『カルネアデスの舟板』という問題がある。
簡単に説明すると、極限の状況下で生き延びるために他人を押しのけ――結果として殺すことが罪になるのかという問題だ。
現代日本の法律では罪に問われることはないとされており、今の状況も罪に問われることはないだろうと自分は思う。
「………………」
遭難した状況下、野犬の群れに襲われたのなら負傷者を見捨てて逃げても仕方がない。
へし折れて添え木がされた左腕と左足。止血のために頭に巻かれたタオルは、じわりと血が染み出しているのだろう。痛みよりも寒さが不快だった。気候と地面と、血の抜ける寒さだ。
「…………」
見捨てられたという絶望感はあったが、当然の事かと理解もできる。
満身創痍で地面に横たわるお荷物よりもわが身や食料などが詰まったリュックの方がよっぽど重要だ。
お荷物が、たとえ実の家族でもだ。
「…………かはは」
掠れた声が思わず口から漏れる。
別に仲が悪かったわけではない。でなければ兄と二人で登山になど出かけはしない。そんな仲でも、危険となれば自身の安全を取るのは人として間違っていない。合理的には正しい。
「は……は…………」
うっそうとした木々と重い雲が空を覆っていて、星や月も見えない。仮に見えたとしても、既に焦点の定まらなくなっている視界には無意味だ。恐怖からの現実逃避もろくにできやしない。
晩秋の冷ややかな空気にのせられて鼻に届く草木のにおい。そこに捕食者の生臭い息の臭いが加わった。
「…………!」
喉元に食い込む犬歯の激痛に、朦朧とした視界と意識が忌々しくも鮮明となり、やがて出血多量によって曖昧にぼやけていく。
身動きはおろか、声を出すこともできない。だから、心の中で遺言を告げようと思う。
この感情が誰かしらに届くように思いを込めて。
――どいつもこいつも死んじまえ! 他人のせいで遭難して、自分が負傷し、自分が犠牲になるなど納得できるか!
ミッドチルダ 首都クラナガン。
ミッドチルダ式魔法の発祥の地にして、管理世界最大の巨大都市。
この地に隔意をもつベルカ出身者たちはかく嘲る。
時空管理局の発足と本局の完成により『かつての』四文字が加わった次元世界の中心都市。新暦の時代より、ゆるやかに衰退する過去の存在。
しかし、現在――新暦0059年にクラナガンを越える人口の都市は存在しない。
いくつもの区画が廃棄されることが決定した現状で、である。全盛期がいかに繁栄していたかは言うまでもない。
そのクラナガン中央地区には、空高く聳える複数の超高層建築物が存在する。
時空管理局地上本部。魔法技術の粋による威容は、時空管理局という組織をミッドチルダの民に無言の存在感をもって示している。中央タワーは周囲を囲う複数のタワーよりも一際高く、最上階の展望室からはクラナガンだけでなく遥か地平線の彼方までが一望できる。それは壮観の一言だろう。
ゆえに、展望室で遥か眼下に広がる光景を眺めた幼い少年が、思わず息を呑んだのは当然であった。
「………………」
豆粒のようなビル群。無節操に伸びるハイウェイは細糸のよう。
先人が長きに渡り築き上げてきた巨大都市。しかし、それは地平線まで広がる景色の中ではほんの一部に過ぎない。比べるべきものではないが、世界の壮大さは人間の存在のちっぽけさを思わせずにはいられない。
少年――リカリア・ヴァノンはこれまでの自身に対して思いを馳せていた。
およそ四年。生誕からの数年は、成年時の数年よりも重要だ。記憶は思い出せぬほどのひどく曖昧なものだろうが、生活環境は人格形成に大きく影響を及ぼす。
本来ならば、この幼子もそうだったはずだ。
だが、彼には前世と呼ぶ記憶があった。
リカリアにとっての四年は、自身の現状認識と文字の習得にあったといって過言ではない。二十年近い年月によって形成されていた個は、自身の活動範囲が狭いことを歯噛みしつつも知識を求めたのだ。
転生に驚きがあった。魔法という未知の技術に驚きがあった。そして何より、彼の最大の驚きは、ここが物語の世界――架空とされた世界であるという事実だろう。
何故自分がこの世界に転生したのか? リカリアが抱いた疑問だ。幾度となく自問し、解なき疑問である。
自分なりの答えすら出ないでいたが、彼には一つの決意が生まれていた。
今度の人生は己の欲求を満たすためだけに使おう、と。
この世界は巨大な劇場で、そこに住む者は単なる登場人物。あるゲームの狂人の考えだ。
それは極論だが、今のリカリアはあながち間違ったことではないと考えている。半ばで終わった前世だったからこそわかるものもある。
――楽しんで生きなければ損だろう?
リカリアはほんの一瞬、薄暗く歪んだ笑みを眼下の街に向けた。