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■2011/03/31 (木)
【寄付は被災者に届かない?】本当です。 |
しみずくにあきの多毛作倶楽部
「ちょっと過激な意見です。」より
http://ameblo.jp/kuniaki-shimizu/entry-10845688483.html
【寄付は被災者に届かない?】「義援金はプールされ…行政関係者などが組織する分配委員会で討議されて公平公正に公共事業などに使われるのだそうです。これって?非常に大切な事業であることはわかりますが、今すぐ助けたい募金者の思いが届いていません」
本当の話です。6年半前の中越大震災で多くの義援金を頂きました。全国の皆さん有り難うございました。しかし、その義援金は○之内地区で分配委員会があり、平等に分けるということで、戸別に一律に分配されました。地震の被害で、全壊あるいは半壊、何も被害がなかった人達全て一律です。
分配委員会の会長は当時の市会議員でその主導で行なわれたし、本当に被害があった人たちは委員にはなれなかったという。実際に分配されたのは、半年後、2年位経ってから分配された義援金もあるという。
当時を知る人は、社会福祉協議会や市の職員が「猫ばば」していた事を目撃もしている。
義援金詐欺には十分注意して欲しいが、人々の善意を踏みにじる輩は詐欺の犯罪者だけではない。
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■2011/03/30 (水)
竹原信一ドキュメンタリー映画 |
住民至上主義より
■2011/03/30 (水) 竹原信一ドキュメンタリー映画
『ANTI-HERO アンチヒーロー/日本の正義とはなにか』 特報
http://www.youtube.com/watch?v=O4ltP19BsnQ
メディアから「専決処分乱発」「独裁者」と呼ばれ世間を騒がせた、鹿児島県阿久根市前市長・竹原信一。
その後の阿久根市と竹原はどうなったのか?竹原とは何者であったのか?
そして、阿久根市における竹原騒動とは、いったいなんであったのか?
警察犯罪の実話をエンターテインメントに昇華させ、国内外で注目を集めた映画『ポチの告白』の監督・高橋玄が阿久根に乗り込み、ミステリアスな「独裁者」の実像に迫るドキュメンタリーの製作を開始。
現在進行形の阿久根市と竹原の、マスコミでは報じられなかった「事実」を2011年の1年間に渡り記録する。
この男に惹かれ、何の手助けにもならないかも知れないが、明日夜、阿久根に向かう。
竹原さん、原付でセンターライン寄りを走ると危ないよ、キープレフトですよ。
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■2011/03/30 (水)
原発 緊急情報(41改) 千葉の水道汚染と発表 |
中部大学 武田邦彦さん
http://takedanet.com/
震災以来ずっとブログで原子力のことを発信し続けて頂いてくれていて頭が下がる。
専門的知識に疎い凡人に噛み砕いて説明して頂き、少し分かった気がする。
今日のブログ原発 緊急情報(41改) 千葉の水道汚染と発表
http://takedanet.com/2011/03/41_8b29.htmlでは武田先生も怒っているぞ。
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■2011/03/30 (水)
こら!!館長逃げるな! |
こら!!館長逃げるな!より
http://025-792.jp/1000/blog/cat5/
小出郷文化会館の音響機器に関わる不祥事に対する住民監査請求が出ているが、訴えられた文化会館側の申し開き陳述が3月25日文化会館の会議室で行われた。
誰でも傍聴できるということで、傍聴したが ビックリ!! 館長がいない!! 陳述は市の職員が行なっている。 なぜなのか?市の職員に確認したところ 「非常勤だから。」 との回答であった。
館長はこれまで長い間、自分の意のままにいろいろなことを行ってきている。その中の不祥事なのだから、自ら説明するのが当たり前と思うが、本人がいない。 帰り際1階の事務室を覗くと、そこに館長がいるではないか。
百歩譲っても傍聴くらいしろ!! 職員がいうように、「非常勤だから。」 との理由付けを館長が認めるのであり、そのような軽い立場の職責ならば、突出して高く、常識では考えられない報酬はすぐに返上しろ!!
また、自分の起こした不祥事なのに、自ら説明陳述をしない。 そのような人物は、1日でも早く去れ!!
