赤ん坊の泣き声がした。
おぎゃあおぎゃあと泣き喚く感じではない。泣き声と言うよりは、言葉としての意味をまだ持たない喋り声、むしろ呻き声、ただ単に声帯の振動とでも言うべきような、そんな声。
平仮名の「あ」に濁点を付けたような、それを弱々しく伸ばしているような声が、断続的に聞こえている。
あー……あー……あー……
どこか近くで赤ん坊が、母親にあやされてでもいるのだろう。
感想はそこで一旦終わる。イヤホンを耳にはめ、音楽を聴きながらパソコンのモニタに向った。
三十分が過ぎた。
イヤホンを外すと赤ん坊の泣き声がした。
さっきと全く変わらない声と間隔。
あー……あー……あー……
窓の外から聞こえてくる。窓の外?
窓の外にあるのは駐車場だ。駐車場から、三十分以上も、赤ん坊の声?
そう言えば、母親の声も父親の声も、全く聞こえない。
耳を澄ます。
あー……あー……あー……
分からなくなってくる。
これは本当に、赤ん坊の泣き声か?
本当に赤ん坊の泣き声だとしたら、一体その赤ん坊は今、どんな状況にいる?
駐車場で、泣き喚くわけでもなく、三十分以上、呻き続ける赤ん坊。
不気味な、不愉快な、おぞましい感覚が胸の中に生まれる。
五分ほど様子を伺う。声は聞こえ続けている。
さらに五分ほど躊躇する。声は聞こえ続けている。
部屋を出た。
目の前にある駐車場へ足を向ける。
車はまばらにしか停まっていない。
その空いている駐車スペースの片隅に、いた。
血まみれで。
鳴いている。
猫がいた。
赤ん坊の泣き声だと思っていたのは、猫の断末魔だった。
おそらく、そこで寝ていて、駐車しようとした車の後輪に轢かれたのだろう。
浅く。即死しない程度に。
頭の四分の一。
鼻を中心とした、猫から見て右上部分に、厚さが無い。
平たく言えば、つぶれていた。ぺしゃんこに。
皮膚と毛と混ざり合ってぐちゃぐちゃの肉塊の中に、かろうじて右の眼球らしきモノが確認できる。
見えているのだろうか。それとも感じているのだろうか。
猫は、突然強く鳴き出した。
にああああ! にああああ!
その鳴き声の意味をいくつか考えた。
助けてくれ?
見るな?
覚えてろ?
殺してくれ?
それとも全然別の何か?
分からなかった。全く。
助からない、と思った。
近くに動物病院がある事を思い出した。
助かるとは思わなかった。
直接触りたくはなかったので、いらない服で猫を包み、ダンボールの箱に入れた。
猫の体は柔らかくて、温かくて、そのまま溶け崩れてしまいそうで、とても気持ち悪かった。
ぺしゃんこになった頭の四分の一は、地面の形に固まっていて、持ち上げる時にべりべりとした感触があった。
傷口に蟻がたかっていて驚いた。ハエじゃないのか、と思った。
生きたまま無数の蟻に頭の中を這い回られ喰い荒らされる気分はどんなものだろう。考える前に鳥肌が立ったのでやめた。
ダンボールを持ち上げる。意外と重い。
自転車に乗せて行こうと思ったが、うまくバランスが取れなかったので歩いて行く事にした。
途中、何人かの通行人とすれ違った。
顔を見られないように、相手の顔も見ないようにして歩いた。
しばらく歩くと、突然猫が暴れ出した。
箱の中で、わめきながら激しく身を捩じらせた。
驚いて、箱を取り落とした。
猫は胸の高さから地面に落ち、受身も取れずに叩きつけられた。
ふぎゃあああああ、ふぎゃあああああ……
荒々しくて呼吸とも思えないような呼吸をしながら、伸びをするように全身を突っ張らせる。
みぎゃあーーーーー
世界の産声のような声で一声鳴いて、猫はその姿勢のまま固まった。
口と尻の穴から液体が垂れ流される。
金色だった左の眼球が、水色と灰色を混ぜた色になった。
猫が死んだ。
死んでいくのを、ずっと見てた。
