この一文も歴史会議室で十手についての間違った概念を正すために、八切史観を紹介したところ、何人かの質問者が出て、それに対する説明を回答形式で編集したものです。(注・質問者青字部分)
△△ さん、こんにちは。前発言では、前置きに対するコメントが長くなりすぎましたので、本題は別発言にさせていただきます。できましたら、こちらの発言へのレスは十手の話に限定していただきたいのですが。
了解致しました。それでは早速........。
紹介しました八切説も前半は物理的考察でした。この物理的側面に疑問を呈して居られるのが○○さんの論ですね。それでは、今までの論点を整理して見ましょう。八切説は「十手と刀は戦わない、何故なら武士は刀を抜かないから。従って起訴事実をデッチアゲる為、鞘から刀身を抜く道具である」でした。そして、○○説は次のようなものでした。(引用が長くてすみません)
端的に言いますと、「刀の運動エネルギーを全部十手で受ける必要はない」ということです。確かに、まともに十手と刀がぶつかれば十手。が折れる可能性は高いですが、運動エネルギーのベクトルと直角方向に力を加えれば十手に掛かる力を小さくして刀の運動方向をそらすことができます。そうしてやれば刀を持つ側は非常に無防備な状態に
追い込まれます。(重い鉄の棒で殴りかかって空振りした場合を想像して下さい) そこですかさず別の捕り方(まさか捕り方が一人だと考えてらっしゃる訳ではないでしょうね)がつかみかかれば容易に捕まえることができると思うのですが。
十手本来の使い方は、相手の懐に飛び込んで柄の近くを十手で捕まえるという物だと聞いたことがあります(この場合、柄の近くは支点である手に近いため刀のスピードvは遅くなる。このため運動エネルギー(mv^2)/2は速度の自乗に比例するわけであるから極端に小さくなり、十手の折れる可能性は格段に小さくなる)が、懐に飛び込む危険を冒す可能性は小さいと考えあえて例に挙げませんでした。
確かにこの論ですと合理性が在りそうです。でも、こうなるには前提条件として、「江戸時代武士はよく刀を抜いた」という当時の風習通説を容認しなければなりません。八切説は抜かない。○○説は抜いた。こうなると水掛論になりますね。
八切説は弾左衛門や、当時の警察制度、武道とは?村八分とは?広範な社会状況の中から、十手の役目を考察しておりますが、なかなか理解されないのは何故だろう?と考えて見ますと、これは私が十手の部分だけを引用してUPしたのが原因だと考えられます。
そこで○○さんに提案があります。上記のような訳で部分引用は避けて、一部重複しますが「論考・八切史観」の本の<捕物論考>の部分24-P-全部をUPし、再検討して頂く、この方法では如何でしょう?
★★★★★捕物論考★★★★
<紹介者・補記>
ここに捕物論考の全文をUPする。これによると文部省お仕着せの学校歴史では教えない「士農工商」の枠外にいた民族の存在が判るし、当時の警察制度の全貌も解る。さらに現在にまで尾を引いている「差別」の何たるかの一端も判ろうと言うものである。かなりの長文の為六部構成にした。また、刀の重量が六キロ等と書いて有り、勘違いか間違いか一部不審な部分もあるがここではあえて原文に忠実になぞらえた。(但し、当時の鞘は金具で巻いてあり相当重いもので、鞘とこみの重量なら3キロ位の物もある。ちなみに、私は江戸期の物の刀を何本か持ったことがあるが、抜き身一本の重量は一キロ位である。刀剣界の見解では新刀の方が古刀より若干重いというのが定説になっている、ということを附記しておきます)
【力の法則】
「捕物」は江戸期のものには「捕者」とある。これを「物」にしてしまったのは泉鏡花の弟の泉斜汀の題名からであるというが、「半七捕物帳」からこの種の読み物は多い。しかし、可笑しなことにこれは「大岡政談」が中国ものの翻訳であるように、海外ものの焼き直し以外の何物でもなく、本質的なことは何一つ解明されていない。誰かが不思議に想って、これを正面から取っ組んでいないかと調べてみたが、世に私のような、こり性というか愚かなこけの一念で物を調べるのはいないとみえて、何処にも見当たらない。
だから、これから述べる事は、捕物の原点みたいなもので、初め多少は奇異に感じられても、「常識」をもって、そうであったかと判って頂ければ、労多く大変だったが私も満足である。そこで、「捕物の話」のような興味本位なものや、奉行所目録犯科帳のごとき通りいっぺんな空虚なものは、これをとらない。従来の捕物観は白紙に戻し、あくまでも常識をもって、それがこれまでの概念からいって、可笑しく考えられるとしてもここに論評を進めねばなるまい。
