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日蓮正宗日記

”ジ・クライシス・オブ・レディオアクティビティ・オブ・マインド”〜汚濁せるいのちの果ては


近頃更新が滞りがちなのは、それは私自身の信心が深まったからだと思っています。

こう書くといかにも驕慢に感じる方もあると思いますが、好きなことに関しては、往々にして言葉少なになるものです。
もちろんその逆もありますが、第一義的に仏法というもの、言葉で語れば語るほど誤ったものになるような気がします。

また、荒凡夫の身で、訓示的教唆的なことを書くのがはばかられるようになったという側面もあります。
ブログすなわちWEB日記というもの、”自分の言葉”で書きたいのは山々ですが、仏法について語る際、それはおよそ”危険な行為”と言えなくもないように思えます。

しかし、それでもあえて”毒”を吐き、ピリリと身が引き締まるようなこと―そう、実は自分自身への訓示であり叱咤―を書いていくことにしようと、そう思いなおすことにしたのです。

語らなければ伝わらないし、何よりも書くことで自分に気づくことが、このブログの第一の目的であると思うからであります。

さて、私は一年足らずの信仰歴と言っても、その間に様々のことに気づかされました。
いくら凡夫だからと言っても、我見にとらわれ素直に仏法を理解できない人も多くあるように思えます。
そして、それが我見にとらわれた状態であるとさえ気づかない愚かな姿です。

しかしそれだからこそ正しい仏道修行が不可欠なのであり、御本尊様が絶対的に必要なのです。
自宅の御本尊は、大御本尊様の御身代わりです。
御住職様は、猊下の御身代わりです。
そして猊下は大聖人様の御身代わりです。
これらの方々が己と完全に繋がっている状態を保たなければ、仏道修行は無為なものとなるでしょう。

具体的には勤行と唱題です。
そして折伏行であります。
そして講中の御信徒方と正しく交わり異体同心すること。
諸行事には努めて参加することであります。

私が近頃強く感じることは、勤行と唱題の大切さです。
決められた行を欠かさず行い、1分でも多く仏様向かい、そのいのちの波動を我がいのちに染ませることです。

そうすれば、愚かな考えや邪な思いは自然に消え、仏に近づくことができると思います。
それをせず、頭で仏法をひねくりまわしてみても、こんな頭で何ができるのでしょう。
できていればすでに仏です。

「たゞし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと委細にかんがへて候へば観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へばたゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに、これはなしては、けうの命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ(白米一俵御書)」。


2011年3月22日


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