会員座談会議事録

日本人の安全観

 

日時 200861915:1517:15

場所 原子力技術協会会議室

講師 東洋大学専任講師 関谷 直也 氏

司会 林 勉

 

まえがき

氏はJCOの事故の年に当たる1999年に東京大学大学院人文社会系研究科社会情報学専門分野に入学。人の安全に係わる環境情報・災害情報の社会心理を中心に研究されている御仁。

現在の原子力との係わり合いは柏崎P/Sの地震問題で、新潟県の複合災害の検討会に携わることになっているとの事。その後、原子力安全基盤調査研究提案公募事業で、平成1416年度に実施した“日本人の安全観”、引き続き“社会から見た原子力コミュニケーション”を平成1719年度までの研究に従事。今回は“日本人の安全観”の研究成果についてご講演頂いた。

 

講演概要

今までどちらかといえば、“安全”は工学的な「リスク」と人々の認識のずれや、 “安全”をいかに伝えるべきかという方法論を議論するリスク・コミュニケーションなど「リスク」研究の枠組みでの議論が中心であったが、この日本人の安全観の研究では、非理性的な“日本人の安全観”の構造を把握する事に切り口を変えて取り組んだ。

“日本人の安全観”を理性的な安全の認識というものでは無く、感情が入り混じった、“安全に関する問題に共通する心理・考え方・観念”と定義付けている。

研究の為のアンケートは、大地震、原子力発電所事故、公害・環境汚染・食品汚染の四分野を対象として何回も実施して纏めた。

政府、電力に関連する研究機関が行う同様のアンケートでは、“必要性”とか“経済性”に重点が置かれたものとなってしまっている傾向がある。新聞記事や過去の調査データを再分析するという社会心理史的調査研究、グループインタビューや流言・噂の分析による社会心理学的質的調査研究、及びアンケート調査に基づく連想想起法によるイメージの分析、大地震、原子力発電所事故、公害・環境汚染・食品汚染の四分野を中心に“日本人の安全観”の共通点・差異に関する調査分析や地域毎、リスク毎に異なる“日本人の安全観”の分析調査による心理学的量的調査研究を実施した。

 

アンケート調査に基づく連想想起法によるイメージの分析においては、原子力に対する“恐れ”や“不安”が多いと云う結果となった。“原子力”と云う言葉からのイメージでは“発電”、“放射能”、“原爆”、“プルトニウム”等の原子力用語に続き、事故のあった“地名”、“事故”、“危険性”、“不安”等が多かった。逆に少ないものは“環境に良い”、や“安全”、“必要性・経済性”であった。

 

日本人が何時頃から原子力に対する不安感を持ち始めたのか。過去の世論調査をまとめたグラフから分析すれば、賛成/反対の線が交差するチェルノブイリ事故の1986年ではなく、敦賀原発事故直後の19814月以降からイメージが悪い方向へ向かって行ったと見るべきである。1981年以降は、報道量が多くなればなるほど、原子力に対するイメージは悪化するという傾向が読み取れた。

 

安全に対する考え方が専門家と一般の人とは違う事を認識すべきである。専門家は科学的に合理的に考えるが、一般の人は必ずしも安全性を、理性的に科学的根拠を元にして判断はしていない。感情的側面も併せ持って、心理的に合理的に「安全」を考えている。

「安全と安心は違う、専門家は客観的・科学的安全性を議論しており、人々は安心を求めている」というわけではない。「安全」に対する考え方そのものが異なるのである。

ゆえに、人々に科学的安全性を幾らアピールしても、必ずしも安全と思うわけではない。安全と認識していたとしても、必ずしも「安心」してくれるわけではない。

 

人々の心理は“合理的”であるが、“理性的”ではない。自分自身の不安感として考える場合と社会問題として考える場合はロジックが異なっている。理性的認識と感情的認識の違いがある。これは原子力の問題ん限らずBSEの全頭検査の事例などでも明らかである。人々はこの問題でも合理的な判断はしていない。政府の実施するアンケート調査の項目は論理的/合理的すぎる。

 

安全観の位相を三層に分け分析。第一層は安全性をめぐる報道によって影響を受ける不安。一般人の安心・不安感情のレベルは、何か問題が起きたときは不安をあおる報道によって上昇し、又平穏期には下降する。

一方、専門家は常にリスクと接しているので、危険性の科学的実態と本人の認識が密接な関係にある。安心感、不安感の感情も、事件のあるなしにかかわらず、比較的安定している。

 

社会問題に関する安全の認識は、報道されるか、されないかで大きく影響を受ける。人々は、報道に依存して社会問題を認識する傾向にある。しかし、この不安感情は移ろい易く、絶えず変化する。

 

安全観の第2層は安全をめぐる心理で、報道に影響を受けやすい不安である。安全性に関わる具体的な対象を前にしたとき、不安感情を必要以上に高めたり、低めたりする心理的要因がある。

 

まず、その危険の対象が「見えるか見えないか」などにかかわる未知性の偏見、直視性の偏見などがある。これは、今までリスク研究が問題にしてきたような「未知性」「可視性」と同義ではない。たとえば、原子力発電所の映像をみただけでも異常性を感じ取り、不安になるという極めて非理性的な認識などをも含めている。見えないから不安というだけではなく、見えるから不安ということもある。