まず、その道具。携帯用捕物用具であるが、反対例として引用するのはどうかと想うが、まず念頭に浮かぶものとしては、全学共闘会議派連中の、「完全武装」という恰好である。これは、「ヘルメットにタオルの覆面」であり、武器は、これは今の所赤軍派以外は、「ゲバ棒」とよばれる角材と、火炎瓶や投げる為の石である。処が、これに対する捕
物陣営のいでたちは、「ヘルメット」は同じようだが材質が堅牢で、タオルのマスクのようなちゃちなものではなく、厚いプラスチック性のマスクをもってしている。そして角材に対してはジュラルミンの大楯、警棒、ガス銃、放水車、装甲車まで揃えている。
いつの時代でもそうだろうが、国家権力を背景にした捕物側というのは、被捕物者である連中よりも常にその装備において、格段の優秀性をもっているものである。またこうでないと、「捕縛する」という目的に支障をきたす。つまりこれは一般は拳銃など持っているだけでも不法所持として逮捕されるが、捕物側は未成年でも公然と携行が許される差異でもある。
処がこの明白な区別が、明治以前となると、まったく反対のように今日では見られている。たとえばテレビにしろ小説にしろ「御用」「御用」とかかってゆく捕物側が「おのれ参るかッ」とバッタバッタと斬られてゆく。なにしろ被捕物側
は抜身の刀をふりまわしているのに、召し捕る方は十手の他には樫の六尺棒。切羽詰って持ち出すのが梯子。目つぶし用の砂か灰。大捕物となってようやく現れてくる器材は、「さす叉」「からみ棒」の類でしかない。しかし、これらも棒の尖端にU字型の鉄がはまっているか、いぼいぼが出ている程度で、ゲバ棒の尖端に五寸釘が打ち付けてあるのと大差はない。
すると江戸時代というのは、「国家権力の捕方のほうが、極めて良心的かつ平和愛好型であったのか」ということになる。そして、今日でこそ「警察官募集」のポスターをよくみかけるけれど、昔は次々とあんなに斬られてしまう捕方の補充をどうしたのだろうか?人手不足ではなかったらしいが、よくもそれにしても、ばった、ばったと殺される方の側になり手があったものであると、素朴な疑問がどうしても起きてくる。
何しろ、いくら樫の六尺棒が固いからと言っても、これが日本刀と激突した時切断されるのは木質の方であるべきだし、又十手という鉄製捕物道具も、重量は二キロしかない。平均六キロをこえる日本刀が打ち下ろしてくる太刀先を二キロの物体で受け止めた時、切線加速度をa、刀の重量をMとすれば、「a+M」の衝撃つまりFの力が、二キロの十手にかかってくる計算になる。
さらに刀を構えるのが頭に直立の型なら九十度。大上段にふりかぶってこられたなら、百八十度の加速度の力が、さらに十手に掛かってくる。すると江戸時代の捕方の平均身長が百六十センチ以下なら、肩の付け根から、十手を
握る手までは六十センチ間隔だから、その衝撃波に対し肩までの距離は瞬間的に四分の一に短縮される。すると力学上、手元で八十センチの刀身を受けたときは、十手を持つ側の肩先へ二十センチの切り込みを生じる。これは一般的な力の法則であって、いわゆる武道や刀法にはなんら関係はない。だれがやっても同じ結果が出るのである。
仮に十手が固定していても「弾性限界の荷重度位の法則」があるから、刀より十手が重量のある鉄棒でもない限り被害は免れ得ない。相手が剣豪や名人でなくとも、捕方は、もし十手で受け止めようものなら絶対に殺傷を受ける。ということはどうしても、概念的には国家権力の武器が劣ることになってしまう。ところが明治九年三月二十八日に佩刀禁止令が発布され、一般が丸腰になった後の邏卒の捕物道具も、不思議な話だが全く江戸期と変わらない。今までこれに疑問を抱いた者は居ないらしいが、果たして真実はどうであったのか。
【村八分の起こり】
頼山陽が門下生になり、教えを受けたこともある備後神辺の儒者にして、詩人でもあった菅茶山は、文政十年八月死去する前に、
「福山風俗」「福山志料」を書き残した。その中に備後福山市東の三吉村に、「三八という者らの住む地域あり。これ
水野侯が福山十万石を賜るとき、三河より伴いきたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。この水野侯というのは「汝も明智光秀にあやかるべし」と家康から光秀遺愛の槍を貰った寵臣で、大阪夏の陣の大和街道の指揮官をつとめ、のち島原の乱に討死にした板倉重昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落ときくや、老躯に鞭打ち福山から駆けつけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てられていたが、この倅が旗本白柄組の水野十郎左衛門である。なおそのとき、
