「建屋内は白い煙に包まれ、『逃げろ!』の怒号が飛び交いパニックに」
「2号機復旧作業中に3号機が水素爆発! 瓦礫の上を死に物狂いで走った」
「逃げろ!」「外に出るんだ!」
四方から聞こえてくる叫び声を聞きながらも、A氏はどちらに避難していいのか分からなかった。室内の消火器が倒れて消火剤が噴出したらしく、あたり一面は白い煙に包まれ、2m先も見えなくなっていたのである。
ガシャン! ドン! パーン!
機材が破裂したり、ぶつかっているのであろう。あちこちから様々な音が聞こえてくるが、何が起きているのかはハッキリ分からない。床は生き物のようにグラグラと波打ち、立っているのも難しい状態だ。A氏は動くこともできず、しばらくの間うずくまっていると、近くで関連会社の社長がはっているのを見つけた。話をしている余裕などない。ただ社長の後について行き、ようやく屋外に脱出できたのである。凄まじい揺れを感じてから、10分以上が経過していた---。
3月11日午後2時46分。日本人がこれまでに経験したことのないM9.0という東日本大震災が発生した当時、福島第一原子力発電所の敷地内には5000人以上の作業員がいた。本誌はその中の4人から、被災した原発内部の生々しい様子を聞くことができた。福島第一原発での勤務が8年になる30代のA氏も、その一人である。彼は電気設備関係の企業で働く中堅作業員で、地震発生当時、5号機、6号機内で作業していた。
「福島第一原発の5、6号機はつながっています。私はいつものように、『タービン』と呼ばれる発電機器が揃っている5、6号機の建屋で仕事をしていました。地震が起きたのは、作業を終えて別の作業現場に行こうとしていた時です。危険を感じた作業員たちが5ヵ所ほどある出口を探し、無我夢中に叫んでいました。『逃げないとヤバイぞ!』。本来なら原発内部から出る時には、防護服を脱いで放射線測定器を通り、入室の時に受け取る『APD』という警報付き線量計を返却するのですが、そんな余裕はない。安全靴を履はきヘルメットも被ったまま、敷地内にある事務所に戻るのがやっとでした」
5、6号機から1kmほど離れた、原発で業務につく各企業の事務所が入る建物に戻ったA氏ら作業員は、点呼を行い全員無事であることを確認する。だが、とても落ち着ける状況にはなかった。
(右下)3号機の周辺には、14日の水素爆発でコンクリートの破片や瓦礫が散乱している。この爆発で、負傷者も出た
(左上)手前が、最も損傷の激しい3号機。後方の4号機の建屋でも、15日と16日の2度大きな火災が発生している
(左下)3号機は13日に冷却装置が不能に。16日には使用済み核燃料プールの温度が上昇し、白煙が昇るトラブルも発生[PHOTO]陸上自衛隊中央特殊武器防護隊(右上、右下、左下) Gamma/アフロ(左上)
「室内は資料などが散乱し、窓の外に目を向けると鉄製のマンホールのフタが3mほど飛ばされていたんです。事務所では、東京電力からの指示を待ち1時間近く待機していました。その間にも携帯電話に『10mの津波が来ます』という緊急メールが、次々に入ってきます。
『津波だ、デカい津波が来ているらしいぞ!』『10mだぞ、10m!』。パニックが広がり、みんなが騒ぎ始めます。最初は、勝手に逃げ出しては後々の仕事に影響すると遠慮していましたが、東京電力も混乱しているのか、いくら待っても何の指示もなく私たちはほったらかしです。もうこうなったら自主的に避難するしかないと、慌てて屋外に出ました。施設内の放送は、『海岸から離れ高台へ避難してください』と繰り返すばかり。でも私たちには、地震の際のマニュアルもありません。東京電力から避難場所すら指示されていなかったので不安にかられていましたが、とにかく敷地内を出なければと焦り、5、6号機から一緒に逃げてきた後輩のBを乗せ急いで自分の車を出したのです」
原発という"危険地帯"での仕事に従事させながら、東京電力が震災時の作業員用マニュアルも作成していないとは、驚くばかりだ。だが不安にかられたA氏ら作業員が車で一斉に避難を始めたため、福島第一原発の出口付近は大渋滞となる。A氏とともに避難したB氏によると、「3分で1mしか進めないような状態だった」という。
