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2009年02月03日 23時18分32秒

岡山ツアー 牛窓の町並み

テーマ:瀬戸の港

1/30
昨夜の大フィーバーから一夜明け、居残り組が三々五々目覚める。
アララトは薪ストーブ横のソファーで寝ていたが、アメシュが侵略してきてかなり寝苦しかった。
かといって寝袋を出す気力も無く、そのままズルズルと寝てしまい寒さで目が醒めた。
皆が集まっている台所で、ストーブにあたりながらボブさんを交えて四方山話が弾む。
ヤポネシアにかけるボブさんの思いは筋金入りだ。
部族当時から一貫してヤポネシアを渡り歩いてきた体験談は理屈抜きで面白い。
以前にも書いたが、ボブさんは海人(うみんちゅう)ではないが、海人以上にヤポネシアの体現者なのだ。
そしてヤポネシヤの海に点在しているのが原発である。
祝島の情勢が緊迫度を増している現状をなんとかしたいという思いが切々と伝わってくるが、この絶望的ともいえる現状についついアララトは言葉を濁してしまった。
ボブさんは沖縄で閉塞状態に陥りどうにもならない絶望の淵で、「ヤポネシアフリーウェイ」を作ったそうだ。
シーカヤックの内田隊長もがカヤックを漕ぎながら口ずさむという「ヤポネシアフリーウェイ」、アララトはまた一つ大きな宿題を抱えることになった。
2時過ぎ重い腰を上げて移動を開始する、といっても次の目的地は牛窓港にある造船所群である。
ツアー出発の前日、金光教支部協会のアララト宅では、新年の大祭が催されていた。
神前にある賽銭箱には、牛窓町矢吹造船所の名前が入っていたのである。
瀬居島と牛窓の結びつきは深く、木造船の時代ほとんどの船は牛窓で作られていたそうだ。
通りから一本奥に入ると古い町並みがあり、タイムスリップしたような感覚に陥る。
先日の御手洗港といい、瀬戸の古い町並みはどうしようもなくそそられる。
一角に海遊文化館という資料館があったので入ってみると、真新しい艪漕ぎの木造船が展示されていた。
木造船技術保存の為展示用に作られたそうだが、さら木の美しい船体はずっと見ていても飽きない。
その一角に鯛延縄漁船のレプリカが展示されていたが、受注地は坂出市瀬居島と記されていた。
造船所群には零細な造船所が幾つかあるものの、すでに矢吹造船所は無くなっていた。
牛窓は近代になってから、日本のエーゲ海というキャッチフレーズで売り出しているが、取ってつけたような洋風建築を見ると悲しくなってしまう。
かろうじて残されている町並みは、いつまでも残して欲しいものである。
3時間ほど散策をして岡山市内にあるコタンを営業がてら尋ね、ヒデ君としばらくだべる。
駅前のコタン寮が閉鎖になったというので、そのまま宇野港にて車中泊となった。


ストーン磐座-ushi2

ストーン磐座-ushi1


写真 4丁艪の木造船、船のレプリカ

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2009年02月04日 23時22分50秒

岡山ツアー 磐座巡り

テーマ:磐座

1/31
朝食を済ますと、早速一人磐座ツアーへと出発した。
この日はイワクラ学会もツアーの予定なのだが、アララトは一旦坂出に帰る予定だったので、夜の懇親会だけに参加申込みをしていて、一人ツアーとなった。
岡山における磐座研究の重鎮、佐藤光範氏がセレクトしたコースはこんな感じである。
円明院奥の院大師堂 磐座(玉野市宇野) → 正一位稲荷大明神 磐座(玉野市宇野)→
藤井の稲荷の磐座 [地正権現とも云う] (玉野市藤井) → 
玉比 神社境内の立石神社の磐座と神社裏山の臥龍稲荷の磐座 (玉野市玉)→
伏見稲荷の磐座と八大龍王磐座(玉野市和田) → 穴場稲荷の磐座(倉敷市下津井)→ 
木里神社の磐座(倉敷市下津井)
これを地図だけを頼りにトライしようというのだから土台無茶な話である。
最初の二ヶ所はあやふやだったが、それ以降は道路から見えやすい場所にあったのでなんとかクリア出来た。
しかし間違えて行ったところが、またまた磐座だったりするわけで、石萌えとは悲しいものである。
玉野近辺には広島型花崗岩帯が広がっているが、古い時代には海の底にあったのでかなり風化が進んでいる。
行かれた方はお解かりになると思うが、山という山に巨大な花崗岩がサイコロのように積み重なっている。
磐座の定義は専門的には色々と議論はあるが、アララトなどは単純に人が石を祀れば磐座たりうると思っている。
だとすれば、人が祀らない石はただの石ということになって、いくら巨大でも磐座ではない。
これだけの巨石を抱く山々を尻目に、佐藤氏の選んだ磐座は実に渋めの石ばかり。
岡山は由加山本宮と最上稲荷の二大稲荷社がある影響で、稲荷信仰がかなり多く、今回の巡った磐座はいずれも稲荷信仰の形態をとっていた。
玉野の名の由来となった玉比咩神社は、既に何回か訪れているのだが、側に建てられている石碑をよく見てみると驚いた。
この霊石玉石から三つの玉が飛び出し、一つはすぐ上にある臥龍稲荷の磐座に、もう一つは西大寺観音に、三つ目は牛窓へ飛んでいったと記されている。
西大寺は言わずと知れた裸祭りで(もちろん褌です)、牛窓では褌ダンスしたばかり、ということでアララトの中では完全に褌で繋がっていたのである。
そんなこんなであちこちに引っかかり、その後瀬戸大橋のほぼ真下にある穴場稲荷磐座でイワクラ学会の御一行に追いつかれてしまった。
しかし一人ツアーのアララトはお気楽なもので、その後も昔下津井廻船問屋などで引っかかって、ようやく6時前に会場のウエルサンピアに着いた。
本来アララトはこの様な厚生年金施設など来られるような立場にはないのだが、偶々イワクラ学会員のAさんからアナゴの干物を何個か注文していただいたり、石笛の注文が入ったりという偶然が重なって、どうにか参加する事が出来たわけです。
ホテルに着くとすぐ勉強会という予定で、満を持した佐藤氏が機関銃のように自説を披露された。
氏はこの地区を治めていたという秦氏にのめりこんでいて、随分と様々な角度から研究されている。
アララトが意外だったのは、ホテルの裏山には麻佐岐神社磐座が鎮座しているのだが、峰続きに通称忌部山と呼ばれる山が存在していたことだ。
以前アララトが命名した大麻山井桁崩しラインhttp://ameblo.jp/veeten/entry-10094203115.html
の北には備前の忌部神社、備中の忌部山が続いており、何れも古代においては沿海部に位置している。
つまり瀬戸内一帯において、古代のある時期忌部族がかなり幅をきかせていた様子が伺えるのである。
勉強会が終わるとそのまま懇親会に突入、いずれ劣らぬ石萌えの面々ということで話は尽きない。
一人北海道から参加されていたMさんと話をしていると、何と88年の北海道泊原発反対行動に一緒に参加していたことが判明した。
この様に一見ありえなさそうな事がマニアの間では多々起こり得る。
一般大衆は面で行動するのでありえないが、点で行動するマニア達にとっては必然としてこういう出会い方をしてしまうのである。
その後はAさん御夫妻の部屋で飲み直しとなった。
Aさんはご自慢の岩笛を持参していたので、石笛合わせでしばらく遊ぶ。
最初は鳴りが良くなかったが、アララトが幾つかのポイントをアドバイスすると、格段に鳴りが良くなった。
ポイントは吹かないことです(笑)。
皆さん吹かそうとし過ぎて音が鳴らないだけなので、静かに吹けば自然と音が鳴るものなのです。
久しぶりに会った郡ちゃんや超歴史研究会の皆さん達と楽しい時間を過ごし、更にプチ三次会バージョンに突入し、最後は大笑いしながら四人で雑魚寝となった。


