2001/12/9 放送 ドケチ伝説「吉本晴彦」 |
大阪に知るひとぞ知るドケチ在り。ある浪速商人が、最近にわかに持てはやされている。 ――吉本晴彦(77)。何を隠そうこの方、大阪・梅田駅前のドーンと立つ大阪マルビルのオーナーで、アメリカの経済誌でもランキングされたほどの資産家。関西の財界では広く知れ渡っている。数多い肩書きの中で一つ、何やら妙なのが―― 「大日本ドケチ教」事務局長。ユーモラスだが、実は本人がこの半世紀、自ら実践してきたケチの神髄を訴えてきた方でもある。 「ケチのケは、経済のケ。チは智恵のチなんやで…」 彼の金銭哲学を突き進ませてきたものとは一体何だったのだろうか。 大資産家の一人息子に生まれながら幼くして両親と死別。天涯孤独な少年の背負った莫大な遺産、そして彼を次々と狙う黒い欲望の罠…そして壁は戦後も立ちはだかり、先祖伝来の土地は不法占拠され、それを取り戻す為の長い戦いが繰り広げられた。そのたびに彼が頼みとした信念が…「ケチ」の実践だった。 「ケチとシブチンは似て非なるもの。シブチンは金を貯めるだけが目的、人に迷惑がかかる。ケチは金がすべてではおまへん、命をケチるのが目的。」 不況の今こそケチが輝いてくるという大坂のドケチ一代。彼の伝説の真実とは… 350年前、江戸が元禄と浮かれている頃、大阪に「こんな太平いつまでもつかわからん。良い時にこそしめとかなあかん。」と説くものが現れた。後に大阪商人がバイブルとする井原西鶴その人。「金儲けこそ町人の氏素性なり」と主張した西鶴は、「始末」つまり質素倹約と才覚、算用…の三つを説き、特に、“入るを計り出るを制する”「始末」が一番大事だとした。「ケチとは始末と覚えたり」これが元祖ケチ哲学となる。 西鶴の代から大地主だった吉本家は、梅田に鉄道が開通した明治初年からさらに飛躍的に発展。晴彦は大正14年、分家三代目の一人息子として誕生。だが… 父は晴彦3歳の時――ジフテリアで死去。母親も10歳の時、肺炎のため相次いで死去。 3000坪の土地など莫大な遺産を一人背負うことになった子供の晴彦は祖父の彦太郎を親代わりに育つのだが、実は、この彦太郎が筋金入りのドケチ。祖父は毎朝仏壇の前で手を合わせながら孫にこう言い聞かせたものだ。「晴彦、お金いうもんは儲からんもんや。子供のくせにご先祖様の財産を引き継ぐけど、自分の金やなどと夢にも思うたらあかん。ご先祖のお金をまた、お前の息子に引き継ぐのがお前の責任なんや。」その祖父も昭和10年、晴彦が中学に入った13才のときこの世を去った。臨終の間際、孫を傍に呼んだ祖父はこう言い残して逝った。「…ケチ」! こうして晴彦は天涯孤独の身となり、ほどなく、晴彦が成人して正式に家督を相続するまでの後見人として家に来たのが叔父夫婦だった。これが災難の始まりだった。 叔父はなぜか、晴彦に厳しく冷たくあたる。食事も、腐りかけたものを食わせたり、時に暴力を振るうまでにエスカレート。中学二年の時には―― 肺のリンパ腺炎に罹り、晴彦が寝込んでいた時、往診してくれていた医師がぷっつり来なくなった。叔父から何も食べ物を与えられないまま晴彦は衰弱するばかり。ヘンだと感じた晴彦が、こっそり家を抜け出し身体をひきずって医者に辿りつくと医者はビックリ。「叔父夫婦から、もう治ったから来なくていい」と断られたという…! 晴彦は震え上がった。「金には人間を人間でなくする魔性も潜んでる…」! 天涯孤独の身で莫大な財産を背負ったことから、後見人の夫婦に命まで狙われた晴彦は、昭和15年、毒牙から逃れる思いで同志社大学の予科にはいり、京都で下宿。学費も送ってこないため苦学するハメとなったが、晴彦がこの時代猛勉強したのが「法律」だった。無論、叔父夫婦から財産を守る為の武装である。その後も叔父は自分の娘と結婚させようと色仕掛けで誘惑させたり、監視の人間に尾行させて弱みを握ろうとしたり…と、あの手この手で隙を狙ってきたが、晴彦は何とか逃げ切り、戦時中の昭和18年9月30日。満20歳になったこの瞬間、晴彦は正式に財産を相続。法律上の後見人もいらなくなった。 「やっと、財産取り戻したと思いましたな。思ったとおり彼らは財産の一部を勝手に処分したりしてましたが、欲とはいえ親戚ですから、寂しかったですわ。」 しかし、一難去ってまた一難。届いたのが召集令状だった。「再び生きて返ろうと思わないのが兵隊。」だという。しかし、晴彦は祖父との約束を守る為、どんな目にあっても死ぬ訳にいかない。