これは沖縄三線新人賞にズブのヤマトンチュしろうとがチャレンジした体験記録だ.
(転勤や出張など、これから沖縄音楽を学ぶ方の参考になれば幸いです)

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1.古典音楽の新人賞というもの

2.「伊野波節(ぬふぁぶし)」について

3.練習風景いろいろ

4.照喜名朝一先生について

5.試験当日の模様

6.結果の発表

7.あとがき

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照喜名クラブのページへリンク

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1.古典音楽の新人賞というもの

新人賞 、結構この「新人賞」というのは沖縄で知名度があるらしい。
おおまかにいうと古典の新人賞と民謡の新人賞があり、 この記録は古典のほうである。 古典の楽器には三線(さんしん)・太鼓・踊り・琴・胡弓(こきゅう)があり、コンクールはそれぞれ新人賞・優秀賞・最高賞がある。正確には新人奨励賞という 。
独断と偏見だが、保存と継承が主眼だから 三線古典の場合はそんなに上手くなくてよいはずだし、 古典はいい声でなくてもよいはずだ。 実施要領には「正しい継承と芸能文化の発展に寄与することを目的とする」とあるので 間違わずに弾きとおせば合格するはず。 実は、多少間違っても合格するようだ 。
三線の部といっても「唄・三線」という言葉があるくらいなので唄もある、というか唄が逆にメインだったりする。
三線にはじめてさわったのが4月、それからわずか5ヶ月なのに新人賞へ挑戦してみた。 言われるがままに、2者択一の課題曲から「伊野波節」を選択、 もう一つの課題曲は「稲まづん節」というものだった。




2.「伊野波節(ぬふぁぶし)」について

この曲は沖縄県の北部にある本部町(もとぶちょう)、伊野波(いのは)という場所に伝わる唄だそうだ。 昔節(むかしぶし)のひとつで古さは数百年モノという。 いにしえのその昔、かの首里城で唄われた曲らしい 。さらに古い大昔節(うふむかしぶし)というのもあるという。
なにせ超スローな曲で、はじめて聞いたときはお経かと思うほど長く単調だった。 最初は曲が始まるとすぐ寝たしどこから聞いても始めても、すべて同じように聞こえた。
コンクールでは7分30秒の曲からあたまの1分を省略する。 この曲の声の音域だが、うたは下の低いソ(G)から普通のソをとおって、うえのソまでつかう。 ソ(G)からファ(F)までで1オクターブとすれば、2オクターブを越え3オクターブめに突入する曲だ。
このようなことをあたかも知ったように言うが、私は音感とか声量、楽典とは全く無縁であるエヘン。
さらに知ったかぶりすると、この曲の三線の音域は、第1弦の開放がCなので唄の方が下回る音を出し 高域は第三弦の八ポジションまでなので唄よりも三線の音域が狭い。 音の数はというと、6分30秒の間で120音しか弾かない、つまり 単純に計算すると3.25秒に一回ひくのだから、これは難しくはないはず(と思った)。
沖縄の三線には野村流と安冨祖流(あふそりゅう)という流派があり、私は安冨祖流という流派のコンクールを受けることになった。これは最初に教えた先生の流派に従うらしい。
この唄の歌詞は「んぞちりてぬぶる、とさはあらな」たったこれだけ。 詠み人しらず。 間にはやし「あのんぞよ」と「ハイヤマタ」がはいるが 全部でわずか28文字、また計算すると14秒に1文字だ。 この曲は「安冨祖流工工四(くんくんしー)」という教本の207ページめにあるのでたぶん入門曲ではないと思う。
舞踊曲としても定番であるらしいが、歌詞が違うらしい。