もっともだ。
報酬の問題も平成19年の4月から3年間の期限付きで一般職員は5%カットしたが、それと同時に任期途中で、500万円から700万円に200万円も一気に上がったのは、館長が翌年の市長選に出馬すると言ったため、前市長が報酬を上げるから出馬するなというのがもっぱらの評判だ。任期途中で不自然な上がり方を見れば、まんざら嘘とも思えない。
また、今回も任期途中で100万円下げるという条例改正が可決された。この提案理由がよく分からない。当時、管理職相当ということで上げたが、管理職も下がっているので、100万円下げるという。じゃあ管理職は100万円下がったのかというとそうではない。人事院勧告に準拠して下げているはずだから、5%ならてっぺんだろう、10%も下がるはずはない。それが理由なら14%もの大幅削減の根拠にはならないだろう。
照明設備改修、音響設備廃棄、大ホール床改修なと他にも問題が満載の文化会館事業についてキリの良いところで100万円下げてお茶を濁そうという魂胆に違いない。もし違っていたらご指摘を御願いします。
確証が無いため憶測ですので事実が判明すればすぐに訂正を致します。
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■2011/03/30 (水)
仙波王仁 被災地救助活動レポート5(3日目) |
仙波王仁(仙波敏郎さんの長男)氏が津波の被災地でボランティアの救助活動中。現場から活動レポートを頂いた。
20日AM7時
加東市消防の救助隊員に起こされる(愛媛からの長距離運転直後に救助活動を連日行なっているため、疲れて寝坊した)
「朝食があるからおいでや〜」
と嬉しいお誘い。
朝食はご飯とインスタント味噌汁であった。
今日も南三陸町で捜索・救助活動を行なう。
政府は昨日、被災地での生存者捜索活動の打ち切りを発表したが、南三陸町はいまだ捜索が完了していないため、今日も引き続き活動を行う。
昨日と同じように高速道路で南三陸町に行き、活動を再開する。
またもや余震で何度も活動中止を余儀なくされる。
午後12時 昼食
加東市消防と一緒にベースキャンプでもらったおにぎりを食べる。
男衆が握ったおにぎりは硬く、形もイビツ。
マイミクのGoodSunからもらった缶詰をオカズにする。
神戸消防がパンの缶詰を配ってくれた。けっこう美味しい。
13時 捜索再開
しかし、この日も見つかるのは遺体ばかり…。
17時
捜索を打ち切り、石巻市のベースキャンプに戻る。
この日も夕食を提供される。今夜はレトルトのハヤシライス。昨日はボンカレーであった。
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■2011/03/30 (水)
仙波王仁 被災地救助活動レポート6(4日目) |
21日 AM8時起床
疲れもピークだ。
一昨日で政府が生存者の捜索・救助活動を打ち切ったが、塩釜市の石油化学コンビナートで火災が発生したため、消火活動に行くことになった。
準備をしていると、先発隊の手によって鎮火したとの知らせがあった。
これにより、我々はベースキャンプで待機となった。
午後になり、もうコンビナートの火災は大丈夫だろうと言われたため、私はいったん仙台市に戻り、被災者に届ける支援物資を購入することにした。
ちなみに、仙台市はそれほど震災の被害を受けていないため、入浴可能な浴場もあるとのこと。
4日ぶりに風呂に入れそうだ。
高速道路はいまだ緊急車両以外は通行止め。
しかし、例によって私は通行を許可される。
高速道路は地震の影響で路面が所々損傷し、大きな段差も多数存在するため、慎重に走行する。
途中、陸橋が損壊の恐れのため通行止めとなり、仙台の手前で下ろされる。
個人的にお付き合いがある共同通信社の記者(わざわざ石巻市を取材地に選んでくれた)から連絡が入る。
仙台市に戻っているので会えないか、とのことであった。
大学講師の同級生から、仙台市内の「錦湯」という銭湯で入浴可能というメールが入る。
本当にこの男の情報収集能力は天下一品だ。
津波で携帯電話の基地局の多くが破壊されているため、通信が規制され、電話はなかなか繋がらないが、メールは比較的よく繋がる(たまに遅れて送受信することはある)。
仙台市に入り、「錦湯」に行くと、長蛇の列。
1時間以上待って入浴する。
番台にお爺ちゃんが座る、昔ながらの銭湯にホッとする。ひとときの安らぎである。
久しぶりに携帯食料以外の食事をとり、共同通信社の記者と会う。
私の救助活動を記事にするかも知れないという。
記者と別れて石巻市に戻ろうとすると、ボンゴの左前輪がパンクしている。
これでは戻れないので、某カーショップの近くで車中泊をすることに。
車内で就寝の準備をしていると、ジャーナリストの寺澤有さんから労いのメールが届いた。私は以前から氏の大ファンであったが、縁あって今は個人的にお付き合いをさせて頂いている。