身体もご先祖様からの預かり物なのだ。 「絶対、戦死せえへんどォ!」 戦争もどうにか無傷で切り抜けた晴彦は、終戦後、中国の収容所暮らしを経てどうにかガレキの大阪に帰還。昭和21年、晴彦22歳の時であった。昭和22年、お見合いで船場の繊維問屋「イトマン」の嬢はんと、結婚。出直しを誓った晴彦だが、実は本当の試練はそれからやった。戦後の混乱で現金は紙切れ同然。固定資産税を払うため土地は三分の一まで減ってもうた。先祖伝来の土地の上には見知らぬバラックが立ち並び、もはや無法地帯。しまいには、暴力団絡みの「事件師」が小屋を立て不法占拠。困り果てた晴彦、祖父との約束を是が非でも守る為、ある腹を決めた。なんと、建設会社の労働者60人を率いて不法占拠のバラック小屋を急襲!小屋を壊して土地を奪い返すと晴彦は警察に出頭。世間はこの騒動を「梅田村事件」と呼んだのだった。 これ以後、住みついた既成事実を盾に和解金をせしめようと言う相手と裁判に持ちこみ、長い法廷闘争で晴彦が勝訴したのは4年後の昭和31年。この事件をきっかけに初めて「不動産侵奪罪」が刑法に加わった。更なる障害を乗り越え、梅田駅前の土地を整理し更地にできたのが、なんと昭和48年。復員してから24年後だった。ここに念願の高層ビルを建てたのは昭和51年のこと。 「吉本家の心柱のつもりで建てたんですわ」 珍しい円形のビルは「円」お金であり、「縁」の思いだった。それは晴彦が祖父の約束にようやく答えた瞬間だった。 マルビルを眺めながら、晴彦は噛み締めていた。少年の日から今まで、ずっと先祖との誓いを守る気持ちでケチに徹してやっと一区切りがついた。しかし、…お金をケチるのはこのためやったんやろうか。今度は自分が子供の代にケチの意味を伝えなければならへん。代々伝えてきたケチにはもっと意味があるのでは…。みれば、晴彦をよそに日本はあれよあれよと言う間に経済大国に。昭和元禄に浮かれる人々…。 そんな中、晴彦はケチの意味を考えこむようになる。確かにケチはお金に換算すると分り易い。しかし、お金は所詮この世の道具。あの世へ持っていけるわけじゃない。 ケチの本当の意味とは… 「これはモノでも時間でも一緒や。モノをケチる。時間をケチる。ケチるとは、大切にすることなんだ。とどのつまり、一番大事な命をケチる。大切にすることなんや!」 そんな昭和48年、「昭和元禄」の日本に突然、石油危機という名の嵐が吹き荒れた。狂乱物価、異常インフレ…みんなが慌てふためいたこの時、晴彦は自分の信念を世に問う時がきたのを知った!これを機に晴彦は自分の後半生を「ケチの正しい生き方を世間に提案すること」に身を捧げようと決意。「大日本ドケチ教」を旗揚げする。 教義はズバリ<お金や物や価値あるものを大切にする心を養う>こと。そして、ドケチ教のありがたいお経は…「勿体無い、勿体無い、勿体無い…」 しかし、そんな晴彦の声をよそに日本の社会は飽食から財テクブーム、そしてバブルへ…まさに万事が金。晴彦の主張は冷笑され、ときに軽蔑もされた。 その結果は――ご承知の通り。吹きすさぶ不況、リストラ。 「金にもモノにもありがたさを忘れた天罰やとも思う。景気悪くなるとすぐ人件費に手をつける経営者は、シブチン。社員に月給払いすぎて倒産した会社はおまへん。月給渋って社員がやる気無くしてつぶれた企業はごまんとある。少数精鋭で月給を相場より出せば必ずがんばるもんや。それがケチ経営。」 一方で、晴彦が始めていたのは――ケチとは、似つかないことやった。 元秘書「がめつく儲けて、社会奉仕にきれいに使えゆうんが、社長の哲学でもある。 裁判所の調停委員など30年もしましたし、ボランティアはそんな言葉できる前から、いろいろやってました。」 …ご先祖様からの財産を守ってはや、60年。3年前には丸ビル社長も退き、今度は晴彦が子供に託す番を迎えようとしている。仏壇に手を合わせながら晴彦はこう思い始めている。 「お金の脈、金脈を辿れば、人脈、人との関係にいきつく。」 「人は生まれながらに死んでいくこの世のお客さんや。人生の主役に見えても宇宙から見ればお客さん。神仏から生まれて神仏に帰っていく。人脈、金脈もさる事ながら、その上に霊脈があって人は必ずこれにつながっている。大切なんは霊脈なんや。」 |
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