猫を殺すような人間が猫を殺すような人間らしく猫を殺したと言うならともかく、後にも先にも猫なんか殺さない、猫を殺すなんて冗談じゃない、猫を殺そうなんて夢にも思いもしないような人間が猫を殺したとしたら、殺してしまったとしたら、その人間にとって、猫を殺した、猫を殺してしまったというその事実は、精神に、人格に、人生に、どんな影響を与えるだろうか。与えてしまうのだろうか。
結論から言えば、少なくとも彼の場合において、それは何も大した影響は与えなかった。
ただ彼は、一度だけ、狂いかけた。
彼が猫を殺した数日後。
彼は湯船に浸かり、風呂場の壁をぼうっと見ていた。
なんの理由があったわけでも無い。彼はなんとなく、ただなんとなく、右の目を閉じ、左の目だけで風呂場の壁を眺めていた。
唐突に、彼の左の眼球に、べたりと世界が貼りついた。
左の眼球。手を伸ばせば届く程度の距離に、壁がある。壁は水色のタイルで敷き詰められている。タイルの水色が見えている。左の目には風呂場の壁のタイルの水色が見えている。間違いなく、見えている。
左の眼球。左目の眼球と風呂場の壁のタイルの水色の間には、透明がある。
彼は考えた。考えてしまった。左目の眼球。風呂場の壁のタイルの水色。あの水色は、あの水色は一体“どこにあるのか”?
水色が、風呂場の壁のタイルの位置にあるとしよう。それが透明を突きぬけ、左の眼球に見えている。当然、透明は左の眼球には見えない。左の眼球は、目の前の透明を見ず、少し向こうの風呂場の壁のタイルの水色を見ている。
それはつまり、左の眼球と、風呂場の壁のタイルの間の空間が、全て隙間なくべっとりと、水色で埋まっているという事なのではないか?
そう考えてしまった瞬間、彼の左の眼球には世界が貼りついた。
どこを見ても、眼球の表面全体に、世界の色の圧力を感じる。べったりと、貼りついている。眼球と世界の間は、全て隙間なくべっとりと、世界の色で埋め尽くされている。
彼は一瞬、左の眼球を抉り取ってしまいたい衝動に駆られる。
当然ながら、彼はそれをしない。彼にはそれが出来ない。出来る訳がない。そこまで逸脱するには、彼は“普通”すぎた。
しかし彼は、左の眼球を抉り取った自分の可能性を妄想した。
不快に呑まれ、狂気のまま、眼球を抉り取ってしまえる自分を妄想した。
その可能性が、最初からそこにあった、とある方向性に取り憑いた。
それは、何者かになりたい、別個でありたい、逸脱したい、という方向性。
世界が産まれた最初のきっかけ。
それは寂しさかもしれない。
それは嫌悪かもしれない。
それは競争心かもしれない。
それは向上心かもしれない。
それは見栄かもしれない。
それは欲望かもしれない。
それは愛かもしれない。
とにかく、世界は個独を否定した。
世界は自らに名前がない事を認識した。
それは世界が個独だったからである。
そこに自分しか在らぬのなら、名前などが存在する必然がない。
名前が欲しければ、そこに自分ではない何かが在らねばならない。
個独を否定するため、世界は隣の自分と別個であらねばならなかった。
それから約0.0000000000000000000000000000000000000000000539121秒が過ぎた。
世界は、世界となる事を選択した。
そのために必要な「差異」が生まれた。
そのために必要な「有無」が生まれた。
そのために必要な「変化」が生まれた。
そのために必要な「時間」が生まれた。
有無は変化するために運動を始めた。
有無は静止状態では無であり、運動を始めると有となった。
有無が運動を始めると、空間と素粒子と質量と四つの力が生まれた。
そうして生まれた「宇宙」は、後に「生命」を生み、「人間」を生んだ。
人間は後に「言葉」を生み、そして「文字」を生み、「文化」を生んだ。
個独の否定から生まれた世界は、「唯一」を認めなかった。
「無」が無ければ「有」が無く
「死」が無ければ「生」が無く
「虚」が無ければ「実」が無く
「闇」が無ければ「光」が無く
