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[26404] 【習作】放課後の仲間たち(けいおん・オリ主・男の娘)
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/09 00:13
 初投稿になります。
 もともとフォレストの方で連載しておりましたが、こちらで皆様方からのご指導がいただけたらなと厚かましい狙いで投稿することにしました。
 文才は無いです。もっともっと鍛錬が必要な作者なので、遠慮なく忌憚ない意見をいただければ幸いです。
 純粋に面白くない、というような意見でも結構です。

 尚。けいおんに男性のオリキャラを加えた二次小説になりますので、苦手な方もいるかと思います。
 原作の形で上手くまわっている中に無理矢理オリキャラを投入する事への違和感が感じられるかもしれませんので、あらかじめご了承ください。


 ※「いつか眠りにつくまでに……」というサイトで連載しておりました。
 URLリンクなど貼ってよいか分からないため、オリ主の設定絵など見たい方はそちらにどうぞ。 



[26404] プロローグ
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/08 12:45

 桜舞う季節。花冷えると言われるこの時期の清々しさ、それに騒がしさを密かに孕んだ朝の静寂な空気。
 それらを胸いっぱいに吸い込んで歩く一人の少年がいた。
 鮮やかな桜並木の通りの中、黙々と歩みを進める少年は、そんな世界の有り様など気にもかけていないかのように視線を下げている。
 ひたすら俯きながら、足下の虫の一匹でさえも踏むまいかとしているかのように。
 少年は美しかった。
 日本の学校に用いられる制服と判る装いをしているが、この国では彼のような容姿の者が日本の制服を着ていると目立つ。現に彼とすれ違う中には「おや?」と首を傾げる者が大勢いた。
 肩より伸びた光沢のある髪の色は漆黒が燃えているかのよう。形の良い腰からまっすぐに伸びる細い脚。すらりとモデルのようなスタイルで颯爽と歩く姿はその場の風景を一枚の絵画のように彩っている。
 やがて少年はうつむいた顔をようやくあげる。
 そこには西洋的な彫りの深い、端整な顔があった。肌は陶器のように白く、職人が磨き上げたような滑らかさが光る。すっとした鼻梁、ぱっちりとした二重まぶたの瞳はサファイヤの青。
 花もあざむくばかりの美女―――ではない。男物とはっきり分かる制服を着ている。
 彼を呆然と見つめる人々の中には、彼が着ている物とデザインが似通った制服を纏う少女たちが何人もいた。
 その大方の者が一様に彼に視線を奪われて、吐息を洩らす。

「……今の人、見た?」
「見た。外国の子……だよね?」

 そんな会話が端々でなされている事など知らず、いまだ彼は歩みを止めない。目的地へ向かうまでに彼が周りを気にかけるそぶりは一切見られない。
 それからしばらく歩き、やがて彼は目的の場所へ辿り着いた。
「桜が丘高等学校」
 東京にごく近い、いわゆる郊外と呼ばれる地域に門戸を構える由緒正しき私立の高校である。真新しい制服を着た生徒たちが、チラホラと広く構えられた校門を通り抜けていく光景が目の前にある。
 校門の前に佇む少年の顔はどこか憂いを帯びていた。さらりとこぼれる髪を一房さらい、これから足を踏み入れる校舎を見上げた。
 そして少年の喉から外見にそぐう鈴を転がしたような佳音がこぼれる。
「ヤンキー……いないかなあ」
 深い溜め息と共にぽつりと漏らした。

 この少年の名は立花夏音。彼は人と少し異なる人生を送ってきた。
 彼には才能がある。素晴らしい音楽を紡ぎ出す天賦の才。常人には持ち合わせない感性をもって、それを生業として生きる類の人間である。わずか十七歳で、世界最高峰のベーシストの一人と言われる黒人ベーシスト。クリストファー・スループのファミリーの音楽一家の一員として、プロの音楽家として世界に名高い功績を挙げている。
 彼は一年前まで、確かな栄光を背負って輝かしいステージの中に生きていた。アメリカ全土にその名を轟かせただけでなく、世界にまで広く存在を刻んだはずだった。
 そんな彼がどうしてこの場所に立っているのか。
 原因はあまりにも多く、深い。
 どこを原因と呼べばよいのか。どこからが始まりであるかは実に定めがたい問題であったのだが……あえてここで言うとすれば一つ。

 ヤンキーであった。


 夏音の父親は、世界をまたにかけるプロのドラマーである。その昔、渡米したばかりの彼はアメリカ人の母と電撃婚を決め、夏音が生まれてからはずっとアメリカを拠点に活動してきた。
 しかし、ある日を境に彼の故郷である日本に帰りたいと言い出したのである。突如たる心変わりに当然のごとく周囲は揺れ動く。
 結果として、既にプロとして経験が長かった夏音も、とあるメーカーとの契約更新に待ったをかけることになった。
 これは決して転勤の多いお父さんに迷惑を強いられてきた子供の物語……などではない。

 ある日、父は気軽な態度で息子に問う。
「夏音………日本、行かなーい?」
 息子、答える。
「いーよー」
 という具合に、周囲のパニックも何のその。一家そろって放たれた矢のごとくアメリカを飛び出してきたのだ。

 見た目はまるっきり白人の夏音であるが、日本とアメリカのダブル。両親、特に父親の教育方針によりしっかりとした日本語を身に付けていたおかげで会話に苦労することはなかった。これといった問題もなく日本の高校に転入するこができたのである。
 未だ経験したことのなかった日本の高校生活がいかなるものか。胸をドキドキいざ踏み出そうとしていた矢先のこと。
 手を抜いて、投げやりな基準で選んだ転入先の学校は、地元では有名な不良校。
 時代錯誤も甚だしい古今東西のヤンキーの巣窟であった。
 とはいえ。いつの時代も女子というのはミーハー根性上等の生き物である。お人形のような容姿の転校生は瞬く間に女生徒から人気が出る。
 ちやほやされて悪い気分がするはずもない。夏音はすんなり日本の学生生活に溶け込めたと意気揚々としていたのだが。
 そこにヤンキー。
 不幸なことにヤンキー集団の頭に目をつけられてしまった。その頭がゾッコン夢中だった女子生徒が夏音を可愛がるようになったからだ。もちろん、彼女も男女間の感情を持っていた訳ではない。それは女の子がお気に入りの人形やペットを愛でるような感情だったのだが、そんな事は関係なかった。
 頭の勘に障った。その時点で、夏音はアウトだった。
 短い期間で、夏音は地獄を見るハメに。
 日本では古よりヤンキーと呼ばれるギャングがいるという噂が本当だったのだと痛感した夏音は、入学して一ヶ月も経たないうちに登校拒否を決め込んだ。
 こうして眉目秀麗なダブルの少年は、日本で生活を始めた早々にひきこもり生活を余儀なくされるのであった。

 ひきこもりの上に、どこをどう間違えたのか。彼は日本のサブカルチャーに広く深く触れてしまい、世間でo.t.kと呼ばれる人種へと昇華してしまった。
 基本的に放任主義で楽天的な立花夫妻も、さすがに一転してプロのミュージシャンから、不登校オタクへと変化した息子を放置しておくのはまずいかもしれない、と考えた。
 ちなみに、この夫妻がその考えに至るまでに一年の時間を要した。

 説得には夏音の母であるアルヴィが行った。
「夏音ちゃーん。ちょっといいかしら~?」
「何だい、母さん?」
「あなたもそろそろ学校生活を再開してみる気はないの?」
「…………母さん」
「ママ、夏音に何があったかはわかるわ。でもねずっとこのままの状態も良くないと思うの。だから別の高校に行ってはどうかしらって思うの」
「………俺もそろそろかなと思っていたんだ。日本は素晴らしい。俺だってやれるに違いないんだ。とら〇らとか、ハ〇ヒとか、らき〇すたみたいな高校生活を送れるはずなんだ。リア充ってやつになれる可能性は俺にもあるんだよね!?」
「もうあなたが話してる事が理解できないけど、そんなことはいいの………わかってくれたのね夏音!!!」
「イェー、マム!!」
 母と子は、かたく抱き締めあった。
 思えば、親子がこうして抱き合うのも久しぶりのことであった。少し放っておいた内に我が子の脳内に巣くい始めた新たな知識など母は知るはずもなかった。
 一年という歳月により、さらに日本のサブカルチャーによって頭が毒されてしまった夏音少年であったが、こうして心機一転して十七歳という年齢で高校一年生をやり直すことになったのである。


 夏音は数分間のうちに、ここに至るまでの回想を終えた。
 今日、ここ私立・桜ヶ丘高等学校では入学式が行われる。

「女の子ばかり……どうやら、本当にヤンキーはいないんだね」

 このことは、まさに話に聞いていた通りで夏音は胸を撫で下ろした。
 母の話では、去年までこの高校は女子校だったらしいのだが、昨今の生徒数の減少。古い木造の校舎にかかる補修費等の問題で、今年度から共学に変わったのだそうだ。
 その際には、学校側によってあらゆる水面下での活動努力があったらしいがその甲斐むなしく、目標数の男子生徒の入学は得られなかったらしい。
 そのような事情のもと、上の二学年はまだ女子生徒しかいないし、男子生徒は少ないという両親が見つけた最高の学校の環境は、トラウマを抱える夏音でも安心なものとなっていた。
 再度、周りを見渡しても男子生徒の姿は確認できない。
「いける……今度こそ、俺はリア充になれるんだ」
 この“リア充”という単語は、彼がこの一年で覚えた日本語の一つである。
 「今度こそ」と言っているが、一年前の彼は純粋に日本の高校生活を楽しもうという希みを抱いていた一般人の思考を持っていた。日本の文化、恐ろしや。

「それにしても、早く来すぎちゃったかな」

 校舎の側面に付いている時計の時刻を見て、苦笑した。
 かといって、することもない。
 入学のしおりには、入学式当日で新入生はまず教室で待機ということだ。教室へ向かおう、と決めた夏音は自分の所属クラスを確認して上履きに履き替えて教室に向かった。

 夏音は静かに開けた教室のドアをくぐってそろりと教室に足を踏み入れた。
 一人きりの教室。
 窓明かりに浮かぶ教室。
 整頓された机。微かに埃っぽさ。
 夏音には、それがとても新鮮に感じられた。
 これが日本の学校、教室。

 早朝のこの独特な雰囲気はなんだろうか。何か、味わったことのない感覚に胸がきゅっとなる。
(以前はゆっくり味わう暇なんかなかったしな…………ううっ)
 思わず夏音の頭に暗黒の歴史が思い浮かび、ブルリと寒気が走った。
 すぐに頭をふってそれを打ち消す。足を進めて大きく教室を横切り、窓際に近付いてみた。窓から見下ろすと、チラホラと登校する女子生徒たちの姿。
 夏音は窓を開けて、窓際に腰をかけてその光景を眺めた。
 爽やかな風がふわりと入り込んできて、頬がゆるむ。
 あの人たちの中に、自分と仲良くしてくれる人がいるかもしれない。
 はたまた、この中の誰がいつフラグとやらを立ててくるのか…………夏音はぶるりと武者ぶるいをした。



 日本人形のように長い髪を揺らしながら、一人の女子生徒が歩いていた。
 少女はこつこつと音を鳴らしながら、真新しいローファーでアスファルトを踏み歩く。
 少女の胸には、期待と緊張を胸の中で跳ね回っていた。目の前には、入試の時以来の校門。
 すぅ。深呼吸。深く息を吸ってから桜高の校門をくぐった。
(私もいよいよ高校生か……高校生……コーコーセーコワイ……いや、でも何かとても大事なものを見つけたいな。見つけられるかな……その前に人見知りな私に新しい友達とかできるのかな?)
 校舎までの道をそわそわと歩きながら複雑な表情をしたり、はたまた笑みを浮かべたりと忙しない彼女であったが、ふと、どこからか視線を感じた。

 顔をあげると、二階の教室からこちらを見つめてくる人物がいた。

 少女は自分の足が止まっていることにしばし気付かなかった。

(綺麗な人……)

 一も二もなく心の中でそう漏らした。実際には、小さく吐息が漏れた。
二階のどこかの教室の窓からこちらを見下ろす人。
 風に梳かせている髪は遠目にもさらさらとツヤのある絹のようなさわり心地を想起させる。職人が丹精込めて造り上げた人形にそのまま生命が宿ってしまったようであった。
 今までの人生でお目にかかったことのないくらいの美人。
(瞳の色が………青、なのかな?)
 少女は気付かずにその人のことをまじまじと見つめ返してしていた。
 それからすぐに自分を取り戻す。
(け、けど何でこんなに見られてるんだーー!?)
 視線そのものが熱を帯びているようだ。


 一方、夏音は自分の視線の先にいる黒髪の長い少女を見つめながら感激していた。

「すげー。ジャパニーズ人形みたいだね」
 少女は顔を真っ赤にして、つんのめるようにして校舎に入っていった。
  


 日本の学校の独特のベルが鳴り響く。
 日本における夏音の人生二度目の入学式が終わり、下校の時刻となった。
 慣れない行事を終え、どっと疲労が襲ってきた。凝り固まった肩をほぐしながら校舎の玄関を出たところ、やけに活気がある声が行く先を阻んでいた。
 見ると校舎から門までの空間に人がひしめき合っていた。
 桜高では毎年恒例の、部活勧誘の光景だ。一斉にビラを配る彼女たちの熱気が新入生を圧倒している。
「茶道部に興味はありませんか~?」
「柔道部ーー」
「見学やってまーす」
「そこのあなた、演劇に興味は!?」
 あちこちで勧誘を呼びかける大声がひしと飛び交っている。
「部活……部活か」
 夏音は部活には入ったことがない。変わった部活に入ってみるのも一興かもしれない。そう考えたところで、彼には録画していた深夜アニメの事を思い出した。
「いけない。忘れていた」
 上級生たちによる下級生めがけての押すな押すなの勧誘の中をきびきび走り抜けた夏音はさっさと帰路についた。
 通学路を歩いていると、早くも新入生同士で帰っている生徒がちらほら。
 自分に一緒に帰ろうと話しかけてくれる人はいなかった。
「あの外国人キャラで通してもいいのかな。掴みとしては最高だと思ったんだけどなー。そういう作品だと大抵……うーん、おかしいなあ」
 


 夏音に日本人形のようだ、と内心で評されていた少女――秋山澪は学校からの帰り道をぼーっと歩いていた。
 今朝、窓際から目があった美女―ーこれが驚くことに男であった――と同じクラスになったのである。
脱兎のごとく校舎に飛び込んだ彼女は、息を整えながら自分の教室へ向かっていた。
 教室へ近づくほどに、もしかして先ほどの美人さんがいた教室に近づいているのではないか。あげく同じクラスではないだろうかという考えがわき起こってくる。
 具体的に何かしでかした訳ではないが、何だか恥ずかしいところを見られてしまったような気がしたのだ。顔を合わせるのが恥ずかしいくらいには。
 歩いているうちにそんな妄想が止まらず、心臓がどきどきと鼓動を増してくる。
 いざ教室の扉を開けると、数人の女子生徒たちが離れて机に座っていただけで、その姿は見当たらなかった。
(もしかして、隣の教室だったのかな)
 まだ校舎の地理や位置関係を把握していないだけに、勘違いをしていたのかもしれない。
(な、何を焦ってたんだろうな)
 ガッカリしたような、ほっとしたような心持だった。 
 と思っていたのも束の間。
 初めて顔を見る担任が時間より早く教室に入ってきたところで、生徒もほとんど揃っていた。
 その頃、社交性のある生徒などは初対面であるにも関わらず、すぐにも後ろや隣にいる生徒とおしゃべりを始めていた。
 ざわざわと騒がしい中で、澪も小学校のころから一緒の親友・田井中律との他愛もない話に興じていた。
 ふと律が教室の入り口の方に顔をやってから、興奮して澪の肩を叩いてくる。
「なあ! 今入って来たヤツ見たか澪ー? 外人だよ外人!」
 呼吸が止まりそうになった。
「うわーあの顔で男なのか……ほんとにいるんだなーああいう人」
「あ、あ、あの人……!!」
 今朝の美人、来襲。
 実際に襲ってきた訳ではないが、その人物の登場はよほどの衝撃を澪にもたらした。
「ん、なに知り合い?」
 澪の過剰な反応を見た律は、澪のくせにめずらしーなとがっつし興味を惹かれたように目を丸くする。
「い、いや! 外国の方かなぁーと」
「本当の外人がこの学校に入学するわけねーだろ」
「そ、それもそうか。ダブルなのかな」
「むぅー? そんな気になって……も・し・か・し・て?」
「違う! バカ律!!」
 決してそんなつもりではない。澪は全力で否定したつもりだが、そんな態度が逆効果になって。
「ムキになるところがあーやしーなー」
 額に青筋を浮かべた澪は、すみやかにその口を黙らせた。
 こんなやり取りも、この目の前の幼馴染とは慣れたものだ。不本意ながら、彼への意識はそんなやり取りに埋もれてしまった。


 入学式を終えてHRの時―――。
 
 どの時代、どこの学校でも必ずといってあるお決まりの自己紹介の時間があった。
 1・名前
 2・出身
 3・趣味
 などをその場で立って発表するというものだ。
 澪は自分の自己紹介を終え、他のクラスメートが順繰り自己紹介をするのを緊張して聞いていた。彼の番が近づいてきた。 
「カノン・タチバナ、デス。アー……アッメリカからやってキマスタ。ヨロシクオネガイシュマ……あっ……ス」
(片言!!?)
(外国人……)
(やっぱり帰国子女とかかな!)
(きれい……)
 その容貌から目立ちまくっていた彼が喋り終えると教室中の人間がいっせいにどよめいた。
 澪も例に洩れず、唖然としてしまった。
 そんな生徒たちの反応を見て、担任がすかさずフォローをいれた。
「あぁー、立花君はいわゆる帰国子女ってやつだ……が、こんなに日本語できなかったっけな……まあ、日本についてまだ不自由な点が多いだろう。みんなで助けてやってくれ」
 それで皆も納得したようで、その場の空気は流れかけようとしていた。
 彼が自己紹介を終えて、座ろうとしたところで担任が彼に声をかけた。
「あ、趣味を言うのを忘れとるぞ。あー……テル・アス・ユア趣味~……しゅみ……あっホッビー!」
 担任のぼろぼろの英語に反応した彼は、「hobby?」と呟いてしばらく考えた後。
「Music, thank you」
 と言って座ってしまった。その後、まばらな拍手。
 最後の一言に澪はどうしようもなく反応してしまった。
 趣味が音楽、ということは楽器をやっているともとれるし、聴く方専門ともとれる。
 どちらにしろ、アメリカで育った彼の音楽の嗜好はどんなものなのか。
 いつか、そんな話ができるかなと澪は思った。



「立花夏音……か」
「澪~? ちゃんと聞いてんのかー?」
「あ、あー聞いてるよ。苗字にゲイって入っている外人の悲愴な人生についてだろ?」
「ちげーよ!! それ、さっき話したやつ!」



[26404] 第一話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/09 01:51
 夏音は自分がアメリカの土を最後に踏んだのはいつだったかと思い返す。彼が日本にやって来てから既に一年以上が経つ。随分と遠い国に来たものである。人生の九割以上を過ごした場所から遙か遠くに位置する小さな島国。些細な事からその生活に不安を感じることもある。
 習慣、文化間のギャップ。人によっては異国間の些細な違いが時には多大なストレスになることもあるという。
 しかし、彼にとっては些末ごとに過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。
 彼が日本で暮らす中で悩ましい事と言えば、今でもこちらの時差を考えずに電話を入れてくるエージェントに他ならない。
 あまりにしつこいので辟易としてしまい、電話がかかる度にぺらぺらと言葉をまくしたてて、煙に巻かなくてはならない。口ばかりが上手くなってどうするのだろうか。

 さらに新生活とか節目の時期には多くの変化が巻き起こる。夏音が私立・桜ケ丘高等学校に入学してから一週間と数日が経ったところである問題が発生した。

 まず、両親が出て行った。
 別に家庭崩壊という危ういキーワードはここでは出てこないので安心して欲しい。

 ある日、珍しく全員がそろった夕食の席での事だ。

「夏音も日本にはだいぶ慣れたよなー。ということで、またちょくちょくいなくなるから」
 から揚げを頬張っていた夏音の父、譲二がふと真剣な表情で箸を置いてそう切り出すと、母のアルヴィがにこやかにこう添えた。
「うふふーママもパパについていくのよー」
 夫大好き人間の彼女のことだ。
「そりゃ、そうだろうね。俺は心配ないからどーぞいってらっしゃい」
 夏音は別に両親がいつ出て行こうが大して慌てる必要もないので、冷静に切り返した。そもそも、日本に来て家族で一緒に過ごした時間も多いとは言えない。もともと仕事の関係上、一般の家庭比べて家族団らんの時間は限られる。わざわざ今さら断るような話でもない。
 家族の暗黙の了解なので、二人にとってもこれはただの報告でしかないのだ。
 夏音に流れる血の本家大本の両親が音楽無しに生きていけるはずがない。自分にも言えることだが、彼らの場合は次元が違う。
 彼らは仕事としてではない、いわば趣味の域などでおさまるような類の人間ではない。趣味の範囲で出会えるような人々では満足たり得ないのだ。
 やはりあのステージに。限られた者がのぼることのできるあのステージにいなくてはならない。
 だから、ここで彼らを引き留めるという行為ほど無駄なことはないのだ。
 加えるなら夏音はいつでも一人暮らしを開始できておつりがくる程度の家事を叩き込まれているので、衣食住にいたっての心配も皆無だった。
 それでも唯一の気がかりといえば。
「じゃあさ。あのドラムとか持っていったりするかな?」
「いーや、あれはお前が好きに使っていいよ」
 なら、問題はなかった。夏音は家族共有のスタジオに設置されてあるドラムセットがお気に入りだった。

 翌朝、夫婦は文字通り飛び立っていった。
「アディオス、息子よ!」
「元気でねー! 電話するからねー」
 よく晴れた爽やかな早朝に、いつもエネルギー全開の両親の声が閑静な住宅街に響いた。
 寝巻き姿で、寝ぼけ眼のままそれを見送る夏音。
「アーーチュ!!」 
 くしゃみをしても一人。


 何より問題は二つ目だ。友達ができない。
 夏音は人間、第一印象が大事なのだということを誰よりも深く肝に銘じていたはずだった。過去の痛い経験も新しい未来へ進むための定石となれば良い。
頑張って、友達をつくるぞ。
 そんな決意を新たに踏み入れた高校生活アゲイン。
 入学式の自己紹介を終えて以降、日本語があまり話せない帰国子女という位置に落ち着いてしまった夏音は、クラスでも浮いた存在になってしまった。孤立ともいう。

「俺って奴は……また、やっちゃったのか」

 クラスメートはこちらが挨拶をすれば、しっかり同じように返してくれる。最初の方は好奇心もあってか、数人で夏音を取り囲むこともあった。
 しかし、夏音がしょっちゅう言葉に詰まったり、すぐ英語で問い返したりするようになると、相手はきまって「あわわわわ……」と狼狽えてから、おぼつかない英語で「パードン」か「ソーリー」ばかりだ。すごくバツの悪そうな表情で言うものだから、夏音の方こそ罪悪感マックスである。
 しかし、夏音には何よりも不可思議な点がある。会話する時、じーっと相手の目を見詰めると大抵の相手は顔をそらす。夏音は皆が何で自分と目を合わせてくれないのか不思議だった。
 前の学校でも。道行く人でさえも。会話する相手に対して失礼な話である。
 もちろん中には非常に気立てがよく、いわゆるノリがよい者もいてむちゃくちゃな英単語の羅列を駆使して会話を成り立たせてくれる者もいた。
 加えて大方の教師陣は授業中に夏音を指名するのを避けているようなのだ。「あ、その問題わかるぞ」と夏音の瞳がきらりと光ると、存在を無視される。揃いも揃ってそれが暗黙の了解のように。
 それだけなら、まだいい。
 そんな孤立した学校生活のなかでも、際立ってランチタイムが厳しい。
 日本の生徒は、与えられた自分たちの教室内で机をくっつけ合い、グループを形成して弁当を食べる習慣があるようだ。
 もちろん夏音はその輪の中に入ることができず、かといってぽつんと教室の隅で一人さびしく弁当をつっつくしかない。はっと思い立ち、アニメなどで必ず出てくる憧れの屋上はどうだと向かうと、施錠されており立入禁止であった。屋上は孤立した生徒の味方ではなかったと現実を知った。
 そんな馬鹿な。こんなの予想外である。自分は何一つ悪い事はしていないはずなのに。
「友達作る才能がないのかな……」
 その前に根本的な部分に気付くべきなのだが、彼がそこに気付くことはなかった。
 アニメや漫画のようにはいかない現実の難しさを身に染みて痛感した夏音であった。

 そんな中、夏音は周りの生徒たちの多くが部活動という単語を話題に出しているのを耳に挟んだ。そういえば、と思い出す。
 スポ根ものに代表されるように、日本の学生生活では部活動が割と重要な部分を占めるらしい。どこの学校も強制ではないが、生徒に何らかの部活をやることを勧めており、学校によっては強制的に部活に入らなければならない所もあるそうだ。
「ねえ、姫ちゃんどの部活はいったー?」
「一応ソフト部に仮入部した」
「えーマッジー? きつそー!」
 などという会話が端々で発生している。夏音は耳をダンボにしてそれらの会話をとらえた。
 部活動。そこでは、クラスとは別の集団が形成されている。
 つまり、また一から自分を出していける機会がそこにはあるということだ。
「部活か……。やっぱり入ってみようかな」
 そういえば、夏音は入学式に大量に配られたプリントの中に小冊子になって文科系、体育会系の全部活動の紹介が載ってあるものがあったのを思い出した。そして、いらないプリントと一緒に燃えるごみの日に出してしまったことも。
「ちゃんと確認しないで捨てちゃったからな。職員室にいけば、くれないかな」

 善は急げという。夏音は職員室に出向くことにした。決して狭くはないが、全教員が一つの部屋に詰まっているという職員室。くさい。コーヒーの匂いが充満している室内に入ってクラスの担任の姿を探す。
 夏音がきょろきょろしていると、メガネをかけた女性の教師が話しかけてきた。
「あら、誰かに用事かしら?」
 こちらを警戒させない柔らかい笑みを向けられ、夏音はこの人でも良いかと用件を話した。
「部活紹介の冊子が欲しくて」
「なくしちゃったの?」
「……捨てちゃいました。あ、きちんと資源ゴミですよ」
 決まりが悪そうに言うと、その女性はくすりと笑ってすぐにプリントを探してくれた。
「よかったわー余っていたみたい。はい、これでいい?」
「あ、それです。ありがとうございます。あ~、Ms.名前は?」
「山中さわ子よ。主に音楽を教えているの。ちなみに吹奏楽部の顧問をやっているから、興味があったら見学に来てちょうだいね?」
「ええ、ぜひ」
 夏音は笑顔で冊子を受け取ると、さわ子が「あら?」と夏音の手をじっと見て口を開いた。
「もしかして、あなた楽器とかやってる?」
「はい? やっていますよ。わかりますか?」
「まあ、手を見ればねぇ……ハッキリしてるしあなたの場合。ね、ひょっとしてベースとか?」
 夏音は面食らった。手を見ただけで、楽器まで見抜かれてしまうとは。確かに分かる人にはその人の手を見ただけで察してしまう人もいるかもしれない。
「ご名答です。山中先生も何か楽器を?」
「え、ええまあ。それじゃ、私は仕事があるから」
「お時間とらせました。失礼します」
 やけに焦った様子の彼女を不思議に思いながら職員室を出ようとした時、ちょうど職員室に入ってきた生徒が目に入った。同じクラスの女子である。
 夏音は思わぬところで遭遇したことに目を丸くした。向こうも同じように目を丸くして瞬かせた。
 双方が黙ったまま、しばらく見つめ合う。
「ハイ」
 夏音はとりあえず挨拶した。
「ハ、ハイーー!!?」
「オイ澪、テンパりすぎだ」
 髪が長い方の泡を食ったような反応に片方がつっこむ。夏音は面白い人たちだ、と笑みを零しそうになった。
「失礼」
 夏音はどうせ会話もないだろうとそのまま二人の間を横切って職員室を後にした。

「あのハーフくん。何の用だったんだろうなー」
「さあな……あ、律。今はダブルって言った方がいいんだぞ」
「ふーん」
 少女達はまだ話したこともないクラスメートの後ろ姿を目で追っていたが、彼が扉の向こうに姿を消すと本来の用事を済ますことにした。
 

「え……廃部……した?」
 カチューシャをつけた利発そうな少女――田井中律はたった今告げられた事実に愕然とした。
「正確には、廃部寸前ね。昨年度までいた部員はみんな卒業しちゃって。今月中に五人入部しないと廃部になっちゃうの」
 おっとりとした雰囲気を崩さず、さわ子は気の毒そうに言った。
「だから誰もいなかったんだ、音楽室~」
 ひどく落胆した様子の律の悲痛な声が地面に落ちる。さわ子は彼女にかけるべき言葉を口に出しかけたところで、自分を呼びにきた生徒に気付いて時計を見た。
「ごめんね。次、音楽の授業あるから……」
 そう言って席をたつと、最後に思い出したように二人の方を振り返った。
「そういえばさっき話していた綺麗な子、知り合いかしら?」
「え。あのダブルの人ですか?」
 先ほどから興味なさそうに後ろで立っていた長髪の生徒―――秋山澪―――が咄嗟に反応した。
「そう。彼、楽器をやってるみたいよ。校内で見かけたら誘ってみればいいんじゃないかしら。それじゃあ頑張ってね、軽音部!」
 残された二人は思わず顔を見合わせた。

 職員室を出た後、興奮した口調で律が澪の肩を揺する。
「あの人も楽器やってるんだってさー。何の楽器やってるんだろうな」
「でも、数にいれても二人足りないだろ……よし、やっぱり廃部ならしかたないな。私は文芸部に入ると――」
 澪がほっと胸を撫で下ろした様子で親友を置いていこうとした瞬間、律が澪の首に強引に手をかけた。
「な、なあ澪。いま部員が一人もいないってことは、私が部長……? 澪は副部長かなー?」
 澪は「悪くないわねーふふ」などと調子に乗っている友人に悪い予感がした。大抵、こういう目をした彼女の側にいると良い結果にならない。主に自分が。
「だ、だから私はまだ入ると言っていないぞ!」
そして、えいやと律の手を外して逃げた。
 

 その日、授業がすべて終わってからすぐに帰宅した夏音は、自宅の居間のソファでくつろぎながら受け取った小冊子のページをめくっていた。
 どうやら文科系、体育会系と様々な部活動、同好会が桜高にはあるようだ。
 漫画研究会、オカルト研究会、ミステリー研究会。
 茶道部、華道部。
 テニス部、ソフトボール部。
 合唱部、アコースティック同好会、ジャズ研究会、軽音部……。
「ん……けいおんぶ…? なんだろこれ」

 軽い音楽……。

「light musicのことか?」
 中でも、引っかかった見慣れない言葉。
ジャズ研と分けられているくらいだ。ロックテイストなバンドをやるなら、ここなのだろうか。
「バンドか」
 夏音はまったく同年代の子供たちとバンドをやるのはどうなのだろうと想像をめぐらした。学校の友達同士で気軽に楽しく音楽に興じるのも面白いかもしれない。少し惹かれた。
 けれど、少しばかり罪悪感が生まれる。色々なものを振り切ってプロとしての活動を自粛している自分が暢気に軽音部に所属してもよいのだろうか。
 俺は何をやっているのだと、向こうで共に育った友人に怒られないだろうか。これでベースの腕がなまった等とブチギレられると目も当てられない。
 夏音はいかなる状況にあってもベースを弾かなかった日はない。ひきこもり最中も。むしろテクニックには磨きがかかったくらいだからその心配はないと思うが。
 万が一メディアに露出してしまった時の事を考えると、尻込みしてしまう悩みである。
「でも、気になる」
 ぱたりと小冊子を閉じる。
「週があけたら見学にでも行ってみるかな」


 そのころ、軽音部。
 軽音部を復活させようと活動していた二人は新たな仲間を獲得していた。合唱部に入ろうとふらっと音楽室へ迷い込んだ琴吹紬をくわえ込む事に成功したのだ。
「あと二人集めれば……いよーーし、やったるぞーー!!」
「律……でも、あと二週間で集まるかな」
「この際、楽器経験者でなくてもよいのでは? ボーカル、という形でもいいですし」
「まー、とりあえず部員はそろってないけど部としての活動はやってもいいよな!」
 久々にまともな発言をした友人に、澪もうなずいた。
「そうだな! そうとなると、月曜日までに機材を持ってこようか」
にこにこと会話を聞いていた琴吹紬――通称ムギ――が疑問を呈した。
「あ、でも二人ともそんな重いもの学校まで運んでこれる?」
「あー……台車とかに積めば……でも学校まではきついかー」
「あ、私もアンプも持ってくるとなれば少しな……」
「あの~。もしよろしかったら明日、私の家の方で車を出しましょうか?」
「い、いいのですか紬さま!?」
 翌日、それぞれの自宅に迎えにきた長い長い車を見た二人があおざめたことは別の話。

 

 夏音は少し憂鬱気味であった。
 週があけた。相も変わらず仲の良い友達はできない。

「立花君、あーー……この問題、解けるかなー? いや、解けるよな、うん。じゃぁ、田井中ーこの問題解いてみろー」
 代わりに、夏音の横にいる女子生徒が当てられた。
(かわいそうに、田井中さんとやら)
 授業中は大抵このような流れがパターン化してきた。
 夏音がまともに当てられるのは、英文朗読ぐらいである。
 ちなみに、今の授業は数学である。
 数学なんてものに言葉の壁はないだろうにと夏音はさすがに呆れたが、ままならないようだ。この教師はそのへんのことも考慮してくれないらしい。
「えーー!? 何で私が?!」
 そう言って、理不尽に当てられた彼女が夏音をにらむ。
(違う……田井中さんや。俺のせいじゃない。にらまれても困る)
 恨みがこもった眼差しはかなり居心地が悪く、夏音はすっくと立ち上がる。そのままクラスが見守る中、黒板に書かれた問題をすらすら解き、そのまま黙って席に戻った。
「せ、正解だ……正解だぞ立花!!!」
 数学教師は丁寧に拍手までつけてきた。
(俺は、猿か何かとでも思われてんのかな)
 憮然とした顔で席に戻った夏音は自分を睨んでいた律の様子を窺った。彼女は少し意外そうな顔で夏音を見つめてきた。 夏音は名前を知ったばかりの彼女にふっ、と微笑む。
(しゃーねー教師だよね。だからおねがいゆるして)
 という意だったのだが、彼女の頬にかっと朱が挿したかと思うと、むっとした表情をつくられ、ぷいっと顔をそらされた。
(な、何で!? 何ソレ! 日本人わかんない!)
 夏音には、いったいぜんたいどうして彼女が気を悪くしたのか理解不能であった。
 そこには、きっと誤解があるはずだ。後で聞いてみようと夏音は思った。
「はい、次この問題解いてみろー田井中ー」
「って結局当たるのかよっ!?」
 彼女の解答は不正解だった。 



 夏音は肩を落として廊下を歩いていた。
 結局、その後も田井中という少女に話しかけるタイミングはなかった。近寄ると肉食動物のような鋭い威嚇の目線を浴びせられるので、話しかけることはおろか近づくこともできなかった。
「またあんな流れになっちゃうのかな……」
 悪い予感しかしない。
 それでも気を取り直して放課後は気になった部活を訪ねてみたりしたのだが、どうもピンとくるものがなかった。話が合うかもと訪れたジャズ研究会も今日は活動を行っていないという始末。
 夏音は残された一つ。軽音部の部室へと足を向けていた。
 軽音部の活動の場は音楽室横の準備室らしい。校舎の最上階にあるらしく、一番階段を上らなくてはならない移動教室の一つだ。夏音は階段の手すりにある亀やウサギのレリーフを撫でながら、こつこつと階段を上っていた。
「おや?」
 階段の途中で、音が聞こえた。
 誰かが演奏している。
 夏音は急いで階段をのぼりきり、扉の向こうから聞こえてくる音楽に耳を傾けてみた。
 どこかで聞き覚えのある旋律。キーボードのぎこちないメロディラインとちぐはぐに絡み合ったベースとドラム。
「………硬い」
 全てが。でも、悪くはない。胸の奥をくすぐられているような気持ちになる。夏音が目を閉じて聞き入っていると、音が止んだ。演奏が終わったのを見計らって、扉を開けた。

