れて良かった」
ここにやって来た誰かが、あの光景を見てどう思うだろうか。
心の花についての知識が何も無い人の目にも、あの光景はあまりにも異常に映る事だろう。
持ち主を失った心の花が無人の空間に放置されたその様は、まるで交通事故があった現場に手向けられた花のように見え……
つぼみはそこまで考えて、頭を振って自分の不吉な考えを掻き消した。
……とにかく、騒ぎになる前に見つけられて良かった。
「これが、砂漠の使徒の新しい作戦なんでしょうか……心の花が育つための『土壌』を奪って、じわじわと心の花を枯らしてしまう……」
つぼみはそこまで言ってはっとした。
自分の言葉に最後の部分に引っかかるものがあったのだ。
じわじわと枯らしてしまう……じわじわと……じわじわと、追い詰める?
頭の中で閃光が弾けた様だった。
どうしてわざわざ学園内のファッション部に何者かは現れたのか。
えりか、そしてファッション部の皆……体を奪われた人たちは、自分に関係のある人達だ。
まさか、砂漠の使徒は、自分を少しづつ追い詰めるためにこんな事をしている……?
その考えに行き着いた時点で、つぼみはもういてもたってもいられなかった。
「シプレ、行きましょう!」
「つぼみ!? 一体どこに行くつもりですか!?」
シプレの言葉に答える時間も惜しい。
今この瞬間にも、自分の大切な人が襲われているかもしれないのだ。
来る時に隠れ潜んでいた事など忘れ、つぼみは無我夢中になって校舎の外に駆け出していた。
「おや、キミがこんな所にいるとは珍しいねぇ」
「聞いたわよォん、今回の話」
砂漠の使徒本部のバルコニーで、手すりによりかかりながら景色を眺めていたクモジャキーの背後に、砂漠の使徒三大幹部の残り二人、サソリーナとコブラージャが現れた。
「……お前らか」
「どうしたのォん? いつもなら『修行ぜよ!』なァ〜んて暑苦しく動き回ってるのに」
「……さぁな」
二人の存在に気づいたクモジャキーがそれを一瞥するが、サソリーナの問いにもそっけない返事を返すのみで、サソリーナの言うように、普段のクモジャキーと比べたら随分と大人しく見える。
「ふぅん……まぁいいけど。しかし、彼女の行動。あれは一体どういう事だい?」
「彼女……? ああ、あいつか…………さぁな、俺は奴のやる事など知らんぜよ」
コブラージャの言葉に一瞬不思議そうな顔をしたクモジャキーだったが、話題になっている相手が誰なのかに気づくと、すぐに興味を失ったようで、無関心な表情に戻った。
「ホント、一体何を考えてるのかしら! あの子、砂漠の使徒の目的が分かって無いんじゃないのォ!?」
「まったくだね。僕らには無い、あんな素晴らしい能力を持っているのに、宝の持ち腐れだ」
二人の言葉は、既にクモジャキーの耳には入っていなかった。
彼にとって今気がかりなのは、この“作戦”がこのまま成功したとしたら、自分が胸躍らせる相手がこの後現れるのかという事。
そして、もし現れないのだとしたら……この先自分は何のために戦うのか、砂漠の使徒の目指すべきものとは一体何か……おそらく答えの出る事の無いであろう問題に、クモジャキーは考えを巡らせていた。
はぁ、はぁ、と荒い息を吐きながらつぼみは駆けていた。
ファッション部の部室を飛び出してから、ほとんど休みなく走っている。
運動が得意ではないつぼみには、これだけの距離を走り続けるのは過酷なもので、逆につぼみは、自分の体がこんなに動けるものなのか、と驚いてすらいた。
ファッション部で見た光景が彼女の目に焼きついていて、つぼみの体に休む事を許さなかったのだ。
今、つぼみの足は、真っ直ぐある施設へと向かっていた。
……それは、病院。
来海ももかが入院している病院へ向けて、つぼみは走っていた。
つぼみの視界に、問題の病院の門が入ってくる。
門の所で曲がって、病院を視界に映したその時、つぼみは「あっ」と驚いた声を上げ、その場で立ち止まった。
自分の真正面、病院の入り口に向けて歩くある人物の姿が見えたからだ。
つぼみは荒い息を何とか整えると、その人物に向けて声をかけた。
「えりか……どうして……」
つぼみの言葉には答えず、その人物……えりかは振り返った。
つぼみとえりかの視線が合う。
今、彼女の事を「えりか」と呼んだ張本人であるつぼみ。
しかし彼女には……目の前にいる人間が本当にえりかなのかどうか、判断が出来ていなかった。
砂漠の使徒に心の花を切り離され、連れ去られた彼女がこうして平然と存在する事自体が異常ではある。
だがその事実以上に彼女を戸惑わせていたのは、彼女の見せている表情だった。
……笑顔。
“えりか”はつぼみに向けてにこやかな表情を向けていた。
だが、その笑顔はえりかが普段見せているような、内側から溢れる元気が外に飛び出して来る……そんな想像をさせるような眩しい笑顔ではなかった。
笑顔を作っているはずなのに、その表情から喜びや楽しさといった、えりかの“感情”が伝わって来なかったからだ。
そして……つぼみを真正面から見つめるその瞳は光を反射しておらず、暗く淀んだような色を見せていた。
「えりか…………?」
つぼみには永遠のように思えた時間。
恐らく、顔を合わせて数瞬の時。
その後、つぼみは、目の前にいる人物が本当にえりかなのかどうか確かめようと、もう一度声をかけた。
しかし、つぼみが声を発するのと同時に、その“えりかと思わしき何者か”はつぼみに駆け寄って来ていた。