「悪」が無ければ「善」が無く
「否」が無ければ「肯」が無く
「個」が無ければ「全」が無く
とにかく世界は、「どちらか片方だけ」で成り立つ概念を認めなかった。
反差異。
反有無。
反変化。
反時間。
反空間。
反物質。
反質量。
反重力。
世界の寂しがりと、人間の言語文化が結婚し、そして生まれた反世界を、人はこう呼んだ。
「フィクション」あるいは「妄想」と。
そんな反世界の可能性に結びついた妄想が、あるフィクションを生んだ。
彼が妄想した、左の眼球を抉り取った自分は、ミラー・ポイントを通過し、虚質へと反転した。
そうして生まれた彼は、世界というステレオグラムを、平行視も交差視も出来ない。
彼は世界を立体視できない。
たった一つの右目を閉じる事で、彼は初めて、世界をあるがままに感じることが出来た。
猫が右目を失くし、
彼は左目を持たず、
猫が死に、
彼が右目を閉じるなら、
それは世界の自閉を意味する。
彼は「世界を閉じる可能性」である。
『白ヘビ』がそれを嫌い、
彼自身がそれを否定し、
最初からそこに在った男がそれを嘆き、
猫は夢を視る。
死した妄想の胎内で、産声を上げる物語がある。
「だーるーまーさーんーがー転んだっ!」
狐面の少女が、まさに小狐のようにくりっと首を振った。絶対遵守の静止の言葉が、少女へ向って来んとする者達の動きを押し留める。
「わとっ……」
袖まくりをした和装の女性は、はしたなくも片足を上げたまま静止した。両手を前後に広げた姿勢で、動いてしまわぬようぷるぷるとバランスを取る。つついてみたい。
「んー、憐は見事にござります……」
からくり仕掛けの茶運び人形は、歯車を急に止められずにかたかたと動いてしまった。しかし罵倒するなかれ、地面の凸凹に、よくぞここまで転倒せずに近付いたと褒めてやるべきだ。
「はい依子ダメー! こっち来るー!」
『ワタシ、コノ遊ビ苦手ダヨ……』
大人しくかたかたと狐姫のところまで進み、きぃと手を挙げて着物の裾に触れる。それをみてにこりと微笑んだ(ような気がする)狐姫は、ぐるりと顔の向きを変えて一転激しい怒鳴り声を上げた。
「こらーっ! 疥は一歩くらい動けーっ!」
眼帯の男は開始位置から一歩も動いていない。地面に胡坐をかいて座り込んだまま、ニヤニヤと事の推移を見守っている。
「おーい憐よぉ、ちょいと刺激が強ぇぜぇ」
「えっ……? あ、ひゃあ!」
片足を上げたままなので、覗き込めば着物の裾から憐の白いふくらはぎを観賞する事が出来た。普段露出が低いだけに、何かとても貴重なものを見たような気になって疥のニヤニヤは一層深くなる。
「変態っ! ちょっと、そんな下から見ないで下さいっ!」
顔を赤くして抗議しながらも、指一本動かす様子はない。憐は遊びでもなんでも、やるなら一生懸命にやる性格だった。
「続けまするー。だーるーまーさーんーがー」
狐姫が大きな木の幹に顔を伏せてすぐ、憐は身を低くして走り出した。狙うは依子が小さく触れている狐姫の着物の裾。狐姫が振り向く前にそこを手で切る事が出来れば、状況は第二段階へと進む。
「切っ……うひゃあっ!?」
だが悲しいかな、依子の背はわずか一尺ほど。狙いが低すぎ、憐は思い切りバランスを崩してしまった。
「転んだっ! はい憐もだめー!」
「あうぅ〜……」
文字通り転んでしまった憐は、へたり込んだまま依子の小さな左手を握る。依子はきぃと首を回し、心配そうな(気がする)顔を憐に向ける。
『憐、大丈夫? 怪我シテナイ?』
「うん、大丈夫ですよ。一緒に逃げましょうね」
『ウン、デモ……』
再びきぃと首を回す。そこには未だニヤニヤと座り込んだままの疥。
「ちょっと! 助けに来て下さいよっ!」
「あー? なんで俺が?」
「そうしないと先に進まないじゃないですかっ!」
「あっちの客人でも引っ張り込みゃいーじゃねーか。特にちっこいのなんか、喜んで参加しそうだぜ?」