「失礼しまーす」
 すると突然入ってきた夏音に視線が集まる。
「あーーー!! お前は! うちのクラスのたかびー外人!」 
 そこに待ち構えていた人物に、夏音は息をのんだ。
先程まで夏音の悩みの種そのものであった田井中がそこにいたのである。
 見るとドラムセットの椅子の上坐していた。今の怪しさ抜群のドラムは彼女が叩いていたようだ。
「が、外人じゃないです! 偉くしたつもりもないです」
 涙がこぼれそうになった。夏音は彼女が今も敵意の視線でこちらを睨んでいるように思えた。しかし、実際には戸惑いや驚きの入り交じった表情を浮かべて夏音をしげしげと見ていた。
「おい、律! いきなりそれは失礼だろ!」
 ベースを肩から提げた少女がいさめる。夏音は黒い長髪に切りそろえた前髪を揺らしている方にも見覚えがあった。
(お、この子は日本人形の子だ……)
 レフティのフェンダージャズベースを構えているその子は、クラスメートでもあり、入学式の時に窓から顔を出していた夏音と目が合った瞬間、とても機敏な動きで校舎に消えていった子であった。
 改めてよく見ると、少し釣り目気味だが整った顔はなかなか美少女というに足るルックスではないか。
「あの~。見学の方でしょうか?」
 続けてキーボードの前に立った柔和な雰囲気を持った少女が夏音に話しかけてくる。夏音は彼女の外見を見て、目を瞠った。自分に似た色素の瞳、薄い髪の毛。どこか親近感が湧くような容姿をしているではないか。
「ハイ……あー、ここは軽音部で合ってますか?」
「おい、ムギ! こいつあんまり言葉が……」
 夏音は「はぁ……」と溜め息を漏らした。
 ばりばり日本語を喋っていることに気が付かないのだろうか。外人キャラという先入観は人の認識まで障害してしまうのか。夏音の目が虚ろになりかけたところで、田井中が咳払いをこぼす。
「多少いざこざはあった奴ではあるが、入部希望者かもしれない、と。とりあえず……」
 三人は顔を見合わせた。
「う、ウェルカム!!! ティーオアコーヒー?」
「……は?」
(お茶かコーヒー?)
「とにかく、見学に来たんだよな!? ムギ、お茶の準備だ!」
「は、はいっ!」

 いきなり、お茶を振舞われてしまった。

 とりあえず、コーヒーは苦くて嫌いだったのでほっとした。


『じーーーーー』
 そんな擬音が目に見えそうなくらい凝視されていた。変な汗をかいた。顔に穴があくのではないか。
 彼の目の前には高級そうな白磁のティーカップ、その中になみなみと紅茶が注がれていた。
 とりあえず、彼は出されたケーキに目をやる。自然とフォークを持つ手がぷるぷる震えてしまう。
 異性に一挙動を注目されながら食べるケーキ、初めて。
 何とかしてケーキを口に運んだところ。
「wow......I love it!!」
 あまりの美味しさに素で驚いてしまった。小指をたてないように気を配り、紅茶の方も一口すする。これが、渋みが強くて見事にケーキに合うのであった。
「オイシイ……デス」
 夏音がそう呟くと、お茶を淹れてくれた柔らかい雰囲気の少女が目を細めた。
 しかし、視線をずらすと田井中は夏音をじっと瞬ぎもせずに眺めている。夏音の胃に穴があくまで見詰める作戦だろうかと夏音の背中をつぃ、と冷や汗が伝った。
「あの、さ……立花さん!」
 そんな空気の中、長髪の少女が夏音の名を呼ぶ。
「立花さんは何か楽器とか……あの、その…………ご、ごめんなさーーーーい!!」
 そのままテーブルを割らん勢いで頭を下げた。
 
(あ、謝られた!!?)
 何もしていないのに謝られた。
 流石に、もうこれ以上は無理だろうと夏音は思った。
 腹を括った。
「夏音でいいですよ…………日本語は支障ない程度には話せますから、そんなに緊張しないでください」
「しゃべれんのかよ!!?」
 先ほどから夏音を睨めつけていた田井中が目を剥いた。
「何で、片言だったり!?」
「いや、なんといいますか……なんとなく?」
 夏音は詰め寄ってきた田井中の剣幕にたじろぎ、おたおたと言葉を絞りだした。
 彼女はふらふらと下がってから、カッと目を開いた。
「アホの子か!?」
「すいません……」
 夏音は初対面のようなもので、アホと言われたのも初めてだった。その場の張りつめていた空気は針をさしたように、一気に抜けていった。
「なんだよ……無駄に緊張した私らが馬鹿じゃんかよー」
 律がぐったりと椅子に座って深いため息をついた。
「で、でもうちのクラスではあまり話さないような……」
「それは……ただの誤解で、しゃべることはできます。誤解が誤解を生んだというか、目論んだ失敗というか……ははは?」
「ははは、じゃねー」
「すいません」
「はー。よくわかんないけど、改めるしかないし。とりあえず自己紹介しとくか。私、田井中律。軽音部の部長!」
「ど、どうも」
 それに倣うように、黒髪美少女の子も気恥ずかしそうに口を開いた。
「私も知ってる……かも、しれないけど……秋山澪。パートはベースなんかをやっている…です」
「はい……存じております」
 最後に先ほどから紅茶やケーキをかいがいしく振る舞ってくれていた少女がお辞儀をする。
「琴吹紬と申します。キーボードをやっています」
「は、はい」
 三人の自己紹介が終わると、何かを促す空気になった。「あ、俺もか」と立ち上がった夏音は気恥ずかしそうに頭を下げた。
「立花夏音です。ずっとアメリカにいましたが、日本語はある程度できます。楽器は色々やってます」
 淀みない日本語で夏音が改めて自己紹介をすると、小さく拍手が起こった。
ここに来て、やっと認められた気がした。先ほどまで敵意すら感じた律でさえも小さく笑って手を叩いている。
「ありがとうございます……」
 うっすら目尻に浮かんだ涙を拭って彼女たちの歓迎に頭を下げた。
「そういえば私たちの演奏終わってすぐ入ってきたけど、もしかして聞いてたり?」
「はい。演奏途中に入るのも悪いと思ったので」
「そうかー。で、感想は?」
 期待の眼差しを向けてくる律には悪いが、彼女を喜ばせるような言葉を送ることはできない。
「ああ、下手ですよね」
「…………ハッキリいうな」
 ずばり本音を返された事に落ち込んだ律をよそに、夏音はふとひっかかっていた事を澪に尋ねた。
「ところで、澪はレフティなんですね!」
「えっ!? み、澪って……」
 真っ赤になって狼狽した澪に、夏音は首をかしげた。
「ど、どうかしました?」
 律は訳が分からないといった表情の夏音へ呆れた声を出す。
「あーあ。いきなり名前なんかで呼んじゃうから……特に、うちの澪は極度の恥ずかしがり屋なんだよ」
「え? 名前で呼んだくらいでダメなんですか?」
「あ、立花さんは向こうの習慣が当たり前になっているからではないかしら?」
「向こうの習慣て……あぁ、そうか。アメリカ暮らしが長いんだったなー。なるほどなるほど」
 夏音はぽんと手をついた。
「うーん。あまり同い年で敬称をつけたり、ラストネームでは呼んだりしないです。かなり目上の人だったり、よっぽど親しくない人でない限りは。
 あ、そういえば日本では最初から名前で呼ぶことはないんですよね。すいません、秋山さん?」
 自分はどうやら失礼な事をしてしまったらしい、と夏音に頭を下げられた彼女はどぎまぎと目を泳がせた。
「い、いや……澪で、いい。いきなりだったから、つい」
「おやおや、この子はー。顔、真っ赤ですぜ?」
「律!」
 先ほどから見ていて、彼女は律にだけは強気になれるようだった。既に何らかの絆が結ばれているようで、そういうやり取りは見ていると周りを笑顔にさせる。拳骨を震わせる澪は夏音にじっと見られていることに気付いて、すごすごと拳を納めた。拳の脅威を逃れた律は彼女から距離をとってから、夏音に言った。
「私のことも下の名前で呼んでいいから!」
「あ、はい。律ですね」
「わ、私もぜひお願いします!」
「あ、はい。紬ですね」
「ムギと!」
「む……ムギ!」
 名前の呼び方一つでこんなやり取りが発生する事がおかしかった。それでも呼び方一つで一気に距離が近づいたようなように思えるのは気のせいだろうか。
「そういえば、夏音は何か弾ける楽器があるって?」
「あぁ、楽器ですか。ベースを主に。それ以外だとギターにドラム、サックス、ピアノは母の影響で人並みには」
 小さい頃から何でもやらされた覚えがあるが、人前で披露できる程に定着したのはそれくらいだった。
「す、すげぇ……」
「何でも屋……」
「器用なんですねー」
三者三様のコメントに気恥ずかしくなった夏音は慌てて手をぶんぶんと振った。
「いや、そんな大したものじゃなくて! ベース以外は、本格的にやっているわけではないし!」
「なっ。それより歌はイケる方?」
「まぁ、人に聞かせる程度には」
「十分十分! それなら、ギターヴォーカルとかもイケる!?」
「ヴォーカルとギター……やれますけど」
 そもそも、夏音はもはや自分が入部することを前提で話が進んでいないだろうかと焦った。あくまで見学に来ただけだというのに。
 しかしそんな内心など知れず、彼の言葉を聞いた途端、三人の顔がぱっとほころんだ。
 あ、それと―――と律が切り出す。
「この部活、五人いないと廃部することになっているんだけど、誰か一人くらい心あたりはない?」
 現存メンバーが三人。あと一人欲しいということは、自分はすでに数に折り込み済みのご様子。
 そのことは後々触れるとして、律の無自覚な問いかけは夏音の心を抉った。
「心あたり……今の僕にそんなものはないデス」
 突如、夏音の頭上にぶあつい暗雲がたちこめた。その反応を見て律がぱちくりと目を瞬かせると、おそるおそる尋ねた。
「……友達、いないの?」
「お、おい律そんなストレートに!」
 夏音は顔をあげる。その表情を見て、全員が言葉を失った。
 律は、嗚呼―――と目をつぶり、そっと夏音の肩に手を置いた。
 部室が優しい空気に包まれた。

 気をとりなおしたように律が話題を変えた。
「ところでさ……そのしゃべり方なんとかならないの?」
「しゃべり方……だめですか?」
うっかり沈んでいた夏音であったが、思わぬ指摘にきょとんとした。
「そう。敬語、使わなくていいよ。ほら、もう私達って名前で呼び合ってるんだしさ!」
 それに同意と澪がうなずく。 
「そうだな。あまり堅苦しくなるのもよくないと私も思う。これから仲間になるんだし」
「そっか……わかったよ。俺もどちらかというとフランクな日本語の方が得意だしね」
 最後の言葉がまたもやひっかかる。しかし、自分が入部するか云々の前にはっきりさせておかねばならない事がもう一つあった。
 ねえ律。ずっと気に病んでいたことがあるのだけど」
「ん? なんだ?」
「何でさっきまで俺に怒ってたの?」
 今の今まで忘れていたらしく、「あぁっ」と思い出した律が憤慨した。
「私のこと馬鹿にしたように笑ったからだろ!? ふん、あなたはこんなのも解けないのかしら、お馬鹿さん? って」
「No way!! 馬鹿になんてしていない! 誤解だ! そして、何で女言葉なのかな? とにかく、俺の扱いのせいで迷惑かけてごめんって目配せしたんだよ」
「え、そうだったのか?」
「そうだよ!」
 ぽかんと瞠目した彼女は、ぷっと噴き出して頭をかいた。
「アハハ! 私の勘違いかよ! 悪い悪い!」
 すぐに間違いを認めた律に夏音の肩の力が抜ける。
「はぁ。誤解が解けたようでうれしいよお嬢さん」
「なんかたかびーな美少女って感じで鼻についたんだよなー。外見で損してるねー」
「そうかー美少女って……やめてもらえますか」
 早々に打ち解けている。じゃれあう二人のやりとりに澪が口を挟んだ。
「で、でもずっと誤解されたままでいいの?」
「ありがと。いつかは、どうにかしないとね」
「そう」
 今はどうするつもりもない、とも取れる発言に澪は納得しかねる様子であったが、今この場にある状況は夏音にとって大きな前進であった。
 リア充の道も、一歩から。

「あ、ところで一番大事な事を確認してなかったんだけど」
 大分打ち解けた雰囲気の中、夏音が笑顔で手をあげる。
「おーなんだー? 何でも聞いていいわよー」

「俺、軽音部に入らないとだめかな?」

 夏音は自分の発言によって茫然自失となった三人の魂が帰るまで数分ほど待った。

 瞳に光が戻ってきた途端、律が口を開く。
「い、いや……ていうか…………入らないの?」
 先ほどから入る体で話を進めてきた一同はここで流れを断ち切るどんでん返し発言にすっかりパニック一色だ。
「てっきり入るものだとばっかり!」
「仲良くなれたと思いましたのに……」
 
 眉尻を下げ、震える瞳で夏音を見詰めてくる彼女たちの姿は罪悪感を覚えさせるほどの威力があった。「うっ」とたじろいだ夏音は何でか自分が悪い事をした気分に陥った。
「ま、待って。入らないとは言ってないだろ?」
「じゃあ、入るの?」
「待って。そうじゃない」
「そうじゃないって?」
「か、考えるモーメント! ください!」
 夏音は今ここで答えを出さないと、と焦った。しかし、シンキングタイムを貰って呻吟したところで、すぐに答えは出ない。
「ほ、保留でっ!」
 日本人が得意な保留。とりあえず帰ってからじっくり考えよう、と思って絶妙な答えを出したつもりだった。
「……………じゅーきゅーはーちーなーな」
「そ、そのカウントダウンは?」
 目を眇めた律が数え始めた数字はゼロまで間近。
「さーんにーいーち」
「入ります!!」
 その瞬間、歓声が沸く。
 夏音があっと口を押さえたが、もう遅いようだ。
「前にテレビで見た心理学のやつ本当に使えるんだなー」
 見事に夏音の首を縦に振らせた律がぽつりと呟いたのを聞いて、夏音は頭を抱えた。
「いいのかなー。大丈夫かなー」

「とりあえず入部記念に記念撮影―っと」
 ぶつぶつと後ろ向きな言葉を呟き続ける夏音を無視して、律が嬉しそうに笑う。彼女は澪からカメラを奪うと、全員の肩を寄せ合うように指示した。
「大丈夫かなーいいのか……うっ」
 セルフタイマーがないのか、律は自撮りの要領でカメラのレンズ側をこちらに向けて四人を枠に入れようとする。その際、腕にあたった感触によって、物理的に黙らされた夏音は「これもまた役得」と密かに思った。

 後日、できあがった写真には夕陽のせいかわからないが顔が赤い澪と太陽のような笑顔の律、満足気に微笑むムギに口許がにやける夏音が映っていた。
何十年経っても、写真が色褪せても消えない鮮やかな色をしていた。



[26404] 第二話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/09 01:27

 肩を揺すられるような近くて遠い感覚。夏音はその感覚を遠ざけていたかった。
 このぬるま湯に浸かったみたいな心地よさが消えてしまいそうだから。
 半ば意識が浮上したところで、誰かが自分の肩をゆすっているらしいが、いかんせん自分は眠っていたいのだ。

「Hey! What`s up mom? I`m fucking sleepy now.」
「こら、マムって。誰がお前の母親だ!」
「Huh? ……あれ?」
 目の前にはカチューシャをつけた少女がいる。
「まみたん……?」
「オイ、お前いい加減にしろよ」
 夏音は数度目を瞬かせた。夏音がアニメにハマるきっかけになった作品の準ヒロイン、まみたん。カチューシャをこよなく愛し、決して離さない彼女はいない。
 目をこすると、そこには田井中律が呆れたような顔つきで夏音を見下ろしていた。
「律がなんでここに?」
 途端に、夏音は額をぺちんとはたかれた。
「こ・こ・は部室だ! 部活をやる場所であって、ガチ寝する所じゃないぞー!」
「部室?」
 上体を起こして周りを見渡すと、たしかに音楽室兼軽音部の部室である。いまだ惚けている頭をひねって夏音はとりあえず伸びをした。
「寝ちゃったのか」
 先週、晴れて軽音部に入部した夏音は早速放課後から部室に顔を出すことにした。尻込みしていたものの、入ってしまったものは仕方がない。よく考えれば周りが女の子のみの環境でバンドをやるのも悪くないな、と思い弾む気持ちで部室へ向かったのだ。
 ところが、どうだろう。彼女たちは一向に練習を始めるそぶりを見せるどころか、音楽の「お」の字も見えてこないではないか。
 はて、ここは何をする部活だったかと首をかしげたところで、大変美味なお菓子とお茶に文字通りお茶を濁されてしまったのであった。
 しかし、紅茶を何杯もおかわりできるくらい時間が過ぎても練習をする雰囲気が欠片も生まれることはなかった。
 何もしないなら仕方ない、と襲いくる睡魔に白旗を振ることにした夏音は部室のふかふかソファー(夏音、自主持ち込み品)に体を横たえたのであった。
 そこで意識が途絶えた。ここまで、思い出すのに二秒ほど。

 目をすっと眇めてこちらをじっと見る律に再度あくびを向けた夏音は、ぽりぽりと頬をかいた。
「すいませんでした」
 とりあえず、夏音は謝った。
「うむ、殊勝な態度でよろしい!」
 胸を張ってうなずく律は傲岸不遜な態度で身を反らす。あまりに尊大な態度だが、反らしすぎて逆にこっけいだ。
「お前も、何様だ!」
 しかし、そんな彼女も背後から迫る澪に頭を小突かれた。
 律は頭をさすって澪に口をとがらせた。
「なんだよー。澪だって一緒にただお茶飲んでただけじゃんかー!」
「そ、それとこれとは別に……」
 返す刀に思わず顔を赤くした澪であったが、じっと夏音に見詰められていることに気がついた。
「な、なに?」

「練習しないの?」

 痛い沈黙がその場に流れた。
「そもそも、あと一人部員を集めなくちゃならないのを忘れたのかな?」  
 容赦ない、歯に衣を着せぬ夏音の意見に他メンバーは頭を抱えた。
「お、仰る通りで……ごぜーやす」
 バツが悪そうに言うのは軽音部の部長だった。
「とりあえず、必要なのはもう一人だけなんだろう? 今足りないパートはギター、ヴォーカルだね。俺はどこのパートでも大丈夫だし、こないだはその二つとも引き受けると言っちゃったけどさ。
 新しく入ってくれる人が初心者だった時のことを考慮すると、まだ俺のパートは確定しない方がいいんじゃないかな」
 あまりに淀みない日本語がすらすらと流れる。外人顔の帰国子女に正鵠を射た意見を矢継ぎ早に放たれた彼女たちは、ただ口をぽかんと開けていた。
 返す言葉がないとはこのことである。
「に、日本語上手よねー夏音くんたら」
「そ、そうだな! 堅苦しさもなくなったし」
「その年でバイリンガルだなんて素敵ですね♪」
 夏音はにこりと微笑む。
「お褒めにあずかりまして、ありがとう。俺は別に楽しくやれればいいんだけど……ただ、楽しく………楽しく、何するんだっけ?」
「う………と、とにかく作戦会議だ!!」
 しかし、もう下校時刻だった。
 部室として割り当てられている音楽準備室だが、いつまでも使っていられる訳ではないので、会議は始まってもいないのに延長戦へもつれこむ。
 結局、四人はファーストフード店で話し合いをすることになった。


 マックスバーガー。ローカル規模のチェーン店である。
「Amazing…….この照り焼きバーガー……最高にクール!!」
「向こうに照り焼きなかったのか?」
「俺、初めて食べた!」
 日本に来てからハンバーガーを食べたのは初めてだった夏音からしてみれば、何てもったいない事をしたのだと悔やむほどの事態。
 最後にプレートを抱えてやってきたムギはやけにニコニコしながら席についた。
「うふふー」
 頬をおさえて随分とご機嫌な様子のムギに律が何事かと眉をあげた。
「私、ファーストフードのお店初めてで……!」 
「え、マジで!?」
 そんな人種に会ったことない、と律はぎょっとした。
「ええ。『ご一緒にポテトもいかがですか?』って聞かれるのに憧れていたんです……はぁ~。あ、すみません! 始めてください」
「あー、うん。よし! 作戦会議を開始します」
「いいぞー」
 夏音が合いの手を入れる。
「今月中にあと一人部員を獲得するために!」
「いったい何を?」
「それをこれから考えるのさー」
 律が何気なくポテトをプレートにどばっと広げるのを見てムギがきらきらーとした瞳を彼女に向ける。
 すぐに真似するムギを見ていて夏音はなんだか幼い子供が大人の真似をしえいるみたいだと頬をゆるめた。
「今、入部したらなんかすんごい特典がもらえるとかー」
「車とか、別荘とか……ですか?」
 ムギの何の気なしの発言が周囲の人間を凍りつかせた。
 ぶっ飛んでんなこの娘、と夏音は目の前のぽやぽやした少女の認識を改めた。
 どん引きしつつ、かろうじて律は腹案を出していく。
「すごいけど、それ無理。アイスおごるとか。宿題手伝うとか……あ、英語の予習は全部夏音がやるとか!!」
「めんどい」 
 肘をつきながらコーラをすする夏音はばっさり切る。
「外国にいた奴が、めんどいって言うなよー」
「まんどい」 
 中身がすかすかな会議は煮詰まり、何度か意見を交わしたところで、とうとう律が議論をぶん投げて逃避行動に出る始末であった。部長の耐久力のなさが如実に表れた瞬間である。
 最終的にはポスターを作って掲示板に貼る、という至極まっとうな意見が採用されたのであった。
 延長戦まで話した意味なくない? と誰もが思った。


 翌日。
 四人が書いてきたポスターがいっせいに顔をつき合わせる。夏音は自分で絵心あふれる人間だと自負してきたが、「なに描いてるかわからん」という一言に膝をついた。『漫画を描いてみよう』の創刊号で絵の練習をしたはずだったのに。
 神は二物を与えない。
 根っから器用らしいムギが用意してきた物が一番見栄えが良いとのことで、さっそく掲示板に貼った。 
 あとは、これを見た者が部を訪ねてくれるのを待つだけであった。
 


「ごめん遅くなっちゃった」
「あぁー、いいよ別に。今ちょうどお茶してたとこだし」
 夏音は運悪くゴミ捨ての当番になってしまった。つくづく掃除は生徒が担当するという日本の習慣が恨めしいと思った。
 しかし、こうして遅れて部室に向かったものの、部室には気怠そうに菓子を頬張る律とかいがいしくお茶の振る舞いに勤しむムギの姿しかなかった。
「あれ、澪はまだ来ていないの?」
「澪は、校舎裏の掃除ー」
「そうなんだ」
 彼女も災難だな、と思ったところで慣れた様子で席につく夏音の前に早速とばかりに紅茶とケーキが現れる。
「はぁ、最高ー」
 ほっぺたが落ちそうなくらいに甘い至福の味が口に広がる。そのまま体中に幸福が染み渡るような感覚。
 まったりとした雰囲気が流れる。もうこれがメインの部活でいいんじゃないかという考えが夏音の脳裏をよぎった。
「ところで、夏音はちゃんと楽器持ってきたかー?」
 すっかりリラックスモードで気の抜けた口調で律が夏音に訊いた。
「はいよー。今朝、部室の奥に置いておいたよ」
 夏音はうなずいて立ち上がると、部室の物置の扉を開けて中に入っていく。今朝、置いておいた物を抱えて戻ってくると、肩にギターケースをかついでいた。
「んー、それベースじゃないか?」
 律が怪訝な顔をした。ギターを持ってこい、と言っていたはずだった。別の楽器とはいえ、自分の幼なじみのおかげでケースの中身がギターかベースかくらいの判断はつく。
「あ、ごめん。ギター持ってこいって言ってたんだっけ?」
「おいおい。とりあえずギターを入れて合わせようって話だっただろー?」
「すっかり忘れてた! ソーリーだよソーリー」
 アハ、と悪びれるそぶりは一切見せずに夏音が謝る。ウインクつき謝罪。
「このハーフむかつくな……」
 ウインクが似合う所など、非常に腹立たしい。
「持ってきたのが別のだったらなー。シンセとVベースでギターの音やれたんだけど……」
「ん、何が何だって?」
 律は夏音が語った事がよく理解できなかった。聞き直そうとしたが、夏音は再び物置に姿を消すとハードケースくらいの大きさがある長方形のケースを二つ抱えてきた。
「よいせっと。エフェクターもね。持ってきたんだ。軽音部で楽器を弾く機会が増えるだろうからねー」
 運ぶの超大変だったー、と軽く汗をふく夏音。律は目をまん丸にして夏音を眺めた。
「それ……全部エフェクター?」
「ん? そうだけど?」
「……開けていい?」
「どうぞー」
 律は恐る恐るエフェクターケースを開けて中をのぞいた。中には見たこともない大小のエフェクターがぎっしりと窮屈そうに詰まっていた。
「へ、へ、へ……へへへ……」
 律の口元がくっとゆがんだ。夏音が異常な様子の律を訝しげに見詰めた。
「頭、大丈夫?」
「お前は何者だ立花夏音!?」
「その言い様はなんだよー」
 びしっと指をさされてムッとした夏音。
「まあー、すごい数ですねー」
 傍らにかがみ込んでケースをのぞきこんでいたムギも驚きを隠せない様子で漏らした。
「これでもメインで使っているやつは避けてきたんだよ。まあ十分気に入っているセッティングだけど。同じの家にあるし。とりあえずどんな曲をやるか分からないから、これだけあれば対応できるかねー」
 これが当然ですが何か、と言わんばかりに淡々と語る夏音にいよいよ言葉を失くした二人であった。
「ひ、弾いて! 今すぐ弾いてみて!」
 まるでプロのような機材の充実。律はその実力はいかに、と食いついた。
「あぁ、そうだね。アンプは流石に持って来られなかったから澪のを借りるとするかな」 
 夏音はケースのファスナーを開けてベースを取り出した。弦がこすれてかすかな金属音が鳴る。
「それ、なんてベース?」
 律がじっとベースを見て聞いた。
「これはフォデラのエンペラーシリーズだよ。よくサブで使ってるんだ」
 幾何学的な模様の木目が広がるボディ。高級感漂う堂々とした迫力を持つベースだった。五弦使用となっており、そのヘッドには蝶のロゴ。
「ベースのことはよくわかんないけど、なんかすごい威圧感だな……」
「まー無駄に年季も入ってるから」
 夏音はケースのポケットからシールドを取り出すと、ストラップの内側に通してジャックに挿しこんだ。そのまま澪の私物であるフェンダーのベースアンプに挿しこみ、音を出せる状態のまま、チューニングをする。
 調弦が済むと夏音は遊ぶようにハーモニクスを鳴らした。
「さー。なんか適当に弾きまーす」
 律とムギは固唾をのんでうなずいた。
 風を切るような音と共に夏音の手が振り下ろされる。



 澪は音楽室へと急いでいた。運悪く自分の班が、やたらと長引くという噂の校舎裏の掃除にまわされてしまったのだ。
 皆はもう集まっているはずである。今日は初めて全員で演奏を合わせる日だった。澪もその事を楽しみにしていたし、抑えられないわくわくが彼女を急がせていた。小走りで階段に足をかけて、のぼる。
 ふと、音が聞こえた。音の力が伝わってきた。
 一瞬、澪の足が床に張り付く。
「な……なんだコレ……」
 音というより、何らかの力が放たれている感じである。それは強力な磁力で澪を引き込む。
 ブラックホールみたいな吸引力の源は音楽室から発生しているようだ。
 澪は二段飛ばしで階段をかけ上がった。
(この音……ベースの音……?)
 澪は躊躇なく音楽室の扉を蹴り開けた。
(やっぱり……)
 予感はしていた。澪はその予感と今目の前にある現実がぴったりと重なる瞬間に衝撃を覚えた。音が聞こえた瞬間、どんな人物がこのベースを弾いているのか頭にくっきりと浮かんでしまったのだから。
 自分の足が細かく震えていることにも気付かず、澪はその場を支配している夏音から体の自由を完全に奪われ続けた。
 かろうじて視線をずらせば、同じように硬直している律とムギが確認できた。
(上手い……上手いなんて言葉を超えている。そんな言葉で語れる場所にいない。彼が、立花夏音という存在がベースを通じてこんなにも私を……私たちを磔にしている)
 うねるグルーヴが宇宙を見せる。音の力が無数の光となり、襲ってくる。あらゆる色彩の洪水が口から、目から、耳から、皮膚の毛穴にまで流れ込んでくる。
 どこまでも広がる存在。
 澪は、ベースがこれだけ多彩な音を奏でる楽器だということに、驚かされた。次々と足下のエフェクターを踏み換え、どこをどう弾いているかわからないようなフレーズが飛び出してくる。ループを重ねては、ダイナミックな旋律を踊らせている。
 澪は自分も同じベーシストとして。こんな風な音を出せたことは一度としてない。
 彼女たちはそれから彼が音を吸い込むようにして演奏を止めるまで、彼の音以外の一切を耳に入れることを許されなかった。

「……律、ムギ?」
 演奏を終えて二人を見れば、何故だか放心状態で発見された。
「だ、大丈夫?」
 反応なし。不安になった夏音は律の顔の前で手をぱしんっと叩いてみた。
「うおっ」
 律の目の焦点が元に戻った。意識を取り戻した彼女の眼の中には今まで夏音に見せたことのない感情が宿っていた。
 驚愕、興奮、羨望。

「すっっっげーーーー!! 死ぬほどうま、うますぎるっ!!」
 律が絶叫した。つられてムギも正気を取り戻すと、がむしゃらに拍手をしながら夏音を褒めちぎった。
「すぐにでもプロになれるんじゃないですか!?」
 その一言に夏音の胸がどきっとなる。
「は、はは……だったらうれしいな」
 まさか、既にプロですとは言えない。
「あ、澪! 澪もいたのか。今の聴いたか、なあ!?」
 律が夏音の背後に向かって声をかける。
 振り返るとベースを担いだ澪が瞠目したまま立ち竦んでいた。
 明らかに様子がおかしい。
(震えているのか……?)
「あ、澪ごめんね。勝手にアンプ借りちゃったよ」
「…………ズルイ」
「え?」
 何かを呟いた澪に夏音が聞き返すと、彼女は慌てて取り繕うように声をたてて笑った。その頬は不自然に引き攣っている。
「いや、何でもない! ハハ、驚いたよ! すごく上手だな……私より、上手い」
「お、おい澪―。そんなの比べる必要ないだろー?」
 不穏な空気をいち早く察した律が明るい調子で澪に声をかけた。
「そ、そうです! 私、澪ちゃんのベース好きだよ?」
 そこにムギも重ねて澪に言う。しかし、澪の表情は相変わらず浮かない。長い髪をかきあげて、夏音を向く。
「もう、夏音がベースでいいんじゃないか?」
「はぁー!?」
 澪のとんでも発言に律が詰め寄った。
「なら、澪は何をやるんだよ?」
「私は……私は何を……」
「なーに言ってるんだよ、みーお。少しおかしいぞ? 校舎裏の掃除で精神がまいっちゃったかのかなー! ほら、ムギが持ってきたいつものケーキだぞー」
 暗い目で律を一瞥した澪は顔をそらした。
「ごめん。今日はちょっと体調が悪いから……」
 そして踵を返して部室から出て行った。残された三人は顔を見合わせた。
「澪……」
 夏音はすぐに澪を追って部室を飛び出した。


 階段を駆け下りて澪の姿を探したが、澪の姿はすでに遠くにあった。
 部室を出た途端、走ったのだろう。全力で。
 夏音も全力で走って追う。
 しかし、思いのほか足が鈍かった彼女は十秒で捕まった。
 夏音が澪の手首をつかむ。
「ヘイ澪!? いったいどうしたっていうんだ?」
 つかまれた腕を躍起になって離そうとする澪。外見に反した握力の前に、やがて抵抗することを諦める。振り向いた澪の顔を見て、夏音は息を呑んだ。
 澪の瞳に浮かんだ涙。震える唇。
「澪……俺のせいなの?」
「ちがう……」
「ちがわないだろ? 俺のベースを聴いたから?」
 そっと問い詰めても、澪はうつむくばかりであった。放課後とはいえ、廊下には生徒の姿がちらほらとあった。ただならぬ様子を見てとった生徒がひそひそとざわめきだした。
「ここだと、目立つな。人のいない場所へ行こう」
 夏音は澪の手を引っ張って人気のない中庭に向かった。

 澪は相変わらず黙ったまま。両者が沈黙を守ったまま、向き合う。
 夏音は内心で焦っていた。先ほどから背中には冷や汗が滝のごとく流れ落ちている。
 あまりこういう事態に慣れていないのもある。
 しかし、何より彼女を泣かせた原因が見当たらない……見当たらないのだが、自分が原因らしい事だけはハッキリしているという。
 自分の演奏が澪の気に障ったのだろうか。夏音には、澪の気持ちがつかめなかった。
 夏音が八方手詰まりの中、どうにか沈黙を破ったのは澪であった。
「子供みたいだって呆れるかもしれないけど……私は夏音のベースを聴いて、絶望のようなものを抱いたんだ」
「絶望……だって?」
「私なんか比べるまでもなく、夏音より下手だ……けど、それだけじゃなくて。私がこれからどれだけ努力したとしてもたどり着けない……突き放すようなあの音……あんなの聴いた後でベースなんか弾けなくなるよ……!」
 最後の方は、言葉が震えてまともに話せない。彼女の口から語られる気持ちは夏音の心を抉った。
「そんな………」
 夏音にはまるで青天の霹靂であった。
 今まで夏音の周りにいたのはプロのミュージシャンばかりだった。彼らは自分のスタイル、音や世界を確立している者たち。
 実力を認められることもあれば、嫉妬を向けられることもあった。中には、あなたみたいに弾きたいと言ってくる者もいた。
 目の前の少女は、自分のように弾けない事が涙するほど悔しいのだという。
 こんな気持ちを抱く人間に直に触れることはなかったのだ。
 尊い、向上心の裏返し。自分のせいで一人のミュージシャンが消えるなど、あってはならない。

「関係ない」

「え?」
「そんな風に自分に線引きをしたらダメだ! 澪は自分の音を憎んじゃいけない! 澪より上手い人なんて世界に幾らでもいるんだ。幾らでもじゃないけど、俺より凄いベース弾く人だってたくさんいる」
 そこで言葉を切り、夏音は澪の肩を寄せた。
「けどね。同じ音を奏でる人なんて一人だっていやしない。その音を奏でられるのはその人以外にいるはずないんだ」
 他人の音を真似ることはできる。だが全く寸部の狂いもなく同じ音はない。僅かばかりの差でも、やはり「同じ」ではないのだ。
 問題は、その音に振り向いてくれる者がどれだけいるかという事だけで。
 自分の目をストレートに貫いてくる真摯な瞳。堂々とした空の色に、澪は引きこまれそうになった。
「これから話すことは、誰かに自分から教えるつもりはなかった。いや、なかったのかな……どっちでも良かったかも」
「ま、待って。話が見えない……!」
 彼女は途轍もない重大性を潜めた瞳とぶつかった。話が見えなくても、今からなんかとんでもない事を打ち明けられる予感がした。
 この強制的な……強引に判らされる感覚、いやだと思った。

「実は俺―――――」

 時間にして、一分。
 物事を語るのに、その時間は長いか短いかはその人次第である。
しかし、この場合は少女にとって十分だった。
「…………………は…………えーーーーーー!!!???」
 澪の悲鳴が放課後の中庭に木霊した。それを聞いた人が思わず何事かとパニックになる程のものだったという。


「お待たせーー!!」
 夏音は部室の扉を開けて、声を張り上げた。
 ムギと律は心配して二人の帰りを待っていたので、ほっとした表情で駆け寄った。
 夏音の横には、恐ろしく顔を引き攣らせた澪が突っ立っていた。
「澪! 心配させんなよ……ん、なんか夏音にされたか?」
 よく見れば、出て行く前より顔が強張っていないだろうか。
「人聞きが悪いことを言うなよ」
 自分をからかう律にむっとした表情で夏音が返す。
「澪ちゃん大丈夫? 何だか顔色がすぐれないような……」
 心配そうに顔をのぞき込んだムギの言葉に澪はあわてて首を横にふった。
「い、いや! そんなことないよ! 気のせい!」
「なんか怪しい……おい夏音、本当に何かしたんじゃないだろうなー」
 ほのかに真剣味を帯びた疑りの目を送られた夏音だったが、涼しい顔で部室のソファーに腰掛けた。
「別に。本当に何もなかったよ?」
「そ、そうだ。何も夏音が実はプ―――」
 じろり。
 と夏音にねめつけられた澪は涙を浮かべて「ひっ」と慌てて言葉をつぐんだ。
「ん……夏音がなんだって?」
「プ……プライドなんて糞喰らえだぜおめーっ! て言ってくれたんだ!」
「な……なんつーことを言うんだお前!!」
 律は夏音に詰めよると拳をにぎった。
「う、ウェイウェイッ!! 澪が納得したんだから、それでいいだろ!」
 かたく握られた拳をみて、夏音が戦慄する。
 割と本気な親友にぎょっとした澪は急いで律を取り押さえた。
「そうだ! 私はそれで納得した! ふっきれた! 私のちっぽけなプライドなんて守るに値しない些細なものだって! さあ、練習するぞー」
「そうだ練習するぞー」
 そのまま、てきぱきと機材の準備をする澪に、それを手伝う夏音。そんな二人の様子を目の当たりにした律がぽかんと間の抜けた顔をつくる。自分の幼なじみはこんなにこざっぱりした性格だったろうか。変な方向に羽化した気がしてならない。
「なんだか、お二人とも急に仲が良くなっていませんか?」
 ムギの冷静なツッコミが入ると「あぁ、言われてみたら」と律もうなずく。すると二人の様子がよけい白々しく見えてきた。
 あくまで疑りの目を向ける律に夏音はばふっと両肩に手を乗っけた。
「ふ、ふふ……秘密を共有することで友となることもあるのだよ」
 顔を近づけて、フランクにウインク一つ。どうにも腑に落ちないといった表情の律であったが、少し顔が赤くなったのをごまかすように顔をそらした。
「夏音くん……良い素材……」
「ムギさん?」
「いえ、なんでもありませんー」
「律、なんか顔赤くないか。風邪?」
「う、うるせー!」
「何だよ……」
「無自覚なところがまた……」
「ムギさん?」
 何だかんだと騒々しくも最初の修羅場をのりこえた軽音部であった。


