At My Most Beautiful
1
真っ青な空に尾を引いて飛んでいく白い軌跡を見上げていた。
やっちまうかな、と思っていたら案の定やっちまった。小さな音のくせに、聞きたくもないのに耳に飛び込んで来やがるあの音。
あっさりと乾いた音を耳にした俺が振り返ったとき、全員の視線が「お前が行け、俺は知らねえ」と言っていた。俺は逃げ出したい気持ちで、帽子を目深にかぶると走り出した。
どうしてファールチップって、余計なくらいに遠くまで飛んでしまうんだろう。
ボールの飛んでいった方向へと走っていった。そうすると、木々の間から民家が見えた。この木に当たらずにどうしてすり抜けていってしまったんだ、と思うと自分の運のなさを嘆きたくなった。
まぁ、口うるさい監督がいなかったのがせめてもの救い? 不幸中の幸いって奴?
ちょっと背伸びして、塀の向こうを覗いてみた。窓ガラス、そして開いている穴。間違いない、ビンゴ。
もしも、これがやくざの家とかだったらどうしよう? そうでなくても、すっげー怖い人とかだったら、マジでブルーになっちまうなぁ。願わくばふつーの人で、優しい野球好きのおじいさんとかだったらベストだな。
と、そんな馬鹿げたことを考えながら、その家の玄関まで回った。正直、謝ったことにして、さっさと仲間のとこに帰ろうかなんて思ったりもしてしまったわけだけれども、それはあまりにも卑怯すぎる気がしたので、俺は意を決してドアホンのボタンを押した。
聞こえてきた声は、俺の予想に反して、柔らかい女の人の声だった。
*
きれいに片付いた玄関から中に通された。インターフォンに出た人は、ちょうど俺の母親よりも少し若いくらいの感じの人。優しそうな人だった。玄関に入ってすぐに帽子を取って頭を下げた。女の人は、特に怒ることもなく、ちょっと道を歩いていたら通り雨に遭った程度の感覚で受け入れてくれた。ここで俺はほっと一安心する。ガラスの弁償とかはどうするんだろう、とかそういうしょうもないところまで考えられるほど余裕が出てきた。
その女の人は俺をボールが入った部屋へ案内しながら、「どこの高校?」とか「野球部の人?」とか尋ねてきた。俺はその質問に訥々と答えながら、案内されるまま廊下を歩く。ボールを返してもらったら、早く戻ろう。そんなことを考えていた。
「ボールが入っちゃったのは娘の部屋なの」
女の人はそう言った。俺は「そうなんですか」とだけ返した。娘さんがいたのか。俺と同年代くらいかな。かわいいといいな。このおばさんだときっとかわいいだろうな。そんな馬鹿なことを考えながら歩いた。
「ユイちゃん、入るわよ」
一階の奥のドアで立ち止まった女の人が声を掛ける。中から「うん」と短い返事が聞こえた。どうやら娘さんはもう学校から帰っているらしい。でも、帰っているなら一緒に玄関まで出てきてもいいんじゃないかな、とか俺は思った。そして、ドアが開いた瞬間に理解した。
ベッド。その上にいる俺と同年代くらいの少女。いくら世間知らずのガキの俺でも、それがどういう意味かくらいわかる。一気に背筋に冷たいものが走った。なんてことをしちまったんだろう、とそのとき初めて思った。怒られたくないとか、そんなんじゃなくて、自分のやったことの大きさに初めて気がついた感じだった。こんなんだったら、昔の漫画に出てきたようなカミナリ親父にでも怒鳴られていた方がましだ、とまで思った。
けれども、その日はとことん思いもよらないことが起こる日だった。
「ねぇ、それって、本物の野球のボール?」
その少女はなぜかとてもうれしそうに俺に話しかけた。俺は「ん、あぁ」と、うまく声にならないうなり声みたいなのを喉の奥から出して頷いた。それが俺とユイの初めての会話だった。
*
ボールは、ちょうど俺の足下に転がっていた。俺は、面食らったままそれを拾い上げた。
「えっと……」
どうしていいかわからなかった。なんで、野球のボールが窓を割って飛び込んできたのに、この子はこんなにうれしそうなんだろう? まったくわけがわからない。他に視線を向けることも出来なくて、ただ拾ったボールを見つめている俺にも、横からユイが好奇心に満ちた視線を向けていることははっきりとわかった。
「あのさ……」
「うん?」
「よかったら、もっと間近で見てみるか、ボール」
我ながら馬鹿なことをやったと思う。俺はユイのベッドに近づくと、ユイのおなかのあたりにボールを持った手を差し出した。
「あっ……」
ユイが困った顔をするのと、おばさんが代わりにボールを受け取るのは同時だった。
「はい、ユイちゃん。ボール、見せてくれるって」
おばさんがユイの目の前にボールを持って行く。
あぁ、そうか、やっちまったんだ、俺。今日は本当に厄日だ。やることなすこと裏目ばかり。
ユイの両手は動かなかった。ボールを持つことも出来なかった。
あぁ、そんなにひどいんだ――と他人事のような感想を抱いた自分にちょっと腹が立った。
「へー、こんな縫い目になってんだー。へー」
そんな俺の気持ちなんてお構いなしに、ユイはとてもうれしそうだった。きらきらした目で、泥だらけのすすけたボールを見ていた。
「野球、好きなのか?」
なんとなく、そんなユイを見ていて、俺も少しだけ気が楽になって、尋ねてみた。
「うん。野球中継はよく見ているから。でも、本物のボールとかはまだ見たことないんだ、私」
いつからそうなったのかはわからない。生まれたときからなのか、それともある日突然事故にあったのか。ただ、少なくともユイは実際に野球を見る前に、この体になった。それだけはわかった。
どうしていいかわからなかった。俺と大して年も変わらないような女の子。ベッドの上で、両手を動かすことも出来ない女の子。
「ねぇ」
ユイが俺を見て声を掛ける。思い通りにならない体の中でも、まだ首より上は自分の意志で動かせることを知った。
「このボール、私の頬にすりつけて」
「え?」
何を言われたか理解できず、俺は問い返した。
「ほっぺただったら、感覚あるから。ボールってどんなのかな、って」
なんとも表現できない気分にさせられた。自分と同年代のベッドに寝たきりの女の子――そんなこと想像したことすらもなかったからだ。
「あぁ、これでいいのか」
おそるおそる、すすけたボールをユイの頬に当てた。ボールの皮の感触、縫い目の感触がわかるようにゆっくりと柔らかい頬にそって、ボールを動かした。
「うん。なるほどー。ほぉ」
ユイは一人で何かに納得しているみたいだった。テレビの中でしか見たことのないボールが、今目の前にあって、それに触れていることがうれしくて仕方ないみたいだった。
「よかったね、ユイちゃん」
「うん」
おばさんの言葉が、ぐさりと胸に刺さった。こんなこと、自分の部屋の窓ガラスが飛んできた野球ボールで割られるなんてこと、ふつーはよかったなんて絶対にいわねーよ。
「ありがと。もういいよ」
ユイにもういいと言われて、俺はボールをユイの頬から離した。
「ごめんなさいね。引き留めちゃって」
おばさんに謝られる。
なんでですか。なんで、窓ガラスを割った野球部員にあなたが謝るんですか。
どうしてお礼なんか言うんだ。野球のボールなんか間近に見たくらいで。俺なんか、毎日これをいやと言うほど見て、投げて、拾って――
「どうしたの?」
動けずに立ちすくむ俺を不思議そうにおばさんが見た。
んな、馬鹿げたことあるか。俺と同年代の女の子が、ボールなんかを見たくらいでよろこんでるなんて、そんなふざけた話があるか。
「このボール、やるよ」
気がつけば、そんなことを口走っていた。俺のものでもない、野球部のボールなのに。
「え、でも」
ユイはとまどったみたいだった。
「大丈夫だ。なんか、適当に理由つけるからさ、ボール見つからなかった理由」
俺は、何を言っているんだろう? あとで監督に怒られるのはわかりきっているのに。
自分のファールチップで窓ガラスを割った家に謝りに行って、それで終わり。それで終わりのはずなのに。
「なぁ」
「ん?」
「野球のバットって見たことあるか?」
ユイはきょとんとしていた。突然、俺が何を言い出したのか、理解していない様子だった。
「ううん。だって、ユイ、ボールも見たことないんだよ。バットだって、見たことないよ」
本当なら、ただここですれ違うだけだったはずなのに――
「よし。じゃあ、明日は本物のバットを俺が見せてやるよ」
本当なら、もう二度と会うこともないはずなのに、俺は次の約束を取り付けた。
「――うん」
しばらく間を置いてからユイが笑った瞬間、俺も同じように笑っていた。
たぶん、これが俺たちの始まりだった。
2
あれからやや時間がたってみてわかったことがある。それは、ユイの奴は俺の予想に反して、とても口が悪かったということだ。
「よっしゃー、クルーソ! 試合を盛り上げろー!」
「おい、馬鹿っ! 盛り上げちゃだめだろうが! ここは三者凡退じゃないと」
「えー、それじゃあつまんないよー」
本当につまらなさそうに言いやがる。
「……お前どっちのチーム応援してんだよ?」
「え? 別に私はどっちでもいいけど? ただ日向先輩が巨人応援しているなら、なら私は相手を応援しようかなーって」
「なんでそうなるんだよ、わけわかんねーよ」
俺は額に手を当てた。なんというか、俺たちの会話はいつもこんな感じだった。あれから、俺はちょくちょくユイのもとへ顔を出すようになっていた。
ユイと俺とはなぜか話が合った。野球の話とか、テレビの話とかで、俺たちは盛り上がった。クラスの女子たちとは野球の話で盛り上がることなんてなかったら、ちょっと新鮮だった。
そして、たまにプロ野球のデーゲームが中継されている時には、こうして二人で野球を見たりしていた。ちなみにそのときのテレビ画面では我らが守護神様がファーボールで無死の走者を出し、見事に最終回を盛り上げてくださっていた。
「それにベイスターズの方が星だからかわいいじゃないですか」
ぶーたれて言う。……女のセンス、マジでわからねえ。
ちなみにユイが敬意のかけらも感じられない敬語を使っているのは、俺が高校二年生だと言ったら、「じゃあ、私の一年先輩ですねっ」ということになったからだ。
「そーいえば、先輩」
「ん?」
ユイがテレビ画面から目線を俺に移した。
「先輩って、野球じゃどこのポジションなんですか?」
「俺? セカンドだけど」
と、俺が答えるやいなや、
「うわっ。ダサッ、地味っ!」
「な、なんだと、お前! 俺が苦労に苦労を重ねてつかみ取ったレギュラーポジションに文句あんのかよ!」
「えー、だってユイ、エースで四番がいい!」
一昔前のオロナミンCのCMか!
「あー、お前、セカンドの重要性がわかってねえな! 守備の要となるめっちゃ玄人好みのポジションなんだぞ!」
セカンド七番、文句あっか!
「地味なところが日向先輩にお似合いですね!」
「うるせえっつーの!」
満面の笑みで言いやがる、こいつめ。
「ねぇ、先輩」
「……なんだよ」
「甲子園とか、行けそう?」
「甲子園?」
「うん」
さっきまでが嘘みたいにユイの表情にふざけている色は見えない。
「……運がよければ、行けるかもしれない」
そう答えるのが精一杯だった。事実、そのときの俺たちの野球部は、県内でもそこそこ強くて、もしかしたら――帰り道の信号が全部青だった程度の幸運がいくつか重なったら、甲子園に行けるかもしれない可能性があった。
「じゃあ、甲子園に出たら、日向先輩も試合に出る?」
「そりゃ、レギュラーだから」
答える俺の声はだんだんと小さくなっていく。正直、自信がなかった。実際に、本当に甲子園が現実味を帯びて近づいてくると、気軽にその名前を口にすることが出来なくなってきていた。
「そっか。じゃあ、ユイ、日向先輩が野球しているところ、見られますね」
ユイは明るく笑って言った。俺はここにいるのに、県大会だって車で十五分程度の球場でやるのに、ユイはテレビを通してしか俺が野球をしているところを見られないのか――。
「俺が野球をしているところなんて、この間見せてやっただろ」
「えー。あんな携帯のムービーで日向先輩が素振りしているとこなんて、見てもぜんぜんつまんないですよ。ちっこいし、しょぼいし、みみっちいし」
「お前なぁ……」
こいつは本当に口が悪い。
一度、実際にバットを振っているところを見たい、と言われたのだが、こんな病室でバットを振るわけにも行かず。それで友達に携帯で俺の素振りをムービーで撮ってもらったところ、このようにぼろかすの評価をいただいたわけだ。
「そんなのだったら、テレビでプロ野球見ている方が楽しいじゃないですか」
人の素振りをそんなの呼ばわりとは。まぁ、確かにプロと比べりゃ見れたもんじゃないけどさ。
「しがない高校野球部の一部員とプロ選手を比較すんじゃねーよ。それに――」
見たいんだったら、いつでも見せてやるよ。俺が野球しているとこ――次の言葉が続けることができなかった。
「よしっ。じゃあ、お前には俺が甲子園でばっちりセカンドを守るところを見せてやるよ!」
それでいい。もともとユイに頼まれなくたって、俺は出るつもりだったんだから。
「テレビに出た俺があまりにかっこよすぎたからって、惚れるんじゃねーぞ」
「なっ」
ユイはおもしろおかしく顔を歪めて俺を見た。
「うっさいんじゃ、ボケー! だれが、お前なんかに惚れるか、コラァー!」
本当にこいつは口が悪い。
俺は適当にユイを流しつつ、甲子園に行くことと、そしてテレビ越しなんかじゃなくて、ちゃんとユイの目で、俺が野球しているところを見てもらう方法はないかと考えていた。
こんなに、近くにいるのだから。きっと――
3
友達の前では偉ぶっていても、女の子の誕生日に何を上げたらいいかなんて俺にはわからなかった。一人、街をうろちょろしてはあーでもない、こーでもない、と商店街のアーケードを行ったり来たり悩んでいた。
「あいついったい何が好きなんだよ……」
額に手を当てて考える。ユイの好きなもの――テレビでよく見ているのは野球とかサッカーとかプロレスとかのスポーツ系が多い。だからといって特定の球団のファンであるとかそういうこともないし(ただ単に人が派手に体を動かしているのを見るのが好きなだけ、みたいだ)、部屋にはぬいぐるみがあるから(しかしそれは恐竜、イノシシ、何か得体の知れないケセランパサランみたいな生き物という謎のチョイス)、ぬいぐるみがいいかとも思うのだが、男一人で買うにはいささか、っちゅうかむちゃくちゃ抵抗があるぞ。
「どーしろっつうんだよ、まったく」
なんでこんなことしているんだろ? ばからしい――と思ったけれども、おとなしく帰ることも出来なかった。
――そういえば、ユイちゃん。来週は誕生日よね。何か欲しいものはある?
髪をかき上げたまま、溜息を一つ。
なんで、自分はこんなことをしているんだろう? そりゃ、向こうのお母さんにはよくしてもらっているし、俺もちょくちょく遊びに行ったりはしているけどさ。だからといって、別にユイのために俺がこんなことをしてやる義理はないはずなのに。
――お母さん! いいよ、そんなの、ユイ、いいってば!
――え? でも、ユイちゃん。
――そんなの別にいいってば。ほら、ユイ、全然気にしてないよ!
