昔の味・・・グリル「富永」
2008年 05月 15日
京都の洋食屋というと、小生の時代には、下鴨糺ノ森の「のらくろ」そして岡崎北の「小宝」が手ごろな店で、よく通ったものだ。
いずれの店もいまだ健在で、代替わりしているが、昔の味の面影はナントカ保たれている。「のらくろ」も「小宝」も、かつては「食堂」といってもいいような佇まいで、民家を少しだけアレンジしているだけだったから、メニューを見なければ、饂飩屋かと見まがうくらいのところだった。
恐らくは、初代店主が、1960年あたりから始めたと思われる店は、両店共に、息子さんが跡を継いでいて、平成の時代になっても残ることになり、大小の差こそあれ、両方共に、かつての民家は、立派なビルとなった。
しかし、特に息子さんが一人だけで、お嫁さんと一緒にやっている「のらくろ」は、2代目もそこそこの年齢だから、この後どうなってしまうのかと心配なところもあるが、「小宝」は、兄弟たちが継続してやってきたようだから、きっと今後も続いていくだろうと思っている。
「小宝」は、観光ガイド雑誌が、こぞって取り上げたせいで、「お待ち」が出来るほどとなり、ガイドブックを携えた、いかにも京都観客全とした人たちで、あふれるようになってしまった。
「小宝」のある通りを、少し下がったところの、何の変哲も無い「岡北」という饂飩屋が、修学旅行生や観光客でイッパイなのも、観光ガイドの悪しき宣伝のせいであろうが、京都ならではの、仕方なさなのか。
雑誌で紹介された「オムライス」か「ハイシライス」(京都の古手の洋食屋では、「ハヤシライス」を「ハイシライス」と呼ぶ習慣がある)を、殆どの観光客が食べている。
決して不味いわけではないが、どうも小生はここのデミグラスソースが、好みではない。
丁寧に作ってあることは、味わえば分かるが、それをそのままオムライスにかけてしまうから、またハヤシライスや、シチューにそのまま応用してしまうから、丁寧すぎるデミグラスソースに、殆どの食材が負けてしまっているからだ。
ソースエスパニョールとデミグラスソースを使い分けるといった心遣いが欲しい。
ソースを下手に使いすぎると、素材の味を限りなく殺してしまう。
かつて小生は、この店がまだ改築前の食堂のような時代に、バイト代が入ったので、「ポークチャップ」をおごって食べたことがあったが、そのときのソースは、デミではなく、それよりも味も色も浅い、ソースエスパニョールだったと記憶する。
デミグラスソースの「小宝」という宣伝と、表面的に洋食好きの観光客が、ソースの使い分けを結果阻んでいるのだろうか。
でも昨今のインチキインスタント洋食が蔓延する中、やはり「小宝」は、基本を守った昔ながらの洋食屋であることに変わりは無い。
相変わらずイントロが長くなったが、本日は、そんな京都の洋食屋の中で、当時ひときわその腕が光っていた、しかし今はもう無くなって久しい、下鴨芝本町・・・洛北高校を下がったところあった「富永」である。
この店のことを知ったのは、「白沙村荘」でのバイト時代のこと。
ご存知の方も多いと思うが、ここは橋本関雪という、南画の巨匠の邸宅と、広い庭園を記念館として1960年代の中ごろに、一般公開するに至ったところで、その敷地の中に、後に小生が手がけることになるNOANOAがある。
小生はそこで関雪の長男、節哉のお嫁さんである田鶴子おばさんが新しくやることになった、京のお晩材料理とお酒の「お菜ところ」開店に伴い、アルバイトとして働くことになった・・・1969年のことである。
夕方から閉店までがデューティであったが、昼間の人がいないときには、代わりを依頼されることが時々有って、そのときは朝10時半ごろから14時ごろまでが勤務時間だったから、ちょうどその頃、新婚でお嫁さんに来た、現在の記念館館長が、バイトと家人の食事を作る担当をしていたのだった。
土日祝日など、忙しいときには、誰もが庭のお茶席に借り出され、昼食を作る人手がなくなるから、そういうときには弁当の出前を頼むことがあった。