 ※ちょっとこのお話は落ち着きがない感じになってしまいました。



[26404] 第三話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/09 03:14

「いやいや、そこはそう訳さないでしょう。日本じゃ英語はこうやって習うの?」
「んー、私は特に教えられた通りに訳したつもりだけど」
「間違ってはないんだけど……ただニュアンスがちぐはぐな感じかなー。海外に住む時がきたら、こういう些細な違いが大恥につながるんじゃないかな」
「将来、か……使うことになるのかな」
「それは澪の進む道次第だけど、小さなことでも正しく覚えておいて損はないよ」

 音楽準備室―――またの名を軽音部部室―――では、恒例となったティータイムのお時間となっていた。
 今はこうして机の上には菓子とお茶の他に勉強道具が広げられている。というのも、律と澪が本日出された英語の宿題の手伝いを夏音に頼んだのだ。自他共にバイリンガルと豪語している夏音にとってはお安い御用で、快く引き受けた。
 ちなみに律は早々に離脱して、勉強とはまったく関係のない話題でムギと会話に華を咲かせている。
 唯一、真剣に夏音の話を聞いているのは澪のみであった。
「ふん……ん、んーdon`t despair? なんかこの教科書、ブリティッシュとアメリカンがごちゃ混ぜだな。俺なら普通don`t worryって言うね、つまり――」
「あーなるほど!」
 そんな夏音と澪を横目に律は頬に手をあてて二人を茶化す。
「ずいぶんと仲がよろしおすことねー!」
 その瞬間、俊敏なガゼルのようなしなやかさで律に肉薄した澪の拳固が律の頭蓋に抉り込まれる。
「お前もちゃんと聞いとけ! どうせ後で泣きついてくるだろうが!」
「い、いたひ……最近ひねりが入ってきてヤバイ……ま、終わった後に全部見せてもらおうと……じょ、冗談だよ!」
 怒髪天をついている澪による二発目を回避すべく律は椅子からのけぞった。
 夏音は「仲睦まじいねー」と笑った。このコンビのどつき漫才も早くも恒例と化したやりとりであった。そんなぎゃーぎゃーと騒々しい部室を訪ねてきた人がいた。
「こんにちはー」
 ニコニコと部室に入ってきたのは音楽の担任の山中さわ子であった。
 この女性教師は夏音や他の部員とも面識のある人物であった。軽音部の四人も元気よく彼女に挨拶を返す。譜面代を借りに来たと言ったさわ子はふと夏音に視線を向けて微笑んだ。
「あら、あなたやっぱり軽音部に入ったのね」
 以前、夏音が楽器経験者であることを的中させた彼女は、実は澪や律に彼のことを紹介して、軽音部の部員獲得に一役買っていた影の立役者であった。 
「はい、とっても楽しいですよ」
「そう、よかったわ。じゃ、そんなあなた達に朗報よ」
 優雅にほほ笑んでテーブルの上に一枚の紙を置き、一言。
「入部希望者がいたわよー」
 なんと、待望の新入部員。果報を寝て待つ訳ではないが、ただお茶をしていただけで訪れた良い報せに一同はわっと沸き立った。
「よかったねー」
 夏音も軽音部の部員として、安堵した。これで廃部を逃れることができる訳である。
「それと、素敵なティーセットだけど飲み終わったらちゃんと片付けてね」
 最後に教師の顔で優しく注意すると、山中先生は部室を出て行った。
 
「よっしゃーー!! 廃部じゃなくなるーー!」
 律が入部届を手に椅子の上で跳ねる。その際にがたりとテーブルが揺れて紅茶がこぼれたので、澪が非難の目線を送ったが当人は気にもしない。
 一同は、そろりと椅子に座った律を囲んで顔を寄せ合ってその紙を覗き込んだ。
「どれどれ……平沢唯……なんか名前からすごそうだぞ。なんだろこのデジャヴ」
「やっぱギターだよな」
「ギターかねー」
「どんな方が来るか楽しみですねー」
 ただ、皆浮き足だっていた。
 無理もない。夏音自身も新しい部員が来るということに胸が高鳴っている。
 それは新しい友達、仲間が増えるということなのだから。
 ああもうこれでリア充への道は近いやったぜと密かに胸を高鳴らせる夏音であった。



 最近の夏音は放課後を楽しみに学校に来ているようなものだ。つまり、その放課後の時間が削られるのは、如何ともし難く耐えがたいことなのだ。
 だというのに度々自分をつけ狙ってくる英語の先生につかまってしまった。この教師に捕まると、何故か英語で世間話をするハメになる。
 ひどい発音でぺらぺらと喋る先生にいつも辟易させられてしまう。
 廊下でばったり会ってしまい、「Shit」と小さく漏らしたが、相手は明らかに迷惑そうな夏音の表情などお構いなしに駆け寄ってきた。
 自分を発見した際のその教師の顔といえば、大好きなご主人さまの姿を視界に捉えた犬のよう。こんな可愛くない犬はいらん、と思った。
 十数分のぐだぐだな会話を終え、何とか解放されたところで急ぎ足で部室へ向かう。
「おや?」
 廊下を歩く途中からどこからか楽器の演奏の音が漂ってきた。もしや、と階段にさしかかると、明らかに上の階から聞こえるようだった。
 階段を上りつつ耳をすませていると、曲が止まる。何だか少し前にも似たような経験をした覚えがあった。
「珍しく練習しているのか?」
 雨か槍でも降るかな、と三段飛ばしで残る階段をすいすいのぼっていった。

「お疲れ様です!」
 夏音は抜けの良い透き通った声を共に入室した。
 そこに軽音部のいつもの反応はなく。
 ぽかんと固まる見覚えのない少女がいた。
「……知らない子」
 夏音は物珍しそうにその少女に近づいた。
 その少女も、突然謎の大声をあげて部室に入ってきた人物に驚いた様子で目を丸くしていた。
 これといって特徴はないが、ムギとは違う意味でほわーんと独特の丸い雰囲気を醸し出している少女であった。
「遅かったな」
 澪が遅れてやってきた夏音に目を軽く目を尖らせた。
「いや、英語の先生に捕まってたんだ察して。それより、そちらさんは?」
 夏音は新入部員の人ではないかと、半ば確信的に尋ねた。
「ああ、この人が平沢唯さんだよ。たったいま軽音部に残ってくれることになったんだ!」
「ん? 残るってどういう事?」
「平沢さん、本当は楽器の経験がなくてやめようと思ってここに来たらしいんだ」
 澪が苦笑を浮かべながらそう説明した。
「そうだったのかい?」
 目を丸くした夏音に問われると、彼女はびくりと肩を揺らして赤くなった。
「お、お恥ずかしながら……でも、今演奏を聴いてみて、とっても楽しそうだなって。だから、軽音部続けてみることにしたんです!」
 そう言った彼女の口調は力強かった。
「楽しそうだよね。俺もそう思うよ」
 うんうんと頷きながら夏音は平沢の肩に手を置いた。
「軽音部へようこそ!!」
「……っはい!!」
「はーい! それなら、軽音部活動記念にーー!!」
 律が澪のカメラを勝手に取り出してきた。夏音は「またか」と苦笑した。
もちろん大歓迎だ。

「もっと寄って寄ってー」
 流石に、自分撮りで五人はきつかった。
「いっくよーん!」
 隣で上気する呼吸音とシャッター音が過ぎ去った。
 後日、できあがった写真は律のおでこから上までしか写っていなかった。それを見た夏音に大爆笑された腹いせに見事なボディーブローが決まったという。



 人間の基本は挨拶、自己紹介から始まる。
「唯でいいよー」
「よろしく、唯」
「実は私、学校で夏音君のこと見かけた時、本物の外人さんだって思ったんだー。何で男子の制服着てんのこの人って!」
「はははー! やっぱり……やっぱりそうなんだ…………」
 言葉がナイフのように心を刻むこともある。


 という感じに唯を五人目に据えた軽音部はこれにて廃部を回避することと相成った。
 今のところ唯は何一つ楽器の経験がないそうなので、この機会にギターを始めることにするらしい。初心者が一番とっつきやすいという理由もあった。
「ところで、結局夏音は何をやるつもりなの?」
 律が保留していた夏音のパートの件を指摘する。
「そうだな。ギターは二本あっていいだろうから、ギターかな」
 それに対して、まあそうだろうと意見が一致した。しかし、夏音がそこでぽつりと言い添えた。
「でも、ベースもやりたいんだなあ」
 夏音の言葉に澪がぎくりとした。律は「まあ、あれだけ弾けるんだし」と納得したが、同時に首をひねった。
「曲によってベースを変えるのもアリ、かな? Fullarmorみたいにツインベースとかやっちゃう!?」
「ツインベースか……できないことはないけど……いや、面白いかも」
(そうなると、六弦フレットレスの出番かな)
 するとおずおずと澪が口を開いた。
「夏音がベースをやりたいなら、そういうのもいいと私は思う」
「ま、いきなりツインベースはやり過ぎだとしても。例えば俺がベースをやる時は澪がヴォーカルとか」
「ヴォーカルっ!?」
 夏音がそう提案すると、澪が例の如く顔がゆでダコ状態になった。
「そう。何か問題ある?」
「は、恥ずかしい……っ」
「じゃあ、澪がヴォーカルで」
「え、やだ!!」
 恥ずかしがる澪をついからかいたくなってしまう夏音であったが、あまりに拒否反応を起こすので何がそんなにいやなのだろうかと真面目に首をかしげた。
「別にそこまで嫌がることかなー。歌に自信ない?」
「人前で歌ったりしなきゃいけないだろ!?」
「それは、これからのことだからよく分からないけど」
「これからライブとかあるだろうし……たくさん人の前で歌うなんて私にはとても……男の人もいっぱいいるだろうし」
「俺も男だ」
 延々と続きそうなやりとりにしびれを切らしたのか、ムギが澪に助け舟を出す形となった。
「まあまあ。無理に歌って貰う事もないんじゃないかしら? とりあえず夏音くんはギターを弾けばいいと思います。それに、せっかくだから平沢さんに教えてあげたらどうかしら?」
 もっともな意見だと皆うなずいた。
「ああ、そうだね。俺でよければギター教えようか?」
「ほんとー!? ありがとう!」
「じゃあ、まずギター買わないとね」
「え、レンタルとかしてくれないの?」
 と、彼女は目をパチクリさせた。
「貸せるギターはもちろんあるけど、それは唯のためにならないよ。自分で選んだ楽器を使わないとね」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
 そういうものなのであった。






 唯はまだ両手で数えられるくらいしか足を向けた事がない階段をゆっくり、一段ずつ上がっていた。
 人生十余年と生きてきた中で部活動などに所属した経験がない彼女であったが、高校生になってついに部活動に籍を置くことになった。しかも、自分が関わることはないだろうなと思っていたバンド。人生、何があるか分からないものだ。
 部活も、音楽をやるのもすべて初めての経験。
 これから踏み入れるのは真っ白な世界だ。
 どんなものが自分を待っているのか。そう考えた時の浮き立つ気持ちを、抑えることができなくなる事がある。
 授業中や、ふと夜に部屋でごろごろしている時など。新しくできた仲間の顔が浮かんできたり、あれやこれやと想像しているだけで足がじたばた動いてしまう。
 そう。今までの人生とは、違う。
 幼稚園の時も、小学生の時も。中学生になっても、ずっとぼーっと生きてきた。
 でも、今の唯には確かに新たな世界の扉が開かれたのだ。
「今日のお菓子はなんだろうなーっ」
 わくわくが止まらない。胸とか胃とか。


「こんにちはー」
 唯が部室の扉を開けて中に入ると、もう唯以外の全員が揃っていた。座席をくっつけて座っている三人、とお茶を立ち振舞っている一人。
 この四人が唯の軽音部の仲間である。
 唯が近づいていくと、長い黒髪の少女が片手をあげて片笑んできた。
 ベース担当の秋山澪。
 唯の中では背が高くて、格好いい大人の女性という印象の子であった。それと同時に唯が一番かわいらしいな、思う人だ。彼女は見た目のクールさとは裏腹に意外な一面も持ち合わせている。
 ふと唯が、何故ギターではなくベースを始めてのかという質問をすると。
「だ、だってギターは……は、恥ずかしいっ」
 ぽっと顔を赤らめて言うのであった。
「は、恥ずかしいの?」
 何が恥ずかしいのだろうと唯は驚いて聞き返したのだが、
「ギターってバンドの中心って感じでさ。先頭に立って演奏しなきゃいけないし……観客の目も自然に集まるだろ? 自分がその立場になるって考えただけで……」
 そこまで言うと、彼女の頭から見えないはずの蒸気が噴き出る。まるでピナッツヴォ火山みたいに。
「うおぅ!?」
 エネルギーが抜けたようにしおれる澪の肩を抱いて介抱するのはキーボード担当の琴吹紬。本人曰く、「ムギって呼んでね」とのこと。彼女を表す言葉としてはおっとりポヤポヤ。これまた可愛らしい人である。
「ムギちゃんはキーボードうまいよね。キーボード歴長いの?」
「私、四歳のころからピアノを習っていて。コンクールで賞を貰ったこともあるのよ?」
 微笑みながらしれっと言ったムギに、唯は何故軽音部にいるのだろうと疑問を抱いた。
 彼女に関しては疑問が深まるばかりだった。
「最近の高校ってこんな感じなのかなー」
 とやけに物が揃っている部室を一望して唯が感心していると、
「あぁー、それは私の家から持ってきたのよー」
 と微笑むムギは何者なのだろう。どこかのご令嬢という線が深い。
 唯には初めて接するタイプであることは間違いなかった。
 
 感心しながら、唯はお茶を一口すする。
 そしてふと隣に目を向けた。
 唯の隣に座るドラム担当の田井中律。軽音部の現部長で元気いっぱいの明るい女の子という感じが全身にあふれ出ている。
「律っちゃんはドラム~っって感じだよね!」
「なぁっ!? わ、私にもれっきとした理由が! そう。聞けば誰もが感動する理由があるんだぞ!」
「へー、どんな?」
「…………か、かっこいいカラ……」
「そ、そこ!?」
「だ、だって! ギターとかベースとかキーボードとか! ぬぁーー」
 すると彼女は突然、頭を抱えて悶絶しだした。
「ど、どしたの?」
「チマチマチマっチマ! 指でそんな動き想像するだけで……ぬがぁーっ! って……なる!!」
 強引な理由だ。
「そ、そうなんだー」
 深くは踏み込むまいと思った。さらに、唯は視線を横にずらす。
 窓から差す斜陽に照らされながら優雅にお茶を飲むのは、結局楽器は何をやっているのかはっきりしない立花夏音。
 彼は軽音部でただ一人の男の子で、ずっとアメリカに住んでいたいわゆる帰国子女というやつである。
 母親がアメリカ人で、夏音はダブルなのだそうだ。
 現実にお目にかかった事がないくらい綺麗な男の子で、唯は初めて彼を目撃した時には本当にこんな美人がいるものだと感動した。物語のお姫様がそのまま飛び出てきたみたいな容姿で、硝子細工みたいに繊細な印象の彼はまるっきり女の子に見えてしまう。堂々と女みたい、って言うと彼は変な顔をする。だから、唯はあまり言わないように気をつけることにした。
 何より彼は音楽に関してはすごい一面を持っているらしい。
「夏音君はどんな楽器でも弾けるんだよね?」
 唯が尋ねると彼はカチャリとお茶を置き、唯の目をじっと見た。
 誰かと話す時に、真っ直ぐに相手の目を見詰める彼は本当に綺麗な青い目をしていて、おまけに目力が凄くて慣れないとつらい。ムギもよく見れば瞳の色素が薄いけど、夏音の場合はハッキリと青く見える。
「何でも、はできないよ。ギターにベース、ドラムにサックスに……あとピアノとか」
 さらっとウインクをまじえて語ってしまうのも凄い。流石アメリカ育ち。こんなに全てがアメリカンな彼だが、びっくりするくらいに日本語がぺらぺらなのだ。
本当は日本語もしっかりできるのに、その顔が原因であまり周囲のクラスメートと馴染めないのだと夏音は悲しそうに言っていた。
「それでもすごいよーー!! いつから楽器を弾いているの?」
「そりゃあ、小さい頃からだよ」
「え、一歳くらい?」
唯が聞き返そうとしたら、ムギがおかわりをすすめてくれたので話が中断された。
「そういえば平沢さん、もうギターは買ったの?」
 澪が唯の名を呼ぶ。
「唯、でいいよ! 私もすでに澪ちゃんのこと、澪ちゃんってもう呼んじゃっているし!」
 ぜひ、フランクに呼び合いたいものであった。唯がそう言うと、澪は気恥ずかしそうに逡巡してから上目遣いにこちらを見て――、
「ゆ……ゆいっ」
「はぅあーっ!!」
おそらく天然だろう、こういう子がモテるんだろうなと思った。唯のハートにメガヒットした。
「で、唯~。ギターは?」
 律が話題を戻す。
「ギター? あ、そーだった! 私、ギターやるんだっけ!?」
 完全に唯は忘れていた。毎日のようにお茶をする部活だと思いかけていたくらいである。
 他の四人はそんな唯に苦笑するしかなかった。
「軽音部は喫茶店じゃないぞー?」
 澪が少しきつい口調で唯を叱る。
「ごめんねー。ギターってどれくらいするの?」
 これは楽器初心者の唯には見当もつかない話であった。すると面倒見が良いのか、澪は顎に手をあててすぐに首肯する。
「安いのは一万円台からあるけど、あんまり安すぎるのは良くないからなー……五万円くらいがいいかも!」
「ご、五万円かー。私のお小遣い十か月分……っ!!」
 そこにすかさず、澪が補足した。
「高いのは十万円以上するのもあるよ」
「千万円以上するのもあるよー」
 そこに夏音がのんびりとした口調で補足した。
「せ、せんっ……それはもう考えられないです……でも五万かぁー。ほい律っちゃん!」
「なに?」
「うふふ、部費で落ちませんか?」
「アハハー落・ち・ま・せ・ん」
 おとといきやがれ、と言うことか。唯はがっくりと肩を落とした。
「どっちにしろ楽器がないと何も始まらないぞ?」
 夏音が大皿からブルーベリータルトを一つ取りながら言う。
「よーし!」
 律が立ち上がり注目を集める。
「今度の休みにギター見に行こうぜ!!」
 唯は楽しみが増えたと喜ぶ内心で、貯金箱の中身を想像して胃が重たくなったのであった。

  
 まわりまわって夏音である。
 だだっ広いバスルーム、両足を伸ばして裕に余る浴槽に浸かっていた。髪を頭上でまとめて濡らさないようにして、ふんふんと鼻歌を歌う。
 翌日に控えた予定に興奮を収められなかった。時折、バシャバシャーと子供のように足を跳ねさせる。
 風呂場に備え付けた防水仕様のスピーカーから流れるBGMに身を委ねながら、うきうきと頭を揺らす。メガデスのHoly Wars。
 明日は軽音部の皆と初めてショッピングに行くことになっている。これでは、まるで本当にリア充そのものではないか。
 いいのだろうか。自分が、いいのだろうかと何度も反芻した。

「うー…………ビバノンノンってかーーーっ!!!」
 心は半分、日本人。


 当日。このように女の子とお出掛けというのは初めての経験であった夏音は何を着ていくか非常に迷った。
 小さい頃から夏音の洋服をトータルプロデュースしてきた母は不在。服装について聞ける兄弟もいないので、自分だけが頼りだった。おそらく歩くだろうし、カジュアルな格好が好ましいかと考えたが生憎洗濯をため込みすぎて着ることはできない。
 仕方なくタンクトップを二枚重ねた上に、襟が広くて肩出しに近いニットのセーター。ピタッとしたパンツという組み合わせになった。 
 集合の場所に着くと律、澪、ムギの三人が集まっており何やら歓談していた。
「お待たせ!」
 夏音が声をかけると、彼女たちはじっと夏音を見詰めてきた。上から下まで視線が這って居心地が悪い。
「ほ、ほら! やっぱりちゃんとした格好だろう」
「これ、ちゃんとしてるか? どう見ても女物まじってないか?」
「Yシャツメガネが……」
 自分の服装についての話題だったようだ。
「………なかなか気分を悪くする話をされているぞ」
しっかり三人のひそひそ話が漏れていたのを聞きとっていた夏音。全然声が潜まってないもの。
 するとバツの悪そうな顔をして律が笑った。
「いやー。夏音がどんな格好してくるか予想してみようって盛り上がっちゃってさー」
「別に気にしてないケドさ。この格好って変?」
「いえ、とっても似合ってますよー」
「よかったー。俺、あまり自分で服装決めないから悩んじゃったよ」
「じゃ、いつもは誰が決めてるんだよ?」
「母さんが俺の服選ぶの好きなんだ。今までは母さんが寄越してくるやつを言われた通りに着てました」
「ま、マザコンかよ……」
 律が「うっ」と身を引いた。幸いにもそれが夏音の耳にとまることはなく、むしろ上機嫌で笑っていた。
「そっかー。俺のセンスでも案外イケるんだなー。気分がいいからみんなに冷たいものでもオゴっちゃおうかなー」
「素敵よ夏音ちゃまーん……おっ唯だ」
 態度を180度ほど急変させた律が尻尾を振っていると、横断歩道の先に唯の姿を発見した。
 自分以外が既にお揃いであることに気がついた唯は急いで横断歩道を渡ってくる。はずだった。
 通行人とぶつかる。
 犬と戯れる。
 百円を見つける。
「あと数メートルなのに……なぜ辿りつかない!?」
 全員の心が一致した。

 
 五人集まったところで、さっそく商店街の中を歩いて楽器屋へ向かうことになった。
 聞くところによると、唯は母親にお小遣いの前借りをしてもらって、何とか五万円を用意する事ができたそうだ。
「これからは計画的に使わなきゃ!」
 それは厳しい戦いになるだろう。それでも唯はうきうきしながらむん、と意気込んだ。
 これから使えるお金が少なくなるとしても、もうすぐギターが買えるのだ。
 まさに前途洋々の気分なのだろう。
「……使わなきゃ……いけないんだけどさ……今ならこれ買えるっ……」
 唯は商店街の洋服屋のウィンドウの中の服の目の前に張り付いた。
「これじゃ前途多難ってやつだね」
 夏音はふっと溜息をついた。律がこーらとたしなめるも「少し見るだけだからっ」と言い置いて唯は店内へ走っていってしまった。その後を律が仕方なく追う。
夏音は肩をすくめて、澪と視線を合わせた。夏音が先にいこうか、と言いかけたところで。
「しょうがないな……私たちも入るか」
「そうねー」
「え、そうなの?」
 当然のように澪が言うもので度肝を抜かれた。
(俺が、この店に?)
 見るからに女の子の洋服屋さん。ファンシーな外装。
 澪たちはさっさと入店していった。独りで残されるのも嫌だったので、夏音もしぶしぶ店へ入ることになった。ふりっふりできゃぴきゃぴな世界の中を迷子になりかけた中で、自分が普段着ているような物がレディースとして売っている事に瞠目した。
「へー。女の子も着るんだー」
 新作のワンピースを本気で店員に勧められた時は、涙しそうになった。
 精神をがっつり削られて、やっと店から出たと思いきや、次は雑貨屋。デパートの地下と寄り道は続く。
 途中に寄ったゲームセンターで夏音のテンションが上がったせいで、長く時間を潰した後、一同は喫茶店でひと息ついていた。
「ひひー買っちったー」
 律も買い物をして満足。あー楽しかったまた来ようね、とその場に共通の充足感が満ちた時。
「でも、何か忘れているような……」
 唯がそう言った瞬間、夏音はついに叫んだ。
「楽器屋だよっ!!!」
「あっ、しまった!!」
 一同は当初の目的をすっかり忘れていたことに震撼して、ばっと席を立ち上がった。
 ちなみに、そこのお茶代は夏音がすべて出した。颯爽と伝票をもって会計をすませてきた夏音に四人の女子の評価がぐんと上がる。

「10GIA」

 ここのビルの地下に目当ての楽器屋があるという。一行はエスカレーターで下の階におりて楽器屋に入った。
 店内に入ると、静かなBGMやギターが試奏されている音が耳に入った。
 唯には壁一面にかけてあるギターやベース、弦やシールドにエフェクターなどの光景が真新しく映っているようだ。
「すごーい! ギターいっぱい!」
 新鮮な反応に夏音の頬もゆるんだ。
「ねえねえ夏音君。このギターって……」
「それはヤメトキナ。ジミー・ペイジになりたいの?」
 初心者にはまずおすすめできるものではない。
 夏音もビリー・シーンを真似てツインネックベースをオーダーメイドさせた過去があるのであったが……今ではあまり使わない。
「唯ー何買うか決めたー?」
 律が急かすように唯に問うが、ぱっと決められるものでもないだろうと夏音は呆れた。
「うーん……なんか選ぶ基準とかあるのかなぁ?」
 当然の疑問である。
「まあ音色はもちろん。ネックの太さや重さ、フォルムなんかもたくさんあるからね。ただ、その予算で決めるのであれば見た目を重視した方がよいかもしれない。あとはフィーリングで」
 すらすらと説明した夏音をよそに、唯は思いがけない代物に目をつけてそちらに気を取られていた。
「聞いてないですね唯さん」
 顔をひきつらせた夏音であったが、唯が夢中になっているギターを見て、目を軽く見開いた。
「へえ。レスポールか……またすごいのに目をつけたねえ。その予算じゃ到底買えないよ」
「このギターかわいい~」
「あくまで聞かないねえー唯さん」
 さすがに肩を落とした夏音であった。
「そのギター25万もするぞ?」
 律が値札を見てたまげた。
「ほ、本当だーっ。これはさすがに手が出ないや~」
(やっと気づいてくれたか唯よ……)
 律が別の場所に安価なギターがあると指摘したが、唯はそこを頑なに離れようとしなかった。
 よっぽどそのレスポールに惚れてしまったのだろう。
 ただ、夏音は初心者がいきなりギブソンというのもどうだろうと思った。はじめから良すぎるギターを使うのもどうかと思うし、良いギターでいえばストラトの方が扱いやすい。それにレスポールは折れやすいし曲がりやすい。やはり、初心者が扱うのには少し難儀する代物なのである。
「唯、このギターはもう少し唯がギターを続けてからにしない?」
「え、なんで?」
「まあ、いろいろと難しいギターなんだよ。丁寧に扱わないといけないし、いきなりこんな高いギターを買わなくてもいいと思うんだ」
「ええー、でもこれが気に入ったんだモン……」
あくまで引き下がらない唯に夏音も微妙な表情になる。
(フィーリングが大事なのもわかるけど……金銭的になぁ)
 そんな唯を見て何か思うところがあったのか、澪が「そういえば……」と自分が今のベースを買った時の話をした。澪も今のベースを買った時に悩みに悩んだそうだ。レフティは数が少なく、種類も多く選べない。ピンからキリまで値段があるとしても、ちょうど良い価格帯で探すことは難しいのだ。
 ちなみに律がYAMAHAのヒップギグを買った「値切り」話はいっそ感心するくらいであった。それを唯に求めるのは無理な話だが。
「とりあえず、試奏でもしてみたら?」
 夏音がそう提案すると、唯はきょとんとした。
「しそー、って何するの?」
 思わずこけそうになった夏音。何とか踏ん張って、目の前のほんわか娘に説明した。
「実際にこのギターを弾かせてもらうんだよ。実際に弾いてみないと分からない事もたくさんあるだろう?」
「で、でも私ギターまだ弾けないし……」
「あ、そうだったよね……なら、俺がちょっと試しに弾くよ。確認したいこともあるし」
 と夏音は店員を呼んで試奏をさせてもらうことにした。防犯用のタグを外した店員がレスポールを片手に夏音に聞いた。
「アンプはどれ使いたいとかありますか?」
「あ、ならそのマーシャルで」
 店員はアンプのところまで夏音を案内した。そのまま近くにあった椅子を引き寄せてセッティングをしようとしたが、あとは自分でやるので、と断った。
 夏音を囲むように軽音部のメンバーが立ち、てきぱきとセッティングする夏音を眺めていた。近くにあったシールドをジャックに差し、アンプの電源を入れてつまみをすべてフラットにする。チューニングを手早く済ませてアンプをいじった。

 唯はその一挙動を頬を赤く上気させて見守っている。
 セッティングが整い、夏音はピックを振り下ろした。純正なレスポール・スタンダードの音色が響く。
「おおーーっ!!」
 唯が歓声をあげる。
 そのまま夏音は試奏を続ける。
「イントロ当てゲーム!」
 ふふふ、と笑ってブルージーな曲調に変えた。
「あ、この曲は……クラプトン!」
 横にいた澪が驚いた声を出す。
「次は……天国への階段、だろ! ツェッペリンかぁ」
 律が弾んだ声をあげた。
「あと、……これはわからないな」
 腕を組んで悩む澪に演奏を止めた夏音はにやりと笑って「スティーヴ・ヴァイのソロでしたー」と意地悪く答えた。
「せめてホワイトスネイクの曲にしろ!」
 と律が文句を言った。夏音は店員を呼んでギターを渡した。
「で、試奏してみてどうだったの?」
 唯が拳をにぎりしめて夏音に聞いた。
「弾いてみた限り、特になんの変哲のないレスポールだった。小まめに調整しているみたいだし、あれなら大丈夫だと思うよ」
 にっこり笑って太鼓判を押した。
(それに、ちゃんとしたクラフトマンもいるみたいだし、渡す時に整備してくれるだろうしね)
「それより唯はギターの音聴いていてどうだった?」
「可愛い奴でも割とやる子って感じ!」
「そ、そう……」
 唯の感性はなかなか面白いと思った。
「ていうか! 値段の問題じゃね?」
 律が思い出したように二人の間に割って入った。
「あ、そうだった……」
 再びしょぼんとなる唯であったが、律が思わぬ提案を出した。 
「よぉーーしっ! 皆でバイトしよう!」
「ば、いと?」
 夏音が耳慣れぬ言葉にぽかんとして首をかしげる。
「うん! 唯の楽器を買うために!」
「えぇーっ!? そんな悪いよっ!」
 律の発言に誰しもが面食らったが、唯が一番色を失っていた。
「これも軽音部の活動の一環だって!」
「り、りっちゃん……っ」
「私やってみたいです!」
ムギは拳をにぎって顔を輝かせた。
「そうか! うっしゃーーっ!! やぁーるぞーおーーっ!」
 律が拳を振り上げると、ノリノリで従うムギ。
「ばいとって何?」
「仕事のことだよ……私、どうしよ」
 横で呆れたような目をしていた澪が補足してくれた。
「仕事……か」
 彼女たちは、唯のために労働しようと言っているらしい。
「俺、そういう仕事って初めてかも……やってみようかな」 
「えぇー夏音も!?」
 全員、澪が浮かない顔をしていたのは見ないふりをした。


 その夜のこと。
 リビングで独り夕食をとっていると、電話が鳴った。
「Hi? あ、じゃなかった。もしもし立花です」
『俺だよ夏音!!』
「その声は父さん?」
『元気にしていたか?』
「まあね。そっちはどう?」
『何も変わらず、最高さ! 俺にはアルヴィとお前と音楽と……この手羽先があればいい!』
「てばさ…? まあ元気そうでよかったよ」
『夏音。何か変わったことはあったか?』
「………俺、軽音部に入ったんだ」
『ほう……軽音部になー』
「楽しいよ。でも、まだ始まったばかり…………俺は自分のフィーリングが間違っていないと信じているし。心配しないで」
『そうか。なら、安心したよ……夏音。そろそろジョンの奴が可哀想になってきたから、たまには奴の要望にも応えてやれよ。俺の方にうるさくてかなわない』
「まあ、向こうが時間を合わせてくれるなら……」
『まあ、お前にはお前の時間がある。大切にするんだよ』
「うん、あ……そういえば俺アルバイトってやつをすることになった!」
『アルバイト? また、何で?』
「うん、いろいろとね! 想像つかないだろ!? とにかく楽しくやっているよ」
『……そうか。母さんにも代わってやりたかったんだが、あいにく今は外しててな。俺もそろそろ行かないといけない。とにかく元気にしているようで安心したよ夏音』
「うん。母さんにもそう伝えておいて。忙しいならもう切るよ。じゃあね、父さんおやすみ!」
『ああ、誕生日やイースターの時に帰れなくてすまなかったな。愛しているよ、おやすみ』
「俺もだよ。プレゼントは最高だったし、何も気にしていないよ。バイ」
電話を切った夏音はまた食卓についてからあることを父親に言いそびれたことを思い出した。
「こっちでも友達ができたんだ」


 それが全員異性だとは言えなかった。
 

 



[26404] 第四話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/10 02:08
「なんのバイトがいいかな~」
 放課後。軽音部の一同は仲良く肩を寄せて何かの雑誌を熱心に眺めていた。溜め息とページをめくる音が先ほどから連続している。
「やっぱりフリーペーパーじゃあまり良い求人ないなー」
 肘をついて肩を落とす律は「ネットも使うかー」と溜め息をついた。
 彼女たちが真剣な眼差しを向けているのはアルバイト情報が載ったフリーペーパーである。変なところで金をけちったのが災いしてしまったと一同は肩を落とした。
 何故こんな事をしているかというと、先日の話合いで唯のギターを買うために全員でアルバイトをすることになったのだ。   
 夏音は他人の楽器を買うのに働いてあげようだなんてどこまでもお人好しな子達なのだろうと呆れていた。しかし、それは自身にも言えることだ。夏音としても、アルバイトというのも初めての体験である。なかなか面白そうだと自身も興に乗っていた。

「ティッシュ配りとかはー?」
「あれも結構きついらしいぜー」
「ファーストフードなんかどうですか?」
(なるほど、アルバイトにも色々あるんだね)
 夏音はそれらの会話を真剣な表情で何度も頷きながら聞いていた。アルバイト情報誌なんていうものがあること自体、初めて知ったくらいである。
 意外にも働き先を決めることは難儀を極めた。良い条件を見つけたとして、どんな提案が出たとしても、接客を避けられないバイトなどは極度の恥ずかしがり屋の澪にとってハードルが高くなってしまう。無理をすると精神的に多大な苦痛をもたらして屍と化してしまうくらいに重症だということが判明した。
 行く末を心配された澪だが、一同は彼女が屍となるのを防ぐため、遠回りでも他の線で探しているのであった。
「どっこも高校生不可だってさー」
「せちがれぇ世の中だねりっちゃん……」
 そんな会話がしばしば挟まれる。その都度、澪が申し訳なさそうに体を揺するのをムギが慰めるということの繰り返し。エンドレスにループしそうな流れにしびれを切らした夏音が口を開いた。
「この際、少しくらいきつい仕事でも我慢しようよ。世の中きつくない仕事なんてあまりないでしょう?」
 全員が押し黙って夏音の言葉に目を丸くした。
 見るからに「箸より重いものは持ったことありませんわオホホ」な深窓のお嬢様然とした人間から飛び出た全うな言葉が意外だったのだ。
「まあ……夏音の言う通りだよな。私ら全員を雇ってくれるところなんて単発で力仕事ばかりだし……」
「そもそも全員で同じ場所で働く必要あるのかな?」
「それはそうなんだけど。ほら、うちの澪を単独働かせに出すのは心許ないっていうかさ……わかるだろ?」
「なっ! 余計なお世話だ!」
 完全に保護者の視点から悩む律の言葉を聞いた澪が屈辱に赤く顔を染めた。
「それもそうだな」
 夏音がさもありなん、と頷くのを見てとうとうショックを受けた彼女は気付かれないように隅でいじけた。
 放課後をかけて各自で携帯サイトや情報誌とにらめっこしたおかげで、澪にもできる交通量の調査という名前からして楽そうなアルバイトを探す事に成功した。
 ひたすら通りを走る車を数えるアルバイトだという。たったそれだけでお金が貰えるのか、と驚いた夏音は後に少しだけ後悔することになる。
 



