気象・地震

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大震災と報道:衝撃の「3・11」 その時記者は 現場からの報告

 「3・11」。春を待つ東北地方を、巨大地震と津波が襲った。その時、現場の毎日新聞記者は何を感じ、いま何を伝えようとしているのか。今回の「大震災と報道」特集では、宮城県塩釜市に駐在するベテラン記者と、東京から陸路被災地に向かった中堅記者の2人に報告してもらった。

 ◇松島湾の船上で 高台の市役所へ走った--仙台支局塩釜駐在・渡辺豊記者(61)

 大地震が起きた3月11日午後、私はたまたま塩釜市営汽船に乗って海の上にいた。松島湾に浮かぶ宮城県塩釜市の離島・浦戸諸島の中学校の卒業式を取材しての帰途。島外に住む卒業生を含む約30人の乗船客と楽しく談笑し、塩釜港は間近だった。

 午後2時46分。突然、船が大きく縦揺れし、船内のあちこちから悲鳴が上がった。海面はまるで、豪雨にたたかれたように泡立っていた。船は数分停止した後、態勢を立て直して港に強行着岸。我々はすぐ旅客ターミナル「マリンゲート塩釜」の3階まで駆け上がった。約200人がそこに避難していた。それから約1時間後だったと思う。「水位や潮の流れが変わったな」と思った数秒後、津波が来た。

 還暦を過ぎるまで生きていると、「死んでもおかしくない」状況に何度か遭遇した経験はある。しかも塩釜で生活をしていれば、宮城県沖地震の危険性は十分念頭に置いていたはずだった。だが、今回のこの津波というものは違った。目の前で車が、観光船が、家屋が押し流されていく。想定、想像をはるかに超えていた。船がもう少し遅かったら、もう少し島に残っていたら--私は間違いなく津波に巻き込まれた。捜索される側になっていた。その事実に背筋が寒くなった。

 津波第1波は30分ほどで引いて陸地が現れた。その時私は、約1キロ離れた塩釜市役所に向かって走った。常々市の担当者から「高台にある市役所周辺は比較的安全で、災害時の対策本部、避難所になり、情報も集中する」と聞いていたからだ。記者としての本能が働いたのかもしれない。少しでも高いところを目指して走った、走った。あんなに懸命に走った経験はない。ゼイゼイ息を切らして市役所にたどり着いた私を見て、顔なじみの市幹部が「なんて無謀なことを!」と笑顔で怒った。津波はその後、夜になっても襲来した。

 この日から、避難者と一緒に市役所に寝泊まりして取材を続けた。通信手段がない。原稿は紙に書き、写真データとともにタクシーを呼んで仙台市の支局に運んでもらった。津波被害のひどさを痛感する日々。命も、形ある物も、形なき思い出も記憶も、すべてを一瞬に押し流してしまうので残酷だ。

 14日には隣町・七ケ浜町の菖蒲田(しょうぶた)浜に足を延ばした。息をのんだ。太平洋を望む約500戸の集落が壊滅している。40年前、仙台での学生時代から親しんだ東北有数の古くて美しい海水浴場と漁村が、跡形もなくガレキの原と化していた。改めて、外洋に面した地域の被害の大きさを思う。私のいる塩釜は、入り江の奥深くに位置していたため、他の地域より被害は比較的少なかったようだ。わずかな地形の違いで分かれる生と死。これも津波の残酷さなのか。

 15日夜には電気だけ復旧し、市役所に近い家に戻った。単身赴任。室内は散乱していたが、電気ごたつに入って人心地ついた。通信回線も17日に復旧、送稿手段も確保できた。

 震災11日目。ストレスのためか出血性胃潰瘍で、市立病院に入院するハメになった。「ここ一番、この大事な時期に……」と歯がゆいが、すべて体と相談の上、と観念している。