(光秀にあやかれ)と家康が言ったのは、その時代には誰も、「光秀が信長殺し」と認めていなかったせいでもあろう。さて、この福山の三八について、「六郡志」に「三八は常に両刀を腰におび、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村専故寺の前にて斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方のことを誌している。また「備後御調史料」では、「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、普段は捕縄術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。また鎮守の祭礼には神輿の先払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八または八部衆ともいう」とでている。
これは(おどま勧進勧進)の五ツ木の子守歌で知られているように、いわば、「乞食」扱いを蔭ではされながら、表向きは刀を二本差し代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召し捕ってしまい、でっちあげで牢屋へ放りこんで断罪していた三八の風俗である。今でもいわれる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源はこれからだという。さてなぜ百姓が彼らを乞食視したかといえば、正規の扶持米ではなく、百姓から役得のごとく米をまきあげ、それで寄食していたせいである。明治維新で薩摩の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、
それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今も伝わる「村八分」の起こりなのである。
また、裏日本の「因幡志」にも、
「伯耆や因幡にては、元旦、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀を貰いうく。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハチヤ預けといいて、彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた」とあるし、出雲などでは、「文化四年(1807)松平出羽家書上書」と名づける公儀へ提出の公文書もあり、それに「
当家が雲州を拝領せし後、各郡ごとに『郡廻り鉢屋』をもうけ郡牢を一個所ずつおき、この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ『屋職』とよばれその下に『村受け鉢屋』があって、これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担任区内の
村民の非違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の聚落居住地があり、ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練。山陰地方にて名ある武芸者はみな此処の出身なり」堂々と書かれている。
しかし明治七年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が多く、大正六年調査表の『島根県分布一覧』には僅かに、「鉢屋一八六戸、長吏一七三戸、番太五六戸、得妙三戸、茶筅三○戸。計四四八戸」とある。
また尼子の残党が、村受け鉢屋や郡代鉢屋になったことの裏付け史料としては、「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」「はちや、かもんら永々と籠城のところ、このたびも敵勢取りかかり押し寄せし時もおおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄八年四月二十日、同十月一日付の尼子義久の花押のある感状が、はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で今も現存している。
「掃部頭」というと、今では井伊大老のことをすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安政の大獄を指揮したのは、彼個人のバイタリティーのみでなく、「公家に対する地家」つまり俘囚の裔が武家であるという民族の血からの、反動的な