3.練習風景いろいろ

3-1. 4月から6月までの入門編

コトの発端は地元の新聞社、琉球新報社のカルチャースクールだった。
沖縄の三味線というのは変わった雰囲気だなぁ、嫌いじゃないぞ、などと思っていた矢先「出張者と転勤者のための三線講座、講師照喜名朝一、定員13名」、 琉球新報の広告にこのコピーをみつけたのが3月だった。このコースは年4回開講し、私は4月からの3ヶ月コースに早速申し込んでみることにした。
今回が8期めと言うのだから、このコースは2年目らしい。 殆ど全員が、三線をはじめてさわるトーシロばかり。 定員13名というのは、部屋の大きさや貸し出し三線の数からの人数制限なのだろう。 毎週土曜日の3時半から5時までの1時間半だけ 老若男女が指導を受けながら合奏する。
基本の三線の持ち方、弾き方から、琉球音楽史へも話が及ぶ。 休憩時間にはいろんな民謡をバンバン聞かせてくれた。 照喜名先生はまさに生きた琉球芸能史のような講師である。 とても楽チンな余裕しゃくしゃくの琉球音楽満喫状態なのであった。

ある日、安冨祖流70周年公演の裏方手伝いをさせてもらうこととなった。 那覇市民会館で盛大に行われる三線公演というものの舞台裏をじっくり見学させてもらうことができた。 照喜名先生は客席からは見えない舞台裏袖で指揮をとっており、かなりの役職というかまとめ役のようなのである。伝統芸能の舞台裏方というのは初めての経験だ。
初めて身近に目の前で踊る古典舞踊の女性達がとても美しくまぶしいぞ。原色系の琉装(というのかな)が目にしみる。ずいぶん頻繁に踊り手や歌い手が入れ替わるものだ。
そんなこんなでカルチャースクールでは、6月までの3ヶ月間に結局3曲を覚えることができた。
覚えた曲は早口説(はやくどぅち)、秋の踊り、安波節(あはぶし)である。
そのうち、趣味が高じて自分で「マイ三線」を購入する人もあらわれた(私も)。

ある日「受験申込み要領説明書」が配られ、 9月に地元新聞社主催の古典芸能試験というのがあり、ついてはそれにむけて7月から集中練習をスタートしたいという。 いままで3ヶ月間も脱落せずにきたのだから大丈夫だとも、あと3ヶ月でわずか1曲覚えるのだから絶対大丈夫ともいう。
せっかく三線を買ったヤマトンチュに新人賞はなによりのみやげともいう。
「9月は初孫と遊びたい」という女性をのぞき、皆その場の雰囲気で申し込んだ。 この時点でもちろん課題曲を聞いたことのある人はいないし、もちろん自分で調弦できる人もいない。
あとで説明書をよく読むと受験資格というのがあって、 芸歴3年以上とか師匠の推薦とかがあるのだが 、ここら辺でおりればよかったかもしれない。

3-2. 7月から初級編

沖縄には三線を教えるところがたくさんあるようだ。 三線教室には「なになに某の研究所」という名前がついている。
研究所といっても白衣は着ないし、実験もしない。
楽器が無造作にころがってる模様は、 なんとなく本土のバンド練習スタジオという雰囲気だ。 この照喜名朝一(てるきなちょういち)研究所にも4室(4スタジオ)あり、 三線や太鼓はもちろんドラム・キーボード・エレキベースが見える。
1階に外の道路から見える練習場が2室、2階が先生の自宅で3階にも練習場が2室、 うち3階の1室は壁一面が鏡で床は板張りの道場だ。 3階の和室の壁には先生の先生「宮里春行」の写真がある。 研究所の講師陣と門下生の名札が壁に連なっていて、マスターすべき模範100曲というのが額に連なっている。

コンクール向けの訓練生は5000円の月謝が必要で、 試験にでる英単語ならぬ、試験でチェックされる 重点ポイントだけの短期集中特訓により「体に覚えさせる」ことが可能という。 今回この道場にあちこちから集う「伊野波節受験生」は全部で30人近い。 練習は月水金の9時くらいから11時ちかくまで、これから3ケ月続くという。

まず節回し(曲のながれ)を習いはじめた。
先生にあわせて繰り返し繰り返し皆で唄う。 本人のキーに合わせたカセットテープが配られ、 毎日繰り返し聞き口ずさめという。 とはいってもどこからスタートしても皆同じように聞こえてしまうのだが。

