空の下

2010-04-09

「非実在青少年」メモ

| 11:41

 今朝朝日に上記問題についての竹宮恵子アグネス・チャンの対談あり。ネット上では相当に不毛な議論?が盛んなようで、しかもオタクはどうも反対しなければならないらしいくあまり近づきたくないが、重要な問題ではある。

 

 反対派のよくいう、「メディアによる影響には科学的根拠が無い」という論は全く正確でない。主に暴力的な映像に関してだが、メディアの影響に関しては多くの研究が主に心理学認知科学の分野であり、少なくともメディア上の暴力に関しては、それが「ガス抜き」になるという「カタルシス理論(catharsis theory)」は現在は認められていないようだ(新・心理学の基礎知識,2005)。

 また例えば、漫画アニメに関するものではないが、沖、林(1999)らは「コンピュータによるポルノ・ゲームの影響を他のメディアと比較検討」し、他のメディア同様に「性犯罪や性的逸脱行為に対する罪悪感を現象させる傾向」の存在を認めている。また他にもポルノ・ゲーム(要は美少女ゲームですね)に固有の問題点をいくつか発見している(日本教育情報学会第十五回年会)。アニメ漫画の隣接分野ではあるが、こういう研究もあることは念頭に置くべきである。その気になって探せば他にも沢山出てくるだろう。

 さてしかし、上記の研究は「アニメや漫画が、特に具体的な個々の具体的な作品が直ちに性犯罪に繋がる根拠ではない」という意見もあろう。しかし、科学、特に自然科学は(心理学認知科学自然科学人文科学の間に位置すると思われる)論理上の必要や実験の要請、また一般性への指向などにより、抽象された命題を扱う。よってその一般性・抽象性をもって、論の欠陥とすることは必ずしも出来ないと考える。

 言うまでも無く「表現の自由」は重要である。表現の自由とは、弱者の側において、強者に対する重要な武器であるといってよいだろう。しかし、強者-弱者という尺度上において今回の問題を見ると、本来弱者の側に位置すべき表現の自由が、やや強者の側に移動している点は見逃せない。

 アグネスが、児童ポルノを作る側、表現者も児童に対しては強者であるという重要な指摘をしている(いうまでもなく権力に対しては弱者であり、彼らもその点を前面に打ち出している)この指摘は見逃せない。強者-弱者尺度においてみれば、権力>表現者、性犯罪者>児童、となり、今回の「表現の自由」は最弱者のものではなく、中間地点に位置するものである。表現の自由は、弱者の強者に対する力であるはずである。強者が弱者に対して「表現の自由」を行使することは、一種の暴力ではないだろうか。

 しかしそれでも、「表現の自由」は神聖にして侵すべからざるものではあるかもしれない。権力による乱用の危険は付きまとうし、たかみちのLo表紙は素晴らしい。石川淳喜寿童女」を村田蓮爾あたりのデザインでアニメ化したら素敵だろう。しかしわれわれは最弱者では決して無い。そのことを頭の片隅におけば、この法案への考えも多少は変わるのではないか。例えば代案としての自主規制。法案反対派の竹宮も野放図で良いとは決して言ってはいないが、法案の変わりにくるものが「真摯に話し合い、現実的な対応策を探る」姿勢だけで果たして十分だろうか。

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