小生も数回それに当たって、届けられた弁当の蓋を開いた瞬間、「バイトがこんな豪華な洋食弁当を食べていいものか」とわが目を疑い、同じものを食べようとするおばさんに、思わず「これ、僕が食べてもいいんですか」と聞いたぐらいだった。
エビフライ、ウインナーソーセージ、ハンバーグ、ヒレカツ、赤スパゲッティ、ポテトサラダ、それらが手際よくダイナミックかつ上品に、大き目の重箱にご飯と一緒に盛られている。
ビニールチューブ入りの、ウスターソースなどという野暮なものは無く、タルタルソースが、薄いデミグラスソース(多分ソースエスパニョール)が掛けてある、それは立派な・・・恐らくこれだけで、半日分のバイト代に相当するのではないかと思うような、物凄く美味しい洋食弁当であった。
小生は、学生のバイトに対しても、こんな凄い食事を提供する、白沙村荘の懐の深さに驚嘆し、夜のバイトが終わると、大きな居間に集って家族同様、毎夜のように宴会サロンと化すあの懐かしき日々を、今も思い出すのである。
いかに学生を大事にする京都といえど、ここまでやるのは別格である。
関雪が、そして節哉が培ってきた、親分肌で、芸術肌の文化が、そのままスッカリ残っているかのようなところがあって、小生は白沙村荘に、入り浸ることになった。
あるとき、「富永」が忙しくて、配達できないといっているらしいので、注文した弁当を、取りに行くように依頼され、場所と名前を聞いて小生ガ受け取りに行ったことがあった。
それが下鴨のグリル「富永」だったのだ。
橋本家では、その昔からよく「富永」を利用しているらしく、「富永」の主人は、お得意様のような扱いで迎えてくれ、なんだったか忘れてしまったが橋本さんに渡してくださいと、手土産を預かって帰った記憶がある。
弁当を待つ間に厨房を覗くと、ご主人の他に2人、狭い厨房の中で働いていて、体格のよいご主人は大変窮屈そうだった印象がある。
B級グルメなどと、最近では流行のようによく言うが、確かに店の構えは、一流レストランに比べれば「B級」・・・・(個人経営だから余りお金を掛けられない)という評価は当たりだろうが、だが、その味は名のあるレストランと比べても遜色の無い、「A級」の店は、知られざるところに眠っていて、まさにグリル「富永」は、その典型のような店だった。
その後下鴨界隈を走るときには、気をつけているのだが、すでに無くなってしまったらしく、当時の面影はもうどこにも無い。
ネットで探るも、「富永」の情報は殆ど無く、ただ1つだけ、小さい時に連れられてよく行った、近所に住んでいたという人のブログを発見した。
中年美食捜索隊
そのブログ内の、「グリル富永」のエントリーに付けられたコメントによると、富永さんは、重度の糖尿病が悪化して京大病院に入院。
コメントした人が目撃した話では、奥さんが車椅子を引いていたそうで、富永さんの足の部分には、それを隠すように、毛布がかぶせてあったと書いてあった。
糖尿病悪化のため、足が壊疽になって切断でもすることになってしまったのだろうか。
そういえば富永さんはかなり体格がよかった。
きっと食べることが好きで、おいしいものを追求しすぎたのだろう。
あの当時は40歳あたりの一番油が乗り切ったときであったろうから、生きておられれば、今は80歳ぐらいになろうか。
入院したその後のこと、何時廃業したのかの詳細は、分からないが、もし続いていたとすると、グリル「小宝」をはるかに凌駕する洋食の名店となっていたに違いないと、密かに思っている。
デミグラスソースのうまみに頼ろうとする洋食屋が蔓延する中、「フルヤ」も「富永」も、提供する料理にあったソースを使い分け、料理の味自体を、決して殺してしまうことの無い、ソースの使い方を心得た職人だ。
料理とソースのシナジーが図れることは、職人自身の味覚が洗練されていないと出来ないこと。