 アルバイト当日。
 時刻は早朝の六時。一同が揃って集合場所に向かうと、帽子をかぶった中年の男女が一組待っていた。
「よろしくお願いします!」
 高校生らしく、朝から精一杯のやる気をこめて威勢の良い挨拶をする少年少女に人好きのする笑みを浮かべて彼らは自己紹介をする。女性の方は有坂さん。男性の方は片平さんと名乗った。
「はい、今日は日中気温が上がるそうなので、水分補給だけは小まめにしてくださいねー。それでは、現場に向かいましょうか」
 現場へ向かうにあたって二人一組に分けられ、ひたすら流れてくる車を数える業務につく。難しい業務ではないし、ずっと座っているだけなので尻のしびれとの戦いといっても過言ではないと思った。
 

「あの……他のみんなはどこに?」
 夏音が任された地区は軽音部の仲間達とは別で、彼女達とは二つほど区画を挟んだ道路であった。
「ごめんねー。お友達と一緒の所にしてあげたかったんだけど、人数の都合でしょうがないんだ」
 と派遣員の片平さんは言う。人が善さそうだが、気弱そうな人である。遙かに年配の者が自分に頭を下げてくるのもバツが悪い。
「そうなんですか。わがまま言ってすいません」
 軽く頭を下げると、夏音は支給されていたくっと帽子をかぶった。自分はここに仕事に来ているのであって遊びではないのだ。気を引き締めていかないとならない、という覚悟の表れである。
(しかし立花夏音、なかなかどうして寂しいものだ)
 実は寂しがり屋さんの夏音も時間が経つにつれ、仕事に慣れた。というか孤独に慣れた。作業は本当に車を数えているだけで、もう一生分の車を見ているのではないかと思われた。   
 むしろ睡魔をやっつける方がよっぽど難儀したくらいである。
 このバイトは一区域につき派遣員を含めて三人体制でまわっている。実際に調査するのは二人なので、交替で一人が休憩といったシステムである。ところが、休憩といっても軽音部のメンバーとかぶる時は少ない。用意されたワゴンの中に見知った顔を見つけた瞬間の夏音は尻尾をぶんぶんと振っていたように見えただろう。


 夏音は隣に座る相方の方に目を向けた。自分とペアを組んでいるのは都内にある某大学院で数学を研究しているという寡黙な青年だった。
 ぼさぼさの長髪にメガネ。洗いざらしのブルージーンズにシャツ、という地味な格好。一昔前の日本のフォークシンガーさながらという出で立ちである。彼とは初めの挨拶以来、口をきいた記憶がない。
 向こうが話す気がないのだろうか。それとも体調が優れないようにも見える。この青年、風が吹けば倒れそうというか、夏音が一発はたいただけでKOできそうなくらいゲッソリしている。そう思って見ると、だんだん顔色が青ざめているような気もする。この人ヤバいんじゃ……と不安にかられた夏音はたまらず口を開いた。 あまりに暇だったのもある。
「暑いですね」
「そうだね」
「あれも車に含めていいんですか」
「あれはヤクルトのおばちゃんだから……どうだろう」
「ヤクルト………好きですか?」
「毎日のおやつがジョアさ」
「僕も好きですよ、ジョア」
 夏音は奇妙な高揚感を得ていた。意外にも、会話がつながっている。夏音が思わず手元のカウンターをすごい勢いで回していると、今度は青年の方から話しかけてきた。
「君はどうしてこのバイトに?」
「お金を稼ぐためです。そう言うあなたは?」
「数字が好きなんだ……ひたすら数を数えていられる最高のバイトだから」
 ああ、変態なんですねという言葉をかろうじて飲み込んだ夏音はそれらしく「なるほど」と頷いて曖昧に濁した。
「君、どこの子?」
「桜高です」
「あぁ。あの女子校か……女子校って憧れだったなあ」
「いや、今年から共学になったんですよ? そういう僕は桜高共学化初年度の男子生徒なんです」
 夏音がそう言った途端、青年は一分くらい押し黙る。心配になって青年の顔をのぞき込むと、半分くらい前髪に覆われた顔は限界まで驚愕に固まっていた。まるでサンタクロースの衣装をクローゼットから発見した少年みたいな表情だった。意外に表情豊かだ。
 フリーズから解けた彼はくいっとメガネを押し上げて、怖々と口を開いた。
「そいつは君……実に驚愕の事実だよ……君のこと僕っ娘だとばかり……」
「………僕っ娘は女の子限定の属性ですよ?」
 性別を誤解されることなど、今さらである。しかし、夏音は彼と口をきくのをやめた。
「ところで、君のことどこかで見た気がするんだけどなあ……」
「気のせいです」
 その後、やたらと饒舌になった青年が数学的セックスについて語り出した時も、うんざりと道路の車に意識を集中させていた。

 時間はじっとりと過ぎていく。

 太陽も昇りきったところで、休憩の時間になった。
 向こうの配慮により、お昼の時間を合わせてもらったので、夏音は急いで他の皆の場所へ向かった。
 一刻も早くムギのお茶が飲みたかったのである。
 夏音が厳かに瞳をとじて、茶の一滴までも渋い顔で味わうのを不思議な顔つきで見守る軽音部一同の姿があった。それから休憩時間が終わると共に、哀愁を漂わせて帰る夏音の背中をそろって見送った。
 残りの時間、夏音はずっと憮然とした表情で過ごした。隣の青年の変態性が自分に感染らないかと不安になった。

 二日目は中だるみが激しく、大分いい加減なカウントになってしまった。天気だけは良く、爽やかな風が時折吹くのに気分は暗鬱。
 隣で数学の深遠な世界について語る青年の声もお経のように聞き流すことができるようになった。これも仲間のためと思い、今すぐにでも帰りたい欲求を我慢して夏音は乗り切った。
 とはいうものの、我慢もしてみるものだ。過ぎたる毒は、案外気持ちよくなることもある。
 夏音は隣の青年とうっかり会話が弾んでしまったのだ。
 どんな会話が切り口だったかは定かではないが、とにかく音楽の話になった。すると後は超自然的に音楽談義に花を咲かせることになり、実は彼がインディーズシーンにおけるマスメタルバンドの先駆的存在として羨望を集めているらしい事が判明したのだ。
「マスロックじゃなくて?」
「マスメタル、だよ。これでも割と名が知られていると思うのだけどね」
 正直、かなりアングラじゃないかと思ったが、彼が日本においてお馴染みの野外フェスに出場した話もあって、それなりに認められているのだと理解した。
 その後はヘビーすぎる音楽の話を堪能して、「いつか観にきてよ」とライブに誘われるくらい仲が良くなってしまった。
 まったく人は見かけによらない。
 重々承知していたのに、改めて思い知らされた。今回、アルバイトをして良かったと夏音は熱く噛みしめた。
 こうして二日間のアルバイトは終了した。

「二日間、お疲れ様―」
 ねぎらいの言葉と一緒に給料袋が手渡される。初めての肉体労働。その報酬に感極まった夏音が思わず涙をこぼし、それにつられたムギと涙をふきあう微笑ましい場面も見られた。
 本来の目的は唯のギター代を稼ぐことだったので、皆が一斉に受け取ったばかりの給料袋を全額まるごと唯に渡したのだ。
 全員分の袋を受け取った唯の表情が曇っていることに夏音は気がついた。だが、律たちはそれに気付かず他のバイトをやることを検討し始めていた。
 そんな唯の様子を何となく観察していた夏音であったが、唯が吹っ切れたような表情で顔をあげたのを見てなんだろうと首をかしげた。
「やっぱりこれいーよ!」
バイト代は自分のために使って――そう言って、唯は給料袋を全員の手に返す。
「私、自分で買えるギターを買う。一日でも早く練習して、皆と一緒に演奏したいもん! また楽器屋さんに付き合ってもらっていい?」
 全員が唯の決断に呆気にとられていたが、ふと顔がほころんだ。
 首を横に振る者などいなかった。

 夏音は小さくなっていく唯の姿を再度振り返って眺めた。
「いい子だな、唯は」
 ぽつりと呟いた夏音は、そんなに欲しいのならレスポールくらい手に入れてあげようかと考えた。
(すぐにでも……)
 思考が段取りを踏もうとしたところで、首を横に振った。
「やっぱりやめた。唯が決めたことだもんね」
「おーい、夏音! 置いてくぞー!」
「あぁ、ごめん今いく!」
 もう一度だけ唯の姿を視界におさめ、夏音は足踏みして待っている律たちの方へ駆けだした。

 
 そして、ついに唯のギターを決める日がやってきた。
 実のところ、夏音は内緒でまたあの楽器屋へ通ってちょうど良い価格で良さげなギターを見繕っていたりした。けれども、結局選ぶのは唯なので意味がない。そこは巧みな話術で唯を操って……と思い、ふらふらーと浮き足立つ唯に話しかける。
「あ、あのさー唯ちゃんや? ここらへんのギターのー……このへんの……これとかいいと思うんだけどなー……って唯?」
 さりげない態度で誘導商法を試みた夏音であったが、じっとしゃがみ込んだ唯の視線の先を追って眉を落とした。
 言うまでもなく熱い視線の先にはレスポールが光沢めいた光を放っている。同じように唯の様子に気付いた律と澪も仕方ないなー、といった表情で苦笑する。
「唯? よかったら買わなくても、弾くだけ弾いてみる?」
「うーん……それはいいや。あとちょっとだけ見させてー」
 まるで買って欲しい玩具をねだる子供そのものだ。
 夏音は肩をすくめて「見るだけって言っても……」と戸惑った。他の者に困惑した視線を向けると、澪と律が苦笑まじりだが、確実に嬉しそうに笑っていた。
 二人には唯の気持ちが十分に共感できるものだったし、仕方ないなと言った心持ちであった。
「ちょっと……ちょっと待っててください!」
 突然声を荒げたムギに「おや?」とした顔を見合わせた一同だったが、ムギが敏捷な動きで店員の方へ駆けていく様子を見守った。
 何やらムギが熱く語っている。しかし、相手をしている店員の顔が青ざめて見えるのは気のせいだろうか。
「ひ、ひぃっ」
 という悲鳴らしき者が遠くに聞こえた気がした。
「あの店員やけに焦ってないか?」
 律の指摘に、全員がうなずいた。そして、るんるんと上機嫌で戻ってきたムギが放った一言に度肝を抜かされた。

「このギター、五万円でいいって!」
「えぇーーー!!?」
「Jesus…!!!」
「な、なになに!? ムギちゃん何やったの!?」
 どう考えても怪しすぎる展開に唯が青くなってムギに詰め寄った。するとムギは照れくさそうに説明する。
「このお店、実はうちの系列のお店で……」
「そうなんだぁー。ありがとう、ムギちゃん! 残りはちゃんと返すから!!」
 唯は深く考える事をやめて、素直にムギへの感謝を述べた。そんな唯とは裏腹に、何という無茶苦茶な展開だろうと夏音は唖然としていた。琴吹家の財力や事業内容も気になるところだが、実家の権力を躊躇なく使ったムギも疑いなく二十万の値引きを受け入れた唯も思考回路が一般と画されている。
 二十万といったら新卒の初任給に相当する。新卒の給料一ヶ月カットするのと同義であるのに。
「ま、使えるものは使えばいいかな」
 幸福の絶頂かのように喜び跳ねる唯を見ていたら力が抜けてくる。やれやれ、と息をついた夏音は改めて彼女の表情を見やった。
 瞬間、胸がズキンと痛んで何とも言えない切なさを覚えた。
(ギターが手に入るのがそんなに嬉しいんだ……)
 夏音にもあっただろうか。
 こんな感覚。
 ずっと昔、初めて楽器を手にした時にもこんな風に打ち震えるような喜びを抱いただろうか。
 彼女の純粋無垢な喜びに触れたせいか、胸がどきどきとする。
 悲しいせいか、嬉しいせいか。どっちつかずの感情はすぐに皆の歓声に紛れた。
「おめでとう唯!!!」


 数日後、メンテナンスや最終チェックを終えて、ついに唯の手元に渡ってきたギターのお披露目が行われた。繊細な硝子細工を扱うようにそっとハードケースの中からギターをとりだした彼女は、ぎこちない様子でストラップを肩に下げた。そして、じゃーんとギターを構える唯の姿に軽音部の一同から拍手が起こった。
「ギター持つとそれらしく見えるね!」
 澪がいつになく興奮した口調で言った。
「なんか弾いてみて!!」
 律も同じように唯に声をかけたのだが、そこで唯が弾いたのはなんとも間抜けなメロディー。
「チャルメラかよ……」
 律がげんなりと言う。
(チャルメラってなんだろう)
 日本ではお馴染みの曲だが、夏音にはよく分からずに曖昧に笑っていた。
 すると話はギターのフィルムについての話題へと移行する。未だにギターのフィルムを剥がしていない事を律が目敏く発見したのだ。理由を尋ねると、唯がよくわからないギターの可愛がり方をして過ごしているということが判明した。
「添い寝はやめなさい。下手したら折れちゃうよ」
 それだけは釘をさしておかねばならない。折れやすい、レスポールちゃんは弾く時は悪魔のように大胆に。触れる時は赤子に触れるように繊細に。
 その後、律がフィルムを勝手に剥がして唯を泣かしたが、結果的に唯を練習へ向かわせたので結果オーライ、と夏音は満足だった。
「ライブみたいな音出すにはどうしたらいいのかな?」
と唯が言い出したので、部室の倉庫にあった古いマーシャルのギターアンプにつないでやった。
「よし、これで音が出るよ」
 サムズアップをして、唯に弾くように指示する。
 そして緊張した表情で唯がギターのネックを支える。
 右手が振り上げられ、下ろされる。
 響くレスポール、ハムバッカーが拾う弦の振動。
 ただの開放弦だ。音色とも言えない、微かなノイズまじりの音。
 そしてサスティーンが伸びきって、じょじょに消えていく。

 夏音は全身に鳥肌が立った。脳に電極をぶっさして雷でも落とされたかのようだ。
 何の予兆もなく、襲いかかってきたこの震え。遅れて、自分がこんな感覚を全身に迸らせていることに震撼した。
(何だよ…こんな……ギターを鳴らしただけじゃないか)
 夏音は唯の表情を見て、この間自分が覚えた感覚の正体が何か分かったような気がした。
 これは産声である。自分が初めて出した音が彼女の胸を魂を深く震わせている。喜びの歌声だ。

―――これどうやっておとだすのー? ――

―――ハハ、ここをこうおさえて弦を弾いてごらん――

―――す、すごいっ! おとがでたよっ――

―――ほぅほぅ、大したもんじゃないか――

(俺は……こんな感覚、とうの昔になくしていた)
 彼女を見ていて、脳裏をよぎる遠い記憶。
 唯の向こう側に幼いころの自分の姿が見えたような気がした。
(うらやましいな)
「やっとスタートだな」
 自分には、二度と取り戻せない感覚。夏音が深い思いに耽っていると、澪が神妙な口調で言った。万感の思いを織り込んだような声だった。
「私たちの軽音部」
 律が続ける。
「ええ!」
ムギが静かに、力強くうなずいた。
「俺たちの、軽音部……俺たちの、軽音部か」
 夏音の胸に目が覚めるような爽快な風が吹いた。ドクドク、と皮膚の裏を走るナニカが夏音を突き動かす。
 自分もまた新しい音楽を。
 改めてこの場所で、一から音楽に触れていき、育む。
(俺、ここに来て良かったのかも)
 夏音は軽音部に入る事を決めた(やや強制だった)自分のフィーリングは間違っていなかった。
「目指すは武道館ライブーー!!」
 律が声高らかに叫ぶ。あまりに大きく出た律の言葉に驚きの声があがるが、夏音はいっそ清々しかった。未来の事はわからない。もしかすると、このメンバーで武道館にあがる未来が来る日があるのかもしれない。現実的に考えると叶わない夢である。
 けれども、それがただの夢物語だとしても、本当に実現できたら。夏音は自分は夢想家ではないと思っているが、そんな未来がやってきたら大層面白いことだなと笑った。
「卒業までに!!」
「それは無理だろ」
 おまけにチャルメラとかいう謎のメロディーを加える唯に、盛り上がった空気が完全に抜けてしまった。
「ご、ごめん。まだこれしか弾けないやー。アンプで音を鳴らすのはもう少ししてからだねー」
 すると唯はアンプに近づき、つまみに手をかけずそのままジャックに手をかけ――、
「って、唯っ! 危ないっ!!」
 澪が叫ぶが、間に合わなかった。そして大抵の初心者が一度は聞くハメになる爆発音が部室に響いた。
 もう、辛抱できなかった。それを見て、夏音は盛大に笑い転げた。
 唯を注意していた澪だが、過呼吸気味に陥るほど腹を抱える夏音に若干顔をひきつらせせた。
「ひどい! そんなに笑わなくても~!」
 唯は頬をふくらませる。
「い、今の……そんなにツボる所あったかー……?」
 律は、儚げな美少女が床に転げるほど笑いまくる様子に目を背けたくなった。
「あー楽しいじゃないか軽音部!」
 これから、もっと楽しいことが起こるに違いない。



 その後。
「よし、唯にギターを叩きこむかー」
 先ほどの醜態から一転して、俄然やる気の闘志を燃やす夏音であった。
「あ、そうそう夏音くんや」
「何かな?」
「私、夏音くんがこの間弾いたの聴いてすっごい感動した! 私も早くあれだけ弾けるようになりたいので、よろしくお願いします先生!」
(あ、せん……先生……先生……甘美な響き)
「俺の特訓はきびしいぜ? やれるかい嬢ちゃん」
「覚悟しております! サー!」
「その意気やよし。まずはコードをおさえてみようか」
「サー! コードってなんですサー?」
「あれ、どこから教えればいいんだ……」
 思えば、夏音は一から楽器を教えるのは初めてであった。夏音が頭を抱えるのを見て、唯もつられて難しい顔をした。
 むぅ、と二人がうなった。



 ※今回、少し文量が少なめです。



[26404] 幕間1
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/10 04:04
 一般にひきこもり生活というのは、文字通り自分の部屋に一日中こもって出てこない状態を指し示すはずだ。
 引きこもった人間は、徹底的に他人と接触するのを拒み、それは家族とて例外ではない。
 日中は家族と顔を合わせることを避け、食事は部屋の前に置いてもらう。家族と出会うリスクを回避するため、小用などはペットボトルに。
 清潔な者は家族不在の間隙を縫うようにシャワーを浴びる。これらの行為には、殊更家族のスケジュールを把握している必要があるが、うっかり母親と鉢合わせしてしまうことも。
「○ちゃん……!」
「くっ!」
 息子は母親を押しのけて自分の城へケツまくって逃げ帰る。
 夜中に耳をすませば、ふとドアの向こうに聞こえる家族の嗚咽。

 とにかく。これが引きこもりのステレオタイプだ。

 しかし、立花夏音においてはその全てが当てはまらない。
 彼の場合、ひきこもると言っても学校に行かないという点以外は、実にのびのびとしていた。まさに毎日が休日、という生活。
 もっぱら楽器を触るか、作曲。もしくは引きこもり生活中盤からは漫画やアニメ作品を漁るように鑑賞するという循環で一日が過ぎていった。
 彼は外に出るのが怖くなかったのだろうか。
 もちろん、初めは外に出ることもままならなかった。初めはまさに自宅引きこもり状態だったのが、徐々に表に出るようになったのは、もともと夏音が通った高校が遠く離れていた事が大きい。学校から自宅まで、電車で言うと八区間ほどの距離があったのである。
 彼を外に出す要因の一つとして、彼は自らの容姿を隠したことも大きい。
 日本ではやたら目立つブロンド色に輝く髪。母親譲りの髪を彼は気に入っていたが、身の安全のために一時的に捨てることにした。どう足掻いても日本人には見えない顔だけはどうにもならないが、眉毛と睫毛の色も日本人にまぎれる黒色にしたのだ。ちなみに、彼が体のどこまでを染めたのかは明らかにされていない。
 ぱっと見て元の彼を知る者が目撃しても、一瞬で彼とは分からないくらいに変化することに成功した。息子の変化をそっと見守っていた立花夫妻もその徹底ぶりに感心するくらいだった。
「黒いのも素敵よー」
 と母のアルヴィは喜んだのも束の間。「ママとお揃いだったのに……」と悲しみに打ちひしがれた母親を慰めるのに息子は苦心したという。
 一方、父である譲二は純正日本人として黒い頭髪を持っていたため、やっと息子が自分とお揃いになったと喜んだことは秘密であった。言葉にすると、妻の逆鱗に触れてしまうからだ。
 このように外出することに徐々に躊躇いがなくなってからは、良くドライブなどに出かけることもあった。
 というのも夏音はアメリカにいた頃、十五歳でパーミットを受け、日本に来る二ヶ月前に自動車運転免許を取得していた。
 免許を取得して一年が経っていたので、日本の学科試験を受けて日本でも公式に車に乗ることを認められた訳である。
 夏音の現在の年齢は十七歳。日本では十八歳からの取得になるのだが、驚きの国際ルールである。

 ちなみに彼は、自分が軽音部の皆より年上だという事は打ち明けていない。
 秘密ばかり抱えている、と夏音は悩む。
 いつかこの肩に背負う荷物を下ろせる日を考えねばならないと思った。

 両親が自宅に帰っていた時は、親子でよくセッションをして過ごした。
夏音の自宅、高級住宅街にそびえ立つ三階建ての家には広大な地下室が備わっている。あらゆる機材が揃っており、完全防音のスタジオである。夏音の部屋も所狭しと機材が置かれてあり、またこの部屋も防音仕様という充実。
 ロハス一家、ここに極まる。

 いつまで、この生活を終えようかと考えることもあった。それでも煮え切らない自分は考えを先延ばしにしてばかり。
 このまま、アメリカの親友が自分をぶん殴りにくるまでのんびりしていようか。それとも、とっとと元いた場所へ帰ってしまうのもいい。
 夏音は考えるばかりで、引きこもり生活を続けていた。

 今、夏音はひきこもり生活をやめた。
 新しい世界に飛び込むことにしたのだ。
 新しい仲間。
 軽音部。


「一人で作業はしんどいなあ」
 夏音は汗をぬぐってガレージにしまってある大型ワゴン車にせっせと機材を積んでいた。
 ギターアンプにベースアンプ。見るからに重そうな機材を車に運び入れる作業は骨が折れる。この場にあるのは小型アンプではない。ヘッドとキャビネットに分かれた高出力アンプである。さらに、500Wのモニターを二つ。小型のチャンネル数の少ないアナログミキサー。その他もろもろ。

 結論から言うと、軽音部には最低限のまともな設備が整っていなかった。先々代、いや先々々々々々代くらいの先輩方が遺していった過去の遺物が物置に放置されてあったものの、その機材設備のあまりの悪さに耐えきれなくなった夏音は、自宅から機材を運び入れようと奮起したのである。
 唯も澪も、あんな小さなアンプでやるより出力が大きいアンプでやった方が楽しいに違いない。夏音としても、自分が慣れたアンプの方がいい。
 ちなみに今運びこんでいるものだけで、総額百万を超える。
 こんな高いものを揃えて盗難の心配がないのだろうか。そんな心配も無用であった。
 それらのアンプは本命が壊れた時に使用するサブとんでサブであったのだから。
 夏音はたっぷり一時間半を費やして積み込みが終わると、へとへとになりながら車を走らせた。
 日本の住宅街の狭い道をゆっくり走り、大きな通りに出てからはものの十分ほどで学校に着いた。桜ヶ丘高等学校では、生徒が免許を取得すること、ましてや生徒が学校に車で来ることは原則的に禁じられているので、車は近くの路上に止めた。そもそも、向こうで取ったものは仕方がない。
 夏音は併せて持ってきていた業務用の台車を下ろすろと、苦労してそこに機材を乗せた。動いて落ちたら困るので、紐で固定することも忘れなく。

 今日は日曜日なので、学校には部活動に来る生徒しかいなかったが、それでもすれ違う生徒から注目を浴びてしまう。
 傍目には、重量級の機材を載せた戦車のような台車を押す美少女。なかなかシュールな光景である。
「しまった……階段、ムリ」
 うっかり夏音。今さら頭を抱えても遅い。自らの浅慮な行動を悔いたところで、フォースを使えるようになる訳でもないのだ。
 夏音ががっくり膝をついて途方にくれていると、ぶっとい胴間声を響かせて走ってくる集団が廊下の向こうに現れた。胴着を着た少女達の気合いがこちらまで伝わってくる。
(柔道部、かな)
 柔道部という事は、それなりに力があるはずだ。少なくとも、自分なんかよりは。

「ま、待って! そこ行くお嬢さん!!!」

 凄いスピードで通り過ぎようとする集団に、声をかける。
 良く抜ける声は、無視する事を許さない。真っ直ぐに鼓膜を揺らして、相手に届く。
 すると、先頭の主将らしき少女(二の腕だけで夏音の腹より二回り大きい)がその顔面に大量の汗と戸惑いを浮かべて立ち止まった。ぐったりした様子で床に女の子座りしている美少女が突然声をかけてきたのだ。困惑するのも無理はない。
 ほとんどのエネルギーここまで来るのに使い果たした疲労紺倍の夏音はまるで薄倖の美女のように映り、物語に出てきそうな少女の様子に顔を赤らめる者もいた。
しかし、視線をずらせばとんでもねー量の重量機材。果たして、この組み合わせは何だろうと首を傾げるのも無理はなかった。
「なんだっ! この柔道部主将・範馬魔亜娑にいかなる用向きだというのだ……む……ウハッかわええ子」
 黒帯をぐいっと締めて主将らしき少女が夏音を見下ろした。言葉の最後に危険な単語が潜んでいた気がした。
 あえて突っ込むのはよそう、と本来の要件を思い出した。
「すいません……助けてください」
「な……っ!」
 かろうじて細腕で体を支える夏音。もはや女の子座りから浜辺の人魚のような姿勢になっていたが、その実、乳酸がたまった腕が痙攣を起こし始めていた。立ち上がろうとして手を使ったのはいいものの、全然体を支えられない。
 すると、生まれたての仔牛のようにプルプルと立ち上がろうとする夏音をがっしりつかむ腕があった。
「む?」
 ふいに自分の腕を支えるように手を伸ばしてきた魔亜娑の顔を不思議そうに見詰める。
「私達にできることがあるのならば……何でも言うがいい」
 彼女の瞳には熱く濡れるものがきらめいていた。それだけでなく、鼻から二筋垂れる赤い線が目に付く。鼻血だ。彼女は自分をじっと見詰めて何度もうなずいている。
「何か顔から色々噴き出てますよ」
「今にも折れてしまいそうな美少女が震える体に鞭打って何かを訴える……これで心動かされずにいられるだろうか!」
「はぁ、そう……」
 変態である。最近、変態によく遭遇するなと思った。
 気にくわない単語が幾つか飛び出たが、その前に魔亜娑が掴んでくる腕の力が気になった。それ以上力をこめられたら折れそう。
「何でも言ってくれ美少女!」
「そ、そう。ならお言葉に甘えて……えーと、この機材を音楽準備室に運ばなければいけないんだけど、頼めますか? あと美少女じゃなくて……」
「おう一年コラ!」
「押忍!!!!!」
 とんでもない音圧ある声が響く。思わず、夏音の肩がびくっと跳ね上がった。
「これも練習の内と心得よ! この今にも根本から折れそうな美少女を手伝ってさしあげるのだ!」
「押忍!!!!!」
「いや、根本から折れるって……だから俺は女じゃなくて……」
「可愛いあの娘は」「えんやこら!」「美女のためなら」「えんやーこら!」
 生まれてくる性別を間違えているのではないか、と夏音はゲンナリと機材を運び出す彼女たちを見て思った。 
「あの……ありがたいけど、慎重に扱ってください……」
 夏音は音楽室に全ての機材を運んでくれた柔道部の面々に礼を言った。深々と頭を下げると、そんな礼とかはいいから連絡先を書いて寄越せと言われた。完全に下心じゃねーかと、丁重にお断りした。
 機材を配置する。懸念していた電源の位置や数の関係も、特殊なケーブル、トランスをもちこんだので問題なかった。
 しばらく作業をして、楽器を演奏する部活らしい部屋になったと夏音は満足気に部室を見渡した。
「明日、みんな驚くかなー」
うくくっと笑みをこぼして部室に施錠をして帰宅したのであった。

 後日。
 週明け。
 放課後。
 軽音部の部室にて。
「ぎゃ、ギャーーっ! な、な、何じゃこりゃー!?」
 わくわくしながら一番乗りで部室にスタンバイしていた夏音は最初に訪れた律の反応を見て、悪戯が成功した少年みたいに笑った。
「昨日、持ってきたんだ!」
「これを、一人でか!?」
「そのとおり!」
 開いた口が塞がらないといった様子でわななく律を見て、ますます夏音は踏ん反りがえった。
「軽音部の設備があまりにひどいもんでね。家から持ってきちゃったんだよ」
「これ、これだけでいくらだよ……」
 律はふらふらと椅子にへたりこんだ。
「他の皆が来るのが楽しみだなー」
 その後、ムギは一人でこれだけ揃えた夏音を手放しにねぎらい、澪はあまりの光景に気絶しかけ、唯はよく分からなかった様子で「すごいすごーい」とはしゃいだ。


 機材投資は、夏音にお任せ。




 ※幕間は、割と毛色の違った感じになります。これから度々、たぶん四つくらい幕間が差し挟まれますが、本編に重要な事も書いてますので。
  それと、フォレストの方のと同じ流れにするつもりですが、文章などを修正してこちらに投稿するので、こちらの方が完成版に近いつもりです。



[26404] 第五話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/26 21:25
 立花夏音は生まれてこの方、ずっとアメリカで育った。そんな彼は帰国子女と紹介されることが多いが「帰国」したのかと問われると首をかしげてしまう。ちなみに夏音の父親は何を思ったのか、夏音に二つの国籍を持って育つように措置をとったので、厳密に夏音は二つの国籍を持っていることになる。どちらにせよ、ずっと向こうの教育を受けて過ごしてきた彼を見て誰もが日本の高校教育についてこられるのだろうかと疑問を持っても不思議ではない。
 しかし、答えは否。
 ネイティブ並の日本語能力を持った夏音は、自らが入手した新たな趣味、日本の漫画や小説をこよなく愛したおかげで一般の日本人以上に達者な日本語を身につけていた。
 つまり、何も問題はなかったのである。


「やっとテストから解放された~」
 律は部室の中央で、天へと腕をかかげて自由への喜びを叫んだ。テスト勉強から解放された喜びを十二分に噛み締めている学生のよくある姿である。
「高校になって急に難しくなって大変だったわ」
 お茶の支度を進めながらそう呟いたのはムギである。口ではそう言うものの、何でもそつなくこなしてしまうような雰囲気を漂わせる彼女が勉強に苦労するようには見えなかった。しかし、世の高校生は中学時代との勉強の難易度の差に困惑する時期である。中学でそれなりの成績を収めていても、おごってしまったばかりに一気に成績下位に転落する者も多い。いかに優秀な人物でも油断はできないという事かもしれない。
「そうだなー。私も今回ちょっとヤバかったかも……ていうか、もっとヤバそうなのがそこにいるんだけど」
 澪が開放感に満ちあふれた部室でただ一人、暗雲を背負ってうなだれる少女を指さした。
 彼女のとった成績がいかなるものだったか、火を見るより明らかだ。
「唯……そんなにテスト悪かったのか?」
 頬をひくつかせて不気味な笑いを浮かべている唯は、ギギギと不可思議な音をたてて澪の方を向いた。
「ふ、ふ、ふふ……クラスでただ一人……追試だそうです」
そうして、ふらふらと立ち上がった唯が見せた答案をのぞきこんだ全員が青ざめた。
「よく……こんな点数をとれたな」
 夏音は驚愕に目を見開き、思わず手を頬にあてた。これだけの点数だと逆に感心してしまう。
「だ、大丈夫よ。今回は勉強の仕方が悪かっただけじゃない?」
「そうそう! ちょっと頑張れば、追試なんてヨユーヨユー!!」
 顔をひきつらせながらもムギと律がフォローをいれた。きっとそうに違いない。見事な優しさを目にして夏音もうんうんと首を振る。
「勉強は全くしてなかったけど」
 唯はけろりとして言い放った。 
「は、励ましの言葉返せこのやろう!!」
律が怒るのも無理はない。自業自得、因果応報。彼女にぴったりな四字熟語は幾らでもある。
 何故、勉強をしなかったのかと聞かれると唯は勉強もそっちのけでギターの練習をしていたのだと答えた。
「おかげでコードいっぱい弾けるようになったよ!!」
Vサインで勝ち誇る唯。
「その集中力を勉強にまわせよ……」
 完全に馬鹿にした態度をとる律にむっとした唯がじゃあ、と問い返す。
「そういうりっちゃんはどうったのさー?」
「私はホレ、この通りー!!」
そうして律が差し出した答案を見た唯が「うそっ……」と絶望した表情になる。
「こんなの、りっちゃんのキャラじゃないよ……」
「私くらいになると、何でもそつなくこなしちゃうのよーん?」
「そんな~りっちゃんは私の仲間だと信じていたのに」
 さらに高笑いをしつつ、胸を張る律。
「テストの前日に泣きついてきたのはどこの誰だっけな?」
 澪の氷点下を下回る冷たい眼差しが律に向けられた。自信にあふれた態度はただの虚勢だったらしい。
「はっ! そういえば夏音くんはどうだったの!?」
 矛先がこちらに来たな、と夏音は自信をもって答案を差し出した。
「ほぉ~」
「どれどれ……」
 それを唯と律が熱心に眺める。
「英語が百点っていうのは分かるけど、全科目高得点って何!?」
 馬鹿は自分だけだと思い知らされた唯はさめざめと泣いた。
「ココの出来が違うんじゃないかなー」
 自らの頭を指さして夏音が笑う。
「夏音くん……なんて嫌な子でしょう!」
 唯が頬を膨らませて怒る。全然迫力がないので、夏音は肩をすくめて受け流した。
「そういえば、今更だけど夏音はやけに日本語が達者だよな」
 澪がナポレオンパイを崩すまいと真剣な面持ちの夏音を見て言った。
「確かにそうですよね。夏音くんってずっと向こうにいたのよね?」
 ムギがお茶のおかわりを律のカップに注ぎながら、会話に参加した。
「生まれてこの方、ずっとアメリカにいたよ。でも俺の場合、向こうのスクールに 通わされていたし、我が家では『日本語の日」っていうのがあったんだ。父さんが俺にしっかり日本語を身につけてほしかったみたいだよ」
「へぇ~~~」
 一同、感嘆する。
「なんか夏音のお母さんってすっごく綺麗そうだなー」
すると律が唐突に切り出した。
「何で母さんの話なんだ? 今、父さんの話を……」
「夏音は母親似だろう?」
 澪が間髪いれずに聞いてくる。夏音は何故か全員が急に突っ込んできた事にたじたじした。
「いや、まあ似てるとは言われるけど」
「お母様の写真とかってありますかー?」
 ついにはムギがきらきらとした表情で夏音をじっと見つめてくる。
「い、家にはね。今は、ない」
 夏音は居心地が悪そうに体を震わせ、お茶を一気に飲み干した。普段なら家族の事を聞かれると嬉しくなるものだが、何だか不埒な好奇心を向けられている気がしてならなかった。まだ何か聞きたそうにうずうずする視線を向けられたので「さーて」と立ち上がった。
「ベース弾こーっと」
 そう言ってテーブルから離れてベースを取り出す。以前に持ってきていたフォデラではなく、別のベースである。定期的に色んなベースを弾く事も機材管理には必要な事なのだ。
「あれ! そういえば、私夏音くんがベース弾くの初めて見るかも!」
「そうだったっけ?」
「うん! ギター弾く所は何回も見たことあるけどベースは初めてだよ」
「ふーんそうかそうか」
 ならばこの腕、見せつけてくれようと密かに意気込んだ夏音は足下の機材をいじり始める。すると、ふと天啓的な頭に閃きが浮かんだ。
「あ、そうだ律。暇してるならセッションでもしない?」
まったりと紅茶をすすっている律に声をかけた。思えば軽音部に入ってから、まだ一度もそういう”らしい”事をした覚えがない。この機会だからいいかな、と軽い気持ちで誘ってみたのだが。
「え、あ、私っ!? いやいやいや! 今回などは、ちょいと遠慮するかな!」
「何でさ。遠慮しなくていいよ」
「やーだー」 
 全く予想外の拒否反応が返ってきた。
「何でだよ」
 人が誘ったセッションを頑なに拒むとは失礼な、とすっかり機嫌を損ねた声で夏音は律を睨んだ。
 すると、律は目をそらして指をもじもじし始めた。
「だ、だって~私セッションとかあまりしたことないしー」
「私とたまにやってたじゃない」
「澪は黙りんしゃい!」
 澪情報によって夏音の機嫌はますます降下する。
「嘘ついてまでやりたくないのかー?」
「そうじゃないけど……夏音のベースについていけないと思うんすよ」
「何それ!? ついていくも何もないじゃん! 楽しく音を合わせればいいだろ?」
 夏音ダダダッと律に詰め寄って肩をつかんだ。肩をつかまれじっと視線をロックされた律はしどろもどろになる。
「そ、それでも……う~ん……そ、そこまで言うならやってみようか……かな」
 ついに律は夏音の目力に負けてしまった。
「よし、きた!」
 夏音は手を叩いて喜び、急いでセッティングを再開した。
 しぶしぶと立ち上がった律に早くセットするよう促し、律がスネアやバスドラを鳴らすのを待った。
「ふんふん……律、少し気になったんだけど。律のスネア低すぎない?」
「え? 私は思いっきり叩いてダーンって音出る方が好きなんだけど」
「そうかぁ……別に、律の好みだからいいんだけど。今はもうちょっと硬い音が欲しいかなーって。もっとタイトな感じにできないかな」
「うーん、別にいいけど……」
「ま、面倒ならいいや」
 すごく面倒くさそうな律の顔を見たら強制はできなかった。
しばらくしてスティックをつかんで軽くストレッチしていた律は、最後に首をこきっと鳴らして8ビートを刻み始めた。お手本的なプレイである。三点から徐々にライドを絡めて、跳ね気味のドラミングを続けた。普段はほんわかとした空気に満ちる部室だが、誰かが楽器を鳴らした瞬間にそれは軽音部としての空気へと様変わりする。というより、ドラムの場合だとうるさすぎて会話がままならない。
 夏音は律の音をじっと聴きながら、自身の音作りを終わらせた。