主要な古典曲を5線譜に起こした本が出版されているのが助かった。 この本の類は糸満(いとまん)・豊見城(とみぐすく)・県立・市立若狭など、たいていの図書館にもおいてあるので買う必要もなかった。 NHK編「日本民謡大観(沖縄奄美)沖縄諸島篇」 、金井喜久子著「琉球の民謡」音楽之友 、富浜定吉編「五線譜琉球古典音楽」文教図書 、上間一秀著「琉球古典音楽、野村流五線譜版」などなど。
伊野波節に限らず古典曲は拍子や早さが途中で変わるので、各本の五線譜スコアスコアは微妙に違っていた。

最初は野村流声楽譜付き工工四本も参考にしたが、もとも工工四(くんくんしー、いわゆるTAB譜)すらまともに読めないので2重苦になった。
金井本は丁寧な解説も役立つ。 上間本は5線譜の下段に工工四が書いてあるので、これが一番なじめた。
とにかく先生がいまこの唄のどこを唄っているのか解ることが先決だ。 小々間違っても最初から最後まで弾き通すことが先決とも言われる。
照喜名先生の指揮がはじまった、那覇市民会館のどん帳裏状態、 三線の右手左手の動きをオーバーにしたようなスタイルだ。 指揮というのも珍しいものを見たが、こういう曲の合奏というのも更に珍しいのではなかろうか。
自信をもって、この曲は100人中100人のヤマトゥンチュが聞いたこがないと言い切れる。

「てごと」いわゆる左手と右手の動きを習い始める。 本人のキーに合わせたビデオが配布されるので 、自宅でビデオ画面の先生の手にあわせて練習する。 繰り返し見て手と指の動きと形を覚えろという。 左手と右手の動きで調子リズムをとるのでここが重要ポイントだ。 先生の両手を繰り返し凝視し真似る。

一方、駒の位置にマークする。 2Bくらいの鉛筆で三線の蛇皮に直接印を書いて次回から必ずここに駒を立てるようにする。 尺(しゃく)の位置にマークする。 棹上に上から見えるところにシールを貼り、目をつぶっても小指がここへ飛ぶように反復練習する。 その尺の位置のそばに六七(ろくしち)ポジションがある。

2日も練習をあけるともうダメだ、 手が違うといわれる、 歌が違うといわれる。 姿勢が違う、持ち方が違うといわれる。 普段正座なんてしていないからそのうち疲労が足にきて 翌朝起きると膝がわらっているなんて笑えない状態になる。 ついに座椅子を買うことにする。
葬儀の長時間着席焼香をイメージして沖縄の仏壇仏具屋(漆器店というらしい )を訪ねたが思うようなのが無い。結局折りたたみ式(組立式)で三線ケースにはいるタイプを 、琉球楽器ショップ「安里(あさと)のまたよし」で購入した。
さぁこれでヤマトンチュも連続正座できるようになったが、すぐさま今度はヤマト発音が違うといわれる。
自分には「にゃひん」ときこえるが、ここは「にゃふぃん」だという 、「むぞう」ときこえるが「んぞう」だという、 「アイヤ」でなく「ハイヤ」だ 。「のぼる」ではなく「ぬぶる」なのだ。 しかも「う」でなく「wo」だ。気分はもう日本じゃないぞ 琉球ぞ、書き言葉と読み発音が違うのネ。

1オクターブ内に器用におさめてしまう女性がいる。 オクターブ内にシフト(折りたたんで)して全部通すと 女性の声だと違和感が少ない。 もちろんインチキであるからすぐ矯正される。 ピアノなら両手で10声、声をいれると11声だせるが 、声と三線あわせて最大4声しかないので、 三線は和音だけでなくリズムやベースランも担当する。 ちなみに私はカラオケでうまいと言われたことは一度もないし、もっと大きな声でとよく言われる、壁際の地味な内気モノであるから、我ながらすごいことをしているもんだと感心してしまう。

