放送界の重鎮が、7月24日の地上デジタル放送の完全移行を前に他界した。
日本テレビ総合広報部などによると、氏家氏は昨年8月、猛暑と多忙な生活で体調を崩し、1カ月ほど静養。その後も定期検査を受けていたが、先月、公務を欠席した際には十二指腸潰瘍だったと関係者が語っていた。訃報を受けて28日、東京・東新橋の同局1階には故人を偲び、遺影を飾った祭壇が設けられた。
東大経済学部卒業後、1951年、読売新聞社に入社し、経済部長、広告局長などを歴任。経済部記者の経験が長く、読売グループ本社の渡辺恒雄会長(84)と二人三脚で同社の経営を支えたことから「政治の渡辺、経済の氏家」とも評された。
82年、日本テレビ副社長に転じ、92年に社長就任。94年にゴールデンタイム(午後7〜10時)、プライムタイム(午後7〜11時)、全日(午前6〜深夜0時)の3つの時間帯で視聴率がトップの三冠王を達成し、2004年にフジテレビが奪還するまで、10年間続いた。01年に会長兼最高経営責任者(CEO)に就任するなど、19年近くにわたり日本テレビを率いた。
各番組のプロデューサーの顔と名前はよく覚えて声をかけるなど、親分肌でもあった。社長時代からよく知る局員の1人は、「昨年まで毎年、年納めの日には局内のすべての部署を回って、『ご苦労さん』と慰労してくれました」と偲んだ。
しかし、決して順風満帆ではなかった。03年、プロデューサーによる視聴率の不正操作が発覚した際は、責任を取ってCEOを辞任している。
巨人軍の相談役を務める一方、局外では1996年から03年まで4期にわたって民放連会長を務めた。その間、地上デジタル化を進めたほか、放送界の自立を守るための「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の設立にも力を注いだ。
また、多メディア時代を放送業界がどう生き抜くかなど、新聞や雑誌で持論を展開してきた。最後の発言は今年1月に受けた「週刊東洋経済」(2月19日号)の取材で、「地上波が持っているコンテンツやソフトの制作力は、さまざまなメディアの中で一番強い」と断言。それだけに、デジタル完全移行を見届けられなかったのは、無念だったに違いない。