「うん、私は準備オッケー!」
 律の準備が整ったらしい。
「こっちもいつでも!」
 夏音はひょこひょこと律に近づいた。
「テンポはどうする?」
 律がスティックを叩いてテンポを示した。
「BPM110だね」
「え、わかるの!?」
 夏音がすんなりBPMを当てたので「絶対拍だ……」と律が瞠目した。自分でさえ分からなかったというのに。
「そうだなぁ……フリーセッションということで! 特に決めごとなしでやろう。Play it by earでね! じゃあ、律頼んだ!」
「え、え、いきなり!?」
 いきなり指さされた律は焦ってなかなか演奏を始められない。たじたじと、どう始めたものかと焦っていた。
「Hey, look!」
 いきなり英語を使われ、律が夏音を見る。
「One, two, one, two, come on Ritsu!!」
 陽気なノリの夏音につられて、律が咄嗟にフィルインからドラムを叩き始めた。律が四小節ほど叩いたところで、夏音もリズムを合わせていく。
 律は夏音の顔を見て、びくりと頬をあげた。夏音は彼女が緊張しているのかなと思った。音が硬いというか、体に力が入ってリズムがよれてしまっている。どちらかというと、夏音のベースに必死に食らいつき、合わせようとしているようだ。
 違うのに、と夏音は首を横に振った。こちらの音をうかがいつつ叩くのでは、まったくノリが生まれてこない。お互いの音を探りつつ、徐々に合わせていくのがセッションの醍醐味の一つであるというのに。夏音は彼女が今まで澪と行ってきたというセッションでは何をしてきたのだろうと不思議に思った。
 しかし、このままで終わらせないのが立花夏音であった。
 ふと夏音が演奏の手を弱めた。ほとんど聞こえないくらいに音が小さくなり、律の刻むビートが宙に放り出される事になる。
 音は何よりその人の心境を伝える。夏音の音を見失ったことで、律のドラムに不安が折り混じる。顔をあげた律が困惑した瞳で夏音に訴えかけた。食い入るように見詰められた夏音は苦笑を漏らした。普段は飄々としている律が「まって、まってよ―」と健気な少女に見えてしまうのだ。まるで保護者からはぐれてしまった子供のように。
 だから夏音はその宙にさまよう手をしっかりとつないであげなければならない。

(こっちにおーいで、っと)

 足下のエフェクターを踏み込んだ夏音のベースが爆発する。
 大気圏から地表まで一気に駆け下りるようなグリッサンドの下降音。とんでもない熱量で軽音部の狭い部室に墜落した。
 それは彼女の反射であった。次の瞬間、律はかっちりと夏音のベースにリズムをはめていた。
 隕石が秒速五一キロメートルで天を下る先に人は何を見るだろうか。脳裏によぎる光景は強制的に大爆発を浮かび上がらせるだろう。それくらい当然の結果として、律は自分が叩くべき場所に逃げ込んだのだ。
 さらに巧妙にシンコペーションを入れられた後には、先ほどまで既にその場になかった物が存在していた。
 グルーヴ。
 二つの楽器のビートが融合してうねるような音の波が誕生していた。
 律の演奏は憑きものがとれたように変化した。肩に入っていた余計な力はどこかへ消えている。
 夏音が挑発するようにオカズを入れると、律も笑ってそれに対抗する。時折、ベースが少しドラムとずれても律が焦ることはない。そうすることで生まれる新たなノリを感じることができるのだ。
 離れるように見えて離れない。曲が崩れそうになっても、夏音がそれをすぐに修正して戻す。

 しばらくセッションは続き、夏音が最後の一音を止ませた瞬間、唯、澪、ムギは二人に盛大な拍手を送った。
 夏音はベースを置くと、スティックを握りしめたまま放心している律に近寄った。
「いやー楽しかった! ありがとう律!」
 笑顔で片手を差し出した。律はぼーっと差し出された手を眺めていたが、顔を赤くして「あ、ハイこちらこそ」と言って弱弱しく夏音の手を握り返した。
「すっごいすっごーーーい!! 二人ともカッコいいーー!!! セッションって初めて見たよ!!」
 唯はぱちぱちと手を鳴らして大はしゃぎであった。
「や、やっぱりスゴイ……」
 呆然と呟いたのは澪である。拍手する事も忘れて棒立ちになって演奏の余韻に意識を持って行かれたままになっていた。
「夏音くん何でそんなにすごいのさ!」
「え、何故と言われても……。練習したからじゃない?」
「私もギターいっぱい練習したらあんな風に弾けるかなー。私も夏音くんとセッションしたいなぁ~」
「そうだな。早くそうなれることを祈ってるよ」


 その後の律といえば、セッションが終わったところでそそくさとお茶に戻ってしまった。「ふっ、いい仕事したぜー」とでもいわんばかりの、爽やかな笑顔であった。それからずっと唯やムギと女三人で姦しいお茶会に没頭している。

(お茶が基本の部活かい……)
 さすがに夏音も半眼になってそれを横目に見ていた。今の感動の余韻はどこにいったのだろう。
 あれ、澪がいないと思っていたら足下にいた。
「うおっ!」
 彼女は夏音が苦労して運んできた自前のアンプの前でじっと見詰めていた。
「どうかしたのか?」
「このアンプ……畏れ多くて使えなかったんだけど、私も使ってみてもいいかな?」
 それが今世紀最大のお願いと言わんばかりに澪は両手を合わせた。
「何言っているんだよ! 最初から使っていいって言ったじゃない? これは澪のために持ってきたような物なんだよ?」
「え……私のため!?」
「澪も、ちゃんとしたアンプで音を出した方がいいと思ってさ。俺も使うからってのもあるんだけど……って澪? おーい? 澪さーん?」
 心なしか顔を赤くして遠い目をしていた澪を現実に引き戻す。
 それからしばらく澪の音づくりに付き合った夏音であったがふと時計を見て、慌てて自分のベースをケースにしまった。
 急に帰り支度を始めた夏音に注目が集まると、夏音は部室の扉に手をかけて振り向いた。
「ごめん! 俺もう帰らないと!」
「用事か何かあるのか?」
 夏音がエフェクターで嬉々として遊んでいた澪が尋ねた。
「ちょっとね。エフェクターは自由に使っていいから、最後にしまっておいてね! アディオス!」
 一同はぽかんとしながら別れの言葉を告げるが、既に扉の向こうへ消え去った後だった。


 夏音は学校を出てから、すぐに目的の場所へ急いだ。今夜、とある知人と会う約束をしていたのだ。学校を出て全力で走ったおかげか、約束の時間を十分ほど過ぎ、待ち合わせ場所の喫茶店の前に着いた。
 そこに見知った人物の姿を見つけて、笑顔で走り寄った。
「How are you John!!」 
 夏音にジョンと呼ばれてニコっと笑みを浮かべたのは、ブロンドの髪を後ろに撫でつけスーツを着込んでいる背の高い白人であった。がっしりとした肉体をスーツの中に隠し、肩はがっしりとしていて、屈強なアメフト選手を思い浮かばせる。
 夏音の姿を確認したジョンも喜色満面で夏音とハグをした。
「会うのは久しぶり、だな。まったく驚いた……まさか本当に日本のハイスクールに通っているなんて!」
 ジョンは夏音が日本の高校の制服を着ているのを見て、大袈裟にのけぞった。
「真面目に学生やってるよ」
「まあ、元気そうでなによりだ」
 ジョンが夏音の顔をしみじみと眺めながら感慨深く嘆息した。
「最後に会った時より、少し大人になったみたいだ。背がのびたのかな……いやしかし、ますますアルヴィに似てきたな」
「本当!? 実はちょっとだけ背が伸びたんだ! 0・5センチくらい!」
 お世辞だったのに、とジョンは心に浮かべた。
「立ち話もなんだから腰を落ち着けようよ」
 夏音は今自分たちが目の前にいる喫茶店を差し、笑った。
「ここジョンの好きなバニララテが美味しいんだ」


 店に入り、注文が来るのを待ってから二人は話を再開した。
 ジョンはひとまずバニララテを一口飲んで驚いた声を出した。
「こいつは……まさしく、バニラビーンズの味を完全に再現している。まいったな」
「だろう?」
 夏音も相好を崩して、同じものを口にした。ジョンはカップをテーブルに置くと、すぐに真剣な表情でさて、と話を切り出した。
「さて。これからは、君をカノン・マクレーンという一人のアーティストとして話をする」
「そうだろうね」
 夏音の表情が真剣味を帯びた。
「そのことだが、まず何回も電話ですまなかった。うっかり時差のことを考えに入れていなかったんだ」
 ジョンは話を始める前に、今までの自分がしてきた非礼を詫びた。
「気にしてないよ。ジョン、あんたは売れっ子敏腕で通してるエージェントだ。俺が勝手に契約待ってーって言ったせいで皺寄せをくらっているんよね。こちらこそ、申し訳ないよ」
「いや、いいんだ。僕はその小っ恥ずかしい形容詞がつくエージェントの前に、いち君のファンだからね。迷惑なんて思っちゃいない―――だが、」
 ジョンは言葉を切り、バニララテを一口含む。
「問題は君がいつまでそこにいるつもりかってことさ」
「それについては……前にも話したはずだよ」
「僕は君の才能が人々の前から一時期でも隠されるべきではない、と考えている。一瞬でもマクレーンから離れてしまう人がいてはならない、とね」
「そいつは随分大きく買われてるね」
 嘆息まじりに夏音は笑う。
 しかし、ジョンは夏音から視線を外さずに続けた。
「冗談でもなんでもない。このまま取り残された君のファンはどうなるんだ!?」
「サイトにもライブでも告知はしただろ? しばらく俺は――」
「普通の男の子になる?」
「まずかった?」
「ひどいなんてものじゃない。なんたって君は普通じゃないのだから」
「おいおい、ハリウッドでも天才子役とよばれる子供は思春期の頃くらいは役者業をやめた方がいいって言われているだろ?」
「役者とは話が違うだろう!」
「ヘイ、そう熱くならないでよ」
 ただでさえ外見によって目立つ二人である。注目を浴びてきていることもあり、夏音は鼻息を荒くしているジョンにバニララテの二杯目をすすめた。
 すると、ジョンはぶるぶる震えたと思うと、とたんに肩を落としてうつむいた。
「夏音は……あの世界に戻らなくても平気だというのか?」
 はじまった――と夏音は思わず天井を仰いだ。
(勘弁してくれー……このアメコミのヒールみたいなナリしてる奴が小鹿みたいに縮こまってんなよー)
 目の前でしょんぼりとしている男は、今この瞬間までこの男の体を覆っていた屈強なオーラの鎧をすっぽり脱いでしまったようだ。
 これをやられた人間は思わず、母性本能らしき感情をくすぐられるという七不思議の一つだ。さすが末っ子。さすが「泣き落としのジョン」。
「だがそれは通用しないよジョニー坊や!」
「そんな! 頼むよー!」
 純真無垢な少年の瞳で詰め寄ってくるジョン。
 夏音はただちに帰りたくなった。
 夏音は上を向いて視線を彷徨わせた後、びしっとジョンに人差し指を突きつけた。
「なら、これだけははっきりしておこうか」
 ジョンは姿勢を正して夏音に向き合う。
「こっちの高校を出るまでは以前のようには活動する気はない」
 きっぱり言い放った夏音の言葉にジョンはずどんと顎からテーブルに沈んだ。
「待ってジョン! そのタイタニックでも沈められそうなご自慢のアゴでテーブルを割る気!? だから、まったく活動をしないという訳ではないんだって!」
「え、それは本当!?」
 ジョン、蘇生。
「ああ。スケジュールさえ合えば、レコーディングとかなら受けてもいいよ。それとカノン・マクレーンとして公に活動するのは無理! それと学校がある日は夜じゃないと無理!」
 夏音が挙げた活動内容をゆっくり頭の中で咀嚼したジョンは、しばし巨大に割れたアゴに手をあてたが、瞬時に手帳を取り出した。
「なら、早速このアーティストのレコーディングがあるんだけど、どうだろう!?」
「早いな!?」
 そうと決まればすぐに動き出すジョンに苦笑しながら、夏音はしばらく二人で予定を合わせた。

 しばらくして話もまとまったところで、ジョンは小腹が空いたと料理を頼んだ。
ジョンはステーキ定食。ポテト。牛丼。ナポリタン。マルゲリータ。それだけでは飽きたらず、食後にジャンボパフェを持ってくるようオーダーした。
「日本のお店は一品の量が少ないね」
「向こうとはいろいろ規格が違うんだよ」
 そんな会話をしながら、二人は料理を楽しむ。
 夏音はこれでも序の口、というジョンの相変わらずの食の量に呆れたが、同時に懐かしさが沸き起こって頬をゆるめた。
「こんな光景も、久し振りだね……」
「ん、何か言ったかい?」
「何でもないよ」
 食後にパフェとコーヒーを楽しんでいたジョンはふと夏音に質問をした。
「ところで、クリスとは連絡を?」
 夏音の表情がその瞬間、固くなる。
「たまに、ね」
「そうか。彼も寂しがっているんじゃないか?」
「まぁ、立花家の奇行は今に始まったことじゃないし。初めの方に……そうだね、去年の夏に一度遊びに来たよ。それからも二ヶ月に一度くらいは電話をしている」
 夏音の語ったそれは全くの嘘である。日本に来てからアメリカから自分を訪ねてきた知人はいない。誰にも居場所を教えていないのだから。
「うん、ならよかった。この間、クリスとマダム・ナーシャがコラボレーションしたシングルが出たが、もう聞いたかい?」
「もちろん。相変わらず、といったところで……」
「ところで、マークは未だに夏音がいなくなったことで騒いでいるらしいけど」
「そうらしいね……最初のうちは一日に三回は熱烈な電話が携帯に来たよ。すぐに解約したけど」
 その時のことを思い出し、夏音はつい青くなった。
「仲が良かったからね」
「……そうだな」
 ジョンとの会話は楽しい。心の芯がぽかぽかしてくる。
 しかし、夏音はこれ以上話しているとあまりに向こうにいた頃のことを思い出してしまう。
 すぐに今を捨てて戻りたくなるくらいな……。
「どうしようもないな……」
 夏音が目を押さえて突然そう漏らすと、ジョンは口をぬぐって夏音にこう言った。
「君が後悔してはいけないよ」
「I know......」
「君がどう生きようと、僕は――僕らは君のことを好きであり続けるし、君の生き方が好きだよ。君らファミリーはどこかぶっとびすぎている感は否めないがね」
「さっきはあんなに喚いていたクセに大人ぶって」
 夏音は拗ねるように口をとがらせた。
「僕は君のことをずっと妹のように思っているからね」
「ほう……俺にそんな冗談を叩いたらどうなるか忘れたのか?」
 ジョンが最後に楽しみにとっておいたパフェのイチゴがまるごと夏音の口におさまった。

 ジョンはこれから都内のホテルで人と会うらしい。
 そろそろ時間だと言って、別れることにした。

「とにかく夏音。今日は君に会えてよかったよ。体には気をつけて」
「そっちこそ。日本にはまた来るだろう? その時はもう少しゆっくり、ね。父さんと母さんもいる時に」
 そう言ってもう一度ハグをしてジョンはタクシーに乗って去った。
 それを見送ってから、夏音はすっかり日が暮れてしまった夜の道を歩き出した。
 外は風が出てきて、少し寒い。
ふと浮かんだのは軽音部の皆の顔だった。
 そのことに少し驚いてから、顔を少し赤くさせて夏音はポケットに手をつっこんで歩き続けた。


 帰宅後、抜群のオーディオ環境がそろっているリビングで録画していたアニメを真剣な眼差しで鑑賞していた夏音。携帯のバイブが鳴り、それを一時停止せざるをえなくなったことに舌打ちをした。
「澪からだ」
【夏音、大変だ。唯が追試で合格しなかったら軽音部が廃部になってしまうらしい……】
「Holy shit......」
 夏音は即座に返信した。
【唯は馬鹿だねー。けれど唯には頑張ってもらわないとね! まあ、何とかなるさ!】
「送信……と」
 夏音は無駄な時間をとった、と再びリモコンをいじってアニメを再生したが、またもや澪からのメール着信で中断させられた。
【そうだな……何とかなるはずだな!】
 澪から返ってきた内容に、うんうんと頷いてからいざ、とリモコンを握ろうとしたが、メールの文章に続きがあることに気がついた。
【ところで、夏音さえ迷惑じゃなければ今度……私のベースをみてもらえないかな?】
 思わず二度見してしまった。
「もしかして……こっちが本題か?」
 まさか、唯の件がフェイントだとは思わなかった。彼女にとって唯と廃部の件は軽いジャブだったということだ。
 夏音は、それとなくこの文章を作った人物について思い浮かべてみた。
 あまり自分を出さない彼女のことだ。この文を打つのにどれだけの勇気が必要だったのだおる、と想像する。おそらく顔を震える手でおそるおそるメールを打つ澪の姿が想像できて、笑ってしまった。
「いいよー、と」
 了解のメールを送信して一分も経たないうちに澪から着信があった。
「澪から……?」
 夏音は首をかしげながら電話に出た。
「もしもし、澪? どうしたんだ?」
『も、もしゅ……夏音ですか?』
「夏音ですよー」
『ベ、ベースの件本当にいいのか!?』
「いいけどー」
『あ、あの……このことは他の人には内緒にしてもらいたいんだけど』
「何で?」
『恥ずかしいからに決まってる!』
 堂々と言われても……と夏音は通話相手に苦笑した。
「ふむ……じゃあ、どこで見ればいいの?」
『あ、部室はだめだよな……どうしようか……』
「俺の家でもくる?」
「はぁーーっ!!」

 ぶちり。
 ツーツーという音が通話終了を教える。

「What the hell happened!?」

 その夜、悶々と女心について悩んだ夏音であった。



※こんな時ですが、投稿します。こんな作品でも、わずか一瞬だけでも気が紛れれば幸いです。 



[26404] 第六話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/26 22:03
 アリとキリギリスという童話がある。この物語は実に教訓めいている。誰もが一度はこの物語に触れ、日頃から努力を惜しまない事の必要性を説かれただろう。それを踏まえた上で、後者にあてはまる少女は友人の前で膝を折って咽び泣いていた。
「という訳で澪ちゃん助けでーー!!!」
「えー、勉強してきたんじゃなかったの!?」
 足下にしがみついてくる唯に仰け反った澪は驚嘆の声をあげる。それを横目で眺めていた夏音は大きな溜め息をついた。
「こうなると思った」
 何とも間抜けな部の危機である。

 事の始まりは唯が赤点をとった事が発端である。誰もが驚愕に顎を落としそうになる点数をたたき出した唯はもちろん追試を間逃れるはずもなかった。部員である前に一人の高校生である生徒は学業を疎かにした上で部活動に励むことなど許されない。文武両道を目指し、学を修める者として本末転倒にならないように、厳しいペナルティが用意されているのだ。
 追試で合格しなかった場合、部活動停止。一人でも抜けてしまえば廃部一直線の軽音部としては、何としてでも唯に追試を乗り切ってもらうしかなかった。まさに、唯の双肩に部の命運がかかっていると言っても過言ではないのである。
「だーいじょうぶ! 今度はちゃんと勉強するもん」
 と余裕風を吹かせていた唯に根拠不明の不安を抱きながら、この一週間を過ごしていた一同であったが、あろう事か唯が泣きついてきたこの瞬間こそ、追試の前日である。
 今さら切羽詰まったのか、唯は泣きながら土下座した。その年にして、見事な土下座である。
 誰もが暗澹たる表情で顔を見合わせた。
「どうするこの馬鹿?」
 と視線を交わす。澪が夏音の方を見詰めてきたが、肩をすくめて首を横にふる反応にむっとした表情をした。
 役に立たない唯一の男を振り切り、立派な男気を備えた彼女は仲間のために救いの手をのばす事にした。
「よし。今晩特訓だ!」
 澪が救世主のごとく高らかにそう宣言した。

「つ・ま・り……勉強会………あるよねあるよね。学園ものには外せないよね!」
「何をぶつぶつ言っているんだ夏音?」
「何でもないよー。Thank you!!」
 律曰く、澪は一夜漬けを教えこむエキスパートらしい。非常に頼れる澪を筆頭に学校が終わってから、時間が許す限り唯に勉強を叩き込むという力押しの作戦がたてられた。
 ということで放課後、唯の家に集まって勉強会が催されることになった。



「今日はお父さんが出張でね、お母さんも付添いでいないから気兼ねしなくていーよ」
 と唯は語る。
「あれ、妹がいるって言ってなかった?」
 妹が一人いる。律はそんな話が前に出ていたような気がして尋ねた。
「うん! 妹は帰ってきていると思うー」
「それだとお邪魔にならないかしら?」
 ムギはかえって遠慮して言ったのだが、唯は大丈夫と気楽な様子で重ねた。唯が良くてもその妹が気にするのでは、という沈黙ができあがる。
 黙々と前を歩く夏音は、背後の三人の会話を聞きながら、じっと思案に耽っていた。
(思えば、日本で年が近い人の家に呼ばれるのは初めてだ)
 一年以上も日本に滞在しているくせに、一度たりともない。
(律やムギはやたらと唯の両親のことを気にしているようだ。友達の家に行く際に何か作法みたいなものがあるのだろうか)
 少なくとも、自分の観てきた作品にそんな描写はなかった。日本人としては当たり前すぎて、丁寧に描かれていなかったのか。もしくは自分が見落としてしまったのか。
 謎が深まるばかりだったので、その横を歩いていた澪に声をかけた。
「ねえ。日本では友達の家にあがる時に何かしなくちゃだめなの?」
あまり大っぴらに聞かれるのも恥ずかしかったので、顔を寄せて澪に耳打ちした夏音であったが。
「ひぃっ!」
「え?」
 今、悲鳴らしきものが飛び出たのはこの目の前の娘からだろうかと夏音は澪を凝視した。
「…………」
「…………」
 耳を押さえて夏音から距離をとった澪。ぷるぷる、と震えている……いや、わなわな、だ。
「い、いきなり耳元で息を吹きかけるなんて……っ」
 澪は自分を守るように腕を抱える。見事に顔が紅葉していた。
「あ、ごめんなさい。くすぐったかった?」
 夏音はすぐに頭を下げた。確かに耳元で言葉を発すると息がかかってしまう。しかし、そんなにも反応するほど厭だったのだろうかと夏音は内心で傷ついた。
 数日前の電話の件といい、最近の澪の様子はなんだかおかしかった。 なんだか避けられているような……しかも、そんな反応は自分限定のようなのだ。なんとか気を落ち着かせた様子の澪は夏音が訊きたいことがあるのだと思いだしたようだ。
「あ、私こそごめん。何か訊きたいのか?」
「いや……そのことはもういいや。それより、ベースの件なんだけど。俺の家はいつでも空いているし、澪が暇な時は俺の家に来て話そうかなと」
「そ、そのことなんだけど!」
 驚いたことに、今度は澪の方から夏音に顔を寄せてきた。若干表情が固い、というより怖い。少しの時間で驚くほど表情がころころと変わって面白いと夏音は感じた。
「その話は今度にしよう。私から頼んでおいて悪いんだけど、今はみんながいるから」
「別にいいけど……そんなにみんなには知られたくないの?」
「そりゃ、そうだよ!」
「わかった。この話は今はやめにする。それより、もう着きそうだしね」
「あ、案外歩いてすぐだったな」
 澪とやりとりをいくらか交わしているうちに、唯の家に着いてしまった。


「さーみんなあがってあがって!」
 唯がごく自然な動作で玄関で靴を脱ぎ、皆に声をかけた。
「お邪魔しまーーす!!!」
 澪、ムギ、律の声が重なる。遅れて、夏音も「おじゃましまーーす!!!」と従う。声がひっくり返った。
 すると、すぐに奥から可愛らしい声が聞こえてきた。
「お姉ちゃんおかえりー」
 ぱたぱたと奥手から現れたのは、まさに唯に瓜二つの少女であった。少女と唯の相違点といえば髪型くらいで、後は見分けがつかない程そっくりである。夏音は「妹って双子だったのか」と瞠目していた。髪型を変えれば見分けがつきそうもない。
「あら、お友達? はじめまして! 妹の憂です。姉がお世話になってます!」
 彼女はしっかりと頭を下げて夏音らに挨拶をしてから、人数分のスリッパを用意し始めた。
「スリッパをどうぞ」
 初っ端の挨拶から、その所作や気配りに至るまでの完璧さを呆気にとられて見守っていた四人であったが、全員が同時に同じ感想を浮かべた。
(できた子……!)
 そして夏音は靴を脱いで家にあがる三人の一挙手一投足を鷹のような眼で見詰め、それに倣ってささっと唯の家にあがった。唯の部屋は二階にあるそうで、何故か夏音は律に小突かれて、先に階段を上らされた。意外に急な階段だ。そのまま唯の部屋へ案内され、腰を下ろした。
 とたんに落ち着く他のメンバーだったが、一人、夏音はきょろきょろと唯の部屋を見回した。
(これが、日本の女の子の部屋か……いいにおいが充満している……俺、ここに居てもいいのかしら)
 気付かれないように鼻を動かす。ずぼらそうな唯であったが、意外に部屋の中は整理されていて、部屋の色彩も女の子っぽい彩りに満ちている。おまけにどこか甘い匂いがする。
「おいおい、夏音~。何をそんなにキョロキョロしてるんだ~? 下着なら、たぶんそこの―――」
 律がそわそわと落ち着かない様子の夏音にちょっかいを出そうとしたが、笑顔の澪に沈められた。それに全員が苦笑していると、できた妹ちゃん――名は憂――が人数分のお茶と茶請けを携えて現れた。
 もはや、皆彼女に喝采を与えたいところであった。
しばらく憂は普段の姉の話や自らの志望校の話などをすると「ゆっくりして言ってください」と言い残して下に降りていった。律が「嫁にしたい……」と小さく呟いていた。


 さて、とさっそく澪が唯の勉強を見始め、ムギもそれに付き合う。
 夏音は煎餅をばりばりと食べ続けながら、それを見守っていたが―――、
(超、気まずい)
 何もすることがない。何かに縛られたようにその場を動くことができないでいた男の子、夏音・十七歳であった。
 同じように勉強を教えるのは澪とムギ任せの律も退屈を持てあました様子で落ち着きなく部屋をうろうろしていた。しまいには棚にある漫画を勝手に漁り、ベッドに寝転がって大声で笑う始末であった。
 よって澪の拳固が彼女の頭に突き刺さった。
 部屋の片隅に人形よろしく置かれた律は自分と同じように手持ちぶさたで大人しくしている夏音に目を向けた。
(律が見てる……知らんぷり)
 かまってオーラ全開の律に巻き添えをくらって怒られたくない。だが夏音の心境など知らない律はぐいっと身を乗り出してきた
「おやおや、夏音くんたら緊張してるのかなー? 女の子の部屋はじめてー?」
(調子にのりだしたなこいつ)
「そんなことはない」
 夏音は面倒くさそうに律に視線を向けずに答えた。
「まーまー、まるで借りてきた猫のようですわよん。あ、一度借りてきた猫のようだって言ってみたかったんだよなー」
「知るかっ!!」
 好き勝手言ってくる律にたまらず声を荒げた夏音であったが、バタンと参考書を机にたたきつけた澪に睨まれた。冷たい目線である。
「夏音……今、勉強中してるんだ。ちょっと静かにしてくれないか」
「っっぐ……Damn!!」
 夏音は何故、自分だけが睨まれなければならないのか、という理不尽さに震えた。澪に怒られた夏音を見て、律はにやにやしていた。それも盛大に。思わず律を睨みつけたが、これ以上関わったら自分が損だと考えた。「はぁ」と溜め息をつき、力が抜けたように夏音は唯のベッドに頭を乗っけた。
(律はあまり相手にしない方がいい……)
 この短い付き合いの中で、しっかりとそれだけは学んだ夏音であった。
(そういえば……)
 夏音は先ほど、憂と皆との間で交わされた会話を思い出す。

「憂ちゃんは何年生?」
「中三です」
「へー、てことは十四歳かな。唯の一つ下なんだね」
(と、いうことは……)
 誕生日の関係もあるだろうが十四歳。
(三つ下なんだ)
 それ以前に、夏音は今まで年の差など気にしていなかったのだが、軽音部の皆とも年齢が違うことをその時初めて意識した。
 律が現在十五歳ということは、二つ違い。まだ誕生日がきていない限り、全員二つ下。
(い、今思えば一人だけオッサンじゃん!)
 問題はこのことを軽音部の誰にも言っていないということだ。澪も年齢に関しては気付いていないというのは間違いない。
(このことはみんなに言った方がいいのだろうか……)
 言うにしても、どんなタイミングで切り出せばよいものか。

 例えば、今この瞬間にカミングアウトしてみたら―――

「Hay, Ladies!! 勉強中に悪いが、実は俺って夢見るセブンティーン」
「ふーん」
 と唯。
「あら、どうりで」
 ムギさん……。
「すまない、今勉強教えているから」
 澪は見向きもしない。律は寝ている。

 ―――という未来映像が浮かぶ。

(ま、いいか。いずれ知られる時が来るだろうし)
 年の事を考えると、急に自分が大人になった気分であった。大人かそうでないか、それは周りの環境がそうさせるものなのだとこの短時間に悟った夏音・十七歳であった。などと考えているうちに、彼の思考は白く溶けていった。
「なんだよ、夏音寝てんじゃんー」
「おい、律! いい加減にしないと……!!!」


 夏音がぼんやりと眼を開けると、みしりと首の筋がきしんだ。
「首が痛い……」
 寝ぼけ眼のまま体を起こすと、軽音部の皆と見知らぬ少女がテーブルを囲んで雑談していた。
「Oops......いつの間にか眠ってしまったのか」
 唯は夏音が起きたことに気付くと、声をあげた。
「あ、夏音くん起きたんだね! ごめんね、あんまり気持ち良さそうに寝ていたから起こさなかったんだー」
「いや、俺こそ寝ちゃってごめんよ」
 頭をかきながら姿勢を正した夏音は、いつの間にか先ほどまで勉強道具が広げられていたテーブルに美味そうなサンドイッチが広げられているのを見た。
「あなたが立花さんね。はじめまして、真鍋和です」
 珍しいアンダーリムの眼鏡をかけた理知的な雰囲気の少女が夏音に話しかけてきた。
「夏音でいいよ。こちらこそ、よろしく」
「サンドイッチ作ってきたから、よかったらどうぞ」
 夏音は目の前の美味しそうなサンドイッチを差し入れてくれた少女を目を輝かせて見つめた。
「ありがとう! お腹空いてたんだ!」
 それから、ひとときの間サンドイッチをつまみながら和が唯の小学校時代のエピソードなどを語った。どうやら、唯とは幼稚園以来の幼馴染らしい。
 幼馴染といえば、澪と律も小学校から一緒で、掘ってみればいろんなエピソードがあるもので、皆で笑いながら楽しい時間を過ごした。
 しばらくして和はあまり邪魔したら悪いから、とすぐに帰った。


 唯の勉強はその後すぐに再開された。仲間を巻き込んでいるという自覚によって集中を増した唯は次々と問題を解きこなしていき、夜が更けて数時間が経ったところで澪の及第点が出て終了となった。
「よし! これだけ解けたら大丈夫だろー!」
「これで追試もばっちりね!」
 長い時間、自分の勉強に付き合ってくれた澪とムギに唯は深々と頭を下げて拝んだ。
「本当に言葉もありません……うぅ」
「今度きちんと返してもらうからな!」
 流石に何時間も勉強につき合っていた澪の顔に疲れが浮かんでいる。それでも仲間のため、と頑張った甲斐がありそうだった。
「あれ、そういえば律はどこに行ったんだ?」
 途中からやけに静かになったと思ったら、部屋の中に姿がない。澪としては好都合なのだが、もしかして帰宅したのかと疑いかけたところで、もう一人の人物が頭に浮かんだ。
「夏音は?」
「ふふ、そこにいるじゃない」
 ムギが忍び笑いを浮かべて一方を指さす。
「…………………」
「寝てるねー夏音くん」
「他人の家でよくこれだけ眠れるな……」
 唯のベッドを占領どころか布団にくるまって安らかに寝息を立てている夏音を見て、澪は逆に感心の声をあげた。すやすやと自宅のベッドかというくらい気持ち良さそうに寝ている。澪はにやっと笑っておもむろにカメラを取り出した。
「ふふ、協力しないで寝ているからだ……」
 後で写真を使ってからかってやろーくらいの軽い気持ちで夏音を写真に収めようとする。こういう手段はいつも自分がやられる側なので、こういう機会は滅多にない。やる側へまわった事への妙な高揚感を得ながら「ふふふ」と不気味な笑みを漏らした。
「睫毛長いな……」
 ファインダー越しに夏音を撮ろうとしたら、その顔の造形に目が行ってしまう。おかしなことに、カメラを向けるとだんだんと角度やポーズにこだわりが出てきた。
 何というか、気軽に撮ることのできない被写体なのだ。こうしてじっくりと写真に収めようとすると半端な形でシャッターを押す訳にはいかない。澪はモデルを撮影するカメラマンになったような気分で、様々な角度を試し続ける。
「澪ちゃん、ここをこうした方がいいんじゃない?」
 澪の思惑を察知したムギがそっと夏音の手を動かした。すると、誰もが「この寝姿!」と唸りそうな優雅な形になる。
「おおっ。これで画面の対比もばっちりだ!」
 いつの間にか高度な部分にまで気を回していた澪は満足気に頬をゆるめた。
「髪はこんな感じでどう?」
「あー、いいな。そう、そんな感じ……あ、まさにそれ! ムギ天才!」
「ここで顎をあとちょっとだけ……くいっと」
「くいっと! そう!」
「唯ちゃん、これ点けるね?」
「うん! あ、これ白い画用紙だけど役に立つかな?」
「ああ、頼む」
 ムギがベッド上の照明を点け、唯がレフ板代わりに画用紙を支えた。
「まるでお姫様みたいねー」
 ムギが恍惚とする中で、絶え間なくシャッター音が響いた。
「お前ら……何やってんの?」
 部屋に戻ってきた律が理解できない光景に呆然と呟いた。


 

 勉強会から数日。あの日、夏音を収めた写真がどうなったかは不明であるが、とっくに唯の勉強の成果が問われる日は過ぎていた。今日は唯が受けた追試の答案が返却されてくる予定である。
 部室ではいつものように茶菓子とお茶が振る舞われていたが、ふわふわとした雰囲気はない。むしろ全員が同様にそわそわとしている。
 そんな中、夏音は部室のベンチで横になりながら持ち込んだ漫画を読んでいた。
「今日返却だよね……合格点とれてるかなー唯は」
 重たい空気に耐えきれなくなったのか、澪はあえて明るいトーンでそう切り出した。
「あ、あれだけ勉強したから大丈夫なはず!」
 ムギもはっとして、ひきつった笑顔で返した。夏音は何を大袈裟な、と楽観していたのだが、彼女たちの不安が伝染したのか、少し落ち着かなくなった。夏音とて、入ったばかりでこれから、という部活がなくなるのは避けたい。
 そうこうしていると、唯がふらふらと部室に入ってきた。その足取りはどこか覚束ない。本試験のテスト返却日の様子を彷彿させる雰囲気である。誰もが息を呑んで唯の答案をのぞき込んだ。
「ま、満点!?」
 皆、平沢唯の底力を見誤っていた。 
 しかし、彼女がその満点を取るために犠牲にしたものは大きかった。

「ねえ……CだよC。嘘だろ? あれだけ教えたよね! コード覚えたじゃん! 何で忘れられるの!? スーファミ並な危うさあふれるスペックじゃん!」
 夏音は滅多に声を荒げないと自負していたが、この時ばかりは混乱のあまり自分を抑えていられなかった。
 唯はせっかく覚えたコードを数学の神に捧げたらしい。唯は完全に今までのギター経験すべてを忘却の彼方にぶっ飛ばしていた。完膚なきまでに。
「コード覚えるところからやり直し……だな」
 先が思い遣られ過ぎて、唯をのぞく軽音部一同はがっくりと肩を落とした。
「だ、大丈夫だよ! 一度覚えたんだしすぐに覚えるから! 私、できるから!」
 全員から諦念の目線を送られた少女も大概不遜だった。