3-3. 8月から中級編

唄のポイントを習い始める。
歌持ち(前奏)の変拍子と「ウチウトゥ」ハンマリング 「んぞ」の入り方、 「うふあぎ」高音部「ちりてぃ」が最初の難関だ。 テン「あて」、「ぬ」の下降音、「ぶる」の下降音、そして 「あぬんぞよ」が2回 、「にゃふぃんいしハイヤマタ」の音程が難しい。 「くびり」と「ぶる」は同じ節回し。 「ハイヤマタ」の音階とリズムはナイチャー泣かせ、意表を突くメロディ。 ここは等間隔でリズムできざめと教わる。 「とぅさは」の低音、 「あらなよ」のリズム、 殆どの合の手前のテン 、うふあぎの後のテンなどがポイントらしい。

つぎは「てごと」のポイントを習う。
メトロノームを相手に運指の練習をする。 左手は弦を押さえるだけではないし右手は弦を弾くだけではないというのだ。 右手の動きは 回す、開く、上げる、下ろす、掛ける、 工工四の○にあわせる 等、なんと多能工なことか。左手の動きも 開く、握る、ヒネる、はねる、指を立てる、回す 打つ、はじく、滑らせる、 休止符工工四の○の数にあわせるなどとても単純じゃない。

よくでるフレーズ、よく出る「てごと」というのを練習する。
この「てごと」の我流は全くだめで、生徒を大量生産できないという。

そしてグループで唄う練習を始める。 伊野波節をフレーズ毎に細分化して練習を繰り返す。 先生なしで唄う数人のグループをつくるのだが習熟度が上レベル1人・中レベル1人・下レベル1人といった3人グループにする( 下だけ3人では歌にならない)。
円陣を囲むと誰かがどこかを弾けるし、誰かがどこかを唄えるし、誰かの手が見えるので唄三線を続けられる。 そんなこんなでこんどは放射状に外向きにすわる。 弦の音は聞こえるがもう手は見えない。 最後は個人別の地声のkey別にグループ化だ。

ためしに自宅で一人で唄ってみる。
部分的に口ずさめ、部分的に弾けるようなってきたら、 皆早く一人で唄ってみたい弾いてみたいのだが案外これはなかなかできないものだ。 ビデオの先生の音を小さく絞ってみる。 案の定、一カ所とちると次が出なくなり一度失速してから立て直しは至難の技だ。 やっと立て直ったころには曲が終わってしまう。 メロディーラインの少しうわずりめを飛行せよという。 この伊野波節は三線が一歩リードして歌い出しの音を導き、いきおいボイスと同じ音はすくない。 高さとタイミングはかなりずれているが、自己流でフレーズをネジ込んで連続トータルするとなんとか曲になっているような気がする。 はじめて一人で全部通して唄えると、唄えたりすると、これは感激してしまうもので胸にジンときた。 だが、ひとりでできたできたと喜んで何度も唄うと、今度は どんどんおかしくなり原曲をはずれていって下手になる。

息継ぎと発声の仕方を習う。
本番数週間前から発声の練習開始だ。 声が途切れるまで3階の道場を歩き続け、 次回はその歩数を伸ばせという。 声帯が炎症するのでミネラルウォータを持参せよという。 複式呼吸だから腹筋の脂肪も落ちるというし、(魅力的だ)肺活量が増えて逆三角も夢ではないかもしれない。

指を2本たてて声帯の説明をしてくれた。
私達生徒のいままでの凡人生では声帯を殆ど使っていないという。 腹式呼吸の方法も教わる。 仰向きに横になり、息をする。腹が膨らむ、それが腹式呼吸だ。 吸って(へこまして)そのまま体を起こしたが最初は曲に合わせた息継ぎができない。 だが先人達の、特に師範達の録音の息継ぎはスゴイ、というか参考にならない。 素人が真似ると単に途中で酸欠して失速するだけだ。
結局基本、息継ぎは弦をはじいたときに各人目立たぬようおこなうこととなる。
「ん」の発声は口を閉じてはいけない。 高音は腹に力を入れて上を向き、天井に声をぶつけるつもりで 、低音は口を開けてあごを引き、 前方に声を落とす。体を傾けない。
低音は自分では発声してるつもりなのに、これを録音するとなにも聞こえない。 口を大きく開けて練習せともいわれた。 大きく口を開けてるとヨダレがでそうになる。 いつも唇の同じ側なので、いままでいかに不自然な筋肉の使い方をしていたのがわかる。 歯が見えるくらいがイイともいう。
呼吸法の習得を兼ねて、スキップして発声練習したひともいたらしい。