疥は顎で『永眠堂』の建物をさす。中では故とマエストロが、数名の客人と談話している所だった。
「お客様は今、お話し中です。お話しが終わればお誘い申し上げますよ」
「じゃーそれまで中断な。あーやれやれ」
やる気のない様子で後ろ手をつき天を仰ぐ疥。いい天気だ。雲ひとつない空に、疥は何故か不安を覚える。宇宙に果てがないのなら、空を見ているとは、つまるところ何を見ているのだろう。空はもしかして、ただの闇なのではないか。そんな事をふと考える。眼球に、空の色がべたりと貼り付いたような不快感。
「ひーぜーんーっ! ちゃんとやって下さりませー!」
明るい声に、不快感は霧散した。まったく、叶わない。疥は苦笑する。
「あー、後でなー」
「いーまー! でないと疥は今日の晩ご飯抜きにござりますっ! ねー憐!?」
「あぁん?」
「え? あ、は、はい。そうですね。働かざるもの食うべからずです」
「遊びだろ……」
恨めしそうに憐を睨みつける疥。しかし憐は疥から目を逸らし、わざとらしく依子と手遊びを始める。
憐の作る食事は美味しい。
「……あーったく、わぁーったよ。やりゃーいんだろがよー」
「やりゃーいーのでござりますー。では……ひっ!?」
疥はおもむろに四つん這いになり、片膝を立て、少し腰を浮かせた。その体勢で鋭く狐姫を睨む。
「ひぃぃっ! なんだかものすごく速そうにござりますっ!」
「おら、さっさと始めろよ。俺を本気にさせた事、後悔させてやんぜ」
「う、うぐぅぅぅ〜……」
ちらちら様子を伺いつつ、ゆっくりと木に顔を伏せる狐姫。しばしの沈黙。
「だるまさんが転んだっ!」
可能な限りの早口で言い、勢いよく狐姫は振り向いた。しかし疥は最初の姿勢のまま、指一本動かしてはいなかった。
「へーいへーい、何やってんだー?」
「くっ……だるさんこんだっ!」
もはやきちんと言えていない。そして疥はまたもや動かず。
「ちゃーんと言って下さいよー? だーるーまーさーんーがーこーろーんーだー」
「分かっております……ぬぅぅ」
再び顔を伏せ、今度は大きく深呼吸。ふぇいんとだ。疥にはふぇいんとで対抗するしかない。覚えたての外来語を頭の中で呟く狐姫。そして殊更大きく口を開け、大きく声を出した。今度はゆっくりいきますよ、という疥へのふぇいんとだ。もちろん途中から早口にする。
「だーるーまーさー」
その「る」を言い始める前に、強く地面を蹴る音がした。
「んがころっ!?」
そして弾丸の速さで迫った疥の手刀が、過たず依子の手と狐姫の着物を切り離した。
「切ったぁぁぁ!」
「だめ! 振り向くほうが速かった!」
「お前「んだ」言ってねぇだろ「んだ」!」
そのまま大きく弧を描き、疥は逃げさってゆく。憐も慌てて駆け出し、依子は全力でかたかたと歯車を回す。……遅い。
「すとーーーっぷ!」
再び、絶対遵守の静止の言葉。憐、依子、疥、三人ともがその場でピタリと逃げる事を止めた。
大きな木の幹から、三歩。狐姫はたったの三歩で、誰か一人の体に触れなければならない。それが出来なければ、狐姫は再び鬼をやるはめになってしまう。
狐姫はまず、足元の依子を見た。……さすがに、忍びない。
次に憐。座り込んだ姿勢から逃げたためか、それほど遠くには行っていない。これなら三歩で十分に届くだろう。
そして疥。走りこんできた勢いでそのまま逃げ去ったため、最も遠い。思い切り三段跳びをしても、届くか怪しいものである。
誰にするか。
狐姫は少し考える。
「行きまするっ!」
そして、何を思ったか、目の前の大きな木によじ登り始めた。
「ああ、こんな物もあったねぇ」
好々爺の笑み、とはとても言えない、怪しげな笑みを浮かべた老人、マエストロは、大きな木箱からビンに入った紫色の花を取り出した。七つの花をつけた紫色の鈴蘭に、客人達は思わずほうと見とれてしまう。