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写真 玉比咩神社磐座、裏山の臥龍稲荷磐座、霊石由緒

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2009年02月05日 22時59分07秒

岡山ツアー 下津井 まだかな橋

テーマ:瀬戸の港

2/1
朝ツアー御一行と別れたアララトは下津井港を目指した。
本来ならまっすぐ宇野港を目指す予定だったのだが、どうしてもむかし下津井廻船問屋が気になった。
下津井は江戸期に北前船の寄港地として栄えた港である。
北前船は北の海産物を天下の台所大阪へ運ぶ為に発達した輸送手段で、従来あった若狭湾から琵琶湖経由で機内に入る内陸水運ルートより、大量輸送が可能で大幅なコストダウンとなった。
通常数十艘の船団を組んで航行したそうで、船団が入港した時はお祭り騒ぎのような活気を呈していたといわれる。
この北前船の荷物を取り扱っていたのが廻船問屋で、今で言えば総合商社のようなものである。
むかし下津井廻船問屋は、かろうじて残っていた廻船問屋の建物を、出来るだけ当時に近い形で復元し観光施設にしたものだ。
前日前を通った時は、また例によってくだらない箱物かなと思いながら、入場料が無料とあったのでなんとなく入ってみたが、中に入るとその落ち着いた佇まいに釘付けになってしまった。
あまり時間がなかったので一通りざっと見学はしたが、どうにも後髪を引かれる思いがして再び訪れてしまったというわけだ。
本来倉庫と並んで建てられたオフィス兼住宅なので、贅奢ではないが細かい部分に当時の粋さが残っていて、いくら見ても飽きない。
二階には小道具や資料が展示されていて、どれも日常用品ではあるが遊び心たっぷりの品々だ。
館内に流れているのは民謡下津井節である。
http://www.ongen.net/search_detail_track/track_id/tr0000223827/
下津井港はヨ-!
這う入りよて 出よてヨ-!
まともまきよて まぎりよでヨ!
トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ
「まともまく」は追い風を受けて帆を巻き上げること、「まぎる」は向かい風のときに風を斜めに帆に受けてジグザグに進むことだそうで、下津井の港はどんな風でも簡単に出入りできる天然の良港ですよと讃えている。
しかしこの民謡は芸者衆がお座敷で歌ったのが始まりで、裏の意味がある。
北前船は航海技術が進み、水主(かご)と呼ばれる乗組員は12~5人ほどだったそうだが、最盛時には八十数艘が一度に入港したといわれるので、総勢は千名ほどになる。
命懸けで航海してきた荒くれ男達を慰めるのが港の女郎衆だが、この時ばかりは近郷近在から応援部隊が駆けつけたそうである。
下津井の遊郭には表と裏に白行燈があった。
北前船は一時だけなので、普段の暇な時期には裏の行燈を灯して、地元の男たちを裏から入れてタダで遊ばせていた。
遊んだ男たちは、帰りは着物の裾を肩までたくしあげてこっそり出て行く、入るのも帰るのも気安い下津井の遊郭、帰る姿は船のようだという意味だ。
はやし言葉のトコハイは床這い、トノエは殿へで馴染み客、ナノエは殿の相手をするお女郎のことだともいわれている。
現在は港湾が整備されて桟橋のあったところは道路になっているが、その一角に「まだかな橋」と呼ばれた橋の欄干だけが残されている。
北前船が港に入ると船乗り達の上陸を待ちかねた客引き婆が「まだかな、まだかな」と声をかけたので、いつしかこの名前がついたといわれている。
また一説には船に出向いたお女郎さんがなかなか船から降りてこないので、やり手婆さん達がお女郎さんを急かして「まだかな、まだかな」と呼びかけたからだともいう。
現在はもちろん遊郭は残っていないが、街を散策しているとその名残りを留めた建物が、かろうじて残っていた。
三階建ての窓には洒落た手摺が残されていて、華やかだった昔を忍ばせる。
下津井だけに、つい下ネタに走ってしまったが、港町の風情は遊郭抜きには語れないのである。
瀬戸内の町並みはほとんどが急斜面にへばりつくように建てられていて、下津井の街並みは一本のメインストリートをはさんで両サイドに家が並ぶ。
まるでパラレルワールドに迷い込んだみたいで、次々と路地に現われる建造物に見入ってしまった。
思わぬところで引っかかってしまい、帰るタイミングを逸したアララトは、今日はこのままの流れで下津井近辺を観光することにした。
下津井といえば羽鷲山だが普段反対側から毎日眺めているのに一度も行った事がなかったので、山頂に上ってみることにした。
さすがに名勝と言われるだけあって、山頂からの眺めは素晴らしい。
近くに工場地帯が無いので、目の前にある櫃石島、釜島、松島をはじめ備讃の島々がきれいに見える。
そして島々の後には、甘南備型の讃岐の山々がボコボコ並んでいるのである。
反対側から見るとこうも印象が変わるものなのかと思うが、讃岐の山々は羽鷲山から眺めるのが一番美しいでしょう。
アララトの目的は西日本旧石器調査の始まりと言われる羽鷲山遺跡なのだが、どこにもそれらしい碑がない。
ビジターセンターの職員の方に聞いても「???」という返事。
1955年に考古学者鎌木義昌氏が発掘調査し詳細な報告書を出しているのだが、その痕跡も残っていないのに驚いた。
本には久須美の鼻と書いてあったので行ってみると、久須美の鼻の先端には大師堂が建てられていて、おそらくそこから下がった舌状台地が遺跡のあったところではないかと思う。
今は前を下津井瀬戸の急流が渦巻いているが、氷河期には大草原が広がり、盛んに石器が製造されていたのである。
山から降り、ようやく異次元世界から抜け出たかに見えたアララトは、帰り道の田の口港で備前焼の狛犬に引っかかってしまった。

