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[26342] 鬼姫戦国行(戦国時代・伝奇・憑依・TS要素あり)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/06 23:43
 
 
 序章 「羽柴の鬼姫」
 
 
 たったひとつの訃報が、時を凍てつかせた。
 織田信長の死は、それほどの衝撃を、戦国に生きる者すべてに与えた。
 天下人が死んだ。あろうことか後継者までもが直後に死んでいる。天下が宙に浮いたのだ。それをめぐって激しい争いが起こることは明らかだった。

 天下大乱の時が来る。
 狂熱の予感が凍てついた時を溶かし、にわかに混乱が広がった。
 その中で誰よりも早く動いたのは、信長を死に追いやった張本人だった。

 明智光秀。今は惟任日向守を名乗っている。
 織田家の有力武将として畿内方面軍を統率していたこの老将は、混乱の巷であった京都を治めると、与力諸将に懐柔の手を伸ばし、さらには天下人信長の象徴であった安土城を占拠している。

 ここまでわずか数日。電光石火の所業だ。
 光秀は宙に浮いた天下を掴まんとしていた。


 ――かの人は、天下人に成る。


 そう確信する者も多い。
 京極高次もその一人だ。
 この、二十歳になったばかりの若き武将は、夕闇に沈む近江長浜城への道を、手勢を率いてひた走りながら、その思いを深めていた。

 長浜城の主は羽柴秀吉だ。
 光秀と同じく、織田家の一方面軍を率いる有力武将である。
 中国方面で毛利と対峙している秀吉の留守を突いて占拠する。まさに天下取りの一翼を担う働きだ。


「おおっ!!」


 感極まり、高次は思わず吼えた。

 京極氏は、元をたどれば北近江守護の家柄だ。
 それが浅井氏の下剋上を受け、国守の座から転がり落ちた。
 高次自身は、信長の庇護下で近江奥島五千石を領する身でしかなかった。
 若い高次には、それが我慢できない。だからこそ、謀反を起こした光秀に、素早く従ったのだ。


 ――天下人となられた惟任どの(光秀)の令下で、導誉公ほどの威勢を示してみせようぞ!


 バサラ大名として名を馳せた先祖に己をなぞらえて、高次は意気を高ぶらせていた。

 そんな彼の瞳に、ちかと朱の光が映った。
 長浜城のある方角だ。すわ火事かと肝を冷やした高次だが、違った。
 かがり火だ。無数のかがり火が、城を朱に照らしているのだ。城下まで馬を進めた高次はようやくそれに気づいた。


 ――敵襲に備えてか?


“本能寺”より数日経つ。
 光秀謀反、信長死亡の報は、長浜城にもすでに伝わっているに違いない。
 おそらく夜襲に対する備えだろうと見当をつけながら、高次は構わず馬を進めた。


「羽柴筑前は遠征中である。どれほど備えようと、城を守るは寡兵よ」


 声に出したのは、将兵の不安を払うためだ。
 正しい推測だった。兵を寄せてみれば、大手門付近には人の影もない。


 ――やはり兵が足りぬのだ。それゆえ他を捨て、本丸のみを守るつもりであろう。


 無人の大手門をくぐりながら高次は確信した。
 だが、高次の余裕も、本丸にたどり着くまでだった。

 城の中は、かがり火で明々と照らされている。
 長浜城は水城である。二重の外堀と内堀に囲まれ、琵琶湖の湖面に浮かんだ格好だ。
 吸い込まれそうな夜空の下、炎の照り返しは城ばかりか湖面までをも朱に染めている。

 そんな闇と朱の世界に、たったひとつ、人の姿があった。
 開け放たれた本丸門の下である。両脇に据えられたかがり火が、その孤影をはっきりと映していた。

 少女である。
 女と呼ぶにはまだ幼さの残る顔立ち。
 身に纏う打掛はまばゆいまでの白だが、肌はそれ以上に白い。
 艶づやとした髪は黒く長く、唇は血を塗りつけたように赤かった。
 手には薙刀。こちらを見返す瞳が、かがり火の朱い光を反射して、獣のように輝いている。

 知っている。高次は彼女を知っている。
 気圧され、飲んだ息を押しのけるように、高次はつぶやく。


「羽柴の、鬼姫」

「――羽柴の鬼姫」


 少女の名乗りが、高次の言葉に重なる。


「主不在の長浜を侵す狼藉者に……懲罰仕る!」


 厳然と。閻魔が罰を下すように。
 少女は朱の光照り返す白刃を、足元に叩きつけた。


 
 
 第一話 「羽柴の娘」
 
 


 ――景子さま。


 地の底からささやくような声を、ねねは聞いた。
 長浜城への帰路でのことだ。寒い日だった。日中から雪がちらついており、葦の茂る湖岸には、うっすらと雪化粧が施されている。そこに折り重なった死体の山から、声は聞こえてきた。

 賊に遭ったのだろう。殺されたうえ、身に纏うものすべて剥ぎ取られた死体は、みな間違いなく三途の川を渡っている。生き残りの存在を信じるには、亡骸たちの姿は凄惨すぎた。


 ――死者の声かしら。


 ねねは心中つぶやいた。

 当世珍しくない。
 無念を抱えて死ぬものなど、戦国の世にはいくらでもいる。
 その数だけ死霊が漂っているのだ。死者の声など、さして驚く類のものではない。

 とはいえ、捨て置きにもできなかった。
 なんといってもねねはこの一帯の領主、羽柴秀吉の妻なのだ。秀吉不在中は城代を務める身として、目にした以上は処置する必要がある。
 死者の供養の手配を近衆の幾人か指示してから、ねね自身は城への帰路を急いだ。街道を荒らす賊の捜索及び討伐の段取りを相談するためだ。

 その先で、彼女は一人の少女を見つけた。

 最初、ねねはそれを死体だと思った。
 さっきのいまである。湖岸に寄せられた小舟の中で、倒れ伏して動かない少女の姿を見れば、そう思いもする。

 場所も近い。死者となった者たちとともに賊に襲われたに違いなかった。
 小舟の中に隠れてかろうじて助かったものの、この寒空である。そのまま凍死したのだろう。

 小袖姿の少女は、数え十三、四歳ほどか。
 髪は黒く艶のある見事なものだ。幼さの残る顔立ちには、どこか貴風がある。


 ――この娘が、景子さまかね。


 検めさせると、呼吸があった。
 生きている。それがわかると、ねねの心に憐憫の情が湧いた。
 民草ではない。並みの武家でもない。いずれ尊貴な家の娘に違いない。
 そんな少女が、明日よりは天涯孤独の身とは、世の習いとはいえ哀れを誘わずにはいられない。


「この娘を、駕籠に入れて頂戴」


 ねねは少女の冷えた体を抱いて温めながら城に戻った。
 氷の塊のようだった少女の体に少しずつ生気が戻って来るのを間近に見ながら、ねねは少女に愛情を感じ始めている自分に気づいた。

 結婚して十二年。夫、秀吉との間に子はなく、常に身辺に寂しさを覚えていた。その空虚に、少女はするりと滑り込んだのだ。

 この日から二日後、少女は目を覚ます。
 災いの衝撃でか、記憶定かならぬ少女を、ねねは養子として引き取った。

 少女の名は景子という。
 羽柴の鬼姫とは、まだ呼ばれていない。
 
 



 
 


 少女は己の名を覚えていない。
 景子と呼ばれてはいるが、これは後からつけられたものだ。


「あるいは、この体の持ち主の、本当の名前なんでしょうか」


 妙な言い方をするのには、わけがある。
 少女としての記憶を完全に喪失した彼女には、名を忘れた、もうひとりの人間記憶があるのだ。

 このことは、養母であるねねにも教えていない。
 言っても理解されないに違いない。四百年以上未来の男子大学生の記憶があるなんて、景子自身、正気を疑ってしまう。


「でも、事実なんですよね」


 と、景子は文机の上にため息を落とした。
 目下景子は御殿の奥に篭もりきりで武家としての作法教養を勉強中である。
 羽柴家は新興とはいえ武家である。しかも大名格だ。武家の作法どころかこの時代の一般常識すら知らないでは、胸を張って娘ですなどとは言えない。

 なによりも、自分を娘にしてくれたねねが面目を失うような事態は、絶対に避けなくてはならない。


「母上のためにも、頑張らなくては」


 景子にとってねねは大恩人だ。
 野垂れ死に寸前の自分を拾ってくれた、だけではない。
 目が覚めたら城の中で、わけがわからず途方に暮れていた景子に、彼女は「家族にならないか」とやさしく声をかけてくれた。


「母上――母さん、か……ふふ」


 つぶやいてみて、景子は頬を緩ませた。
 景子は施設の出だ。肉親に必要とされず、捨てられた過去がある。
 それだけに家族というものにあこがれていたし、それ以上に愛情に飢えていた。
 だからねねの好意に、景子は涙が出るほど感動し、また彼女のためにどんな労も厭わない気持ちになっている。

 元の時代に未練はないと言えばうそになる。
 友人たちと会えなくなって、それでも平気かと問われれば、首を横に振るしかない。

 だけど、ここには家族がある。
 それだけで、彼女はけっこう幸せだった。


「でも」


 景子はあらためて思う。
 名前も忘れてしまった“自分”が生きていたのは、はるか四百年以上の未来だ。


「それが、気がついたら戦国時代で、そのうえ豊臣秀吉の娘になるなんて」


 景子はいまだ実感が湧かない。
 長浜城で目を覚ますまで、思いもよらなかったことだ。
 いや、ねねと対面して自己紹介された時も、景子は自分が戦国時代にいると気づかなかった。

 彼女の口から羽柴秀吉の名が出てはじめて、もしや“ねね”とはあの“ねね”か。ならひょっとしてここは戦国時代なのかと思い至ったのだ。あまりの環境の変化に、自分が少女になっていたという驚きすら、吹っ飛んでしまったほどだ。


「しかし、こんなことなら日本史をもっと突っ込んで勉強しておくべきでしたか」


 景子はため息をついた。
 彼女が知っているのは、高校の授業で習う程度の歴史に、歴史ゲーム好きの友人が語っていた断片的なエピソードぐらいのものだ。それもかなりあやふやである。


「今は、天正二年……もうじき三年ですか」


 それが西暦に換算して何年になるのかも、景子は知らない。
 ただ何年か後には本能寺の変が起こるのだろうし、その後秀吉は天下人になるのだろう。


「天下人、豊臣秀吉か……一体どんな人なんでしょう」


 天井に目を向けながら、景子は想いを馳せる。
 秀吉は現在他行中である。帰ったら会えるのを楽しみにしているという手紙が、先に届いている。
 
 



 
 


 豊臣秀吉。
 天正二年当時は羽柴秀吉を名乗っている。
 元の名を木下藤吉郎といい、卑賎な身分から出世に出世を重ね、ついに天下を取った空前絶後の人物だ。

 そんな偉人の養子に、景子はなってしまった。
 まだ直接会っていないが、手紙ではいち早く歓迎の言葉を送ってくれている。
 その秀吉が城に帰って来ると知らせを受け、そわそわしながら、景子はねねに身だしなみを整えてもらっていた。

 少女の体でいるのは慣れた。
 というより、名前を忘れてしまったせいだろう。どうも未来の記憶を持つ大学生だという実感が薄れている。
 だからそのぶん今現在の、少女としての自分を容易に受け入れられたのではないか。景子はそう自己分析している。


 ――まあ、嫁入りとか男女のあれこれは、まだまだ勘弁ですけど。


 それはまだ先の話だろうと思っている。
 この時代、彼女くらいの年齢であればすでに適齢期だという事実を、景子はまだよくわかっていない。


「やあ、どこへ出しても恥ずかしくないお姫さんができたよ」


 ねねのこんな台詞を、景子はただの褒め言葉だと思っているのだから、平和なものだ。

 そんな風にして待っていると、ほどなくして秀吉帰城の知らせがあった。
 直後に、なんと秀吉本人がひょっこりと姿を現した。報告した人について来たかと思うような早さだ。
 そこまではしていないとしても、城に帰るやまっすぐに来たのだろう。秀吉の格好は旅塵にまみれ、薄汚れている。


「せめてもうちょっときれいに身を整えてからにしておくれよ」

「まあまあ、ええとしといてくれや――おお、めんこいのが居るのう」


 渋い顔で咎めるねねの言葉もどこ吹く風だ。
 秀吉に無遠慮な視線を向けられ、景子ははにかみながら頭を下げた。

 秀吉は四十前に見える。
 戦場焼けの肌は赤黒く、しかしなめし皮のような艶がある。
 頭髪は擦り切れたように薄くなっており、髭もまた、薄い。シワが笑顔の形に刻まれており、瞳には生気があふれている。


 ――この人が、天下人。


 そう思えば、自然と肩がふるえる。
 無理もない。はるか四百年の後にも、知らぬ者のない名なのだ。


「おまえさんがワシの子か?」


 笑いかけられ、景子はあわてて一礼した。
 頭を下げたところで、やっと自分を歓迎してくれているんだと気づく。
 じわりと広がってきた喜びに、肩を震わせる。そんな景子の肩に、ぽんと手が置かれた。秀吉の手だ。大きくて、温かい。


「秀吉じゃ。おまえの父様ととさまじゃ。よろしくのう」


 やさしい声だった。
 温もりが、心に沁みた。


「ととさま」


 景子は口に出してつぶやいた。
 孤児だった景子にとって、生まれてこのかた口にしたこともない言葉だ。


「おう。ととさまじゃ。遠慮のう呼んでくれい」


 秀吉は笑っている。
 ねねもつられてか、笑顔だった。
 だが一瞬のち、その顔が夜叉にかわる。
 秀吉が景子に「いっしょに風呂に入らんか」などと言い出したためだ。

 他意はなかったのかもしれないが、この場合言った人間に問題がある。
 秀吉の好色ぶりは、四百年も後の、しかも歴史に詳しくない景子ですら知っている。

 ほうほうの体で逃げ回る未来の天下人と、それを追う夫人の姿を、ぽかんと見ながら、景子は次第に笑みがこぼれてくるのがわかった。


 ――私はこの時代で生きる。


 笑いながら、景子は心に決めた。
 生きて、この素敵なふたりに娘と呼ばれたいと、掛け値なしに思ってしまった。
 さよなら、と、未来の知友に別れを告げて、景子は追いかけっこをするふたりに抱きついた。


「――羽柴の娘に、私はなる」







[26342] 鬼姫戦国行02 「虎之助」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/07 00:13
 
 
 第二話 「虎之助」
 
 
 年があらたまり、天正三年。
 正月も三日を過ぎて、長浜城の主、羽柴秀吉はようやく帰城した。
 主君信長のもとへ新年のあいさつに出向いていたのだ。秀吉の帰還を待ちかねたように、にわかに人が集まった。城内には秀吉直属の配下や与力衆などが集まり、新年の宴が開かれた。