つぼみは続きの言葉を言う事が出来ず、突然の事に驚いて一歩後ずさってしまうが、えりかの起こした行動を妨害するような事は出来なかった。
なぜなら、駆け寄って来た人物……“えりか”は、そのまま両腕を広げて、飛び付くように思いっきりつぼみを抱きしめて来たからだ。
「えっ……えりか…………?」
「良かったぁ、会えて嬉しいよつぼみ! 授業を途中で早退したなんて聞いたから、心配してたんだよ?」
えりかがつぼみを抱きしめたまま、喜びの声を上げる。
つぼみが普段からよく聞き慣れたえりかの声だった。
しかし、先ほどえりかが見せた表情から感じた違和感と、不自然なまでに喜びの声を上げるえりかの姿に、つぼみはどこか薄ら寒さを覚えていた。
「え、えりか……苦しいです、離して下さい……」
そんなつぼみの声が聞こえているのかいないのか。
えりかはつぼみを抱きしめる両腕を離すどころか、さらに強く力を込めてつぼみを抱きしめた。
つぼみが若干苦しさを感じながら、横目にえりかの表情を見ると、えりかはどこか遠くを見るような、うっとりとした表情をしていた。
「つぼみの体、暖かいね……それに、いい匂い…………」
つぼみの頭の中の何かが、警鐘を鳴らしている。
自分に触れているのは、“えりか”ではない、“えりか”のように見える何者かだと、つぼみは誰かにそう訴えかけられているような気がした。
「つぼみ! 何だか変です! えりかから離れるです!」
今度ははっきりと耳に届く警告があった。
つぼみに遅れて病院前にやって来たシプレが、猛スピードで二人に近寄りながら叫んでいたのだ。
しかし、自分の心の奥から、パートナーから、強い警告を受けても、つぼみは固まったようにその場から動く事が出来ない。
強く体を抱きしめるえりかの腕が動きを封じているせいでもあったが、ここで自分が何かしらの行動を起こしてしまえば、大切な“何か”が壊れてしまうような……つぼみにはそんな気がしていたのかもしれない。
「つぼみ……大好きだよ。……だから、あたしが…………“助けてあげる”」
えりかのその言葉と同時に、自分を抱きしめる腕の力が緩んだのを機に、つぼみは反射的にえりかの事を突き飛ばしていた。
……その瞬間、つぼみは確かに、自分とえりかの間にある“何か”が壊れる音を聞いた。
「つぼみ、大丈夫ですか!?」
「は、はい……平気です。“私は”……」
つぼみはその場に到着したシプレと一緒に、いきなり突き飛ばされた事で地面にしりもちを付いたえりかの姿を見た。
えりかは痛そうに左手尻をさすっていたが、そんな当たり前の行動も、今のつぼみの目には異常に映った。
えりかが、右手にあるものを握っていたからだ。
「フラワータクト…………いや、違う、これは……」
「だ、ダークタクトです……」
つぼみ達がプリキュアとして戦う際に強い味方となる武器、フラワータクト。
えりかが右手に握っているものは、最初それだとつぼみは思った。
しかし、普段自分達が使っているものとは、形状も色も違う事につぼみはすぐに気付き、また、それも見覚えがあるものだと分かった。
妖精のシプレが言ったように、えりかが右手に持つそれは、ダークプリキュアが使っていた武器、ダークタクトと全く同じものに見えた。
「んもぉ、痛いなぁ…………いきなり突き飛ばすなんて、酷いじゃん、つぼみ」
「……ファッション部に現れたのは……えりか、あなただったんですね」
ファッション部の部室を飛び出した後、真っ直ぐにこの病院、ももかが入院しているこの病院に駆け付けたのは何故だろうか……つぼみは考えた。
……恐らく、この事を、どこかで予想していたのだ。
残された心の花が語るファッション部の風景……部屋の中で仲良く談笑する一同……そんな時部屋に入って来る者がひとり。
それにぴたりと当てはまる存在が、「えりか」以外に思い浮かばなかったからだ。
えりかなら、次にここにやって来るだろうと、つぼみはどこかでそう思っていたのだ。
「みんなを、心の花だけ残してさらって行ったのは……えりかなんですね」
「……心の、花」
ゆっくりとその場で立ち上がっていたえりかは、つぼみの言葉を聞いてピタリと動きを止めた。
「心の花、……って言ったの? …………心の花……心の花、心の花、心の花……!…………ぅううぁぁぁああああぁぁあああぁぁぁああああああ!」
そして、突然頭を抱えてうずくまったかと思うと、指で髪を裂くようにわしゃわしゃと頭を掻き毟りながら叫び声を上げた。
あまりに突然で異常なえりかの行動に、つぼみは何も言えず、呆然と成り行きを見守る事しか出来ない。
「…………つぼみ、知ってる?」
そしてまた突如として、えりかはピタリとその行為を止め、うつむいたままつぼみに声をかけた。
えりかの奇行と突然の言葉につぼみはギクリとするが、勤めて冷静に答える。
「何を…………ですか」
「としこ、好きな人が出来たんだって。なおみは叶えたいって思う夢があって、るみこは、男の子じゃないけど、憧れの人がいて、その人と仲良くなりたいって思っている」
「…………知りませんでした。でも、それが何だって言うんですか……? 私には、えりかが何を言っているのか、分かりません!」
「……心の花だよ」
えりかがすっくと立ち上がり、その顔を上げた。
暗く、恨めしげなその表情は、先ほど見せた笑顔とは違い、心の底から溢れる感情を表現したものであるように、つぼみには感じられた。
「みんな、心の花が生んだ気持ち。何かを欲しがったり、望んだりする気持ち。……こんなの、いらないんだよ」