続く----


ストーン磐座-simo1

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ストーン磐座-simo3


写真 廻船問屋の落ち着いた佇まい、まだかな橋の欄干、元遊郭だった建物。

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2009年02月07日 01時03分52秒

岡山ツアー 瑜伽大権現

テーマ:磐座

備前焼の狛犬はどうやら由加山本宮への参道のようだった。
ここで車はアララトの意に反して参道へと向かう。
連日日替わりメニューで、お祭り系から高齢者主導の磐座学会、磐座は山にあってと文字通りアップダウン、おまけに短期間にこれだけの磐座を回ると石酔いして、ほとんど夢遊病者のようになっていたのである。
一本道だったのでほどなく由加山についたが、駐車場には「ここは寺の駐車場なので由加山本宮神社へご用のかたは駐車しないでください」と書かれてある。
明治期に廃仏毀釈によって無理やり分けられた神社とお寺では、こういうケースは多々ある。
しかし始めてのアララトは何処からが寺で神社なのかさっぱりわからない。
以前に由加山のご神体は磐座であると聞いていたので白装束の方に尋ねると、これがお寺さんの境内だったようで、「神社?ここは蓮台寺の敷地内で神社はあちらのほんの一角にあるだけですよ!」とけげんそうに対応されてしまった。
後で調べたところでは、つい最近も裁判沙汰に及んでいるそうなので複雑なご事情のようですが、お仕事柄あまり良い印象は与えませんねえ。
備前焼の鳥居をくぐると今度は本物の神職の方が、大売出しさながらに、新年の祈祷案内を拡声器でまくし立てていた。
どっと疲れたアララトは、神職の横でお手伝いをされている氏子さんに磐座の所在を尋ねた。
本殿の真裏に磐座はあったが見にくかったので、再び蓮台寺に戻り由加山本宮本殿より上に建てられている権現堂から磐座を見ることにした。
下界の雑踏からやっと開放され、石笛を奏上し、磐座を写真に収めた。
弥生期より祀られていたといわれる磐座だけは、往時の雰囲気そのままに残していてくれたので一安心した。
再び長い階段を降りて神社の縁起を見たアララトは絶句した。
稲荷さんなので宇迦之御魂神(うかのみたま)か倉稲魂命が御祭神だとばかり思っていたら、彦狭知命(ひこさしり)と手置帆負命(たおきほおい)の二柱が主祭神として記されていた。
彦狭知命は紀伊忌部、手置帆負命は讃岐忌部の祖神である。
由加山(当時は神仏習合の形態)は位置的にも讃岐金毘羅さんに近いので、江戸中期頃からか両参りをするとご利益があるという風習が広まった。
田の口からは金毘羅行きの船が出るが、その前に由加山へお参りするというコースである。
ところが対岸の金毘羅宮は初期の頃讃岐忌部が奉祭していたので、この祭神からすると単なる風習というよりは、忌部族がこの話に関与したという可能性が高い。
由加山は権現信仰なので金刀比羅宮と同じく神仏習合が本来の姿だが、それ以前の地主神として忌部系の神が居たのであろう。
なんとなく冗談ぽく始まった大麻山井桁崩しラインは、意外にもかなりの広がりをみせそうな気配が濃厚である。
これが結局今回最後の落ちということで、すっかり虚脱状態になったアララトは帰路に着いた。
期間はわずか3日間だったが、バリエーションがあり過ぎ~。
牛窓での褌ダンスから始まり、磐座ラインが龍神系で、牛窓、下津井のむかし港ライン。
地層ラインでいくと、今から7000万年前、恐竜が絶滅したといわれる白亜紀後期の火山活動で出来た花崗岩帯の磐座を行ったり来たり。
最後は忌部ラインと、実にめまぐるしい展開だった。