 祭り騒ぎを遠くに聞きながら、景子は自室でのんびりと餅を食べていた。
 宴のせいで女中連中は軒並み駆り出されている。景子は手あぶり用の小さな火鉢を抱えてきて真っ赤にいこった炭を落とし、その上に金網を張って手ずから餅を焼いていた。

 味付けは、味噌。
 焼き餅には醤油と決めつけていた景子だが、これはこれでなかなかいける。
 宴の喧騒を肴に、景子はゆっくりと食事を楽しんだ。餅と一緒に酒も分けてもらったのだが、一口つけて始末をあきらめた。さして強くもない濁り酒だが、それでも景子は体に受け付けなかった。


「しかし、一人でのんびりできるというのも、いいものです」


 景子はしみじみとつぶやいた。
 秀吉夫妻に正式に養子として迎えられ、親族たちへの面通しも無事終えて、いろいろな人と顔を合わすようになった。

 初対面の者には、奇異の目で見られることが多い。
 当然だろう。素性も知れぬような少女が、いきなり羽柴秀吉の娘になったのだ。興味を抱かれるのも無理はない。

 本来ならばそこに羨望や嫉妬が混じるはずだが、景子の場合、容姿が幸いした。
 どこか貴げな目鼻立ち。長く艶のある髪。肌などはちょっと見ないほどに白い。どう見ても庶民ではない。
 はったりのきく容姿のせいで、景子は冷たい感情の風に晒されることなく迎えられたのだが、そのあたり本人は分かっていない。


「みんないい人たちでよかったです」


 くらいに考えているだけだ。
 とはいえ、やはりそれなりに気疲れはする。
 ゆっくりくつろげる時間を、景子は満喫していた。

 そんなときである。景子はふと視線を感じた。
 こちらをじっと観察するような、そんな視線だ。しばらく無視していた景子だが、見られている感覚はずっと続いている。


「そこに居るのは誰です?」


 意を決して、景子は視線の主に声をかけた。

 廊下側のふすまの向こうで、息をのむ気配がした。
 だが、それだけだった。しばらく待っても、相手が返事をする様子はない。


「見ての通り私ひとりです。いらぬ気遣いは必要ありません」


 重ねて言葉をかける。
 ややあって、襖がゆっくりと開いた。
 その向こうにあったのは、ばつの悪そうな顔をした少年の姿だった。

 目元のくっきりとした、やんちゃそうな男の子だ。
 年のころは、数えで十五歳ほどか。景子より少し年上に見える。


「あなたは誰?」

「……虎之助」


 少年が頭を掻きながら答えた。
 景子はその名に何の引っ掛かりも覚えない。
 彼女がもう少し歴史に詳しければ、それが加藤清正の通名だとわかっただろう。

 加藤清正。

 秀吉子飼いの中でも、もっとも有名な武将の一人だ。
 賤ヶ岳の戦いにて功名をあげ、いわゆる“七本槍”の筆頭とされた人物である。
 後に肥後熊本五十四万石を領する大大名の、若かりし頃の姿が、ここにある――のだが、景子はさっぱり気づいていない。


「なぜ、私を見ていたんです?」


 景子が尋ねると、少年の口元が不機嫌に歪んだ。


「おまえ」

「景子」

「……おまえ、おねねさまの子供になった娘じゃろ?」


 呼び名を改める様子もない。
 おまえが気に入らない、と、顔中くまなく書いてあった。


「そうですが、あなたは?」

「藤吉郎さまの小姓じゃ」


 それが何よりの誇りだとでも言うように、少年が胸を張る。かわいいものだ。
 こぼれだしてくる微笑を面に出さないよう気をつけながら、景子は虎之助に疑問を投げかける。


「その、小姓の方が、なぜ私を見ていたんですか?」

「――っ。おまえが、おねねさまを誑かす悪い奴じゃないか、見張ってたんじゃ!」


 息をのみこみ、しばし煩悶するように眉根を寄せ、それから虎之助は顔を紅潮させて叫んだ。


 ――ははあ、これは。


 虎之助の様子に、景子はぴんときた。


「母上――おねねさまを盗られたみたいで気に食わなかったんですね?」


 景子の言葉に虎之助の肩がぴくりと震えた。図星のようだった。


「……おまえ、生意気だな」


 さんざ眉をひねくってから、不承不承という風情で、少年は降伏するように言葉を吐いた。
 ひねているが、癇癪を抑えるだけの理性はあるらしい。若いとはいえ小姓として大人の社会にまぎれている。それだけに、景子の知るおなじ年頃の子供より、よほど理性的だった。


「――けーいこぉ。げんきにしてるかぁーい?」


 唐突に、頓狂な声が響き渡った。
 虎之助がまずい、という顔をした。
 豪快に襖を開け、敷居をまたいで入ってきたのは、ねねだった。
 千鳥足である。しかも顔がほんのりと赤い。酒が入っているのだ。


「母上」

「やー、けいこぉ。あそびにきたよぉ」


 言いながら、ねねは景子にしなだれかかってきた。
 相当酔っているのだろう。声の抑制がまるで効いていない。

 これほど酔った彼女を、景子は見たことがない。
 普段は城代として采配を振るわねばならぬ手前、控えねばならぬところだが、今は秀吉が居る。それで安心して度を越しているのかもしれない。


「ありゃ、虎之助。見ないと思ったら、こんなところに来てたのかい」

「おねねさま!」


 少年が顔を真っ赤にして返答した。
 鉄棒が通ったように、背筋をまっすぐに不動の体勢。景子に対する生意気な態度とはまるで違う。


「もう顔を合わせてるんだね。ちょうどいい。この子が私の娘になった景子だよ――景子。こっちがうちの人の親類筋で、小さいころからうちで預かってる虎之助だよ。でかいけど、十三歳になったところかな。いまはうちの人の小姓をやってる」

「よろしくおねがいしますね」

「よ、よろしく」


 ふたりとも首っ玉抱えられて、至近距離であいさつさせられた。

 ねねの豊満な胸に挟まれながら、景子は納得した。
 虎之助は幼いころからねねに養育されたのだ。彼女のことを母に等しく慕っており、だから景子への嫉妬もひとしおなのだろう。


「それにしても景子、体冷たいねー。肌も白いし。雪肌って奴かねー。ああ、ほてりが覚めるー」


 ねねはそう言って頬をこすりつけてくる。
 めちゃくちゃである。虎之助のほうも、ねねの腕と胸に顔を挟まれて、赤くなったり青くなったりしている。


 ――なんだか、弟ができたみたいな。


 苦笑しながら、景子はそう思った。
 
 



 
 


 ねねのおかげもあって打ち解けることができたのか、景子と虎之助は、顔を見れば話すようになった。

 景子は虎之助の話が好きである。
 虎之助が世間話のつもりで語る近年の情勢などが、景子からすれば歴史の話になる。それが景子にとってはひどく新鮮だった。


「あいつが聞けば、のた打ち回って喜ぶんでしょうね」


 歴史ゲーム好きだった友人を思い出しながら、景子はくすりと笑う。
 そのたびに、なぜか虎之助はひときわ声を大きくして、とっておきの話をしだすのだ。


 そんなある日のこと。
 いい日和に誘われて御殿の縁側に出た景子は、庭の隅に立って手槍を構え、じっと動かない虎之助の姿を見つけた。


「虎之助」

「……おまえか」


 声をかけると、少年は脱力したように振り返った。
 その向こうにはふた抱えほどありそうな大きな庭石が転がっている。
 興味をかられた景子は、履物を履いて来て虎之助のところへ行ってみた。


「何をしていたんです? 岩に向かって槍なんか構えて」

「槍の稽古じゃ」

「稽古?」

「ああ。槍を岩に突き刺す」

「そんなことできるんですか?」

「半兵衛さまに聞いた話じゃがな」


 半兵衛と言うのは、竹中半兵衛重治のことである。
 今孔明の名も高い、知略に長けた将だ。現在は与力として秀吉のもとに居る。参謀として秀吉軍に欠かせぬ存在である。


「矢を射て岩に突きたてた大将が、からに居ったらしい。なら槍でも出来んことはないじゃろ」

「岩に、矢を?」

「ああ。虎と間違えて射ったら岩で、それでも刺さったって話じゃ」

「へえ」


 ちょっと感心しながら、景子は虎之助が手槍を向けていた岩のほうに目をやった。
 言われてみればこの岩、虎が這いつくばって獲物を狙っているような形をしている。半兵衛の話に触発されて、わざわざ虎に似たものを選んだのだろう。

 虎之助の仕業だろうか。何箇所か針で突いたような傷があった。
 硬い岩に突きたてたのだ。手槍のほうも無事ではないだろう。刃がつぶれるくらいはしているに違いない。


 ――父上に怒られなきゃいいんですけど。


 庭石はともかく、戦道具を戦以外のところで駄目にするような、いわば武士として不見識なまねに対して、秀吉は厳しい。
 この事を知られれば、虎之助はこっぴどく叱られるに違いない。半べそになっている虎之助の姿が、景子には目に浮かぶようだった。


 ――いっしょに怒られてやりますか。


 景子はふとそう考えた。
 彼女にとって虎之助はかわいい弟分である。庇ってやりたくなったのだ。


「虎之助、槍を貸してください」


 景子は虎之助の前に手を出した。
 一緒になってやったことにしようというのだ。
 普通に庇えばいいのに、こんなことを求めたのは、何のことはない。景子も試してみたかったからだ。こういった少年のような稚気は、少女の体になっても、なくなっていない。


「え、やだよ。なんでだよってああっ!? 先のところ、刃がつぶれとる!」

「……気づいてなかったんですか」


 肩を落とす虎之助からちゃっかり手槍を奪って、景子は庭石に向けて構えた。
 たいしたもので、穂先でつけられた傷は、親指の爪ほどの範囲に集まっている。


 ――ちょうどいい目印です。


 庭石の傷に狙いをつけた、その時。
 唐突に、音が消えた。


 ――何?


 戸惑う間に、景色が消えた。
 何も見えない。痛いほどの耳鳴り。その中で、景子は遠くに水音を聞いた。


 ――川の流れる音? でも。


 景子は身を震わせた。
 何故だか知らないが、景子には、あの水音がとても善くないものに聞こえた。


「――ケタ」


 ふいに、ぞっとするような声が聞こえた。
 はるか遠くにありながら、同時に耳の奥でささやかれたような、異様な感覚。

 抗うように。景子は槍を遮二無二突き出した。
 ばしゃん、と、桶の中の水をぶちまけるような音がして、唐突に景色が戻ってきた。


「おまえ……」


 虎之助が庭石を見て絶句している。

 槍が、その穂先を完全に庭石に埋めていた。
 傷口からは無数の亀裂が放射状に広がっている。
 そして庭石は、この陽気に水をかぶったとしか思えないほどに――濡れていた。

 景子の顔は、青ざめていた。
 庭石を壊してしまったからではない。声を聞いてしまったからだ。
 あの、川音しかない無の世界で、はっきりと景子に向けられて、声はこうささやいたのだ。


 ――ミツケタ。


 
 

 
 


 この翌日、ねねは近衆の一人から報告を受けた。
 景子を拾った日、賊に襲われた死体の供養の手配をした、あの近衆からだ。
 供養を依頼した寺の住職から、こんな連絡があったのだという。


「件の仏(死体)、報せよりひとかた足りず」


 鳥獣の餌となったか、あるいはそれに近しいものの仕業か。
 いずれにせよ当世、珍しいことではない。







[26342] 鬼姫戦国行03 「鬼と悪霊」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/10 06:53
 
 
 第三話 「鬼と悪霊」
 
 
 ひたり、と。水に濡れたような足音を、景子は聞いた。
 茫漠たる闇の中、風に寄せられ、さざ波を立てる琵琶湖の水音を聞きながら。
 はるか遠くで発したはずの足音は、ほかのどんな音よりも間近に、景子の耳朶をくすぐった。

 ひたひたと。ひたひたと。
 迷わず、まっすぐ、はっきりそれとわかる速さで、足音が近づいてくる。
 景子にはなぜかそれが、自分を求めているのだとわかる。それが、とても善くないものだということも、彼女にはわかる。

 わかりながら、景子にはどうしようもない。
 ただ確実に近づいてくる足音を、成す術もなく聞いているしかない。


 そして――


「――夢、ですか」


 蒲団の上で、景子は目を覚ました。
 冬だというのにぐっしょりと汗をかいており、肌着が重く湿っている。

 ただの夢ではない。
 昨日、岩を割った時に聞いた、あの声に関係しているだろうことは、景子にも察しがついた。

 悪霊。怨霊。魑魅魍魎。
 そういった類の存在を、現代人としての景子は否定している。
 だが、そもそもの発端である昨日の異常は、景子の知識ではとても説明できないのだ。

 放っておいていい問題ではない。
 理性ではなく景子の勘が、全力で警鐘を鳴らしていた。


「私事で父上の手を煩わせたくはありませんが……」


 悩んだ末、景子はやはり秀吉に相談することに決めた。
 城に居る時も秀吉は多忙である。捕まえることができたのは日も暮れようかというころだった。

 景子が「話がある」というので、最初相好を崩していた秀吉も、話が進むにつれ、しだいに難しい顔になっていった。

 槍を持ち、岩を割ろうとしたこと。
 不思議な空間を見たこと。声を聞いたこと。
 そして気づけば岩を割ってしまっていたこと。今朝見た夢のこと。
 事の起こりである、虎之助が槍を駄目にした事だけ伏せて、あとは全部話した。


「――悪霊、かのう」


 最後まで話を聞いてから、口をへの字に結んで、秀吉がつぶやいた。


彼岸あのよ此岸このよの狭間に居る亡者よ。おまえはそれに魅入られたらしい」


 以前の景子なら、笑って否定したかもしれない。
 だが、じっさい不思議を体験してしまった以上、笑い飛ばせるものではない。

 景子が落ちつかない様子でいると、ふいに秀吉が彼女の頭に手を置いた。
 大きくて温かい、父親の手だ。景子は不安が急速にしぼんでいくのを感じた。


「ととさまに任せい。古来悪霊退治は武士の仕事と相場が決まっておる。我が騎下一の勇将をつけてやるから、おまえは安心しとりゃあええ」


 頼もしい言葉に、景子は目を細めてうなずいた。

 それから景子はあらためて秀吉に呼ばれ、ひとりの男を紹介された。
 大柄で寡黙な、少壮の武者だった。顎のあたりにまだ新しい刀傷がくっきりと残っており、それが景子に戦の風を間近に感じさせた。


「それがし宮田喜八郎。羽柴の殿より姫君の護衛の命を仰せつかった」
 
 
 威のある野太い声だった。

 宮田喜八郎光次。
 いわゆる羽柴四天王の一角として武名高い武将である。
 むろん景子が彼の名など知っているはずもないが、喜八郎の居住まいは、彼女が知っているどんな人間よりも芯が据わっている。


