この季節は、例年ですとある程度暖かくなってきてもいいのですが、早朝はまだ氷点下になるくらいの寒さです。
今朝も真っ白く雪化粧した安達太良の上に、雲ひとつない「ほんとの空」が広がっています。
誰もいないロビーのソファーに座り、松渓苑のシンボルでもある推定300年以上の赤松の老木を見つめ、
安達太良から絶えず流れ落ちる池を眺め、105年の歴史を振り返っています。
私(あそ坊)が昭和27年にこの地に生まれ、
大学を卒業してから山形の上山温泉「日本の宿 古窯」さんに2年修行をさせて戴こうとお世話になり、
当時の女将さん(佐藤幸子様)に旅館業の基礎、ふすまの開け方、お辞儀の仕方などを事細かに教えて戴き、
今の私のサービスの基礎となるものが出来上がったのかも知れません。
ここ数年お会いすることはありませんが、福島県旅館組合の総会だったでしょうか
講師にお呼びして、私が郡山駅へ迎えに行かせて戴き、お会いして驚きました。
お世話になってから20年以上経っているのに、当時と全くお変わりなくお元気な姿に驚きました。
また、現社長佐藤信幸氏は、全国旅館衛生同業組合の会長の重職にあり、
連日原発放射能問題と東日本大地震の被災者救援のために全国を駆け回っていらっしゃるようです。
本当にその御尽力にはただただ頭が下がるばかりです。
津波で現在2万人以上の方が犠牲になっているようですので、心よりお見舞いを申し上げます。
これまでの日本の歴史上最大のマグニチュード9.0を記録し、福島県を中心とした旅館が大きな損傷を受け、
その上、福島原発の放射能汚染のために、これまでにない風評被害を含めて、
本当に厳しい状態に追い込まれています。
当館も、玄関の瓦が崩れ落ち、本館3階の6室の天井が全部落ち、
人気の檜大浴場「寿松の湯」、露天風呂「木野香」の男女合計4、貸切露天「あそ坊くんのあった恵湯」、
そして早蕨、楓、藤、桜の4室の露天風呂と全部で9箇所の檜の浴槽から温泉が漏れるようになってしまい、
部分修理が不可能で全部基礎からの工事が必要ということになってしまいました。
全国でも大変稀な酸性泉を安達太良山頂直下8キロの引き湯をしているために、
湯揉みがされ、肌に優しい温泉になり一度入浴されると病み付きになるほどに好評です。
さらにそのまろやかさと檜の温かさがより、心身ともにリフレッシュしているようでした。
約1ヶ月前には、パンフレットも新しいものにして、表紙は黄昏時の日本伝統の瓦の平屋建ての素敵な写真に変え、
ロビーも絨毯を新しくしておいでになった皆様にお茶を差し上げている炭が赤々と燃える炉と
湯気を噴出している鉄瓶から見た写真、8ページ目には四季折々の最新のお料理、
11ページにはようやく1年半になり、
エンジンがフル回転し始まった次女のわかば女将と女将のツーショットを入れて作成したばかりでした。
建設業者の方とデザイナーの方と2日かけて
館内の全客室、宴会場、大浴場を修繕するためにチェックを終えてから約30分後に大地震が起きました。
その後、銀行からこれから1年間の売り上げ計画、
利益計画さらには3年間の計画を合わせて提出して下さいということでした。
見積もりを取っても、いつ工事が始まれるか解らない状況での中ですので、
これには本当にお手上げでしたし、本当に大きなショックを受けました。
そうしている中で、巨大地震が発生したものですから、もうどうすることも出来ずに13日からフロントを2人
3日だけ出社してもらい、その他の社員は全員自宅待機にしてもらいました。
20日まで自宅待機をしてもらっている中、弁護士さんへ電話をし、19日に女将と二人で弁護士事務所を訪れ、
約5時間ほど細かく打ち合わせをする中で、今回の行動を決心することになりました。
そしてに全社員を21日に招集するように連絡しました。
20日には、三女が高校を卒業して就職することになっていましたので、女将が付き添いでいく予定でしたが、
急遽、次女に変わってもらい行動に移りました。
21日、14時に宴会場に全社員を集め、私がこれまでの経過報告と今後の予定を話し、
22日付けで全員解雇通告もさせて戴きました。
流石に辛いものが胸の中を駆け巡る感じで、私の後に女将からと、
そして5代目を目指して旅館に戻ってきたわかば女将が涙を浮かべながら話始めると、
ほとんどの社員の目には涙があふれて来ていたようでした。
最後には、お蔭様で社員全員が笑顔の中で終了することが出来ました。
本当にこの笑顔での会合は、本当に嬉しいものがありました。
そして、解雇当日、全社員が地震以来出ていなかった水道が使えるようになり、
それぞれのポジションごとに最後の片づけをしてもらいました。
その夜は、全社員が分散会をしていたようでした。
23日、朝8時に「任意整理」の張り紙を張り、「さあ、これからが勝負と。」気が引き締まる思いでした。