マエストロは客人達に、宝具倉庫から自慢の品を出して披露していた。ちなみに宝具とは、ここでは「ほうぐ」ではなく「たからぐ」と読む。濁点もばらして並べ替えると「がらくた」となる。他人のがらくたを宝とするマエストロは、他人から譲り受けたがらくたをそう呼んだ。
「ほう……七願い花だな」
真白な着物に身を包み、真白な髪を腰までたらした男、故が口にしたその名に、客人達は首を傾げる。これは鈴蘭ではないのか? と目で問われ、故はマエストロに「ご説明して差し上げろ」と促した。
「これは“七願い花”と言ってね……持っている者が七番目に心の底から願った事だけを叶えてくれるのさ。適当な願い事は数えられない。例えば、好きな誰かと両想いになりたい、なんて真剣な願い事をすりゃあ、一つ目として数えられる。しかし、六つ目までの願い事は絶対に叶わない。そして七つ目の本気の願い事だけが、必ず叶うのさ」
それがここにあるという事は、誰かが手放したという事ですよね? なぜそんな便利なものが、がらくたになってしまったんでしょう? 客人の一人が聞く。
「そうさね、あんたならこいつをどう使う?」
そうですね、本当に叶えたい願い事を、七回連続で願えばいいんじゃないでしょうか? ある客人はうんうんと頷き、ある客人は首を傾げる。
「ところが、同じ願いは一度しか数に入らないのさ。つまりこの花は、一つの願いを叶えるために、六つの願いを捨てなきゃならない花でもあるのさ」
ああ、なるほど……それは確かに、考えますね……客人達は一様に頷く。
「しかもこいつは、持ち主が自分の意思で花に願った事を数えるわけじゃない。心の中にふと沸いた、本能の欲求みたいなものまで数えちまうんだ。おまけに、例えば持ち主が知らない間に、誰かにこの花を忍ばされてたとしても、勝手に願いを数えちまう……ま、よほど頭のいいやつか、自分の欲求を理解してるやつでもないと、あんまりいい結果にゃならないだろうねぇ」
それでも、泣かせるような話もいくつかあるんだけどね、と言ってマエストロはそれをしまった。
次はどんな不思議なものが出てくるのか、客人達は興味津々にマエストロの手元を注目している。その様子を見ながら、故は穏やかに微笑んでいた。
突如、故の隣の空間に、女の姿が現れた。
女は透き通るような肌を、これまた透き通るような薄い布に包んでいる。衣服なのだろうが、その役目をほぼ果たしてはいない。その豊満な乳房も、腹の中心の窪みも、白磁のような脚も……大部分が透けて見えている。
直視できない畏怖すべき美を讃えた夢の女、ファタ・モルガーナは、例え同性だろうと見た者に劣情を抱かせずにはおれない淫靡な笑みで、故の耳元に真っ赤な唇を近づけた。
「ねぇ、故……」
「どうした」
「うふふ……猫が、眠ったわ……うふふふふ……」
それを聞き、故は細めた目をゆっくりと開いた。紫色の眼光が、世界を染め上げてしまうようだった。
「……そうか……猫が……眠ったか……」
「うふふ……『白ヘビ』が、目覚めるより、先だったわね……?」
夢うつつのように、ファタ・モルガーナは茫洋と呟く。マエストロは何も言わず、取り出しかけていた宝具を木箱にしまい、蓋を閉めた。
「お客様方……大変申し訳ありませぬが、此度の席はこれにてお開きのようでございます」
それを聞き、客人達はめいめい腰を上げた。
障子を開け、玄関へと向う。
神棚、書棚、展示室、掲示板、顧客名簿、仮眠室……それらを横目で見ながら、店舗を出て、裏庭へと向う。
涸れ井戸の近くの大きな木の下で、狐姫が、疥に飛び掛っているところだった。
「しゃーーーっ! 疥つかまえたーっ!」
「うおおっ、飛んだ! 姫が飛びやがったぞ!」
「着物の袖で上手く風を受けて……すごいっ!」
『ムササビミタイダネ!』
四人でわいわい実に楽しそうにはしゃいでいる。近付いて行く一行に、狐姫が真っ先に気付いて駆け寄った。
「故様! お話しはもう終わりにござりますか?」