メールを読むと、氏が運営する『インシデンツ』というニュースサイトhttp://www.incidents.jp/news/ に救助活動レポートを寄稿しないかとのお誘いであった。憧れの氏のニュースサイトに寄稿できるとは、大感激である
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■2011/03/30 (水)
仙波王仁 被災地救助活動レポート7(5日目)(1) |
22日 AM9時起床
疲れが取れない。
某カーショップでパンク修理をしてもらう。パンクの原因は釘であった。ガレキが散乱する被災地を走るのであるから、そんなこともあろうかとスペアタイヤを持参してはいたが、まずはメインタイヤの修理が最優先である。
雪と泥でボロボロになったワイパーのゴムも交換する。
被災地に届ける支援物資を購入するべく店を探すも、震災の影響でどの店も閉店している。
ドンキが駐車場で青空市場を開いている。
店舗が損壊しているため、駐車場でわずかな物資を販売している。
ありがたいことだ。
支援物資の購入を始めるも、燃料不足で商品を入荷できないとのことで、あまり品数がない。
次に、某ドラッグストアに行く。
買い占め防止のため、1人5点までという購入制限をしている。
「避難所に支援物資を届けるのですが、それでも購入制限があるのですか?」と尋ねると、その場合は構わないとのこと。
それは嬉しい計らいだ。
被災所で実際に聞いたところ、「今は支援物資が続々と届けられているので、食料や水はいらない。今、必要な物は、下着、靴下、乾電池、懐中電灯、ドライシャンプー(水のいらないシャンプーや石鹸)、生理用ショーツ(生理用品は十分届いている)、歯ブラシ、歯磨き粉、赤ちゃんのお尻ふき、ウェットティッシュ、 子供のオヤツ、とのこと。
それらを大量に買い物カゴに入れていく。
商品によっては品切れの物も多数ある。
子供のオヤツも、残っているのはグリコの「ビスコ」だけであった。
ビスコを段ボールの小箱(1ダース入り)で大人買いした。
レジに持って行くと、レジの女性から、
「どこに届けるのですか?」
と聞かれたため、石巻市であることを伝えると、
「私も石巻出身なんです!実家は何とか無事だったのですが、行方不明の友人がいて…」
と言うため、私が石巻市でボランティアで救助活動をしていることを伝えると、その女性は涙を流して感謝してくれた。
レジ打ちを進めるていると、レジの女性がビスコの小箱を取り出し、
「これは私に買わせて下さい。」
と言ってビスコだけ別会計にし、自分の財布から代金を支払ってくれた。
その女性の心に感動した。
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■2011/03/30 (水)
仙波王仁 被災地救助活動レポート7(5日目)(2) |
会計終了。
代金は10万円オーバー。
ドラッグストアでこんな額の買い物をしたのは、もちろん生まれて初めてである。
ボンゴに積み込み、石巻市に向かう。こういう時、荷物を大量に積める1BOXのボンゴで来て良かったと痛感する。ボンゴを提供してくれたマイミクのGoodSunに改めて感謝。
高速道路は途中の陸橋の修復が終わっていたため、ノンストップで石巻市に戻れた。
渡波地区の避難所へ行く。
被災者が本当に必要としている物だけを届けたため、被災者の方々から、
「これが欲しかったんです。本当にありがとうございます。」
と涙を流して喜ばれた。
別の避難所に行く。
被災者達は明るく振る舞い、一緒に写真を撮ろうと言ってくれた。
しかし、どう見てもカラ元気であり(当然である)、こちらを気遣って精一杯明るく振る舞ってくれている被災者達の心遣いに嬉しくもあり、悲しくもある。
中には、「夫を亡くしたので、写真はちょっと…」
と遠慮する人も…。
頑張って下さい、などと軽々しく言えないが、それしか言えない。
被災地では、海水魚(スズキ、ボラ、タコ、イカ等々)が津波によって海水と一緒に陸に流され、海水魚が田んぼの中を泳いでいるというシュールな光景も見かけ るが、震災直後は食糧不足であったため、田んぼの海水魚を捕まえて食べている人も散見された(現在は食料や水は十分に行き届いている)。
また、被災地では燃料不足のため、被災者達は横転した車(現地では横転した車には事欠かない)からガソリンを抜き取って確保するという光景も多数見られた(無論、これは生き残るためのやむを得ない行為であり、法的にも問題ない行為である)。
被災地では、震災に乗じた空き巣や、被災者に物資を高額で売りつける輩も出ている。
連中は被災者のこうした惨状を見ても尚そのような行為に及ぶのであるから、信じがたいものである。
被災者の人数が多く、購入した支援物資が残り少なくなったため、仙台に戻ってもう一度大量購入することにした。
明日からは、岩手県まで行って支援物資を提供して回る予定。
皆さんは、被災地のこうした現状を知り、エセ義援金募集団体に募金して彼らの私腹を肥やす手助けをするのではなく、本当に被災者の為になる行動を取って欲しい。