おまけは素人っぽくなく聞こえる小ワザを習う。
沖縄音楽の尺「シ・B」には数種類あるらしく、この曲の尺(シ)は全部深い(高い)方の尺だ。 「んぞぉ」から遅れて工を弾く。 「ち」の節回し。 下降音を連続させる。 「ぬぅ」から遅れて工。 「タ」は天井抜け ヤマト風のノリだ。
調子にのってこぶし回しのまねは、妙な喉掛けがあるといわれる。 アフタービートというかアト乗りをすると、 三線と歌がずれているといわれてしまった。

個人別特訓が開始された。
欠席がちな、進度の遅い人は集中的に指導される。 台風でも練習だ。
余談だが(全部余談だが)私は古典には郷土料理と思い、3ヶ月間毎日沖縄そばとゴーヤーを食べた。
練習に挫折して4日間こなくなった人に先生がtelして呼び出した。 全員できるまで、できあがるまで練習が続く。 ニャフィンのフレーズをもう2時間以上繰り返している。 先生と対話納得づくでリタイアしないかぎり特訓は続くのだ。
Aさんは朝の9時に来いといわれたらしい。 そのAさんは夜の10時半にわれわれと一緒に帰ったので12時間以上練習していたのか。 中学生に親が帰ってこいと電話してきた。 道場でホカ弁を食べる姿が日常化してきている。

研究所の4室にわかれて個人指導が続く。
ばんばん休暇をとる公務員があらわれた、すごい。 昨年合格のOBがやってきて、 先生1名対生徒1名の特訓がはじまる。 まだうる覚えのところが多くて失速する。 横で同じ曲をずらして唄ったり 横で別な曲を唄い集中力を維持させる。曲をコマ切れにしてどこからでも開始できるように練習する。
家族総出ならぬ、門下生総出なのか、道場のあちこちで対面して正座、向き合って弾く姿は 囲碁の会場みたいだ。 Bさんは8時にいったらもういたし、12時に帰るときにもまだいた。
だんだん声がかすれてきたぞ。 先生はキー違いのグループへは二刀流ならぬ二棹流で対応する。 近辺に駐車場を月借りする猛者もあらわれた。 なにせ照喜名研究所は商業地域だから駐車代がばかにならない。だんだん抜き差しならぬ、追い込まれた状況となってきた。

しかし凡人は一晩寝るとほんとによく忘れるものだ。 寝なくてもよい人なら試験直前に3日も集中すれば合格かもしれない。
さあ微調整が始まった。
この微調整というのは1週間前から試験日に向けて個人別の調整修正だ。 まず個々人のキーをきめる、F・A・A#・B・C・C# これは個人別のデフォルトであって、さらに本番直前の体調できまるという。 キミ、もう1音上げようかといわれた、ギョ。 音域が広い曲だがらすぐソプラノ域やバリトン域に入る。 そんなときはハフハフとかキーキーとか、とにかく音がでていそうであればよいらしい。 ここが古典のありがたいところ。

本番の演奏時間に合わせての体調調整が始まる。
10時の出番だと5時起き8時集合だ。
突然一人で弾かせてみて、ここがこう違うと指示がくる。 午前の矯正指示で夕方にはもうチェックが入るが、そんなに早くは直らないし直せもしない。 各人直すところは山ほどあるらしいがいまは重要な部分から矯正という。 この段階でやっと先生のテープを聞いて、やっと先生がいま曲のどこを唄っているのかわかるようになる。
唄の位置がわかると、同時に先生がいまどの弦を弾いたかがわかるようになった。長かった。