おばさんに向かって必死に誕生日プレゼントを断っていたユイ。そんなユイが断りながら、俺を見た目。
「しゃあねえな」
襟を正して前を見る。大きく鼻から息を吐いて、気合いを入れる。見上げるのは絶好の野球日和の空だ。
我ながら、少しわざとらしすぎるか。
というわけで、一時間さんざんさまよった商店街に、再び俺は立ち向かうのであった。
*
小さなケーキだな、と思ったが、すぐに納得した。
おばさんと俺とユイ、の三人だけ。だったら、誕生日ケーキなんて余ってしまうよりも食べきってしまう方がいいだろうな。
「ユイちゃん、ケーキは苺が載っているところでいい?」
おばさんは俺の手のひらに乗るほどの丸いショートケーキにナイフを入れている。俺たちはユイのベッドのそばに集まっていた。
「え、あぁ、うん」
答えるユイは居心地が悪そうだった。
普段はおばさんとユイの二人だけで誕生日を祝っているのかな? だとしたら俺はもしかしたら邪魔者だったかもしれない。
俺は落ち着かない感じで、手を後ろで組んだり前に組み替えてみたりして突っ立っている。ただ、なんとなく、ユイとおばさんが二人だけで誕生日を祝っている光景を想像すると、何か胸が苦しくなるのもまた事実だった。
「先輩」
「ん?」
ユイがぽつりと口を開く。
「先輩、他に用事とかあって忙しいんだったら、別に無理してユイの誕生日祝ってくれなくてもいいんだよ」
あのときと同じだった。ユイがおばさんに誕生日の話を出されたときと同じ目。
「ユイちゃん」
おばさんにたしなめられて、ユイは黙り込んだ。
意地悪を言っているわけでも、すねているわけでもない目。なんだろう。胸がもやもやする。
悲しい。何が? よくわからないけど、うまく説明できないけど、これは悲しいことだ。
「無理なんてしてないさ。俺がお前の誕生日を祝いたいから、ここにいるんだよ」
俺は上手に笑えたつもりだ。だからお前も笑え。笑ってくれ。笑って、信じてくれ。
「でも――」
「へっ。ここで俺の方が先輩であるということをびしっと示してやろうと思ってな。俺をちゃんとあがめ奉り、俺の下であがくといいぜ」
わざとらしく、キザに。髪をかき上げて、片目を閉じて見せて。一番、ユイの嫌いな仕草――というか、突っ込んでくる仕草だ。
「なっ、なんだと、けんか売ってんのか、コラァー! それに、今日ユイ誕生日で日向先輩と同い年になるから、そんな偉そうな口は叩けないですよーだ!」
案の定というか、犬の条件反射というか、ユイはわなわなと唇をふるわせると聞き慣れた調子で食ってかかってきた。
「同い年って、たったの一ヶ月間だけだろ? 一ヶ月たったら、俺の方が先に一つ大人の階段を昇っちまうからなぁ」
「うっさい! 同い年は同い年何じゃーい!」
なおも悪態をつくユイをおばさんが止めた。けれども、ユイは不満そうに口をとがらせている。
それでいい。やっぱり、お前はそんな風にしてくれているのが一番いい。
「日向先輩」
「ん?」
ユイは口をとがらして俺から目をそらしたまま言う。
「そんなに自信たっぷりなら、よっぽど私が喜ぶようなもの持ってきてくれたんでしょうね?」
「え? あぁ、もちろんだぜ……」
失敗。自分で自分のハードル上げてどうすんだよ、俺。
仕方なしにごそごそと自分の鞄を漁る。正直、高校生が小遣いの範囲内で買うプレゼントだ。あまり期待はしてもらわないほうがありがたいんだけどな。
「お前、好きだろ?」
ちょうど俺の手のひらよりもちょっと大きいくらいの包みをユイはじっと見ている。中身はわからなくても、中身がどんなものであるかは、包んでいるビニール袋でわかるはずだ。
「お母さん」
ユイがおばさんに目配せする。おばさんは、どうしましょうと顔に書いて俺を見た。
「あ、俺が開けます」
さすがにおばさんに手間をかけるわけにはいかない。ぴりぴりとビニール袋を留めているテープを剥がす。中身を取り出すと、俺はちょっとぶっきらぼうにそれをユイの目の前に持って行った。
「ほらよ」
まともにユイの顔が見れない。もしも気に入らなかったらどうしようか。多分外していないとは思うんだけれども……。かぶってたりとかしねえだろうなぁ。……ほんと何で俺がこんなに不安な気持ちなってんだろ。わけわかんねー。
「あぁ! ガルデモの新譜じゃないっすかぁー!」
その不安ははじけるようなユイの声に一瞬でかき消された。
「え、あぁ。うん」
「おぉー! ありがとうございます、せんぱぁーい! やったー!」
横目でちらりとユイの顔を見る。うん。演技で喜んでいる振りをしているわけではなさそうだ。
「これ聴きたかったんだぁ! わぁー!」
なんか、喜ばれすぎていてこっちが恥ずかしくなるぞ。
「まぁ、お前がガルデモ好きなの、知ってたからなぁ」
音楽番組の話をするとき、よくガルデモの話題をユイは出していた。リアルタイムで見られないときは、録画までするらしい。俺自身はそんなに興味があるわけではなかったんだけど、ユイがあまりにも熱っぽく語るせいでメンバーの名前とパートを覚えてしまったほどだ。
「おかあさん、ほら、おかあさん!」
「よかったわね、ユイちゃん」
おばさんは優しい笑顔でユイに向かって頷くと、俺に唇の動きだけで「ありがとう」と言った。
「いや。別に、まぁ、そんな」
俺は照れて鼻を掻く。こんなに喜んでもらえるなんて、思わなかった。正直、今まで生きてきた中で、こんなに人から感謝されたことがあったかな。
「ユイ、覚えなきゃ」
CDのジャケット(ボーカルの岩沢がマイクに向かってシャウトしている写真だ)から視線を逸らさずにユイは言う。
体の動かないユイの数少ない楽しみの一つが歌うことだ。こいつは今でのガルデモの曲は全部空で歌える。おかげで俺もいくつかの曲の歌詞は暗記してしまった。
思い通りにならない体の中で、ユイから表情と声が奪われなかったことは、神様の慈悲として感謝すべきことなのだろうかな。――もっとも、そんな親切な神様ならユイをこんな目に遭わせるわけがないか。やっぱり感謝するのはやめておこう。
「ユイちゃん」
「ん? 何、おかあさん?」
「せっかくだから、日向君と写真撮ろうか。ね?」
おばさんはエプロンのポケットからデジカメを取り出した。
「えっと……」
ユイはどうしていいかわからないように俺を見る。どうやら決断は俺に任されてしまったらしい。なら、俺のやることは一つだ。
「いやぁ、ナイスタイミングっす! 撮りましょう撮りましょう!」
一人右手を天に突き上げて、ばかばかしいまでのテンションで盛り上げる。どうせ俺に出来ることなんてこれくらいなんだから、そこはきっちりやらせてもらわないとな。
「日向先輩とツーショットですかぁ」
「なんだよ、俺と一緒じゃ嫌なのかよ」
「んー、いや、そういうわけじゃないんですけど」
「んじゃあ、撮ろうぜ。せっかくだから、なんか面白いポーズでも決めてみっか!」
「面白いポーズですかぁ?」
「おう」
もしもユイが自分の体のことを気にして躊躇しているのだとしたら、俺はそんなのを認めない。意地でも、写真を撮ってやる。
「なんでもいいんですか?」
「おう。なんでもやってやんよ!」
びしっと親指を立てている今の俺の姿は決まっているはずだ。この姿を写真に撮ってもらいたいくらいだぜ。
「じゃあ、ユイ、ジャーマンスープレックスがいいですぅ!」
「おう。なんでも来い! ジャーマン、任せ――って、はぁ?」
ちょっと待て。俺は今何かを聞き間違えたのか?
「ジャーマンてまさかあのプロレス技じゃないよな?」
「プロレス技以外になんのジャーマンがあるんですか」
「いや、んで、お前の言うそのジャーマンっていうのは、こう後ろから腰をがっとつかんで頭からがつーんと決まったときのアーチが美しいアレじゃないよな?」
「そのアレです」
あぁ。やっぱりそのアレか……
「ってわけわかんねー! っちゅうか、俺が投げられる側なのかよ!」
「もちろんじゃないですか!」
予想の斜め四十五度から二回宙返り二回ひねりが加わったような予想外っぷりだった!
「そんなのの何が楽しいんだよ!」
「えー、だって、ジャーマンはユイのずっと憧れだったんですよ。ジャーマンスープレックスでテンカウントKO! かっこいいですぅ!」
夢見る乙女の瞳でなに暴力的な光景を妄想しているんだ。
「……せめて関節技にしねえか?」
「えー、だって関節技なんて地味じゃないですか」
「こんなベッドの上でジャーマンなんて出来ねえよ!」
ユイは唇をとがらす。
「ユイちゃん。あまり日向君を困らせたらだめよ」
おばさんにたしなめられて、ユイは渋々といった感じで、口を開いた。
「わかりましたぁ。じゃあ、百歩譲ってチョークスリーパーでいいですぅ」
「おう、そうしてくれ……」
はっきり言ってチョークスリーパーもどうかと思うが……。もう、とっくの昔に俺の正常な判断能力は麻痺していた。
「じゃあ、日向先輩はユイのチョークスリーパーでKO寸前って感じで!」
「あぁ、わかったぜ」
俺は疲れを隠さず、体を折るように頷く。本当にある意味でもうKO寸前だったりする。
「じゃあ、先輩こっちこっち」
「へいへい」
俺はユイの隣に腰をかける。チョークスリーパーをされるためには、ユイの隣に座らないといけない。そして、ユイの手を取る。
「こんな感じでいいか?」
ユイの右腕を俺の首に回して、ユイの左腕の肘を曲げて右手首を挟み込む。そして左手を俺の後頭部につければチョークスリーパーの完成だ。
「うんうん」
頭の向こうからユイの満足そうな声が聞こえる。でも、力の入らない両腕はだらんとしていて、お世辞にも『絞めている』ようには見えない。俺はチョークスリーパーから逃れるようなふりをして、自分の両腕でユイの両腕を支える。
ちゃんと体温はあるのに、この両腕は動かない――
「先輩、先輩、じゃあ今にも死にそうな顔で白目向いて泡吹いてください!」
「出来るか!」
アホな要求を一蹴する。ユイは「それじゃあつまらないよー」と不満そうだ。悪いけど、俺はそこまで器用じゃねえ。
「じゃあ、写真を撮るわよ」
おばさんの声。俺はぎゅっと、出来る限りの力でユイの両腕で自分の首を絞める。端から見ていたら、まるで抱きしめられているように見えるんじゃないだろうかな。動かない両腕のゼロの力で。
俺は精一杯顔をしかめた。頭の中でかっこわるい悪役をイメージして、大げさに顔をしかめて見せた。動くことのない重みに、まともな表情をしていられる自信がなかった。――俺はそこまで器用じゃねえ。
それが初めての記念写真だった。
4
一度、ベッドに寝転がって、首から下を動かさないようにしてみた。唯一動く首を左右に振った。視界に入るのは天井と壁と殺風景で代わり映えすることのない自分の部屋。
ただ寝転がっているだけなのに、このまま体が動かないと思うと、急に怖くなってきた。このまま何時間も何十時間も何日も続いていく空白の時間、暗闇の底に落とされてそこを這い回っているような気分になった。もしも、だ。ここで俺が風邪とか引いたらどうなるんだろう? 動けないんだよな? 地震が起こったとしても、火事が起こったとしても、俺は動けないままずっとここにいるんだな?
胸が苦しくなった。不安が俺の体を取り巻いて、目をそらしても、息のかかる位の距離にずっといる。俺の首に手をかけている。怖い。暗い。まるで海の底に沈んでいるようだった。
*
「外に出ないか、ですかぁ?」
「あぁ」
俺の提案にユイはぽかんとした表情を返した。どうやら相当意外だったみたいだ。
「俺が野球しているところを一回見てみたいんだろ? だったら、近所の公園で見せてやんよ」
「いや、ユイは野球を生で見たいだけで、別に先輩が見たい訳じゃないんですけど」
こんにゃろう。カチンと来たが、ここでケンカしたらいつもと変わらん。俺は先輩だからな。その分のよゆーという奴を見せつけてやる必要がある。
「ま、いいじゃねえか。せっかく今日はいい天気だしさ」
指さした窓の外ではカンカンと日が照っている。日曜日。今日の練習は午後二時で終わって、そっから俺は慌ててユイの家へとやって来た。急いで着替えて、ペットボトルのお茶を飲む時間も惜しんで自転車をぶっ飛ばしてきたおかげか、現在時刻は午後三時。太陽はまださんさんと照っている。
「別に外、出られない訳じゃないんだろ?」
「そうですけど……」
ユイの歯切れが悪い。口が悪いしむちゃくちゃな要求をしでかす奴だが、こういうときにこいつはよく遠慮をする。なんとなく俺はこいつのこの遠慮が腹立たしくて、いらいらして、そしてちょっと悲しくなる。
「大丈夫だって。俺だって車いすぐらい押せるから」
おばさんの介護を手伝うのに、ちょっと室内で押したくらいの経験だが、別に外へ出ても変わらないだろう、車いすの押し方なんて。
「でもお母さん、今日は用事があって家から出られないって……」
「大丈夫、大丈夫。遠くに行く訳じゃねえし、特にお前が何をするわけでもないんだからさ」
俺は、たぶん焦っている。時間がなかった。甲子園の予選を目前にして、野球部の練習に半日でも休みがあるのは珍しい。日の出ているうちにユイのところへ来れる機会なんて、こいつを逃せば次はいつになるかわからない。
「行こうぜ。別に何の問題もありゃしねえよ」
「……うん」
ユイは少しはにかんだ顔で頷いた。
*
太陽はぎらつくぐらいに照っている。絶好の野球日和だった。俺は、こんな風に晴れた青空に白いボールが飛んでいくのを見るのが大好きだった。
「よーし。まずはキャッチボール――と、相手がいねえから無理だな。壁当てでもすっか」
俺は公園のコンクリートの壁に向かって構える。深呼吸してからセットポジションをとり、第一球。セカンドの俺がこんなピッチャーみたいなことをするのはずいぶんと久しぶりだったけど、思ったよりフォームは様になっていたと思う。
パァンと乾いた音を立てて、ボールがまっすぐに跳ね返ってくる。
「どうだ? これがストレートだぜ」
額の汗をぬぐってユイを見る。
「えー、壁に向かって投げているだけじゃないですかぁ」
ユイは不満そうだ。
「無茶言うなよ」
ユイに言い返しつつも、内心では後悔していた。誰か、知り合いを一人連れてくればよかったかなぁ。コンクリートの壁にボールが当たる音なんかじゃなくて、ちゃんとミットに収まるあの乾いた音を聞いてもらいたかった。あと、二人いれば、どっちかがボールを投げてどっちかが打つということも出来たかもしれない。完全に焦りすぎだった。
家を出るときのおばさんの言葉がふと頭に浮かんだ。
――え? でも、今日は外は気温が高くて暑いわよ? 大丈夫?
俺は「大丈夫っすよ」といつもの表情でへらへら笑って、ユイの車いすを押した。不安そうに俺の背中を見送ったおばさんの表情が、なぜかはっきりと残っている。
俺は首を振った。考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。ほんのちょっとだけだ。体を動かしているのは俺だし、ユイに無理をさせているわけでもない。
「よし。じゃあ、次は変化球投げてやるよ。カーブな。しっかり見ておけよ」
ストライクゾーンと決めたコンクリートブロックに照準を合わせる。セットポジション。でも、声をかけた俺にユイの反応はない。片足を上げた状態で、俺は横目でユイを見た。
「ユイ!」
その瞬間、俺は叫んでいた。真っ赤な顔、荒い息づかい。熱に浮かされるように、ユイはぐったりと地面に顔を向けていた。
*
「すみませんでした」
病院の処置室前。廊下に置かれた長いすに俺とおばさんは並んで座っていた。あの後、俺は慌てて車いすを押してユイの家へ。そこからおばさんが病院に連絡を取って、念のためということで救急車でユイは病院まで運ばれてきた。
家族でもない俺が付いていくのもどうかと思ったけど、そのまま帰るなんてことは出来なかったし、謝りたかった。
「ユイの体はね」
おばさんが穏やかな調子で口を開く。
「事故で体温を調節する機能がうまく働かなくなっているから、今日みたいな暑い日に外へ出ると簡単に熱中症になってしまったりするの。でも、今回のは症状もだいぶ軽いから、すぐに元気になると思うわよ」
穏やかだった。すごく穏やかだった。てっきり俺は怒られるものだと思っていたのに。
「……あの、俺のこと、怒らないんですか? 俺のせいで、ユイは」
おばさんは穏やかな表情を崩さない。むしろ俺を見つめる瞳には優しささえ感じるほどだった。
「ちょうどあなたたちくらいの頃って、いっぱい失敗するでしょ。無鉄砲なくらいにいろんなことに挑戦して」
え? と俺は思う。
「そうやって、ちょっと無茶をしたり、人とぶつかったり、恋をしたり失恋したりして、いろんな壁にぶつかりながら、成長していくの。ちょうど日向君くらいの年の頃の子は。けど、ユイには――あの子はそんなことを体験することが出来ないと思っていたから」
おばさんはそう言って言葉を切る。
「ユイが事故にあった直後はね、学校のお友達がたくさんお見舞いに来てくれたの。でも、その瞬間からユイとその子たちの関係は対等なお友達じゃなくて、事故にあった子とそれをお見舞いに来た子になっちゃってて。ユイも小さいなりにわかっていたから、遠慮しちゃって。だから、ユイが小学校を卒業するくらいの年になる頃には、みんないなくなっちゃって」
わかる。ユイの俺に対する態度――何かあるたびに、あいつは自分が俺に迷惑をかけていないかばかりを気にしていた。そして、それはあいつが本当に小さい頃から続いてきたんだろう。
「でもね、最近ユイが言うの。ちょっとうれしそうに」
「え?」
おばさんは俺の顔を見つめる。
「日向君はユイと普通にケンカしてくれる、って――」
ぎゅっと俺はふとももを握りしめる。
アホだ。本当にあいつは――アホな奴だ。
*
「よう」
「あ、先輩」
処置室で横たわるユイは俺の顔を見てほにゃりという感じで笑う。いつものような元気さとまではいかないけれども、体調はずいぶんよくなっているみたいだった。
「ごめんな。俺のせいで」
俺は頭を下げる。
「いいよ。別に。先輩は悪くないよ。ほら、ユイの体がこんなのだからさ」
責めてくれる方がよかった。こんな風に寂しそうに笑うくらいなら。俺がユイの腕に刺さった点滴を見ると、ユイは「お医者さんはいつもおおげさなんだよ」と冗談っぽく言った。
「体調は、大丈夫なのか?」
「あ、うん。もちろん。みんな大げさなんだ。ちょっと暑かったからぼーっとしたくらいで」
そんなわけない。いくら世間知らずの俺だって、俺みたいな普通の人間にとってはたいしたことないことでも、ユイにとっては命取りになることくらいわかる。そう思ってから、自分のことを『普通の人間』などと考えてしまった自分に腹が立った。なんだよ、それ。普通の人間って。じゃあ、ユイはいったい何なんだ? なんだよ、そんなふざけたこと――だったら、俺も変わらねえじゃねえか。
「先輩」
「なんだよ?」
「わかったでしょ?」
「何が?」
「ユイはさ」
ユイはふっと頬をゆるめる。
「普通の子とは違うから。だから、こんな風に先輩にも迷惑を掛けちゃうんだ。わかったでしょ」
違う。うまく言葉に出来ないけれども、間違いなく違う。なぁ、本当につらくて、悲しいことってなんだろう――?