 ひとまず唯・追試事件がひと段落したところで。夏音は今、生まれて初めてカラオケボックスという所に来ていた。ただでさえ不安定な軽音部の先行きをますます不安にさせた唯であるが、それでも追試を頑張ったということでお祝いと打ち上げを兼ねてカラオケに行こうと律が提案した。澪はもちろん反対したが、よくよく考えれば自分も唯に苦労して協力したのだし、その苦労がこうして報われたお祝いと考えれば、特に行くことにはやぶさかではなかった。
 一つの苦労が報われたが、また別の苦労が待ち受けている事はあえて考えないようにした。
「俺、カラオケって行ったことない!!」
 と目を限界まで開いて興奮する夏音もいて、一気にカラオケムードとなったのであった。
 うきうきと弾む気持ちでカラオケについていった夏音は、店内に入ってから子供のようにぎゃーぎゃーと叫んだ。
「わーわー! 狭い! くさい! ドリンクが飲み放題なの!?」
 あははうふふー、と子供のようにはしゃぐ夏音。軽音部のメンバーは仏のような目でそれを見つめていた。
「おっしゃー、トップバッターいきまーすー!」
「えー、りっちゃん最初に歌うのは私だよー?」
 一部では早速、マイクの奪い合いが始まっていた。夏音は小部屋に案内されてから、そわそわと室内を観察していた。小さい部屋にディスプレイ画面とマイクがあり、歌本から歌いたい曲を選んで記載されているコードを機械に転送すると曲が流れるという仕組みらしい。画面に歌詞が表示されて、曲中の詩の進行などもわかるようになっている。
 結局、二人で歌うことにしたらしい唯と律が夏音の知らないJ-POPの曲を歌い始めた。
「ん……なんか……」
 夏音は流れてくるオケを聴いて違和感を覚えた。キーがちぐはぐな気がするのだ。聴いていて、音が気持ち悪い部分もたまにある。
「考えたら負け、か」
 どうせ素人が作っている音源なのだろう。こういう場合は気にしていたら楽しめないだろうと思い、何故かテレビの下にあったタンバリンやマラカスを打ち鳴らして大いに騒いだ。はっちゃけたら、もう何も気にならなくなった。
「最近のカラオケはずいぶん曲も増えて、マイナーなのも結構あるんだぞ」
 と夏音に語る澪はなかなか曲を入れる様子が見られない。一歩引いた様子で二人の歌を聴いているといった塩梅である。
「想像してたよりひどいね、伴奏が」
「んー……これでも昔よりはよくなったと思うけど。あ、でも私も音楽始めてから『この音違う』とかわかるようになったな」
「ふーん。ところで澪は歌わないの?」
 夏音は慣れない機械に苦戦しながらも曲を選んで、やっと機械に転送した後で澪に訊ねた。
「い、いや! 私はあとでいいよ」
 急に歯切れが悪くなった澪であるが、事情は言わずもがなであった。仲間内で歌う事すら恥ずかしいのだろうか。
「あ、澪ー。さっき澪がいつも歌うやつ入れといたからー」
 そこにマイクを通した声で律がぽつりと言った。
「え、えー!? 何勝手にやってるんだよ!」
 一気にうろたえた澪であったが、次の曲のイントロが流れだした瞬間、びくりと固まった。律がマイクを澪に手渡し、肩に手をおいた。
「初めての人ばかりだからって緊張するなよー」
 意地の悪い笑顔でこういった律を盛大に睨んだ澪であったが、歌いだしの部分まで曲が進むと観念したように立った。
 澪は、ふっと息を吸い込み、目を閉じた。
「Lying in my bed I hear the clock tick and think of you...」
「Wow!」
 イントロが始まった瞬間からそれが何の曲かわかった。夏音のテンションは最高潮に高まった。
 マイクの当て方が悪いのか、声の調子が悪いのかわからないが、声量が大きいとは言えない。だが発音はいささか怪しい部分はあるものの、歌い方のニュアンスは本家に近いものがあって歌い慣れているといった印象を受ける。
 夏音がゆらゆら揺れながら聴いていると、律が夏音にマイクを手渡した。顎で何かを促される。
 歌え、ということなのだろうか。たしかに一緒に歌える歌であるが、他人の歌に割り込んで良いものか迷った。
 サビに近づくあたりで、マイクをもった夏音に気がついた澪は夏音を見て恥ずかしそうにうなずいた。OKということらしい。夏音は頷き返すと、緊張しながら澪に声を重ねた。
「If you`re lost, you can look. And you will find me Time after time...」
 夏音の歌声は、澪の声にかっちりとはまった。二つの伸びやかな歌声が混ざり合い、心地よいハーモニーを奏でた。澪はこの歌詞の内容を理解しているのだろうか。この年頃の少女が歌うにはやや早熟な内容であるが、澪はたっぷり情感をこめて歌いこなしていた。
「Time after time...Time after time...」
 最後に澪が囁くように、詩の尾をそっと撫でるように、曲が終わった。
 二人がマイクを置くと、拍手が起こった。
「二人とも、すごく素敵でした!」
 ムギが顔を暗がりにも分かるほど顔を上気させ、タンバリンを叩いた。唯も、二人とも上手だねーと手を叩いて喜んだ。
 夏音は初めて歌ったカラオケに達成感があったが、一方の澪は完全に力尽きていた。続けて、夏音が入れた曲が始まった。
「お、次は俺だ」
 本家には程遠いストリングスの音を伴奏に夏音が歌い始めると、肩を落としていた澪をはじめ俯いて曲を選んでいた律までもが顔をあげた。先ほどの控えめのコーラスとは違い、ソロで歌う夏音は別次元だった。
 日本人離れした声質、発声。また声量がとんでもなく力強く、そしてどこまでも伸びていくのではないかと感じさせる高音域まで出せる喉……かと思いきや、中音域に独特の粘りがあり、聴くものをとらえて魅せる。
 何を隠そう、夏音はベースばかり弾いていたわけではない。自らのアルバム内でヴォーカルとして歌う事も稀ではなかったのだ。
 歌に感情がこもる。これはなかなかどうしてできないことである。けれども、夏音はそれをやってのけてしまっている。
 耳にそっと入る歌声は聴く者の感性を刺激して、うっとり惹き付ける。今、夏音の歌がこの小さな部屋に満ちて確実にその場を支配していた。夏音という存在が空間を震わせ、埋めていた。
 やがて曲が終わると、ぼーっとしたメンバーに自分の歌はおかしかったかと訊くと、急いで首を横に振るのであった。
「上手いというか、凄まじいというか……」
 律はぽかんと放心したような顔をしていた。
「私、少し泣きそうになっちゃった」
「わ、わだしも……」
「唯、すでに泣いてる……」
 涙ぐむムギに、すでにいろいろ漏れている唯。身近な聴衆の反応に、夏音は顔を赤くした。
「いや、なんというか恥ずかしいな……」
 まんざらでもない様子で頭をかいた。カラオケも悪くない、と夏音は考えを改めた。曲は次々と予約されているので、その場の空気はすぐに流れていった。
 その後、はっちゃけたように「The Who」を歌いきった澪、「Hail Holy Queen」を器用にも一人で歌いのけてしまったムギ、「レティクル座行超特急」でぶっ壊れた律、「日曜日よりの使者」で涙を浮かべて喉を枯らした唯。それに対抗して夏音も「スリラー」を踊りつきで熱唱して、軽音部一同は大いに沸いた。
 軽音部のメンバーは全員歌がうまかったという意外な事実を発見して、その日は皆喉を枯らすほど歌って解散した。


 解散したと思いきや、しばらくしてから夏音はメールである人物を呼び出した。ある人物とは、もちろん澪のことだ。呼び出した場所は夏音の自宅である。家の前でのんびり待っていると、とてとて歩いてくる澪が姿を現した。
「やあ、澪。ようこそ!」
 夏音は緊張した面持ちの澪に両手を広げて歓待の意を示した。
「で、でかい!」
 澪は夏音の家の規模に驚いた様子。震えながら、開いた口が塞がらない様子であった。夏音の家は、高級住宅街のど真ん中に位置しており、それでも周りの家より迫力があった。
「そうかな?」
 と一言だけ返し、夏音はいつまでも驚いている澪を家の中に案内した。
「お、おじゃまします」
 夏音は澪が靴を脱いて家に上がるのを見てとりあえずリビングに案内した。
「お茶淹れるね。座っててよ」
 澪に楽にするように言って夏音は台所へ消えていった。澪は身を強張らせながらリビングを見回し、中央にでっかと置かれているソファーに座った。そして再びきょろきょろと室内を見渡した。白を基調としたモダンな空間を目指して設計されたらしいリビングも、また広い。
 二階と吹き抜けになっている部分があり、開放感がある。何よりテレビのサイズが自分の家の物より二回りはでかい。異性の家に単身であがるのが初めてで、緊張をゆるめる瞬間がなかった。あんな外見でも異性に違いない。
 澪が借りてきた猫のようになっていると、クッキーと紅茶を淹れてきた夏音が向かい合って座った。
「さぁさぁどうぞ。買い置きのお菓子なんですがー」
 先日の憂と言っていることがまったく一緒であった。それをしっかり覚えていた澪は思わず噴き出してしまった。
「いやー、あれだよね。買い置きのお菓子で申し訳ないって……謙虚な日本人らしい言葉だね」
 確信犯的ににやりと笑った夏音は一口クッキーを頬張った。
「ところで、だ。もう周りを気にする必要もないでしょ?」
 どかっとソファの背もたれに寄りかかりながらリラックスした様子で夏音が澪に話を促した。
 澪は少し沈黙の後にこくんと頷き、ぽつぽつと口を開いた。
「私は既に夏音の正体……カノン・マクレーンだって知ってる」
 夏音は静かに話し始めた澪の言葉に頷いた。
「そうだね。澪がどこまで俺の事を知っているのはわかんないけど」
「もちろん私だって全部は知らないけど。もともと聞いたことがあった名前だったし、音楽雑誌とかでも名前が出ているのを見た事があったから、そのくらいしか知らないんだ」
 澪は「気を悪くしたらごめん」と続けた。
「きちんと曲を聴いた事もあまりない」
「あ、そうなの」
 それは流石にショックだった。夏音は気を紛らすように紅茶をすすった。
「クリストファー・スループの弟子みたいなものだっていう認識かな。けど、私と変わらない年の男の子がすでにプロの世界で売れているって事は衝撃だったよ」
 再び口を開いた澪は、それから今まで自分が夏音に抱いていた感情や認識していることをほとんど打ち明けた。
 夏音はそれを黙って聞き、時折うなずいたり眉をひそめたりした。
「ということで……私は、夏音に今の私のベースを聴いてもらいたいんだ。そして評価してほしい。本物の、プロの意見で」
 話をすべて聞き終わった夏音は、澪が自分に最初抱いたという感情も含めてすんなりと受け入れた。確かに、自分と同世代の人間がそんな成功を収めているとなれば、等身大の人間として自分と比較するなんてことはしない。まったくの別世界の人間と思って納得する他ないのである。
 ただ、そんな人物が目の前の現実となって現れた時、人はどんな反応を起こしてしまうのだろうか。
 嫉妬。保身、排他。澪は、ごく当たり前に人間に起こりうる感情を何段階も経た後にこうして夏音に向かい合っている。
 その上で彼女は、夏音に憧れていると言った。
 そこまで言われると、流石に夏音も顔に血が集中しそうになるのを止められなかった。
「よーーーーーく分かったよ、澪」
 膝をぱんと叩いて、夏音は身を乗り出した。
「ぜひ、聴かせていただきましょう……澪のベースを」
 その言葉を聞いた澪は、ふわっと花が開いたように笑った。
「よろしくお願いします」

 夏音は澪を自宅のスタジオに案内した。
 防音のドアをあけて中に入った澪は、一の句も紡ぎだせなかった。
「さ、さすが……というか、もう夏音のことでは驚いていられないな……」
 心臓がいくつあっても足りないといわんばかりだが、自分はそこまで他人を驚かせるような人間ではないと夏音は心の中で反発した。澪は自前のベースを取り出して、調律をすませてからスタジオのアンプにつないだ。
「うっ、つまみやスイッチがいろいろありすぎてよく分からないな……」
 普段、自分が触れる機会のない高級なベースアンプ。澪はヘッドに存在する幾つものつまみに目眩がしそうになった。
「ゲインとマスターがコレ。エンハンサーは使わないで。コンプもいらん。これがベース、この二つがハイミッド、ロウミッド。これがトレブル、プリゼンスね……とりあえず今はフラット気味でいいよ」
 初めて見るアンプに戸惑っている澪に、夏音はアンプのつまみを一つずつ説明した。セッティングが整うと、椅子を用意してお互いが向き合う形で座る。澪はしきりに髪をいじっている。彼女の緊張が高まっているのがはっきり伝わった。 
「あ、あの……」
 澪の顔は紅潮していた。
「なに?」
「笑わないで、ね」
 上目遣いで夏音をちらっと見た澪に夏音の理性は吹き飛びそうになった。
(な、なんて高度な技を使うんだ……)
 ベースを聴く前にHPをごっそり削られてしまった。

 澪の手がネックに触れる。左手が弦を撫でるように動き、ベースの低音が鳴り響く。フェンダーJのパッシヴベース特有の温かいふくよかな音。彼女が弾く曲はクリームの楽曲の一つにアレンジを加えたものだ。
 よくコピーできていると夏音は感心した。楽曲をそのまま、という事ではなくて演奏者の手癖やニュアンスを表現しているという意味だ。もしかして、澪はジャック・ブルースに影響を受けたのかと思った。時折入るオカズを聴く限り、ジャズやブルースといった音楽の要素が今の澪にもいくつか引き継がれているように思えた。おそらく、彼女はそっち方面の音楽を学んだというより、コピーしているうちに身につけたのであろう。
 それからしばらく続く彼女の演奏にじっと耳を傾けた。真剣な表情で音を紡ぐ彼女が全力で自分に訴えようとしているもの。彼女が築き上げてきた技術を感じとろうとする。
 五分ほど弾いたところで、澪は演奏をやめた。演奏を終え、澪は恥ずかしそうに俯く。
「何から言っていいやら……」
 そう口にした夏音に澪は背筋を伸ばしてごくりと生唾をのむ。
「まず、澪は上手いね! うん、十分上手いと思うよ!」
「え?」
 澪は夏音から飛び出た言葉が想像していたのと違ったのか、素っ頓狂な声を出した。
「で、でもこんな実力でプロからすれば下手っぴなものじゃないのか?」
「プロだから、とかそういうのはよく分からない。もちろん、言いたいことはたくさんあるよ」
 そしてまずはねー、と思案してから夏音はいくつか彼女の演奏を聴いて思ったことを挙げた。
「良い音楽を聴いてるなぁ、って思ったよ。音については仕方がないけど、ピッキングが弱くて輪郭がぼやぼやだったかな。それにリズムキープ怪しくて、ところどころ崩れそうになる瞬間があるのとか……それぐらいかな」
 ぽんぽんと出た夏音の言葉に素直に頷いていたが、澪はまだ何か物足りないような表情を隠せないでいた。
「ちなみに、だけどジャコを聴いたことは?」
 夏音がふと尋ねた人物に澪が反応した。 
「名前とかは知ってるけど……」
「ナルホド……」
 それで彼は数回うなずくと「それくらいかな」と言った。
「……他には?」
「他?」
「何かないのか? 私のベースの感想っていうか、感じたこととか!」
「感じたこと……そうだな……上手いけど……上手いっていうか、下手ではないって感じ」
 ぐっさりとどでかい言葉の杭を澪に突き立てた夏音であった。もちろん、澪は心に相当な深傷を負った。瞬く間に真っ白な灰になってこれから消え飛びそうになった澪に、夏音は泡を食う。
「ご、ごめん! 言葉が悪かった! なんて言えばいいんだろう……澪がさっきからプロとしての意見を頼む、って言っていたのは自分がプロとして通用するかってことなんだろ? そういう意味では、プロになることはできるとは言えるよ? むしろ、あなたはプロになれませんよーって断言することなんてできないよ。技術をひたすら磨けばたいていプロと呼ばれる人種にはなれる。ただ……」
 夏音が間を置いて澪と目を合わせる。澪は夏音の言葉の先を待った。
「ただ……?」
「上手いだけでは、通じないんだ……俺たちの世界ではね」
「…………」
「要するに、簡単に言ってしまえばワンアンドオンリーがない」
「個性ってこと?」
「そう。個性」
「プロにも何種類もの人間がいるのさ。言ってしまえば、その分野でお金をもらって食っていく人間はみんあがプロだ。ただ、俺が立っていた場所は……周りの人間は個性をもっていたよ。その人の音をもっていた……俺も、その内の一人だった」
 自慢でも過信や思い上がりではない。夏音はそのことだけは自信を持っている。夏音は続けて言う。
「だから、澪が今すぐプロに通じるなんて到底ムリ……残酷に聞こえるかもしれないけど」
 はっきりと言われ、澪はあからさまに落ち込んだ様子であった。それでも納得したようにうなずき、いっそ清々しいような笑顔を浮かべた。
「そうか……はっきり言ってくれてありがとう。別に、プロ願望が一番にあるわけではないんだ……ただ、今はベースが私の中で大きな部分を占めているから。どこまで通用するのか、って気になったんだ」
「なるほどね。ただ、勘違いしないでね」
 夏音は大事なことである、と一度切ってから話し始めた。
「澪がこの先もプロになれないとは言っていない」
「え?」
「もちろん、必ずなれるとも言えないけどな。今聴いた限りでは、澪は伸び代が十二分に余っていると思うよ」
「と、いうことは?」
「ということはも何もない。要はこれからってことさ……よし、決めた」
 この後、澪にとっての衝撃発言を夏音はぶちかます。
「俺が澪を鍛えてあげる! だから、これからは俺の家に来てレッスンだね!」
 その言葉を聞いて、澪は思わずベースを落としそうになった。
「な、な、そんなこといいのか? 迷惑だろう!?」
 その反応を見て、夏音はにやにや笑う。
「あのさ……最初から、そのつもりだっただろ?」
 すると、澪の体がぎくっと跳ねて涙目になった。
「そ、そんなつもりじゃ!」
「ふふ、まあまあ! 澪の考えはよーく分かったから」
「ち、違う! 最初からそんなつもりなんかじゃ!」
 にやにやを止めない夏音に羞恥心で頬を染めて慌てて訂正を入れる澪であったが、ふと夏音は表情を和らげて澪の頭に手を置いた。
「別に恥ずかしがることじゃないよ。澪もベーシストだから、そういう風に俺を見てしまうこともわかる」
 澪は思わず、声を呑んだ。その声がわずかに震えていることに。
「ただ……俺を遠ざけないでくれ」
「と、遠ざけてなんかないよ!?」
 澪は急いでそれを否定した。
「俺を、ただの夏音だと見てくれないか」
「そ、それは……うん、夏音は夏音だよ。他の何者でもない……んじゃないの?」
「なら、いいんだ。ただ、本当の事を知っているのは澪だけだし……澪は何だか最近様子がおかしいし……やっぱり打ち明けたことが原因だったのかなって」
 澪はそれを聞いて、後悔した。自分の態度ははっきりと彼に伝わり、悩ませていたのだ。
 ただ、才能をうらやみ、さらにあわよくばと彼を頼っている自分を恥じた。
「ごめん……夏音のことを見る眼が少し変わったのは事実だ……けど、私はこれから夏音の等身大の姿をもっと見ていこう思っている!」
「…………っ」
 澪にしては珍しい、かなり恥ずかしい発言である。澪も言ってしまった後に、それに気付き顔が真っ赤になった。
「あ、ありがとう……そう言ってくれると嬉しいよ」
「……ハイ」
 少し気まずくなった。

 二人はスタジオで様々な話をした。濃い、音楽の話。夏音の生い立ちやスループ一家との出会いなど。それに対し、澪は表情をころころと変えて驚き、笑い、共感した。中でも、夏音の両親も二人とも名の知れたミュージシャンだということは澪を大いに驚かせ、納得させた。ちなみに、カノン・マクレーンのマクレーンは母親の旧姓を使用しているのだという話も初めて知る事実であった。
 話し込んでいるうちに、気がつけばもう一般家庭で言うところの夕食の時間をとうに過ぎている。
 今日はもう遅いから、と澪は帰ると言った。夏音もそれに賛成して、もう遅いから送っていくと言った。
「別に送ってもらわなくて大丈夫だぞ?」
 しかし澪の意見をはねのけて夏音は外で待っていてと言った。言われた通り、玄関先で待っていた澪だったが、ふとエンジン音が聞こえたと思ったら大型のワゴンがガレージから出てきた。
「……ん、んなっ!?」
 運転していたのは夏音であった。
「Yeahhhh!!! huh!!! 乗んなな!」
 運転席から顔を出し、カウボーイみたいなかけ声をあげ、白い歯を見せて陽気に乗れという夏音に澪は詰め寄った。
「な、何で夏音が車を!?」
「うんー、まあまあとりあえず乗りなさい」
 それでも大人しく乗ってしまう澪であった。助手席に乗ってから、無免許運転、犯罪、警察といった恐ろしい単語が頭をめぐり激しく後悔した。
 しかしながら遅かった。
 やっぱ降ります、と言う前に車は発進してしまった。
「そんなに怯えないでいいよ。無免許じゃないから」
 助手席でぶるぶる震えている小動物に夏音が苦笑しながらある物を差し出した。
「ん? これは……免許?」
(何で夏音が免許を持っているんだ?)
 頭の上に疑問符が何個も出ている澪は、どうやら本物らしい運転免許証を目を凝らして見た。
 その生年月日を。
「え…………夏音………お前……?」
 澪がおそるおそる夏音の方を見る。すると、夏音は大口をあけて笑い出した。
「そうでーす!! ボク実は十七歳でーす!! 向こうで免許とって一年経っていれば日本でもとれるんだよー! まぁ、オートマ限定だけど」
 アハハハと笑う夏音であった。もうやけくそだった。この際、カミングアウトしてしまえーと思ったが、これでどんな反応がくるか不安である。
 夏音は横でしんとなっている澪をそっとうかがった。
 もしかして、なんとか―――
「えーーーーーーーーーーっっ!!!!???」
 ―――ならなかった。澪の限界であった。つんざくような澪の悲鳴をBGMに大型ワゴンは夜の道を疾走する。
「あの、澪さん……何で僕はここまで怒られないといけなかったんでしょう」
 夏音が実は年上だという事実を知らされ、度を失ったように錯乱して運転中の夏音の首を絞めて揺さぶった澪は現在、しゅんとなってうなだれている。
「ご、ごめん。つい弾みで……」
「別に年なんて大した問題じゃないでしょう」
「た、大したことなくない! 夏音は私たちより年上なんだぞ!?」
「うーん、そうだけど。まわりが全員年下っていうのはすごいなー」
 夏音が間延びした口調でそう言うので、澪は溜息をついた。
 そして真剣な口調で――
「夏音さん。それとも夏音先輩、の方がいいか?」
 ハンドルを持つ手が滑り落ちそうになった。
「今、ゾワリと背中を何かが……頼むからやめてくれ……」
 信号で止まったので、澪の方を向くとその信号機の照明にぼんやり照らされた横顔、頬が緩んでいるのがわかった。
「お前……からかっているな?」
「ばれたか」
 夏音は少年のように笑う澪に肩の力が妙に抜けてしまった。
「そりゃびっくりしたけど。もう夏音のことでいちいち驚いていられないって思ったんだ」
 落ち着いた声でそう言った澪に、澪はふぅと溜め息をついた。
「そうですか……でも、澪には何もかもバレてしまったな」
「なあ、みんなには言わないつもりなのか?」
 澪は前から気になっていた、と夏音に訊ねた。だが、夏音は少し口をきかなくなり、やがてぽつぽつと喋りだした。
「そうだな……いずれ、必ず」
「まあ、夏音がそれでいいなら私は何も言わない」
「そうしてちょうだい」
 それから無事に澪を送り届けた夏音は、早々に帰宅した。


※カオスなカラオケ、やってみたかったんです。



[26404] 第七話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/18 17:24

「カノン、僕は日本の萌えとやらを見くびっていたようだ……」
「やっと理解したか。これから見識を広めるといいよ」
 


 夏音は日本の梅雨が大嫌いである。故に、自然と六月が嫌いという事になる。連日降り続く雨、雨、雨。息を吸うだけで水分補給できるのではないかというくらい湿気にまみれた外の外気、気が付けば肌がじっとりと濡れていることなど当たり前。お気に入りの服を着ても、じっとりと汗が滲んで気分が台無し。
 肌寒い季節などとうに過ぎ、むしろ春の陽気すら懐かしく感じる程の熱気が幅をきかせている。善い人ほど早くいなくなる、というが心地良い季節も一瞬で通過してしまうのは悲しい。やっと自分達の元へ来てくれたんだね、と思ったらF1で言うとピットインしただけ。アーバヨ、と手をすり抜けていった。

 ジョンとの再会以降、夏音の生活も徐々に変化を見せ始めた。普通の学校生活を送りながら、ジョンが持ってくる仕事をこなす日々は久しく感じていなかった修羅場の空気を思い出させてくれた。アメリカでばりばり仕事をこなしていた時は、まさに東奔西走。ばたばたと音楽に明け暮れていた。それでも、夏音はそんな生活を気に入っていたし、音楽の中に身を委ねる以外に他は必要なかった。
 いかんせん不登校が続いたせいか、急激にめまぐるしくなった生活につい遅れを取るのは仕方がなかった。ジョンもその辺をしっかり把握しているので、夏音にまわしてくる仕事量を絶妙にコントロールしてくれている。今まで苦労させていた分、早く慣れねばと意気込む夏音であった。
 初めにまわってきたのは、某手数王と呼ばれる日本人ドラマーのアルバムへの参加。夏音は二曲だけ参加する事になっており、事前に渡された譜面を移動中に読んでスタジオへ向かう。こちらにはローディーがいないので、機材を運ぶのはジョンが手配した信頼できる人材が手伝ってくれた。何あれ、スタジオに着くと過去に共演したミュージシャンが数人いた。
 何を隠そう、夏音の父である譲二にドラムを教えて事がある、という人物こそが中心人物であったのだから。
「お久しー。あンさァ送った譜面なんだけどー」
 というような言葉から始まり、「アレンジなんだけどー」と言って九割以上の変更を申しつけてきた。まさか急にベース枠にすっぽり入る事になったのが夏音だとは思っていなかったらしくて、よもや今ある譜面を破り捨ててもよいのでは、と思ったくらい別の曲になってしまった。父に劣らず、クレイジーなドラマーだとは聞き及んでいた夏音だが、身をもって知ることになった。
 とはいえ、久々にプロのミュージシャン達とアンサンブルを考えていく作業は懐かしい風を夏音に吹き込むことになった。
 そんな感じで昼は学校、真夜中にはレコーディングに参加、時には母親つながりのジャズヴォーカリストの公演のトラとして呼ばれたりする日々を送っていた。
 楽しい、が忙しい。睡眠が足りなくて苛々とする事もしばしばあった。しかし、軽音部の皆の前ではおくびにも出さないように気をつけていた夏音だが、ついに抑えきれない衝動に大声を張り上げてしまった。



「外で洗濯物干せんやん!!!」


 沈黙が部室を覆った。軽音部の女子一同は目を丸くしてぽかんとたった今怒鳴り上げた人物に視線を注いだ。怒鳴った際、バンッと机を叩いたせいで少し紅茶がこぼれている。
「い、意外に家庭的な悩みだな」
 かろうじて律が言い返す言葉を絞り出した。

 軽音部の部室。いつものごとく夏音たちがお茶をしていると、誰かが湿気に対する文句を言い始めた。すると誰かが口火を切るのを待っていたかのように、全員が次々に不平を漏らす梅雨悪口大会に突入した。
 くせ毛がまとまらない。外で遊べない。楽器を持ってくるのが大変。つい傘をなくす。夏音は、次から次へと出てくるものは低次元の悩みだと思い切り鼻で嘲笑った。
「へぇー。そんなに言うならお前の悩みはさぞかしすごいんだろうなー?」
 と律がふっかけた事によって夏音が爆発するハメとなった。


「そんな専業主婦みたいな悩みを抱える高校生ってのもなんだかなー」
 外の天気とは対照的にからっと笑いながら律は気楽な意見を口走ったが、瞬時に夏音に目線で射殺されそうになった。
「そいつぁ、お前さん……自分で毎日洗濯をする身分になってから言ってみやがれってんだ」
「わ、分からなくはないけどさぁ……」
 自分もたまに家事を担う者として共感はできるものの、律は夏音のあまりの過剰な反応に怯えて少し後ろに退いた。
 夏音はこの一週間ほど、この雨と湿気に悩まされた。普段は乾燥機を使って梅雨を乗り切れるはずだったのだが、そんな乾燥機は一昨日壊れた。修理した結果、数日かかるそうだ。そもそも、夏音は干せるのであれば外で干したい派である。日光にあたって干された洗濯物の手触り、においは室内だと再現できない。これは夏音の密かな、しかし強いこだわりであった。
「え、もしかして夏音くん一人暮らしなの!?」
 唯がわっと驚いた顔で夏音に訊ねた。
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
 そうだっけな、と夏音が記憶を探っているうちに、律が大変なことを聞いたと騒ぎ出す。
「えー! 夏音一人暮らしなのか! そいつは知らなかったなー! それは是非とも遊びにいかないと!」
「Not talking!!」
 すかさず夏音からは拒否反応が返った。
「えー、夏音くんのお家行ってみたいなー」
 唯が口を尖らせて抗議をするが、夏音は露骨に嫌そうな表情で断固首を縦に振らなかった。
「なんだよ、家に来られて困ることでもあんのかー」
 律がしつこく食い下がり、それを見かねた澪は夏音をフォローする。
「まあ夏音がいやだって言っているんだからあまりしつこくするなよ」
 自分は既に何回もお邪魔してます、とは口が裂けても言えない澪としては何となく都合が悪い。しかし、その発言は二人を引き下がらせるどころか律の耳に大きくひっかかってしまった。
「おい、澪。やけにすんなり夏音の肩をもったわねー」
 その瞬間、律のその瞳に好奇の光が宿ったのを見て、澪はぎくりと体を硬直させた。そして、その実直すぎる反応が律の格好の餌となる――そんな未来が克明になろうとした瞬間、ムギが口を開いた。
「どうして夏音くんは一人暮らしなの?」
「あぁ、うん。別にたいした理由じゃないよ」
 もっともな疑問を忘れるところだったと唯が夏音に説明を求めた。そこで律も澪に対する意識がそれて「そういえば何でだ?」と首をかしげた。
「両親が頻繁に仕事で家を空けるんだよ。今回はかなり長くなりそうというか、よっぽどでないと戻ってこないかもね」
 だから実質、一人暮らしなんだと淡々と語った夏音であった。はい、これでおしまいと会話を終焉に導こうとしたが、甘かった。
「そ、それは夏音くんが死んじゃう!」
「……はい?」
 唯がそれは一大事だとふるふると肩を震わす。言っている意味が全くもって理解できなかった夏音は思わず素っ頓狂な声で返してしまった。不思議な生物を見るような目で唯を見詰めると、彼女は真剣に語り始めた。
「夏音くん。人はね……人は独りぼっちでいると死んでしまう生き物なんだよ!」
「それは兎ちゃんでは?」
 ムギから冷静なツッコミが入るが、どこか変なスイッチが入ってしまった唯はどこ吹く風である。
「そうだ唯! 唯がいいこと言った!」
 そして唯の発言に乗った律が高らかに訴えた。それからトーンを落として夏音に悲痛をこらえたような表情で向き合う。
「ごめんな夏音……私たち、同じ部活の仲間なのにお前がずっと寂しい思いをしていたことなんて気がつかないで……」
 完全に悪ノリ状態の律は役者のように瞳を震わせた。
「今まで何を見てきたんだろうな私たちは……」
 夏音はそれに対して、完全にしらけた表情で沈黙を守る。
「でも、大丈夫! 今夜は私たちがずっと一緒にいてあげるから!」
「お前の魂胆はお見通しだけど、挙句の果てに泊まるつもりなのか!」
 流石に黙っていられなかった夏音はこれ以上エスカレートしてしまう前に釘を打とうと思った。
 遅かった。
「ということで放課後は夏音の家で遊びまーつ!!」
「おーー!! お菓子いっぱい持ってこー!」
 結局、そこに落としたかった律の明言に、素で同調している唯が叫んだ。
「これが穏やかな心で激しい怒りに目覚めるという感覚なのか……」
新感覚を覚えた夏音であった。
 やっていられない、と律たちを相手にしないことに決めた夏音であったが、ニコニコとこちらを向いているムギに気付いて表情がぴしりと固まった。
「夏音くんのお家、楽しみです」
 まさかのユダがいた。そして、より複雑な表情をしている澪がいた。


 元来、男は女の押しに弱いとはいうが、それがまさか自分にも当てはまるとは思いもしなかった。その事を身をもって痛感した夏音は流れに身を任せる、否、流されている真っ最中であった。鉄砲水に巻き込まれる勢いで流されている。
 決まってしまったモノは仕方がない。どうにもならない事への諦めの良さは自分の持つ美徳の一つと思って夏音は沸き起こる不満を飲み下した。よくよく考えてみれば、自宅に友達を呼ぶのは悪い事ではないし、むしろ良い事かもしれない。別に家の中にやましい事を抱えている訳ではない。
 いや、それは嘘だ。やましい所ばかりであった。
 いつの間にか軽音部の面々をあますところなく引き連れて自宅へと向かう道の途中、夏音はふいに頭に浮かんだ未来にはっとした。
(このまま、何の用意もなく女の子を家に入れるだなんて……)
 すぐに問題点を洗いざらい頭の中に浮かべた。まず家の中は部屋干し中の洗濯物ばかり。部屋干しに臭いはつきものだ。いや、待てよと思い直す。洗濯剤はアレを使っている。エ○エールで良かった。夏音は基本的に綺麗好きに部類される人間であるので、他所様に見せて恥ずかしいと思われるほど汚くすることはない。それでもここ二日間の洗濯物をまだ取り込んでいない。恥ずかしい。家に入ったら即行で片付けねばならない。
 一番見られたらまずいと思われるスタジオへと続く扉はしっかり封印すれば完璧ではないか。万が一のために鎖などを使おうと心に決めた。
 あと、何があるだろう。家の中の臭いは平気だろうか。洗濯モノを別として、自分で生活していて気付かない立花家オンリースメルが充満していたら事である。玄関入った瞬間にUターンされ、影で「あいつん家、玄関入った瞬間トイレの臭いしたけど」とか言われたら目も当てられない。
 そういえば滅多に使わないが、ド○キで買ったアメファブがあったと思い出す。 家中にぶっかけよう。
 夏音は家に帰ってから自分がすべき事をシミュレートし、あらゆる問題点を脳内で解決しながら、自宅へと続く最後の坂道へと曲がり角を折れた。