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写真 由加山神社の磐座

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2009年02月09日 23時46分18秒

大陰石発見

テーマ:磐座

最近は海水温が下がってイイダコが釣れないので、ネットショップの改造に着手している。
というのも、磐笛ショップの方が、いまいちアクセスが上がらないので、検索ワードとかいった細かい部分を修正しているわけです。
アララトの性格上、その場その場の雰囲気でページ作りしてしまうので、全体的な統一感というものが無く、またあえて統一しようとも思わないので、見事にバラバラなHPが出来上がっている。
なので修正作業も、あっちが抜けこっちが抜けと、なんとも手に負いかねるのである。
作っている時は楽しいけど、この修正作業ってのは後ろ向き作業なので疲れるもんです。
あまりパソコンにへばりつき過ぎて腰が痛くなってきたので、気分転換に久し振りに山へ登ることにした。
といっても、最高でも120mそこそこなので軽いハイキングコースだが、アララトは山登りの為の山登りということにはあまり興味が無い。
興味はもちろん石なので、目当てのポイントをアプローチする。
この石は集落に車で入ってくると、すぐに目に付くくらいの巨石である。
あまりに見慣れているせいで行く衝動が起こらなかったが、最近何故か気になってきた。
直接関係はないのだが、この巨石の下の集落ではここのところ不幸な出来事が多い。
数年前の23号台風で大規模な土砂崩れが発生し、9世帯が直撃を受けた。
その後火災で家が丸焼けになったり、海で遭難したりといった出来事が続いている集落なのである。
土砂崩れ現場から登り、すぐ脇の雑木林に巨石があるのだが、あまりに茨が多いので迂回しているうちに尾根に出てしまった。
そのままなんとなく下っていくと、何やら石の塊りに突き当たったので、ぐるりと回り込んでみて驚いた。
およそ6mほどの合掌構造の陰石が鎮座しているではないか。
もともとこの島は花崗岩質なので、そこら中に巨石がゴロゴロしているのだが、これほどの見事なデザインの石組は無い。
周辺には5~6個の巨石が並列していて、堂々たる風格の配石である。
帰りにターゲットにしていた巨石を見たが、こちらは大きいだけで配石の妙は無かった。
こんなに簡単に新しい巨石に行き当たってしまうのが、石萌えの悲しいところだが、この島は巨石に関しては実に奥の深い島である。