「だからさ、先輩も無理して私に付き合う必要はないんだよ? 部活とか忙しいでしょ。ユイのこと、かわいそうだとか、そう思ってんならさ、ユイは全然平気だから。別に先輩が来てくれなくても大丈夫」
また、昔に戻るだけだから――ユイはそう続けた。
昔に戻るだけって、どういうことだよ? 時間は流れているのに。みんな動いているのに。
「なぁ」
「……なんですか?」
「今日は見せられなかったけどさ。俺が野球やっているところ、見てくれよ。俺、絶対にお前に見て欲しいんだ」
「でも、ユイ――」
俺はユイの言葉を遮る。反論なんかさせない。
「甲子園、行く。絶対に行くから。約束するぜ。んで、絶対にテレビに出るよ。絶対にテレビに出るからさ、絶対に見てくれよ」
俺は小指をユイに差し出す。
「約束だ」
「――先輩、ユイ、指切りできないよ?」
「声だけでいいさ。だから、約束するよ。俺の本気、見せてやっから」
指切りをするなんて、何年ぶりだろう。そして、絶対に破れない約束は、生まれて初めてだった。
5
目の先にある景色がぐらぐらと揺れている。太陽の光は目に突き刺さるようで、だから俺は帽子を目深にかぶった。
「セカンド!」
「しゃーす!」
監督の声に反応して、走り出す。まっすぐに地を這ってくるゴロ。グローブを垂直に、まるで地面に壁のように立てて、ボールは包み込むように捕る。そして、素早く一塁へと送球――
「おおし。次、サード!」
ファーストミットに収まったボールを見届けて、俺は小さくガッツポーズを決めた。
県大会はもう目の前に迫っている。後はもう、がむしゃらにやるだけだ。
*
「っちゅうわけでよ、結構調子がいいんだ、最近」
俺は右手でボールを投げる真似をしてみせる。
「へぇー。そいつはよかったですねえ」
しかし、ユイはなんかどうでもよさそうな気のない返事だった。
「なんだよ、お前、ノリが悪いなぁ」
「えー。だって、別に先輩が練習でファインプレーしたなんて話、どうでもいいですしっ」
この野郎、一番いい笑顔で言いやがって。
「お前、人がせっかく、お前が寂しがっているだろう、って思って、久々に忙しい練習の合間に顔を出したっていうのによ」
俺は当てつけに深くため息をついて、両肩を持ち上げる。
ただ、県大会を前にして忙しかったのは事実で、実際にユイのところへこうして話しに来たのは一週間ぶりくらいだった。
「別に、私、先輩の顔見なくても大丈夫ですけど」
「そーかよ」
俺は「へいへい」と相づちを打ちながら、体を大きく反らして天井を見上げる。本当にユイの奴は口が悪い。何かと、俺に対してはこういう冷たい態度を取る。――もっとも、そのたびになんかすごくうれしそうな顔をしているので、俺も本気で怒る気にはなれないのだけれども。
「けどよ、俺、マジで調子がいいんだぜ」
俺はぐっと右拳を握りしめる。
実際に、そうだった。練習に対する集中力も今まで感じたことの無いほどのレベルだった。先輩や監督からも「気合いが入っているな」とほめられている。今までとは違って、はっきりとした目標がある。俺には、絶対に甲子園に行かなきゃならない理由がある。
「先輩」
「ん?」
「甲子園に行くのって、そんなに難しいんですか?」
ユイが不安そうに尋ねる。
「まぁ、そうだな……」
俺は頭の中でトーナメントの対戦表を思い浮かべる。二回戦までは格下だ。おそらくは問題なく行けるだろう。むしろ、いかにこちらのダメージを少なくして勝つかがポイントになる。ただ、そこからは――シード校。
「三回戦。そこが、山場になると思う」
前年度県大会準優勝の高校だ。うちもそこそこ強いとはいえ、確実に勝てる保証はない。むしろ、十回やって四回勝てればいい方だろう。でも、勝てないわけじゃない。
「じゃあ、先輩。こんなところで遊んでないで、休むか練習するかしないと」
また、いつもの目。ユイの誕生日を祝おうとしたとき、あのときと同じ目。自分はただ人の迷惑になるだけ――そんな目。
「大丈夫だって。いつまでも馬鹿みたいに練習していたら体壊すし、疲れたからって寝てたらリズム狂わせて逆によくないから、これでいいんだよ」
「でも……」
「任せなって。俺の本気がどれだけすげえか、見せてやんよ」
俺は笑う。いや、頬の筋肉を動かして、笑っているみたいな表情を作っている。本当は、不安だった。県大会が近づくほどに、夜眠るのが辛くなってきていた。少しずつ、「こんはなずじゃないのに」が降り積もっていく。
*
時間が圧縮して流されたみたいに、その日はやって来た。
俺の高校は一回戦、二回戦を危なげなく突破し、迎えた三回戦。天気は目を閉じたくなるほどの晴れだった。
ダグアウトからピッチング練習をする相手ピッチャーを見る。今までは、まるで違う。緊張感。じりじりと舌の根にまとわりつく感触を感じながら、俺は落ち着きなく組んだ両手の指を組み替える。
――ここを超えれば
誰も言葉は出さなかったが、重苦しい空気が支配している。わざとらしくふざける奴もいたけど、空間にぽっかりと穴が空くだけだった。
プレイボール。ここで俺たちは切って落とされる。このままどこへ落ちるのかはわからない。
*
緊張感に先に耐えきれなくなったのは、相手の方だった。
お互い無得点のまま膠着状態が続いた七回。ついに試合が動く。相手ピッチャーのフォアボール。ワンアウト一塁。続く送りバント。キャッチャー、一塁へ悪送球。ワンアウト、一三塁。
ダグアウトから俺たちは必死に声援を送った。次は四番バッター。相手チームの伝令が走る。キャッチャーが構えを大きく左へ逸らした。敬遠。四番の先輩がバットを放り捨てて、一塁へと走る。
ワンアウト、満塁。一点が、大きく試合の流れを分ける。一点でも取ろうとする俺たち、ダブルプレーを狙う相手。
五番バッターが打席に入る。もう敬遠はない。俺は両手を合わせて祈る。
――ユイ
頼むよ、神様。それくらい譲歩してくれてもいいだろう? なぁ、神様。
カァンと乾いた音がした。俺は合わせていた両手を解いて、空を見上げる。白い軌跡が空を進んでいく。けど、飛距離は足りない。――それでも。
「タッチアップ!」
三塁コーチャーが叫んだ。三塁ランナーがホームへ全力疾走する。返ってきたボールは、中継地点で止まる。
ツーアウト、一二塁、一対ゼロ。
「おっしゃあー!」
俺は思わず両手を突き上げた叫んだ。思わず隣いた奴と抱き合う。そいつの背中を何度も叩きながら思う。――一点、一点が入った。
続く六番バッター。ここで追加点がどうしても欲しい。俺たちは息をのんで、打席を見守る。ファール、ファール。緊張で体が硬くなっているのが、ダグアウトから見ている俺でもわかった。しかし、それは相手ピッチャーも同じ事だった。
「フォアボール!」
高らかに審判が告げる。相手のピッチャーは帽子を脱いで汗をぬぐった。緊張と混乱で制球が定まらない。ツーアウト、満塁。ここでたたみ掛けられれば、試合は決まる。
「日向ぁ! なにやってんだ、次はお前だろう!」
「は、はい!」
監督に叱られて、俺は慌てて飛び出した。緊張の余り、自分の打順を忘れていた。七番、セカンド――
帽子のつばをつまんで、審判に謝った後、バッターボックスに入る。両手が震える。呼吸が荒い。誰か、代わって欲しいとすら思った。
一球目、ボールは外角低めに外れる。俺はバットを振らずに立っている。
じりじりと、太陽が指を焼いていくような感触がする。乱れたコントロールだ。ボールがどこへ飛んでくるのか予測がつかない。
頭の中を思考がぐるぐると回る。打つべきか? それとも相手が崩れるままに押し出しフォアボールを狙うべきか。
ひとりぼっちだ。誰も助けてくれない。
――ユイ
「ボール!」
ここで一本ヒットを打てば変わる。一気に決められる。
――ユイ
ぐっと、俺はグリップを握りしめる。
打つんだ。逃げるな。絶対に逃げるな。
「ボール」
ノースリー。明らかに空気が変わる。俺が圧倒的に有利になった。俺には後二球もある。相手にはもう一つもない。落ち着いてフォアボールを狙えばいい。試合終盤、この緊迫した投手戦で押し出しが相手に与える精神的ダメージは計り知れない。一気に決められる。
――でも、ユイ
俺は、押し出しなんかじゃなくて、かっこよくヒットを打ちたかった。今日帰って一番にお前に自慢してやりたかった。そして、お前に笑って欲しかった。
俺はバットを振っていた。体の軸はぶれて、隅の方で、文字通り当たっただけの感触がした。
*
そこから先はほとんど生きた心地がしなかった。
たったの一点を二回の間だけ守る――その作業が果てしなく遠く思える。
――あのとき俺が馬鹿なことをしなければ
そんなことばかりを何度も考える。
おとなしく押し出しフォアボールを選んでいればよかったものを、俺は明らかなボール球に手を出してファーストゴロ。チャンスをつぶした。誰も何も言わなかったけれども、刺すような視線を感じた。
ピンチを何とか乗り切ったピッチャーは、そこはさすが強豪校とでもいうべきか、そこから何とか持ち直し、結局九回まで俺たちは追加点を奪う事が出来なかった。
そして九回裏。俺はセカンドの守備位置に陣取りながら、自分のところにボールが来ないことを祈る。俺自身はさっきの打席で崩れたバランスをまだ引きずっている。両手両足がちぐはぐに動くみたいだ。
「ライト!」
カァン、と大きく上がった打球は、大きな山を描いてゆっくりと外野へ飛んでいく。
「おっしゃあ!」
「うし!」
仲間たちの歓声が聞こえる。これで二本連続外野フライ。ツーアウト。後一人。
――大丈夫だ。いける
俺は自分に何度も言い聞かせる。次は九番バッター。本日ノーヒット。よっぽどのことがない限り抑えられるはずだ。
気が抜けた音を出して、打球は三塁線を転がった。サードが素早く捕球し、ファーストに投げる。これでアウト、のはずだった。ボールは大きく背伸びしたファーストの、十センチ上を通り過ぎていった。
悪送球、ランナーはセカンドへ。
突如、グラウンドに黒い空気が立ちこめるのを感じた。空気が、じりじりと喉の奥を焼く。バランスが崩れている。
「しまっていこー!」
キャッチャーが叫ぶ。
「うぉおす!」
俺たちも声の限り叫び返す。負けられないんだ。俺は、負けられないんだ。
一番バッター。初球を、打たれる。球はライナーでショートへ。ショート真正面で受ける。――しかし、ボールを落とした。慌てて拾おうとするも、もたつく。二塁に釘差しになっていたランナーがこの隙に三塁へ全力疾走。その動きに慌てたショートは、思わずボールを三塁へ投げる。もたついた分、崩れた体勢で投げたボールは山なりにサードのミットへ。セーフ。そして、全力疾走していたバッターは二塁へ。ファイルダースチョイス……。
歯車が、少しずつ狂い始めていた。
全員がマウンドに集まる。しかし、こんな時にかけるべき言葉が見当たらない。そう、誰も今まで、ここまで緊張感に溢れた場面に出くわしたことはなかったからだ。
「しまっていこー!」
「うーす!」
結局、作戦も何もないまま、俺たちは叫んだ。
冷静に考えろ。冷静になれ。後一人。たったの後一人なんだ。
打席に入った二番バッター。うちのエースは、これが最後とばかりに、炎天下で削られた最後の体力を全てぶつけるがごとく全力投球する。一球目、内角低め、ストライク。二球目、外角高め、ボール。三球目、ど真ん中にカーブ、空振り。
いける。気迫で完全に押している。
そして、四球目。内角をえぐる速球に、相手は完全に体勢を崩された。ボールが、高く空へ舞い上がる。
「セカン!」
自分が呼ばれたことを理解するのにタイムラグがあった。俺は慌てて構える。
視界の端でセカンドランナーが走るのが見えた。エンドラン。
――やめろ
頭の中をかき乱すな。俺は空に浮かぶボールを見つけようとする。
――絶対にテレビで俺の野球している姿、見せてやっからな
本当は甲子園まで行かなくても、県大会の終盤は地元のテレビで映る。
だめだ。何を考えているんだ、俺。
――このボールを落としたらどうなるんだろう?
やめろ。考えるな、集中しろ。
――ここで試合に勝ったら、ユイは喜んでくれるかな。
やめろ。やめるんだ。あぁ、違う。どうやって、どうやってフライは捕るんだった? 落下地点はどうやって見極める? 左手はどう動かす? 右手は?
やめろ。考えるな。やめろ。
――もし、ここで落としたら、ユイはもう二度と俺に笑いかけてくれなくなるのかな?
一瞬、視界が真っ白になった。
後ろで、ボールのはねる音が聞こえた。
6
目の前の風景が白い。頭の中に霧がかかっているみたいで、まだ試合が終わったことも、夢かどうかわからない。
何度も、もしかしたら悪夢だったのかもしれない、と思った。けれども、握りしめた手のひらには、はっきりと汗の感触があって、ロッカールームの安いプラスチックのベンチは石みたいに堅い。
視線が、上げられない。誰も、俺を責めるようなことは言わなかった。でも、誰も俺に話しかけても来なかった。監督からもたった一言「今日はもういい」と言われただけ。
何をやっているんだろう? 最後の最後、小学生でも捕れるイージーなフライを後ろに落として。エンドランをかけていた三塁ランナーと二塁ランナーは、ショートの必死のバックホームもむなしく、無事生還。ゲームセット。九回二死からの逆転劇、さよならエラー。
誰かどっかに引っ張っていってくれねえかな。ここにはもういられないんだ。でも、足が動かないのさ。立ち上がって、誰かと視線が合うのが怖いんだよ。このまま何も言わずに消え去りたいんだよ。
ロッカールームから一人、また一人と人の気配が消えていく。俺はただ、ここに座っている。もうすぐ、一人になれる。
「おい、日向」
声をかけられた。意外だった。声に怒りの調子はない。
顔を上げる。にやりと笑う先輩の顔が視界に入った。
――なんで、こんな風に笑っているんだろう?
ぼんやりとした頭でも、それはおかしいと思った。この三年の先輩は――お世辞にもまじめに野球をやっているとは言い難くて、三年でもあまりまじめに練習しないから補欠だ。この甲子園予選大会でも一回も試合に出ていないはず。そして、いろいろとよくない噂を聞く。野球部にいるのは、先生たちに目をつけられなくするためのカモフラージュだと誰かが言っているのを聞いた。
「……なんですか?」
「辛かっただろう。お前よお」
先輩は俺の肩に手を置く。辛かっただろう――その一言が、なぜかうれしい。
「でも、俺のせいで――」
「気にすんなって。しゃあねえよ。誰だって緊張でがちがちになっちまうこともあるだろうぜ。それが偶然お前だっただけだ。運が悪かっただけなんだよ」
「はぁ」
「ひでえよなぁ、あいつら。それなのに全部責任をお前に押しつけてなぁ。あんな奴ら仲間じゃねえよ」
先輩は俺の隣に座ると、肩を組んできた。
「お前が落ち込む必要なんかねえんだよ。そうだろ? 失敗は誰にだってあるからよぉ」
なんだろう? 俺は、なぐさめられているのか? 先輩は、俺を恨んでない、って言ってくれているのか?