圧迫だったともみられるのである。それにもともと公家というのは「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にならぬ」というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住民の末裔をもって兵役を課し、これが武家の起源であるが、差別のためか蔑視の理由によるかそこまでは解明できぬが、
「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名しか武家には与えていない。清掃人夫取締りとか、配膳係のボーイといったのが前者の意味であり、後者は「糺」という文字もあてられ「ただす」と訓をされていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始まり、大宝令で法文化され延暦十一年に、「弾正例八十三条」という当時の刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になることを嫌った」ごとく、ただす役割もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千
金の子は盗賊に死せず」の精神なのである。
だから、よく映画や芝居で「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目にかかるものか」と軽蔑した言葉がでてくるのは、つまり、俘囚の子孫が役人だったことに起因している。だからして公家が、織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは近江八田別所出身。昔の捕虜収容所の血統だからである。しかし尾張の織田家を弾正にしたところで京へきて、御用御用と召捕りをやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、
明治二年五月に、新政府はこれを復興。同年七月に弾正台京都出張本台、四年二月に弾正台京摂出張巡察所と捕物機関を設けたが、のち司法省に吸収合併され、なくなってしまつた。
【武道は誰のために】
さて、これに対して被捕物側である一般大衆はどうであったかというと、天正十六年(1588)に秀吉の刀狩りが施行されたが「道中差し」の名目で旅行用服装時に限り帯刀は一般にも江戸期は黙認されていた。そして幕末の天保から慶応にかけて、黒船騒ぎや国内事情の悪化で護身用の目的から泥棒を見て縄をなうごとく武道が流行した。
さてこうなると、きわめて職業化され生計がなりたったからプロが輩出したのである。『徳川実紀』にもこの記載がある。そして、これに便乗して『本朝武芸小伝』『新撰武術流祖録』の類が木版本で後に刊行された。
そして、さも戦国時代から何世紀にもわたって、武道というものが隆盛をきわめたように、そうした本ではこれをうたいあげた。
だからして現代では、相当の有知識人であっても、ほとんどの人に、「江戸時代というのは、侍はもとより町人でさえ、腰に刀をおびていた。だから各地に道場があって、みんな剣の稽古をしていたもの」といった概念があるらしい。それゆえ、
「道場の門弟が跡目を望んだり、道場主の娘を狙って争う」といった設定のものや「殿様の前で刀と刀の御前試合があった」「十五歳から町道場へ通った」などという、天保以前の泰平の世では、有り得なかった荒唐無稽さが、講談やテレビの影響で抵抗無く受け入れられているらしいが、もし一般大衆である被捕物側がそんなに武道鍛錬を励
んでいるならば、これを逮捕する側が、棒と十手だけで太刀うちできただろうか。国家権力の方が武器は優秀でないと治安維持は出来ないものなのに、矛盾してはいまいかと考えざるを得ない。
それによく「刀は武士の表道具」などというから、幕末に輩出したプロは、みな武士クラス出身であるはずと想うのだが、比較的知られている連中をあげていっても
千葉周作・・・・馬医者(猿飼部族)の家筋
男谷精一郎・・・検校の倅
斉藤弥九郎・・・商家の丁稚上り
土方歳三・・・・日野、松坂屋の小僧
岡田十松・・・・埼玉砂山、農業
浅利又七郎・・・千葉松戸、農業
と、有名剣客で士分の家柄は案外に誰もいない。これははたして何を意味するのだろう。「本を買い込んで、つんどく」のと「読む」というのは違うと言うが、三百年来腰に刀を差している階級から剣客が出ずに、他の階級からそうしたプロが産まれてきたことは、これは動かし難い事実であり、これまでの概念とは違い、三代将軍家光以降は幕末まで各大名家に、「武術師範」と称される存在はない。