「よろしくお願いいたします、宮田さま。頼もしく思っております」


 応、と、合戦のような声で返されて、景子は苦笑交じりに頭を下げた。
 
 



 
 


 その晩は、早々に部屋に閉じ込められた。
 城のどこかにあったのか、はたまた心得のある者がいたのか。部屋中にべたべたと札が張り付けられて、景子自身もねね愛用の数珠と経を持たされている。これを手渡しながら、ねねは宮田喜八郎にしつこいほど景子のことを頼んでいた。ありがたいが気恥かしくもある。

 その喜八郎はというと、邪魔にならぬよう気遣ってか、部屋の隅で静かに座っている。
 だが鎧兜を身に纏い、弓を杖にして微動だにしないさまは、異常なまでに暑苦しい。しかも喜八郎、部屋に入ってからほとんど口を開いていない。

 気が詰まりそうになる。
 景子は気散じを兼ねて火鉢に金網を置き、手ずから餅を焼いて彼にふるまった。



「かたじけない」


 喜八郎はまったく姿勢を崩さず、むしゃむしゃと餅を食らう。


 ――ああっ、せっかく上手に焼けましたのに。


 景子は餅好きである。
 凝りに凝って焼いた餅が哀れにも胃袋に投げ込まれていくさまに、こっそり涙した。

 皿の中の餅がすべて喜八郎の胃袋に収まったころ、ふいに廊下がきしむ音がした。


 ――悪霊。


 景子はすぐに連想した。
 足音は確実に景子の耳に響いている。
 一歩、一歩、確実に近づいてくるそれは、やがて部屋の前でぴたりと止まった。


 ――昔、こんな話を聞いたことがあります。


 既視感を覚え、景子は以前聞いた怪談を思い出す。
 悪霊に魅入られた男が、お札を張った部屋に籠もる話。
 お札のために部屋に入れない悪霊が、知り合いの声を使ったり、昼間だと欺いたり。あらゆる手段を使って男を騙そうとする、そんな話だ。


「何者か」


 喜八郎が誰何の声をあげた。
 常と変らぬ落ち着いた声である。安心感を覚え、景子は初めて彼の存在に感謝した。

 ふすまの向こうで、喜八郎の声に応えるように、身じろぎするような衣擦れの音があった。ややあって、幼い声が扉の向こうから聞こえてくる。


「……虎之助です。失礼いたします」


 一瞬いやな想像が景子の頭をよぎったが、それは裏切られた。
 ふすまはあっさりと開いた。部屋に入ってきたのは、間違いなく虎之助だった。


「虎之助。驚かさないでください。肝を冷やしました」

「いや、ちっとも怖がっとるようには見えん――と、喜八郎さま」


 虎之助は喜八郎を見てやおら居住まいを正し、頭を下げた。


「加藤虎之助。護衛の端に加えていただきたく、推参いたしました」


 喜八郎は不動、無言である。
 横で見ている景子のほうがはらはらしてしまう。
 虎之助が重ねて頭を下げた。


「喜八郎さま。どうか許していただきたく」

「許す」


 やはり微動だにせぬまま、この勇将は口元だけを動かした。


「話すのはどうも苦手でな。わしでは姫を落ち着かせられん」


 これまでの沈黙の正体を知って、景子は苦笑いを浮かべた。どっと疲れた気分だった。
 
 



 
 


 虎之助が加わったことで、すこし場が和んだ。
 景子は火鉢の上に金網を置き、はたはたと餅を育てている。
 香ばしい匂いが部屋にあふれ、育ち盛りの虎之助などは生唾を飲んでいる。


「どうぞ。虎之助」


 ぷっくりと脹れ、きれいな焦げ目がついた餅を進めると、虎之助は即座に齧り付いた。
 餅を伸ばしながらうまそうに食べる姿を見せられて、ふるまった景子も満足である。そのあと少年は味噌をつけたのを三つも平らげてしまった。


「美味かった」


 本当においしそうに言うものだから、景子も笑みがこぼれようというものだ。
 しかし、それからさらに餅を取り出し、金網に並べようとする景子に、虎之助もさすがに辟易とした顔になった。


「もう満腹じゃぞ」

「これは私の分です」


 景子は涼しげな顔で言った。
 ずらりと並べられた餅は、喜八郎と虎之助が食べた量よりも多い。


「おまえ、餅が好きなのか」

「好き、では足りません。私は餅を愛しているのです――ずんだ以外」


 景子は迷わず言った。


「この世にこんなにおいしい食べ物はないと思っております――ずんだ以外。神に愛された食べ物ではないかとも思います――ずんだ以外」

「ずんだとは何じゃ?」

「悪魔の食べ物です」


 景子は断言した。


「いや、餅が天上の食物だという事実を鑑みれば、堕天使的な食べ物と言った方が正しいのかもしれません。初めて食べた時はその過剰な甘さにめまいがしました。断言します。あれを作った人は悪魔です。外道です。天魔です。私は第六天の魔王が居るとすれば、それはずんだの開発者だと確信しました。もし万一そいつとめぐり合うことがあれば、どんな手を使ってでも倒そうと心に決めたものです」

「そ、そうか」


 景子があまりに熱く語るので、虎之助も引き気味である。
 ちなみにずんだ餅を開発したのは奥州の独眼竜、伊達政宗と言われているが、もちろん景子はその事実を知らない。

 ひとしきり吐き出して落ち着いたのか、景子はまた餅を丹念に育て出した。
 虎之助が景子に微妙な視線を送っているのだが、本人はまったく気づいていない。

 そして夜半過ぎ。景子は水音を聞いた。
 
 



 
 


 悪霊か。
 即座に動いたのは喜八郎だった。
 すっくと立ち上がると空弓を構え、びぃん、びぃんと弦を鳴らした。
 邪気を払うまじないである。それを知らない景子の耳にも、鳴弦の音は頼もしく響いた。

 だが、水音は止まない。
 ひたり、ひたりと、近づいてくる。
 灯明の火が揺れた。ほの暗い部屋の中で、三人の影が躍る。

 喜八郎が矢をつがえ、きりきりと引き絞った。
 水音は近づいてくる。がたりと、ふすまが音をたてた。
 一瞬の間。直後、ふすまが暴れ出した。桟がきしみをあげる。

 心臓を締め付けられるような思いで、景子は数珠を握りしめた。
 喜八郎はすっと景子の前に立ち、不動。ふすまの奥に狙いを定めて瞬き一つしない。
 虎之助のほうも槍を構え、景子のわきを守るようにしているが、こちらは膝が震えている。


「虎之助」

「む、武者ぶるいじゃ!」


 と、突っ張って見せたが、虎之助はやはり緊張していたのだろう。
 だから。


「虎之助、虎之助かい? ここを開けておくれ」


 こんな、あまりにも不自然な声に、引っ掛かってしまった。


「お、おねねさま!」


 外の者が声をかけ、中の者が答える。
 これが“招く”行為に当たることを景子は知らない。
 だが、これにより引き起こされた事は、彼女の眼にも明らかだった。

 すっと、音もなく、ふすまが開く。
 その向こうにあった代物を目の当たりにして、景子は凍りついた。

 女だった。
 ねねとは似ても似つかない。死色も明らかなやせぎすの、一糸纏わぬ姿の女だ。
 全身ずぶ濡れに濡れており、肩口から胸まで袈裟がけに斬り下ろされた刀傷が、赤黒い傷口をこちらに向けている。
 眼窩は虚ろであり、その奥におき火のような光があった。


「ミツケタ」


 女は、にたりと、赤い赤い唇を弓なりにしならせた。


 ――怖い。


 景子は数珠をぎゅっと握りしめた。
 死体を見るのは初めてだった。それが動くのもむろん、初めてだ。
 景子には目の前の存在が何ひとつ理解できない。それでも女は動く。その虚ろな視線はまっすぐに景子を射ぬいている。

 死霊。悪霊。
 その存在を、景子は初めて理解した。


「亡者めが!」


 裂ぱくの気合とともに喜八郎が弓を射た。
 それを額に受け、どす黒い脳漿のごときものを撒き散らしながら、亡者は狂笑を浮かべて景子に向かって突進してくる。


「させぬ!」

「景子!」


 喜八郎と虎之助が体をぶつけるようにして割って入り――そのまますり抜けてつんのめった。

 亡者の身は陽炎のごとくすり抜け、景子に向かう。
 とっさに反応できないでいる景子の肩に、ひやりと冷えた手が触れた。
 瞬間。


「景子さま」


 女が、声をあげた。


「やっとお見つけいたしました」


 その声が、あまりにもやさしげで。
 景子は女に斬りかかろうとするふたりを手で制した。


「あなたは……私を知っているのですか」


 激しい動悸に息切れしながら、景子はかろうじて声を出す。
 景子さま、と、女は言った。本人すら由来が定かでない名を、この亡者は知っている。


「ええ。もちろんですとも。我々が、われわれがお仕えする御方ですもの」


 女の声がぶれる。
 男のような声であり、女のような声であり、年かさもあればごく若い声も混じっている。体はひとつでも、中身はそうではないのだ。


「ずっとお待ちしておりました。冷たい、冷たい地面の下で。景子さまをお待ちしておりました。ですのに、景子さまはちっともちっともいらっしゃらない。こんなにもお待ち申し上げているのに。こんなにもお待ち申し上げているのに。だからだからわたしはそれがしは……」

「――そう。私のために、あなたたちは死後も囚われてしまったのですね」


 景子は理解した。
 ねねに拾われる以前。記憶を失う前の景子に、この女たちは仕えていたのだ。
 哀れだった。ひとえに景子への忠心のために、彼女は、彼女たちはこの世を彷徨っていたのだ。

 景子はいたわるように、女に声をかける。


「今の私は羽柴の娘として、不足ない暮らしをしています。あなたたちはもう、休んでいいんです」


 ぴたりと、女が動きを止めた。


「もう、わたしは要らないと?」


 その言葉には危険な響きがある。
 だが景子はそれに気づかない。静かに首を左右させた。


「不要なのではありません。あなたはもう、あなたのために、目をつむってもいいんです」

「なれば――」


 静かに、女の手が景子の細い首にかかった。
 ばちん、と、数珠がはじけ飛んだ。


「あなたを地下にお送りして、死後も永遠に仕え続ける事こそ、我らの望み」

「ま、って」


 声が出ない。
 巻きついた手が、万力の強さで景子の首を締め始める。
 粘性を帯びた空恐ろしい声で、亡者が景子にささやきかけた。


「――我ら景子さまのお命が、欲しゅうございます」

「させぬ!」


 裂ぱくの気合声とともに、剣閃が稲光った。喜八郎だ。

 女の体から両の腕が切り離された。
 だが。腕だけになっても首を絞める力はまるで衰えない。
 なおも斬らんと追う喜八郎から逃れるように、女が景子の後ろに回り込んだ。
 濡れた体を景子に圧しつけながら、亡者は愛おしげにささやきかけてくる。


「さあ、景子さま。ともに、ともにあの冷たい地の底へ参りましょう。そこでずっとずっとお仕えいたします」


 ――ごめんなさい……できない……それは……絶対に!


 かすみを帯び始めた意識の中で、景子は強く思う。


 ――だって、私はもう、あなたたちの景子じゃない。未来の記憶を持つ、羽柴の娘なんですから!


 生への執着が巌となって感情の湖面を叩く。

 その時、景子は――また水音を聞いた。
 流れる川の音。力が、体の奥深くから流れてくる。ありったけの力で、景子はそれを亡者に投げつけた。

 水音。そして断末魔。
 鳥肌の立つような音をたて、擂り潰されるように、女の姿は掻き消えた。
 女の居た畳は黒く濁った水が溜まっている。それもほどなくして透明になり、消えた。
 喜八郎に切り離された両の腕が力なく地面に落ち、消えた。消える前に九字を切るようなしぐさをしたが、呼吸を求めて必死だった景子の眼には映らなかった。


「これは、鬼門か」


 喜八郎がつぶやくように言った。
 
 



 
 


 そのあと、景子は布団に寝かされた。
 水音はもうなかったが、喜八郎と虎之助は用心して警護を続けている。


「鬼門とは、何ですか」


 寝床から、景子は喜八郎に尋ねた。


「聞いておられたか」

「ええ」


 景子はうなずく。
 この晩、景子の身にはいろいろなことが起こりすぎたが、最後に聞いたこの言葉は、はっきりと心に残っている。

 しばらく言葉に迷う様子でいた喜八郎は、やがてぽつりとつぶやいた。


「鬼門とは、鬼の業」

「鬼の……鬼とは?」

「黄泉返り」


 喜八郎の返しは短い。
 だが、次々と質問して、景子はおおよそを理解した。

“鬼”とは、一度死んだ人間が蘇えったものだ。
 例外なく異常の力を得る。鬼門と呼ばれる力だ。景子が最後に使った“水”。あれこそが鬼門の力ではないか。つまり景子は。


「おまえが、鬼? 柴田様や丹羽様とおなじ?」


 信じられないというように、虎之助がつぶやいた。
 柴田勝家と丹羽長秀。ともに織田家の家老であり、鬼柴田、鬼五郎左と称される猛将でもある。
 秀吉の下、武をもって身を立てることを望む虎之助にとって、二将はあこがれの存在だった。


「私が、鬼」


 景子はつぶやいた。
 驚きはない。もとより女の体になったこと自体が異常なのだ。
 そのうえ鬼だのなんだの言われても、実感がわかないというのが本当のところだ。

 景子が気にしたのは、それによって秀吉たちが迷惑を被らないかという、そのことだけだった。


「私が鬼では、父上や母上に迷惑がかかりますか?」

「否」


 喜八郎は首を横に振った、その時。


「――その通りじゃ」


 と、ふすまが開く。
 入ってきたのは秀吉だった。
 景子は驚いたが、あれだけの大立ち回りがあったのだ。おなじ御殿にあって気をかけていれば、気づかぬはずがない。
 静かになって様子を見に来たところで、会話を聞きつけたのだろう。秀吉に続いてねねまでもが入って来た。

 ふたりは喜八郎と虎之助をねぎらってから、景子の枕元に腰を据える。ねねが景子のほほを、やさしくなでた。


「馬鹿だねえ。景子がそんなこと、気にすることないんだよ」

「その通り。景子が鬼であろうが無かろうが、わしらにとっては大切な娘じゃぞ」


 秀吉が、あえてだろう、陽気に言った。


「おまえは羽柴の娘じゃ。いまはそれでええ。将来は、ははっ、わしがどっかええところを見つけちゃるさ。おまえが戦わんでもええ、平和なところをな」

「平和な、ところ」

「虎。おまえにゃやらんぞ」

「い、いらん! そんなつもりで言うたわけじゃないです!」


 ぼそりとつぶやいた虎之助は秀吉に目を眇められ、景子の方を見ながら真っ赤になって否定した。
 その様子に、笑顔になりながら。やはり疲れていたのだろう。景子は深い眠りについた。眠る間際に、また、川の音を聞いた。