 震災直後、石原慎太郎・東京都知事が「天罰」発言をした(翌日謝罪し、撤回)。もし心に思ったとしても、口に出していいことと悪いことの判断をすることが、人間らしい最低限の品格ではないか。東北の人々はどう受け止めたか。東京電力の原発がなぜ福島にあるのか、という素朴な疑問もわいてくる。もちろん私は日々、圧倒的な人々のたくましさと優しさと善意と絆に接し、取材している。縁あってこの地にいる以上、塩釜に宮城にそして東北にトコトン寄り添っていくつもりだ。

 ◇東京から水戸、仙台、陸前高田へ 感じた恐怖、抱いた葛藤--東京社会部・井上俊樹記者(39)

 被災地へ向かうよう言われたのは、地震発生から1時間余りたった午後4時ごろ。直ちに同僚記者と車に乗り込み、東京の本社を出発した。先行するチームが仙台市に向かったため、我々は北関東を目指したが、途中で被害がひどそうな水戸市に向かう。当初、本社でも被災状況はよく分かっていなかった。水戸に着いたのが午後11時。さらに仙台に向かえとの指示が来る。このころになってようやく、岩手県沿岸でも大きな被害が起きていることが判明しつつあった。

 海岸線の道路を避け内陸の一般道を夜通し走り、仙台市内の支局に到着したのが翌午前6時ごろ。東京からまっすぐ北上した先行陣が大渋滞に巻き込まれたため、大回りした私たちが最も早く仙台入りできた。それでも本社からノンストップ14時間の強行軍だった。

 今回の取材で最大の誤算が、地震発生から数日、携帯電話が全く通じなかったことだ。日ごろ私たちが出先で原稿を書く時、パソコンに携帯電話をつないで送稿する。携帯が使えなければ公衆電話や固定電話で原稿を読み上げたりするのだが、発生直後の被災地では公衆電話もダウンしていた。本社には衛星電話もあるのだが、数が少ない。「取材しても記事を送れない」という事態に直面した。

 しかも、道路網の寸断で新聞輸送に時間がかかるため、締め切り時間は大幅に繰り上がっている。このため私たちは当初、沿岸の被災地での取材を午後4時には切り上げて、電話が通じる仙台支局などの取材拠点に大急ぎで戻らなくてはならなかった。

 携帯電話が通じないことは、自分たちの安全を守る上でも問題だった。岩手県陸前高田市で取材していた14日午前、「三陸沿岸に津波が近づいている」という情報が流れた。テレビでさかんに「高台に避難するように」と警告していたという。これをまったく知らなかった。会社や家族が送った十数回の警告メールなどを、私の携帯電話が受信したのは数時間後だった。実際にはその津波はなかったが、後で聞いてぞっとした。

 被災地はまるで、写真でしか見たことのない原爆投下直後の広島のようだった。どこまでも続くがれきの山。メモ帳とカメラを手に夢中で歩くと、コンクリートと鉄骨をむき出した3階建てのスーパーの近くに来ていた。買い物中に津波に襲われた人たちもいるのだろうか。自らの想像に気がめいる。ふと、ぎしぎしという不気味な音が頭上からする。崩壊寸前の壁が強風で揺れていた。この時になって初めて、自分がかなり危険な場所に立っていることに気づいた。「引き返そう」。急に恐怖を感じ、同僚に声をかけた。速足で現場を後にしながら、つい後ろを振り返ってしまった。

 被災者の遺体を、いったいいくつ見ただろう。初めて経験する衝撃的な光景だった。記者の習性で思わずカメラを向けたが、その前で泣き崩れる遺族を見てシャッターを押す勇気はなかった。まして声をかけることはできない。取材記者としてこれでいいのか。恐らく今この瞬間も、多くの記者たちが同じ葛藤を抱えているはずだ。すべてを失った被災地や被災者とどう向き合っていけば良いのか。自問し、苦しみながら、これから何年にもわたって、被災地とかかわっていかねばならない。

毎日新聞 2011年3月28日 東京朝刊

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