「ああ」
「では! お客様方もご一緒に遊びましょう!」
客人達に駆け寄ろうとする狐姫を、故がそっと押し留めた。
「狐姫。此度はこれにてお別れだ」
「えーっ! まだはようござります! お日様もあんな高いところにおわしますよ!?」
「狐姫。皆も聞け。猫が、眠りについた」
故の静かな、しかしはっきりとした言葉に、全員の表情が引き締まった。
「……そう、ですか……猫が……」
「はん」
『ジャア、仕方ナイネ……』
憐も疥も依子も、各々が身を正した。マエストロやファタ・モルガーナは、特に表情を変える様子もないが、無駄口を叩きもしない。
ただ、狐姫だけが、着物の裾をぎゅうと握り締め、うつむいていた。
「狐姫」
「……嫌にござります」
小さく首を横に振る狐姫の着物の裾に、依子がそっと触れる。
『……駄目ダヨ、姫チャン……』
憐が泣き出しそうな目で狐姫を見る。疥が小さく舌打ちする。狐姫は顔をあげない。
故が、ゆっくりと狐姫に歩み寄った。
「狐姫」
「嫌にござります! 狐姫は、みんなと、ここで、ずっと……」
「狐姫」
故が、人差し指を狐面の口にそっと押し当てた。
「滅多な事を言うな。言ったはずだ。知っているはずだ。言葉には、力があると」
「ならば、なおのこと!」
「狐姫」
ぽん、と。
故はその白く透き通る手を、狐姫の小さな頭にのせた。
「………」
「狐姫。お前ならば分かるはずだ。インフィニティ・アンダー・ワン。その公式の意味が。白雪の園に、彼岸の花は今も咲いているだろう」
「…………………」
故はそっと、手を当て続けている。狐姫は顔を上げない。
故は、客人達に向き直った。
「お客様方は、生まれ変わりという概念を、お信じになられますか?」
唐突に話を振られ、困惑気味に顔を見合わせる客人達。その中の一人が、私は信じませんと、はっきりと首を横に振る。
「いや、言い方を間違えましたかな……そうですな……」
故は空を見上げ、何事かを考える。そして空を見上げたまま、ゆっくりと口を開く。
「丸い四角、というものを、想像できますか?」
客人達は再び顔を見合わせる。想像も何も、丸と四角では全く正反対ではないか。
「転がる四角、回る四角、とでも言いますか。ああ、廻る四角、という言い方がいいかもしれません」
もしかして、サイコロですか? 客人の一人が手を打ち、周りの者がなるほどと頷く。
「なるほど、サイコロ。確かに、あれは“転がる四角”ですな。目の形も丸い。しかもその性質上、非常に象徴的だ。大数の法則は、間違いなく偶然の順列組み合わせを支配している……しかしここに、必然の順列組み合わせを内包する、丸い四角を想像して頂きたい」
何を言っているのかさっぱり分からない、と首をひねる客人達。故は、相手のペースに合わせる、という事が致命的に苦手だった。だが、相手がお客様とあっては話は別だ。故は頭を切替え、改めて話し始めた。
「ルービック・キューブはご存知ですか?」
この質問には皆が首をそろえて頷いた。小さな立方体が3×3などで組み合わさったもので、全ての列が縦横に回転し、面の模様を揃えたりして遊ぶ玩具だ。その形を思い出し、客人達は深く納得した。なるほど、転がる四角、回る四角、廻る四角。内部に球を擁する立方体、まさに“丸い四角”ではないか。
「あれの全ての面を揃える事が、出来ますかな?」
客人達は、みな自信なさげに苦笑した。世の中にはそれを何よりも得意とするような人達もいるようだが、自分にはちょっと……そのような感情がありありと見て取れる。
「では、一つ条件を追加して……もし、無限の時間を与えられたら、全ての面を揃える事が?」
客人達は一様に黙り込んだ。今の質問の意味を考えている。無限の時間、と言われた。無限とは、限りの無い事だ。限りのない時間の中で、限りのある組み合わせしか持たないルービック・キューブを、完成させる事が出来るか?