[26342] 鬼姫戦国行04 「鬼武蔵」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/13 23:16

 季節は移る。
 春の香りが漂う長浜の街に、ひとりの少年が現れた。
 年のころは数えで十七、八歳といったところか。大柄で眉目秀麗だが、ふとした時に見せる眼光は、狼のそれに似ている。

 少年は従者ひとりのみ連れて城の門兵に居丈高に開門を要求した。
 怪訝な表情を見せた門兵だったが、その尊大な態度から、高い身分の者だろうと推察し、丁寧に名を伺った。

 門兵は命拾いしたと言っていい。この少年は似たような状況で足止めした役人を斬り捨てている。


 
 
 第四話 「鬼武蔵」
 
 


 その日、景子は御殿の庭が見える一室で、朝日を捕まえて世間話を乞うた。

 朝日は秀吉の妹だ。
 なにが哀しいのか、ふと問いたくなるような憂い顔は、しかし彼女の地顔である。
 この時も顰めたような眉をやさしく動かして、尾張の農村の風景を、静かに語ってくれた。

 鬼だと知っても、城の人間はほとんど景子を避ける様子がない。
 それどころか、景子はあるとき使用人同士のこんな会話を聞いてしまった。


「おい。うちんとこの姫さん、鬼らしいで。御殿に砕けた岩あるやろ? あれ姫さんが割ったらしいわ」

「そうけ。たのもしいこっちゃ。ほんなら殿さん居らんでも安心やな。姫さんが城守ってくれるやろ」


 景子には理解しがたい感性だが、どうやら彼らが鬼を危忌していないことは分かった。

 戦国の人は、鬼を恐れない。
 彼らにとって死は、それだけ身近なものなのだろう。
 そんなことを考えながら、景子は叔母の話を聞いていた。

 すると、ふいに見覚えのある顔が中庭に姿を現した。虎之助だ。
 一緒に居るのは、おなじ小姓仲間の市松だった。虎之助と同じく、ねねに扶育された少年だ。

 どちらも手には槍。稽古に来たのだ。小姓勤めの合間を縫って、この少年たちは熱心に稽古をしている。


「虎之助」

「っ――おまえか」


 声をかけると、虎之助がすこし顔を赤らめて返した。
 相変わらずこの少年は、景子のことを名前で呼ばない。
 ふたりの様子を見くらべて、市松少年が、ふいに手を合わせた。


「あ、ちと用を思い出したわ。虎、悪いがちょっと待っとってくれ」

「え、おい、市松!?」


 気を利かせたつもりだろう。この大柄な少年はにやにや笑いを隠すようにそそくさと姿を消した。

 その態度にぴんと来たのか、朝日もすっと奥に退がってしまう。
 あっという間に景子と虎之助だけになってしまった。
 妙な気遣いに、景子は苦笑しか出てこない。


「上がります?」

「上がらんわい」


 声をかけると、少年はふてくされたように背を向けて、槍を振りまわし始めた。
 その様子にほほえましいものを感じながら、目を細めてながめていると。

 ふいに、胸が騒いだ。
 異様な気配に、景子はあたりを見回す。
 景色にとりたてて変化はない。虎之助も気づいた様子がない。
 なにが癪に障るのか、やけっぱちのように、ただ槍をぶん回しているだけだ。

 そこに。


「――よう」


 気配の主が姿を現した。
 景子たちが知るはずもないが、つい先ほど城門を押し通った少年だった。
 鼻筋の通った美少年だが、景子は彼にどこか剣呑なにおいを感じた。なにより、彼の後ろにぴたりとついた従者。この男が持っているのは、まぎれもなく槍である。


「貴方は」


 景子の誰何に、美少年は答えた。


「森勝蔵」


 あさってを向いて稽古を続けていた虎之助が、膝を地面に投げ出し礼をした。
 虎之助には一瞥もくれず、美少年――勝蔵は景子に向かってまっすぐ視線を向け、問うた。


「おまえが羽柴の鬼姫か」


 聞いたことのない呼び名である。
 戸惑っていると、先に勝蔵が口を開いた。


「おれも鬼よ」


 言って笑った。牙をむき出しにするような、剣呑な笑みだった。
 
 



 
 


 森勝蔵長可。
 美濃国金山城主、森可成の子で、戦死した父や兄に代わって十三の若年で家督を継いだ少年である。“森蘭丸”の兄だと言われれば、景子もそうなのかと納得したかもしれない。

 現在、十八歳。すでに戦場にも出ている。
 天正二年春の伊勢長島一向一揆攻めでは、単身敵中に飛び込み、見る間に二十七の首をあげた。


「鬼武蔵」


 と呼ばれ畏れられるのは後年のことであるが、この時すでに勝蔵は鬼だった。


「鬼、ですか。ひょっとして、ここへは父上に頼まれて? わざわざお運びいただき、ありがとうございます」


 景子の知識に“モリショウゾウ”などという武将の名はない。
 年のころを見ても、まさか美濃金山の領主とは思いもしなかった。

 彼が鬼だと言うので、秀吉が自分のために連れてきてくれたのだろうと、景子は考えた。


「違う」


 だが、若武者は首を横に振った。


「――勝手に来ただけさ。羽柴に鬼姫が居るという話を小耳にはさんでな」

「どうして?」


 景子は尋ねた。
 愚問だと言うように、勝蔵は鼻を鳴らした。


「おれの他に鬼がいる。そいつがどんな地獄を背負っているか、見てみたくなるのも無理はあるまい。女となれば、なおのことだ」


 美しき若武者はそう言って笑った。
 不遜な態度だが、それが恐ろしいほど板についている。
 生まれついての支配階級とは、こんな人なのだろうか、と、景子は思う。
 秀吉の周りには少ないタイプだ。だが、横柄な態度も作った不自然さが無いせいで、嫌味にならない。


「――いや、それにしても別嬪だ」


 笑いをおさめた勝蔵が、ふいにそんな言葉を吐いた。
 景子は言葉の意味を、とっさに理解できなかった。
 まぎれもなく、景子は美貌の主だ。だが、身内以外の人間に、これほど無遠慮に褒められたことはなかった。


「え?」

「なにより鬼というのがいい。おい、鬼姫よ。おれの嫁になれ」

「え?」


 景子は阿呆のようにおなじ言葉を繰り返してしまう。
 それが求婚の言葉だと気づくのに、数瞬を要してしまった。
 男に告白されたのは、景子にとって初めての体験だ。しかもあまりにも急で心の準備もできていない。完全に放心してしまっている。


「父御にはおれから後で話を通してやる。どうだ? 鬼の伴侶には鬼がふさわしい。そう思わんか?」


 勝蔵の腕が景子の細い腰に伸び、景子はあっという間に抱き寄せられた。



「ちょ、無体な!」


 はっと我に返り、景子は悲鳴をあげる。
 抱えられた体を外そうと必死にもがくものの、勝蔵の腕はびくともしない。少女の細腕であることを割引いても、すさまじい膂力だ。


「虎之助! だれか人をっ――」


 とっさに声をあげたが、素早く顎の根元を捕まれ、声を封じられた。


「ま、声をあげるなら後にしてくれよ」


 そう言って若武者は笑う。
 このまま連れ攫って、言葉通り嫁にするつもりなのだろう。
 悪気もない。悪意もない。天性の無法は、しかし景子にとっては災厄でしかない。

 成す術もなかった。あまりにも無力で、情けなくなって、悔し涙が出てきた。
 だから。だから景子は、助けを求めた。身も背もなく、心から、すがる思いで声なき声を発した。


 ――誰か、助けて。


 その、心の声に。
 応える者は――ここにいた。


「待っていただきたい!」


 虎之助だ。
 声に怯えがある。瞳に宿る光には迷いの色がある。
 それでも。膝を屈していた少年は立ち上がり、自らの足で勝蔵に追いすがった。


「誰だ?」


 塵芥でも見るように、勝蔵が言葉を投げおろす。
 その声に気圧されながらも、虎之助は震える声で名乗った。


「は、羽柴藤吉郎さま小姓、加藤虎之助!」


 虎之助の視線が、まっすぐ勝蔵の瞳を射抜いた。
 それにより、初めて存在を認めたように、鬼武者はにやりと笑った。


「ほう?そのトラノスケがなんの用だ」

「この長浜城中で、これ以上の狼藉は見過ごせぬ!」

「ほう、それで? トラノスケには何ができる? しがみついて足止めするか? その手の槍で突いてみるか?」


 勝蔵の、至極楽しげだった語調が、急変する。


「――鬼相手に、それができると思うのか?」


 笑顔の後ろから、鬼が顔をのぞかせた。


「……できる!」


 少年は一歩も引かない。
 肩を怒らせ瞳を見開き、まっすぐに鬼を見据える。


「景子は渡さんっ!」

「はっ! よう言うたわ――槍ィ!!」


 言うや勝蔵は、従者から十文字槍をひったくり、繰り出した。
 穂先に迷いなどない。秀吉の小姓を殺すことに、なんの遠慮もない。
 とっさに身を転がして避けねば、虎之助は田楽刺しにされていただろう。


「っやめて――」


 景子が叫ぶ。
 同時に十文字槍が繰り出される。
 虎之助が避ける、その間際で。


「――開けやァ鬼門!!」


 穂先が赤く爆ぜた。
 景子の眼にはそう映った。
 巻き込まれた虎之助の頭が、一瞬にして朱に染まる。
 視界の中で、ひどくゆっくりと。糸の切れた人形のようにくずおれる虎之助。


「……とらのすけ」


 悪夢の中にあるような表情で、景子はつぶやいた。

 虎之助の顔面は血まみれだ。
 おびただしい鮮血が、周りの地面を赤く彩っている。
 ついさっきまで、くるくるとよく動いていた少年の瞳が、たちまち霞を帯びていく。

 弟のようだった少年が、死んでいく。


「ウウウ」


 音がした。獣の唸り声だ。
 それが少女自身の声だと、ようやく気づいて――景子は切れた。
 憎悪が身を焦がす。殺意が猛る。憤怒が口から獣声となって絶えまなく吐き出される。


「――ウウウッ!」


 瞬転。
 身を捩じり打掛を脱ぎ捨て勝蔵の腕から逃れた。
 そのまま身を転がし、虎之助の槍を掴みに行くまで一瞬。
 柄を掴むや、てこにした体ごと、渾身の一撃を勝蔵に叩き込む。
 景子の、全精力を傾けた一撃は、肉を潰し骨を折るに十分な威力。

 だが、刃は止められた。
 勝蔵の十文字槍の柄によって。
 槍はびくとも動かない。景子が受けたのは、岩を打ったに等しい感触。すさまじい豪力。


「なかなかの気性よ……だが、まだまだひよっこだな」


 勝蔵が笑って一歩引く。
 追う景子の眼前に、測ったように十文字槍が落ちた。
 景子の喉元一寸のところで、穂先はぴたりと止まった。
“無骨”と刻まれた十文字の刃は、血で濡れている。虎之助の血だ。景子はぎりと歯を食いしばる。


「貴方は、私の家族を殺した」


 肩を震わせながら、景子は絞り出すように言う。


「――絶対に、許さない」

「もし本当に許さないと思うのなら、言葉より先に槍を叩き込むものだ――未熟だぞ、鬼姫よ」


 戯れるように言い、勝蔵は笑みを浮かべた。鬼の笑みだ。
 これを挑発と受け取った景子は、覚悟を決めた。鬼門を使う覚悟を。
 恐れ危ぶみ、いままで避けてきた力だ。だが、そんなことはどうでもよかった。
 目の前に居るこの男さえ消えてくれれば、景子自身、どうなろうとかまわない。

 使い方は、とうの昔に知っている。
 景子が引き出す、“水”。その源は、川の音は、耳を澄ませば常に聞こえてくるのだ。

 景子は耳を澄ました。
 だが、聞こえたのは川の音ではなかった。
 背後から聞こえてきたその声に、景子は我が耳を疑った。


「そうだ……おまえは退がっとれ」


 たった今、血の海に沈んだ少年の声だった。


「虎之助」

「森殿。何があろうと、景子は渡さんぞ」


 目を丸くした景子から槍を奪いながら、虎之助が言った。
 顔面血まみれだが、足取りはしっかりしている。口調も常と変らない。よく見れば傷跡すら見当たらない。十文字槍の穂先からは、いまだ血が滴り落ちているというのに。


 ――ひょっとして、鬼門。私の“水”と似た力?