いくら長い間・・・例えば本場で修業したといっても、今でこそ日本食を参考にして「ポール・ボキューズ」が始めた、ヌーベルクイジーヌの流れが主流となって、来ている感があるが、当時はまだフランス料理は、かつての宮廷料理の流れで、長時間かけて素材をパリまで運ぶ必要下でのソース作りが主流であった時代を踏襲していた。
それをそのまま日本の洋食に用いれば、どうなるか、答えは簡単に出るというものだ。
グリル富永へは、誰といったかは記憶に無いが、ハンバーグステーキと、クリームコロッケの記憶があるから、やはりそれが好きな家内とだったのだろう。
京都の洋食の名店が、また一つ消えていってしまった。
いずれの店もいまだ健在で、代替わりしているが、昔の味の面影はナントカ保たれている。「のらくろ」も「小宝」も、かつては「食堂」といってもいいような佇まいで、民家を少しだけアレンジしているだけだったから、メニューを見なければ、饂飩屋かと見まがうくらいのところだった。
恐らくは、初代店主が、1960年あたりから始めたと思われる店は、両店共に、息子さんが跡を継いでいて、平成の時代になっても残ることになり、大小の差こそあれ、両方共に、かつての民家は、立派なビルとなった。
しかし、特に息子さんが一人だけで、お嫁さんと一緒にやっている「のらくろ」は、2代目もそこそこの年齢だから、この後どうなってしまうのかと心配なところもあるが、「小宝」は、兄弟たちが継続してやってきたようだから、きっと今後も続いていくだろうと思っている。
「小宝」は、観光ガイド雑誌が、こぞって取り上げたせいで、「お待ち」が出来るほどとなり、ガイドブックを携えた、いかにも京都観客全とした人たちで、あふれるようになってしまった。
「小宝」のある通りを、少し下がったところの、何の変哲も無い「岡北」という饂飩屋が、修学旅行生や観光客でイッパイなのも、観光ガイドの悪しき宣伝のせいであろうが、京都ならではの、仕方なさなのか。
雑誌で紹介された「オムライス」か「ハイシライス」(京都の古手の洋食屋では、「ハヤシライス」を「ハイシライス」と呼ぶ習慣がある)を、殆どの観光客が食べている。
決して不味いわけではないが、どうも小生はここのデミグラスソースが、好みではない。
丁寧に作ってあることは、味わえば分かるが、それをそのままオムライスにかけてしまうから、またハヤシライスや、シチューにそのまま応用してしまうから、丁寧すぎるデミグラスソースに、殆どの食材が負けてしまっているからだ。
ソースエスパニョールとデミグラスソースを使い分けるといった心遣いが欲しい。
ソースを下手に使いすぎると、素材の味を限りなく殺してしまう。
かつて小生は、この店がまだ改築前の食堂のような時代に、バイト代が入ったので、「ポークチャップ」をおごって食べたことがあったが、そのときのソースは、デミではなく、それよりも味も色も浅い、ソースエスパニョールだったと記憶する。
デミグラスソースの「小宝」という宣伝と、表面的に洋食好きの観光客が、ソースの使い分けを結果阻んでいるのだろうか。
でも昨今のインチキインスタント洋食が蔓延する中、やはり「小宝」は、基本を守った昔ながらの洋食屋であることに変わりは無い。
相変わらずイントロが長くなったが、本日は、そんな京都の洋食屋の中で、当時ひときわその腕が光っていた、しかし今はもう無くなって久しい、下鴨芝本町・・・洛北高校を下がったところあった「富永」である。
この店のことを知ったのは、「白沙村荘」でのバイト時代のこと。
ご存知の方も多いと思うが、ここは橋本関雪という、南画の巨匠の邸宅と、広い庭園を記念館として1960年代の中ごろに、一般公開するに至ったところで、その敷地の中に、後に小生が手がけることになるNOANOAがある。
小生はそこで関雪の長男、節哉のお嫁さんである田鶴子おばさんが新しくやることになった、京のお晩材料理とお酒の「お菜ところ」開店に伴い、アルバイトとして働くことになった・・・1969年のことである。