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■2011/03/28 (月)
産経新聞 28日朝刊 黙して語らぬ自衛隊員(1) |
何処も報道しない自衛隊員について28日の産経新聞朝刊は一面のほとんどを使い掲載した。
ここから転載
自衛隊の支援実績27日午前9時現在
派遣部隊 10万6400人
陸 7万人
海 1万5100人
空 2万1300人
人命救助 1万9200人
遺体収容 4150体
遺体搬送 486体
物資輸送 3150トン
炊き出しなど 98万食(約32万人分)
給水 1万1000トン
燃料 400キロリットル
入浴支援 22箇所で6万1000人
医官による診療 8870人
道路復旧 166キロ分
原発派遣 約500人、放水、除染、温度測定、撮影、患者輸送
「国民守る最後の砦」胸に
東日本大震災での自衛隊による被災者支援活動は「最後の砦」である。隊員はその重みを感じながら黙々と働くが、肉体的、精神的疲労は日ごとに増す。身内に犠牲者が出てもわが身を顧みず、被災地にとどまる隊員も多い。実績を声高に誇ることもなく、黙して語らぬ隊員の思いと労苦を隊員同士のメールや写真から検証した。(半沢尚久、《》はメールの文面)
「わが身を顧みず被災者第一」
《自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉が見つからない》
身内に被害が出た隊員も支援を続ける。
《被災地に来て12日目。風呂はまだ1回しか入れていない》《毎日、乾パンと缶メシと水だけ》
炊き出しで温かい汁ものの食事を被災者に提供しても隊員が口にするのは冷たいものばかりだ。写真は岩手県山田町で休憩時間に狭いトラックの中で膝詰めになり冷えたままの缶詰の食料を口に運ぶ隊員を写す。
22箇所で入浴支援も行なっているが、汗と泥にまみれた隊員は入浴もままならない。「わが身は顧みず、何事も被災者第一」の方針を貫く。
兵站や偵察といった自衛隊ならではのノウハウを生かし、役割も増している。集積所によっては滞りがちだった物資輸送の効率化に向け、自治体や運送会社を束ねるシステムを立ち上げた。孤立地域のニーズをきめ細かく把握する「御用聞き任務」も始めた。
《被災者の心細さを考えたら・・・。がんばる》
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■2011/03/28 (月)
産経新聞 28日朝刊 黙して語らぬ自衛隊員(2) |
「車座になって傷み共有」
《海には数メートルおきにご遺体が浮いている》《幼い亡骸を目にすると、わが子とダブってたまらない》
地震に津波の被害が重なった大震災。遺体収容も自衛隊の重要な任務のひとつで27日までに4150体を収容した。写真は宮城県山元町で冷たい水に膝までつかりながら遺体を囲み手を合わせる隊員を写し出す。
日常的に遺体を扱う警察官と違い、なれているわけではない。とりわけ海に流された遺体と対面するのはつらい作業だという。
《流木に挟まれ、両手をあげていた。最後まで救助を信じていたように・・・》
凄惨な現場は、隊員の心を消耗させ、無力感さえ抱かせかねない。そのために陸上自衛隊はメンタルヘルスを重視し、夜ごと隊員を10人ほどの班に分け、車座になって一日を振り返る時間をつくった。陸自隊員は「仲間と苦しみ、痛みを共有できれば気力がわいてくる」と打ち明ける。
「命がけ、米軍を動かした」
宮城県多賀城市の多賀城駐屯地では整然と並んだ陸自車両のタイヤが水に埋まった。車体には「災害派遣」の垂れ幕。地震発生を受け、出動しようとしていたところを津波に飲まれたのだ。いかに迅速に出動態勢をとるか。そんな訓練が徹底されている証しでもある。
大規模支援を買って出た米軍を鼓舞させたのも、そんな自衛隊員の姿だった。
《米軍は始めは様子見だったが、自衛隊が命をかけて任務を遂行する様を見て本気になった》
東京電力福島第1原子力発電所では被曝の恐怖に臆することもない。17日からの放水活動の口火を切ったのも自衛隊だった。直後に米軍が放射能被害管理などを専門とする部隊約450人派遣準備に入ったと表明したのは、米側が自衛隊の「本気度」を確信したからだといわれる。
ある隊員からこんなメールが届いた。
《自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる》《国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ。》今日も自衛隊員は被災者のそばにいる。
ここまで転載
涙が出て、ようやく打ち込んだ。産経新聞半沢記者有り難うございました。
災害派遣で地震発生の翌日12日未明から福島県いわき市に行っていた婿殿が、3日間の休暇で無事に帰ってきた。よく頑張ったと労ってやりたい。また涙が出てきた。
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