尺の位置シールマークをはずした。
自分の三線の調整を始めた。
私の三線は安里の「またよし楽器店」で購入したもので、棹材は入門用「いじゅ」、本格派「クルチ」ではない。 皮も薄めで張りも弱め、皮は白めでウロコは小さめ、生まれて始めての三線一台め。 声の大きく強い人は厚い皮を強く張り、太く固い弦を強く弾くことになるらしい。 いまだに当然ながら自分で調弦はできないし、自分でこの三線の個性・特性もまだ把握できない。 他の三線を知らないから比較のしようもない。 この三線の個性はこの三線の作成者が一番よく知っているはずだから、購入以来3回めの「安里またよし」調整ドック入りだ。

曲名(伊野波節)と日程(9月16日)とキー(B)をマスターに話したら、その場でさらっと伊野波節をひいてくれたのには驚いた。
調弦は糸巻きを回して行うので 緩くもきつくもなく、思ったところに固定できるのが良い。 範(むでぃ)を本番の1月前に一度、1週間前に一度削ってくれた ついでに弦も取り替えてもらった。 弦は蛇皮の厚さ、張りの強さにあわせる。 この三線にあうのは「太さ2号セット」だそうだ 他に1.5号セットや1号セットがある。 弦の交換にもタイミングがあり、本番までに弦を伸ばして安定させなくてはならないそうだ。 弦は人工繊維だからのびが発生し、 本番キーがBなら保管時もゆるめないようにとのこと。 胴は合成皮でも駒はプラスチックでなく竹製をつかう。 予備駒はカッターでアシを切り 同じ高さの予備駒を用意した。 バチも弦や皮と連携する。 バチの大きさと弾く強さは 薄めの弱めの蛇皮と細め弦なので、中位を選ぶ。

おやつも気をつかう、 水だけのんでいるのではない、 こっちではサータという黒砂糖をなめる。 のどあめよりはるかに良いという。 ショウガだとか混じりけのあるのはダメだそうだ。
かねて改訂を重ねていたK氏の「スーパー工工四」が完成した。これは両手の舞や節回しが図解されていて 、パソコン「花子」で印刷した力作楽譜だ。K氏の許可がでたら是非公開したいと思う。
関係ないが照喜名研究所には練習用の三線が10本近くあって、これらは全部人工皮であるが、どれも私の本革三線より重たくしかも音もクリアなのはなぜだろう。

3-4. 9月は舞台度胸編

舞台度胸の練習、 本番形式の練習がはじまった。
模擬試験ならぬリハーサルとでもいうのか、 最初は豊見城村(とみぐすくそん)の真玉橋(まだんばし)公民館。 本番3週間前の(土)、2週間前の(土)(日)の3回、 小さな公民館の2階に毎回50人以上集まる。 いろいろな研究所から参加してくる。 15歳くらいから老人まで幅広く、 三線の潜在人口はすごいと感じる。 審査員もちゃんといる(失礼) しかし、この人達の本職はなんなんだろう。
出場者は完全に弾き通せる人ばかりではない、 度胸試しがメインの人たちもおおいから、 すぐ審査員の助け船がでる。 つまると審査員が一緒に歌ってくれたりする。
人前で歌う練習、これはあがるものだ。 緊張すると見事にうわずり高音がらくに出る。 逆に低音が出てこない。 自慢じゃないが人前で唄うのは始めてである。自分の唄を大勢に唄って聞かせるなんて夢にも思っていなかったシチエーションなのだ。 音があまりにデッドで無反響、空間に吸い込まれるのに驚く。 同じ公民館のエコーばっちしの1階ホールとは全然ちがうので 「音の響き方」というのを生まれて始めて知る。 やたら息が続かない、 たぶん緊張して酸素消費量が練習時より格段におおいのだろう。
審査員がコメントの他に助言表といういのをくれる。 審査料金3回分で1000円だ、安い。
震えてもうわずってもどこでも6分30秒のKさんは安定している。
3年間滞納分の安冨祖流弦声会費はしめて6000円なり、これが芸歴3年なのね。 参加者が1回目、2回目、3回目と回を追い皆ぐんぐん上達してくのがよくわかる。
次は那覇市民体育館のステージで練習する。
ここは広い体育館で、照明がステージ付近の一部だけなので後方は暗闇に吸い込まれている。 しかしすごい大ステージを借りるものだ。
そして次には沖縄県青年会館で練習となった。ここはさっきまで古典太鼓の審査の会場だったところだという。 緋毛氈というのか赤いネル敷物がそのまま、審査員の名札や椅子もそのまま、カメラもマイクもそのまま、どうしてこんなところが借りれるのだろう。
最後は首里公民館で練習。 人の動きや物音に気を散らさない練習で、客席で人が動き物音もだす。 舞台上でのポイントを習う。 番号を呼ばれて入場するまで、バチと三線の持ち方、 姿勢と目線の練習。 ステージへ入って礼をする、マイクへ進む、座り方、バチと三線の置き方、 客席と審査員を視てから礼、お辞儀のしかた。手は膝に 、バチと三線の取り上げ方、 調弦・開放弦の弾き方 、1弦2弦3弦、再度3弦2弦1弦の開放弦を弾く。 歌への入り方、 歌いながらの目線の取り方、 客席最後方の戸ないし無人のビデオを注視 、唄が終わり、目線の移動と礼の仕方。 座布団からの立ち上がりかた。 これは一度つまさき立ちしてから立ち上がらないと、しびれていた場合、自分で裾を踏んでころぶらしい。そして退場のしかた。もう、ここまでやるかというくらいの細かさだ。