夕方から閉店までがデューティであったが、昼間の人がいないときには、代わりを依頼されることが時々有って、そのときは朝10時半ごろから14時ごろまでが勤務時間だったから、ちょうどその頃、新婚でお嫁さんに来た、現在の記念館館長が、バイトと家人の食事を作る担当をしていたのだった。
土日祝日など、忙しいときには、誰もが庭のお茶席に借り出され、昼食を作る人手がなくなるから、そういうときには弁当の出前を頼むことがあった。
小生も数回それに当たって、届けられた弁当の蓋を開いた瞬間、「バイトがこんな豪華な洋食弁当を食べていいものか」とわが目を疑い、同じものを食べようとするおばさんに、思わず「これ、僕が食べてもいいんですか」と聞いたぐらいだった。
エビフライ、ウインナーソーセージ、ハンバーグ、ヒレカツ、赤スパゲッティ、ポテトサラダ、それらが手際よくダイナミックかつ上品に、大き目の重箱にご飯と一緒に盛られている。
ビニールチューブ入りの、ウスターソースなどという野暮なものは無く、タルタルソースが、薄いデミグラスソース(多分ソースエスパニョール)が掛けてある、それは立派な・・・恐らくこれだけで、半日分のバイト代に相当するのではないかと思うような、物凄く美味しい洋食弁当であった。
小生は、学生のバイトに対しても、こんな凄い食事を提供する、白沙村荘の懐の深さに驚嘆し、夜のバイトが終わると、大きな居間に集って家族同様、毎夜のように宴会サロンと化すあの懐かしき日々を、今も思い出すのである。
いかに学生を大事にする京都といえど、ここまでやるのは別格である。
関雪が、そして節哉が培ってきた、親分肌で、芸術肌の文化が、そのままスッカリ残っているかのようなところがあって、小生は白沙村荘に、入り浸ることになった。
あるとき、「富永」が忙しくて、配達できないといっているらしいので、注文した弁当を、取りに行くように依頼され、場所と名前を聞いて小生ガ受け取りに行ったことがあった。
それが下鴨のグリル「富永」だったのだ。
橋本家では、その昔からよく「富永」を利用しているらしく、「富永」の主人は、お得意様のような扱いで迎えてくれ、なんだったか忘れてしまったが橋本さんに渡してくださいと、手土産を預かって帰った記憶がある。
弁当を待つ間に厨房を覗くと、ご主人の他に2人、狭い厨房の中で働いていて、体格のよいご主人は大変窮屈そうだった印象がある。
B級グルメなどと、最近では流行のようによく言うが、確かに店の構えは、一流レストランに比べれば「B級」・・・・(個人経営だから余りお金を掛けられない)という評価は当たりだろうが、だが、その味は名のあるレストランと比べても遜色の無い、「A級」の店は、知られざるところに眠っていて、まさにグリル「富永」は、その典型のような店だった。
その後下鴨界隈を走るときには、気をつけているのだが、すでに無くなってしまったらしく、当時の面影はもうどこにも無い。
ネットで探るも、「富永」の情報は殆ど無く、ただ1つだけ、小さい時に連れられてよく行った、近所に住んでいたという人のブログを発見した。
中年美食捜索隊
そのブログ内の、「グリル富永」のエントリーに付けられたコメントによると、富永さんは、重度の糖尿病が悪化して京大病院に入院。
コメントした人が目撃した話では、奥さんが車椅子を引いていたそうで、富永さんの足の部分には、それを隠すように、毛布がかぶせてあったと書いてあった。
糖尿病悪化のため、足が壊疽になって切断でもすることになってしまったのだろうか。
そういえば富永さんはかなり体格がよかった。
きっと食べることが好きで、おいしいものを追求しすぎたのだろう。
あの当時は40歳あたりの一番油が乗り切ったときであったろうから、生きておられれば、今は80歳ぐらいになろうか。
入院したその後のこと、何時廃業したのかの詳細は、分からないが、もし続いていたとすると、グリル「小宝」をはるかに凌駕する洋食の名店となっていたに違いないと、密かに思っている。
