時節は少し遡り、才人とルイズがウェールズと再会し "麗しのアンリエッタ号" に乗り込んだ頃か。
暦をケンの月からギューフの月へと移した、神聖アルビオン共和国首都・ロンディニウム。
その南側に建つハヴィランド宮殿に、かつては貴族派であり今は浮遊大陸を支配する将軍や閣僚達が招集されていた。
彼らは荘厳な白一色のホールに会し、巨大な一枚岩で作られた円卓について、皆一様に不機嫌な表情を張り付かせ落ち着かない様子で腰掛けている。
もうかなりの間自分達を招集した人物を待ち続けている為か、中には苛つきを隠せず腕を組んで脚を揺する者までいた。
果たして名だたる貴族である彼らを呼びつけ、待たせる人物とは如何なる者か。
その者はつい二年前までは地方の一司教に過ぎなかった男である。
メイジの血筋では無かったが、ある日伝説の系統に目覚めた人物でもある。
何より待ち人は、彼ら貴族派の盟主として王党派との戦いを勝利に導いた人物であった。
突如。
ホールに幾つもある扉の内、かつて王族専用であったものを衛士が開いて、呼び出しの声を上げる。
「神聖アルビオン共和国政府貴族議会議長、サー・オリヴァー……」
名の呼び上げは最後まで行われない。
当の本人が衛士に翳し、にこやかに遮ったからだ。
「サ、サー?」
「無駄な慣習は省こうではないか。ここに集まった諸君で、余の事を知らぬ者は居ないはずなのだから」
貴族連合レコン・キスタの総司令官,、オリヴァー・クロムウェルは衛士にそう言いながら円卓を見渡した。
高い鷲鼻と理知的な碧眼は慈愛に満ち、カールした金髪はよく手入れがされていたものの痩せた体躯からは威厳は感じられない。
しかし彼こそは間違いなく神聖アルビオン共和国の初代皇帝である。
その証として、クロムウェルはかつて国王が座していた一際豪奢な作りの椅子に座すと、起立して彼を迎えていた閣僚や将軍に座るよう促し会議の開催を宣言した。
議長席の背後には秘書であるシェフィールドが控えており、会議が真の主の意に添うよう目を光らせる。
そこまでは才人が過ごした "前" と同じであったが、ただ一つ、場にワルド子爵と土くれのフーケの姿は見当たらず、かわりにシェフィールドの隣にもう一人。
漆黒のローブを纏った女性らしき人物が幽鬼のように立っていた。
特別な許可があるのか神聖政府の会議の場にあっても深く被ったフードは脱いでおらず、内部に闇その者を湛えているかのように顔おろか口元すら見えない。
そのせいであろう。
彼女の周りはどこか異質な空気が漂っていると見る者に錯覚させ、得体の知れない不安を煽るのだった。
「閣下にお尋ねしたい」
会議の開催と同時に挙手をしながら声を挙げたのは、白髪と白髭が見事なホーキンス将軍である。
歴戦の将軍は少しきつい目を皇帝に向け、発言の継続許可を待つ。
「続けたまえ」
「は。我が軍はタルブの地で一敗地に塗れた後、艦隊再編の必要に迫られました」
「うむ」
「その時間稼ぎの為秘密裏に行われた、トリステイン女王の誘拐作戦も失敗に終わっております」
「そうだ」
「……閣下。それらが招いた結果を閣下のお耳に入れても?」
「もちろんだ。余はすべての出来事を耳に入れなくてはならぬ」
「では……。敵軍は、ああ、トリステインとゲルマニアの連合軍は突貫作業で艦隊を整備し終え、二国合わせて六十隻もの戦列艦を進空させました」
「ふむ……」