ストーン磐座-in1

ストーン磐座-in2


写真 例によって大き過ぎてカメラに納まりません。

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2009年02月12日 22時05分50秒

再びアメージング岡山へ

テーマ:精神世界

昨日は岡山で行なわれた、ミク友竜三さんの「しあわせコトタマ講座」&新年会に参加してきました。
これがまた、想像を絶する濃厚なコースで、あれよあれよという間に時が過ぎてしまいました。
午前中、部落の大師堂で行なわれるお釈迦様の月命日のお祭りにうどんを搬入したあと、岡山行きのマリンライナーに乗った。
出発前坂出駅で何気なくパンフレットコーナーを見ていると「西大寺会陽500年と観音院寺宝展」というチラシがあった。
http://season.biglobe.ne.jp/odekake/spot/57313.html
あまり時間が無いのでどうかな~と思いながら、裸祭りの褌姿があったのでついポケットに入れて岡山駅に到着。
講座開始まで1時間ほどあったので、そのままするするっと岡山駅西口にある会場のデジタルミュージアムに入った。
入場料600円は少々高いかなとは思ったのだが、中に入ってみると意外と本格的だった。
西大寺観音院は裸祭りと呼ばれる奇祭で知られるが、アララトもニュースではよく見かけるのだがその中身についてはほとんど知識が無かった。
入っていきなり金刀比羅宮から廃仏毀釈で難を逃れ、最終的に観音院へ安置されたという秘仏「毘沙門天」と「不動明王」の二体が安置されていたので面食らった。
以前琴平の松尾寺で奉納演奏に参加した際、岡山に持ち出されているらしいという話は聞いていたものの、まさかこのタイミングで出会うことになろうとは、、、。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=718962952&owner_id=704465
その他様々な秘仏が展示されていたが、アララトの目はその中にある「能作生の宝珠(のうさしょうのほうじゅ)」に釘付けとなった。
まずその形だが直径8cmほどの黒い玉、説明書きを見ると、中央に仏舎利を入れる穴があって云々と書いてある。
これって?ほとんど磐笛?
残念ながらその穴は位置が悪く見えなかったが、どうしても気になったアララトは係りの方に学芸員さんを呼んでいただいて詳細を聞く事にした。
帰ってネットで検索したところ、弘法大師空海が入定前に書いたといわれる、「御遺告」に如意宝珠の詳細が書かれていた。
http://www1.plala.or.jp/eiji/GOYHUKOKU.htm
(東寺の座主大阿闍梨耶が、如意宝珠を護持すべき縁起第二十四を参照)
「御遺告」によれば宝珠の実体は自然道理の釈迦牟尼如来の分身であり、能作性(あらゆるものの主体となる性質)の如意宝珠であり、真言の最高秘法と書かれている。
様々な漢方や香料を丸めて作ったものらしいが、学芸員さんの説明によると宝珠の穴は直径10mm、深さも10mmほどというので、これだけの穴であれば当然吹いても鳴るはずで、あまりに磐笛に似ているので驚いた。
会陽のメインともいえる宝木(しんぎ)作成は、秘儀としてこの宝珠を含め8体の秘仏を並べた密室で執り行われるそうである。
後で聞いたところ地元の方も、お寺の関係者さえもこれだけの秘仏を一同に見られることは無いでしょうとの事でした。
更に興味を惹かれたのは、西大寺縁起絵巻である。
西大寺観音院の縁起には天平勝宝3年(751)周防の国(山口県)玖珂庄に住む藤原皆足(ふじわらのみなたる)姫が観音菩薩の妙縁を感じて金岡の郷に草庵を開基し、千手観音を安置したのが創まりとされているが、この藤原皆足姫はどうも秦皆足姫が正しいようです。
http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/new_page_30.htm
前述の金毘羅大権現は神仏習合時代には、象頭山松尾寺が正式名称で、松尾あるところ秦有りというくらい秦氏との係り合いが深く、金刀比羅宮は一説に大宝元年(701)に一竿旗が空中から飛び来てこの地に墜ちたとされ、祠をたてて旗宮と呼称したともいうので、旗は秦の転化ではないかとの説も有る。
また後に---------
宝亀8年(777)、安隆上人(あんりゅうしょうにん)が大和の長谷寺で修行三昧されていたとき「備前金岡庄の観音堂を修築せよ」と夢にお告げがあり、上人は直ちに西国に下向し藤原皆足姫の擁護のもとに海路を船で急ぎ金岡の庄に向かう途中、児島の槌戸ノ浦にさしかかった時、犀角を持った仙人(龍神)が現れて『この角を持って観音大師影向の聖地に御堂を移し給え』と霊告された。
こうした多々の奇縁に感涙した上人は犀角を鎮めた聖地に堂宇を建立し、法地開山されたのが起源で、このとき寺号を犀戴寺(さいだいじ)と称したが、後年には後鳥羽上皇の祈願文から賜り西大寺と改称したという。
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中世らしい躍動感にあふれた縁起だが、犀の角とはナウマン象の化石のことではないかなどと想像すると、妙にリアリティを持ってくるのである。
あまりの展開にフラフラしながら展示を見ていると、一角に「坪田譲治展~ 石井小学校の思い出~」のコーナーがあった。
これもあとで調べて判ったのだが、先に讃岐金刀比羅宮から廃仏毀釈の難を逃れた二体の仏像は、時の岡山県知事であった池田公の祈祷所であった円務院に一時保管されていて、この円務院が廃藩置県の煽りを受けて上石井にあった興国山長延寺に合併される。
http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-okayama-kadota-zyouzyuuzi.htm
上石井は後に地名変更され、現在は駅元町つまり展覧会場であるデジタルミュージアムのあたりで、つまり偶然百数十年ぶりに元地に里帰りしたのである。
思わぬ秘仏に遭遇して引っかかってしまったアララトは、主催者のマサミさんに遅れそうですと連絡を入れると、まだ大丈夫ですとのことだったので、駅前通路を東口に出て、会場の出石コミュニティセンターへとむかった。
出石コミュニティセンターは幸町にあるが、旧出石小学校の敷地後に建てられたのでこの名前がついたそうである。
ところがこれがまた後で調べたところ、前述の円務院は上石井に移る前は出石にあったそうなのである。
そしてコミュニティーセンターの隣は下石井公園、竜三さんの講座は現町名の幸が入った「しあわせのコトタマ講座」ということで、奇しき縁によってたぐり寄せられた参加者達が集うことになった。
岡山の紺野さん麻理子さんなどの顔馴染みもいて、総勢30名ほどで会場は満席となっている。
始めの挨拶で、まさみさんが竜三さんとの最初の出会いを、背広の中から色々と怪しいグッズが出てくるのにびっくりしたと紹介した。
講座中も竜三さんは様々なアイテムを駆使して飽きさせない、軽妙なトークにご婦人方はほぼ釘付け状態で、笑いも絶えない。
あっという間に三時間が過ぎて延長が入るほどの盛況ぶりである。
最後に竜三さんが忌部に伝わる秘呪を伝授すると、赤ちゃんを連れた若いお母さんが時間の都合で席を立った。
この方が、備前の忌部にお住まいということで、キーワードつながりまくり状態で講座終了となった。
その後の新年会は駅西口の近くの飛鳥というお店で行なわれたが、ことたま講座の中でも偶々「アスカの法」が説明されていたので、一同もお~の声を上げる。
ここで現われたのが、まさみさんの彼氏の竹本さん。(ちなみに彼のボスは武田(竹だ)さんというそうです 笑)
事前にまさみさんからは西大寺の裸祭りで100人を率いるリーダーですとお伺いしていたのだが、会って話してみると想像を絶する褌フリークだった。
もちろんこの飛鳥という飲み屋さんは西口にあるので、前述の旧町名上石井、現元駅町で円務院のあった場所で、目の前には現在秘仏二体を展示中のデジタルミュージアムが見える。
初対面からお互い自己紹介なしで、延々と褌談義が繰り広げられる。
アララトも過去様々な局面で褌談議や、褌折伏を重ねてきたが、最初からこんなトップギヤ状態で展開したのは初めてである。
T氏は25年来の裸祭り歴があるので、アララトなどは肩を並べて話すのもお恥ずかしいくらいだが、当事者の方から直接お話をおうかがいすると、西大寺裸祭りの凄さの一端が伺える。
徳島の阿波踊りでは約一月にわたって阿波踊りが各所で行なわれるが、西大寺裸祭りもこれに近い感覚で、何ヶ所かで小さい裸祭りが行われ、最後に参加者数千人という世界でも類を見ない褌祭りが行われるのである。
褌あいや裸祭りには日本の祭りの原風景が残っている、Tさんに「今度の裸祭りに参加せられい」と盛んに勧めていただいてアララトはひたすら恐縮した次第です。
しかしこのあまりに熱い男同士の会話に、ご婦人方は一人去り二人去りと席を移動しはじめた。
座敷二部屋が宴会場だが、ご婦人方は竜三さんと一緒にうなぎの寝床のように奥まった部屋に集まって、エネルギー交歓やハグを交わしている。
最後はアララトもちょっと混ぜていただいて、磐笛の説明などをさせていただいた。
想像以上に引合いがあったが、元より講演会参加が目的で、携帯用の小さい磐笛しか持参していなかったので、また次の機会にということでお話をさせていただいた。
皆さんとハグをして別れ、高松から参加のノリちゃんと坂出駅まで同乗して帰った。
よくよく話を聞くとノリちゃんは観音寺出身で、忌部祖神の天太玉命を主祭神とする粟井神社の氏子だったということで、最後の最後まで落ちがありました。
熱い褌談議といい、やはり褌隊は褌の命ずるままに動く羽目になっているみたいです。
という事で、西大寺会陽9000人の褌祭りに参加することになりそうです。
しかしこの祭り、実にデンジャラスな祭りで有名、さるミク友さんのご主人も過去に数度骨折などされているそうで、その辺の心構えをしっかりとして参加しましょう!