「どうしてですか……夢を持って、それを叶えようと頑張ったり、誰を好きになって、自分も好きになって貰いたいと思ったり……素晴らしい事じゃないですか!」
えりかの言葉を必死に否定しようとするつぼみ。
だが、えりかはそんなつぼみの言葉を無視して続ける。
「ななみの事、覚えてるでしょ……? 亡くなったお母さんが大好きで、妹のるみのために頑張ってたけど、そのせいですっごく辛い想いをした」
「でも、ななみさんはその辛い経験から更に成長して、家族の絆もより強くなりました!」
かつてデザトリアンの事件に巻き込まれ、それを機にファッション部員となったななみ。
その一連の事件で見せたななみという人物の心の成長は、つぼみの心にも大きな感動と勇気を与えており、つぼみは、えりかも自分と同じような気持ちを持ったものと信じている。
だからこそ、つぼみは目の前にいる“えりか”の言葉を受け入れる訳にはいかない。
しかし、そんなつぼみの訴えかけを聞いても、えりかはただ首を横に振るだけだった。
「……違うよ。心の花なんてものがあるのがいけないんだ。好きな人の気持ちが別の誰かに向いていたら嫉妬する。夢が叶えられなかったら絶望する。気持ちが届かないんじゃないかと思って不安な気持ちになる。…………心の花があるから、夢や望みなんて持つから、みんな苦しい想いをしなきゃいけないんだよ」
「だから……だからみんなから心の花を奪ったって言うんですか」
えりかは頷いた。
恨めしげなその表情はそのままだったが、その瞳の奥からは、抑えきれない感情が今にも溢れ出しそうになっているように見えた。
「そうだよ。……夢とか、希望とか、そんな心を持たなければ、失望する事もないし、周りの人間に嫉妬して、傷つけたりする事もなくなる。……あたしはみんなを『心の花』から救う…………そして最後には、あたしの心も、消えて無くなっちゃえばいい。おねえちゃんを傷つける、こんな……心、なんて……」
つぼみはその言葉を聞いてハッとした。
今の今まで、つぼみは目の前にいる人物の事を“来海えりか”という名の自分の親友であるとは信じられなかった。
真意の読めない不気味な表情や、突然の奇行、そして友達の秘めた想いを否定する言葉……
それらは、つぼみの知る“来海えりか”という人物と何一つとして一致する部分が無かったからだ。
だが、えりかのこの言葉を聞いた時、つぼみにはようやく分かった。
全ては……ももかを傷つけてしまったという、えりかの後悔の念と繋がっている。
素直になれなくて、文句や嫌味ばかり言って。
なのに、相手は自分の事を深く想っていてくれて。
その事実を知った時にはもう遅くて……そんな、取り返しのつかない事をしてしまったという気持ちが、後悔が、えりかの心を攻め立て、狂わせてしまったのだ。
「つぼみ! えりかは砂漠の使徒に、心を縛る偽りの心の花を植え付けられたんです! だから、あんな……」
「……そうですか」
えりかの心の花を妖精の能力によって覗き、真実を知ったシプレがそれを必死で訴えたが、聞かされた当のつぼみは、そんな事はどうでもいい様子で答えた。
えりかの心の花をシプレが所持しているのに、“えりか”が存在する理由……シプレの言葉からつぼみはそのカラクリを理解する。
しかし、つぼみにはそんな事はどうでもいいのだ。
今のつぼみにとって大切な事は、「えりかが自らの心を苦しめている」という一点のみだった。
つぼみの中では、砂漠の使徒への怒りよりも、えりかが自責の念で自身を苦しめているという事への悲しみの方が勝っていた。
「シプレ、えりかの心の花を出してください」
「えっ……つぼみ、どうするつもり…………。……分かったです」
つぼみの真意が読めず、シプレは一瞬躊躇したが、シプレはその時つぼみが見せていた表情を見て驚き、つぼみに言われた通りに心の花を取り出した。
「えりか、見て下さい。あなたの…………心の花です」
「……あたしの、心の花」
つぼみは、えりかの心の花をえりかに向けて両手で突き出していた。
……両の目から大粒の涙を流しながら。
「私……えりかからファッションの話を聞くのが好きでした。凄く楽しそうで、一生懸命自分の夢に向かって頑張っているえりかが…………“自分を変えようとしている”えりかの姿が好きだったんです」
「…………あたし、おねえちゃんに嫉妬してたんだ……モデルになれないのが悔しくて、ファッションデザイナーになって見返してやろうって…………ファッション部の夢なんて、あたしの醜い心が生んだ、下らない幻想でしかないんだ」
えりかが憎々しげに吐き捨てた。
えりかが「ファッションに対する気持ち」を否定した事に、つぼみは胸を締め付けられるような想いだった。
「下らない訳ないじゃないですか! えりかがずっと大切に守り続けてきた……そして何より、ももかさんが守ろうとしたのが、この……えりかの夢と心です!」
「違う……違う……! そんなの、守ろうなんて思うのが間違いなんだ…………そんなものを守ろうとしたから、おねえちゃんは…………ぅぅうううああああああぁぁぁああああ!」
えりかは再び頭を抱え、苦しそうに悶えながら搾り出すような叫び声を上げた。
その叫びに答えるかのごとく、虚空から黒い姿をした“コフレ”が現れた。
「憎いです……苦しいです…………えりか、こんな心なんて」
「そうだ……こんな心なんて、消えてなくなっちゃえ……!」
コフレがブローチから出現させたどす黒い色をしたプリキュアの種を、えりかが『ココロパフューム』にセットすると、そこからえりかの体を、心を覆い隠す紫煙の香が噴き出した。
