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きょうのコラム「時鐘」 2011年3月30日
青木新門さんの小紙連載「いのちの旅」で、ブッダの「毒矢の譬(たと)え」を教わった。こんな折だから、心に強く残る
毒矢に当たって苦しむ男がいる。毒は何か、誰が矢を放ったか。どこから飛んできたのか。そんなことを聞くより先に、毒矢で苦しむ人を救え。そう説いたという わが身に思い当たる節がある。首都圏の知人に飲料水のボトルを送ろうか、と持ち掛けた。乳児に対する水道水の安全性に黄色信号が点滅し、店から水が消えて久しいという。いつまでそんなことが続くのか。やがて大人も危なくなりはしないか。情報はどこまで信頼できるのか。尽きぬ心配を思いやって親切心から申し出たが、「心配無用」と断られた 毒矢の譬えに従えば、大事なのは乳児のための水の確保。それも将来の健康被害を懸念してのことである。大人は二の次。「将来を心配するほど長い寿命ではない。お互いに」と、買い占めに加担するような世話焼きを、皮肉られた 思いは見えないけれど、思いやりは誰にも見える。テレビのCMで、すっかり覚えてしまった。「消えた水」からは、逆のことが見えてきそうである。 |