ストーン磐座-bisyamon

ストーン磐座-konpiragongen

ストーン磐座-fudo


写真 毘沙門天、本家松尾寺の金毘羅大権現(クンビーラ神)、不動明王

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2009年02月15日 03時12分48秒

最近のお気に入り

テーマ:雑記
最近時々パソコンテレビのギャオを見てます。
だいたいは寝る前、鮭を飲んだ状態で見るのでアニメが中心です。
お勧めはゲームにもなった「蟲師」。(現在放映中)
http://www.gyao.jp/
最初に登録が必要ですが、無料です。
先日ミク友さんの植物のオーラ写真見てたら、全くこの世界でしたね~。
非現実的なストーリーとアンビエントな映像に、妙にリアリティを感じてしまうのです。
ということは、アララトも非現実的な世界で生きているのでしょうか?
まそれはともかく、寝る前に見るには良い感じのアニメです。
ドラマで好きなのは「雀鬼」シリーズ、他には同じく麻雀アニメの「アカギ」(現在は放映されてませんけど、、)、その他昭和ドラマシリーズもなかなかノスタルジックに浸れます。
「ガメラ」シリーズや題名は忘れたけど小林麻美の出てた映画、高倉健とロバートミッチャム競演の「ザ、ヤクザ」(残念ながら放映終了)。
あとアニメでは屍姫などがお勧めです。
その他時々少女漫画も楽しめるようになりましたが、これ股奥深い世界ですね~。
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2009年02月18日 01時44分49秒

六畳襖の裏張り

テーマ:雑記


ストーン磐座-sita


ヤポネシ屋の作業場は築50年ほどになるが、安普請なのであちこちガタがきている。
以前は石笛を寝室兼PCルームに置いていたのだが、あまりにも数が多いのとちょっとバイブレーションがきつ過ぎたので、作業場の二階に移した。
不思議なもので、部屋を構えると同時に来客があった。
二階は和室の六畳だが、30年ほど襖替えをしていなかったので、ビリビリと破れていて、それをガムテープで補修してあるが、さらにガムテープまでもめくれ上がっていた。
近々来客があるので、いくらなんでもガムテープ仕様では見苦しいということで、襖を張り替えることにした。
下準備として、当然襖をはがすのだが、これが結構ややこしい。
一度は襖替えしているので、二重構造になっていて、その下にいわゆる下張りがある。
永井荷風の「四畳半襖の下張」ならここに春本が書いてあって、艶かしいストーリーが展開するのだが、公務員の真面目な親父だったのでただボロボロになっているだけである。
下張りの破れたところを短冊型の障子紙で張っていると下張りの下張り、つまり裏張りが出来上がった。
襖の裏張りといえば日活ロマンポルノの女王宮下順子ですが(アララトはSMの女王谷ナオミも好きでしたけれど、、、)、団地妻シリーズと四畳半シリーズは、アララトの中では、もはやタイトルだけで往ってしまうというくらい深い条件付けとなっているようです。
でも、最近の若いギャル(これも死語)達に、この種の色気が感じられないのは何故なんでしょうね?。
話はあちこちしますが、本家永井荷風の「四畳半襖の下張」の濡れ場描写をあらためて読んでみると、すごくエロいですね~。
http://shitabari.web.fc2.com/yojouhan.html
これだけの濡れ場描写が出来る現代作家は村上春樹くらいでしょうが、今回のイスラエル批判でノーベル賞の目は完全に無くなったのかもしれません。
いや、意図的に「何故ノーベル賞をくれないんだ!」とメッセージを送ったのかもしれませんね。