一瞬の時の後、その香は突風と共に宙へと消え去り、その下から、黒き衣服に身を包んだキュアマリン……に良く似た存在が現れた。
その“キュアマリンに似た何者か”の首に黒い姿をしたコフレが飛びつき、コフレはその姿を黒いマントへと変えた。
「海風を裂く、漆黒の花……ダークマリン。…………全ての心を、真っ暗な海の底に沈めてあげる……!」
闇に染まったかつての仲間の姿を目の当たりにして、つぼみは一瞬たじろいだが、すぐに……覚悟を決めた。
変身して、目の前の相手、ダークマリンと戦うのだと。
仲間と、友達と傷つけあう事をつぼみが望む訳もない。
だが、つぼみがやるべき事は何も変わっていないのだ。
それは、『えりかの心を救うこと』。
つぼみは腕で涙を拭い払い、シプレに向け口を開いた。
「シプレ、行きましょう。えりかの心を……救うんです!」
「……! 分かりました。…………プリキュアの種、行くですー!」
つぼみはシプレが胸のブローチから生み出したプリキュアの種を『ココロパフューム』にセットし、ココロパフュームから噴射されたピンクの香水が、つぼみをプリキュアの姿へと変えた。
「大地に咲く、一輪の……花! キュアブロッサム!」
変身完了したキュアブロッサムとダークマリンが向かい合い、互いの視線に想いを込めぶつけ合う。
全ての心を否定し、消してしまおうと考えるマリン。
えりかの心を救おうと決意を固めるブロッサム。
その衣装が見せる白と黒のコントラストの通り、両者は何から何まで対照的だった。
「心の花を守る伝説の戦士、プリキュア……そんなの、いらない!」
まず、動き出したのはマリンだった。
地面を蹴って真っ直ぐブロッサムに突進して来る。
「シプレ、えりかの心の花を、守ってください!」
ブロッサムはえりかの心の花をシプレに任せ、その場を離れるよう手で促す。
それを受けてシプレが離れ、戦闘体制を整えたブロッサムに向けてマリンがダークタクトを振り下ろした。
ブロッサムは左腕でそれを受けるが、完璧にガードしたかに思えたその一撃は、体の芯まで響く鈍い衝撃をブロッサムに与えていた。
その一撃を受けてブロッサムはある事実に気が付く……普段のマリンよりも、遥かに力が強化されている!
「つぼみも、変わろうとする必要なんてない。弱い自分の心なんて……無くしちゃえばいいんだよ!」
思いがけない衝撃を受けてよろめいてしまったブロッサムは反撃の手を出す事が出来なかった。
マリンは今度は至近距離で、右足での回し蹴りをブロッサムの頭部に向け放つ。
タクトの軽い一撃でも受け切れなかったのだ。蹴りを腕で受け止めては確実にダメージとなってしまう。
それを即座に判断し、ブロッサムは上体を逸らして攻撃を回避する手に出た。
ビュン、と一瞬ブロッサムの眼前を空切るマリンの右足が通り抜けた。
勢い良く足を振り抜いたマリンの体は、背を向けた状態で完全に無防備な状態となっている。
マリンが体勢を立て直すより早く、ブロッサムは上体を起こしており、それと同時にブロッサムは勢いを込めた拳をマリンの背に向けて放つ。
防御も出来ず強力な一撃を受けたマリンは体を逸らせながら地面に倒れ込もうとしており、ブロッサムはそこに追撃をしようと試みるが、その時、前のめり気味になっていたブロッサムの体の腹部に激痛が走った。
倒れ掛かっていたマリンは地面に両手を付き、自由な状態となった足を上空に向けて振り上げ、ブロッサムの体に一撃を与えたのだ。
その勢いのままマリンは足を振り切って体ごと一回転し、地面に両足を付く。
一方で、マリンの足に押し上げられたブロッサムの体は上空へと浮き上げられていた。
「…………しまっ……!」
『た』とブロッサムが言い終えるより早く、地を蹴り上昇して来たマリンの足によって、ブロッサムは地面に叩き落されていた。
「くっ…………つ……強い……」
「邪魔しないでよ、つぼみ……おねえちゃんや、パパやママ、それにつぼみだって、皆あたしが救ってあげるんだ。心の花なんかに苦しめられないように」
マリンがブロッサムを見下ろしながら、哀れみを込めた声で言う。
体を震わせながら起き上がろうとしていたブロッサムは、その言葉を聞いて、上体を起こした所で体の動きを止めた。
「…………本当に、そう思うんですか……? 心が無くなって、悲しみや苦しみ、それに、楽しいと思う事も、誰かを愛する気持ちも無くなって。 それの、どこが救いなんですか………?」
「救いだよ。心の花は喜びや楽しい気持ちをくれるけど、それ以上に、悲しみや苦しみであたしたちを傷つける……」
つぼみは、両の手で握り拳を作り、再び体を震わせながら、ゆっくりと立ち上がり……そして、これまでに無い、強く、大きな声で、叫んだ。
「えりかの……分からず屋っ!!!」
「…………っ!?」
今までずっと、ブロッサムの言葉を受けても全く心を動かそうとしなかったマリンが、その一瞬、その言葉にたじろいだ。
「えりかは……ももかさんに素直になれなかった事を、ももかさんを傷つけてしまった事を後悔して、苦しんでいます…………でも、そんな風に想う事が出来るのは、えりかにももかさんを愛する“心”があるからじゃないですか!」
「おねえちゃんを、愛する、心…………そんなの、あたしには無かった……! そんな、そんな気持ちが本当にあったんなら、おねえちゃんを傷つける事なんて、無かったはずだよ……!」