4.照喜名朝一先生について

本職は旅行会社の取締役で、飛行場の整備会社から旅行会社に発展したのだという。 昔は飛行場で大声でうたっていたらしいし、海のなかで波と水圧に打ち勝つ腹筋で発声練習したそうだ。 7歳で父の三線をちんだみ(調絃)して9歳でステージに立ったというからそうとうなキャリアである。
代表的な舞踏家の地方(地謡・じうてぃ・じかた・いわゆるバックバンド)を歴任し、県と国の重要無形文化財保持者、芸歴50年に近い。 上手を褒めるのは簡単、下手を褒めて上手くするのが指導者だそうだ。 指導者予備軍はインターンと同じともいう。 また、三線は眼でひくもの、唄は耳で唄うものともいう。照喜名朝一先生の録音には息継ぎがほとんどない。 沖縄の三線には野村流と安冨祖流というのがあって9対1くらいの勢力らしい。 照喜名朝一先生は劣勢安冨祖流の頂点に立つひとなのであった。 グループやソロでたくさんのテープやCDやレコード吹き込みもあり、息子2人も三線教師である。しかしそんなことを知ったのはだいぶ後のこと。


5.試験当日の模様

いたれりつくせりとはこのことであろう。
会場は琉球新報社内の新報ホールで2日間かけて審査される。 我々は試験会場ではなく研究所で鎮静剤を飲んで出番を待つ。
紋付き袴は研究所にあるのを借してくれる。私のはたまたま順番で会長の紋付き袴らしい。 消耗品や下着類は受験者各自の自己負担となり、肌襦袢とセットのステテコと足袋と襟芯で合計5千円なり。25cmとかMとかいうだけで先生の奥さんが全部調達してくれる。草履も貸してくれた。
朝から研究所に着付けさんがきていて出番の数時間前に正装させてくれる。
待ちながらも手から三線は離さない。 紋付き袴姿になる直前は、白づくめの切腹スタイルで順番を待ち、正装してからさらに唄ってみる。 割と時代劇が好きなので鏡の中の自分の姿に酔ってしまう。刀はない。