「公道に出ても、車は遅々として動きません。車内のテレビは、『第二波、第三波の津波が来ます!』と繰り返している。私たちはこのままでは危険だと感じ、大通りを使うのを諦め、脇道を通って高台を目指しました。途中では大きな余震が頻繁に起き、携帯電話の地震速報のアラームはひっきりなしに鳴ります。車中で怯えているうちに、夜が明けていました」
翌朝にA氏とB氏は、道路の空いていた郡山方面へ避難。現在は、群馬県在住の知人の家に身を寄せている。
深さ1mの亀裂が迫る
福島第一原発で7年間働いている30代のC氏は、A氏らが作業していた5、6号機近くのバス停で、敷地内を移動するバスを待っている時に被災した。バス停は喫煙スペースが設けられた、待合所のような建物である。C氏が語る。
「バス停には、20人ほどの作業員がいました。最初は『けっこう大きな地震だな』と呑気に話し合っていたんですが、揺れはどんどん激しくなり収まる気配がありません。これはヤバイと思い、『バス停から出ろ!』とみんなを誘導しました。しかし屋外に出て、我が目を疑いました。10mほど前方から深さ1mほどの亀裂が、バリバリと凄まじい音を立てながらこちらに向かって広がってくるのです。私たちは亀裂から飛びのき、うずくまっているしかありませんでした。
周囲からはパンパンパンという不気味な破裂音が聞こえ、5号機でレッカー作業をしていたクレーン車が今にも倒れそうなほど、激しく揺れていました。5号機からは白煙、遠くの1号機からは黒煙も上がっています。今まで私たちのいたバス停に目を転じると、天井は崩れ落ち、内部は瓦礫の山となっていました」
揺れが収まるのを待って、C氏は敷地内の事務所に戻った。彼の上司が東電の社員と「このままとどまっていても仕方ないでしょう」と掛け合ってくれたため、原発からの退避許可を得た。現在では埼玉県内の知人の家に避難している。
「私たち下請け作業員の日当は、1万5000円程度です。噂では東電の社員は、その倍はもらっていると聞きます。仕事には誇りを持っていますし、原発に危険はつきものです。しかし、この程度の給与で命を落としたくはありません」
今回証言を得た中で最も過酷な体験をしたのが、福島第一原発で18年間働いている、電気系統の作業に従事している40代のベテランD氏だろう。地震発生後5日間も原発に残り、被曝の危険にさらされながら、復旧作業に従事したのである。
彼は、C氏が一時避難した事務所内で被災した。屋外に退避したD氏らが上司と「帰れる人は自宅に帰ろう」と話し合っていると、若い東京電力の社員から、ある依頼をされたという。D氏が語る。
「『これから復旧作業を行うことになるので、何人かは残ってください』と頼まれました。私はそれほど大変な仕事ではないだろうと思い、東電の社員の要請を受けたんです。その場には200人ほどの作業員がいましたが、原発に残ったのは全部で18人。大半が20代〜30代の若い人たちです。私たちは事務所に戻り、バッテリーやケーブルなど作業に必要な機材を用意し、他の企業で残留要請を受け入れた人たちとともに、原発近くにある免震棟で次の指示を待ちました」
免震棟とは、'07 年7月に起きた新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発が火災を起こした教訓から建てられた、耐震機能が強化された2階建ての建物だ。放射線を遮断する特別な素材で覆われ、2階部分には東電の緊急対策室があるという。
「私たちが作業を始める頃には、夜になっていました。向かったのは1号機です。建物の損壊は、想像以上のものでした。陸地側の入り口は破損し危険な状態だったので、海側の機材搬入口から内部に入らざるを得ません。余震のたびに作業は中断し、しかも地震の影響で停電し、懐中電灯の灯りの下での作業です。電源を回復するために、タービン内にバッテリーを設置するだけでも困難を極めました。作業は徹夜で続けられましたが、明け方に再び津波警報が出たため、私たちはやむを得ず免震棟に退避したのです」
「被曝したんじゃないか」
免震棟に戻ると、作業員たちは東電の検査員から一人一人放射線を測定された。するとD氏は、思わぬ宣告を受ける。
「あなたは汚染されている」と---。