 思い至ると、景子は急に脱力した。
 思考の大半を占めていた憎悪と憤怒は、思わぬ不意打ちでどこかへ失せてしまった。
 ともあれ、虎之助は無事だったのだ。それ以上、求めることは何もない。


「無礼は、忘れます」


 かぶりをふって、景子は勝蔵に告げる。
 勝蔵の、意思の読めぬ獣の瞳は、静かに景子たちを映している。


「――ですので、これ以上の推参はご遠慮願います」

「っははっ! 鬼の婿は鬼と思っていたが、なんと、先約がいたか!」


 と、唐突に。勝蔵が笑いだした。
 心底おかしいような、それでいて皮肉の交じった笑いだった。


「まあいい。こちらも羽柴に他意はない。今日のところは帰るさ」


 口角に喜悦をにじませ、勝蔵は来た時と同様、唐突に去っていった。


「嵐のような」


 景子が思わずつぶやく天衣無縫の武者ぶりだった。


「そう言えば」


 景子はふと虎之助のほうを見て、笑った。
 いまさらながらに恐怖を思い出したのか、少年の膝はがくがく震えている。


「初めて名前で呼んでくれましたね」

「うるさいわい」


 少年はそっぽを向いた。
 耳が真っ赤になっているのは、血のせいばかりではなかった。
 
 



 
 


「先が楽しみな鬼よ」


 帰路、森勝蔵は従者にそうつぶやいている。


「おんなだてらに、ですか」


 従者の問いかけに、勝蔵は応えず笑った。






[26342] 鬼姫戦国行05 「まつと豪」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/16 22:54

 闇に包まれた部屋。
 朱の光に照らされ、少女の瞳は炯々と輝いている。


「ふふふ」


 笑う姿は妖しくも美しい。
 肌は雪よりも白く、髪は艶づやとして黒く長い。
 武家らしく身に纏う小袖や打掛は、華美ではない。しかしそれは彼女の美貌を損なうものではない。


「ふふふ、ついに、ついにやってしまいました」


 少女――羽柴の娘、景子は、手に持つものを火にかざし見ながら、笑う。
 背徳の表情が、明滅する朱の光に照らされ艶々とうねる。

 羽柴の娘になってから、少女は極力未来の知識を利用することを避けてきた。
 養父、羽柴秀吉――のちの豊臣秀吉が天下を取ることを知っているが故の、歴史革変への恐怖。それが景子を怯ませていた。

 しかし、ある耐えがたい誘惑が、ためらう少女の背を、そっと押した。
 多忙な鉄砲鍛冶、国友藤太郎に無理を言って紹介してもらった職人に、かねてより依頼していた品は、いま景子の手にある。


「この、特製餅焼き網が!!」


 火鉢の炭が、程よくいこっている。
 そのうえに、細かく波打った針がねで十字に編まれた金網を置くと、景子は餅を焼きだした。


「――おそろしい。ひょっとして、私は歴史を変えてしまったかもしれません」


 焼き上がった餅を一口食べると、景子は戦慄を隠せない様子でつぶやいた。

 時に天正三年、四月。長篠の合戦を目前に控えた、秀吉多忙の時であった。


 
 
 第五話 「まつと豪」
 
 


 鬼姫、という名が、長浜城中で定着してきた。
 すべては森勝蔵のせいだ。と、景子は思っている。
 あの鬼武者が押しかけて来た時、あんまり鬼姫鬼姫言うものだから、それを聞きつけた城の人間から、ぱっとひろまってしまったのだ。

 現代人である景子の感覚とは違い、鬼、という言葉自体、悪い意味ではないらしい。城詰めの侍も使用人も平気で鬼姫鬼姫言う。
 最初は嫌がっていた景子も、ついに根負けして諦めてしまった。いまでは祖母なかや叔母朝日まで鬼姫呼ばわりである。名前で呼んでくれる者といえば。


「景子、喜んでおくれよ!」


 と、その希少なひとりが景子の部屋に駆け込んできた。
 景子の母、ねねだ。文束片手に、小躍りせんばかりの様子。
 政務中のはずである。うっちゃらかして来るなど、めったにないことだ。


「どうしたんです? 母上」


 景子は首を傾け、尋ねた。
 するとねねは満面の笑みでこう答えた。


「もう一人娘ができるんだよ!」

「……お目出度ですか?」

「うん! まつさんがね! ちょっと前だけど!」


 目を丸くして尋ねる少女に、母は笑顔のまま答えた。


「まつさん?」

「わたしの親友さ! 子だくさんでね、つぎに生まれた子をうちに貰うって約束してたんだよ! ああ、はやく会いたいねえ、豪ちゃん……景子もお姉さんになるんだから、ちゃんと豪ちゃんの面倒みるんだよ」

「は、はい。もちろんです」


 あっけにとられたまま、景子は返事した。
 常にない喜びように、複雑な気持ちも無いではないが、ねねの様子を見れば、それ以上にわけもなくうれしくなってきた。


「妹」


 つぶやいてみて、景子は密かにほほ笑んだ。


 
 

 
 


 それからしばらくして、ひとりの婦人が長浜城を訪れた。
 来客の名を耳にしたねねは飛び上がるようにして婦人を迎え入れ、奥へといざなった。


「――母上、景子が参りました」

「あらかわいい」


 ねねの私室に呼びだされた景子は、客人のそんな言葉で迎えられた。
 年のころはねねと同年配の、上品な夫人である。美人だが子供めいたところのあるねねと違い、所作に湿りを帯びた淑やかな美女だ。


「景子。赤母衣衆、前田又左衛門様の奥方で、まつ殿だよ」


 ねねが紹介した。
 まつの名は、景子も知っている。後に加賀百万石の大大名となる前田又左衛門利家の、糟糠の妻だ。


「で、こっちがわたしの娘。豪ちゃんの姉になる景子よ」

「よろしくね、景子ちゃん。いくつになるの?」

「え、と、十四になります」


 景子は答えた。
 実年齢がいくつになるのか分からないので、ねねと相談して決めている。
 すこしでも長く少女を手元に置いておきたいのだろう。ねねは、もう二つ三つ下ということにしてもいいのでは、と主張したが、景子が強硬に反対した。
 それでは十三の虎之助より年下になってしまう。彼を弟分と思っている景子にとっては大問題だった。

 母親の気遣いをまったく察していない景子に、ねねは苦笑を浮かべたものだが、ともかく。
 景子の受け答えになにか察するものがあったのだろう。まつがねねに物問いたげな視線を送った。


「わたしの所へ来る以前のことは、ほとんど覚えてないんだよ、この娘」

「そうなの……にしてもこの容色、普通の家の子じゃないんじゃない?」


 後半はねねに顔を寄せて、ささやくように言っている。
 聞こえていない景子は、仲のいいふたりだなあ、などとのんびり考えていた。


「かもね。と言って、その辺りがわかる見込み、ほとんどないんだけど」


 まつのすぐそばで、ねねがため息をついた。
 賊に殺された一行が、景子と縁のある人間だということは、悪霊の一件からも確定的だ。
 だが、彼女の身分を証明する一切の物は、賊の手で奪われている。景子がいったい何者なのか、調べることは困難な状況だった。

 いや、たとえ景子の素性がわかったとしても、その事実をねねは胸中に仕舞っておくに違いない。
 ねねはすでに景子を、娘として深く愛してしまっている。いまさら他家に戻す気は、さらさらなかった。


「でも十四かあ。婚家とか考えてる?」

「まだだよ。前にも言ったけど、どうも世間ずれしてないし、しかも鬼でしょ? 下手なとこ嫁がされたら、あっちの都合で戦場に出されるかもしれないし。うちも旦那もそういうのはいやなんだよ」

「でも、言ってるうちに婚期逃さない? わたしがあの子の年ごろには、子供生んでたよ?」

「ああ。あんたんとこの旦那は、ちょっと、その、アレなところがあるから基準にはならないけど、そうだね、どこかいい所があるといいんだけど」


 ちなみに、まつは満年齢で十二歳のときに嫡男利長を出産している。
 当時としても非常に若年の出産である。だからといって夫である利家が幼女趣味というわけでもないのだが、何かにつけて性急な御仁であるのは、間違いない。


「そうだ。金山の森さまの後継――」

「おふたりとも、私を除け者にしないでください」


 会話が不穏な方向に伸びていっているのを気配で察したのか、景子は強引に会話に割って入ってきた。
 事態は好転せず、ふたりの婦人の、話のつまみにされただけだったが。

 この後、豪はねねの養子となる。
 秀吉自ら懐に入れて、というのは大げさにしても、非常な丁重さではあった。
 
 



 
 


「ねえたま」


 と、舌ったらずな声で、景子を呼ぶ声がある。
 赤母衣衆、尾張荒子の前田又左衛門利家とその正妻まつの娘、豪である。
 羽柴家の養子になり、数え三歳を迎えた幼児にこう言ってまとわりつかれては、景子としても悪い気持ちにならない。


「おお。豪はかわいいのう」


 と、秀吉もやにさがっている。
 よほどかわいいのか、城に居る時はほとんど手元に置いている。
 いまもわざわざ景子の部屋まで追いかけてきて、文をしたためている景子を尻目に、豪を膝の上に置いてかわいがっている。

 目に入れても痛くないかわいがりように、景子も「どうせ私はもらわれた時からクソ落ち着いたババむさい娘でしたよ」と若干拗ね気味である。


「とうたま、や。ねえたまのとこいく」


 構いすぎるのを鬱陶しがったのだろう。豪姫が秀吉の手元から逃れ、とてとてと駆け寄ってくると、景子の膝の上に座り込んでしまった。
 ねねや秀吉が政務や遠征に手を取られている間、豪の世話は景子の役目だった。そのためか、豪はどちらかというと親よりも景子の方によくなついている。


「おーい、豪。とうたまのところに来んか?」

「や」


 寂しそうに呼びかける秀吉だが、幼い豪は頑として景子の膝から離れない。
 坂本城の文通相手に手紙を書いている途中である。すごく邪魔なのだが、かわいい妹ゆえ邪険にもできない。


「景子ぉ。なんとか言ってやってくれんか」

「と言いながら私ごと抱きかかえないでください。というか胸とか触らないでください」


 景子は泣きつきついでに体を触ってくる秀吉に、静かな声で応えた。
 体をなでまわしたり、顔を舐めまわしたり、どうもこの父親はスキンシップ過剰なきらいがある。
 愛情表現である。うれしくはあるが、欧米人ではない景子にはちょっと抵抗のある行為だった。


「冷たいのう。というかお前、ちっともでかくならんのう。肉付きとか、その年ならもうちょっとこう……」

「お父様」

「なんじゃ景子」

「いますぐ後ろを振り返ることをお勧めします」


 自分の胸元で、手振りで“ぼいんぼいん”とやっている秀吉に、景子は至極冷たい声で言った。
 振り返った秀吉が見たのは、背後のふすまの隙間から、怒気を揺らめかせ、鬼の顔になったねねが覗きこんでいる姿だった。



「ね、ねね……」


 ねねは一言もしゃべらない。ただ拳を鳴らすのみである。


「豪ちゃん。とうさまとかあさまは忙しいですから、他の所へ行って遊びましょう」

「あい」


 しばらくして、秀吉の叫び声が城中に響いたという。


 
 

 
 


 遊び疲れた豪を寝かしつけながら、景子は自分の体をしげしげと見た。
 そろそろ十五になるはずの景子だが、いまだ見かけはそれより二つほど下である。


「まさか鬼だから、これ以上成長しないとかないですよね」


 ぺたぺたと胸を触りながら、少女はつぶやいた。
 いまだ鬼というものについてよくわかっていない彼女にとって、それはあり得る話に思えた。


「もう。虎之助とかのんきにすくすく育っちゃって。生意気です虎之助のくせに」


 景子はまったく罪のない少年に怒りをぶつけ始めた。
 景子よりひとつ年下の虎之助は、すでに並みの武将と肩を並べるほどの身長になっている。景子とは大人と子供ほどの身長差だ。


「でも、考えようによっては悪くないんですかね。大きくなったら他家へ嫁ぐことになるんでしょうし、すこしでも長く父上や母上のもとに居られるのなら……でも、この時代、私くらいの年じゃあすでに適齢期なんですよね、生理とかももう来てますし」


 景子は眉を顰めてつぶやく。
 瀕死の状態になり、一時止まっていたのか、それとも始まっていなかったのか。ともかく春ごろになって初めて、景子は生理というものを体験した。知識としては知っており、その始末もねねに教わっていたので、動顛することはなかったが、景子は妙な喪失感にさいなまれた。初めて風呂に入り、自分の裸を見た時以上の喪失感だった。


「生理が来てるってことは、子供が産めるってことですよね。あれ? すでに嫁入りに何の問題もない?」


 自分で口にして、景子は動揺し始めた。


「で、でもまだ心の準備が――というかなんで母上に倣ったベッドマナーのあれこれが頭に浮かんでくるんですか!? きえろー、きえろー」


 少女はごろごろと畳の上を転がり、妄想を打ち消す。
 その妹は、ふとんの上で、寝息を立てて起きる様子はない。
 しばらくのち、肩を並べて様子を見に来た秀吉とねねが見たのは、肩を並べてすやすやと寝息を立てる姉妹の姿だった。







[26342] 鬼姫戦国行06 「鬼見物」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/21 18:31

 行き交う人の声。馬のいななき。商い人たちの掛け声。
 どこかで食べ物を商っているのだろう。食欲をそそる香りが鼻孔をくすぐる。
 それに交じって漂ってくる、起こした土の香り。真新しい木の匂い。


「これが、安土の街」


 駕籠の覗きから見える街並みに目を見張りながら、景子はつぶやいた。

 天正五年、冬。安土は興りつつある街だった。


 
 
 第六話 「鬼見物」
 
 


 なぜ景子が安土に来ることになったかというと、理由は単純だ。


「安土に用ができたから、景子はお伴しなさい」


 と、ねねに引っ張って来られたからだ。
 むろんそれは建前で、長浜から出ることのほとんどない景子のためであることは、言うまでもない。景子は素直に感謝しながら、活気ある街並みを見て楽しんだ。

 安土の秀吉邸に着くと、景子は総出で迎えられた。
 士分の者から使用人までみな集まっている。一同に向かって、ねねが笑顔で娘を紹介した。
 景子にとって甚だ不本意なことに、すでにこちらの屋敷でも、“羽柴の鬼姫”の名は知れ渡っている。


「あれが」「あの」「御歳十六のはずでは?」


 最後のささやきは、少女の心に刺さるものがあった。
 秀吉夫妻の娘になってからすでに三年が経とうとしているが、景子の外見はさっぱり変わらないのだ。


「じゃあ私は御屋形様のご機嫌伺いに行ってくるから、いい子にしてるんだよ」


 屋敷で一休みすると、ねねはそう言い置いて出かけていった。
 御屋形様、とは織田信長のことだ。言うまでもなく羽柴秀吉の主君である。

 比叡山の焼き打ち。伊勢長島の大虐殺。景子にとっては信長といえば、恐ろしい印象しかない。
 

 ――でも。母上の様子から察するに、実はそんなに怖い人ではないのでしょうか。


 そんなことを考えながら、景子は安土山の上に建つ城を見上げた。
 壮大な高層建築“天主”は、このころまだ完成していない。


 
 

 
 


 ねねを見送ると、景子はあてがわれた部屋で体を休めていた。
 持ってきた餅を焼かせておやつにつまみ、ごろごろしながら新しい木と畳の匂いを楽しんでいると、にわかに表が騒がしくなった。
 しばらくして景子の元に駆け込んできたのは、ねねとともに出かけた侍臣だった。やけにあわてていて、ほとんど動顛の様である。


「どうしたんですか?」

「姫様! 急ぎ、支度を! お、お、御屋形様が直々にお呼びです!」


 信長が、自ら景子を呼んでいる。
 彼がそう言っているのだと理解するのに、景子はしばらく時間がかかった。


「……本当ですか?」


 半ば信じられない気持ちで、それでもとりあえず出かけようとしたところを、景子はねねの侍女頭につかまった。


「万々一にも失礼の無いように」


 と、そのまま湯に浸けられて、体中徹底的に磨かれた揚句に香まで焚き込められ、景子は完璧に身だしなみを整えさせられた。


「お輿入れじゃあるまいし」


 あまりの徹底ぶりに、景子が冗談めかして言ったが、侍女頭は至極真剣に言った。


「ひょっとすると、姫様を側妾に望まれてのことかもしれませぬ」


 愕然として半ば夢の中に居るようなありさまで、景子は手を取り引かれていった。


 
 

 
 


 織田信長。
 おそらくは戦国史上、最も有名な人物の一人だろう。
 今川。斉藤。北畠。六角。浅井。朝倉。叡山。本願寺。武田。その他多くの勢力と戦い、滅ぼしあるいは従え、天下に武を布き、なおいまだ戦い続ける乱世の天下人。