「これは我が軍が保有する戦列艦に匹敵する数です。しかも再編にもたつく我が軍と比べ敵は艦齢も新しく士気も上がっております」
「ハリボテの艦隊だ。奴らの練度は我々に劣る」
ホーキンス将軍の言葉を遮るように反論したのは、クロムウェルではなく他の将軍であった。
将軍は指摘にゆっくりとかぶりを振り、重苦しい口調のまま不快な報告を続ける。
「それは昔の話です。練度で言えば我らも褒められたものではございませぬ」
「何故だね? ホーキンス将軍」
「我々は革命時に優秀な将官士官を多数処刑した上、残ったベテランもタルブで殆ど失ったからです、閣下」
説明にクロムウェルは黙り込んでしまった。
難しく顔をしかめてはいたが、不興を覚えている様子は無い。
「彼らは現在、船の徴収を盛んに行い諸侯の軍にも招集をかけ、尚も戦力を増強しております」
「ふむ……まるでハリネズミだ。これでは攻め手が見つからない」
「攻める?! これだけの情報がありながら、貴殿は敵の企図する所を読めぬというのか?!」
ホーキンス将軍は悠長な物言いで発言した太った将軍を睨み付け、声を荒げながら円卓を叩いた。
怒声は雷のように響き、場の緊張感が冷たく増すのがわかる。
「よろしいか?! 彼らはこのアルビオンに攻めて来るつもりですぞ?! ――閣下」
「続けよ」
「は。以上を前置いて閣下に質問致します。閣下の有効な防衛計画をお聞かせ下さい。本日我らを招集したのはその為だとか」
「いかにも」
「では是非。小官が愚考するに、艦隊決戦で敗北したならば我らは丸裸となります。更に敵軍を上陸させれば泥沼の戦となりましょう。革命戦争で疲弊した我が軍が持ちこたえられるかわかりませぬ」
「それは敗北主義者の思想だ!」
声を荒げホーキンス将軍の言葉に噛みついたのは若い将官である。
クロムウェルは手を翳して怒りも露わに立ち上がった彼をにこやかに制し座らせ、ホーキンス将軍に向き直った。
「彼らがこのアルビオンを攻める為には全軍を動員する必要がある」
「おっしゃるとおりです。しかし、彼らには国に軍を残す必要はありませぬ」
「なぜかな?」
「彼らには我が国以外に敵はございませぬ故」
「将軍は彼らが背中を疎かにするつもりであると?」
「は。既にガリアは中立声明を発表しております。それを見越しての侵攻なのでしょう」
将軍の言葉に場はざわめき立つ。
中にはこの場に及んで動揺を隠しきれぬ者までいたが、クロムウェルは焦るでもなく悠然と背後に控える秘書に目配せを送った。
秘書――シェフィールドは合図にコクンと小さく頷いて返し、傍らに居た黒いローブの女に何やら囁く。
「その中立が偽りだとすればどうかな?」
「……まことですか? 閣下。ガリアが我が方の味方として参戦するなど……」
「そこまでは申しておらぬ。なに、ことは高度な外交機密であるのだ」
場のざわめきはクロムウェルの意外な言葉に一層増した。
ホーキンス将軍もまた、顔色を変えてクロムウェルを見つめている。
その表情は信じられぬといったものだ。
周囲では閣僚や将軍達が思い思いに話し始め、もっぱらクロムウェルがどうやってその協力を取り付けたか、ガリアの意図する所が話題となっていた。
外務大臣すら慌てふためいている様子から、事はクロムウェルの言うとおりかなり高度な外交機密であるらしい。
将軍はそう判断しながらも、同時に彼の思考は戦略について回転を始める。
参戦するまでいかなくとも、もし、ガリアが味方であったなら?