 

また、「何を守るか、何から守るか」などにかかわる防御化の偏見と関与性の偏見もある。ここで面白い事は男性より女性、自身の子どもがいる人の方が、不安感が高くなると云う事。「種の保存」の心理と言えよう。

 

安全観の第3層は、安全をめぐる考え方・観念:人生観・自然観・事故観であり、報道によって影響を受けにくい不安である。価値観とも言える。

自然災害や原子力などさまざまな危険について、「天からの警告」であると考える人が多い。原子力について「天からの警告」であると考える人は、自然災害と比べると若干すくない。

 

安全に対する根本的な考えとして多くの人が持っている考え方は、「安全に絶対は無い」「人間に完璧は無い」と云う事。技術や科学的安全性と云うよりも人間に関わる安全への不信感が大きな問題であるということがいえる。

人生観、自然観、技術感は人間と周囲の環境、自然や技術に対する考えがあり、天譴論、運命論、無力感、天恵論、天然論、技術発展論からなる。又、事故をめぐる観念として、あらゆる事故に共通して、事故や責任の所在、利害関係者への不信と云うものがある。

 

安全観の構造として判る事は、人々はその時々に応じて“科学的安全性”を問題にし、「安全かどうか」を判断しているのではないということである。“安全に絶対は無い”、“人間に絶対は無い”、“安全に携わる人への不信感”といった根本的な安全に対する価値観から「安全かどうか」を判断しているということである。

 

戦後から1970年代まで、原子力は原爆のイメージがあったのにも拘わらず、 “夢のエネルギー”とみられていた。原爆の手記をまとめた「原爆の子」の中で編者の長田新は、広島は、原子力発電所をつくって夢のエネルギーの恩恵を受ける権利があると書いている。当初の「反対派」は現在と異なり、主として立地漁業者、一部科学者等の関与が高い人達であった。この時期は原子力安全神話が形成されていた。

しかし、敦賀原発事故で初めて日本で原子力に関する事故が発生した。この事故から原子力に対する価値観、原子力事業者に対する価値観が大きく変わった。以後、原子力は危険と判断され、報道量や事故に伴い原子力安全神話は崩壊の一途をたどった。ここから、安全性を主張するほど不安感情は高まっていった。

 

そもそも細かい原子力の知識を有していない一般人の原子力に関する知識・情報源はマスコミ報道に依存している。そこでは科学的安全性に関する論議は少なく、更に、事故及びトラブル隠しに関する報道が不安を高める要因として挙げられる。

 

結論として原子力広報のパラドックスを指摘したい。以前、原子力が夢のエネルギーの時代には、人々は安全にさして疑問を持っていなかったので安全を主張する必要も無かった。しかし、事故や反対派との科学論争が多発するに従い原子力に懐疑的な人々が増え、安全である事を主張しなければならなくなった。だが、“安全であると云う主張をする事”自体が、“安全に絶対は無い”と云う“日本人の安全観”に反している。安全を伝える事が必要とされている時ほど、安全は伝わりにくいと云う、“リスクコミュニケーションのパラドックス”がある。このパラドックスは原子力に限らず食品問題でも同様である。

 

科学的安全性がある事は当然、絶対守られるべきものであって、前提条件である。その上で、安全を守ろうとする人”が信頼出来る時に、“安全”と考えるのである。

 

原子力広報において重要な事は、“安全に絶対は無い”、“人間に完璧は無い”と云う根本的な考え方・心理を前提にして、“安全は伝わらない”との考えを持つ事である。これを前提とすれば、方法としては、以下の方法がある

@     安全を積極的に広報しないで、地道に粛々と安全対策を執る。

A     安全を守っている人の努力を伝える等、安全の伝え方を工夫する。

B     “原子力発電技術”への信頼よりも“原子力発電にかかわる人間・組織”への信頼を広報することが重要である。

 

最後につけくわえると、 “相手の考え方を認識する”と云う事が大切である。そもそも、立場によって、考え方や感じ方が異なるということ、言葉が異なるということ、それをはっきり認識すべきである。これはPublic Relationや社会心理学では、「共同志向(Coorientation)」といい、合意形成の大前提、合意形成そのものである。

これは原子力に限った話でもない。ある考え方が正しい、正しくないという問題ではない。「べき」論でもない。考え方、価値観の「違い」を認識することが重要である。

一つは「原子力発電に対する知識、関心」について。原子力関係者は自然災害に関心はない。それと同様に、一般の人も原子力に関心はない。水力発電の仕組み、ガス・電話・銀行のネットワークなど人々が詳細をしらないで利用しているものはたくさんある。PCの仕組み、テレビの仕組みを知って人々は利用しているわけではない。「人々が原子力の仕組みに関心を持とうとしないのはおかしい」という考え方は原子力関係者の一方的な考え方である。

いま一つは「安全」という言葉について。原子力関係者と一般の人は「安全」という言葉を同じ意味で使用していない。原子力関係者と住民との間では、原子力発電について「安全」について議論しているときに、「安全」の意味するものが異なる。住民は、「科学的な安全性」そのものよりも、「安全を守る人がきちんとしているか、うそをついていないか」という安全にかかわる人々のことの方を問題視しているのである。

以上