 そんな偉人が、景子に用があるという。


 ――まさか本当に側妾に望まれるとは思えませんけど。


 思いながらも、やはり不安は拭えない。
 主が家臣の娘を見たいなどと望む理由を、ほかに思いつけなかったこともある。

 しかし、やはりそれは杞憂だった。
 案内役の小姓が、景子が呼ばれた理由をそっと耳打ちしてくれた。


「羽柴殿の好色ぶりに関する奥方様の長い愚痴に、御屋形様は困りあげられて、ちょうど話に出た貴女に助け船を求められたのです」


 ――母上、なにやってるんですか。


 予想の斜め上である。冷や汗の出る思いだった。
 どう返したものか迷いながら、景子はとりあえず頭を下げた。


「それは、母が御迷惑を」

「いえ。こちらこそ、過日は兄が御迷惑をおかけしました」


 唐突な謝罪に、景子は目を丸くする。
 少女の様子を見て、前髪の小姓は苦笑を浮かべた。


「森乱丸と申します。勝蔵長可はそれがしの兄です」

「あの」


 と景子が言ったのは、あの無法が服を着て、挙句に刃物を持って歩いているような森勝蔵の弟が、こんなに礼儀正しいことに驚いてのことである。

 その反応に、少年は苦笑しつつ先導する。
 ほどなくして広間に着いた。乱丸に促され、景子は緊張しながら中へ入った。

 ちらと眼に映った姿に、景子は息をのんだ。
 年頃は四十前か。実年齢を考えれば五、六歳は若く見える。
 眉目秀麗で、刻まれた皺すら、まるで几帳面に計算されたかのように整っている。身に纏う南蛮服は、こちらの生活に慣れた景子にとっては目新しく映った。

 一見、洒落た紳士。
 だが、存在の重さが違う。
 まるで広間全体が信長に向かって傾いているような、そんな異様な感覚を、景子は味わった。


「待ちかねたぞ」


 よく通る、柔らかい声だ。
 いっそやさしげですらあったが、幾多の戦場で号令をかけ続けたためだろう。すこし枯れている。


「羽柴筑前が娘、景子――」

「デアルカ」


 口上の途中で口を挟まれ、景子は継ぎ句を失った。
 あわてて目を泳がせる景子の様子に、信長の口の端が、わずかに笑みの形に持ちあがる。


「藤吉郎の娘にしてはチト美しすぎるが、妻女どのの娘としては相応であるな」

「まあまあ御屋形様。お上手な」


 ――母上スゲエ。


 景子は心の中で漏らした。
 信長相手に気後れせず、図々しいほどに馴れ馴れしい態度だ。
 この調子で愚痴り倒して信長を困らせていたかと思うと、景子は土下座して謝りたくなる。
 とはいえ信長自身、そんなねねの態度を気に入っているから、長々と愚痴につきあっていたのだろうが。


「シテ」


 信長が、今度は景子に顔を向けた。


「その方、鬼であるそうな」


 その言葉には、どこか親しげな響きがある。
 景子の隣で、ねねが不安そうに眉根を寄せた。
 素直に答えていいものか迷ったが、いずれにせよ、嘘をつくわけにはいかない。


「はい。その通りにございます」

「その通り、と答えるか。だが、娘よ。ヌシはいまだ己の、鬼のことを分かっておるまい」


 はっと顔をあげ、景子は見てしまった。信長の目を。
 ぞっとした。鬼を語る信長の瞳には、深淵を思わせる深みがあった。


「――なれば、ヌシは知らねばならん。ヌシが何者であるかを」

「どうすれば、できますか?」


 ねねが景子の袖をそっと引いた。だが、景子は言葉を止めない。
 信長の瞳の深淵に誘われるように、景子は尋ねた。


「――私は知りたいです。自分が、何者であるかを」

「なれば見よ。本物の鬼を」

「本物の、鬼?」

「御屋形さま」


 たまらずねねが声をあげる。
 それを信長は、視線で制した。


「妻女どの、落ちつかれい。この娘のためである」


 言ってから、信長は語調を変えてねねに語りかけた。


「娘御は鬼――力持つ者よ。その力が遠き先に己を滅ぼすとしても、知って、選ばせるべきなのだ。他ならぬ娘の手で。そのためにこそ、娘は知るべきである。己が何者であるかを」


 信長の言葉を聞いて、ねねが視線を景子に向けた。
 景子の目に迷いはない。とうに決めていたのだ。



「母上。わたしは乱世の、武家の娘です。そう生きていくと決めました」


 羽柴の娘になると決めた、そのときから。
 鬼だと告げられた、そのときから。


「だから私は知りたいのです。鬼のことを。自分の在るべき姿を」

「景子」


 ねねが、力なくため息をついた。


「いつまでも小さいままだと思ったら……いつの間にか立派になっちゃって」


 声が震えている。
 涙ぐむ母に感謝の視線を送り、景子は信長に向き直った。
 感傷を振り払い、瞳には覚悟の色がある。


「それで、何処へ行けば真の鬼に会うこと叶いましょうや」


 景子は問うた。
 信長の答えは短かった。


「七尾城」
 
 



 
 


 七尾城は能登国守護、畠山氏の居城である。
 現在の当主、春王丸は若干六歳。代替わり激しく、家臣たちは相争い、戦国大名としての力は衰えきっている。
 そこを、越後の上杉に突かれた。七尾城は上杉兵に取り囲まれ、織田信長に救援を乞うことになった。

 信長は雷光のごとく令を発した。
 越前北ノ庄の柴田勝家率いる北陸方面軍に、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益も加わり、七尾城救援に向かったのだ。

 鬼柴田、鬼五郎左。織田家を代表する鬼たちが向かった地
 七尾城に行けば、本物の鬼に会える。信長がそう言ったのは、このような事情からだった。

 そして。


「はっはっは! 駆けよ百段、旋風のごとく!!」

「ぎゃあああっ! 止めてください下ろしてください今すぐ即座に速やかにぃっ!!」


 笑声と悲鳴の尾を引いて、漆黒の巨馬が街道を吹き抜けてゆく。
 笑っているのは森勝蔵。悲鳴を上げながら必死になって勝蔵にしがみついているのは景子である。


「だいたい、なんで案内役が貴方なんですか!?」

「鬼見物に行くのだろう!? だったら案内は鬼にさせるのが順当というものだ!!」

「なんですかその理屈!? というかなんで馬に鎧とか槍とか火縄銃とかつけてるんですか!? どさくさまぎれで戦に参加する気満々じゃないですかっ!!」

「当たり前だろうっ!!」

「なんで悪びれもせず!? というかこの馬、さっきから人を何人も引っ掻けてるんですけどぉ!?」

「気にするな! 百段はおれに敵意を向けるやつしか攻撃せん!!」

「わざと!? というか敵意だけで!? その条件に触れる人、味方にも沢山居そうなんですけど――って、なんで槍まで振りまわすの!?」

「賊だっ!! おれの前を横切ろうとしたからっ!!」

「もういや、なんでこの人息をするように人を殺すの!? 助けてちちうえーっ!!」


 と、そんな風にして、ふたりは驚くほどの速さで加賀の国に入った。
 肉体ではなく心の疲れから、馬の上に座布団干しされた少女の目に入ったのは、大きな川の姿だった。

 手取川という。
 源平の時代。増水し、濁流と化したこの川を渡るとき、兵士たちがたがいに手を取り合って流されないようにして渡ったことからこう名付けられた川は、日本有数の急流河川であり、古来幾度も氾濫を繰り返してきた。


「川」


 言って景子は顔をしかめた。
 景子はもともと川が好きではない。
 それは耳を傾ければ聞こえてくる、あの川の音。ひいては己の鬼としての異能に対する恐れから来る感情なのかもしれない。

 だが、いまは。
 鬼を知り、己の鬼と向かい合うと決めた景子にとっては、目の前の川と同じく、あの川の音は、避けて通れないものになっている。


「向こうに居るのは、織田の兵だな」

「追いついてしまったんですね。父上もあちらに居るんでしょうか」


 川向こうに見える兵の影を見ながら、景子はつぶやいた。

 しかし、事態は彼女の想像を超えている。
 なんとこの時すでに秀吉は、前線を離れ長浜への帰路にあった。
 越後の上杉謙信との戦の方針を巡って、総大将である柴田勝家と対立し、秀吉は兵をまとめて勝手に引き上げてしまっていたのだ。

 すでに七尾城は落ちており、柴田勝家たちもまた、帰国の途中であるという。

 手取川を渡り、織田の雑兵をとらえて羽柴軍の所在を尋ね、景子は初めて事情を知った。


「……森殿、教えてください」

「なんだ?」

「父上は、拙いことになりますか?」


 景子は硬い声で尋ねた。
 彼女にも、秀吉のやった行為が拙いものだとは分かる。
 だが、どれくらい危ないのか。景子にはその見当がつけられない。


「御屋形はまあ、怒るわな。常なら立場どころか命も危ない。
 が、まあ命で購わせるには、羽柴筑前という男はチト惜しい。
 死を賜る事は無いと思うが、仮にその命令が下ったとしても、だれも驚かんよ」

「父上は何故、そんなことを……」


 青ざめた顔で、景子は来た道を振り返った。
 街道を隔てるように、手取川が流れている。行きはきちんと渡れたその川が、なぜか景子には怖いものに思えた。


 
 

 
 


 日が沈み、辺りはすでに暗い。
 景子たちは闇の中、本陣を探すことになった。
 景子が困っていると、ふいに勝蔵が一騎の騎馬武者を見つけて声をかけた。


「おお、前田殿」


 手をあげた勝蔵に騎馬武者は馬を寄せてきて挨拶を返した。
 知り合いだろうかと景子が首を傾けていると、勝蔵が振り返って紹介した。


「前田又左衛門殿だ。前田殿、こちらは羽柴の鬼姫よ」


 簡潔でありながら余計な紹介である。
 景子は眉を顰めながら、それでも失礼のないように頭を下げた。
 前田又左衛門といえば前田利家、すなわち豪の実の父である。


「おお。奥から話は聞いとるよ」


 利家が目を細めた。
 ただ、それは感情表現には必ずしも役立っていない。
 並はずれた長身に乗っている顔は能面のようで、表情の動きが感情を表しているようには、とても見えないのだ。
 そんな顔で、表情ひとつ動かさず、彼は言った。


「で、式の日取りはどうするね?」

「は?」

「うちの利勝とのはなしだよ。嫁に来てくれるんだろう?」


 思わず聞き返した景子に、返ってきた答えはそれだった。
 あまりに唐突な話に、景子は呆然としてしまう。


「え、え? 父上や母上と、そんな話をされてたんですか?」


 あわてて尋ねた景子に、利家の眉が人形のようにはね上がった。


「……いや、いかん。まだ藤吉どのには話しておらんかった。というか奥と、そうなればよいな、と話していただけであった」

「飛躍しすぎです。そこからどうやって式の日取りを尋ねる段階まで飛ぶのですか」

「いや、あい済まぬ。昔からどうも気ぜわしい性質でな」


 そんな段階をすっとばしている気がしたが、景子は黙っておいた。


「前田殿は昔っからそうですな。それから鬼姫の嫁入りに関しては、先約がいるのをご承知置きあれ」

「だれが先約ですか、だれが」


 横から口を挟んだ勝蔵に目を眇め、景子は冷たい視線を送る。
 すると唐突に又左衛門が軽く首を振った。


「ほう、そうか。いや、残念だ」

「いやいや。まったく決まってないですからね、私の嫁ぎ先」


 弁明したが、利家の中ではこの話はもう終わっているようで、「親父様(勝家)のもとへ案内いたそう」と馬首を返してしまった。


「……すっ飛ばすお人ですね」

「戦場ではまた違うんだがな。あの通り、それ以外ではせっかち過ぎてずれた人でしかないさ」


 どう考えても勝蔵のほうが、戦場以外での欠陥は多い。
 彼にだけは言われたくないだろうと思いながら、景子は先を行く利家を追いかけた。
 
 



 
 


 顔の大きい人だ。
 というのが、景子の第一印象だった。
 ぼうぼうに伸びた髭が、余計に顔を大きく見せている。
 目が大きくぎょろりとしていて、眉も太く濃い。刻まれた皺はいかにも厳つく、まさに容貌魁偉と言うべきだろう。
 古つわもの。柴田修理亮勝家とは、この言葉を具現化した男だった。


「おぬしが藤吉郎の娘か」


 陣幕の中、両側からかがり火に照らされ、勝家の肌は赤黒く見える。
 赤鬼のごとき武人は、顎ひげをしごきながら、不快を隠そうともしない。
 その内の小さくない部分が、勝手に帰陣した秀吉に対する怒りから来ているであろうことは、景子にも想像がついた。


「鬼だよ、権六のじいさん。御屋形が本物の鬼の姿を見せてやれとさ」


 不快を払うように勝蔵がからりと言う。


「じいさんはよせ」


 顔を顰め手から、勝家は気を取り直すように咳払いして、厳つい顔を景子に向けた。


「戦場に女は不祥」


 勝家の口調は斬りつけるようだった。


「とはいえ、御屋形の命令である。この鬼柴田の戦、とくと見るがよい」


 勝家が槍を手に取り、立った。
 不意の出来事だ。何事か、と景子が視線を巡らせていると、ふいに一陣の風が陣幕を波打たせた。
 ただの風ではない。景子はそこに明確な鬼気を感じた。

 一瞬遅れて喧騒が起こる。


「上杉方、夜襲!」

「渡河を狙い撃たれたか」


 報告に驚きも動揺も見せず、勝家は陣幕を払わせると隊伍を整えさせた。憎らしいほどの落ち着きようである。


「――勝蔵よ。面倒を寄こしてくれたつけだ。娘はぬしが守ってやれ」


 この言葉に不満を漏らす勝蔵を尻目に、勝家は馬に飛び乗る。
 渡河半ばの夜襲だ。二万を超える軍の大半は鵜合の衆と化している。
 混乱の中、集まり指揮下に収まった手勢はせいぜい千。その先頭に、勝家は馳せ出でた。


「落ちつけぃ! 儂が先に立つ! 各々儂に従えぃ!」


 夜天が震える大音声である。
 混乱していた部隊が、にわかに秩序を取り戻し始めた。

 だが、軍が集まるよりも早く、敵軍が陣を縦に切り裂きながらまっすぐ勝家に向かってくる。
 それを真正面に見据えながら、勝家はひときわ大きな号令をかけた。


「――掛れぃっ!!」







[26342] 鬼姫戦国行07 「鬼門」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/25 00:36
 
 
 第七話 「鬼門」
 
 
 織田軍のうち丹羽長秀、滝川一益、武藤舜秀などの部隊はすでに渡河を終えている。
 柴田勝家率いる北陸方面軍本隊も渡河を控えて手取川の際まで陣を移していた。
 そこを狙い撃たれた。戦力の半ばを殺がれたうえ、背水の陣を強いられたのだ。