なにせ、無限である。それは、完成するまで終わらないし、完成しても終わらない、という事だ。そこに「完成させまいとする意思」でもない限り、論理的に、ルービック・キューブはいずれ完成するだろう。完成するしかない。
無限の時間があれば、完成させられると思う。客人達は言った。
でも、完成しない可能性だって、ゼロじゃない。客人の一人が言う。
「では、完成しない可能性とは何パーセント程度でしょう?」
それは……
考えるまでもない。時間が無限なら、試行も無限。有限のランダムな順列組み合わせを、無限に試行する時に、ある特定の組み合わせが出現しない可能性。それを分数で表すと、分母を無限とおくしかない。
それでも、完成する可能性は100パーセントとはならない。99.999999999999999999999999999999999……無限に9が続き、いつまで経っても100パーセントにはならないのでは? また一人の客人が言う。
「では、その完成する可能性を、100から引いてみて下さい。すると完成しない確率が出ますが、どうなります?」
簡単な事だった。0.000000000000000000000000000000000……0が無限に続く事になる。
「零が無限に続くという事は、それは零という事ですよ」
詭弁だった。反論の出来ない、納得するしかない、屁理屈。妄想の論理だった。
「だとすれば……世界はきっと、もう一度、全く同じ瞬間を迎える」
客人達は、故の言っている事が、すぐには理解できなかった。
何の話がどう繋がっているのか、すぐには理解できなかった。
ふと見ると、狐姫がゆっくりと顔を上げていた。
背筋を伸ばし、両手を揃え、高潔な所作であなたに向かって深々と腰を折る。
そして故書『永眠堂』の店員達も皆、続いてあなたに頭を下げた。
「お客様……この世界は、猫の視ている、夢なのです」
故は微笑んで、そんな事を、言った。
「そして、その猫が、眠りについてしまった」
夢を見ているなら、始めから眠っていたのでは?
「その通りです。猫は、最初から、眠っていました」
矛盾している。
「だから、今回は、これにてお開き」
訳が分からない。
「お客様方を、閉じ込めてしまうわけには参りません」
確かにそこにいるのに。
「この世界は、少々自閉の気があるのです」
どうして向こう側が、こんなにも透けて。
「なに、どうせすぐ、寂しくなって出てきますよ」
矛盾している。
「ご縁がありますれば、また、その時に」
また、その時に?
「ええ、その時に」
でも。
「でも?」
私達は、無限じゃあない。
「だからこそ」
だからこそ?
「この一瞬を」
この一瞬を?
「この一瞬が」
この一瞬が?
「無限を内包するのです」
一瞬が、無限を?
「それでは、また」
故が。憐が。狐姫が。疥が。依子が。マエストロが。ファタ・モルガーナが。
「この宇宙でもう一度、会える日まで……」
みんなが、あなたに手を振った。
猫は世界を夢に視る。
猫は真実を夢に視る。
そのガラスの瞳に、猫は物語を視る。
猫は
眠っている
耳やひげが
時折ぴくぴくとふるえる
猫は
眠っている
猫は
世界を視ている
例えば言葉に、「語られている」という自覚はあるだろうか。
例えば文章に、「綴られている」という自覚はあるだろうか。
言葉は、文章は、自覚の無いまま、私達のコミュニケーションツールとして存在している。
ならば人間も、何らかの存在のためのコミュニケーションツールなのかもしれない。
文字は一文字でもいくつかのことを意味する。
が、二文字三文字と集まれば集まるほど、より多くの、それこそ無限にも等しいことを意味することができる。
人間も同じだ。
たった一人で生きたとしても、それなりの世界は生まれる。
だが、いろんな人と関わり生きる事で、無限の世界の可能性が生まれる。
その世界はあるとき、奇跡を起こすかもしれない。
人間とは、それこそサルがデタラメに叩いているキーボードなのかもしれない。
無意味な言葉の羅列となるのか、あるいはシェイクスピアが書き上がるのか。
サル自身にも、その結果は分からない。
では、人間とはいったい誰のためのツールなのか?