また「何々道場」などといった物も、今では常識化されているが実際のところ、一般化されていたのは虚構ではあるまいか。
忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は、松の廊下で吉良上野に刀を抜き二度まで斬りかかっているが、その「浅野内匠頭分限牒」には播州赤穂三万五千石の家臣団が足軽小者から医師や女中の末に到るまで書き出されていて、「槍奉
行」や「御膳方」「餅奉行」といった役職までずらりとあるのに、「武術方」とか「武道師範」などというものは全然ないのである。
講談で有名な高田馬場十八人斬りの堀部安兵衛も、分限牒では無役である。もちろん安兵衛が内匠頭に師範をしていたら、まさか二度も刀をふるって擦過傷ということもなく、吉良上野を斬殺していただろう。すると赤穂浪士の討ち入事件は起きず、忠君思想の宣伝材料がなくなり、その後の朱子学の儒臣も困ったろうと想われる。
つまり各大名家では幕末になって、流行のように学校や塾を設立し、そこで武道鍛錬をさせたが、それまでは、公儀よりの犯罪予備罪の嫌疑を恐れてか師範など置いてはいない。また道場というものも、今日の小説や映画に出てくるような民間道場というのはあり得ない。
なにしろ国家が十手と樫の棒で治安を保とうというのに、一般大衆に剣道を普及させるそんな物騒なものは、これを認めるわけなどありえないからである。
では存在していたのは何かというと、これは捕物側のものだけである。これはかってGHQによって武道禁止をされた時、警察関係だけは特に許され存続してこられたのと同じかも知れぬが、現在は群馬県多野郡吉井町になるが、
昔は上州多胡の馬庭村で、そこに有名な、
「樋口家の馬庭念流」の大きな道場があって、江戸京橋太田屋敷、神田お玉ガ池、小石川の三カ所に出稽古の道場まであった。
といってこれは、一般大衆の青年が習おうとしても、「入門しとうござる」といって行けるところではなく、南町奉行所北町奉行所、小石川の方は火附盗賊改め番所の委託制で、捕物側の指南所であったのである。
のち幕末になって剣道が大衆化して、今日の各種学校のように入学金と月謝で採算がとれるようになると、馬庭念流の樋口定伊は、
「矢留術」を看板に神田明神下から、和泉橋通に一般用の道場を進出させ経営に当たった。それまで馬庭念流が上州で長らく存在しえた理由は、「岩鼻代官所御用」と「大戸関所御用」の二つを拝命し、そこの捕物側の訓練に当り、また出役に人手不足の時には、西部劇の補助シェリフのごとく門人を出して代官御用を勤めてもいたからこそ、その道場はさし許されていたもまである。
つまり武道というものは、権力に反抗する恐れのあるものとされたから、伝承のように武士階級によって護持されてきたのではない。たえずそれを役目柄必要としていた治安維持担当の捕物側によって江戸期には受け継がれてきた。明治三十五年刊の「日本武術名家伝」にも、はっきり、
「捕手は竹内流の小具足の中に起こり、我より仕掛けて敵の不意をうち、これを捕りひしぐの術にて、関口流、川上流、一伝流らみな捕り方を主となし、制剛流も必ず捕手術をもって、その武芸の髄となす」とでている。普通の概念でゆくと、武芸とは、
「刀槍をもって相手を倒すこと」と大衆文学的にどうも考えがちであるが、それらは「武門の意地をたてるため」とか「剣の使命によって」などと漠然とした曖昧模糊の観がないでもない。きわめて非実用的である。ところが、そういう観念をかなぐり捨て改めて、「捕手術こそ武芸である」とすると、治安維持上目的意識が明確になるし、これはきわめて実用的な技術であるから、捕縛方がこれに励み伝承することにも、その意義が認められてくるというものである。今でも剣道の道場が何処にもあるのは警察だけである。
【居合と抜刀術】
さて『近世詩儒伝』というのに、「井上石香は江都の詩をよくする者の筆頭。三河松助が本名にして千葉周作をその支配地神田於玉ガ池に招き、その道場をたてて己の輩下に刀術を学ばせる。石香も同道場師範としてその剣技令名あり」とでている。
これだけ見ると石香というのは千葉周作のパトロンで、どこかの大名のご隠居のごとくも想われてしまう。そして『石香談話』には、
「抜刀術にて吾に比するものなかりき」といった箇所がある。だからどうしても、「北辰一刀流の千葉周作から抜刀術の極意」なるものを授かり、西部劇の早撃ちのごとく、サアッと刀を抜く術に優れていたもの、と、どうしても解釈しがちである。