 夜戦である。
 おりしも曇り空。月明かりさえない闇の中、敵味方双方の動きも見えぬまま、織田方の将兵は、否応なしに血泥の渦に引きずり込まれていく。
 鬨の声と断末魔の合唱が鳴り響く。

 そんな中、柴田勝家の「掛れ」の号令は、ひときわ強く天を震えさせた。


「鬼姫は運がいい」


 十文字の槍をひょいと担ぎながら、森勝蔵長可が景子に声をかけた。
 景子たちの居る本陣跡は、勝家率いる一隊と敵部隊がぶつかる、やや後方に位置している。
 目印のためか、かがり火を消していないので、周りの様子はよくわかった。


「――こちらに着いていきなり、鬼柴田の鬼門を見られる」

「鬼門?」


 景子が低くつぶやいた、まさにその時だった。
 織田勢の先陣を切る柴田修理亮勝家の体が、ちかと光った。


「鬼とは、黄泉帰りよ」


 にやりと、鬼の笑いを浮かべながら、勝蔵が言う。


「地獄に落ちた者が、その業を抱えたままに、この世に戻って来る。
 ゆえに鬼は、引きずってきた地獄を現世にぶち撒く力を持つ。それが鬼門よ――見よや、あれが鬼柴田の鬼門」


 闇に灼熱の花が咲いた。
 炎が天を突く。勝家の体のいたる所から、炎が噴き出し始めた。
 きな臭いにおいが鼻をつく。熱波は景子のところまで届いている。
 まともに炎を浴びた上杉方の先陣は、一瞬にして火達磨となった。


「――大焦熱地獄だ」


 八熱地獄が一つ、凄惨を極める極炎の地獄。
 その猛熱に巻かれながら。炎を纏いながら。敵をより以上の地獄に落としてゆく。その姿はまさに一個の鬼だった。
 敵に向かい放射状に延びていく炎の合間を縫うように、柴田勢が乱れた敵陣に向かって迷いなくぶつかっていく。


 ――これが、本物の鬼。


 景子は呆然と、見た。
 景子の理解する鬼門とは、そして景子自身ともまったく異質。
 本物の鬼。織田信長がそう言ったわけを、景子は否応なしに悟った。

 天を焦がす炎は、昼をも欺く光であたりを照らす。
 そこに浮かび上がる二雁金の旗印をみて、混乱していた将兵たちも秩序立って動き始めた。
 勝家は自らの武者働きで、壊乱しつつある鵜合の衆を軍に纏め直した。

 下流では、前田利家が手勢を率い誰よりも早く敵に当たっており、佐々成政、不破光治らがこれに続く。
 上流では火の塊となって猛戦する佐久間盛次を中心とした軍勢が善く支えている。
 戦は、このまま進むかに見えた。

 だが、一瞬。
 敵兵を炎熱地獄に堕としていた勝家の足が、止まった。
 敵陣に吹き荒れていた、目映いまでの炎の嵐が、一瞬にして消えたのだ。

 炎を消したのは、たった一騎の将だった。
 眠るような表情をした将は、勝家とは対極的に、身ぶりのみで将兵を動かしている。
 勝家の大焦熱地獄により乱れた陣形が、一瞬で縒り戻される。
 かかげられた旗印は、毘の一字。


「我は、毘沙門天」


 つぶやくような声が、戦場全体を覆うように響いた。
 まるで仏の掌に居る孫悟空のような心地だ。景子は身震いした。
 彼女は知っている。男の名を。戦国最強の軍神。毘沙門天の化身。


「――上杉不識庵である」

「上杉……謙信」
 
 



 
 


 上杉不識庵謙信。
 この時四十九である。武の神毘沙門天を信奉し、幾多の戦を経て通力を得、ついに自らが毘沙門天の化身だと確信するに至る。

 この通力こそ、実は鬼門。
 鬼柴田の鬼門、大焦熱地獄をすら消しさる、極寒の嵐。


「大紅蓮地獄」


 勝蔵が笑いながら言った。


「――八寒地獄の第八、深淵に位置する極寒の地獄だ。寒さのあまり体が折れ裂け流血し、その様紅色の蓮の花に似る――ってな」


 まさに勝蔵の言葉通りの光景が、柴田勢に起こりつつある。
 氷雪は無く、吹くは一陣の風。風が招くは極寒。目を舌を体を凍てつかせる。
 阿鼻叫喚、とは別の地獄の名であるが、悲鳴絶叫断末魔の大合唱はそれに劣らぬ。


「ぬ」


 勝家が声を放つ。纏う炎がより強く燃え上がった。
 炎熱の光が、無形の寒風を押し返す。両者の力は、五分。
 極熱と極寒がぶつかり合い、その狭間は目に見えるほどに歪んでいる。

 いつしか兵たちが退いている。
 勝家と謙信、ふたりの鬼の競り合いになった。
 その間にも、両軍は統制をとりつつ勝負の行方をうかがう姿勢を見せている。


「これが、鬼同士の戦い」


 景子は息をのんだ。
 おなじ鬼である景子にはわかる。ふたりが開いた地獄が、どれほどの絶望を秘めているか。
 ややもすれば術者すら巻き込みかねない地獄の開放が、それ以外の人間に与える、恐ろしい影響を。


「――わたしの中にも、あんな力があるのでしょうか」


 魅入られたように、ふたりの鬼の争いを眺めながら、景子は勝蔵に声をかけた。
 返事は無い。振り返って、そこで景子はようやく気づいた。
 勝蔵が居ない。


「え?」


 と、悲鳴が上がった。
 両軍とも、勝家と謙信の戦いを見守っている。
 静寂の中だ。悲鳴のもとははっきりとわかった。
 その原因もはっきりとわかった。敵左翼に突入し、暴れている味方があるのだ。言うまでもなく勝蔵である。

 この小旋風に巻き込まれるように、勝蔵を囲もうとする敵の部隊。勝蔵の加勢に向かう味方部隊。そして左翼の動きにつられるように右翼の部隊までが、ふたたびぶつかり始めた。


「もう。問題児すぎます。私はどうしたらいいんですか」


 戦火の中、景子は一人取り残された。
 武器もない。鎧もない。こんな格好でどうすればいいというのか。

 景子の見るところ、味方は劣勢である。
 当たり前だ。味方の半分は川の向こうで、しかも夜襲による不意打ちで生じた陣形の傷は、いまだ癒えていない。
 炎ゆえ目に見える勝家の奮戦が、かろうじて軍の士気崩壊を防いでいた。


「私も、せめて武器なりとも、調達しないと」


 景子は、あわててあたりを探しまわった。
 身一つで戦場に在る不安からの行動だが、そんな者が都合よく落ちているはずもない。
 かわりに落ちてきたのは、水滴だ。
 景子は天を仰いだ。落ちてきた雨粒が、景子の顔を叩いた。


「これは……雨」


 落ちる雨粒は、景子の周りで燃えるかがり火の中に飛び込み、じゅうと音をたてて蒸発した。

 拙い、と、景子は気づいた。
 勝家と謙信、両者の鬼門は完全に拮抗している。
 どんなに高熱でも炎は炎。水には勢いを減じさせられる。
 それがたとえ薄紙一枚分ほどだとしても、拮抗する両者にとっては、決定打。

 雷が落ちた。
 そうとしか思えない轟音とともに、景子の目の前を赤黒い何かが転がっていった。

 かがり火の下に転がったそれを見て、景子は悲鳴を押し殺した。
 勝家だ。凍てた肌が割れ、飛び出す血液すら凍りついている。全身に赤黒い花が咲いたような猛将は、低く唸った。生きている。
 ばかりではない。そんな様でありながら、勝家はよろよろと身を引きずり起こした。


「毘沙門天の力の前に、伏せ織田の悪鬼よ」


 重い声が響いた。
 景子は見た。駆け来る謙信と、その軍勢を。
 そして直感した。勝家の敗退が、織田軍にとって致命的となることを。


 ――父上なら。


 焦りの中で、景子は思考を走らせる。


 ――父上なら、どうする?


 景子は戦を知らない。だからこんな時、どうしていいのか分からない。
 しかし、いまの状況が、秀吉が居てどうにかなるのなら。


 ――私が。


 景子は見据えた。
 軍神を。そして目の前に迫る敵勢を。


「私が、父上に代わって……戦う!」


 刹那、槍が来た。
 景子は避けられない。
 避けようとする意思が体を動かすよりも速く、鋭い槍先は服を裂き、景子の体は槍玉に挙げられた。

 ふたたび地面に落ちた時、景子の姿はずたぼろになっていた。
 地に落ち、泥にまみれた服はいたるところで破れ、奥にある白い肌を見せている。

 そんな姿で、景子は立ち上がった。
 死者が蘇えったような驚きを見せ、敵の武者たちが足を止めた。


「鬼か」


 つぶやく謙信の目の前に、景子は立ちはだかる。
 複数の槍を食らったはずの景子の体。破れた服の間からちら見える白い肌には、傷ひとつ、ついてはいない。
 己の異常に気づくことなく、景子は気を吐く。


 ――私が、守る。だから、私の中の力よ、この意思に、応えてください!


 音が、聞こえた。
 門の開く音。そこから、水音が溢れる。

 景子の周りに、水が溢れだした。


 
 

 
 


「みず、か」


 謙信は足を止め、言った。眠るような表情は変わらない。
 謙信の持つ地獄に比して、目の前の小娘の持つ鬼門は小さい。
 少女の力が鬼柴田より数段落ちることは、たやすく想像がついた。

 小娘を打ち倒し、その背後に転がる鬼柴田の首を挙げれば、この戦が上杉の勝利のうちに終わることは明確だ。
 だから謙信は少女に向かって馬を進めようとした。

 だが、謙信が予想もしないことが起こった。


「て、手取川が!!」


 上杉方の誰かが叫んだ。
 謙信は眠るような瞳を上げた。そして見た。
 鬼が啼くような低い音。それとともに敵軍背後の闇の奥から、水が流れ来る様を。

 手取川が氾濫したのだ。
 自然現象ではない。その証拠に溢れる水は少女と謙信の間を正確に分断した。鬼門に違いなかった。


「なれば、これは三途の川」


 謙信はつぶやいた。
 地獄の入口。彼岸と此岸とを分ける冥川だ。
 地獄としては、浅い。だが、その規模は異常だ。
 三途の川と化した手取川は、敵味方を完全に分断しているのだ。謙信や勝家の鬼門とは比較にならない巨大さだ。

 三途の川は、渡れない。
 渡ればその先はあの世だからだ。
 それを証明するように、川の流れに巻き込まれた兵たちは、つぎつぎと倒れ死んでいく。


「潮時よ」


 軍神は退き時を見誤らない。すでに所期の目的は達している。
 謙信は陣貝を吹かせて素早く退いていった。

 それを見極めたように、少女の体は木の葉のように揺らめき倒れた。
 
 



 
 


 景子がつぎに目を覚ましたのは、なんと長浜城の自室だった。
 きわめて見慣れた天井である。わけがわからず、きょとんとしていると、ふいに声をかけられた。


「景子」


 父の声である。
 寝返りを打って振り返ると、秀吉が枕元に座っていた。


「父上」

「景子。すまん!」


 どんと音がした。
 秀吉が畳に頭を打ち付けたのだ。


「ち、父上。頭を上げてください。それと事情がまったく分からないんですけど、私はどうしてここに居るんですか」


 混乱しながら、景子は事情を尋ねる。
 秀吉は森勝蔵殿から伺った話じゃが、と前置きして話した。

 謙信を退けた後、景子は泥のように眠り続けたのだという。
 目を覚まさないまま勝蔵に連れられて長浜まで戻り、そこからさらに一日近く寝ていたらしい。


「柴田さまたちは」

「分けたとはいえ、味方のほうが傷は大きい。手取川では織田の負け戦だ、というのが世評じゃ。
 とはいえ、さすがは柴田さまじゃ。南加賀でふんばっとる」


 勝家の無事を知り、景子は、まずは安堵した。
 胸をなでおろす景子に、そういえば、と秀吉が口を継いだ。


「森殿が柴田さまからの言葉を伝えてくれた。景子宛にな」

「柴田さまから?」

「お主のせいで助かった。礼を言う――だと」


 あの古つわものが、そっぽを向きながら背中で感謝を示す様を想像して、景子は思わず微笑んだ。
 そんな景子に、秀吉が居ずまいを正して、また頭を下げた。


「わしからも礼を言わにゃならん。
 あそこで柴田さまが死んどったら、わしもただでは済まんかったろうさ」

「……父上はなぜ、柴田さまと仲たがいをされたのですか?」


 景子はすこし躊躇ってから、思い切って尋ねた。
 勝蔵の言葉が本当ならば、立場どころか命の危険さえ侵して、秀吉は帰陣した。
 しかし秀吉が口にする柴田勝家の名の呼びように、意趣のある響きはまったくない。


「……わしもな、個人的には柴田さまが好きじゃ」


 ややあって、秀吉は重い口を開いた。


「愚直なまでに潔い、気持のよい人よ。戦場でのあの方の“掛れ”の声に、どれほど勇気づけられたかわからん。
 だがのう。あの人の中では、今でもわしは小者の藤吉郎なんじゃ」


 仕方ない、という風に、秀吉は嘆息した。
 言われて、景子にも想像がついた。家老である勝家には及ばないが、多くの与力をつけられ、大領を持つようになった秀吉に、あの古つわものは小者に対するようにふるまうのだろう。

 そこに悪意はない。ただ頑固で、不器用なだけなのだ。
 景子にはなんとなくわかる。秀吉はそれ以上に理解しているだろう。


「わしはそれでええ。じゃが、わしを主と立ててくれとる連中、わしに夢を見てくれてとる連中。
 こいつらの前で面目を失うわけにはいかんのじゃ。たとえ尊敬する方と袂を分かつことになってものう」


 景子にもそれは分かる。
 誰も、仕えている人間が貶められる姿なぞ見たくはないし、見せてはならない。
 特に、一族の極めてすくない秀吉軍団を支えているのは、秀吉個人のカリスマであると言っていい。
 彼の持つカリスマ性に傷を負わせることは、軍団崩壊の危険すら孕む大事なのだ。

 だからこそ、秀吉もあえて軍令違反を侵すような真似までして、勝家の元から離れたのだろう。

 だが、それは。寂しい話だった。


「とはいえ、景子」


 なにかを振り払うように、秀吉は笑顔になって、景子の頭に手を置いた。


「よう帰ってきてくれた。それが一番の手柄じゃ」

「はい」


 掌の心地よいぬくもりに、景子は笑って応えた。
 奥から、母親たちの騒がしい声が近づいてきた。






[26342] 鬼姫戦国行08 「死出の途」
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:364f7003
Date: 2011/03/31 20:14