デミグラスソースのうまみに頼ろうとする洋食屋が蔓延する中、「フルヤ」も「富永」も、提供する料理にあったソースを使い分け、料理の味自体を、決して殺してしまうことの無い、ソースの使い方を心得た職人だ。
料理とソースのシナジーが図れることは、職人自身の味覚が洗練されていないと出来ないこと。
いくら長い間・・・例えば本場で修業したといっても、今でこそ日本食を参考にして「ポール・ボキューズ」が始めた、ヌーベルクイジーヌの流れが主流となって、来ている感があるが、当時はまだフランス料理は、かつての宮廷料理の流れで、長時間かけて素材をパリまで運ぶ必要下でのソース作りが主流であった時代を踏襲していた。
それをそのまま日本の洋食に用いれば、どうなるか、答えは簡単に出るというものだ。
グリル富永へは、誰といったかは記憶に無いが、ハンバーグステーキと、クリームコロッケの記憶があるから、やはりそれが好きな家内とだったのだろう。
京都の洋食の名店が、また一つ消えていってしまった。
by noanoa1970 | 2008-05-15 08:40 | 「食」についてのエッセイ | Comments(8)
懐かしく 毎回楽しみに読ませていただいてます。はや30数年のときがすぎましたね
勉さんですか?それならとても懐かしいですね。京都へは行きますか?いずれ京都で会えるといいですね。
ご無沙汰しております。
私は同じ町内の「のらくろ」さんが専門だったので、グリル富永さんは小学生のときに1度だけ行ったきりです。
看板は今でも掲げられているものの、営業しているのかどうか分かりません。夕方以降に洛北高校付近に出歩くことがあまりないので確認しておりませんが、日中店内に電気が付いていることはありません。隣のお寿司屋さんは営業されているようですがね。
私は同じ町内の「のらくろ」さんが専門だったので、グリル富永さんは小学生のときに1度だけ行ったきりです。
看板は今でも掲げられているものの、営業しているのかどうか分かりません。夕方以降に洛北高校付近に出歩くことがあまりないので確認しておりませんが、日中店内に電気が付いていることはありません。隣のお寿司屋さんは営業されているようですがね。
のらくろファンのJ.D.さんこんにちは
宮崎町だそうですね。小生の下宿もそうでした。
富永は、残念ですが多分廃業してしまったものと思われます。京都の洋食屋でいいところがあれば、ぜひ紹介ください。
宮崎町だそうですね。小生の下宿もそうでした。
富永は、残念ですが多分廃業してしまったものと思われます。京都の洋食屋でいいところがあれば、ぜひ紹介ください。
行かれたことがあるかもしれませんが、糺ノ森バス停前のグリル生研会館と生協の向かいにあるじょい下鴨(下鴨高木町)というマンションの1Fにあるグリルおうむ亭がおすすめです。
>グリルおうむ亭
未だ訪問したことがありませんので、今度ぜひ行ってみたいと思います。情報ありがとうございます。
未だ訪問したことがありませんので、今度ぜひ行ってみたいと思います。情報ありがとうございます。
グリル冨永さん
もう一度、食べたい味です。
ハンバーグもビーフシチューもサラダのドレッシングも記憶が忘れません。忘れないお味を築かれましたね。
富永さんと同時期に洋食屋さんなのですが、フレンチという屋号に行ってました。0752135350是非。
もう一度、食べたい味です。
ハンバーグもビーフシチューもサラダのドレッシングも記憶が忘れません。忘れないお味を築かれましたね。
富永さんと同時期に洋食屋さんなのですが、フレンチという屋号に行ってました。0752135350是非。
princess さんコメントありがとうございます。
電話番号は、「グリルフレンチ」の様ですね。
今ネット検索したところ、評判のお店らしいので、一度訪問したいです。情報感謝です。
電話番号は、「グリルフレンチ」の様ですね。
今ネット検索したところ、評判のお店らしいので、一度訪問したいです。情報感謝です。