「……でも、俺のせいで負けたのは事実っす」
「だぁかぁら、お前のせいじゃねえって!」
先輩は俺の背中を乱暴に叩く。一瞬、息が止まった。
「なんだよ、お前。そんな落ち込むなって。ちゃんと家に帰れるか? 今日はちゃんと眠れそうか? え?」
「そんなの……無理っすよ」
「よし。……じゃあ、お前にいいものをやるよ」
先輩はポケットから、薬のような包みを一つ出した。
「……なんすか、それ?」
「頭んなかがすっきりする薬だよ」
「それって」
「大丈夫だってぇ! 俺さ、ちょっといろいろストレスで不眠でよぉ。んで、医者行ってクスリもらってんの。これさえ使えば、いやなことは忘れて、今日はぐっすり眠れるぜ」
「いやなこと……忘れる」
俺は、ゆっくりとクスリに手を伸ばす。
あぁ、わかっているさ。こいつがやばいことくらい。でも、今の俺に何があるっつうんだよ。二年間、必死に取り組んでいた野球はこのざまだ。明日、どんな顔して野球部に顔を出すっていうんだ。もう居場所なんかない。誰も、俺を許さない。
――ユイ
あぁ、ごめんな。甲子園で俺の姿をテレビで見せてやる、なんて言ったくせに、この様だ。地区予選で、決定機に凡退、そして小学生でもやらないようなさよならエラー。
嘘つきだよなぁ、俺。お前に笑って欲しいなんて言ってんのにさ、こんだけがっかりさせるようなことねえよな。俺、この失敗をお前に笑って話せる自信がねえよ。きっと、楽しい話になんかなりゃしねえよ。俺は、お前との約束を破ったんだ。それだけなんだ。
「あぁ」
俺は手につかんだ包みをくしゃりと握りしめる。
「このクスリが気に入ったら、いつでも俺のところに来い。いっぱい、もらってるからよぉ」
先輩が俺の背中を叩いて立ち上がり、ロッカールームから出て行く。俺は、一人残された。
――どうでもいい。あぁ、本当に、どうでもいいよな。
*
どれくらいの時間が経ったかわからないけど、俺はロッカールームの椅子から立ち上がった。もう、外には誰もいないだろう。
バスはもう発車したのかな? あんな空間にはいられないから、どうでもいいけど。
ロッカールームのドアを開く。
終わりだ。これでもう、みんな終わり。
歓声が、コンクリートの壁の向こうから聞こえた。どうやら、次の試合は盛り上がっているらしい。もう、俺には関係ないけど。
湿気を帯びた空気がまとわりつく。俺の夏は終わったんだ。もう、さっさと気温は下がっちまえよ。
誰もいない暗いコンクリートの下。俺の足音だけが、響く。終わったんだ。全て。
「あ、やっと出てきた」
声が聞こえた。こんなところで絶対に聞くはずのない声。
頭の中に雷鳴みたいに響く。まるで死んだようになっていた俺の体に電流が走る。
どういうことだよ? 絶対にありえねえよ?
俺はゆっくりと、振り返る。
「……ユイ」
そこにいたのは車いすに乗ったユイだった。見間違うはずもない。間違いなくユイだった。
「お前、どうして、こんなところに……」
見慣れない服を着て、日差しよけだろうか白い帽子を被っている。
「お母さんに頼んで、連れてきてもらったんだ」
ユイは、笑う。
「で、先輩の学校の先生に訊いたら、控え室はここで、ちょっとしたらあいつも出てくるっていう話だったのに、先輩出てくるの遅すぎなんですよ」
「遅すぎって、いや、それ以前にお前――」
あの公園での出来事を思い出す。体温調節がうまく出来ないユイの体にとっては、直接の日差しはないとはいえ、空調も効いていないこんな球場の廊下で待つことは負担になるはずだ。
「お前、大丈夫なのかよ!」
慌ててユイの状態を確認する。顔が赤い。あのときと同じだ。額にもうっすら汗が浮かんでいる。馬鹿野郎が。こんなところで、待っているからだ。
「おばさんは、おばさんは、どこにいるんだよ!」
「……お母さんには、先輩と二人で話がしたいからって行って、ちょっと離れてもらってる」
何を馬鹿なことを言っていやがるんだ。自分の体のことを理解していないわけがないだろう。
「とにかく、早く、医務室、いやどこでもいいから空調の効いた場所へ行くぞ!」
俺はユイの車いすを押すべく歩み寄る。
「先輩」
「何だよ!」
「かっこよかったですよ」
ユイの言葉に、俺の時間が止まる。頭の中、今日の記憶が奔流する。喉の奥にざらついた感覚。全身が粟立つ。
「……なわけねーだろ」
「ううん。かっこよかったですよ」
「何言ってんだよ。俺は、チャンスをつぶして、最後にさよならエラーをかまして……俺のせいでこの試合負けたようなもんじゃねえか。どこが、どこが――」
「先輩だけのせいじゃないですよ。誰かがもう一本ヒット打っていたら勝っていたかもしれないじゃないですか」
「そんなもしもの話をしてもしかたがねえだろ。俺のせいで負けたのは、はっきりとした事実なんだからさ」
そうなんだ。勝負の世界は、そうなんだ。
「今日の試合、先輩が難しい試合になるかもしれない、って言ってたから、ユイ、お母さんに無理を言って、先輩の応援に来たんです。先輩がユニフォームを着て、グローブを持って、バットを振っている姿が見られて、すごいなって」
――ユイ
「でも、もしかしたら、ユイが見に来たせいで負けちゃったのかもしれないね。ほら、ユイって、運がよくないから。だから、ユイのせいだったら、ごめん――」
「そんなわけねえだろ!」
両拳を握りしめて、俺は叫んでいた。
「お前のせいなわけがねえだろ! 負けたのは俺の責任だ! そんなの認めねえよ……。神様が、もしもそう決めていたとしても、俺は絶対に認めねえよ」
「先輩……」
あぁ、ちくしょう。情けねえ。どうしようもなく、情けねえよ、かっこわりーよ、俺。
「先輩……泣いてるんですか? ほら、あの、元気出してくださいよ」
なんて俺は大馬鹿なんだ。今の今まで、なんて思っていた? まるで自分が世界で一番不幸みたいに思い込んで、俺はいったい何をやっているんだ!
「ユイ……。ありがとうな」
「どうしたんですか……。なんか素直な先輩って、気持ち悪いですよ」
「……それを言うなら、お前だって同じだろ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑う。
「あー、先輩の今のその顔、全然見られたもんじゃないですよ」
「うるせーよ」
手に持ったクスリの袋を握りつぶす。俺には、こんなものはいらない。どれだけ痛くても辛くても、ユイと一緒に泣いたり笑ったりできることは、手放したくないんだ。そして、その先で、いつかこいつを本当の笑顔にしてやりたい。
「ユイ」
「なんですか?」
「次は、最高にかっこいい、俺を見せてやんよ」
「あまり期待せずに待っていますね」
相変わらず――口が悪い奴だ。
7
公園のベンチに腰掛けて、空を見上げる。まだ半袖のシャツだけれども、汗はかかない。つまり、夏は終わった。あれだけ熱かった俺の夏は終わった。
「日向くん」
「なんすか?」
俺の隣に腰掛けたおばさんが俺に話しかける。
「野球部辞めたって、本当なの?」
「……ええ」
遠慮がちな調子のおばさんに俺は素っ気なく答える。
あれから一ヶ月、俺は野球部に退部届を出した。
「あれだけ甲子園に行きたがっていたのに? 日向くんは高校二年生だから、もう一年あるんでしょう?」
あの頃は、俺が毎日のようにユイに甲子園の話をしていたから、当然、おかあさんもこの話は知っている。
「やっぱり、日向くんのエラーで負けちゃったことを気にしているの?」
エラー、か。
今となっては意識的に思い出さないようにすることは出来るようになったけど、ふとした瞬間、たとえば風呂とかベッドに入った瞬間とか、気が緩んだときに今でもあのときのことを思い出す。他にも何かあったはずなのに、思い出すのはあの一瞬の出来事だけ。
でも――
「そりゃ、気にしてない、って言ったら嘘になっちゃいますけど……でも野球部やめたんは、それが理由じゃないんです」
おばさんは少し驚いた顔で俺を見た。
「他に、野球よりもやりたいことが見つかったから、だから野球部辞めたんすよ」
手に持ったボールを小さく上に投げる。そういえば、ここ一ヶ月はまともにバットを振った記憶すらないな。
「いい天気すね。いかにも秋って感じで、暑くも寒くもなくて」
落ちてきたボールを右手で掴む。真っ青な空に、白い球の軌跡が残る。
「日向くんが後悔していないなら、それでいいけど……」
「いやぁ」
どうやら俺が自暴自棄になって野球部を辞めたんじゃないか、と心配してもらっていたらしい。まぁ、当然だろうな。実際に、俺一人だったら、間違いなくそうなっていたと思うし。ただ、そうならなかったのは――
「あぁ、先輩! なにそこでまったりさぼっているんですか!」
うるさい奴だ。別にいーじゃねえか、ベンチに座ってひなたぼっこしてたって。こんだけ気持ちのいい天気なんだからさ。
「今日はいい天気だからな。のんびりひなたぼっこだ」
「えー、ユイつまんないよー。じゃあ、先輩。あそこの噴水に向かって頭からダイブとかしてみてください!」
「って、あの池水引いてて、コンクリートむき出しじゃねえかよ! 別の意味で、俺が噴水になっちまうわ!」
ユイは、ぶー、と口をとがらせる。相変わらず、とんでもないことを言い出す奴だ。
「ユイちゃん、日向くんを困らせちゃだめでしょ」
おばさんがユイに注意をすると、ユイは素直に「はーい」と言った。
……なんだ、俺とのこの差。
「ごめんなさいね、日向くん」
「いや、いいっすよ。慣れてますから」
俺の視界の車いすに乗ったユイの姿が映る。日差しよけの白い膝掛けと帽子をして、ユイは首を動かして辺りの風景を見ている。
秋になって、気温が落ち着いたということで、俺とおばさんはユイを連れてよく散歩に出るようになった。この気候なら、ユイの体にかかる負担も少ないだろうと。ちなみに、おばさんがこっそり「前はユイは外へ出るのをいやがっていたのに、最近よく外へ出たがるのはきっと日向くんのおかげね」と教えてくれたが、本当にそうなのかはよくわからない。ただ――ユイが外へ出る、ということはいいことなんだろうな、とは思う。
「口の悪い子でごめんなさいね、日向くん。あの子、すぐテレビの真似とかしちゃって」
「いいすよ。もう慣れっこっす」
ユイの口が悪いのも、とんでもない要求を俺に突きつけてくることも、みんな――慣れた。ユイと会っての数ヶ月、本当に濃い時間を過ごしてきたと思う。
「そう。よかった」
おばさんは両手を膝の上に置いて足を正す。ユイはじーと空にある雲を見上げている。
「ユイに対してね」
おばさんがぽつりと話し始めた。
「優しくしてくれる人はいっぱいいるの。そう、本当にたくさん。でも、それはユイがかわいそうな子だからって、だから優しくしてあげなくちゃって。私に対してもそういう風に励ましてくれる人たちはたくさんいるの。けれどね、私にとっては全然違うのよ。私はただ自分の娘が――ユイがかわいくて仕方がないだけ。ただそれだけ」
おばさんが見つめるユイの横顔を俺も見つめる。ユイは幸せそうに柔らかい秋の日差しの中にいた。きっと、こんな風にユイが外へ出られる時間は一年の中でも、限られているのだろう。だから、この瞬間をこんなにも幸せそうに。
「ユイのことをかわいそうだなんて同情しなくてもいいから、ただユイのことをかわいいって思ってくれる人がもっとたくさんいてくれたらなって、思うのよ――」
風が吹いた。ユイの白い帽子が空に舞う。俺は帽子を拾うべく立ち上がる。
「大丈夫っすよ。少なくとも俺は――あいつのことそう思っていますから」
そう言葉を置いて、俺は走り出す。早く帽子を取ってやらないと、あいつにどんな文句を言われるか、わかったもんじゃないからな。
*
インターネットって奴はつくづくすげえと思った。まさか検索したら本当にこんなサイトがヒットするとは思わなかった。図書館のパソコンルームで必要な情報をノートにメモすると、俺はその文字をボールペンの先で叩く。
さぁ、後戻りは出来ないぞ、と自分に言い聞かせる。
携帯電話のフリップを開いて、ホームページに書いてあったメールアドレスを入力。簡単に自己紹介の文章を打って、真ん中の送信ボタンへ親指を伸ばす。
緊張する。けど、やると決めたんだ。場違いかもしれないし、ガラじゃないかもしれないけど、やる。そのために野球部も辞めた。
目を閉じて送信ボタンを押した。これでもう、後戻りは出来ない、と。
用事が済んだので、俺は図書館のパソコンルームから出る。図書館って閑散としているものだと思っていたけど、意外と人が多い。俺と同年代くらいの、どうやら受験生たちが勉強をしているようだ。もしかしたら浪人生とかも結構混じっているのかもしれないな、と思う。
「あ、そこ空きました?」
そのうちの受験生一人に声を掛けられた。
「え。空いた?」
「パソコン」
俺と同い年くらいの男はパソコンを指さす。
「あぁ、俺はもう用が済んだから、使ってくれたらいいぜ」
「ありがとう」
赤っぽい髪で身長は俺くらいの男。なんともなしにそいつが手に持っていた教科書を見てみた。……医学部対策とか書いてある。どうやら俺とは別次元で生きている奴らしい。本当に場違いだな、俺はここでは。
「おーい」
「ん?」
男が俺の背中を不意に叩いた。
「ボールペン、忘れてるぞ」
「あ、わりぃ。さんきゅー」
俺が忘れていたボールペンをそいつは渡してくれた。別次元の存在だと思っていたけど、意外と話すといいやつだったりするのかもしれない、とか思ったりした。
*
ここでいいよな、と独り言を言いながら、何度も印刷した地図と目の前の景色を見比べる。
間違いない、この高校だ。
あの日、図書館でメールを送ったら、すぐに返事が返ってきた。しかし、その返信ってのがまた無愛想で、待ち合わせの日付と時刻、そして『にて待つ』の一言しかなかった。……果たし状かよ。
とても不安になったが、逃げても仕方がない。そう自分に言い聞かせて、俺はここまでやってきたわけである。
「もっとちゃんとしたとこにしといたほうがよかったかなぁ」
それでも不安なものは不安だ! 世間にはそーゆー専門学校とかもあるというのに、何を日和って俺は学生ボランティアグループなんかを選んでしまったのだろうか! しかも、なんか知れば知るほど、変な集団な気がする。
「ま、泣き言言ってもしゃあねえし、何かあったとしても死にはしないだろうよ」
そうつぶやいて、校門をくぐる。
ホームページに載っていた情報を頼りに、校内を歩く。よその学校に来る、というのは、野球部の練習試合以来久々だ。この高校は、確かあまり野球部は強くなくて、俺はよく知らないけど、校庭では野球部らしき連中が練習をしている声が聞こえる。そうすると、必然的に野球部時代を思い出してしまう。
楽しかったな――そう、素直に思った。この古い校舎で野球を楽しんでいる音を聞いたせいかもしれない。確かに辛いこともあったけど、でも楽しいことも多かった。俺は間違いなく、あの一瞬、必死にボールを追いかけることに生きる全てを費やしていたんだ。
旧校舎の階段を上る。三階の一番端っこの部屋。元校長室、にそこはあるらしい。
階段を上りながら、考えた。あの日、俺にクスリを渡してきた先輩のこと。あのあと先輩は夜の繁華街をぶらついていたところを警察に補導されて、そのまま捕まってしまったらしい。俺はあの後、野球部に近寄らなかったから、あの先輩と顔を合わすこともなかったけど、正直、知ってしまった俺が因縁をつけられることくらいは覚悟していた。けど、実際は先輩はまるでそんなことがなかったかのように振る舞っていて、ある日突然補導されていなくなった。
先輩は本当は寂しかっただけで、あの日俺に声を掛けてきたのも、もしかしたら止めて欲しかったからじゃないか、と今さらながら思ったりすることがある。それが本当に正しいのかどうかわからないけど。
かなしいことが多い。そして、どうしようもないことばかりだ。
思い出を踏み越えながら、階段を上りきり、廊下の突き当たりへと進んだ。高校生主体のボランティアサークルには少々不釣り合いな立派な扉。校長室(元)の表示。
俺はゆっくりと深呼吸して、ドアをノックする。
それにしてもSSSって、どっからどうみてもボランティアサークルのネーミングじゃねえよな、と肝心な事に気がついたのは、ドアをノックしてしまった後だった。
8
ドアを開けた先はいかにも校長室……といった感じの場所だった。今となっては意味があるのかどうかわからないが、歴代の校長たちの写真なんてのも飾られている。そして、その奥のど真ん中に置かれたでかい机。俺に背中を向けて座っている一人の人影。
「あなたが新入りくんね」
やけに落ち着き払った声で言うと、そいつはくるりと椅子をまわして俺に顔を向けた。ショートカットの快活そうなイメージの子。かわいいかどうかで言ったら、かなりかわいい、という部類に入るだろうと思う。しかしながら、そいつはいきなり「ふーん」とか言いながら、俺の姿をつま先から頭の先までなめ回すように見やがった。
「なんかあんまりぱっとしない感じだけど、ま、いいか」
「って、それ初対面でいきなり言う台詞かよ!」
思わずつっこむ。っていうか、なんなんだよ、こいつは。すげーえらそうに椅子にふんぞり返って座っているし。
「一応、私がこのサークルの代表の仲村ゆり、よろしくね。あぁ、サークルのみんなは、私のことゆりっぺとか下の名前で呼んでるから、あなたもそう呼んでくれたらいいわよ。仲村さん、なんて呼ばれても反応に困るし」
俺のことなどお構いなしに、一気に話を進めやがる。この独特の気安さというか、なんだろうか、これは……。
「さっそく新入りくんをうちのメンバーに紹介しようかと思うんだけど」
なんだ? なんか、俺の意志なんか無関係にどんどん話が進んでねえか?
