東日本大震災:「呼ばれたら必ず診る」亡父の教え守る医師

2011年3月29日 11時55分 更新:3月29日 12時13分

震災で医院を失いながら、ボランティアで診察を続ける佐藤純さん=石巻市の県立石巻高で、2011年3月27日午後3時19分、水戸健一撮影
震災で医院を失いながら、ボランティアで診察を続ける佐藤純さん=石巻市の県立石巻高で、2011年3月27日午後3時19分、水戸健一撮影

 大地震の直後、宮城県石巻市の避難所で被災者と向き合ったとき、地元診療所の内科医、佐藤純さん(60)は、同じく医師だった父の言葉を思い出した。「患者に呼ばれたら、医者として診ないわけにいかない」。診療所は津波に流され、自宅も水につかった。自身も被災者として厳しい生活を送る。それでも診療を続けるのは、亡き父の言葉に背きたくないからだ。

 「変わりはない。大丈夫だね」。330人が避難した県立石巻高校。佐藤さんが声をかけると、体調不良を訴える被災者の表情が和らいだ。津波で機能不全になった石巻市立病院から転進した医師、看護師とともに保健室で診察する。地震から半月たち、風邪や便秘の症状を訴える被災者が増えてきた。自宅や医院を片づける余裕もない。

 父清佶(せいきち)さんが1950年に開業し、兄、弟、義弟と4人で運営する二つの医院は全壊と半壊。佐藤さんは壊れた車から聴診器と血圧計の入った往診カバンだけを持ち出し、避難所になった市内の幼稚園に身を寄せた。

 「先生」。その晩、薬はおろか水も電気もない幼稚園で、体調を崩した被災者に声を掛けられた。知っている顔も知らない顔も、だれもが疲れ切っていた。いったい医師として何ができるのか。思い悩んだとき、父のことを思い出した。

 「呼ばれたら、必ず診る」が信条の清佶さんは24時間、患者と向き合った。日中は医院で診察し、夜間に急患の呼び出しがあれば往診に出かけていく。茶の間に腰を下ろすと、つかの間のうたた寝をしていた。無理がたたったのか、57歳で亡くなった。3人の息子はそんな父に憧れた。

 未曽有の大震災を前に「内科医のできることは少なかった」と佐藤さん。避難所の幼稚園から毎日、「職場」の石巻高校まで通うが、そこには今も満足な治療機器がない。しかし、丁寧に症状を聞き、声をかけるだけで安心する患者もいる。

 全国から差し伸べられた手で被災地の支援体制は少しずつ整い始めたが、復興の長い道のりを切り開くのは地元の人々だ。佐藤さんは「このまちで生きる人たちに最後まで寄り添う。それが町医者としての務めです」と言った。【水戸健一】

top
文字サイズ変更
このエントリーをはてなブックマークに追加
Check
この記事を印刷
 

おすすめ情報

注目ブランド