「しがない我が家ですが」
 夏音の家に着き、澪ともちろん本人をのぞいて一同はその高級住宅街に並んでいても遜色ない建物を見て呆然とした。
「ちっ、やっぱボンボンか」
 部室に運んできた機材とか、思い当たる節はいくでもあった。律が舌を打ち鳴らしてぼそりと呟いたが、幸い夏音の耳へは届かなかった。ムギは家の広さに、というより庭の花壇で美しい均整を保って咲き誇る花に嘆息していた。
「まあ綺麗……夏音くんが世話してるの?」
「世話は俺がしてるよ。枯らすと母さんに泣かれるからね」
「おおきーい」と口をあけっぱなしで騒ぐ唯を横目に見ながら「実質、趣味になりかけてるけど」と心で呟いた。
 それから夏音は家の玄関扉の前で振り返った。
「しばしお待ちを……この扉を開けてはなりませぬ」
 眉をきゅっと引き締め、それだけ言い残すとさっとドアに身を滑り込ませた。玄関先に取り残された軽音部の女子たちは顔を見合わせてきょとんとして「鶴の恩返し?」と思ったが、大人しく何もせずに待つことにした。待っている間中、ずっと家の中からドッタンバッタンと恐ろしい音が鳴り響いていた。
 数分してから夏音が笑顔で扉を開けて言った。
「どうぞー。散らかっているけど、あがって?」
 そういう夏音は、この数分でどれだけ動いたんだと思う程、服が乱れていた。一同は、第六感に従って、見ないふりをして玄関にあがった。
 夏音は前回、唯の家を訪問した際にスリッパを出すという日本の習慣に感銘を受けており、早速それを取り入れていたりした。玄関には、すでに人数分のスリッパが綺麗に並べられており、夏音は誇らしげに彼女達がスリッパを履くのを見守った。
「んー。なんか良い匂いがするね」
 そう唯が一言、それにムギが確かに、とうなずいた。
「これは……お花、かしら」
 そんな話を広げる二人に、律が鼻をくんくんとさせて言った。
「これ、ファ○リーズじゃないか? それにしては匂い、きつすぎないか?」
「う、うちは母さんが家中で香水ふりまくから……」
 律の一言にぎくりとした夏音だったが、余裕を見せるつもりで笑いながら言った。アメファブの威力を甘く見ていた。
「まぁ、私もよく使うけどなー」
 何も気にしない様子で律は言ったが、若干頬をぷるぷると震わせていた。この数分間の夏音の動きが手に取るようにわかってしまうのだ。
 夏音はひとまず彼女達をリビングに案内した。開放感あふれるリビングの広さに唯と律は「おー」と驚嘆の声を漏らし、それとは対照的にすでに何度も夏音の家に上がっている澪は家の内装には知らん顔を通していた。少しだけ自分は何回も来たけどな、と先輩風を吹かしたい気持ちもあった。
 夏音が勧める間もなく、どかっとソファに腰を下ろした唯と律はこれまたソファのふかふか加減にはしゃぎだす。その様子を苦笑しながら眺めていた夏音はお茶の用意に台所へ消えた。
 そんな中、ムギはきょろきょろと部屋を見渡してから、ふと収納棚の上に飾ってある写真立てに目を止めた。ムギはささっと立ち上がると写真立てに近づいて興味津津な様子で眺める。
「やっぱり夏音くんのお母様、すごい美人……」
 ムギがそう漏らすのを聞くと、澪はそういえば自分はリビングに飾ってある写真に触れたことがなかったなと思い、ムギの肩越しからそれらを覗いた。
「あ、本当だ。夏音そっくり……ていうか瓜二つ?」
 気がつけば唯と律もやって来て、飾ってある写真を次々に眺めていった。
「うおー。この人夏音の父ちゃん、かな?」
「チョイ悪っ! て感じだね!」
「でも、何か最近のしかないみたいだな」
 確かに、と全員が唸った。リビング中に写真があるが、どれも最近撮られたような物ばかりである。普通、幼少期からの写真とかも飾っているものではと頭をひねった。彼女たちが盛り上がっている中、紅茶とケーキを運んできた夏音が声をかける。
「写真がそんなに物珍しいのか?」
 ソファの間のテーブルにティーセットを用意すると、彼女たちはそろそろと集まった。
「夏音は良好に育ったんだなー」
「良好ってどういうことだよ?」
「生まれ持ったものを損なわないでよかったな!」
「……馬鹿にされているのか」
 律がにやにやそう言うもので、夏音はむっとしてよいものか分からずに軽く眉をひそめた。
「でも、夏音くんはお母様にそっくりなのね。よく言われないの?」
「うん、母さんとはたまに姉妹みたいだってね……喜んでいいやら」
「贅沢な悩みだなー、おい。敵はあまり作るなよー」
 夏音も自分の顔が男らしいものだとは思っていないが、それでいて個人的に得をしたことはなかった。むしろ大損ばかり。美人だ、私より綺麗、女の子みたいー、じゅるり……という言葉は聞き飽きるくらい言われた。格好良い、と言われると嬉しいのだが、皆もっと男らしい特徴を褒めてくれてもよいのではないだろうかと思う。
「ねえ、夏音の両親は何やっている人たちなの?」
 唯が好奇の目で訊ねた。
「う、おっおー……芸術家、かな?」
「芸術家!? なんかすごーい! 格好いいね!」
 夏音は目を輝かせて反応した唯に罪悪感を覚えた。つい口を出てしまったが、芸術家といってもすべて間違いというわけではないような気がするので、問題無いと言えば無い。案の定、人を疑わない軽音部の面々が夏音の言葉を信じ込む姿を見て、肩の力が抜けた。
 ふと、このままいくと家族のことやらを根掘り葉掘り話さないといけなくなる気がして、夏音は話題をそらした。
「そ、そうだ。とりあえず家に来たのはいいが……何をすればいいんだろう?」
「何をって……遊べばいいだろう?」
「その、遊ぶってどうすれば?」
「普通に遊べばいいだろ」
「普通の遊び方が分からないんだ。今まで学校の友達、っていなくてさ」
「…………」
 沈黙が下りた。夏音は似たような空気を以前も味わった記憶がある。気の毒なものを見るような目で夏音を見る視線が痛かった。
「あ、あの……夏音くんのお部屋とか見てみたいなー」
 おずおずと唯がそう提案すると、一斉に賛成の声があがった。
「…………………………」


 結局、部屋に彼女たちを案内した夏音であったが、部屋に入れた途端にさらに絶句した空気を放つ彼女達に首をかしげた。
「どうしたの?」
 広さは一人部屋にしてはかなり余裕のある十畳分くらいかそれ以上。ベッドがあり、机があり、クローゼットがある。しかし、普通の男の子の部屋というには無理があった。その部屋の半分ほどのスペースを占めるのは楽器、機材であったのだから。
 何種類もの楽器、機材。ベースやギターが何本も立てかけられ、中には壁にかけられているのもある。
 キーボード、電子ドラムにミキサー、マイク、スタンド、スピーカー、それらとつながっているケーブルが七、八本。ごっちゃごちゃとケーブルが絡み合っていて、近寄りがたい空気を放っている。
「こればっかりは片付けられなかったしなぁ」
 ぼそりと呟いたが、呆気にとられている彼女達の前ではそんな言い訳は通用しない。だから、夏音はあえて無視した。
「き、汚くてごめんね!」
 勇気を出して後ろを振り返って、表情を見ないようにして声をかけた。
「夏音くん……何者!!?」
 唯が切実にそう叫ぶのも無理はなかった。金持ちの息子だ、と胸を張ると納得された。

「ていうか、そのことにも突っ込みはあるけど! なんなんだこの部屋の! ソレとか! コレとか! アレとか!」
 わななく律がびしびし指さした場所には、天井付近までの高さの巨大な本棚にびしっと詰め込まれている漫画、ライトノベル、画集やアニメのDVDがあった。他にも、ベッドの天井に貼られている美少女アニメに登場するキャラクタのポスター。
 片や、プロ顔負けの機材設備を誇り、片や二次元に侵略されている領域。玉石混合の部屋に一同は騒然とした。
「それが何かおかしいの?」
 心の底から何を指摘されているのかわかりませんという顔の夏音に、律は思わず口をつぐんだ。あまりに純粋そうに首をかしげられた。
「夏音がオタクだとは思わなかったっていうか……意外すぎっていうか」
 気まずげに視線を合わせない律に、夏音は「あぁ!」と頷く。
「オタク……クールだよね」
「どこがっ!?」
「日本の文化は本当に尊敬できるよね!」
「うわーっ! なんかコイツ本当に外人って感じなんだけど!」
 ぎゃーぎゃーと律と夏音との攻防が続いた。「クールジャパン!」「ファンタスティックカルチャー」などの単語が飛び交う中、唯はさして気にしていない様子でギタースタンドに立てかけてあったギターに目を奪われていた。
 一方でムギはこの部屋のすべてに対して純粋に感心した様子。彼女にとっては真新しく見えて面白いのだろう。
 澪は……どん引きしていた。実は彼女が夏音の私室に入るのは初めてであった。いつもはリビングか、スタジオにしか用がなくて私室に上がる理由もなかったのだ。
 隠された夏音の趣味は、彼女にとって衝撃的であった。
(オ、オタク……オタクってアニメとか見て萌えーゲフフとか言っちゃうんだろ!?)
 深夜、何故か暗い室内でアニメを鑑賞する夏音。その顔は情けなく緩みきって「ゲヘヘ……○○たん萌えー」と言ってしまう夏音。
(い、いやいやいやいや! ないだろ! それは、流石にない!)
 現実から目を背けようとしても、至る所に現実が貼ってある。そもそも、ポスターの取り揃え方が半端ない。飾ろうと思えば幾らでもスペースがあるのに、何という無駄なスペースであろう。
 唯一、澪が目線を置ける場所は楽器コーナーしかなかった。そちらに目をやると、既に唯がちょこまかとうろついている。なんだかんだと、彼女ももう楽器を見たら興味がそそられてしまう人種になったのだ、と澪は頬をゆるめた。
「ねぇ、このギターはなんていうの?」
 唯が律と言い争っていた夏音に訊ねた。
「ジャズマスター」
「これはー?」
「ジュニア。Wカッタウェイモデル」
「この太っちょのとこれは?」
「リッケンバッカーとストラトだよ」
 次々とギターを持ち出して質問する唯。律やムギなども置いてあるドラムやキーボードに釘付けになった。律などは、「コレ、ドラムにパッドて……」とげんなりしていた。
「ここで演奏できるんじゃないか?」
 律が冗談交じりにそう言う。
「やる?」
「謹んで遠慮します!」
 もちろん軽音部の一同が夏音の部屋で楽器を演奏することはなかった。その日は大画面でテレビゲームをやったり、莫大な量のCDやレコードの試聴会。お菓子を食べながら、わいわいと談笑をしていた。
 どこにいても軽音部のすることは変わらない。夏音はこんな風に友達と過ごすのは初めてで、何とも新鮮な気持ちだった。同い年の友達よりか、遙かに年上の人間に囲まれ、音楽に携わっていた。学校内に友達はいたが、誰かを家に招いたことも招かれたこともない。
 ふと自分の家でくつろぐ彼女達の姿をじっと眺める。心からリラックスしていて、彼女達は今までもこうして誰かの家で遊んできたのだろう。それは夏音の知らない経験。自分に与えられなかった時間だ。
 こうして遊んでいると、時間が経つのが早く感じられる。そろそろ夕飯の時間だろうということで澪がそろそろお暇しようと言い出した。斜陽が窓から射し込んできて、もうすぐ日暮れだという事を教えてくれる。一同は少し残念そうな声を出したが、すんなりと澪に賛同した。簡単に片付けをしてから、玄関先までおりたところで律が何の気なしに夏音に尋ねた。
「そういやぁ、夏音は自炊もするのか?」
「もちろん。ご飯を作らなきゃ生きていけないもの」
「ほほう……」
「律……またよからぬことを考えているんじゃないだろーな」
 親友の企みをいち早く察した澪が律の制服の襟をひっぱった。
「ま、まだ何も言ってないだろー」
 思わず苦笑する面々であったが、ふと夏音が思わぬ一言をその場に零した。
「夕飯、食べてく?」


 数十分後には、夏音たちは近所のスーパーに買い物に出掛けていた。全員それぞれの家に電話を入れて、夕飯を外で済ますことの了承を頂いたようだ。全員で並んで歩き、それなりに栄えているスーパーへ向かう。夕飯時で駐車場は満車御礼。がやがやと買い物客で賑わっていた。店内は冷房をガンガンとかけており、従業員は皆外で過ごすより厚着をしている。まるっきり薄手でやってきた一同は「長くいると風邪ひきそう」と、さっさと買い物を済ませてしまおうと店内を練り泳いだ。
「大人数だし、今日は焼き肉にしようか」
 と夏音が提案し、皆それに目を輝かせて賛成した。カートを押して肉コーナーへ向かうと、ついてきているのは澪とムギだけだった。
「あれ、唯と律は?」
 後ろを振り返ってそう問うた夏音に澪は目を閉じてくいっとある方向を促した。
「……お菓子売り場」
「何歳だよ……」


 目的の精肉売り場へ着いたが、どうにも人が多い。主婦とみられる女性たちの群れが妙に殺気だちながらあたりをうろうろとしているのだ。まるで肉食獣のように互いを牽制するような視線……それは傍目にとても緊張感のあるフィールド。
「何かあるのかしら?」
 ムギも尋常ならぬ様子に疑問を抱いたのか、頬に手をあて首をかしげた。
 夏音たちがその場で立ち尽くしていると、店の裏方から壮年の男が颯爽と出てきた。この店の制服を着ているので、店長かもしれないと夏音はあたりをつけた。
ところが、その男が登場したことであたりの殺気がぐんと増した。
 奥様たちの雰囲気がただならぬものへ変化して、夏音は緊張のあまり唾をごくりと飲んだ。
「お待たせしました!! 只今から、こちらの牛肉、豚肉、鶏肉のお値段をお下げしまーーーーす!!!」
『きゃーーーーーー』
 ぞくり。
 生物としての本能が何かを告げた。
「え、どういう……」
「邪魔よ!!」
 唐突の事態にうろたえていたムギを一閃、はねのけた奥様の一人が人の波に突進していった。
「いったい、これはなにー?」
 澪が数歩後退しながら涙目で言った。
「おぉー、タイムセールじゃん!」
 いつの間にか背後にやってきていた律が興奮した口調で声をあげた。
「律! この場合、どうすればいいんだ!?」
 夏音は事態を打開する人物として近年稀にみる珍しいケースとして、律を頼った。
「つまり、ここはもう戦場ということだよ夏音くん!」
 気がつけば唯もが横にやってきていた。いつもの彼女の雰囲気とは違い、その様子は時代が時代であればどこぞの武将のように厳格な佇まいであった。
「男を見せろ、ってことさ」
 律がぽんと夏音の肩に手をやって、叫び声をあげながら戦場に突進していった。
 それに続く唯。
「お、おぉ……Unbelieveable!!」
 先に向かった唯と律に負けていられなかった。
 「お、俺………男・夏音いきます!!」

 
 主婦の力をその身をもって思い知らされた夏音はぼろぼろになってスーパーを出た。
「あなどれないな大和魂……」
 全身ぼさぼさになった夏音がげんなりとそう呟くのを笑って唯と律はご機嫌に歩いていた。
(あの二人が何であんなにぴんぴんしているのか理解できない)
 買った食材を全員で分けて持ち、夏音の家へと歩く。外はすっかりと暮れかかっていたが、西の空に落ちかかっている太陽が世界をオレンジ色に染めている。川沿いの土手が残光に浮かんでいて、まるっきり違う場所に来たみたいだ。会話はない。それでも言葉にない充足感が夏音の心を満たしていた。

 その晩は、せっかく立派な芝生があるのだからと夏音の家の広い庭でバーベキューとなった。作業があるからと髪をアップにして作業にあたり、たくさん肉を焼いた。
 女の子といえど高校生の食欲は恐ろしいもので、小一時間をすぎたところで食材のほとんどを食べつくしてしまった。
「唯は肉食い過ぎなんだよー」
「夏音くんは野菜ばかりよね」
「バランスよく食べないと……」
 肉が無くなっても他愛ない話は止まらない。
 夜が更けてから大分経ち、制服のままで遅くまで帰さないのはまずいと思ったので、お開きにしようと夏音は言った。
 そのことに反対する者もいなく、全員で協力しあって後片付けをした。さて帰るか、と全員が帰り支度を終えようとしたところで、一人夏音だけは思いつめた顔をしていた。
 その様子に気づき、しばらく地面を見つめて喋らない夏音に軽音部の面々も沈黙を守らざるをえなかった。
 そして、夏音は何かを決心したように勢いよく顔をあげた。



「皆、聞いて欲しいんだけど。俺、実は――――」 



※投稿遅れました。



[26404] 幕間2
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/18 17:29

 タン、タタン、タタタン。

 乾いたシンコペーションが響く。

 途轍もない深海に迷い込んだようにペダルを踏む足がうまく動かない。

 溺れそう……こんなに乾いているのに。

「ストーーーップ!!!」

 また、だ。

 透んでよく通る声、繊細だが力がたくさんこもっている声、私のビートに割り込んだ。
 シンバルのサスティーンが気だるく伸びて、すぐ消えた。

「律、また水分足りてないでしょう」

 私がぼうっと顔をあげると、たった今私のドラムを強制終了させた声の持ち主が髪をかきあげながら私を心配そうな顔で見つめている。そんな動作がいちいち艶めかしく感じる男のくせに。でも私、現在そんなことにいちいち反応している余裕はないんでした。もう死活的にね。
 立花夏音が演奏を途中で止めるのはこれで三回目。
 もう慣れたもので、私は水分を補給しにのろのろとベンチの上に置いてあるペットボトルの元までたどり着いた。
 それを一気に呷る。げっ。

「ぬっりー」

 これまた、当然なんだけど。
 溜め息が止まらない。


 ハイこちら、音楽準備室(またの名を軽音部部室)はやっとこさ梅雨が明けたと思いきや、どうやら雨雲が隠していたらしい夏の日差しのせいで、ひたすら熱気がこもる温室と化しちゃっています。
 窓を開けても涼しい風が入ることはなく、がんがんと遠慮なく射し込んでくる太陽光線のヤツが木造の校舎の床さえも鉄板のごとく熱している。焼き肉ができそうなくらい。ますます熱気は増すばかり。焼けんじゃねーか……? 焼いてみてー。
 さあ、季節は順調すぎるくらい夏に近づいていたのでした。
 この目の前の女男(非常に侮辱の意)―――夏音は不思議なことに、私の叩くドラムを耳にしただけで、私の状態がすぐに把握できてしまうらしい。それは包み隠しようのないくらい正確に空気を伝わってしまうみたい。
 それで今みたいに明らかに集中力が切れていたり、私の意識がどっか白いもやがかかった世界に突入しかけた時なんか、一発。

 薄い刃で斬りつけるようなストップの声が容赦なくかかる。

 まあ、それでずいぶん助かっているのは事実で、ましてや無理して脱水症状なんか起こしてしまうなんてとんでもないことだし。
 感謝しているというか、まあ……ご迷惑おかけしておりますって感じ。
 ていうか、夏音と二人きりで合奏しているわけだけど、どうしてこうなったんだろ。
 この土曜の日中に部室に人がいるなんてこと、軽音部ではごくごく稀にも起こらない珍事。うん、椿事。
 かくいう私も忘れ物をとりに来ただけで、部室の鍵を警備員さんから受け取ろうとした時に、先客がいるってことに驚かされた。
 何で夏音がそんな土曜の日中に部室へ足を運んだかというと、あまりにこの部室が冷房や湿度管理が行き届いていないので、機材のメンテナンスをやっていたらしい。
 ご苦労なこってす。
 小一時間以上もこのむしむしとしたサウナのような部室で機材をいじくっていたと言った彼は、全然そんなことは苦じゃないって涼しい顔をしていた。
 そもそも、この男。立花夏音。
 軽音部唯一の男子メンバーという割にその外見のせいもあって、むしろ女子だらけの軽音部にさらに華を添えるという不思議な一役を買っているという……にくたらしいことに。
 日本人には見えない顔で、美人な……男っ。男っ! ふざけている。
生まれ持ったパーツが違いすぎて、万が一にも自分と比べる気にならない。にっくきは人種の壁という事で気持ちを落ち着ける。
 お姫様みたいな容姿は一度は憧れるけど、現実に出てこられたらまいってしまう。中身と外見が一致していたらもっとよかったのに。こう見えてこの男、超絶オタク。そして割とヘタレっぽい。それは何というか、気安さとも言えるのだけど。 そのおかげで外見で萎縮するって事はない。
 ほんと無駄に麗しいな。こんな暑い日和には、和傘なんかをもたせてみると意外にも涼がとれるかもしれないなんて考えてみた。けっ。
 思い返せば、この男がなよーんとへばる場面なんて見たことがなかった。
 今もこうして、私が滝のような汗をかいてへばっているというのに、バテた様子はみじんも感じさせない。ぴしゃっと背筋をのばしている。
 そして、この男に関してはまだまだ「とくひつすべきこと」ってのがあったりする。
 それはこの間、軽音部の面々で夏音の自宅に遊びにいった(押しかけたともいう)時に本人の口から出たことなのだけど。
 思い詰めた表情で、私たちにとある告白をした彼。
 それを聞いて私は驚くと共に、少しだけ呆れてしまった。
 その告白というのは、夏音の年齢が私たちより一つ上だということ。実際には二つ。日本で言うと昭和生まれスレスレ。
 もちろん私たちはぶったまげた。でも、そこまで思い詰めた表情で語ることだろうかとも思った。
 すると続けて夏音が語った内容は予想の斜め上を超えていた。
 夏音は一年前に別の高校に入学した。私でも知っている遠くの学区にある不良高。そこで壮絶ないじめに遭い、学校に行かなくなったらしい。それからこの学校に入学するまで、不登校の日々。
 再び学校へ通う際には、両親が見つけてきた男子生徒が少ないであろう桜高に再度一年生から入学する事になったのだという。
 終いには照れくさそうに首をかきながら事実をつらつらと述べる彼を見ていると、そんな衝撃の事実があったということが嘘のようだと思った。
 ひきこもりのオーラが全く…………まぁ、なくはないけど。たびたび、私たちがそろって居た堪れなくなるような発言をするし。
 それにしても、信じられなかった。こいつのどこにいじめられる要素があるのだろうか。むしろ、優遇されて然るべきじゃないか? 疑問は大量にあったけど、掘り下げる事は躊躇われた。
 とにかく。結論からいえば私たちはそれを受け入れた。すんなりと。
 色々慰めるような事も言ったけど、唯なんかは「あーた、辛かったでしょう……」と涙を浮かべて徳光さん状態だった。ムギはショックに打ち震えた様子で、夏音の肩にぽんと手を置くと何か言った。聞こえなかったけど。しかし、面白かったのは澪だ。「何で言わなかったんだよー!」と完全にブチギレた上に号泣するという行為で周囲をどん引きさせた。流石の私も、あの澪をフォローするのは至難の業だった。
 とりあえず、軽音部に変化なし。今日も仲良くやっています。
 まぁ、だから今もこうしてセッションなんかをしているんだけどさ。
ちなみに、運転免許をもっているのには流石に度肝を抜かれた。
 驚きの国際ルール。
 ちなみに、ばっちし帰りは家まで乗っけてもらいました。


「いやぁー、待たせた! わりーわりー」
 水飲み場まで行って、蛇口から水を飲もうとしたんだけど、ぬるい液体しか出なかった。
 結局自販機で貴重な財布の重みを減らしてしまった。そっと目許をぬぐう。暑いからよく汗をかくしね……っ。
「いいよ、こうして残って付き合ってもらっているんだから」
 流石に夏音もこの温度の中、制服を着ているわけにはいかなかったらしく、タンクトップ姿で髪を結っていた。そりゃぁ、思わずじっと見つめてしまうものである。
 認めるのもしゃくだが、がんぷくがんぷく。ほそいなー、こいつ。私の視線に気づかないで、再度チューニングをしている夏音はまだまだやる気の様子。
 私はどかっと椅子に座り、愛用のオークのスティックを握る。
「そういえば、ヘッドを変えたんだね」
 夏音がチューニングをしながらこちらを見ずに、話しかけてきた。
「あー、この間割れちゃったからなー」
 予想外の出費に泣いたものだ。ああ、泣きましたとも。
「抜けがよくなった」
「そう? ちょっといつもより張ってるからじゃないか。本当はこのクラッシュもそろそろだめなんだけどなー」
「あぁそれね。もうエッジがぼろぼろっていうか、ぎりぎりアウト?」
「アウトかよ……」
「もー、アウト。律があと数倍もうまかったならもう少しマシなんだろうけど、ひどい音だよ」
 ぐっさり。こいつは、このように鋭い刃物のような言葉で簡単に人の心をぶっ刺してくるやつだ。
 こと音楽に関して。初めはぐさぐさと歯に衣着せぬ物言いに、文化のちがい? とか思っていたが、ただの性格だという事が短い付き合いの中で把握できた。
「うっ……そらぁ、悪ぅござんしたねっ!!」
 素直に負けは認められない。すっごい子供みたいだって分かってるんだけどさ。
「さー、いくよ!」
 夏音がこちらに視線を合わせる。目が合う。
 もう捉えられそうになる。強すぎる。その青い瞳は飛び道具ですか。
 そうすると、突然夏音の姿が何倍も大きくなったように感じた。それで、私は心の準備をするのにいっぱいいっぱいになる。どうしよう、とあせってしまう。

 これからとんでもなく恐ろしいものを投げられるかもしれない。

 そんなプレッシャーを肌に感じながら、それでも負けたくないと汗で滑りそうになるスティックを握りなおす。

 夏音が腕を振り上げる。

 カミナリが落ちた。

(あ……っ!?)

 またもや私は敗北を味わった。
 自分の音で、叩いてやろうじゃねーか。そのつもりでいたのに、無駄だった。
夏音の音に体が勝手に動いてしまう。否、動かされてしまう。バスドラを踏む足。スティックがスネアを叩きつける、この手。夏音という指揮者によっていいように動かされている感覚。
 一番初めの音で、ぐいっとつかまれてしまう。もう、主導権とかの次元じゃない。
 ブラックホールかというくらいの吸引力で私の音を手繰り寄せて、もう、それは自在に……。あぁ、何で。そこにそう来るの!?
 あれ、何でだろう。三拍目にブレイク……こんなこと分かってやるもんじゃない。けど、そう来るんだってわかってた。分からされてしまった。
 いきなり変拍子。頭がおかしいのか! 今まで、四拍でイケイケだったじゃん! あぁ、何でついていくの私。ついていけるの。
 これからずーっとコレについていくの!?
 しんどすぎるわっ!!
 もうがむしゃらになって、リムショットをぶちこむ。もう分かっていた。終わりの音だ。
 音が止む。

 静寂の中に、私の息を吸って吐く音が生々しく浮き上がっている状態。
 ぜぇぜぇ、って……。
 精神から体力を使い果たしてしまったようだ。
 私、田井中が申し上げます。これは……これはセッションなんかじゃない。

「マラソン走ったみたいになってるよ律」
 へらへら笑いながらそう言ってくる小奇麗な顔をした奴。綺麗にまとまりやがって、ベースをもって佇んでいるだけでどれだけ絵になるか。一葉に映しておきたくなる。
 中身がこれだけ化け物だと、その表面とのギャップに笑えてくる。
「もう、こんなのマラソン以外のなんだっつーの!!」
 私はうらめしい視線をおくってやる。肩をすくめられた。その動作が似合う。外人め。
「もう今日はこんなところにしておくか」
「うぅーーあー」
 驚いた。私、人間の言葉が発せなかった。へばりすぎにもほどがある。
「帰りに冷たいものでもご馳走しようか」
「マジかっ!?」
 復活。単純、それが私の美徳だと思う。ささっと後片付けをして撤収しようということになった。アイスのことしか頭に……だが、ここで帰ることに脳みそのどこかがブレーキをかけた。
 こういうのもいい機会だと思う。楽器を広げているうちに聞いておきたい。
「なあ、私のドラムって実際どうよ?」
 こんな事を平然と聞いているような顔して、内心では心臓ばくばくです。
「どうって……また『どう思う』、か……」
 夏音はよく分からないことを呟いて、コマッタコマッターと頭をかいた。聞き方が悪かったみたい。
「合わせづらい、とか変な手癖とか目立たないかなぁってさ」
 澪には、お前のドラムは走りがちだと言われるけど。私はその方が勢いがあった方がいいと思うんだけどなー。ていうか、信条として曲をもたらせるくらいなら走ってた方がいいって思う。
 だから、そこら辺で澪とは意見の衝突が絶えない。澪だってもう少し私と合わせてノリ出せるようになれっての。話がずれた。
 私は黙って返答を待つ。
 夏音は数分も考えこんだまま喋らない。よく考えてくれてのかわからんけど、流石に私も少しじれるぞ。まあ、果報は寝て待て、というしな。寝るか。
「そういえば、律って好きなドラマーは誰?」
 数分悩んでから、質問で返すな!
「キース・ムーンとか」
 私が眉をひそめながらもそう答えると、夏音は鷹揚にうなずいて、やっぱりなと笑った。
「The Whoが好きだって言ってたからさ。きっとそうだろうなって思ったんだ」
そうか、そんな会話をした覚えがばっちりある。
「なら、とりあえずドラム壊そっか!」
「あぁ、なるほどまずドラムを……って、何でだよっ!?」
 ぱぁっと花が咲いたように微笑みながら、言葉の暴力。会話の暴力ともいう。
「でも、やっぱり彼の真骨頂を知るにはいろいろ真似てみないと……」
「いや、たしかに好きだけどな! 全部リスペクトしているわけじゃないし!!」
「そうかー。ま、あまり影響を受けているように思えないけどなー」
「そ、そりゃぁあんな風には叩けないけどさ……」
「あ、これいいなっていうフィルとかをどんどんマネすればいいと思うよ。それ で、できるなら全ての曲をコピーするのだ!」
「げ……そ、れ、は……それぐらいやらないとだめか?」
「やって損することはないさ」
 夏音の言うことはもちろん正しい。けど、肝心のドラムの感想は?
「まぁードラムの感想というかなぁ。とりあえず今はリズムだけ頑張っていただければ、と」
「リズムか……最近メトロノーム使ってないなー」
「使えやー」
「うぃー」
「リズムが命だからね! あと、好きな尊敬するドラマーがいるならその人のプレイスタイルも真似てみなよ。バンドで叩いている律を見たことないから、何とも言えないけど」
 ふむふむ……。私に暴れながら叩けというのか。考えておこう。
「ま、こんな感じ」
 それから夏音はベースを丁寧に拭いてから、ささっと機材を片づけ始めた。まだ話を続けていたかったけど、私も暑さに耐えきれなくなってきたし。十分聞きたいことは聞けたと思う。
 たまには休日に部室に来るのも悪くないかなって思った。
 そこには誰かがいるかもしれないし。


 ただ、夏音さ。
 お前、もっと何か隠しているだろ?
 普通の男の子だって云い張られる方が嘘くさいし。
 何であんなに機材をそろえているか。こんなに凄まじいベースを弾くのか。
 そのことを聞けるのはもう少し先かな、と思う。
 けど、なんだか気長に待てる気がした。

「鍵かけるぞー」
「よっしゃー、アイス~アイス~!!」
「へいへい」
 
 とりあえず、目の前のアイスが待っているのでそんなことは後回しでぽい、だ。


 
 
 
※超絶短くてすみません。掌編的な。でも物語に少しだけ必要なアレなので。



[26404] 幕間3
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/19 03:04
 目覚めると、甘い草木の匂い。そっと肌を撫でる風を優しく吸い込むと一つ伸びをする。
 誰かが窓を開けたみたい。
 そっと目を開けてみると、眩しさに見慣れた天井が浮かんでいる。私はちょっとだけ頬をゆるめた。
 朝涼に目覚めがよくなる不思議。また深い緑の季節がやってきたのだと、そっとささやかな幸福に包まれる。愛しいひと時。
「お嬢様、朝でございますよ」
「窓を開けてくれたの?」
「はい。少し風を入れようと思いまして」
 私はメイド頭の唐沢さんに微笑むと、軽やかにベッドから起き上がった。こんな朝はベッドが簡単に私を手放してくれる。ベッドから降りてもこもこのスリッパに足を通す。それからゆったりと歩幅で窓に近づいた。
 そこからもこもこと積み重なった夏雲が遠くに見える。
 芳しい薫風が髪をさらっていく。

「何かいいことがありそう!」

 私はぐっと腕を伸ばした。


 私立桜ヶ丘高等学校の衣替えもとうに終わり、薄手の装いの生徒が肩を並べて登校している風景も見慣れてきた。駅から少し歩いて大通りを抜ける。見慣れた風景に違った匂いが混じるだけで嬉しくなる。たぶん、同じ気持ちを抱える人はたくさんいる。あそこの人も、そっちの人も。
 これから日照りが強くて厳しい季節になるのだけど、それでも気持ち良い風が「ファイトだよー」と言ってくれているみたいでご機嫌なのです。
 通学途中、クラスの子達と挨拶を交わしながら一人で歩く。いつも必ず、と言う訳ではないけど、この時私はある事を待っている。それは大抵、後ろからやってくる。
「おーっすムギ!」
 ほら、きた。期待に待ち焦がれていたつもりはないけど、抑えていた気持ちが一気に弾んでしまう。
 振り向けば、りっちゃんと澪ちゃんが仲良く並んでいた。二人は幼馴染で仲が良くて家も近いからよくこうして一緒に登校しているみたい。私にはそういう習慣がなかったから、それがうらやましくてたまらなくなる。それでも、どちらも私の大切なお友達。
 中学校までは家からの送り迎えに車を出してもらうのが習わしになっていて、学校のお友達と一緒に帰るということはなかった。お友達と一緒に帰りたいなんて我が侭は運転手さんに悪いから、こんな日が来る事が夢の一つだったりする。近くて遠かった、憧れの風景。
 家が遠いから仕方のないことなんだけど……。それでも高校生になったのだから、とお父さんや周囲の人たちを説得して電車通学をさせてもらっているだけ進歩したのかも。
「おはよう律っちゃん、澪ちゃん!」
 こうして大好きなお友達に気軽に声をかけられて一緒に学校へ行くことができる。駅から学校までのちょっとの距離だけど、その間の道のりは私が求めていた大切なものだった。
 だから、いいことなんて毎日起こっている。次から次へと新しい経験が舞い込んできて、一生分の運を使いこんでいるみたいで不安になるけど。
 合流した私達は他愛無いお喋りをしながら学校まで歩き続ける。その途中で、そろそろだと私は気付いた。
 つい笑いがこみ上げそうになるのを止められない。
 あと、少しかな……。このあたりで。この角で。
「あ、夏音だ」
「相変わらず眠そうだな……前見えてるのか」
 私たちの視線の先には、ふらりふらりと足元がおぼつかないまま歩く男の子がいた。見事な低血圧っぷりは予想を裏切らない。まわりの視線を大いに浴びながら、それに気付くこともなくぼーっと歩いてくる。
 男の子。あぁ……男の子にしておくの、なんてもったいないの!!
 セットする時間もなかったのかしら。頭上で一本に結われている髪は、それが解かれた姿を想像してみたくなるくらい綺麗。いつか彼の髪を弄ってみたい、とうのが今の私の密かな野望。
 あなた制服間違えていませんか、と尋ねたくなるくらいの外見なんだけど、本人はあんまりそう言われたくないみたい。
 夏音くんとはクラスが別だけど、あんまりお友達がいないみたいだし。これは澪ちゃんから聞いた話だけど、クラスから完全に浮いているのだとか。その原因は夏音くんが阿呆だからとか、皆が無駄に麗しい外見にだまされているから、とか熱く語っていた。結局、クラスでかろうじて話せるのは澪ちゃんとりっちゃんだけ。せっかく共学化したのに、男の子と仲良くできないなんて可哀想。けど、一番の問題は女の子のグループにいて「まったく違和感がない」ことかも。これは幸か不幸か。
 そんな夏音くんだけど、見事なくらいぼーっとしている。あまりにぼーっとしているので、そのまま私たちのことを視界に入れないで通りすぎようとした彼を律っちゃんが首をつかんで引きとめた。
 フライングニー。
 いただきました、今朝一番のフライングニー。でも、女の子が朝から公衆の面前で飛び蹴りはどうかと思うの。それが律っちゃんらしいといえばそうなのかも……。とにかく、死角から思わぬ襲撃をうけた夏音くんは空を飛びました。
 顔だけは傷をつけないで欲しいのだけど………あっ。すぐに立ち上がった夏音くんはものすごい勢いで襲撃者の姿をとらえ……その首を締めあげた。
 立ち直りが早い。毎朝これで血圧を上げたらすっきりして一時限目を受けられると思う。そんな朝から賑やかな軽音部が大好き。


 あぁ、放課後が待ち遠しい。授業はきちんと真面目に受けているけど、たまに意識がいつもの部活の風景にとんでしまう。

 皆とのティータイム。私の時間。今日のお菓子はババロア。

 実はこの間、あまりに評判が良かったから、今回は貰い物なんかじゃなくて家の人に用意して貰ったりしたのだけど……もちろん、みんなには内緒。きっと遠慮されてしまうから。時間がもっと早く経ってくれたらいいのに。そんな風にやきもきしていたら、授業の内容なんてまるで頭に入らなかった。