「いや、あの、ちょ」
俺は見学に来ただけで、まだ入るとは決めていないと言おうとしたときだった。
「ゆり、ちょっといいか?」
慌てふためく俺の後ろでドアが開き、男の声が聞こえた。俺は、その男の顔を振り返る。
「あぁ、音無くん。ちょうどいいところに来てくれたわ」
ゆりが音無と呼んだ男、そいつの顔には見覚えがあった。えっと、確か……
「あ、お前、この間図書館で会った!」
「ん? ひょっとしてあのパソコン室で?」
音無ってよばれた奴は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに思い出してくれたらしい。
「そーそー。お前にボールペン届けてもらったんだよな」
「あぁ……、そういえばそうだったなぁ。って、ゆり、新入りっていうのは?」
音無は俺を指さして、ゆりに確認を取る。ゆりは音無に向かってこくんと頷いた。
「あなたたち知り合いだったの?」
ゆりは少し驚いた顔で音無に尋ねる。
「あぁ、この間図書館でちょっと」
「ふーん。ま、それならなおさら都合がいいわ。音無くん、彼を一通りうちのメンバーに紹介してあげて」
「あぁ、いいよ。わかった」
音無は鷹揚に頷くと、行こうか、と俺に合図を送る。
「俺は別にいいけどさ。っていうか、お前用事あって、ここに来たんじゃねえの? それはいいのか?」
「あぁ、別に急ぎじゃないから問題ない」
音無はぽんと俺の肩を叩く。
なんというか、医学部志望なんかしているから、俺とは別世界の住人かと思っていたけど、意外と話しやすいもんだな。
「んじゃあ、ちょっと行ってくる」
「よろしくねー」
ゆりの声を背中に受けて、俺と音無は再び廊下へ出るのだった。
*
ぺたぺたと足音を鳴らしながら、音無と並んで廊下を歩く。
「そういえば、名前、なんつうんだ?」
「名前?」
あぁ、そういえばゆりの奴、俺の紹介すらしなかったな。今思い出せば。
「さすがに新入りくんじゃあ、呼びにくいだろうし、お前もいやだろ?」
「確かに。言えてるぜ。俺は日向。日向秀樹」
「俺は音無結弦。結ぶっていう字に弦って書いて、ゆずるって読むんだ」
「変わった名前だな」
「まあな」
音無は少し照れくさそうに笑う。
「ま、そういうわけで、よろしく」
「おう」
俺と音無は立ち止まって握手を交わす。なんというか、こういう初めての場所でこんな風に話せる相手が見つかったというのは大変心強い。
「あのさ……」
「なんだ?」
「一つ、聞いてもいいか?」
「ん、あぁ」
「お前さ、どういう理由でこのボランティアサークルに入ろうって思ったんだ?」
「あぁ」
音無は歩きながら天井を見上げて、少し考えるような仕草をした。
「俺はさ――なんていうか、人の役に立ちたい、人を助けたいって思ってさ。今の俺なんか、ただの学生で無力だけど、それでも何か出来るんじゃないか、って」
思わずため息が出た。なんというか、立派すぎる。まぶしい。俺なんかとはやっぱり住む世界が違うんだな。
「どうした?」
「いや、なんでもねえよ」
やっぱりすごく場違いなところへ来てしまったのかもしれない。俺みたいにいーかげんな奴が来るような場所じゃないんだろうな。ものすごくいい加減で不純な理由でこのサークルに参加している奴とかいねえかなぁ……。
「おい、音無!」
いきなり男の怒鳴り声が耳を突き抜けた。
驚いて声のした方を振り返ってみれば、俺たちにモップを突きつける一人の男。……って、なんでモップ?
「こいつかぁ、ゆりっぺの言っていた新入りっていうのは?」
モップを肩に担いで、俺の顔をじろじろと見てくる男。なんだ、こいつは?
「こいつは野田。うちのサークルのメンバーだ。……一応」
音無がちょっと戸惑い気味に紹介する。いや、っていうかまじで、こいつもそうなの?
「まぁ、こいつは、その、なんつーか、うん……簡単に一言で紹介すると、アホだ」
「って、簡単すぎるだろ!」
しかも、的を得ているというのがまた。
「おい、新入り」
「なんだよ」
野田は片方の頬を持ち上げて、顔を歪ませながら、俺をしたから見上げてくる。モップを持って。
「お前に一つだけ訊いておく」
「だから、なんだよ」
「お前がこの戦線に参加したのはゆりっぺ目当てか!」
「はぁ?」
思わず気の抜けた声が出ちまった。っていうか戦線って……恋の戦線?
「いいから答えろ。返答いかんによっては俺は貴様をたたきのめす!」
「いや、全然それは関係ないけど」
初対面だし。
「……本当だな?」
「本当」
野田はしばらくうさんくさそうに俺を見ていたが、やがてモップの先を床に落とすと、
「まぁ、いいだろう」
こいつ、アホだ。
「……なぁ、一つ訊いていいか?」
「なんだ、新入り? 先に言っておくが、ゆりっぺのことなら教えてやらん」
ゆりっぺの『ゆ』の字も出してねえだろ、アホ。
「お前がこのサークルにいる理由って?」
野田は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに元の調子に戻り、
「ふっ。決まっているだろう」
得意げに髪をかき上げ(多分、本人はかっこいいつもりらしい)、野田は胸を張って答える。
「一分一秒でも長くゆりっぺのそばにいるためだ!」
清々しいまでに不純だった。
*
彗星のように現れたアホを一人やり過ごし、俺は音無に案内されて、一階の空き教室にやってきた。
「さっきのゆりがいた元校長室はミーティングルームみたいな感じで、実際の作業はこうやって空き教室を使っていることが多いんだ」
と案内する音無に続いて、俺は教室の中に入る。
そこには数人の高校生(だと思う)の姿があった。
「音無さん、彼が例の新入りですか?」
その中の一人、眼鏡を掛けた男が立ち上がって音無に話しかける。
「あぁ、そうだ」
「日向っていいます。よろしくお願いしマッス」
俺はぺこりと頭を下げる。どうもかたくるしい挨拶は苦手だ。
「私は高松といいます。こちらこそよろしくお願いします。一応、このサークルについては私の方が先輩ですので、わからないことがあったらなんでも遠慮無く訊いてください」
「……なんでも、訊いていいんすか?」
「ええ。なんでも」
俺は思わず聞き返した。高松はかちゃりと眼鏡の位置を直す。
「どんなことでも?」
「ええ。どんな些細なことでも遠慮無く」
「じゃあ」
お言葉に甘えて、初めて見たときから、気になって気になってしょうがないことを――
「……なんで上半身裸なんだ?」
ぴたりと高松の動きが止まる。
「……作業すると汗をかくからに、決まっているじゃないですか」
時間が止まったみたいに身動きを一切せずに高松は答える。
「いや、汗とかかくなら、むしろシャツを着て終わったら着替えたりする方がいいと思うんだけどさ」
「……ちっ」
え、ちょ、今、俺から目をそらしてめっちゃ舌打ちしなかったか!
それから高松は低い声で「では」とだけ言ってどっかにいってしまった。いったい何なんだ?
「まぁ、高松の奴は見ての通りな感じだ」
「あぁ、とても言葉で表現できる気がしねえよ」
と、高松が去った後で、今度はやけに大柄な男が近づいていた。
「新入りか?」
糸みたいに細い目で俺を見る。
「あぁ」
「日向っていうんだ。よろしく」
竹下五段に軽く頭を下げて自己紹介する。
「彼は竹下五段。柔道の選手で、俺たちは敬意を込めて竹下五段って呼んでいる」
「よろしく」
竹下五段は俺に握手を求めてきた。俺もそれに応える。すごく大きくて分厚い手で、驚いた。
「ちなみにさ」
「ん、なんだ?」
「竹下五段はなんでボランティアサークルに参加しようと思ったんだ?」
竹下五段は顎に手を当てて考える仕草をした。
「まぁ、なんていうか、武道というのはただ力があればいいというものではなくて、精神力も必要だからな。それを鍛えるために、俺はこうしてこのサークルを手伝ってもらわしている」
「竹下五段は力仕事ですごく頼りになるんだ」
音無がフォローを入れる。
「あーなるほど」
「ま、そんなところだ。よろしくな」
竹下五段は俺の肩を叩くと、教室の隅の方へと向かう。
「あ、ちなみに今なにやってんだ?」
去ろうとする竹下五段の背中に声を掛けた。
「今か?」
竹下五段は足を止めて、俺を振り返る。
「今は、ダンスの練習をしている」
おい、精神力を鍛えるっていうのはどうした。
「あぁ、ついでだから紹介するよ」
音無が教室の隅の方を指さす。そこにいるのはバンダナをしたよくわからない男。華麗なブレイクダンスを決めている。……なぜかボランティアサークルで。
「あいつの名前はTK」
「って、日本人か!」
思わず全力でつっこんでしまった。
「いや、俺たちにもあいつがどういうやつかよくわからないんだ。ただ本人がTKっていうもんだから、TKって呼んでる」
「そんな奴を入れるなよ……」
あきれ半分に肩を落とす。どーなってんだ、この組織は。
「んで、あそこの隅にいる女の子が椎名」
「あぁ」
なんか教室の隅に一人腕を組んで立っている女の子がいる。顔立ちはまぁかわいらしいのだが……ここの連中の例に漏れず変な雰囲気だ。
「ああやって三十分に一回くらい口を開いて『あさはかなり』としか言わないけど、別にここにいるのがいやなわけじゃないから」
「って、まともな奴はいねえのかよ! ここは!」
思わず大声で叫んでしまう。
「うるさいですよ。静かにしてください」
下の方から俺たちを注意する声が聞こえた。そちらに視線を移すと、ノートパソコンを膝に抱えた眼鏡の男が一人。
「あぁ、こいつは竹山。見ての通り、パソコンとかが得意なやつだ」
「どうも竹山です。それから私のことはクライスト――」
「日向だ。よろしく」
「よろしく。そしてあなたも私のことはクライス――」
「あ、音無くん。彼が新しい人?」
と、今度はいかにもふつーな感じの、その、なんというか、ふつー以外の表現が思いつかないほどふつーな奴が話しかけてきた。
「あぁ、そうだ」
「へー。あ、僕、大山っていうんだ。よろしくね」
「俺、日向。よろしく」
なんというか、ふつー地味人畜無害を絵に描いたような男である。大山。個性というものが感じられない。大山。
「おう、そいつが新入りか」
そして今度はなんか棒っきれを片手に持ったすごい人相の悪い奴がやって来た。
「そうだよ。日向くんっていうんだって。彼は藤巻くん」
大山が俺をそいつに紹介する。
「へー。なんかいまいちぱっとしねえ野郎だな」
へらへらしながら俺を見る。ちんぴらくさいやつだ。お前には言われたくない。
そもそもなんでこんな奴がボランティアサークルにいるんだ?
「なぁ」
「んだよ」
「お前らなんでこのボランティアサークルに参加しようと思ったんだ?」
大山と藤巻に訊いてみる。
「僕はその……ボランティアした経験があるって言ったら、その後のバイトの面接とか就職の面接で有利かなーって」
ちょっと照れながら応える大山。……悲しいぐらいにふつーの理由だ。
「けっ。なんでいちいち新入りにそんなことを教えてやらなきゃいけねーんだよ」
藤巻の方はまじめに答える気はないらしい。なんかむかつく奴だな。
「藤巻くんは、友達が欲しいから、このサークルに参加したんだよね」
大山の一言。藤巻、固まる。
「あ、ちょ、大山、てめえ、何馬鹿なことを言って――。っていうか新入り、生暖かい目線で俺を見るんじゃねえ!」
くっ。視界がかすむ。何も言えねえ。何も言えねえよ。
ぎゃあぎゃあ騒ぎながらどっかへ行く大山と藤巻を見送り、音無は俺を振り返った。
「これでだいたいうちの連中は紹介できたかな」
「ちょっと待ってください、音無さん!」
と、ここでちょっと待ったコール。と同時になんか走ってきた。
「はぁはぁ。こいつが新入りですね、音無さん」
息を切らしてこっちまで来たそいつは、音無に確認を取る。
「あぁ。そうだけど」
「ふっ。そうか、貴様が新入りか」
なんかすげー態度がでかい。っていうか、音無と俺とで態度が違いすぎね?
「いいか。お前に一つだけ訊いておく」
「なんだよ」
「お前がこのサークルに参加したのは音無さん目当てか!」
「はぁ?」
っていうか、なんかデジャブ。
「んなわけねえだろ。ほとんど初対面だ」
「ほとんど、だと? どういうことだ?」
「日向と俺は前に図書館で偶然会ってるんだ」
音無がフォローを入れる。
「な。ひどいですよ、音無さん! 僕の目の届かないところで、こんな奴と出会っているなんて」
「ちょっと待て。てめえこそいきなり初対面で、こんな奴呼ばわりはねえじゃねえか?」
ちょっとむかついたので、けんか腰に俺は詰め寄る。
「ふん。音無さんに愚民が近づくのを僕はよしとしない!」
……まともな奴はいなのか、このサークル。
「それはそうと、貴様、ここの面々になぜサークルに入ったかを訊いているそうだな」
「あぁ。それがどうした?」
「ふっ。なら、僕にも訊いてみたまえ!」
「いや、やめとく」
すごくろくでもない答えが返ってきそうだし。
「な、なんだと! 無礼な奴め!」
「まぁ、やめろってお前ら」
音無が仲裁に入る。
「けど、音無さん、こいつが」
「お前も用事があるんだろ? そいつを優先しろ」
そいつは不服そうに音無を見ていたが、やがてあきらめたように
「音無さんがそう言うのなら、仕方がないですね……。おい、新入り、音無さんに迷惑をかけるんじゃないぞ!」
となぜか最後まで俺には敵対心むき出しで(しかもえらそう)去っていった。
「音無、お前もなんか苦労してるんだな」
「まあな。根は悪い奴じゃないと思うだが……多分。あ、ちなみに今の奴は直井っていうんだ」
「覚えたくなくても、忘れられそーにもねえ」
ほんとろくなのがいないよな、ここ。
*
あらかた紹介し終わったということで、俺は音無にくっついて最初の元校長室へと向かう。
「しっかし、濃い連中ばっかだよな。このサークル」
俺の言葉に、音無は苦笑いしている。まぁ、ふつーはそうするしかないわな。
それでも、このいかれた連中の中でせめて音無一人だけでもまともであってくれてよかったぜ。つくづくそー思う。
「結弦、その人は?」
階段を上がって、廊下の曲がり角を曲がったところで声を掛けられた。女の声だ。振り返ると、小柄な女の子が一人俺たちを見ている。
「あぁ、この間ゆりが話していただろ? 俺たちの新しい仲間だよ」
音無が女に答える。若干、声のトーンが違うような気がするのは気のせいだろうか。
「そう」
しかし、反応が薄い。
「あぁ、紹介し忘れていた。こいつは立華奏」
音無に紹介されたかなでちゃんは、挨拶をすることもなく不思議そうに俺を見ている。なんか、変わった子だな。ならば――
「おっす、俺日向っていうんだ。よろしくな、かなでちゃん」
気軽に接せられるやさしいお兄さん的な雰囲気で出会いの一発を決めてやった――つもりだったが、かなでちゃんはさっと音無の背中に隠れる。
「あぁ、悪い、日向。けっこう、こいつ不器用な奴でさ」
音無のフォロー。でも、初対面でこの対応はさすがにちょっと傷つく……。
「奏、もう行っていいぞ」
「うん。わかったわ」
音無に促されて、かなでちゃんは廊下を俺たちとは反対方向へ歩いて行く。なんか用事があるんだろうな。
「まぁ、なんつーかその、あんな奴だけど、悪気はないんだ。仲良くしてやってくれ」
「あぁ、まぁ、そうだな」
俺はかなでちゃんの小さな背中を見送りながら頷く。確かに悪い奴には見えなかったし。
「ゆりとは結構あいつも話すんだけどな。他のメンバーとはそんなに……。だから、お前が話し相手になってやってくれると、助かるよ」
そーとーに不器用な子らしい。
「任せときなって。それにあの子、結構かわいいしな」
「結構、かわいい、だと?」
あれ? なんか音無の雰囲気が変わったぞ。俺、なんかやばいことを言ったのか。
音無の変化にちょっとびびる。気安く『かわいい』なんて言ったのがまずかったのか?