「"汚染判定"を受けた作業員は、他にも20人ほどいました。免震棟には宿直室のような部屋が4〜5室あるのですが、私たちは5〜6人ずつ押し込められ『しばらく待機しているように』と命じられました。部屋はカーペット敷きの6畳ほどの広さで、テレビも置いてあります。他の部屋を行き来することはできましたが、2階に上がったり外出することは禁じられました。食事も支給されましたが、クラッカーや缶詰のような備蓄食料です。『このままずっと隔離されてしまうのかな』『俺たちは放射能を浴び、被曝してしまったんじゃないか』。私たちは地震関連の番組を観ながら、そんな会話をして、不安を募らせていきました」
その日の午後、より正確な放射線数値を測定するため敷地外の高台にある施設にバスで向かうことになった。しかし、途中で同乗した30歳前後の若い東京電力社員が「周囲の汚染が進行している」と説明し予定は変更。バスは福島第一原発の免震棟に引き返した。異変が起きたのは、バスが作業員を降ろし始めた時だ。
「パカーンという軽い破裂音がして、1号機が爆発したんです。上空には埃が舞い、保温材などがパラパラと飛び交っていました。しかし福島第一原発で長年勤めてきた私は、原発内部の圧力が高まれば建屋上部が飛ぶような仕組みになっていることを知っていたため、それほど驚きはしませんでした。しかし20代の若者や、勤続年数の少ない事情をよく知らない作業員たちは、パニック状態です。『逃げろ!』と誰かが叫び、私たちは再びバスに戻り、車で30分ほどの福島第二原発に避難することになったのです」
しかしD氏らは、汚染の疑いのある作業員だ。第二原発では中に入るどころかバスから降りることも許されず、第一原発に引き返すこととなる。D氏らは、再び免震棟で"軟禁生活"を強いられた。事態が動いたのは、地震発生から4日目の3月14日の朝だ。
「1号機が爆発した時バスに同乗していた若い東電社員が現れ、こう言うのです。『あなた方の意思で、作業を続けるなり自宅に帰るなり選んでください』と。彼の話では、どうやら私たちは2号機の電源復旧作業に駆り出されるようでした。しかし放射線量が日に日に上がり危険なため、働くのは私たちの自己責任という形にしたかったのでしょう。
東京電力の思惑はどうであれ、復旧には私のようなベテランは役に立つはずです。私は覚悟を決め、残ることにしました。作業は午前中から始まりましたが、被曝の危険性があるので短い時間しか働けません。長くても1時間ほどでしょうか。2号機には8人の作業員が入りましたが、素早く終えるためにムダな会話もない。黙々と働き、午前11時過ぎに、ようやく作業は完了しようとしていました」
その時である。隣の3号機が突然、水素爆発を起こし建物が倒壊したのだ。
「私たちは2号機内にいましたが、『ズドン!』という爆発音は腹に響くような重さがありました。音の大きさに驚き外に出てみると、コンクリートの破片や瓦礫が一面に散乱しています。私たちの帰り道にも大きなコンクリートが落ちていて、タイミングが悪ければ下敷きになっていただろうと思うとゾッとしました。3号機は歪んだ鉄骨がむき出しになり、大量の黒い粉塵が舞っています。
『もうどうしようもない・・・』。誰かが絶望したようにつぶやきました。『とにかく避難だ!』。その場にいては被曝すると思い、私たちは作業をほったらかし、防護服のまま無我夢中で瓦礫の上を免震棟に向かって走りました。近道は完全に瓦礫で埋まっているので、1kmほどの道を遠回りするしかありません。その途中には、爆風で窓ガラスが吹き飛ばされた車もありました。
途中で足をくじいた人もいましたが、気にかけていられませんでした。何とか全員無事に免震棟に戻ってきましたが、ヒザがガクガクし、しばらくは誰も言葉を発しません。3号機の大爆発を目の当たりにし、私たちは完全に冷静さを失っていました。『本当にヤバかったな』『外にいたら死んでいた』『放射能は大丈夫なのか』。ハアハアと荒い息を整えながら、私たちの恐怖と不安は最高潮に達していました」
命からがら避難したD氏らに、東電から「緊急退避指令」が出たのは、翌15日の朝のことだった。現在は群馬の知人の家にいるD氏。「今でも福島第一原発で頑張っている作業員たちには頭が下がるが、死と隣り合わせの現場には戻りたくない」と語った。
D氏は被曝しているのか、作業員たちの今後が気になる。