ところが拳銃を素早く引き抜き一秒もかからず、引き金を引く所作のごとく、刀の鯉口をきり己の長刀を抜く技術は、山田次郎吉の『日本剣道史』をみても、これは「居合」という呼称をされている。つまり「抜刀」とはいわれないのである。
が、表向きに「抜刀」をその流派に冠するものもないではない。幕末に金比羅大神宮の御利益で、田宮坊太郎という少年が親の仇討ちを目出度く遂げたという辻講釈が、金比羅講の信者によって宣伝され、世に広まった後『北条早雲記』という読み本が刊行され、その中に田宮平兵衛成政という長柄の刀をおびた剣豪が興味本位に創造されている。そして、
(柄の長い刀は抜くのに厄介だろう)という想念のもとに、ここに流行に便乗し、「田宮流抜刀術」という名称が生まれた。なにしろ十二歳の坊太郎少年が一メートル余の大刀を、大地を蹴って飛び上がり、すらりと抜き打ちに出来たというので、講談を本当と思いこむ人士も多く、ついに紀州や水戸にまでこれは広がった。(松井源水の長刀抜きが大道芸で広まったのもこの影響である)しかし田宮流抜刀といっても、この派の万治元年に死んだ水野新五左は、自分で「水野流居合術」と改めているし、その派の加藤権兵衛も「水府流居合」と直し、誰も「抜刀」という名称は避けている。
何故「居合と抜刀」とは相違するのであろうか。
これこそ今まで解明されなかった一般武芸と、捕物武芸の分岐点のようなものである。だが、それを解く前に井上石香を本名の三河松助から考究する必要が出てくる。通称「三松」と呼ばれた彼は『福山志料』に現れる「三八」と同じであって、弾左衛門世襲の手代六人衆の一人なのである。弾家というのは幕末三田屋敷で御用盗を指揮していた
薩摩の益満休之助が、「おはんのところは、源頼朝の直裔ではごわせぬか」と言いに行ったような家門で室町御所の頃は「室町弾左衛門」を名乗っていた。
現在の日本橋室町の三越から日銀までにその居宅があって、麹町平河から左岸は彼の土地だった。
天正十八年に徳川家康が江戸に入った時、土地を譲って隅田川向こうに移ったが、幕末に到るまでその敷地内には、棟割長屋二百三十二棟。猿飼十五戸。外に品川、代々木、神田、日本橋に飛び地をもち六十棟ぐらいの長屋が
あって、慶応三年の調べでは弾左衛門輩家は江戸だけで六千人。これに奥州までの十二カ国に、六千五百六十二の支配村落を持っていて、そこに散在している輩家は女子供を入れると約五十万人。この他に、「道の者」といって、墨屋、筆屋、獅子舞、鳥追いといった行商や遊芸で旅から旅へと渡り歩く弾左衛門鑑札の者が二十万。
しめて七十万の人間から人頭税をとっていたのが弾家で、一人から年に一両とっても年間七十万両の現金が入る家柄である。
そこで三田村玄竜の考証によると、「江戸の札差しの金は全部、弾家の金で、後世の日本銀行の役割をしていた」という。だから世襲の手代といっても、実質は何万石の家老位の実権やみいりがあったから千葉周作に道場の一つぐらいたててやるのは何でもなかったらしい。
しかし弾家というのは初めはそれ程の地盤ではなく、これは隅田川の関屋別所を合併してかららしい。といってこれは弾家の意志ではなく、家康入国の時に、他地方なみに牢獄と刑場を一つにして弾家の責任にしようとしたところ、関屋別所長吏の石出帯刀が三百石どりの武士になってしまって牢屋奉行になり、所属地を一切あげて弾家に委せてしまった故である。
徳川政権の奉行職は次々とお役目替えがあるのに、石出帯刀の子孫だけは三百年にわたって世襲であったのはこの為であった。
また千住関屋の牛田にある千葉山西光院という寺に石出帯刀の石碑があるが、後にその素性の所だけは判読できぬよう石を削り除かれているのも理由はそこにある。弾家は今の南千住駅前の昔の小塚原刑場だけが担任の仕事なので、破戒僧だとか人別帳をけずられてきた非人共の払い下げを受け、それを奴隷代わりに処刑人として使用し、ここを六人の手代の一人にやらせていた。
山田浅右衛門、通称「首切り浅右」がそれで、御一新前は門人にやらせて自分で斬首などせず、もっと威張っていたものだとその手記が残っているが、「山田流居合抜き」と呼ばれて名高い新免流据物斬りは、代々その山田家に伝わって来たものである。
【白は逃がせ黒は捕らえろ】
では、山田浅右の居合抜きに対し井上石香の抜刀術とは一体なんであったのか。この区別が今日では、まったく判らなくなってしまっているが、『石香談話』の中に「われ十手をもち刀の下げ緒に引っかけ栗形(鯉口の下にある鞘紐通し)又は反角(腰に差したとき鞘がすべらぬよう引っ掛る所)にこじり通して、その鞘を抜くはこれ百発百中なり」と言う箇所がある。
これまでの既成概念で考えると、刀を叩き落とすなら判るが、鞘を抜くというのは理解に苦しむ。しかし文字通りでは
自分の刀を抜くのが、居合い術。相手の刀を抜くのが抜刀の術。なのである。