「結構かわいいじゃないだろ……」
音無の声が低い。やべ。完全に怒らせちまった。
「あいつは……天使だ!」
……こいつ、真顔で言い切った。
*
「はぁー。まったくもう、なんだっつうんだよ、ここは」
屋上で一人文句を言う。そういう気分にもなるさ。なんかすごく疲れる一日だった。
「あら、こんなところにいたの、新入りくん」
後ろから聞こえる聞き覚えのある声。
「あぁ、ゆりっぺか」
「あぁ、じゃないわよ。なに一人で夕方の校舎の屋上でたそがれてるのよ」
「別にいーじゃねえかよ。なんつーかこう、青春の影、みたいな感じで」
「うわっ。くさっ」
「うるせえ」
鼻をつまむ仕草をするゆりに向かってパンチを出す振りをする。
「あー、野球部の連中が練習してるわねー。甲子園の季節も終わったのに、元気ね」
「来年に向けてのチーム作りに一番大切な時期だからな。こっから来年の春に向けて、あいつらは毎日ボールを追いかけるんだよ」
「ふーん」
ゆりと俺は並んで屋上から野球部の練習風景を眺める。
「あんた、野球やってたの?」
「……なんでだよ?」
「なんかそんな目してたから」
そんな目、か。どんな目だろう。俺には今はよくわからねえや。
「まあな」
「そう」
二人で並んでぼんやりと白いボールが行ったり来たりするのを眺める。今日一日が騒がしかったせいか、時間が止まったみたいだ。
「あぁ、そうだ。はい」
「なんだよ?」
ゆりは俺に向かって何かをずいっと差し出してきた。
「入団祝いよ」
「まだ入るって言ってねえだろ」
と言いつつも、一応受け取る。
「KEYコーヒー? 聞いたことねえな」
「そう? おいしいわよ」
そう言ってゆりは自分の分のコーヒーを開けると、くっと一口飲む。
「ふーん」
俺もゆりに倣って缶を開ける。一口飲んでみる。確かに、悪くはない味だな。
「そういえばさ」
「なに?」
「ここってボランティアサークルっていうのは知ってんだけどさ。具体的にはどういう活動してんだ?」
「はぁ? それ今ごろする質問?」
お前らがぶっ飛びすぎててついつい聞くのを忘れたんだよ。
「ま、いいわ。基本的に私たちの活動は、法に触れない範囲ならなんでもやるわよ」
「って、それどっからどう聞いてもボランティアサークルの活動に聞こえねえよ!」
うるさいわね、とゆりは髪をかき上げる。
「そういえば、あなた」
「ん?」
「うちのメンバーに『なんでこのサークルに入ったのか』って訊いて回ったそうね」
「あぁ」
「で、どうだった?」
どうだった? なんて聞かれても――
「いろんな奴がいるよなぁ」
正直な話、それ以外の感想はない。しかし、それがゆり的にはヒットしたのか、口に手を当ててクスクス笑っている。
「なんだよ」
「別に。いい答えだと思っただけ」
「そーかよ」
なんか答えた本人だけがわからずに取り残されているような感覚だ。
「じゃあ、今度はあたしが訊いてあげるわ」
「何を?」
「あなたはなぜこのサークルに参加しようと思ったの?」
ゆりは手に持ったコーヒーをインタビュアーのマイクみたいに俺に向ける。
「なぜ……てか」
考える。俺はなぜ、何のために、ここへ来たのか。答えは一つしかない。
「――神様が決めたことだとしても認めねえ。神への反抗、それが理由さ」
本当に誰かから幸せを奪う神様なんて奴がいるなら、俺はそいつに逆らってみせる。
「うわっ。なにそれ厨二病?」
「って、お前自分から聞いといてそれはねーだろ!」
「いや、だって、まさかそんな答えが返ってくるなんて思わないじゃない!」
「あー、わかった。もういいよ」
んな、かっこつけた答えを言った俺が悪かった。
「でも」
「ん?」
「なかなかいい響きではあるね。気に入ったわ、神への反抗。うちにぴったりじゃない」
「……確かになぁ」
どいつもこいつもおとなしく神様の言うことなんか聞きそうにない連中だ。
「それはそうと」
「今度は何だよ」
「あなた、名前はなんていうの?」
「はぁ?」
まさか、今訊くか、それを!
「今頃訊く質問かよ、それ!」
「うるさいわねー。あなたのこの名前、ヒュウガでいいの?」
「ヒュウガじゃねえよ。ヒナタだ、ひ・な・た。どこぞやのタイガーショットを撃つ高校生か、俺は」
「あー、いかにも男子高校生って感じの受け答えのセンスね」
「うるせえよ。こっちはちゃきちゃきの男子高校生だっつうの! あ、俺のことはひなっちって呼んでくれてもいいぞ」
「呼ばないわよ」
ばかげたやりとりだ。なにやってんだ、俺。
「それはそうとこっちからも質問いいか?」
「何よ?」
「このSSSってどういう意味なんだ? 最後のSはサークルとしてもさ」
「はぁ、あんた馬鹿じゃないの?」
「なんでだよ」
「サークルはSじゃなくてCよ。中学英語からやり直したら?」
「うっせー。んなことはいいから、SSSって何なんだよ?」
「……知らない」
「はぁ? お前がリーダーでお前が名付け親じゃないのかよ!」
「確かに私が名付け親だけど、なんていうか、うーん。語感がよかったから?」
「そんな理由で選ぶなよ……」
俺は額に手を当てて天を仰ぐ。
「なに、気にくわないの?」
「……いや、なんつーか、お前らにはお似合いだと思うよ」
「あら。お前ら、じゃなくてもうあなたも内に入っているのよ?」
ゆりはいたずらっぽく言う。なんか本当にこっちの意志なんか関係なしにメンバーに入れられているぜ、こんちきしょう。
「気に入らない?」
ぼけーっと空を見上げながら思う。特に難しい事なんて、何もわからないけど、なんとなく悪くはないな、と思った。
「いーや。よろしくな。ゆりっぺ」
こうして俺はこのいかれた連中の一味となったわけだ。
*
じゃあね、と結局次どうすればいいかとか、そういうことを一切教えずにさっさと去っていったリーダーの背中を見送り、俺は相変わらず屋上から校庭を見ている。コーヒーを飲みきるまでここにいようと決めた。中身が三分の一程度になった缶を振る。
そんなことをしていると、誰かが俺を見ているような視線を感じた。めんどくさいな、と思って振り返ると、そこにいたのは天使――じゃなくて、かなでちゃんだった。
なんかよくわからないが、じっと俺を見ている。
なんだろう? 表情もほとんど無表情だし、いまいち考えのよく読めない子だ。
「よう」
気軽に挨拶をしてみる。今度は逃げられなかった。
「なにやってんだ、そんなとこで?」
今度は少しレベルアップして話を振ってみる。
「ねぇ」
「ん?」
なんと、普通に会話の反応が。
「あなた、タイガーショット出来るって、本当?」
「はぁ?」
タイガーショットって、さっきのゆりっぺとの会話を聞いていたのか?
おもしろいそうだな。ちょっとからかってやろう。
「あぁ、出来るぜ。タイガーショット。なんとゴールネットを突き破り、コンクリートにめり込むほどの威力だぜ」
だったかなぁ? タイガーショット。
こんなばかげた大嘘だが、かなでちゃんの興味は引いたらしい。彼女は一歩俺に近づく。心なしか、目に好奇心の光が宿っているような気がする。
まさかこんなことが会話のきっかけになるとは思わなかったが、まぁいいや。
「じゃあ」
「おう」
「タイガーアッパーカットとかもできるの?」
「おう、でき……」
それ、タイガー違いです。
9
今となってはもう通い慣れた道を自転車で走る。湿気と暑さで揺らいでいた空気が透明さを増していく。ジェットコースターが急下降するみたいに季節は変わっていく。なんか一流投手のフォークボールみたいだな、と思った。
玄関前で自転車を止めて、家の脇にある駐輪スペースに自転車を持って行く。おばさんの自転車の隣が俺の指定席だ。もう一台自転車が止まるのを見越して、おばさんが端に寄せてくれているのを見ると、なんとなく自分が受け入れられているような気がして、ちょっと恥ずかしいけどうれしい。
玄関のチャイムを押す。ピンポンが鳴り終わってから、約五秒。ドアの向こうから足音が聞こえ始める。いつもどおりだ。
「いらっしゃい」
ドアが開いておばさんが顔を出す。
「ちわっす」
俺は小さく頭を下げて、おばさんに挨拶する。
今日も普段通りだ。
*
おばさんの後ろを歩きながら、ちょっと世間話をする。
たいていはどうでもいいこと、例えば学校のテストはどうだった、とか文化祭や体育祭はいつ? とかそんな話。そして、いつも最後はユイの話になる。例えばそれはユイが今朝見ていたテレビの話とか、昨日俺が帰った後何を言っていたかとか(ただしユイは一応「ないしょにしてよ」と釘を刺しているらしい)。
こんな風にユイの部屋のドアを開けるまでの話題には事欠かない。
「ユイちゃん、入るわよ」
おばさんがドア越しに声を帰ると、はーいというユイの返事がドアの向こうからこもった音で聞こえる。
「うぃーす」
「あ、また性懲りもなく来ましたねー」
なんだよ、その言い方は。毎回毎回。
しかし、俺も慣れたもんだ。満面の笑みを浮かべてろくでもないことを言ってくるユイを軽く受け流しつつ、ベッド脇の俺用の丸椅子に腰を掛ける。
「先輩」
「あぁ、なんだよ?」
「毎日こんな時間に顔を出してますけど、補習ちゃんと出てますか?」
「大丈夫……つーか、なんで補習受けてることが前提になってんだよ!」
「だって先輩アホですし!」
「お前にだけは言われたくねえよ!」
いつも、こんな風に俺とユイの会話は始まる。
*
俺とユイはとりとめもないことを話す。
昨日のプロ野球の話とか、適当につけたテレビを見ながら話したりとか、ガルデモについての話とか。ちなみにガルデモに関しては、音楽雑誌とかにインタビューが載っていると、それを買ってきてユイが読みやすいようにスクラップするのが俺の仕事だ。
そして、たまにおばさんが部屋に顔を出す。そのときは俺は黙ってユイを見ないようにして部屋の外に出る。そういうときは、たいていぼんやりと誰もいないリビングに座って待つ。何をやっているのかはっきりと訊いたことはないけれども、だいたいわかる。だから、俺はひたすらにおとなしく待つ。その間に俺は考える。ユイが喜びそうな話題を、一人。
「あ、先輩見てくださいよー! ガルデモ、新譜出すって!」
「あぁ、そうらしいなぁ」
ユイの目線を釘付けにしている記事を見る。ガルデモのニューシングルが一ヶ月後に出るらしい。
「先輩」
「なんだよ」
「ガルデモの新譜が出るんですよ? ちょっと喜びようが足りないんじゃないですかねー?」
ユイが不満そうに俺を見る。
「喜びようが足りないって、じゃあどう喜べっつうんだよ?」
「たとえばぁ……ほら、全裸になって町中を走りながら『俺はガルデモが大好きだぁー!』って叫ぶとか!」
「変態そのものじゃねえかよ!」
「ごちゃごちゃ言わずに、男だったらそこで男らしさをみせろや、ごらぁあ!」
「見せてる『男らしさ』の意味が違うだろうが!」
本当に、ばかげたことばかり。
「まっ、たく……」
俺は気を取り直すべく、姿勢を正し、一つ大きく深呼吸した。
「おっ。やんのか、こら」
「やらねえよ、アホ」
なんでこんな風になるんだろう。いつもいつも。
「今日は、ちょっとお前が喜びそうな話を持ってきたんだ」
ユイの表情が変わる。一瞬だけ、おびえるような申し訳ないような表情を浮かべる。多分、俺はどんな悪態をつかれるよりも、この瞬間が一番辛い。
「最近さ、ちょっと仲良くなった奴らがいて、そいつらと草野球をやろうっていう話になったんだ。ほら、今なら気温も高くないし、日差しもひどくないだろ?」
ユイは、まっすぐに俺の目を見つめている。
「先輩」
「……なんだよ」
「先輩はどうして私にそんなふうによくしてくれようとするんですか?」
「どうしてって、そんなの……約束したじゃねえか」
「先輩。私は、先輩には何も返せないんですよ。私は先輩に何かをしてもらっても、何も返せないんですよ」
ずっと言おうと思っていたんです、とユイは続けた。
「私は、何も出来ないから。でも、先輩はその意味、わかっていますか? おかあさんがうまく隠してくれているけど、私は一人でトイレに行くことも出来ないんですよ。わかっていますか、先輩」
「……だから、お前は俺に何が言いたいんだよ」
「先輩が――私によくしてくれることは、正直、うれしいです。でも、何も返せないのが、辛いんですよ」
ふっと、ユイは目を細める。知っている。お前は、絶対に笑わない。
「そろそろいいんじゃないですか。私は、先輩や、だれかの重荷になって迷惑をかけるのが辛いんです。だから、もう、いいですよ。先輩。いいんですよ。先輩はちゃんと約束、果たしてくれたじゃないですか」
いつも、思っていた。どれだけお前が笑っても、それは笑っているように顔を歪ませているだけだって。
「おかあさんや、ヘルパーさんや、お医者さんに迷惑を掛けながらでしか、ユイは生きられないんです。何も返せないまま、迷惑だけかけて。親孝行とかできないのに、私はお母さんに苦労ばかり掛けて、ずっと生きていくんですよ」
ユイの体から言葉が溢れる。動かないはずの体が震えている。
「でも、一つだけいいことがあるんですよ」
いいこと――この言葉を言うとき、一番ユイの唇が震えた。
「私みたいな体になった人って、人より全然長く生きられないから。だから、私、お母さんにあまり迷惑掛けずにすむ。私のせいで、お母さん、離婚して、ずっと私の介護ばかりして、そんなのないよね。でも、せめて私がいなくなれば、お母さん、きっと楽になれるよ」
いつか、公園でおばさんが言った言葉を思い出した。
――ユイがかわいくて仕方がないの
「先輩。本当に、先輩が私のことを思うなら、私を殺してくれませんか」
赤くなった目で、ユイは俺を睨むように見つめる。ぎりぎりの一線で恐怖と怒りと悲しみが押しとどめられている。
ユイ――お前が動かない体でずっと考えてきたことは、もしかしたら間違っていないのかもしれない。それでも大人っていう奴はこう言わなくちゃいけないのかもしれない、「何を馬鹿なことを言っているんだ」。
でも、ユイ――俺は知っているんだ。お前がどれだけ優しい奴か。その言葉も、その決断も、全部お前の優しさから来ているっていうことを。だから、俺はそんなお前を否定したくないんだ。
「――わかった。ユイ」
「先輩」
自分でも驚くくらい、俺の声は落ち着いていた。そして、俺の呼吸に合わせてユイの目から赤い炎が消えていく。
「本当にお前が生きるのが辛くて仕方なくなったら――そのときは必ず俺の手で終わらせてやる」
馬鹿なことを言うな――きっと大人はそう叱るだろうな。でもさ、本当に『正しいこと』が人を救うのかな。
「その役目は絶対に俺以外の誰にも譲らない。誰にもやらせやしねえ。だから、だからなぁ、ユイ、そういうことは俺以外の誰にも言うな。絶対に、俺以外の誰にも言うな」
俺はそっとユイの頭に手を伸ばす。綺麗な、流れるような手触りの髪だ。おばさんがどれだけユイを大切にも思っているか、これだけでわかる。
だからさ、ユイ――俺はこんなことを言うんだ。
「けどさ、ユイ。そんなのっていつでも出来るじゃねえか。だったら、今日じゃなくて明日でもいいだろ? いつでも出来る事なんて後回しにして、今日は今日しかできないことをしようぜ」
「……今日しかできないこと」
「あぁ。今日の野球の試合の話でもいい、俺の今日学校であったことでもいい、お前が今日思ったことでも、なんでもいい。今日しかできないことを、今日しようぜ」
「じゃあ、明日になったら」
「明日になったらさ、明日にしかできないことをしよう。いつでも出来ることは、あさってでいいじゃねえか」
「でも、あさってになっても、同じことを言うんじゃないですか」
「……あぁ、言うだろうな」
「そんなの……そんなのじゃあ、ずっと、ずっと、続いていっちゃうじゃないですか」
「じゃあ、ずっとずっと続けばいいんじゃないか」
すっとぼけるように俺は言う。でも、それでいいと思うんだ。俺は、そんな難しいことやたいした事が出来るわけじゃないけど、こんな風に小さな事なら、きっと積み重ねられるから。
「アホですね。だったら、先輩、ずっとユイから逃げられないよ」
「大丈夫さ。俺は、そんな強い人間じゃないから、辛くなったら逃げ出しちまうよ。――でも、逃げるのなんて、いつでも出来るだろ? だったら、別に明日でもいいだろうさ」
自分の弱さなんて、痛いほどよく知っている。そして、それを支えてくれる人がいることも。
「そんなこと言ったら、先輩、ずっとユイと一緒にいることになっちゃいますよ?」
「――あぁ、そうなっちまうなぁ」
「ユイさ、本当何も出来ないんだよ。運動だとか、おしゃれだとか、恋とかしたかったけど、みんなみんなきっと無理だろうな。ユイが誰かを好きになるのは簡単だよ。ちょっと優しくしてくれた人に、捨て犬みたいになつけばいいんだもん。でもさ、こんなユイを好きになってくれる人なんていないよね。結婚とかしたかったけど、ユイ大切な人に何も出来ないんだもん。迷惑掛けるだけだもん。無理だよ」
ユイ――一つだけ、お前はとんでもない間違いをしている。きっとお前がいなきゃ、俺はきっとどうしようもないだめな奴に成り下がっていてしまったんだ。お前が何も出来ないわけがないんだ。俺は――お前に救われたんだから。
「じゃあ、俺が結婚してやんよ」
驚くほど、すっと言葉が胸の奥から出た。
「先輩、でも――」
「へっ。お前の悪いところなんて、俺は知り尽くしてるからな。口は悪いし、態度はでかいし、わけわかんねーことですぐキレるし、無茶ぶりはするしよぉ」
俺はユイの頬に手を当てる。
「俺は世界で一番お前の悪いところを知り尽くしている男だ。その俺がずっとずっとそばにいてやるっつってんだ。お前が何を言おうが、俺の心は変わらねえよ」
だから、俺はたった一つのことを、お前に伝える。
「俺はお前の事が好きだ」
どうしようもなく恥ずかしいかと思ったけど、そんなこともなかった。自分の思っていることを素直に全部はき出したせいかもしれない。むしろ、清々しいくらいの気持ちだった。これでいい。きっと、これでよかったさ。
ユイがゆっくりと口を開く。
「ひ」
「ひ?」
「ひどいですよぉー、先輩! 何で言うんですか!」
「はぁー!」
なんとユイは大泣きして頭を振って俺の手を払った。
「あぁ、もう、馬鹿、アホ、間抜け、いったい何を言い出しとるんじゃ、ごるぁあー!」
「はぁー?」
全く持ってしてわけがわからねえ。俺は告白したよな? 俺がしたのは告白だよな? なのに、なんで、こいつは大泣きして絶叫してんだ、意味わかんねぇー!