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2009年02月23日 20時02分11秒

9000人の褌トランスナイト

テーマ:
凄い祭りでした~。
2/21
前泊入りしたクマ球磨さんとフェリーで岡山へ渡った。
目的はもちろん9000人の褌男達が集う、西大寺会陽(裸祭り)に参加する為である。
アララトは去る2/11に岡山で行なわれたりゅぞうさんの「ことたま講座」のご縁で、金毘羅さん忌部ラインに引っかかりまくった挙句、裸祭りのリーダーをされているシゲさんと意気投合し、とうとう裸祭りに参加させていただく事になった。http://ameblo.jp/veeten/entry-10213004796.html
一方クマ球磨さんは別のチャンネルで西大寺に注目していた。
最近はまっているフラワーオブライフ理論でいくと、玉置山、剣山、千ケ峰を結んだいわゆる千ケ峰トライアングルの逆三角形がほぼ岡山の西大寺、奈良の西大寺を通るのである。
さらにアララトは先日の講座が2/11旧建国記念日だったので、新たに神武というキーワードに引っかかってしまった。
この様に二人は別々なチャンネルでチューニングし、これはきっと何かあるに違いないという妄想に浸りながらフェリーに乗り込んだ。
岡山に着くと、児島湾大橋をわたりブルーラインに入る。
児島湾大橋のすぐ隣には吉備高島の宮に比定された、無人島高島がある。
http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/okayama/takashima.html
だいぶ時間があったので、ワッカファームhttp://themarket.co.jp/wacca/ の農場を見学する事にした。
邑久インターで降りて、タツヤに電話するとすぐ近くにいたので、1分ほどでご対面となった。
農場もすぐ近くだったので案内してもらう。
谷間の一等地にある2ヘクタールほどの農場は、不耕起栽培の畝がきれいに手入れされていて、ヤギや鶏も飼っていた。
しばらく話をした後、安仁神社が気になったので、タツヤに道を尋ねると、牛窓まで出て西大寺へ行く途中とのことだった。
安仁神社の御祭神は神武の兄である五瀬命となっているが、実際はどうもはっきりしないようだ。
しかし一応五瀬命としているので、皇族が岡山に来れば参拝に来るという、菊花の御神紋を掲げた神社本庁所管の神社である。
思ったより小じんまりとした社だが、さすがによく手入れされていて気持が良い。
西大寺に向かう道筋には、神武ゆかりの神社が点在している。
神武の存在そのものが疑問ではあるが、先日の淡路島で発見された垣内(かいと)遺跡等、記紀神話を裏付ける発見が続いていることから、神武の集団もなんらかの足跡を残していると見るのが正しいのかもしれない。
アララトは吉備高島の宮の比定地を、色々と妄想していたのだが、もっとマクロな視点からとらまえる必要があるようだ。
つまり児島湾に浮かぶ高島から安仁神社、備前高島までの一帯を一塊りとしてとらえると、夫々の神武伝承が腑に落ちてくるのである。
神武の船団がどれくらいの規模であったかというのがポイントとなるが、あてにならない魏志倭人伝によれば邪馬台国の人口が7万戸なので、一戸あたり7人とすれば約50万人くらいとなる。
軍隊だけの移動ならMAXで5万人くらいかもしれないが、当時の造船技術を考えると10人乗りくらいの船であれば、5000艘もの大船団ということになる。
http://inoues.net/science/war.html
食糧輸送の問題もあるので、アララト個人的にはもっと少なかったのではないかと思うのだが、いかんせん資料が少ない。
仮に一万と仮定しても、これだけの人員をちっぽけな無人島だけに押し込むのは無理な話で、高島は祭祀の場であって、住居スペースは周辺部に点在したと考えるのが妥当だろう。
そして途中にある天日鷲命を御祭神とする麻御山神社には注目すべき由緒が残されている。
http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12034
これを信用するとすれば、大嘗祭以前の神武時代に、忌部族が既に麁服(あらたえ)の製造に従事していた様子が伺える。
このようにあちこちで引っかかりながら、シゲさんの駐車場に着くと、車が二台並んでいて、ナンバーが二台とも888となっていたので大笑い。
もう88は終わったかと思っていたら、まだまだ続いているんですね~。
三々五々集まってくる関係者と一緒に、とりあえず一杯飲むが、話は全編褌である。
マニアアックなシゲさんは、お酒や焼物など珍品逸品を次々と繰り出してくるので大笑い。
しばらくして、まさみさんがお嬢さんを連れて登場、差入れの美味しい祭り寿司を頂く。
まさみさんの持参した石笛と石笛合わせなどをして遊んでいるうちはや出発の時間となったので、車に分乗して詰所に向かう。
お寺の近所に様々なグループの仮設テントが立てられていて、酒を飲んだりまわしをしめたりしている。
最初は見送りの女性陣も居たが、着替えが始まると同時に男だけの世界に突入する。
西大寺では褌とは呼ばず、まわしと呼ばれる一反もののサラシを使用する。
アララトとクマ球磨は、このまわしを締めるプロセスに見とれてしまった。
まず最初のまわしを用意するところから、夫々がディティールに入っている。
そして一旦まわしをしめはじめると、男達の顔が一瞬にして変化するのが面白い。
いよいよ二人の締める番となった。
まわしはまわして締める、この道何十年というベテラン達に新参者二人の褌を締めていただいた。
一回まわすごとに下腹、つまり臍下丹田が締め上げられてくる。
普通瞑想では、チャクラや、臍下丹田に意識をチューニングするが、これは最早、強制丹田覚醒布とでも言ったほうが正確なくらいダイレクトにハラセンターが知覚されてしまうのである。
さらに最後に立まわし(股間に渡す部分)を締めあげて仕上げとなるが、締めたまわしが股間というよりは直接肛門に当たってヒリヒリするくらい痛い。
いつの頃からこのようなスタイルになったのかはわからないが、この臍下丹田が締まる感覚と、なんともいえないA感覚はまわしを脱ぐまで続くのである。
何事も体験してみないとわからないものである、一見勇壮に見える裸祭りのベースにあるのは、この二つの根源的な感覚なのである。
11時近くになって、テント前に集合し、「わっしょい、わっしょい」の掛け声を発しながら練歩く。
大寒最中ほどの寒さではないが、じっとしては居られないくらいの寒さである。
整列した約120名ほどの集団は本堂を目指して行進し、仁王門を通って境内に入ると、垢離(こり)取場と呼ばれる水場に入って禊をする。
禊の終わった集団は異常なハイテンション状態に突入し、その後金毘羅さんも合祀されている午王所権現にお参りし、本堂へと向かう。
本堂にはすでに大勢の「はだか」達がひしめいて、もうもうと湯気が立ち込めている。
あまりの熱気にアララトは、誘われるように集団の中へ入ったが、一旦集団の中にに入ると身動きがとれないほどの圧力である。
腕など広げようものなら、折れてしまいそうなくらいなので、身の危険を感じたアララトは少し外側に出て圧力を避けた。
9000人がいわゆる肉団子状態で揉みあうので、力点がどこからくるのかわからない。
腕は基本上に上げたまま、事前に力のかかる方向を予測出来ないので、手放しのレットゴー状態で肉団子のウェーブに身を任せるしかないのである。
最初は男同士で肌を触れあうのに戸惑いがあったが、不思議なもので、慣れてくると結構気持が良い。(笑)
臍下丹田感覚、A感覚、皮膚感覚の三点セットなのだから気持の悪かろうはずはないのである。
参加者は特に若い男が多いので肌の艶が違う(笑)。
西大寺会陽は外国人の参加者も多いが、アララトの見たところゲイピープルもかなり居るような気配である。
現にアララトの隣で揉み合っていたウエスタンの美青年は、白い肌を赤くして恍惚とした表情を浮かべていた。
褌学会のHPを検索ワードで解析してみると“褌 親父”、“親父達のふんどし”、“ふんどし 祭り”というキーワードが並んでいる。
これらのキーワードでネットサーフィンされている方々にとっては、ほとんどパラダイスのような世界だと思います。
もちろん大半の方は陰陽一対の宝木(しんぎ)とよばれる木を取る事を目指している訳ですが、ほとんど裸に近い状態の男達が、何故かしら異常に興奮しているという図は他ではありえない光景でしょう。
しかも世界に冠たる技術立国の日本で、先住民族かと見まがう様な原始的な祭りが行われているわけですから驚きです。
いままで褌隊は、ジャンベ隊などのサポートでノリノリで踊ってきたわけですが、このエネルギー状態だと雄叫びだけで瞬時にトランスしてしまうという世界です。
宝木(しんぎ)が投下されると照明が消されて、男達のテンションはピークに達する。
一対の宝木の他、串牛玉(くしご)とよばれる100本の木が投下されるので、し烈な争奪戦が行なわれる。
完全肉弾戦の世界で、坊主頭の相撲取りみたいな体格のお兄さん達が、そこらじゅうで殴り合いしてるという光景ですね。
ほどなく争奪戦も一段落着き、テントに引き返す道中の寒さが身に沁みる。
テントでまわしを解きシゲさん宅に戻って暖かい風呂に浸かると、体も暖まりやっとグランディングしてきた。
「百聞は一見に如かず」、祭りは見るより参加するもんですね~。
始まる前から終わってからの様々なプロセスは伝統に裏付けられた理にかなったもので、日本の祭りの奥深さを見せてもらいましたね~。
しげさん、まさみさんお世話になりました~。
揉み合いで節々が痛む体を引きずりながらやっとのことで家に帰ると、祝島のメーリングリストに、鎌仲監督の新作紹介とビデオレター「ぶんぶん通信no.1」の案内があった。
六ヶ所村ラプソディー」につづく新作の題名が「ミツバチの羽音と地球の回転」ということで、888が最初と最後の落ちということになりました。http://ameblo.jp/rokkasho/