だから従来の武芸観からゆくと、どうも「刀法とは相手を早く斬り倒すもの」と考えて判らなくなるが、江戸期に武芸を専門に鍛錬していたのは捕物側なのであることに思いつけば、「抜刀させる必要性がそこにあったのだ」と、帰納して考えざるをえない。
これは「鯉口三寸抜いたら、お家は断絶、その身は切腹」というのが千代田城内だけのことと今では考えられているが、あれは帯刀する者全部ヘの掟だつたのである。警官が拳銃を佩用しているが、持っているからと言ってバンバン撃てないないように、刀を差しているからと誰もがやたらに許可無くして抜刀は出来なかったのである。
天保期から幕末にかけ治安が悪化したのはこのタブーが無視され、気儘に抜刀する輩が現れた為で、それまでの世情では国家権力は棒だけで取締まりが可能だったのである。
つまり抜刀の斬り合いが希有だった例証としては、切傷に対する漢方の処置方というものが、幕末まで全くなかった事実がある。
会津軍務局頭取玉虫左太夫が明治二年四月に西軍に命じられて自刃する前に書き残した『官武通紀』にも外科の手当を知らず難渋した旨の記載があるし、これは子母沢寛の『からす組』や『狼と鷹』にも蘭医松本良順が外科の処置を教えに行くまで、東北諸藩の医者は手当が判らず、てんでに傷口を消毒するどころか温めたり冷やしていた野放図さかげんが出ている。
つまり、「需要があって供給が生まれる」原則からして抜刀して斬合いをよくしていたものなら、漢方医といえど、どうしても切傷手当の外科はやっていたはずである。なのに、その需要がまったくなかったというのは、とりも直さずチャンバラはなかったことになる。こうなると通俗時代小説などメルヘンでしかない。
では何を被捕物側は振り回し国家側の捕物陣営と争ったかと言えば、それは鞘ごとである。だからして必要上鞘の末端には「こじり」とよぶ鉄の尖った物が冠せられ、直ぐしたには「責め金具」とよぶ鋭い鉄枠ががつき、鞘が割れぬように「足金物」で厳重にベルトがしめられていた。それゆえテレビや映画と違い、被捕物側は本当は刀を抜かず八十センチの鞘ごと向かってくるからして、それなら二メートルの樫棒の方が遥かに優位だったのである。しかし鞘ごと振り回すのを召し捕っても、もし容疑が晴れたら虻蜂とらずである。
一旦捕らえるからには起訴事実を作っておかねば徒労になる。
そこで考案されたのが抜刀術である。十手の下の方の出っ張りは、あの間に刀身を挟むのではなく、鞘をひっかけ無理に鯉口を切らせ、刀身を露出させ罪に落とす為である。さす叉にしろ、からみ棒にしろ用途は、「抜刀させ、罪にする」目的だった。芝居などでは首へさしこみ挟み込むが、あの幅は十五センチ間隔であるから、Mサイズの頸なら入るが、Lサイズの相手なら入らない。
また十手それ自身でも三センチの空間に、刀身をすっぽり入れることはパチンコのチューリップへ玉を入れるより難しいし、もし抜身なら十手の方が怪我をしてしまう。いまならパトカーで運ばれすぐ手当も受けられるが、昔はそうはゆかない。それにクロロマイセチンや抗生薬剤のなかった時代では、小さな怪我でもすぐ傷口がうんで、「破傷風」と当時は呼ばれたが命取りになってしまう。
だからそうしたことを考えると、捕物道具というのは「棒」が主要武器であって、「十手」も初めは軍配や采配のごとき性質だった物が、点数稼ぎの末端の警吏に抜刀用にと利用されだしたものらしい。
さて話は八一二年戻って文治二年。九郎判官義経が捕らえられぬのに業を煮やした源頼朝が、日本全国六十六国に対する「総追捕使」を自分でかって出た時、各地に警察署を設けるわけにゆかないから、六十六国に散在している二千有百の同族神徒系の別所の長吏に、逮捕と処罰の警察権をもたせてしまった。ところがこの連中は足利期
にはいると、「白旗党余類」と呼ばれるように、白旗をいつも立てている部族なので、自分らの事を「仁田のしろ」「武田のしろ」と自称するくらいだから、捕らえてきたのが源氏の末裔で、同じ神信心の部族と判するや、「白じゃ、同族の情けぞ」と放免してしまう。
しかしそうそう見逃していては起訴できぬから、補充の意味で、墨染の衣をまとう仏教系の反源氏の者を代用に捕らえてきては、「黒じゃ」と適当に罪科をつくって処罰してしまった。あまりにでっちあげが酷いからというので「嘘の三八」という言葉が伝っているのは前述したが、目安箱に投書などして黒の者が白の役人に再審請求することを「黒白を争う」といったのはこのためである。