そのマリンの言葉に、ブロッサムは首を横に振る。
「……えりか、覚えていますか? えりかから受け取って、ももかさんに渡したあの服。あれは最初、えりかのお母さんに仕立ててもらうつもりだったんです。……でも、採寸をして皆驚きました。あの服、最初からももかさんの体にピッタリ合うサイズになってたんです」
ファッションデザイナーになる夢を否定する今の彼女は、かつてファッションについて楽しく語っていたあのえりかとはまるで別人であったが、衣装を自分で作った時の事はちゃんと覚えているはずだ。
だが、ブロッサムが言ったその内容に、マリンは意外そうな顔をしている。
自分の言葉を受けてマリンがそんな表情になったのを見て、ブロッサムは自分の頭の中にある確信を強め、更に言った。
「えりかは口ではいつも反発するような事を言ってましたけど、心の底では、ももかさんの事を最高のモデルだと思っていて、憧れていた。だから……無意識のうちにももかさんに合う洋服を作っていたんです。……それが、えりかの本当の“素直な気持ち”です!」
「素直な……気持ち…………そんなの、そんなの、おかしいよ……それが素直な気持ちなんだったら、どうして、あんな風におねえちゃんに言ったのさ……! そんな気持ちなんて、無かったんだよ…………!」
マリンが苦しそうに呻く。
素直な気持ちを伝えるのは、難しい事だ。
相手の事を憎からず思っていても、つい裏腹な行動を取ってしまう場合だってある。
そんな心の矛盾を、今のえりかは受け止める事が出来ていないのだ。
「ももかさんを愛する、えりかの本当の“素直な気持ち”…………それまで否定して、無かった事にしようとするんですか…………!? ……私、えりかに対して初めて……堪忍袋の尾が、切れました!」
「切れたら、どうだって言うのさ…………!」
「……こうです!」
ブロッサムは必殺武器のブロッサムタクトを取り出し、マリンに向けて構えた。
それを見たマリンも、同じように右手に持ったダークタクトを構える。
「集まれ! 花の……パワー!」
ブロッサムがタクトのドラム部を左手で回すと、タクトの先端にピンクの光が集中する。
「花よ輝け! プリキュア・ピンクフォルテウェーーーーーブ!」
そしてブロッサムがタクトをマリンに向けて突き出し、必殺技を放とうとしたその瞬間。
「ブロッサム! 駄目です! 逃げて下さい!」
「…………っ!?」
突然、後ろからシプレの声が聞こえたが、技の発動体勢に入っていたブロッサムにはその言葉の意味を考える暇も、それから行動を起こす時間も無かった。
ピンクフォルテウェーブがタクトから放たれ、その反動を身に受けているブロッサムはその場から動く事が出来ない。
その一瞬の間の中でシプレが突然叫んだ理由を考察するブロッサムの目に飛び込んで来たのは、ピンクフォルテウェーブを消し飛ばし、自らに向けて猛スピードで接近する“黒い光”を放つ光球だった。
その物体が何であるかをブロッサムが認識するより早く、ブロッサムの肩に何かがぶつかった。
それは、先ほどブロッサムに叫び声を上げて警告を発したシプレだった。
シプレの体の重量では、ぶつかった所でブロッサムの体をどうにかする事は出来ない。
しかし、突然シプレがぶつかって来た事で、技の反動で硬直していたブロッサムの体が反応し、半ばその場に横倒しになるかのような動きでブロッサムは回避行動を取る。
ブロッサムが地面に倒れこむ直前、黒い光球がブロッサムの横を凄まじいスピードで突き抜けて行き、それが巻き起こした暴風によって、ブロッサムは地面を勢い良く転がった。
「がっ!……うっ!…………く、ぅ………………………一体、何が……?」
6、7度転がった後ようやく止まる事が出来たブロッサムが顔を起こすと、地面に舞い降りる黒い光球が目に映った。
黒い光球が弾け、その中からダークマリンが姿を現す。
「こ…………これは、フォルテッシモ……!?」
……フォルテッシモ。
フォルテウェーブで使う量の2倍の花のパワーを体に集め、光に包まれながら敵に突進する必殺技。
かつて、ブロッサムとマリンは二人で力を合わせる事で、この技を使うのに必要な花のパワーを集めていた。
闇の力を取り入れたマリンが、この技を一人で使いこなせるようになっているとは、ブロッサムには予想が出来なかったのだ。
「くっ……うっ、……体が…………動かない……!」
振り返って歩み寄ってくるマリンの姿を見て、ブロッサムは急いで起き上がろうとするが、かろうじて首を動かす事が出来るだけで、体から手足の先まで、まるで痺れたようになって動かす事が出来ない。
直撃を受けなかったとはいえ、強力な闇の波動の余波をその身に受けた事で、ブロッサムの全身は麻痺してしまっていた。
「ブロッサム! 緑の種の癒しの力を使うです!」
「は、はい…………!」
シプレが緑の心の種を差し出しながらブロッサムに言う。
人々の心の花から生まれる心の種は、ココロパフュームにセットする事で、不思議な力を持つ香水を生み出す事が出来る。
ブロッサムは、何とか痺れが引いて来た腕を動かし、腰のキャリーケースに入れられたココロパフュームを取り出した。
ブロッサムがシプレから緑の心の種を受け取り、それをココロパフュームにセットしようとした瞬間、ブロッサムの手の中からココロパフュームは消え失せていた。
ブロッサムがハッとして顔を起こすと、ダークタクトを自分に向けているマリンの姿があった。
マリンはダークタクトから放つ闇の波動によって、ブロッサムのココロパフュームを弾き飛ばしてしまったのだ。