艦隊戦に入る前、いやもし敗れた場合でもいい。
ガリアが軍をトリステインやゲルマニアの国境に動かすだけで、彼らの前線は動揺し戦況はあっという間にこちら側に傾くであろう。
彼らにしてみれば少なくとも撤兵は免れない。
――本当にガリアがハルケギニアの王政に弓引く自分達の味方に付くのなら、であるが。
「閣下。疑うわけではございませぬが、それがまこととするならばこの上ない朗報ですな」
「だから高度な外交機密であると申しておる」
「しかし、その話、如何様にして? 見たところ外務大臣も知らぬ話のようですが――」
「なに。ガリア国王は今の腐りきった王家よりも伝説の "虚無" 、ブリミル様の直系を選ばれただけの話じゃて」
答えたのはクロムウェルでなく、シェフィールドの隣に控えていたローブの女。
その声はよく通り、広い白のホールにべっとりと張り付くような凄艶さであった。
「――貴殿は?」
「彼女はガリアからの "客人" だよ、ホーキンス将軍」
「なんと!」
「くく、密使故名も顔もこの場では明かせぬがの。皇帝陛下の言葉に華をもたせようと、証人としてこの場に同行した次第じゃ」
女のくぐもった笑いは場に居た者達に不吉な印象を抱かせたが、クロムウェルだけは悠然と構え満足げに胸を張っていた。
彼の様子から女の素性が信用できるだけのものを、何かしら提示されているらしい。
「諸君、そういうことであるから案ずる事無く職務に励みたまえ。攻めようが守ろうが我らの勝利は揺るがない。私はこれから "客人" と高度な外交を行う必要があるのでね、失礼するよ」
「は!」
「あと、今後の対トリステイン・ゲルマニアの作戦立案は君達に任せる。ガリアは動かない事を前提に話を進めてくれたまえ」
「御意」
クロムウェルはそう言って立ち上がり、秘書と密使を伴ってホールを後にした。
ホーキンス将軍は敬礼をして彼らを見送ったが、その折にガリアの密使が深く被ったフードからちらりと口元が見え、年甲斐も無く生唾を飲んでしまう。
一瞬見えた女の唇があまりに艶めかしく、雄の本能に訴えかけてくるように笑みを浮かべ――
たまらなく恐ろしいものに見えたからだ。
◆
そして現在。
ギューフの月も半ばにさしかかった、ハヴィランド宮殿の執務室にて。
時刻は昼頃であるがカーテンが閉じられた室内は暗く、クロムウェルはかつて国王が使っていた執務机に向かっていた。
机の真向かいには秘書のシェフィールドが立ち、冷たく神聖アルビオン共和国の初代皇帝を見下ろしている。
「ミス・シェフィールド。これで……本当にこれで良かったのですか?」
男の声に余裕は無く、不安と恐怖がありありと見えた。
シェフィールドはクロムウェルを見下ろしながら、口元に笑みを浮かべゆっくりと頷く。
「ええ、なんの問題もないわ司教殿」
「しかしワルド子爵とフーケが消えたのは……」
「こちらの情報では、離反した彼らがトリステインやゲルマニアに与した形跡はないわ。情報が漏れたとしても大した事ではないし、裏切り者の言を信じる者はいないでしょう」
「なるほど……」
「それに雇ったうでっこきの傭兵に魔法学園を襲撃させた後、二人を始末させるよう手配もしてあるから大丈夫よ」
「ですが……ワルド子爵が居ない今、どうやって暗殺者をトリステインに? 諜報員の報告によれば、彼の国の "協力者" はどういったわけか皆あぶり出され、粛正されてしまったと……」
「くく、案ずるな。儂が手引きしてやろうて」
粘り着くようなくぐもった女の笑いが、執務室に転がった。
笑いはシェフィールドのものではない。
秘書と皇帝の視線が向けられる部屋の隅、もっとも闇が濃い場所にあの黒いローブの女が立ち、そう口にしたからだ。
「本当でございますか?!」