神様?
それは、考えうる限り最もつまらない答えだ。
人は、何処から来て、何処へ行くのか。
人間って、なんでこの世に生まれてきたんだろう?
いや、人間に限らず、あらゆる命は、なぜ存在するんだろう?
遺伝子が、永遠に続いていくためだ、という考え方がある。
命はただ、遺伝子をはこぶ舟なのだと。
まぁ、仮にその通りだとしてもだ。
じゃあなぜ、遺伝子は続きたいんだろう?
そもそも、この宇宙は、世界は、なぜ存在しているんだろう?
違う。
実は、完全に違う。そんな考え方は、まるっきり逆だ。
原因の原因の原因の原因の……そんな風に遡って行ったって、分かるはずなんてないんだ。
今、ここにある、結果。
人間が、命が、遺伝子が、宇宙が、世界が。
それらが存在することで、何が起きたのか。
それらの原因が、今、どんな結果をもたらしているのか。
単純に考えればいい。それこそが、世界の存在理由だ。
だから。
なんというか、つまり。
例えばそれは、ひとつには。
あなたが、今、私の綴ったこの文章を、読んでいる。
例えばただそのためだけに、人間が、命が、遺伝子が、宇宙が、世界が。
全ての全てが、ただ、今この瞬間のためだけに存在したんだと。
そんな妄想も、別に構わないんじゃないだろうか?
世界が生まれ、宇宙が生まれ、遺伝子が生まれ、生物が生まれ、人間が生まれて、私とあなたが生まれた。
そして私の文章を、あなたが今、読んでくれている。
世界が生まれた結果は、つまり今、ここにあるじゃないか。
あなたと私が、今、文章を通じて繋がっている。
この出会いのために、DNAは今まで旅をしてきたのだと考えよう。
遠い元始の昔、世界が個独を否定したその瞬間。
差異が、有無が、四つの力が、素粒子が生まれた、その瞬間。
そして生命の始まりから、途切れる事なく続いてきた、長い長い遺伝子の旅路。
素粒子の。分子の。原子の。遺伝子の。A、T、G、C、たった四つの塩基配列の順列組み合わせの。
丸い四角のような、気の遠くなる並び替え。
その結果として存在する、今この瞬間。
この一瞬のために、世界の全てが用意されていたのだと考えよう。
どうだろう?
私はもう、あなたが愛しくて愛しくてたまらない。
そしてここに、また一つ世界が生まれるのだ。
遠い遠い遥かな未来に、顔も名前も知らない誰かと誰かが、こうやってまた愛し合うために。
その果てしない歩みの第一歩を、私とあなたで踏み出すのだ。
私とあなたは無限の父と母になる。
今から世界は無限に分岐し、その無限の世界はそれぞれ一瞬後にまた無限に分岐する。
もちろん、私達が今いる今も、そうやって無限に分岐してきた世界の一つだ。
そしてその無限の中、世界の始まりから私とあなたの“今”に至るたった一本の世界軸は。
そう。
原子に似て。遺伝子に似て。丸い四角に似て。
サルが適当に叩いたタイプライターの文章に似ている。
では。
人は。
誰のための、なんのためのコミュニケーションツールなのだろう?
あなたは、どう思う?
夢の中で猫はあなたを見つめた。
右目のつぶれた猫だった。
真実の物語を視る猫の目が、今、あなたを見つめている。
あなたはその猫のガラスの瞳に、何を視るのだろう?
『さぁ、名前を呼んで?』
猫は
そんな夢を見ながら
まだ眠っている
最初からそこにあった本に囲まれて
猫は
永遠に
眠っている
・・・・・・これは、そんな妄想。
そんな真実。
誰も困らないから、そう思うことにした。