でも、債権者の方々(取引業者の方、銀行)には、心からお詫びをしなければという、
本当にご迷惑をかけてしまうなんとも言えない複雑な心境でした。
夕方から岳温泉内の債権者の皆様にご迷惑をおかけしたお詫びのご挨拶を女将と共にさせて戴きました。
風俗営業廃止届けや商工会議所、大口取引先を女将と回らせて戴きました。
いずれにしても、張り詰めてこれまで女将と二人で31年間
“やすらぎ”をお土産にして戴ける宿を目標にがむしゃらに、私生活を全く振り返る時間もなく、
多くのお客様、取引業者の方々にお世話になりながら、
「岳温泉に松渓苑あり」というまで何とか持って、来ることが出来ました。
創業以来105年、私で4代目でしたが、ご先祖様にも申し訳なく、
さらには今回、多額の債権でご迷惑をお掛け致しました取引引き業者社の皆様、
地元で一緒に岳温泉を盛り上げようと頑張ってきた観光協会、旅館組合の仲間、
さらには大手エージェント、
そして長く御送客を戴き、個人的にもお付き合いをさせてきて戴いた各地の旅行業者の皆様に
心からの御礼と感謝を申し上げます。
大地震の建物の崩壊、破損といまだに毎日福島原発の放射能の風評被害と、
融資の件で苦渋の決断をさせて戴いた次第です。
女将と娘といろいろと道を探り考えた結果であります。
この決断で、本当にとても大きな犠牲をお掛け致しました皆様には、
お伺いしてお詫びを申し上げたいところではございますが、
なにぶんいろいろな整理があり、時間的に無理な部分がございますので、
この文にてこれまでの御礼と感謝とまた今後お会いした時にもご指導を戴けますことを
心からお願い申し上げまして、私の廃業につきましてのご挨拶とさせて戴きます。
本当に心からのお詫びと御礼を申し上げ、ご挨拶とさせて戴きます。
ありがとうございました。
庭園の宿 松渓苑 佐藤俊夫
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松渓苑を応援して下さった皆様へ
松渓苑、若女将でございます。
この度は松渓苑の歴史に幕を閉じることになってしまい、お騒がせを致しまして大変申し訳ありませんでした。
このようなことになって、皆様から届きますお声から当館が愛されていた宿だったのだと強く感じており、
嬉しい気持ちの半面、私若女将も非常に残念に、そして皆様方には大変申し訳なく思っております。
今、松渓苑には特にNHKでの放送後
「これからどうするの? 」
と、全国各地の皆様からご心配のお声を頂戴しておりますがまだ詳細は決まっておりません。
ただ、NHKの番組の中では紹介されませんでしたが、親孝行を今まで出来なかった分。
これから、それをしていきたいと思っております。
旅館を辞めることにあたり、地域の皆様に多大なるご迷惑をおかけし、これは私の勝手な言い分ですが、
両親は旅館を廃業するまでの今日に至るまで、がむしゃらに休みなく働いてきました。
その背中を追って私は若女将業に邁進してきましたが、今、同じ立ち位置にいて思うのが
両親を休ませてあげたい。
そんな気持ちです。それが親孝行になるかは分かりませんし、
両親が休むなんてことは本来ならそんなこと許されないのかもしれません。
でも、二人の娘として。
跡継ぎだったはずの若女将として。
佐藤亮子として。
それが私の今後の予定であり私の夢です。
皆様からの温かいお声をたくさんの電話やメールで頂き、本当に嬉しく思います。
本当に本当にありがとうございます。
NHKでは、被災しているありのままを見せてしまい大変お見苦しかったと思います。
でも、旅館含めありのままを見て頂きたかったですし、私どもより辛く、
衣食住の何に関しても満たされない生活をされている被災者の方々もたくさんいらっしゃいます。
一部では、
他に服が無いのか?
ちゃんと化粧すれば良かったのに。
最後に着物を着てほしかった。
などのお声も実際頂きますが、私には着飾る余裕も時間も気持ちもありませんでした。
それが今の被災している現状なんだと思います。
そのことを同時に伝えられたらと思い、のぞみましたがそのことで
大変お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。
しかしながら
私が若女将として過ごした約一年半は、私の人生において間違いなく誇れる時間でした。
たくさんのお客様に出会えたこと、
最高のメンバーと仕事ができたこと、
両親と同じ時間を松渓苑で過ごせたこと。
そして最後の最後に温かい皆様にお会いできたこと。
そして、ここ庭園の宿松渓苑。
本当に26年の間で私に誇れる、かけがえのない大好きなものがたくさん増えました。
皆々様、本当に本当にありがとうございました。
東北、そして福島県に元気が戻ること、
日本全体が幸せになれることを祈りながら、
若女将としての最後のご挨拶と代えさせて頂きたいと思います。
庭園の宿松渓苑 若女将 佐藤亮子