「本当も何も、 "我が主" がそう望まれるならば是非も無い。ひひ、そうであろう? 秘書殿」
「……そうよ」
不快な笑い声を上げ協力を請け負った女に、シェフィールドは恐ろしく冷たい声で答えた。
クロムウェルはそこに侮蔑と不審を多分にくみ取り、戸惑いを覚えたが触らぬ神にたたりなしとばかりに愛想笑いを浮かべ、うわずった声で女に礼を述べる。
そんな彼にシェフィールドは内心舌打ちをしながらも、それ以上女に構う事無く皇帝の秘書として仕事の話に戻る事にした。
彼女の主であるガリア王に最近取り入った得体の知れない女ではあるが、その実力は確かであると知っていたからだ。
いや、正確にはその力がどのような物であるかは全く検討も付いていないのだが、彼女が「やる」といった事は必ず成し遂げられる事だけは確かであると知るシェフィールドであった。
「じゃあ話を元にもどしましょうか、 "閣下" ?」
「あ、は、はい」
「北部のラックスフォード方面空軍の件だけど、やはりトリステインかゲルマニアの艦隊がスニソートビーク空域を越えて来た形跡はなかったわ」
「と、言う事はラックスフォードの艦船が何隻か破壊されたのは……」
「基地司令官の報告通り、大空賊 "片目" のネルソン一家の報復のようね」
「ううむ……たかが空賊にラックスフォードの司令官は一体何を」
「さあ? あの白髭の将軍が言っていたように、練度の問題では無くて?」
「……ミス・シェフィールド。本当に大丈夫なのでしょうか?」
「あら。 "あの方" の案が信じられないと?」
声は急に氷のように冷たくなった。
クロムウェルは秘書が纏う空気が変わったのを敏感に察知し、飼い主に怒られる事を怖れる犬のように執務机から立ち上がり、彼女の足下に跪く。
「め、めめ、滅相も無い! 私がこのような地位に就けたのも、すべてあの方の言う通りにしたお陰でございます!」
情けない台詞の音色は媚びと諂いと恐怖。
古き王政を見事打倒してみせた皇帝の真実は、臆病な犬そのものであった。
シェフィールドはそれからしばらくの間、冷め切った視線を蹲り必死に美辞麗句を並べ立てる憐れな男に向けていたのだったが。
ふとクロムウェルの言葉が途切れても尚、蹲り続ける事に疑問に感じて片眉を上げる。
「……司教殿?」
「くく、気にするな。ちとそこの五月蠅い阿呆の時を止めただけじゃ」
返答はまたもや部屋の隅にある闇から。
黒いローブの女の言葉を受け、シェフィールドは足下の男を軽く蹴飛ばしてみる。
感触はなるほど、まるで岩のように硬くなっておりどういった魔法を使ったのかは不明であるが確かにクロムウェルの時間は止まっているように思えた。
「……何のつもり?」
「何。あの狂王ではなく、お主と直接取引をしたい事があっての」
「貴様!」
「怒るな。ひひ、あの一夜は夢のようであったろ?」
愛する主を狂人呼ばわりされ、シェフィールドは瞬時に怒りも露わにして黒衣の女を睨んだ。 が、いつぞやの一夜のことを持ち出され怒りで朱に染まりかけた頬を羞恥で更に色濃く染める。
その様子に女はいたく満足してか、再びくつくつと笑い出した。
「くく、中々良い表情をするの」
「――っ!」
「だから怒るなと言うとろう? 前も言ったが、儂はお主の味方じゃ」
「……信じられるわけないでしょう?」
「そうか? ではこれならどうかの」
黒いローブを羽織りフードを深く被った女――『時の魔女』ノルンは、くぐもった笑いを発しながら言葉を続ける。
その様はまるで、部屋の隅に湧き出る闇から取引を持ちかける悪魔のようだ。
唯一いつから見えるようになったのか、フードから覗く唇は常に柔らかな笑みを湛えて、同性のシェフィールドでさえ淫靡な妖艶さを感じる程赤く美しく。
そして "神の頭脳" と謳われる伝説の使い魔は、主と同じように悪魔との取引に応じるのであった。