「しまった…………!」
「……終わりだよ、ブロッサム」
勝利を確信するマリン、尚もあがこうとするブロッサム。
そんな二人から遠く、マリンの攻撃で弾かれたココロパフュームが宙を舞っていた。
…………それは、偶然だったのか。
それとも、何かの力が、その二つを引き合わせたのか。
ブロッサムの危機を察してシプレが咄嗟の行動を起こしたがために、シプレが守っていた『えりかの心の花』は、シプレが避難していた場所に置き去りにされていた。
ココロパフュームが落下したのは、ちょうど、その場所だった。
『パフュ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ム!!!』
突然聞こえたその声の方向に、ブロッサムとマリンは同時にその視線を向けた。
そこに立っていたものは、巨大なココロパフュームから四肢を生やした……『怪物』と形容するに相応しい存在だった。
ココロパフュームの花を模した噴射口には、『デザトリアン』の共通した外見的特徴である“顔”が浮かび上がっている。
シプレとブロッサムは驚愕する。
それはまさしく、砂漠の使徒が操る尖兵、『デザトリアン』そのものだったのだ。
「そ、そんな…………」
「ココロパフュームが、デザトリアンになっちゃいました!?」
ココロパフュームの姿をしたデザトリアンは、うなり声を上げながらブロッサムに向け走り寄って来る。
そして、その反対側からはダークマリンが同じように走って来ていた。
挟み撃ちの形となり、ブロッサムが必死に立ち上がろうとしつつもどうする事も出来ず、もはやこれまでか、と覚悟を決めたその時だった。
倒れ込むブロッサムの頭上で、何かと何かが勢い良くぶつかる音が響いた。
ブロッサムが瞑っていた目を開き、視線を頭上に向けると、そこにはブロッサムに向けてダークタクトを振り下ろそうとするマリンの腕を、両腕で受け止めるデザトリアンの姿があった。
「こいつ…………!」
『ブロッサムを……もも姉を……あたしの大切な人を、傷つけないで!』
デザトリアンが叫ぶのは、心の花の持ち主が心の奥底に秘めた想い。
ココロパフュームのデザトリアンが放ったそれはまさしく、えりかの心の底からの叫びだった。
「ブロッサム……あれは、デザトリアンではありません……」
「はい…………私には見えます。えりかの、えりかの心の花が、強く、気高く、輝いているのが……!」
“デザトリアン”でありながら“デザトリアン”でない存在。
その出現にか、それともデザトリアンの叫びそのものにか、怒りの表情を見せたマリンは足でデザトリアンを蹴り飛ばし、倒れるブロッサムを無視してそのデザトリアンに追い討ちをかける。
「何が……傷つけないで、だ…………お前が! お前がおねえちゃんを傷つけたんだ! お前なんて、いなくなっちゃえばいいんだ! 消えろ……消えろぉ!」
マリンが、仰向けに倒れて身動きが取れないでいるデザトリアンを踏みつける。
何度も、何度も。
マリンに踏みつけられる間にも、ココロパフュームのデザトリアンは、「皆を傷つけないで」という心の叫びを続けている。
そしてその叫びを聞く度に苛立ちを増していくマリンが踏み付ける力と速度を上げ、しだいにデザトリアンの体は無数のへこみによって歪に変形していく。
その様を見て、ブロッサムは再びその心を奮い立たせた。
目の前で繰り広げられているのは、絶望に沈もうとしている自分の心に抗おうとするえりかの心の戦い。
……自分がこんな所で倒れているわけにはいかない!
しかし、上半身は何とか動かせるようになったものの、ブロッサムの下半身は相変わらず闇の波動の余波によって痺れて動かす事が出来ないでいる。
「(“えりか”が……“えりか”が必死で戦っているのに……私は、何をやっているんですか!?)」
ブロッサムは、動かす事の出来る両腕を足に向けて伸ばし、手のひらをふとももに当た。
「ブロッサム、何をするつもりです!」
ブロッサムのやろうとする事に感づいたシプレが驚き声を上げるが、ブロッサムは構いはしなかった。
ブロッサムは歯をかみ締め、ブロッサムのその意思により、手のひらにピンクの光が浮かび上がる。
「ブロッサム……インパクト!」
炸裂音と共に、ブロッサムの両ももに強い衝撃と激痛が走る。
覚悟していたとはいえ、自分で放った技の威力にブロッサムは苦しみ、身を悶えさせる。
しかし、放たれた花の力がブロッサムの体に残る闇の力を中和し、その痛みがブロッサムの足に感覚を取り戻させた。
「ぅ…………だぁあああああぁぁぁぁっ!!!」
何とかその場に立ち上がったブロッサムは、残る力の全てをこめてマリンに突進し、体ごと勢いよく激突する。
デザトリアンに対する怒りで我を忘れていたマリンは、その攻撃に気づく間もなく突き飛ばされた。
ブロッサムは倒れるデザトリアンの傍に着地すると、その姿を見やる。
よろめきながらも、何とか立ち上がろうとする、『えりかの心の花』を持ったデザトリアン。
「(私は……一人じゃない。えりかが、えりかが一緒に戦ってくれている!)」
ブロッサムは確信していた。
えりかが一緒に戦ってくれるのなら、“あの技”が使えるはずだ……と。
地面に叩き付けられ、立ち上がろうとするマリンに向け、ブロッサムはタクトを構える。
それに気づいたマリンも、同じようにダークタクトをブロッサムに向けて構えた。
「マリン! 決着を付けましょう!」