八世紀に渡って日本全国で、鉢屋とか八部ともいう連中のボスの長吏が、代官手先となって片っ端から捕らえて廻り、番屋の番太郎や目明かし下っ引きの類も、「白か」「黒か」とやったから、今でもこの用語は生きているが、薩摩系に警察権が変わった明治七年からは、今や実際には白黒は反対になったのである。そして村役人や番太だった八部衆が「村八分」にされたように、長吏も関西では仕返しのため「長吏ん坊」と苛められた。
【二足草鞋と源氏屋】
また今日では「二足草鞋」と言う呼び方をして、博徒で御用聞きをつとめた者を悪くいうが「無職」(ぶしょく)というのは職がないのではなくて、職を持たなくてもよい身分の者のことなのである。といって豪いというのではなく、これは七世紀に仏教を持って天孫系が日本列島へ
入ってきたとき、原住民を捕らえて別所という捕虜収容所へ入れたが『延喜式』といった古記録にもあるように、給食給衣の宣撫策がとられ、治外法権の民とされた。大江匡房の書き残した『傀儡子記』(くぐつき)にあるような、
「一畝の田も耕さず、一枝の桑も作らず、己らに主君はなしとし、生涯、貢租や課役なきを誇り、夜毎に白神をまつり白酒をあげて鼓舞しあう」といった無職渡世の気儘な伝統を幕末まで持ち越し暮らしていた。
つまり天孫系は各檀那寺に人別帳とよぶ戸籍台本を作られ、そこで年貢をとられたり「助郷」とよぶ労力奉仕にかり出されるから、どうしても職というものが必要だった。が、原住系は百姓の作った米を、蔭では(勧進)と悪口を言われようが、御用風をふかし、巻き上げ徒食していた。この結果が天孫系は何をやるにしても努力し銭になるよう励まねばならぬから、勤勉で仕事に直ぐ熟練した。
ところが原住系は何によらず遊び人気質が抜けず慣れないというので、前者を黒人(玄人)、後者を白人(素人)といった区別の仕方すらある。さて、ぶらぶらしているのが博徒になるのは当たり前だし、その素性からして、代官所の下働きとして御用の十手を預けられるのはこれまた当然である。つまり、「二足草鞋」の方が主流派の存在であって
、今でこそ有名だが清水の次郎長とか、黒駒の勝蔵といった連中の方が「半可打」という反主流はだったのである。だから次郎長や勝蔵は自分の土地に居られず、旅から旅へと逃げ回っていたのである。ところが、この双方の纏め
役を後にかって出た安東の文吉になると、これは二足草鞋の主流派だから、博徒と言っても今日で言えば警察署長、当時の地方公務員だから、生涯旅がらすなどは一度もせずに畳の上で大往生をしている。
さて、春日局の実子で小田原城主だった稲葉美濃守から、駿府城代大久保玄蕃頭宛慶安四年八月二十七日付書面で「由井正雪の親類を探索のため、江戸から目明かしが来る」というのが現存している。だがこの場合は、「面通
し」の意味で、俗に言う目明かし岡っ引きの類は、地方の八部、三八と同じで江戸では弾左衛門配下の手代井上石香に属していた。
しかし弾家は人頭税はとるが給与は出さない。では何処から貰っていたかというと、吉原が日本橋蛎殻町にあった頃より、ここから支払われていた。何故かというと遊女屋というのは誰でも出来る商売ではなく、源氏の末裔の原住系の者だけが営める灯芯と同じような限定営業で同族だったせいである。
だから遊女の名を源氏名というし、目明かしの下っ引きなどでぶらぶらしている者を源氏屋と昔はいったものである。さて日本の学生運動の草分けとも言うべき一八六四年(元治元)水戸の時擁館生徒二十歳の田中源蔵が、学生三百を率いて決起したとき。
今は日立市になっている茨城の助川城に彼らが立て籠もる前から、これを追撃していた公儀機動隊というのが、水戸領鯉淵村他五十三村の八部衆たちで、彼らは昔ながらの源氏の白旗をたてて総督田沼意尊の命令下に九月二十七日の早朝には水戸額田村の博徒隊寺門組二百、同じく博徒のうこん組の二百ずつと合流した。
つまり源氏屋と呼ばれる二足草鞋の博徒が主力となって、これに奥州二本松の丹羽軍を初め近接諸藩の軍勢が加わり二万の大軍をもって、田中隊の助川城を包囲攻撃したのである。博徒といっても公儀御用の機動隊だから、みな鉄砲を持っていた。
その銃口の前に立ちふさがって教え子を庇うために、「時習館教授方尾形友一郎」「潮来館教授方林五郎三郎」を始め師と仰がれる多くの先生たちが散華していった。もちろん結果的には、十三、四歳の少年までが捕われ体が小さいため斬首できぬからと木に吊され撲殺されはした。
だがかっての師には、身をもって教え子を守る気概があったからこそ、三尺下って師の影を踏まずというような考えもあったのである。
今日のように教官や教授がサラリーマン化しては、バカヤロー呼ばわりされるのがいても無理はない。
<<終わり>>
【引用文献】八切止夫著「論考・八切史観」(日本シェル出版)
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