朝一番で出撃したというか会場に配達された受験番号1番のAさんが帰ってきた。
なんと受験生の出前だ、 出前というか配達というか 、ワンボックス車で研究所と試験会場をピストン輸送する運び屋さんがいる。 すべてOBやら門下生だ。車から降りると今度は誘導係がいて会場へ案内してくれる。余計なことを考えている余裕を与えない、ドアツードアならぬ、道場からステージの座布団のうえへワープだ。
琉球新報社は古い建物で有名新聞社が中に同居している。 3階の廊下のTVにひとが群がっていて 試験会場での審査模様を中継している。
さぁいざ本番。
控え室(調弦室)同伴は1名までと張り紙があり、舞台の裏手が控え室となっていた。もう3人くらい先客いる。 私の三線を教師・師匠・会長が3人がかりで調弦してくれるのだが、みんなグリッとおおきく回すにビックリ。 3段階の慎重なちんだみだ。 受験料の1万円分は唄ってこいといわれた。
ステージ脇で待機し「審査を続けます、33番」私の番だ、 後ろからポンと蹴られてステージにでた。
頭まっしろでも指が動いている。 この3ヶ月間が走馬燈のごとく脳裏をよぎる。
なにをどう唄ったのか殆ど記憶が断片的だが三線が一緒に歌ってくれていた。
三線が歌わせてくれている。
終わった。
控え室に戻る途中に「自身と反省はビデオの中」という、いい得て妙な張り紙にでくわす。 いま弾いてきた人に本人のビデオを6千円で売っているのだ。もう本人の名が背ラベルに貼ってある。 写真が500円、しかし来年また買うことになるかもしれないので合格してから買うのがいいと思う。 数年前の録画もあるらしい。
誰かに後ろから「上等」といわれる。 ああいう歌い方もいいねぇともいわれた。 肩を叩かれ、おめでとうといわれる、 これはまだはやいぞ。
知らない人に批評される。「君は下帯が出ていたね」とか「自分で着たのか」といわれる。
出番が終わって、ピストン輸送車を待たずにタクシーですぐ研究所に戻った。
やはり気になるので、着替えてから他の人のステージを見に行くことにする。はじめて客席に入ると審査員席には西江・上原・安波連・玉城先生他計6名という先生だそうだが、どうも真玉橋公民館でみたような顔だ。 後ろから見て表情が体に出る審査員はおもしろい。 S子さんがFで調弦はじめたときには後ろ姿がグラっときていた。Fの第1弦(男弦)はベロンというくらいに低音なのだ。 研究所では翌日の出場者が練習中なので本日は早めに帰宅する。
家族が寝てから、自分でビデオを何度も見て、間違いは少ないはずと勝手に独断。 素人はフレーズごと飛ばしたり間違ったりすることもあるらしいので、あとは間違い部分の点数配分が低いことを祈り、泡盛をよく飲んで寝た 。


6.結果の発表

最終日の6時ころに2階ホールに合格者名が張り出され、翌日の朝刊に小さく名前がでる。
研究所からは太鼓・踊り・三線の三冠王があらわれた。 審査は最初の5人を標準値とし、5人終了したら審議会をもつので、 最初の5人の水準が高い年は難しい年となる。 今年は最初の5人が全て合格、よって難しい年だ。 総じて60%の合格率だが私は単にラッキーだったのね。
照喜名朝一研究所は来年は新人賞プロジェクトとして組織サポートとし、 合格率と合格者数を大幅に引き上げる意気込みという。
最初は、私がか細い女声だったので照喜名先生はどうしようかと思ったらしい。そのうちだんだん男性的な声が出てきて低域が出だし高域上がってきたので、途中でこれはなんとかなるかもしれないと思ったという。
カルチャーセンターの岡本所長が祝ってくれた。そういえば4月から6月が通常コースで、我々新人賞組は7月から9月までのオプションコースに申し込んではあったが余裕がなくてカルチャーセンターにはずっと欠席だったのだ。
もう一つ、これも余裕がなくて実現できなかった「伊野波のふるさとをたずねて」の旅行も考えよう。


7.あとがき

いま録音を聞くと(一年後)、とてもとてもシロートで恥ずかしい。完璧なのは調絃だけ。 知らぬがホトケとはよく言ったもので、これが無謀な挑戦だとは当時まったく知らなかったのだ。 運良く地方新聞に小さく名前がでたが、寛大に通してくれた審査員の諸先生にあらためて感謝。 これはマジックなのか集団催眠なのか、人体実験してくれた照喜名先生にも重ねて感謝する。自分はこれから本来の、踊りや琴の入る、あるいは組踊のなかの、コンクールバージョンのように省略のない、ホントのトータル伊野波節に挑戦してみたいものだ。

こんな長い自己満足文を読んでいただいてありがとうございます。SGR03461@nifty.ne.jp

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