「……望む、所だよ……!」
一言づつの言葉を交わした後、二人は同時に動き出した。
「集まれ、花のパワー!」
「集まれ、闇のパワー!」
二人が同時に叫び、同じようにタクトの先端に光を集中させる。
そしてまた同じように、マリンとブロッサムはタクトを目の前で十字に振り、タクトの先端の光の軌跡が、宙にf(フォルテ)の字を浮かび上がらせる。
マリンは二つ。ブロッサムは一つ。
……このままでは、ブロッサムは“一つ”足りない。
「プリキュア、ダークパワー・フォルテッシモ!」
マリンが二つの光を体に宿し、技を放つ体勢を整えても、ブロッサムはタクトを構えたまま、身動き一つ取らなかった。
マリンが黒い光に包まれ、ブロッサムに突撃せんと宙に舞い上がった時、ココロパフュームのデザトリアンが立ち上がり、その頭部から青色の香水を噴射させた。
宙を舞う香水がfの字を形作り、ブロッサムの目の前に二つのf(フォルテ)が揃う。
自らが描いたピンクの光と、えりかの心の花を持つデザトリアンの放った青の光、二つの光を自らの体に吸収させ、花のパワーをその身に宿したブロッサムは、光の球となって宙に舞い上がり、そして叫んだ。
「プリキュア、フローラルパワー・フォルテッシモ!」
二つの光球が、空中で急接近する。
一つは、絶望を宿した黒の光。
一つは、ピンクと青、交じり合う二つの希望を宿した光。
二つの光球が空中で激突し、反発する互いの力によって弾かれ、再び接近し、激突する……という事を数度繰り返し、両者は再び宙でぶつかり合った。
闇と花の反発する力は拮抗しているかのように見えたが、少しづつ、ブロッサムの方がマリンの闇の力に押されていく。
「く…………! 私、一人だけじゃない……! えりかの気持ちも、私は背負ってる……! 私は、負ける訳には、いきません!」
「そんな気持ちなんて、心なんて、闇の力で消し飛ばしてやる……!」
相手を押し返さんとブロッサムの光が強くなると、対抗してマリンの光も強くなり、反発する力が急激に高まった事で両者は再びその場から弾かれた。
マリンの方がすぐさま体勢を立て直し、綺麗な弧を描いて再びブロッサムに向けて突撃したのに対し、ブロッサムの方は弾かれた後宙を無軌道にふらつき、ようやくの形でマリンに向け突撃していた。
ブロッサムを包む花のパワーが押し負け、力を落としているのは火を見るより明らかだった。
マリンもそれを理解しており、この一撃で決めるべく、全ての力を込めて突撃する。
しかし、ブロッサムの姿を真っ直ぐ捉えるマリンの視界が、突如として遮られた。
「!?」
マリンの目の前に飛び込んで来たもの、それは、ブロッサムを庇おうと両手を広げて立ち塞がるココロパフュームのデザトリアンだった。
光に包まれたマリンがデザトリアンの体を突きぬけると、デザトリアンの体は元のココロパフュームと『えりかの心の花』に戻り、その場に転がった。
そして、デザトリアンの体を突き抜けた事でマリンの体を包んでいた闇のパワーは霧散しており、勢いを失ったマリンは地面に着地する。
「な…………あたしの心が、あたしを止め…………」
「やぁあああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
マリンがハッと我に返り、顔を上げた時には、光に包まれたブロッサムの姿が眼前まで迫っている所だった。
ブロッサムはマリンの体を突きぬけ、その体から抜き取った偽りの心の花を掲げ、叫んだ。
「ハート…………キャッチ!」
その言葉と共にマリンの体から爆発のような閃光がほとばしり、ダークマリンはその姿を、水晶球へと変えた。
同時に、閃光と共に宙に舞い上げられた物体が、地面に落下する。それは、元の白い姿へと戻った妖精のコフレだった。
それを見届けた後、ブロッサムはその手ひらに浮かぶ偽りの心の花……『心の模造花』を見た。
青黒い鉱石のような物体から伸びる茨のツルは、縛り付ける相手を失った事で力なく垂れ下がっている。
花と言っても、全てが清らかで美しいと感じるものというわけではない。
だがそれを踏まえても、この『心の模造花』は、今まで見て来たどんなものよりも醜く、汚らわしいもののようにつぼみには思えた。
やがて『心の模造花』の先端から花の力の光が広がっていき、その光が全体を包んだ時、『心の模造花』は砂となって地面に流れ落ちた。
「ブロッサム! やったです〜!」
残された砂が風に流される様を見つめていたブロッサムの元に、シプレが飛んでやって来た。
その両手にはココロパフュームとえりかの心の花を持っている。
「シプレと、それに……えりかが力を貸してくれたおかげです」
その姿を見て、ブロッサムはようやく顔を緩ませ、シプレに笑みを向けた。
ブロッサムは一旦すうっ、と深呼吸した後、プリキュアへの変身を解除し、シプレから心の花を受け取ると、地面に転がっていた水晶球を持ち上げ、心の花をそれに刺した。
光に包まれて水晶球と心の花が交わり、その姿を一人の人間のものへと変えていく。
つぼみはその相手を抱き起こす。
少しの間の後、“来海えりか”はゆっくりとそのまぶたを開いた。
えりかは悲しげな表情をしている。
だがそれは、心の模造花で心を縛られていた時の、絶望に塗りつぶされたものとは少し違うようだった。
「つぼみ、あたしさ、ずっと……もも姉に謝りたかったのかもしれない。……いつも、嫌味や文句ばかり言ってごめんなさい、って…………そしたら、もも姉とも一緒に、楽しくファッションの話、出来るのかなって……」