「い、いったい何なんだよ!」
「うっさいんじゃ、アホー! 先に、私より先に言いやがってー!」
「だから、なんなんだよぉー!」
もう、俺の方が泣きたい。
「だって、だって、ひどいよ、ひどいだもん! ユイの方が先だって決めてたのに!」
「何を、何を先にって決めてたんだよ!」
「絶対、絶対に、先輩から好きなんて言ってもらえることなんてないと思っていたから、絶対、絶対にユイの方から先に言うんだって、決めてたのに! なのに、なのに、先に言うんだもん! ひどいよ!」
ユイは大きく口を開けてワンワン泣く。こんな風に噴水みたいに感情を溢れさせている姿は、初めて見た。
「……そんな理屈で?」
「うっさい! お前なんかに私が普段どんな気持ちでいたかわかるか、こんにゃろぉー! それを一言であっさりと、あっさりと! あぁ、私が今まで苦しかったのは、いったい何だったんですかぁー!」
「しらねえよ! 第一、お前ばっか言ってけっど、俺だって結構悩んだりしてたんだぞ!」
「うっさいんじゃぼけぇー!」
「あぁ、もう。お前、涙と鼻水で顔がすげえことになってるぞ」
俺はサイドテーブルにあるティッシュに手を伸ばす。しかし、どこからどこまでも、本当にやかましい奴だ……。
「女の子のそんなぐしゃぐしゃな顔なんか見るなー!」
なんかすごいことになった顔で、俺につばを飛ばしながら叫ぶ叫ぶ。
「あぁ、もう。だったら、泣かなきゃいいだろ」
「泣かなきゃいいって、じゃあどうすればいいんですか!」
「笑え! うれしいんだろ? だったら、笑え! 笑えばいいんだよ」
ユイはしゃっくりをしながら、ふくれっ面のまま涙を抑えていく。
「先輩」
「なんだよ」
ユイはスンと鼻を鳴らす。
「先輩は、どうしようもない、アホですね」
「うるせえ」
涙の跡の残るユイの頬を拭く。あたたかくてやわらかい。泣き止んだユイは、殻を脱ぎ捨てたみたいにちょっと小さく見えた。多分、きっと、今までユイを守ってきたこの殻の代わりを、俺がするんだろう。
「先輩」
「んだよ」
「さっき言ったこと、嘘だったら、針千本飲ませますからね」
「……わかった」
嘘はつかない。約束は守ろう。こいつだったら、本当に針千本飲ませかねないからな。
「ユイ」
俺は自分の顔をユイに近づける。
「ちょ、せんぱ――」
「目を閉じろ、馬鹿」
約束の証なら、ゆびきりよりこっちの方がいいだろう。
「……約束しちゃったから、もう先輩は後戻りできませんからね」
「するつもりもねーよ」
軽口を叩いて、顔をユイから離す。
「ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。大きな幸せが欲しいから、小さな幸せを積み重ねていこうぜ」
「……うん」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているユイの頭を撫でながら、俺は思う。
あぁ、俺はやっと、見つけられたんだな。お前を笑わせる方法を、見つけられたんだな。
俺にとって、この世界で一番美しいこと――
10
抜けるような両翼百メートルの青い空。狭いバッターボックス。白いベース。ほこりっぽいグラウンドの匂い。
しまっていたはずの野球への情熱が再び燃え上がる。こんな場所へ来て燃えない高校球児なんていないさ。
胸の前で、バスンと両手を打ち鳴らす。気合い十分。いつだってプレーボールはいけるぜ。
「おっしゃ! しまってこー!」
「はぁ?」
「お、おー……」
ぷすんと風船から空気が漏れるような返事。
……驚くべきチームワークのなさだな。
俺は膝に両手を当てて、大きく頭を振った。
「お前らもっとやる気出せよ。『はぁ?』じゃあねえだろ、野田」
「ふん。俺はゆりっぺの頼みだからこそ引き受けたまでだ」
あぁ、もう、相変わらずだなぁ、こいつは……
「音無ももっと気合い入れてくれよぉ」
「いやぁ。俺、野球ってあんまやったことなくてさ」
音無は申し訳さそうに頬を掻く。
とか言って、試験前に『俺試験勉強してねえー』ってアピールする奴並に出来そうな気がするぞ、こいつは。
あきれ半分に俺は目の前の二人の姿を交互に眺めた。我関せずと言わんばかりに腕を組んで無関心の野田に、相変わらずの人を油断させる悪魔のエンジェルスマイルを浮かべている音無。
そんな二人がジャージ姿で俺の前に立っているというわけだ。もちろん、俺たちがグラウンドでやることはゴミ拾いなんかではなく、もちろん――
「ちょっと日向君、遊んでないでさっさとグラウンド整備しなさい! 球場を借りるのだって、ただじゃないんだから!」
と、ここでゆりっぺの怒声が飛んできた。ダグアウトの方を見やると、涼しそうな日陰のベンチにゆりっぺがふんぞり返って偉そうに座っている。それはもう、いつも通りに。
「へいへい。わかってますよ」
俺はぶーと口をとがらせて、「今やろうとしていたのに」と小学生みたいな文句をいって、グラウンドにトンボをかけ始める。俺の姿を見て、音無も同じように反対側に向かってトンボをかけ始める。案の定というかなんというか、野田の奴は俄然張り切って、土埃を巻き上げながらトンボをかけている。いや、どう考えても意味ねえだろ、それじゃあ。
「まったく、あの三馬鹿トリオはー」
ふんぞり返ったまま文句を言い始める。聞こえてるんだけどさ、ゆりっぺ。
「ところで他の男子メンバーはちゃんと働いているの?」
ここでゆりっぺはまるでマネージャーのように隣に立つ遊佐に声をかける。
「高松さん、TKさん、松下五段は野球部へ野球道具を借りに。藤巻さん、大山さんは食料および飲料品の買い出しに行っています」
「ふーん。で、あのうるさいのは?」
「直井さんは音無さんを応援するんだ、と張り切って何か裁縫っぽいことをしていました」
「はぁー」
「はぁー」
遊佐の報告にゆりっぺと俺のため息が重なる。あいつが応援団長かよ。
「で、竹山君は、そこで何してるのかしら」
と、ここでゆりっぺの隣で一人ノートパソコンをいじっていためがねをすっと上げた。
「野球はデータのスポーツです。ですから、僕はこうしてチームのスコアラーとしてデータ収集を。それから僕のことはクライス――」
「じゃあ、私たちが後は出迎え班で動けばいいわけね」
「ええ、そうなります」
あっさりとゆりっぺと遊佐の二人に無視される竹山。いつも通りだ。
「あさはかなり」
あ、ダグアウトの隅に椎名もいるなぁ。
*
ベンチに座って、五百ミリリットルのスポーツドリンクを一気飲み。渇いたのどと体に気持ちよく流れ込んでくる。全身に染み渡るぜ。
「ぷはぁー!」
大げさに体を大の字に開いて、空を仰ぐ。何かをやり遂げた後はこうするもんだって、相場が決まっているんだよ。
「いやー、よく働いたぜ、まじ」
「そうだな」
俺の隣に座っている音無が、お上品にペットボトルに口を付けて、一口だけ飲んだ。俺はその様子を横目で見つつ、思う。こーゆーところで、お里が知れる、っていうのかな。結構、いいところのおぼっちゃんとかだったりするんだろうな。
「ま、なんにせよ、お疲れ」
「おう。音無もごくろーさん」
トン、と俺たちはペットボトルを合わせて乾杯。
球場脇にあるベンチ。ゆりっぺの罵声を浴びつつ、ダグアウトで涼しそうにしているゆりっぺに恨みの視線を向けつつ、無事にグランド整備を終えた。というわけで、俺たちの前半の仕事は終わったので、こうして休憩しているわけである。
「しかし、野田の奴もアホだよな。『俺が一番頼りになるところをゆりっぺに見せる!』っつって、まだトンボがけしてるんだぜ?」
音無はしょうがないなぁ、みたいな風に笑った。
「あいつ、ほんとに、ゆりっぺのためにこのサークルにいるんだよなぁ」
最初はふざけているのかと思っていたけど、だんだんと一緒にいるうちにこいつは本気だということに気がついた。九十九パーセントアホだなぁ、と思いつつも、一パーセント、そんなまっすぐなあいつがうらやましい。
「そういえばさ」
ぽそりと音無が口を開いた。
「ん。なんだ?」
「前にお前、俺に『なんでこのサークルに入ろうと思った?』って訊いただろ」
「あぁ」
「あのときに、俺は俺の答えを言ったけど、よく考えたらお前の答えは聞き損ねていたなって」
音無はいたずらっぽく俺に笑いかける。
「そういえば、そうだったなぁ」
「で、お前がここに来た理由は何なんだ?」
そこで頭の中で屋上でゆりっぺに笑われた光景がフラッシュバック。
「……言わないとだめか?」
「俺にだけ言わせるのは卑怯だろ」
音無に卑怯といわれると、なんか胸にぎゅっとくるものがあるな。これがゆりっぺだったら、お前には言われたくねえよ! って思うのだろうけど。
「……けじめだよ」
「けじめ?」
「あぁ」
俺は「よっ」とつぶやいて、上半身を起こす。
「俺、野球部だったんだよ。二年生だったけど、セカンドでレギュラーだった」
手に持った空っぽのペットボトルを握りしめる。
「今年の甲子園地区予選、俺たちのチームはさ、結構強くてさ、甲子園に行けるかもしれなかったんだ」
のどの奥で唾が絡まる。呼吸がうまくできない、そんな錯覚に陥る。それでも。
「大事な試合だった。このチームに勝てれば甲子園に行ける。そんな試合だったんだ。俺はそこで――逆転のさよならエラーをした」
「……それで、お前は野球部を辞めてここへ来たのか?」
今まで黙って話を聞いていた音無がここで口を開く。俺は黙って首を振る。
「確かに、それもないわけじゃないけどさ。でも、違うんだ」
「けじめ、って言っていたよな? 他に、何かあるのか?」
「俺が……あのとき考えていたのは、チームのことでも、甲子園のことでも、野球のことでもなかった。あれだけ野球好きだったのに、甲子園に行きたかったのにさ。別のことばかり、考えていたんだ」
「日向」
すっと、俺は一つ深く呼吸をする。いつか、初めてレギュラーで試合に出たとき、セカンドの守備位置でこうしたことを思い出した。
「だから、けじめさ。自分の中で、はっきりと順番が出来ちまった。俺にとって、野球よりも大切なものがさ。だから、俺は、野球をやめた」
音無は何も言わない。ただ俺の話を聞いていてくれる。ありがいな、本当に。こいつはいい奴だ。そう心から思う。
「……でもさ、俺のせいでさ、甲子園にいけなくなっちまった。それは変わらないんだよな。あれだけ遅くまで、みんなで毎日練習してがんばってきたのに。俺のせいでさ」
「……日向」
「俺、思うんだよ。たぶん、あいつらにも、いつか野球よりも大切なものが出来る日が来ると思うんだ。そんな風になってさ、就職したり結婚したりして、野球なんか関係ない毎日を送り出したりしてさ。でも、きっと忘れないんだろうな。あの日、甲子園に行けなくなったこと、きっと一生忘れないんだろうな。そう思うんだよ。俺のせいで、甲子園に行けなくなったこと、絶対に忘れないんだろうな、てさ」
いつかただ懐かしいだけの思い出になるのか、それともそれでもまだ俺は恨まれ続けているのか、わからないけれども。俺が、甲子園の夢を奪ったという事実を、きっと誰も忘れない。
「逃げ出したい過去のない奴なんて、きっといないさ」
はっきりと、まるで雲を切り裂いて光を取り入れるように、音無は言った。
「それでさ――きっと、そういう過去があるから人は強くなれるんだよ。後悔とか思い残すことがあるから、絶対にもうそうはならないようにって。だから、がんばれるんだ。きっといつか、すべて報われたって胸を張れるように」
「音無、お前にも――」
言いかけて、口をつぐんだ。そこから先は訊いてはいけない。寂しそうに笑う音無の顔を見たら、そんな気がしたんだ。
「まったく。ここはいろんなことがあるし、いろんな奴がいるな!」
ふっ、と音無が吹き出す。
「ほんと、その通りだよな」
頭の中に、このサークルの連中の顔が浮かぶ。みょうちきりんな奴らばかりだけれど、あいつらなりにきっと必死に生きてるんだよな。いや、みんな、きっと必死に生きているんだよなぁ。
「お前と出会えてよかったぜ、音無」
そう言うと、音無は顔をしかめて、右手を頬に当てた。
「……お前、ひょっとしてコレなのか?」
「ちげえよ!」
*
野球にはだいたい王道というものがある。たとえば外野手は広く遠い場所を守らなくてはならないから、とにかく足が速くて肩が強いやつ、一塁は守備の負担が一番少ないから足を痛めているやつもしくは鈍重な強打者、ショート・セカンド・センターと真ん中の守りがしっかりしていることが大切で――とか。
俺は頭の中でメンバーの顔を思い浮かべながら、守備位置を考えていた。ほとんどが未経験者だ。だとしたら、しっかりと適正を見抜くのは経験者の俺しかいない。
「どいつもこいつも運動神経は悪くはなさそうだけどなぁ」
ため息をつきながら我らが草野球チーム、題してSSSの顔ぶれを頭の中に思い浮かべる。
「何をお悩みなのですか、日向監督?」
「何が悩みって……どいつもこいつも、アホなんだよ」
「ほう。ということは、つまりはアホを率いる先輩はアホの中のアホ。キングオブアホということですね」
「誰がアホアホキャプテンだ、アホ」
一応作っておいた名簿を見ながら、ため息をつく。
「一応、今考えているオーダーは、ピッチャー音無、キャッチャー野田、ファースト立華、セカンドが高松、ショートTK、サード椎名、んでセンターに松下五段で、レフト大山、ライト藤巻ってとこだな」
パシンと俺はリストを指で弾く。
「あれ? セカンドに先輩の名前がないみたいですけど?」
「今日は俺はバッターだからな」
「ほう。バッターですか」
「おう。バッターだ」
「……私、ホームランじゃなきゃいやなんですけど」
「へっ。問題ねえよ。音無のへなちょこボールなんかバックスクリーンまでスコーンと運んでやるさ」
「神風が吹けばいいですけどね」
……相変わらずだな、ちくしょう。
「お前なぁ」
俺はあきれ半分に聞き慣れた声の方を振り返る。あぁ、そうだとも。秋の日差しの中にある、いつもの人を小馬鹿にしたような、いたずらを思いついた子犬みたいな、見慣れた笑顔。
「しょうがない。ユイにゃんが神風が吹くよう祈ってあげますよ、ひなっち先輩」
「アホ。そんなんだったら、場外ホームランになっちまうっつーの」
*
ゆりっぺがどこから持ってきたのか、ばかでかいパラソルを片手にワゴン車から降りてきた。いろんなものがほいほい出てくるよな。本当にこのサークルは……よくわからん。
「さてと。今日は日差しはそんなに強くないけど、備えあれば憂いなしってやつよね」
そう一人言を言いながら、パラソルをざっくりと地面に突き刺す。日陰がユイの車いすをすっぽりと包んだ。
「日向君の大切なお姫様はあたしが守ってあげるから、安心してていいわよ」
にやりと笑って、いきなりろくでもないことをゆりっぺは言いやがる。
「な、何言ってんだよ!」
「そ、そうですよ! 何で私が、こんなアホアホな先輩と!」
「はぁ? お前がそれを言うのかよ! っていうか、そこまで言うのかよ!」
「べ、別にぃ。だって、別に、ユイ、そんなんじゃないような……でも、そんなような」
「どっちだよ!」
相変わらずこんがらがった俺とユイのやりとり。なんでいつもこうなるんだか。
「お前らもういい加減にしろー!」
と、ここで業を煮やしたゆりっぺが叫んだ。
「ちょっと人がからかっただけで……本当にあなたたちは……」
じとりとした目でゆりっぺが俺たちを見る。俺とユイはお互いにアイコンタクト、『お前のせいだからな』。
「まぁ、でもわざわざ迎えに行ってくれてありがとうな」
とりあえず、礼を言いつつ俺は話題を変えることにした。
俺たちが買い出しやらグラウンド整備やらをやっている間に、ゆりっぺたちがユイを迎えに行ってくれていたのだ。思えば、今回の一件でおばさんを説得したのもゆりっぺだし、医者の許可を取り付けたのもゆりっぺだった。いろいろ問題はあるやつだけど、この行動力だけは素直に感服するよ。
「しかし、お前らのサークルが車まで持っているとは意外だったぜ」
俺は大きなワゴン車に視線を向ける。これだけの大きさがあれば、確かにユイの車いすも問題なく載るわけだ。
「あら。別にあの車はサークルのものじゃないわよ。個人の所有物」
「え? そうなのかよ?」
と、俺がワゴン車を改めて観察しようとしたところ、運転席のドアが開いて、一人の男が降りてきた。
「おい、これで荷物は全部下ろしたのか?」
「ええ。ありがとう」
「おう」
無愛想な感じの大男がのそりとした仕草でゆりに向かって頷く。なんというか、ひげが濃くて毛むくじゃらで、熊みたいな人だ。髪も伸び放題でぼさぼさだし。
「んで、こいつがあのおじょうちゃんのこれか?」
と、ゆりっぺに向かって小指をたてるおっさん。見た目に違わず、仕草がおっさんくさい。
「ええ。そうよ。うちの新顔の日向君」
「ほお。こいつがね」
おっさんは遠慮なく俺の顔をじろじろ見てくる。何となく居づらい。
「彼はチャーっていうの」
「よろしくっす。日向っす」
「おう」
俺が頭を下げると、どこぞやの戦場から帰ってきた傭兵みたいな風貌のチャーはあごひげに手を当てて頷く。
「けどさ、ゆりっぺ」
「何? 日向君?」
「このサークルって高校生だけじゃなくて、大人もいたんだな」
俺の言葉にゆりっぺはきょとんとした表情を返した。
「いや、チャーも年齢的には高校生よ?」
「え?」
改めて、熊みたいなチャーの顔を見る。高校生らしい。未成年、らしい。そう言われれば、そんな気がしないこともない。ガード下の居酒屋とかがすごく似合いそうだしな。
「って、嘘だろ、おい!」
「嘘じゃねえよ」
チャーが答える。
「いや、だって、車持ってるし、運転してるし!」
「十八だったら法律的には問題ないだろうが」
……まじでこのおっさん十八なの? ほんとに? うそじゃなくて?