 第八話 「死出の途」


 さらさらと、川の流れる音。
 気がつくと景子は河原に立っていた。
 霧深く、景色は定かではないが、漂う空気には、深くなじみがある。
 鬼門を開いた時と同じ空気。すなわちここは。

 答えを出す前に、足音が耳に入った。
 景子は振り返り、見た。深い霧の奥に、黒いしみのように人影がある。
 足音は、しだいに近づいてくる。それにしたがい人影も大きくなっていく。

 やがて、影に色がつきはじめた。
 その近さになると、どうやら男だとわかる。
 大きい。子供ほどの身長しかない景子なら、思い切り手を伸ばしても、頭頂に触れる事は出来そうにない。


「誰です」

「……む。その声、姫君か?」


 誰何に応えた野太い声は、聞き覚えがあるものだった。
 つづいて現れた声の主の姿を見て、景子は目を見開いた。
 宮田喜八郎光次。景子が悪霊に纏われたおり、彼女の護衛についてくれた武将が、そこにいた。


「宮田さま」

「姫君。一別以来」


 眉ひとつ動かさずにつぶやく姿は、景子にとって懐かしいものだった。


「宮田さま。どうしてこんなところへ?」


 景子は首を傾け、尋ねた。 
 喜八郎は不動のまましばし黙考し、やがて口を開いた。


「死んだが故」

「……え?」


 不意打ちに、景子はおもわず口を開いた。
 景子の呆けた顔を見て、喜八郎の口元に、わずかに苦笑が浮かんだ。


「播磨三木城での戦にて、不覚をとり申した。そのまま幽世に行くはずであったが……姫君がおわすならば、また違う場所に迷い来たのであろう」


 景子はようやく察して、そっと目を伏せた。
 人の死には慣れている。それに、所詮戦は人が死ぬものだ。
 だが、だからと言って。知人の死が、哀しくないはずがない。

 景子は喜八郎にかける言葉を探した。
 だが死にゆく人間ではなく、死んでしまった人間に、あらためてかける言葉を、景子はとっさに思いつけない。
 しばし、ふたりは川の流れを見ていた。


「……ここは、三途の川ですか」

「およそその類に違いない。いずれにせよ、わしの居るべきところではないが」


 景子の問いに、喜八郎が生真面目に返した。
 三途の川は、地獄の入口。彼岸と此岸とを分ける冥川。
 あくまで入口であって、長くとどまるところではない。死んだ人間はその先に行く。極楽か、あるいは地獄へ。


「――姫君も、気をつけなされ。鬼とて長く幽世に心を浸せば、いずれ帰れぬようになろう。貴女が死ねば、殿が悲しむ」


 喜八郎が言った。
 まさしく遺言であろう。景子は喜八郎の言葉に、深くうなずいた。


「宮田さま」

「では、殿によろしくお伝えくだされ。
 それから鬼門はなるべく使わぬがよい。おなじ幽世の存在となったわしにはわかる。あれはただ便利な力ではない。鬼門は、現世に迷い出た黄泉帰りを、幽世に引きもどす――地獄の腕に、ほかならぬ」


 最後にぞっとする言葉を残して。
 喜八郎は霧の中に消えていった。

 景子が目を覚ましたのはこの直後である。
 寝ぼけ眼をこすりながら、景子は妙に現実感のある夢だと思った。

 ほどなくして宮田喜八郎討死の知らせが届いた。
 天正六年、六月のことだった。


 
 

 
 


 手取川以降、景子はときおり長浜の町を歩くようになった。
 あの戦いでの活躍は、すでに尾ひれのついた噂になって広まっている。
“羽柴の鬼姫”が純白の打掛を羽織ってぶらつくだけで、街中での無用な争いを減らす効果があるのだ。


「これも、鬼の使い方なんですかね」


 身に纏う打掛を見て、景子は苦笑する。
 柴田勝家。織田信長が言うところの“真の鬼”。
 この純白の打掛は、手取川で命を救われた礼として、彼から贈られたものだ。
 白地に、やはり白糸で雅やかな刺繍がされており、ひと目で分かるほどの高級品である。

 それに、白は死に装束の色だ。
 黄泉帰りの鬼である勝家が、おなじ鬼である景子に贈るには、相応しいものに違いない。
 この打掛を見るたびに、景子は勝家の姿を思い出す。戦場に地獄を現出させた、あの無骨な戦鬼の姿を。


「私も、私なりに、父上の役に立ってみせます……羽柴の、鬼姫として」


 思いを胸に、景子は今日も長浜の町を歩く。

 鬼といえども女である。
 その上秀吉の娘だ。当然身辺には護衛がつく。
 ちょうど使いで帰城していた福島正則が、今日は護衛についていた。

 福島正則とは、あの市松少年である。
 彼もすでに初陣も済ませている。播磨三木城の攻撃といえば、宮田喜八郎が討ち死にした戦であり、そこに身近な人の死と初陣が重なるのだから皮肉なものだ。
 とはいえ、そのような事例、乱世には枚挙にいとまがない。


「しかし、長浜は平和なものですな」


 町を見回しながら、市松がしみじみと言った。
 景子と同い年の少年は、だから十七歳になるはずだ。
 だというのに、ふたりが並べば、まるで大人と子供である。


「……市松。大きくなりましたね」

「そうですか? 虎之助はもっと大きくなっとりますよ」


 恨みがましくつぶやいた景子にたいし、市松は朗らかに笑ったものだ。


「……虎之助は、どうしているんでしょうか」


 歩きながら、景子はそらぞらしく尋ねた。

 景子のことを「おまえ」と呼んでいたあの少年も、いまではかしこまって「姫様」と呼ぶ。

 初めてそう呼ばれた時、景子は虎之助と口論になった。
 弟のように思っていた虎之助から、突然突き放された気になって、かなり必死に呼び名を戻すよう言ったのだが、虎之助は頑として譲らなかった。
 それがしこりとなって、景子と虎之助の間は、いまでもすこしぎくしゃくしている。


「必死に勤めとりますよ。なにやら分不相応な大望があるようで」

「大望? なんです? 私が力になれることですか?」

「はは。姫さんが力になってくれるなら、すぐに叶うことでしょうが……やめときましょう。言えば虎の奴に恨まれそうだ」


 はぐらかした市松に、景子はむー、と口を尖らせる。


「はは。ま、藤吉郎さまの例に倣いたいと思っている、とだけ言っておきましょう」


 市松の言葉を聞いて、景子はなるほど、と手を打った。


「いずれは大名に、というわけですね」

「……まあ、とりあえず、そういうことにしときましょう。あながち間違ってはいませんし」


 市松の言葉は意趣ありげだった。
 それを察したわけではないが、景子は納得気にうなずいた。
 虎之助はいずれ大名になる。彼が元服し、加藤清正を名乗ったときから、景子はそれを知っている。


「父上といえば、最近知ったのですけど」


 感傷的な気分になるのを避けるように、ふいに景子は話題を変えた。


「父上と母上、恋愛の上の結婚だったというのは本当ですか?」

「ええ。当時はおねねさまのほうが身分が上でした。それゆえ、おねねさまの母君は最後まで反対されたようで。結局おねねさまは浅野さまの養女になって嫁入されたとか」


 こういう話を聞くと、景子はすこしうきうきする。


「恋愛結婚……ちょっと素敵ですよね」

「こちらには芽すらありませんがね」

「余計なお世話です。どうせ私はこの歳になって縁談ひとつありませんよ」


 市松の言葉を斜めに受けとって、景子は拗ねた。

 この歳になっても、景子にはさっぱり縁談がない。
 なにしろ織田信長に目通り適い、勝家から服を送られた女である。
 その理由について様々な憶測がされ、その結果、誰もが縁談を持ちこむことを、ためらうようになってしまったのだ。


「そのことじゃないんですが……ま、いいんですがね」


 あきらめたようなため息をついて、市松は街並みのほうに目を映してしまった。
 通りには種々の店が立ち、おいしそうな匂いが漂っている。


「小さい姫さんに、土産でも買って帰りますか?」

「そうですね。餅を――」

「なにか別の甘いものにしましょう」

「ではあんこ餅とか、豆餅とか」

「餅から離れてください。小さい姫さん、あんまり餅ばかり食わされるもんだから、最近姫さんから逃げとるらしいじゃないですか」


 指摘されて、景子は言葉に詰まった。
 事実なのだ。


「……餅に罪はありません。すべての責任は私にあります」

「いや、まったくその通りだと思いますが、なんでそこまで餅を庇うんですか……」


 そんな風に話していると、通りの向こうから馬が駆けてきた。
 一団の先頭に居る、少壮の武者を目にして、景子は眉を顰めた。
 阿閑貞大。あまり顔を会わせたくは無い人物だ。だが、期待に反して貞大は景子の前に馬を止めた。


「おお、これは羽柴の鬼姫。相変わらず愛らしゅうござるな」


 声に嘲弄の響きがある。


 ――嫌な奴。


 そう思いながら、景子は丁寧に挨拶を返した。
 阿閑貞大は近江山本山城の主、阿閉貞征の嫡男だ。元々秀吉が北近江を任された時、与力につけられていた。
 しかし領地がらみの争いで秀吉とは険悪の仲になり、中国攻めにも参加せず、現在は信長の旗本になっている。


「聞けば父御は、播州で尊大にふるまい、ために別所氏の反乱を招いたとか。さもありなん。なにせ羽柴殿は下賤の出であらせられるからな。名族の遇し方も知らなんだのであろう!」

「――市松」


 黙って前に出ようとした市松を、景子は眼で制した。
 普段は気の利く少年だが、実は激しやすい性質である。主に対する侮辱を我慢できなかったのだろう。
 だが、相手は信長の旗本である。市松とは身分が違う。問題を起こせば市松が一方的に不利益を被る恐れがある。止めたのはそれゆえで、むしろ怒りは景子のほうが強かった。


「阿閑どの。そのお言葉、羽柴家に対する侮辱と受け止めてよろしいか」


 景子は市松の前に出て、貞大を据えた目で睨みつけた。
 まさしく鬼の目だった。供廻りの者の顔色が蒼白になった。
 貞大はさすがに胆が座っている。怯んだ様子もなく、堂々と返す。


「これはしたり。わしは忠告しておるのだ。寒門の浅ましさゆえにあえて名族を冷遇するならば、いずれ待っておるのは滅びのみだとな!」


 がはは、と、下品に笑って。貞大は去っていった。


「けっ」


 呑みこんだ汚いものを追いだすように、市松が唾を吐いた。
 余憤が燻っているようで、目じりのあたりがひくついている。


「姫さん。なんで好きに言わせたんじゃ――ですか」

「天下の往来で、主君の旗本相手に喧嘩するわけにもいかないでしょう」

「しかし姫さん。あそこで言い返さにゃ、御家が侮られ――」


 市松の言葉をさえぎるように、遠くで野太い悲鳴が上がった。


「なにがあったんでしょう」

「さて」


 この時には、景子の顔色はすでに戻っている。
 首をかしげる市松に、景子は柔らかく笑いかける。


「――乗っていた馬が、すでに死んでいたことを思い出したんでしょう」


 声に、すこしだけ、鬼の残滓があった。
 少女の足元には、日和つづきだというのに、水たまりができていた。


 
 

 
 


 景子が、乱世にあって平和とも言える時を過ごす間にも、歴史は流れてゆく。

 時代の主役は織田信長である。
 越後の軍神、上杉謙信が逝き、丹波の波多野秀治、播磨の別所長治、摂津の荒木村重らの謀叛を討ち、さらには宿病のごとく悩まされていた石山本願寺をも降し、武田勝頼を天目山に追い討った。

 もはや信長とまともに当たることができる勢力などない。
 中国地方の超大国毛利や、関東の雄北条とて例外ではなかった。
 群小の大名豪族たちはこぞって織田家によしみを通じ、信長は覇権を確かなものとしていた。

 時代を生きる人々にとって、信長が近い将来日の本六十六ヶ国を従えるであろうことは、もはや外れようのない未来の事実だった。
 羽柴景子すら、すでに歴史が変わったことを疑ったほどの、それは絶頂期。

 しかし、天正十年、六月。
 武田勝頼が天目山の露と消えてからわずか三ヶ月の後、事件は起こった。

 明智(惟任)日向守光秀の謀反。それによる信長の死。
 いわゆる本能寺の変である。
 
 



 
 


 本能寺はただの寺院ではない。
 周りに堀を穿ち土垣を積んだ、一種の城塞のごとき寺だった。
 十分な数の兵を込めれば千や二千の兵を相手取っても、長期間支えることができるだろう。

 だがこの時、信長の手勢はあまりにも寡なく、寄せ手の数は一万を超えていた。


「是非に及ばず」


 とは、光秀謀反の事実を確認した信長の言葉である。
 言葉の意図は、どこにあったのか。それは分からない。

 その後の信長の働きは、凄絶と言っていい。
 自ら弓を取り、槍をしごいて鬼のごとく戦いつづけた。
 信長が止まったのは、矢を射尽くし、槍が折れたからだ。武器のほうが先に根を上げたと言っていい。

 戦う術を失って、初めて信長は憑き物が落ちたように笑い、奥へ引いた。
 深夜である。燈明の明かりは頼りなく、半ば開いたふすまの向こうは、黄昏の暗さだった。

 その、深い闇の中に、彼らはいた。
 亡者の群れだ。信長の眼にははっきりと見える。
 侍がいた。坊主がいた。老人がいた。子供がいた。女がいた。
 まるで天国から垂らされた蜘蛛の糸を求めるように、我先に詰め寄ろうとするおぞましき亡者の群れは、見えない壁に阻まれたかのように、部屋の中に入れないでいる。


「亡者どもめ」


 信長の言葉には、親愛の響きがある。
 いずれも信長の死期が近づいたことを察し集まってきた亡者だ。
 見覚えのある顔もあるし、見覚えのない顔もある。共通して言えるのは、信長に強烈な恨みを抱いていることだ。

 だが、亡者たちは信長に近寄れない。
 信長が発している、強烈な香りが、亡者たちを恐れさせているのだ。
 それは紛れもなく、地獄の香りだった。現世では、鬼以外纏い得ないものだ。

 鬼の笑いを浮かべ、信長は問う。


「ともに地獄へ、参るか?」

「はい」


 思わぬところから返事が返ってきた。
 乱丸であった。凛々しい若武者に成長した少年は、まっすぐな瞳を信長に向け、続ける。


「――六道の果てまでも、殿に付き従いましょうぞ」

「デアルカ」


 信長の言葉はそれだけだった。
 それ以上の言葉は、必要なかった。
 そして信長は、事も無げに。己が纏いし地獄の名を呼んだ。


「開け――“無間地獄”」


 最も深く、最も苛烈な地獄の門が開く。

 亡者と乱丸を供として。信長の姿は地獄の業火の中に消えた。
 あとに残った地獄の残滓が、炎となって本能寺を燃やしていった。

 そして歴史が刻まれた。




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