「……謝りたいと思ったら、謝ればいいんです。楽しく話がしたいなら、笑顔で話しかければいんです。……えりかは、いつもそうやって来たじゃないですか」
えりかが、その顔を上げ、つぼみの顔を見る。
そんなえりかに、つぼみは笑顔で応えた。
「本当に? 本当にそれでいいのかな……? もう、今更、遅いんじゃないかな……?」
「大丈夫です。遅すぎるなんて事、ありません。だって、えりかとももかさんは…………姉妹なんですから」
「…………つぼみっ」
えりかは瞳を潤ませて、そのままつぼみに抱きついた。
つぼみは柔らかな笑顔を浮かべたまま、優しくその体を抱き返す。
その隣では、どうやら元の姿に戻って意識を取り戻したらしいコフレと抱き合うシプレの姿があった。
つぼみが、えりかが、シプレが、コフレが……すれ違いそうになった心をもう一度向き合わせ、それが出来た事を喜び合っていた。
やがて、抱き合うのを止め、それぞれがその場に立ち上がった、その時だった。
「…………つぼみちゃん?」
「……はい?」
突然の自分を呼ぶ声に、つぼみは特に警戒する事もなく振り返った。
何故なら、それはつぼみが日常的によく耳にする声だったからだ。
えりかを救う事が出来た事で、気が緩んでいた所があったのだろう。
もう少しつぼみ達が警戒していれば、聞こえた声が、その相手が普段出しているものとは全く違う声色をしていた事
、そしてその声の持ち主が“この場に居るはずがない”事に気づいていたはずだろう。
つぼみ達がそれに気づくよりも前に、四つの人影がつぼみとえりかに向かって飛び掛って来ており、気づいた時にはつぼみとえりか、二人のそれぞれの首と腰に四人がしがみ付いていた。
「としこさん、ななみさん!?」
「なおみ、るみこ!? ……な、何すんの!?」
「ふふふ、何をするって……?」
「そんなの、決まってるじゃない…………」
つぼみとえりかの体にしがみ付いていたのは、あの部屋で心の花を切り離され、連れ去られたはずの、としこ、なおみ、るみこ、ななみ、四人のファッション部員だった。
しかしその四人は揃って真っ黒なローブのような衣服を纏っており、その瞳は淀んでいて、明らかに普通ではない。
つぼみとえりかは何とか4人の体を引き剥がそうとするが、四人はがっしりと二人の体にしがみ付いており、身動き取る事が出来ない。
「つぼみっ!」
「えりかっ!」
ふたりの妖精の悲痛な叫び。
それがつぼみとえりかが最後に聞いた声だった。
そして、最後に二人が見たのは……“太陽”の輝きだった。
それは、普段天から降り注ぐ優しく暖かな太陽の輝きではなく、影に隠しておこうとする大切なものを、無理やりに白日の下に晒してしまおうとする無慈悲な光。
その輝きが収まった後、つぼみとえりかの二人は、その姿を心の花と水晶球へと変えていた。
残されたのは、二組の心の花と水晶球、倒れるふたりの妖精。
そして黒衣に身を包む、“五人”の少女達だった。
「その心、私の光で照らしてあげる。………………ふふふ……あーーーーっはっはっはっはっは!」
一人だけ離れた位置にいた少女が両手を広げ、高笑いする。
つぼみとえりか、再び心向き合わせる事が出来たはずの二人を嘲笑う声が周囲に響く。
…………笑い続ける少女のその手には、『ダークタクト』が握られていた。
END……?
〜あとがき〜
長ぇええええええええええええええ!!!
何だよこれは! 前回が71KBだったのに、今回128KBて! もうちょっとで二倍じゃねーか! どうりで書いても書いても終わらないと思ったわ!
はい、そんな訳で書いてしまった来海えりか編。
まあ、構想自体は前からあったんですよね。ただ、どうにもそこに持っていくまでの展開が上手く纏まらなくて、放置してました。
実際書き上げた後も、こんなんで良かったかなぁ? と疑問の残る出来ではあります。
一つ一つの場面の描写も、もう少し丁寧にやっていきたいなぁ、と思う所があったのですが、そうするとやはりキリがない感じになってしまうので……
……やっぱり、基本的な構成能力に問題があるんだろうか?
何せ文章のバリエーションが無いもんで、長くなればなるほど書くのが苦しくなるという……
今回扱った来海姉妹の問題。
アニメ本編では第8話終了以降、まぁ随分と仲の良い姉妹になっておりましたが……
序盤の話や、8話冒頭の様子を見ると、あの二人は顔を合わせては喧嘩しているって感じらしく、8話の纏めでも、二人の仲が完全に氷解した、という風にはあんまり見えないんですね。
以降の話、第11話でもえりかが「もも姉に対して素直になれない」と語っていたし、実際、兄弟姉妹の間に生まれた確執っていうのは、そう簡単には解決するものでは無いと思うんですよ。
だから、そこから先の話で姉妹の問題が解決する、というような話があるものと思っていたのですが……結局ありませんでしたね。
そんな事もあって、「こういうのもアリなんじゃない?」という気持ちも込めて今回の話を書きました。
今回は色々含みを持たせながら進んでいく内容だったので、見ていて混乱する人もいたかもしれません。
っていうか、書いてる自分がなんだか混乱しましたが。
次があるかどうかは分かりませんが(笑)、あったとしたら、もっと文章力を鍛えながらやって行きたいと思っています。
それでは今回はこのへんで。
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