「あ、ちなみにチャー、奥さんいるから」
「やっぱり嘘だろぉー!」
「だから、十八だったら結婚も出来るだろうが!」
俺は改めてチャーの顔を見る。……うん、そう言われてみれば、こんな口ひげを生やした高校生もいるような気が――
「するわけあるかぁー!」
「つまり、アホということですね!」
いや、ユイ、それもなんかおかしいから。
*
青いプラスチックかごいっぱいに詰まった野球道具が、どすんと地面に置かれる。どこからかき集めてきたのかはよく知らないが、物を見る限り、体育の授業とかで使うための用具みたいだ。あまりちゃんと手入れもされていないうえ、なかなかにくたびれている。まぁ、気軽に使えるからこれくらいのほうがいいだろう。
「これでいいか?」
「あぁ。ありがとう、松下五段」
伊達に力持ちとは言われていないな、と感心しつつ、俺は松下五段に礼を言う。
「とりあえず使いやすそうなグローブを選んでくれ、みんなー」
SSSのメンバーを振り返り声を張り上げると、連中がのそのそと青いかごを囲んでグローブを手に取る。
「ええとさ、日向君、こういうのって、種類があるの?」
一番小ぶりなグローブを手に取った大山が不安そうに俺に尋ねてくる。
「いや、まぁ……キャッチャーミット以外はどれでもいいんじゃねえかな」
実際には種類があるけれど、素人軍団相手にそこまでこだわる必要はないだろう。それからほかの連中はどうだろうとあたりを見回すと、
「……椎名、お前、なんで両手にグローブを付けてんだ?」
「二刀流だ。この方が私には捕りやすい」
「って、両手にグローブ付けて、どうやってボールを投げるんだよ!」
あさはかなりっ!
「レッツプレイベースボー、フォー!」
いや、TK、別に回らなくてもいいからさ。
「グローブの数は多いですが、結構破れているものがありますね。しっかり手を覆うものを選ぶ必要があります」
高松、手だけじゃなくて上半身も何かで覆おうぜ?
「おっ、大山、そっちのグローブの方がきれいじゃねえかよ。交換しろ」
「えー! ひどいよ、藤巻君」
そうこうしているうちに大山に藤巻がちょっかいをかけ始めたのを横目に、唯一特別な装備が必要なキャッチャー野田に声をかける。
「野田。お前はこれな」
「いらん」
キャッチャーミットを渡そうとすると、なんとにべもなく断られた。
「はぁ?」
意味がわからん。何を言い出すんだ、このアホは。
「プロテクターなど惰弱。俺は、素手で、ゆりっぺに男らしさをアピールする!」
……すごいアホがいた。どこの世の中に素手のキャッチャーがいるんだよ! がくり、と俺はうなだれる。前途多難だ。
「音無ぃー、ちょっと野田をせっと――」
もうやってらんねぇー。こういう面倒ごとは唯一の常識人、音無に押しつけるに限る。そう思って、音無を振り返ったら、
「さぁ、けがしないようにちゃんとプロテクターをつけなくちゃな、奏」
「……動きにくいわ、結弦」
奏ちゃんにプロテクターをつけてやっている音無。キャッチャー用の。
「って、一塁手にキャッチャー用のプロテクターはいらねえよ!」
「アホばっかしですね!」
もう返す言葉がない。
*
なんとか全員に野球装備を付けさせて、それぞれのポジションへと散らせた。
ちなみに、あれだけカオスを極めていた連中がおとなしくポジションについたのは、ゆりっぺの「お前ら、いい加減しろー!」という一喝だった。
最初はとんでもない女だと思っていたけど、意外とこのアホどもを束ねるにはこれくらいの方がいいのかもしれないな。……彼女にするとかは絶対無理だけど。
「けど、わりぃな、ゆりっぺ」
「ん? 何がよ?」
ゆりっぺは何を謝られているのがよくわからない、と首をかしげる。
「いや、俺のわがままでさ、こんな風にみんなを集めてもらって」
ユイには聞こえないように、そっとゆりっぺに耳打ちする。それを見ているユイのやつは、心なしかぶーむくれた顔をしているが、まぁ仕方ないさ。
「別にいいわよ」
あっさりとした調子でゆりっぺは俺の言葉を流す。
「それにこれで終わりじゃないし」
「はぁ?」
なんか、俺の知らないうちに事態が進んでいるような。
「野球チームを作ったからにはちゃんと試合をするわよ。もう対戦相手との交渉も終わっているんだから」
「ええ! まじかよ!」
驚く俺をよそに、ゆりっぺは遊佐にアイコンタクトを送る。
「はい。現在交渉中の対戦相手は、町内の草野球チームと高校の野球同好会の二チームです」
「なんだよ……びびって損したぜ」
ふぅーと俺は息を吐く。
「何がよ?」
「え? だってさ、お前だったらなんかまじな野球部とか連れてきそうだし。ま、遊佐の話を聞く限りでは、ふつーの草野球チームみたいだからな」
「対戦相手の町内草野球チームですが、パン屋のおじさんを中心としたチームで、元甲子園球児たちで構成された草野球チームを負かすほどの強豪だそうです。そして高校の同好会チームの方ですが、こちらもその高校の運動部のキャプテンたちで構成されたチームを破ったという情報が入っています」
遊佐の口から訥々と語られる衝撃の事実。
「……なぁ、ゆりっぺ」
「何?」
「もしかして、俺たちって絶対勝利を義務づけられてたりする?」
「もちろんじゃない。やるからには勝たないと承知しないわよ」
それは、悪魔のほほえみだった。
*
のんびりとした気分が一転、妙な緊張感に支配されたまま、俺はバッターボックスに入る。ちょっとしたお遊びのつもりが、けっこー真剣にやらないといけないみたいになってしまったぞ。……ま、いーけどさ。
俺は気を取り直して、バッターボックスの土をならす。なんだか、ずいぶんと懐かしい動作に思えた。そんなに時間は経っていないはずなのにな。
バッターボックスからフィールドを見渡す。他のみんなはちゃんと守備位置についているみたいだ。
「準備はいいかー、日向?」
「おう。そっちはどうだー?」
「オーケーだ」
マウンドに立った音無とやりとりをする。準備は整った。これで後はプレーボールを待つだけ。
「って、あ」
しまった。肝心なことを忘れていた。審判がいねえ。これじゃあ、プレーボールが出来――
「ん? なんだ、愚民?」
「……いや、なんで、お前がそこにいるんだよ?」
振り返った俺の視界に入ったのは、審判の立ち位置にいる直井の姿。しかもなんかご丁寧にプロテクターまで付けている。けど、
「お前、そのプロテクターに貼ってある『音無さんがんばれー!』ってなんだよ?」
「見てわからないのか、貴様の目は節穴か。音無さんに対する応援メッセージじゃないか」
「いないと思っていたらそんなことをやってたのか……つーか、お前、その位置審判だろ!」
「当たり前だ。僕は、このゲームを支配する神だからな」
なんかまた話がややこしくなってきたなぁ……
「音無さーん! どんなボールを投げても僕が責任持ってストライクにしますから、安心してくださいねっ!」
「って、審判が堂々と不正宣言するんじゃねえよ!」
頭をかきむしって叫ばざるを得ない!
「この人もアホなんですね!」
ユイに言われるまでもなく、このアホ軍団を率いて野球が出来る自信がない!
「……とりあえず、プレーボールって言ってくれ」
「プレーボールと言ってください、だろう?」
「……プレーボールと言って、く・だ・さ・い」
直井のやつは勝ち誇ったように鼻で笑うと、右手を大きく突き上げた。
「プレーボール!」
いいのか、と音無が目で合図してきたので、頷いた。ゆっくりと音無がモーションに入る。……って、サイドスロー?
「ストライク!」
あっけにとられる俺の目の前を白い軌跡を描いて通り過ぎていった。直井のやつの不正があろうがなかろうが、まごう事なき真ん中低めのストライク。速度も球威もそこそこだ。
あんにゃろう……やっぱり絶対テストの前に「俺全然勉強してねえよー」とか言いながら、ちゃっかり勉強しているタイプだ。
「ひなっち先輩ー! 何ぼんやり見送りやがってるんですかー! 気合い入れて打たんかい、ごるぁー!」
ご丁寧にヤジまではいる。お前に言われんでもがんばるわ。
「ふっ。貴様の力は、こんなものかー!」
野田が、全力投球で返球をしながら、不穏当なことを叫ぶ。
「この程度の速球でゆりっぺの心を射止められるなどと思うなぁー!」
……もう、これ以上のトラブルは勘弁してくれ。泣いちゃうぞ、俺。
バシンと音を立てて、野田の球を受ける音無。頼むから、そこは大人の対応で受け流してくれ、音無。
「……何を馬鹿なことを言っているんだ」
やれやれという風に音無は首を横に振る。
よかった。挑発に乗るつもりはないらしい。やっぱり音無、このメンバーの中で一番の常識人だぜ。
「俺の目には――」
ここで音無は一塁の方へ体を向ける。
「奏、お前しか見えていない!」
「って、お前はもうちょっと周りも見ろよぉー!」
「アホばっかりですね!」
*
「お前ら、気合い入れていくぞ、おらぁあー!」
バッターボックスにてフィールドに向かって絶叫する俺。もう、荒ぶる俺の血は抑えられないぜ! ……人はそれをヤケという。
「おらぁー、野郎ども、やっちまえ、ごるあー!」
そして、どっちを、というか、そもそも何を応援しているのだろうか、この応援は。
しかし、だ。俺はグリップをぎゅっと握りしめながら考える。
野球チームで一番重要なのは何か? と訊かれれば、その答えはエースの存在だ。そして、今日の音無の投球を見て確信した。結構、こいつは筋がいい。ちゃんと練習すれば、そこそこのレベルまではいけるはずだ。それこそそこらへんのアマチュアのチームには負けないくらいに。
よし。なんかちょっと希望が出てきた。というか燃えてきた。そりゃ、バットを握る手にも力が入るってもんさ。
意外と守備陣の運動神経もいい。特に内野陣はそこそこいい線をいっているのではないか、と思うし、センターの松下五段も心強い。いける。きっと、いいチームになる。
「日向くーん、こっちには飛ばさないでねぇー」
「けっ、へたれだなぁ、大山。おい、こっちにはいつでも打ってこいやぁー!」
……両翼が穴だけどな。
まぁ、いい。それくらいでいいさ。それくらいの方がやりがいがあるってもんだ!
「あ、ひなっち先輩」
「ん? なんだ、ユイ」
不意にユイが俺に声をかけた。俺はユイを振り返る。
「なんか、先輩の表情、すごく生き生きしていますね」
不思議そうにユイが俺を見つめる。俺は自分の頬に手を当ててみた。そんなに、表情が違って見えたんだろうか?
ゆりっぺの方へ視線をやる。そうすると、ゆりっぺの奴はにやりと笑って頷いた。
「……そうか?」
「うん。なんか、ユイが今まで見てきた中で、一番」
「……そうかもな」
確かに、こんな風に心の底からわくわくするのは、久しぶりだった。いや、もしかしたら、初めてかもしれない。これから起こることのすべてが楽しみで仕方がないんだよ。間違いだらけだったとしても、失敗だらけだったとしてもさ。
バッターボックスで構えた。口元から笑みがこぼれる。
あぁ、思えば、たった一つ――俺が野球をしているところを見せてやる、そんな約束を守るために、ずいぶんと遠回りをしたもんだな。でも、それだけいろんなものが得られたよ。たぶん、これもきっとユイのおかげなんだろう。たぶんきっと、お前が笑ってくれるから。――絶対に、本人にはそんなこと言わねえけどな。
音無がゆっくりとモーションに入る。二球目。
音無。確かに、お前はピッチャーとしては筋がいいと思うぜ。けどな、俺だって、今までずっと必死に練習してきたんだ。さっきは面食らって見送っちまったけど、打てない訳じゃないのさ。
そして、俺には約束があるからな。
「かっとばせー、ごるあぁ!」
――だから、口が悪いってんだよ、お前は!
声援に合わせて体が反応する。ストレート。外角低め。呼び込め。最高のタイミングで。
全身から力が抜けるように、バットの先がきれいな半円を描く。
一瞬時間が止まったような錯覚がした。止まった世界で音がまっすぐに空へと飛んでいく。それを合図に世界は動き出す。視線は大飛球を追いかける。みんなで追いかける。太陽の光が反射して、青い空に俺の一番きれいなものを映す。
ベースボールは終わらない。