ストーン磐座-eyo3

ストーン磐座-eyo2

ストーン磐座-eyo1
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2009年02月26日 15時11分40秒

おくりびと

テーマ:精神世界
昨日は親戚のおじさんのお通夜に出席した。
このおじさんは、今までに何度か登場したヤポネシア号ゆかりの霊能者Eさんの旦那さんで、16年前に交通事故で植物人間となっていた。
http://ameblo.jp/veeten/entry-10067153712.html
不思議な事に10年くらいたってから、突然意識が戻り多少話が出来るようになった。
何故意識が戻ったのかは定かではないが、医者も不思議がったそうだ。
この霊能者のおばさんによると、阿弥陀仏から色々とお告げ下がるそうなのだが、おばさんは阿弥陀さまとは呼ばず「親さま」と呼んでいる。
本人が書いた絵を見ると、かなりカラフルなビジョンで映像が浮かぶようで、ボランティアで近所のおばちゃん達の相談にのっている。(ほとんど女性だけの世界です)
http://ameblo.jp/veeten/entry-10161127038.html
おばさんに、「たいへんだったね~」とねぎらいの言葉をかけると、「ちゃんと親さまがお前一人では大変だろうから、助けてやるぞと励ましてくれていた」と答えた。
アララトにはその親さまの姿は見えないので確認のしようはないが、おばさんの目には一点の曇りもなく、言葉からはゆるぎない信念がうかがえる。
読経が終わり16年ぶりにおじさんの顔を見ると、安らかな死に顔だったので驚いた。
人生の折り返し点を過ぎたので色々と死に顔は見てきたが、これほど安らかな死に顔はめったにない。
たいがいの場合死に化粧や綿を詰めたりしても生前よりかなり老けた印象を受ける。
特に病気が原因で無くなった場合などはどうしても表情に苦しんだ跡が残るものだが、おじさんの顔は生気すら感じさせるほどふくよかで、実年齢(80歳)よりかなり若く見えた。
16年間一日の休みも無かった介護生活は想像を絶するが、おじさんの美しい死に顔を見ていると、「親さんが助けてくれる」というEさんの言葉もなるほどなあと思えてしまうのである。
浄土真宗では稀に妙好人(みょうこうにん)と呼ばれる、絶対安心(あんじん)の世界が花開くことがある。
http://www3.ocn.ne.jp/~h-kimm/sub22.html
現代教育の洗礼を受けてしまったアララトにはほど遠い世界だが、Eさんなどは限りなくその世界に近い存在なのかもしれない。
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