 それでも、がんばりました。やっと慣れた掃除も終わって、急いで部室へ向かった。
 もうみんないるかな。ついつい階段をのぼる足もだんだんと早くなってしまう。
でも、扉を開けようとしたら鍵がかかっていた。
「え……」
 扉に鍵がかかっているということは、まだ誰も来ていないということ。私の教室は部室から離れているから。普段は先に部室を開けて待っている人がいるのだ。
 たぶん今の私、すごく眉尻が下がっていると思う。そのまま意気悄然としながら鍵をとりにいこうと音楽室を後にしようと思ったら、階段を上ってくる足音が聞こえた。
「やあ、こんにちはームギ。今日はみんな遅いんだね」
 夏音くんだ。その手には部室の鍵が握られている。
「うん、みんなお掃除が長引いているのかしら?」
 あぁ、と何かを思い出すように目線をあげて夏音くんが言った。
「たしか資料室の掃除だったような気がするなあ。ほら、あすこはたまに資料整理とかさせられることあるから」
 なるほど、資料室のお掃除。あそこの先生、気まぐれだから早く終わる時との差が大きいという話。
 夏音くんは鍵穴になかなか鍵がささらないようで、ぼそりと口では言えないスラングを吐くと、手間取りながらも部室の扉を開けた。彼はそのまま慣れた様子で鞄をベンチの上に置く。私もその横に鞄を並べて、お茶の準備に取りかかった。
 こんな流れも自然と板について、今では軽音部の恒例の風景になっている。
 私はこうしてお茶の用意をする時間が気に入っている。振舞う、というのは大変気をつかうことだけれど、誰かのために幸いな時間を提供することは美しいことだと思う。
(それに……)
 茶葉をよく蒸らすところまで作業を終えて、袋から保冷剤で保存してあるお菓子を取り出す。私がこの役割を放棄しちゃったら、誰もやる人がいないもの。
「なんだか嬉しそうだね。いいことでもあったの?」
 夏音くんが目を細めながらそう言ってきた。作業に没頭している間に、私は知らず微笑んでいたみたい。
「ううん、何でもないわ」
 十分に蒸らし終えたところで、私はティーカップに紅茶をそそいで、お菓子と共に夏音くんの前に置いた。本日のお菓子を目の前に手を打って喜ぶ彼を見て、頬がゆるむのを感じる。
「あー、最高だね。軽音部に入ってよかった」
 太陽のような笑顔でそう言い放つ夏音くん。まあこのティータイムも軽音部の美点の「一つ」だけど……それだけじゃないはず。きっと。
「それにしてもさ」
 紅茶をすすって夏音くんの眼は私をしっかりと捉えた。青い瞳。私と同じ、けど同じじゃないくっきりとした青。
「掃除とか。部活とか。こうしてお菓子をひろげてティータイムとか。なんだか最近は初めてが一気に押し寄せてきて大変だよ」
 その言葉にすぐ返事をすることができないで、思わず黙ってしまった。
 どきっとした。まるで私のことを突然言われた気がして。
「そうね。向こうでは掃除なんかしないものね」
「部活も初めてだし、部活の度にこんな風にお茶をするのも新鮮だよなー」
 それは私もそう。ここで起こることはどれも真新しくて、胸を鳴らしてばかりいる。
 もしかして、お前もそうだろう? と言外に言われたのかも。
 それは考えすぎかしら。
 でも一つ腑に落ちたことがある。どこか自分に似ているなと思っていた目の前の男の子は、存外自分と似たような境遇だったのかもしれない。
 毎日が楽しくて仕方がないんだ。彼もきっとそう。知らなかった日常の葉を次々にとらえて、一枚一枚わくわくしながらめくっていく。
「きっと私たち似たもの同士なのね……」
「え?」
「え?」
「ム?」
「あ……ら…?」
 声に……声に出ていた!?
「…………」
「………………ッ」
 沈黙は金なり、誰かが言い残した言葉。あれは要するに、お金を稼ぐことは楽ではないということなのね。今、私とっても苦しい。
「そう言われてもなぁ、ムギ……」
「ひゃっ、はい!」
「俺はムギみたいにお上品でもないし、可愛くもないんだけど」
「……はぁ」
 彼のこういうところは、いつか直してもらわないと。私は紅茶のおかわりをすすめて、笑顔でその場の空気をしれっと流した。
 いつか彼が一部の女性から殺されないように願うばかりだ。それから私たちは他の人たちが来るのをゆっくりと待った。
 暫くして、私がキーボードの練習をしようとアンプをセッティングしていたら夏音くんが近寄ってきた。
「ムギのそれ、ちょっと弾かせて!」
 目を輝かせてそう言われたら断れるはずもない。
「うわぁー。全然タッチが違うやっ! なんていうんだろ、こんなしっかりとしたアナログな音も出るんだな」
 しきりにぶつぶつと呟く彼は新しいおもちゃに触れる少年のような表情をしていた。
「どうせなら、もっと機材増やしたいよねー」
 え、何を言うの夏音くんたら。
「わ、私は今のままで十分かな」
「えー、せっかく良いキーボード持ってるのに!? もっと鍵盤屋はもっと音に貪欲にならないと! あと三つくらいは増やしちゃおうよ!」
 そんなに身を乗り出して力説しなくても……。
「そ、それは……たぶん、今の私の実力には見合わないのではないかしらー……」
「そうかなー。こう、こいつどんな頭してんだって聴いた人を吐かせてしまうくらいな変態的な音とか、あればいいのになー」
「は、吐かせちゃうの? それはちょっと……」
 そこまで言うと彼も諦めたようで、そっと鍵盤から手を離した。
「まあ、ムギがそれでいいなら……」
「うん、ごめんなさい」
 あまりに彼がしょぼんとするので、何か悪いことをした気分になる。彼なりに私のことを考えてくれているのかしら?
「夏音くんは、どうしてそんなに機材にこだわるの?」
「そりゃぁ、表現のためさ」
「表現?」
「自分の出したい音、世界、全部に必要なことだよ」
「だからあんなに機材をもっているの?」
「そう。俺が持っているすべての機材をここに揃えたとしたらぶったまげるよ?」
 そう言って彼はにやにやといたずらっ子ぽく笑った。前から思っていたのだけど。
 夏音くんって何者かしら。
 もし、どこかでプロをやっていましたーと言われても驚かないわね。むしろ、納得。けれど彼が話さないということは、触れてほしくない部分なんだろう。
 私は時折弾く彼のベースを聴いたり、軽音部のみんなとお茶をしていられたら満足なのだし。
 だから、彼の真実についてはおあずけ。とりあえず今の私には必要がないものだから。
「ねぇ、こんなフレーズとかが浮かんだのだけど聴いてくれるかしら?」
「もちろん! 聴かせて!」
 こうしているだけで、楽しい。
 もうすぐみんな来るかな。



※ 若干時系列がおかしいです。夏音カミングアウト前だと思われます。あと二話ほど、こんな超短い掌編が続きます。すみません。ムギの描写下手ですみません。ギリギリ五千字以下ですみません。



[26404] 幕間4
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/20 04:09
<唯>

 音楽ってなんだろう。今までの私はそんなのこれっぽっちも深く考えたことはなかったけど、最近はちょっとだけ考えるようになった。

 私の中にある音楽なんて子供プールくらいの浅さしかないと思う。その浅いプールにはぷかぷかとレコードが浮かぶ。本当にそんなの見ちゃったらきっと悲しくなる。私の音楽ってこれだけなの?

 小学校の時は、まず長女の私にお父さんのラジカセが下がってきて、妹と一緒に家にあるカセットを聴いていた。妹の憂の方が音楽に興味津々って感じで、よく一緒に寝転んで流れてくる川本真琴の曲とかを口ずさんでいたり。そのうち、私のより立派なMDコンポが憂の部屋に置かれてからはそっちで音楽を聴くようになったけど。
 いつの間にかMDなんてものができていて、そのうち気が付けば何万の音楽が手のひらに収まるようになった。私は同級生が新しいプレーヤーに手をつける中で、それをぼーっと眺めていただけ。
 中学校の時なんかテレビに出てくるJ-POPばかり耳にしていた。後は和ちゃんが紹介してくれるCDとかをぽつぽつと聴いていただけ。
 そんな私も、このままじゃいられない場所に来てしまった。昔の自分が知ったら絶対びっくりする。
 私、軽音部に入りました。音楽をやる部活。

 音楽。音を楽しむと書く。ただの音じゃなくて、人間が組織づけた音。
 生まれた時から、ううん、それこそ生まれる前から耳に入ってきて、受け入れて、馴染んで。たまに口ずさんで。けど、それは真っ正面から向き合っているのとは違って。
 音楽はいろんな角度から私に触れてくるのに、こっちから応えることができるなんて思ってもいなかった。
 近頃、そういうことが少しずつわかってきた。


 アンプからずっと変な音が流れている。私がギターを弾いていない時、かすかにジャーって感じになるのが面白い。弦に触れたらぴたっと止まる。
 おもろい。
 夏音くんがこれはホワイトノイズっていうんだって教えてくれたんだけど、そこから先の「たいいき」がどうとかはよくわかんなかったけど。ノイズにも色があるのかな。ピンクとか、ブルーとか?
「唯、ぼーっとしてないで言われたコードをおさえてよ。プリーーーィズ」
 凛とした声に私はハゥっとなる。目の前には色白の女の子……失礼。みたいな男の子がギターを構えて座っている。どうやらまたやってしまったみたい。集中力が続かないで、すぐに他の事に気が散ってしまう私のいけない癖。面目ないです。
 夏音くんが困ったように眉を下げてこっちを見ているのであわてて頭を下げた。
「ご、ごめんですー!」
「ヤレヤレ。唯ちゃん、いいですかー? もう少し集中力をつけようねー」
「はーい!」
「まったく……一度集中したらすごいのに……」
 夏音くんは溜め息まじりに俯いた。こめかみを揉んで瞳を閉じている。だいぶお疲れの様子。私のせいなので、何も言えない。
 へへへ、と頬をかいて誤魔化し笑う。出来の悪い生徒でさーせんね。ひとまず教えてもらったコードを押さえて右手を振り下ろす。
 ジャーー。あれ、何か違う。絶対チガウ。
「一音ずれてるよー……薬指はここ! ひとつズレただけで、その音じゃなくなるんだから。唯は音感しっかりしてるんだから、わかるでしょ?」
「せ、先生。薬指が動きませんー!」
「そりゃぁね。一番神経が少ないから、薬指は頑張らないと動いてくれないんだよ。練習あるのみさ」
 最後の一言でばっさりと完結されるのも困る。その一言に尽きるのだとしても。
「これがGM7…A7…Bm7…えっとD…」
「そこはDonA。こう動くの」
「あ、そっか! それで、そこからGadd9。Gに9thのこの音を加えているの」
「あ、指つる……あぁ~~」
 もう指の限界だった。弦を押さえる指が痛いし、ずっとコードを押さえているうちに指がつった。
「ま、最初のうちは仕方ないよね。休憩にしようか」
 夏音くんは私の醜態にも頬をぴくりとさせずに静かに言い放った。そのままギタースタンドにギターを置いた夏音くんが皆のテーブルの方に向かう。置いてかれた私は今おさえていたコードの形を手で再現してみる、けど急に虚しくなった。
 ふぅ、と溜め息一つ。幸せ三つ逃げていった。滅多に溜め息はつかないけど、教えてくれる夏音くんに申し訳なくて、自分が不甲斐なくて。
 夏音くんに何回も言われている、肩の力を抜くってことがなかなかできない。普段の唯をそのまま出せばいいって言うけど……普段の私ってどんなの。最近はこのせいで肩凝りがひどかったりして急に何歳か老けたみたいに感じる。
「うぅ~、ごめんねー。せっかく教えてもらってるのに……」
「気にしないで。だんだん余計な力を入れないで押さえられるようになるから」
 そして椅子に腰掛けた夏音くんがお菓子を貰っているのを見て、私もギターを置いて立ち上がった。

「お疲れサン。唯の上達の程はどう?」
 ドラム雑誌を読みながら茶菓子をつまんでいたりっちゃんが隣に座った夏音くんに訊ねた。
「んー、まずまず?」
 ぎくってするよね。こうやって目の前で下された評価にどう反応したらいいのでしょう。絶対に褒められる要素なんかないし、聞かなかったフリでもすればいいかな。私は椅子に座ると会話に参加しないで、そっとその会話に耳を偲ばせてみた。
 あ、今日のお菓子は大福餅。わーい。
「だって一度は覚えていたものなんだよー?」
 夏音くんは湯のみをまわしながら、お手上げーって感じで肩をすくめた。
「だよなー」
 それに肩を揺らして同意するりっちゃん。二人とも、本人を目の前にしてひどいよ。そこまで言われると、いくら私だって何か言わなきゃと思って重い口を開くよ。
 がっと椅子を引いて立ちあがった。

「私はやればできる子だと……」

 あれ。部室から音がなくなっちゃったよ。

「和ちゃんが以前に言っておられまし………た……」
 澪ちゃんの方を向くと、音速で目をそらされた。やっぱり、夏音くんの反応が気になるよね。勇気がいるけど。えい。
 青い青い双眸を限界まで見開いてこっちを見上げる夏音くん。ふいにその表情が崩れて笑顔になった。
「まぁ、唯だからなー」
「あぁー、そっかー唯だもんなー」
「そ、そうだなー唯だからな!」
 急にほわーんと空気が崩れて、嬉しそうに同意するりっちゃんと澪ちゃん。これは馬鹿にされている気がする。
「まぁ、座りなさい」
 夏音くんが促すと、すかさずムギちゃんがお茶のおかわりを注いでくれた。それで私は大人しく椅子に落ち着く訳ですが。あれ、今の空気はなんだったんだろうと。納得がいかない。ああ大福が美味しい。
「あと十分くらいしたら再開するよー」
 間延びした夏音くんのもの言い。リラックスしきっている。腑に落ちないよ。


「さて、再開しますよー」
「はい」
 改めてギターを構えてアンプの前に座った夏音くんのレッスンが再開された。
「ギターをやっていくうえで唯が覚えることは山のようにあるんだけど、まずコードを押さえられないと話になりません」
「はい」
「ただ、曲としてやってみるのも上達の道でしょう」
「はい」
「ということで、二つしかコードを使わない曲があるんでそれをやってもらうね」
 そう言って夏音くんは「C」と「G7」だけ使って例を見せてくれた。
「ね、簡単でしょ? アップテンポな曲で、弾いていて楽しくなるよ」
 さぁー、やってみてと言われて私はギターを構える。流石に押さえるのが簡単なコードだし、詰まらずに弾けた。コードチェンジも初歩中の初歩のもの(かつて完璧に覚えていたのだから)。
 たどたどしいリズムで曲になっているか怪しいけど、何回も同じコード進行を繰り返す。すると夏音くんが足踏みで私のリズムを整えてくれる。あ、曲に入る前はまず足でテンポを作ってからって教えてもらったのを忘れていた。 
 それでも助け舟(足?)を出してくれた夏音くんの足に合わせてだんだんと私もノッてきた。
 でも、ここからがすごかった。夏音くんのギターがそれに参加してきた瞬間、もうそれは魔法みたいに変身した。ギターが縦横無尽に歌い、高鳴る旋律を部室に響かせている。
 顔を上げたら目が合った。そして気づいちゃった。彼のメロディーを支えているのは、今の私が弾いているギター。私がズレたらいけないんだ。こんな簡単なコードでこんなに素敵な演奏に立派に加わっている。

 すごいよ。私、今音楽やっているよ。

 夏音くんの音が甲高く伸びていく。表情で、もう終わりって示されているのがわかる。大げさにギターを掲げた夏音くんに合わせてジャカジャカーンと適当なストロークをかき鳴らして曲が終わった。
「すごいすごーい!! 夏音くん、私すごいよ!」
「うん、きちんと形になってたね!」
 私が興奮冷めやらぬ勢いでいると、夏音くんも満足そうに微笑んでいた。
「ちょっとはつかめたでしょ?」
「うんっ! 私、こうやってもっといっぱい曲弾きたいと思ったよ!」
「そう? なら、次はあの有名な曲にしよう。カントリーロードっていって、使うコードは今より増えるけど、ポジションチェンジが割と簡単だから……」
 ああ、楽しい。うん、楽しい。こんな風に音楽をやっている瞬間は楽しくて仕方がない。
 軽音部に入らなかったら、こんな感覚知る事はなかったと思う。
 だから私は今日も明日も、どれくらい指を痛めたって楽しいに違いないんだ。




<澪>



 残響が消える。一瞬前には少し低音がブーミーな音がアンプから漏れていた。サスティーンがゆっくり消えていく時、呼吸と似ている。ゆっくり息を吐き出すような感覚。
 私は演奏を終えて指板を手のひらでおさえて夏音の言葉を待った。夏音は腕を組んだ姿勢で目を閉じている。やっと開かれた口からは思わぬ一言が飛び出た。
「チューニングがズレてる」
「え?」
 よりによってそこ? と思わなくはないけど、まず言われた言葉に反応してみよう。おかしいな。これを弾く前に合わせたばかりなのでチューニングがズレたとは思えない。弾いていても気にならなかったし。
「ちょっと貸して」
 私が目を丸くして愛器を見詰めていると、夏音がベースを寄越せと身を乗り出した。素直に渡すと、彼は色んな場所でハーモニクスを鳴らしてペグをいじりだした。ネックを横から見たり縦から見たり。
「んー、うん。若干だけどネックが反ってるね。ここのところ湿気がすごかったからね」
「反ってるの!?」
 それは大変な事だ。いや、一大事だ。夏音の言葉にどうしようもなく焦ってしまう。それより、何て不甲斐ないんだと落ち込んだ。ネックが曲がっている事に気が付かなかったなんて!
「言っても少しだよ。ほら、オクターブが狂ってるでしょ?」
 ほら、って聴いてもわからないけど。
「どうしよう」
「どうしようといっても、どうしようもないよ。テンション緩めたまましばらく放っておこう。たったこれだけでロッドをまわしたくないし」
 その言葉にほっとする。何だ、大事にとってしまったと胸を撫で下ろした。実はネックというものは案外簡単に反ってしまうものだ。季節によって湿度の影響を受けてしまう。乾いたり、潤ったり。日本、忙しないから。とにかく楽器は生き物。 すごく繊細で、持ち主の管理がかなり重要だ。愛しの楽器が悲鳴をあげているのにも気が付かないような人間にはなりたくないものだ。
 意図せずネックが反ってしまえば、チューニングが揃わなかったりしてしまう。さらに言えば、弦がフレットに当たりすぎてしまったりすると演奏していられない。弦をビビらせる事も手だけど、そこは程度の問題。夏音が言ったように、ちょっと反ったくらいだとテンションの駆け具合で修正できてしまう。
 それにしても、夏音の耳はどんな造りをしているのだろう。私は音のズレがわからなかった。少しの音のずれが気になる、というより気にすることができる耳というのはうらやましい。
「澪はもともとロウを出し過ぎて何の音かはっきりしない時があるからな。力入りすぎて音上がってる時あるし」
 音感はしっかりつけた方がいいでしょう、と夏音は語る。しかしながら、コルグの安物のチューナーでは計測できないくらいのズレであったことは私の名誉のために言っておきたい。それでも他人に指摘されるのはやっぱりいたたまれなくなる。


 夏音の自宅で行うベースのレッスンは毎週の恒例行事になっている。頭を下げて夏音に見て貰う事になって、しばらくは私の方が萎縮してしまって身が入らなかったりした。二つのベースが向き合っていると、普段の彼の面影がすっとどこかに行ってしまう感じがしたのだ。同級生、部活仲間、という枠組みから外れたプロのベーシストとしての夏音を前に圧倒してしまった。
 それでも何回か続けていると人間、慣れるもの。すっかりこの環境に順応してしまった今ではこのプロ御用達スタジオ、みたいな自宅スタジオに居ても余裕しゃくしゃくでいられる。幸い、夏音以外の家族に遭遇する事もないし。
 ただ、多少の不満は何点かある。夏音という男はとかく自室か地下のスタジオにこもって大きな音に埋もれていることが多い。だからチャイムの音が届かないで三十分も玄関で待たされた事もしばしば。金持ちの豪邸の玄関先でじっと動かない少女を近所の主婦が怪しげに睨んできた事もあって、大変居心地が悪い気分を味わったりしたから。
 その辺についてつぶさに文句を言うこともできない。所詮、時間を削ってもらっている身だから。どうせ不平を漏らしても「あーごめんごめん」って簡単に謝るだけだし。それでも、それはそれで憎たらしい気持ちが湧かないっていうのはズルイ。それが立花夏音という人間で、幸か不幸か私はこの短期間ですっかり立花夏音という人間に慣れてしまった。
 もちろん慣れないことも確かにあるけど。主にカノン・マクレーンというアーティストについて。
 目の前にいるのは確かに夏音だけど、カノン・マクレーンでもある。ベースを弾いている時の彼を同級生として意識することはなかなかどうして難しい。
 桁が違い過ぎる。毎回、彼が走らせるグルーヴに圧倒されるし、打って変った幽玄な調べに心が揺れてしまう。フレーズが歌うのに合わせてこっちの心が揺り動かされる。なんといっても、毎度彼のベーシストのコンサートの特等席に座っているようなものだから。
 まだ両手で数えるほどしか行われていないレッスンだけど、たったそれだけで私はだいぶ成長したと個人的に思う。まだまだって笑われるかもしれないけど。自分の成長は自分が一番分かっているつもり。だから、胸を張って私は言う。少しだけ上手くなりました、って。
「澪は教えがいがあるよ。教えたことをすいすい覚えてしまうんだもの」
 夏音は前にそう言ってくれたことがあった………あったんだ。そのあと、頭が真っ白になった私がどう返したか記憶にないんだけど。彼は本当に真剣に教えてくれる。細かい所まで相手の立場になって疑問に答えてくれたり。ただ、真摯に教えてくれるのはいいけど。これまた頭が痛い問題が。

「ハハハッ! ヨレてるヨレてるー。何それ三連符になった時の澪のリズム気持ち悪い……あーキモイ!」
「はっはぁー、シャッフルつっても適当ってことじゃないんだよ。頭の中がシャッフルするんじゃないよ?」
「今のは、裏なの表なの?」
「ごめん、いまの曲だった?」

 等々の手厳しい言葉が飛び出る。なんというか、音楽に関しては鬼のように厳しくなるのだ。それも、レッスンが始まって最初のうちはまだいいんだ。
 興がのりだすと、だんだんと笑顔を顔面に張り付けたまま心は鬼軍曹と化す。
あまりの言葉に気絶しそうになったことも……。気のせいではないと思うんだけど、メンタル面の耐久力も徐々についてきている気がする。
 とにもかくにも。色々あるにせよ、この時間はとてもタメになるし大切なものだって事は間違いない。


「俺のベース貸すよ。弦が激死にだけど」
 どうにもこれ以上、私のベースの音を聴きたくないそうだ。ひどい。けど仕方ない。そう言って、彼はスタジオに置いてあったベースの一つを貸してくれた。現れたベースを見て、腰を抜かしそうになった。
 リッケンバッカ―……到底、私には手が出せない代物だ。万が一でも壊したらどうしようとベースを持つ手が少し震えてしまう。
「何でレフティーのがあるんだ……?」
「これ、知り合いのなんだ。前にプレゼントされた。レフティーのだからいらなかったけど、役に立つ日がくるとは……」
 ベースを受け取ってから、早速チューニングをすませてアンプで音を鳴らしてみた。
「あ、すごい」
 弦が死にかけといったが、良い感じに抜ける。綺麗に抜ける、というより重低音がイブシ銀に駆ける感じ。
「案外丸い音も出るだろ? ホローボディだしフロントのピックアップも特注、プリアンもこだわり抜いて造ったものらしいから。つまりオール特注だからスケールも澪のベースと違和感ないと思うよ」
 何だその至れり尽くせり。これ、正規の値段なんかじゃ図れない程のスペックじゃないか。
「うん……弾きやすい……弾きやすいけど、おそろしい」
「そー? よかったよかった!」
 夏音は私の呟きをガン無視してきた。庶民はこんな楽器をほいほい弁償できないというのに、理解していないのか。
 それでも、私は磨かれた白黒のボディをたくましく感じた。滅多にこんな良いベースを弾ける機会はないのも事実だから、嬉しい。
 それから指ならしのスケールを適当に弾きながら、うなずく。弦が死んでいるからあまり高い部分が出ない。イコライザーをいじりながら一弦でプルしたりしてそれを確認していると、ふと頭に浮かんだ事があった。
「私、きちんと教えてほしいことがあるんだケド……」
「なに?」
「スラップを……ね」
 スラップ。ベースを始めたものなら、誰しもがやってみたいはず。そのはず。スラップとは、と訊かれてどう答えるかは人によると思う。大元を説明すると、ベースで打楽器の代わりをする、というのが正しいかもしれない。
 先代の偉大なミュージシャンがスラップの道を切り拓いてきて、今ではその奏法もバリュエーションが豊かになった。要するに、なんだろう。とてもファンキーなグルーヴを作りだすことができて、弾けると格好良い。何を隠そう、この奏法で有名なベーシストの一人に目の前の彼がいたりする。
「そうか……スラップねぇ」
 すると夏音は自分のアンプのつまみをちょいちょいといじってから、四弦に親指を叩きつけた。うねるようなグリッサンドから、バキバキとファンキーなリフが繰り広げられる。
 私の苦手な三連のシャッフルが盛り込まれ(私へのあてつけ的な)、夏音の両手がめまぐるしく動く。というよりプルの連符……四つ音が聞こえた気がしたけど、幻聴だろうか。
 本当に、魔法みたいな手だと思う。見とれる。そして圧倒され。遠くなる。
 こんな人に追いつけるだろうかって。
 すぐに手を止めた夏音は私の顔を真っ直ぐに見詰めて口を開いた。
「スラップは……まだ、澪には早いと思う」
「そ、そうかな?」
 そう言われるとは思っていなくて、ショック。
「うん。まあ、見なさいな」
 そして夏音は親指を四弦に叩きつける。
「これがサムピング」
 次に、三弦を人差し指で引っ張って指板に叩きつけた。ベキッと音が鳴る。
「それでプル。この二つがスラップの基本です。けど、これを組み合わせてこういう音が鳴っていたらスラップって言うのかな」
 夏音は単純なサムとプルを使ったオクターブフレーズを弾く。
「ずっとこれじゃあ、つまんないね。澪が想像するスラップは、もっとこうファンキーな感じじゃない?」
「うん」
「それには、実はいろんな技術が必要だし澪は普段弾いていてもゴーストが下手。ミュートができないとそれっぽい事しかできないよ」
「うっ……!!」
 遠慮はなし。夏音の言葉は鋭い。
「だからスラップはもっと後でいい。サムやプルなんかの動きに慣れておく事はいいと思うけどね。今は他にやることがいっぱいあるからね!」
「うぅ、ハイ……」
 私は返す言葉もなく、うなだれてしまった。
「まあ、そんなに落ち込まないでよ。いつか、必ず教えるから。俺は澪にはきちんとベースを教えて、上手くなって欲しいんだ。澪なら、できると思うから」
 顔をあげると、真剣な表情で私の目をのぞく夏音。青い瞳は、嘘を含まない。たしかにボロクソ言われるけど、夏音は最後には必ず「澪ならできる」って言ってくれる。
 そう言われると、今がどんなに未熟でも必ず上手くなれるっていう自信がつくんだ。
 間違いない、って信じることができる。
「あぁ、確かに他ができていないのにスラップなんておこがましいよな……」
「うわぁ、おこがましいなんて日本語……澪ったらネガティブな子だね」
「こ、これは謙虚っていうんだ!」
「ハハハ! 冗談だよ。それに、そんなに遠くないうちに澪には教えることができると思うから安心して、な?」
 な、って言われてニッコリほほ笑まれると言葉が出ない。心なしか顔が熱い。だめだ……やっぱりこいつには勝てない。
「なんていうか……よろしくお願いします」
 顔は上げていられないから、頭を下げる。
「いいえー、こちらこそ」



※一話が短すぎたので、残りはまとめてみました。これで幕間、いったん終了です。こんだけ幕間つづかねーよと思われたら申し訳ございません。リッケン欲しいですなぁ。



[26404] 第八話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/26 21:07

 バンッ。
 それは夏の暑い放課後。うだるような暑さに口数も少なくなり、黙々とムギ提供の冷茶をすすっていた軽音部一同であったが、急に部室の入口からバンと大きな音にびくっと反応した。音の発生源に目を向けると、どうやら行儀の良さで知られていたはずの澪が部室の扉を蹴破る音だったらしい。
 彼女は注目を集めながら部室の中央へとずんずん進んでいく。肩で風を切りながら颯爽と部室を横切ってくる彼女に唖然としながら見詰めた。
 澪は口を閉ざしてぽかんとしている一同を見据えて、びしっと指を突きつけた。

「合宿をします!!!」

 夏音はハッと眼を見開いた。
 合宿。それは学園ものには必ず登場するお決まりのイベント。彼はこの青春の香りをぷんぷんと彷彿させるキーワードがいつ飛び出てくるかと待ち望んでいた。いつ、誰が言ってくれるのだろう。自分の我慢もそろそろ限界。誰も言わないなら自分が提案していたところだ、と疼いていた心に溶け込む言葉が今、澪の口から飛び出た。
「合宿……ああ合宿! その妙なる響きや、よし………ふふふ」
 ぼそぼそと危ない目をしながら呟く夏音に気付かず、他の者は疑問を浮かべていたが、次第にその顔が晴れやかに輝く。
「合宿って……海!? 山とか!?」
 ウキウキと自分の思い浮かべる合宿のイメージに浮かれる律に、澪の眉がぴくりとハネあがった。
「遊びにいくんじゃありません! バンドの強化合宿! 朝から晩までみっちり練習するの!!」
「えー、何でー?」
 律と同じく楽しい楽しい合宿風景を妄想していた唯が心からの疑問を放った。
「せっかくの合宿なのに」
 楽しいはず、合宿。なのに、澪の語る内容はどうも暑苦しい体育会系の匂いがぷんぷんする。
「まあまあ。合宿、いいじゃないか」
 すっと立ち上がり、真剣な表情で前に歩み出た夏音に視線が集まる。涼やかな微笑を湛えながら夏音は彼女達をしっかりと見据えて、口を開いた。
「青春に必要不可欠なものといえばなんだろうか。ここ最近『これだ!』というイベントがなかったよね。こんなはずじゃない。こんなのほほんと青春を無駄にしていいはずがない。合宿……あぁ甘美な響き。そう合宿! 海でも山でもいい! 若い男女が人里離れた場所で寝泊まりしてバーベキューに海水浴! はたまた川遊びにキャンプファイヤー。夜は温泉に入って風呂上がりの花火でしんみりと夏の終わりに寂寞を募らせる………決まりだ、合宿。行こうぜ、合宿……ぷくくっ」
 語っていく端から空気が冷えていく感触を肌で感じることができなかった夏音は背後に迫る凄まじい怒気に気が付かなかった。
 部室中に小気味のいい音が響いた。 

「ごめんなさい遅れちゃって……ってあら? 夏音くん頭どうしたの?」
遅れて部室へやってきたムギが、頭にタンコブを作って正座をしている夏音に目をとめた。
「気にしないでクダサイ」
 正座は日本の反省の証だそうだ。
 今しがた制裁を加えたダブルに冷たい一瞥をくらわせると、澪はもう一度自分の主張を再開した。
「来週には夏休みが始まります。そして夏休みが終わったらすぐ学校祭でしょ?」
「学校祭?」
「そう! 桜高祭での軽音部のライブといえば、昔はけっこう有名だったんだぞ?」
「そんな事より高校の学校祭ってスゴイんでしょ!?」
「おー、たこ焼きにお化け屋敷に喫茶店! 中学とは次元が違うって聞くな!」
 そんな事扱いされた挙げ句に話を脱線させてゆく二名にぴくりと澪の瞼がひくついた。こめかみに青筋を浮かべて、脱線魔達の脱線トークが過熱していくにつれ、うずく拳を止める事ができなかった。
 部室に頭をさする者が二名に増えた。
「高校の学校祭のすごさなんてどうでもいい! メイド喫茶も死んでもやらない! 私たちは軽音部でしょ? ライブやるのー!!」
 爆発しそうな勢いで怒りに顔を染める澪に律と唯が「うっ」と黙る。普段大人しい人物が怒るとより恐ろしいのだ。いついかなる時も彼女の鉄拳の恐怖にさらされている者どもは何も言えず、唯一その鉄拳制裁の射程範囲の外に位置するムギが場を収める事になった。
 太い眉毛をきゅっと引き締めたムギが魔法の一言を紡ぐ。
「まあまあ落ち着いて澪ちゃん。マドレーヌ食べよ?」
 怒れる澪もしょせん女の子。あっさりとお菓子に陥落した。とりあえず必殺のお菓子作戦で澪の気を和らげることに成功したムギはほっと胸を撫で下ろしてお茶の準備を始めた。
 これぞ軽音部クオリティ。


 小休止を挟んでほっと一息。だいぶ柔らかい表情になった澪がムギに向かって食い入るような視線を向けた。
「ムギはどう思う? いくら慌てずやっていこうといっても、もう三か月にもなるのに一度も合わせたことがないなんて……軽音部なのに!」
 それに対してムギは困ったように苦笑を浮かべるばかりで答えられない。答えようもない、といったところか。三か月という月日は長いようで短いものだったりする。とりあえずは新しい学校生活に慣れるのに精一杯で、夏休みが訪れるのがあっという間なのだ。その間の軽音部が個々人で音楽に触れ合っていたとはいえ、バンドとして演奏する事がなかったのは異常事態ともいえよう。ムギ自身もこんな現状に疑問を挟む機会は幾らでもあったが、行動を起こさなかった内の一人である。部を慮る澪に堂々と正論を述べるには躊躇ってしまうのだ。
 澪が熱く語る中、夏音は未だダメージを引き摺る頭をさすりながら、静かな瞳で思案にくれていた。
 誰も言わなかったのだから仕方がないのではないだろうか、と夏音は現状を受け止めている。彼は軽音部に入る事に決めて以降、自ら積極的に動かないように傍観の姿勢をとっていた。ギター初心者の唯にギターを教えるという作業のかたわら時折ベースに触れる事はある。機材の前で数時間も何もしないのは時間の無駄だからだ。そして夏音のベースをBGMとして陽気にティータイムを繰り広げていた中には、ちゃっかり澪もいるのだ。
 部としての音楽的方向性の欠片すら見えてこない状況。部活としての方針も未定。
 それでも夏音自信は、まあ楽しければいいんじゃないかなーと軽く構えていたのも事実だ。自分が悪くないとは思わないが、怠慢が過ぎたかもしれないと省みた。そもそも、そのように悩んでいるのであれば澪もベースのレッスン中に言ってくれればよかったのだ。
「バンド、やらないの?」
 切実な心の叫びが一同の心に突き刺さった。つい口を閉ざす面々の中、ムギがぱっと顔をあげる。
「ぜひ、行きましょう!」
 ムギがぽんと手を打って澪に賛同の言葉を贈る。力強く、だが楚々たる笑みを向けられた澪の表情に明るさが戻った。
「ムギ……」
 分かってくれたのか、と頼もしい表情でムギを見詰める澪。そんな彼女に大きく頷いたムギは続けざまに言った。
「みんなでお泊り行くの夢だったの!」
「え?」
 無垢な笑顔を真正面から受けた澪がぽかんと間の抜けた表情になる。
「あ、それじゃあ海にする? 山にする!?」
「山でも川で遊べる所がいいと思います!」
 彼女の言葉に端緒が開けたのか、今までの重苦しい雰囲気が嘘だったみたいに霧散した。合宿に行く事に反対意見はないとして、遊ぶ気マックスのテンションに持ち上がった一同に澪の涙まじりの叫びが響いた。
「だーかーらバンドの強化合宿だと何度言わせるんだ!!」


 その後、喧々諤々の議論(?)がヒートアップしたところで、夏音は「そういえば」と皆を見回した。
「合宿ってたくさんお金かかるんじゃないのかな? 俺は大丈夫だけど、みんなは大変じゃない?」
 ここ数ヶ月で女子高生の懐事情を把握しつつある夏音。ここで金銭の配慮をするというたまにしか見せない年の功を見せた男の発言に何名かの肩がずんと落ちこんだ。
「そ、それは……幾らくらいかかるんだろう」
 なんと言い出しっぺの澪は、何の段取りもとっていなかったらしい。
「まったく。煮詰めろとまでは言わないけど、言い出したんだから大雑把な予算くらいは見積もっておかないと」
 夏音の全うな言い分にさらに肩を落とした澪。先ほどまでの勢いは見る影なく、しょんぼりと縮こまってしまった。
「しっかし海に行くにも山に行くにもそれなりにお金かかるよなー」
 律が肘をついた両手に顎を乗っけた姿勢で深刻な表情になる。
「な、なあムギ?」
 意気消沈していた澪がギギギ、と首を軋ませると一縷の望みをかけてムギの方を向いた。
「はい?」 
「そ、その……別荘とか……持ってたりしないかなー」
 そんな馬鹿な。流石にそれはないだろう、と律が呆れたように鼻を鳴らした。
「ありますよ?」
 すっと一直線に返された言葉に律の頭が机に突き刺さって鈍い音を立てた。
「え、ほんと?」
「ありますよ、別荘」 
 宿泊場所、確保。 


 お嬢様然としたムギが本当にお嬢様だったと明るみになったところで、宿泊代が浮くという事実は大変喜ばしい。めでたやめでたや、と一同はうきうきとした雰囲気でお茶を再開した。そのまま和やかに合宿の予定が話し合われていく。
「いひゅならなふやふみででけっへーだろー?」
 とマドレーヌを頬張りながら言う律に澪が眉をひそめた。
「口にものを詰めて話すな行儀悪い」
 すかさずそれを注意する澪はまるで―――、 
「お母さん?」
「何か言ったか夏音?」
「なんも」
 やぶ蛇になりかねない、と夏音は慌てて口をつぐんだ。
「日程は一泊二日とか、かしら?」
 ムギが心なしかわくわくした様子でノートに決定案を書き込んでいくが、澪はその提案に曖昧な反応を示した。
「どうせなら三泊くらいはしたいところだなー」
 そこに夏音が難色を示す。
「三泊は長すぎるんじゃないか? 機材も持っていくし、着替えとかも結構かさばっちゃうよ」
「そうか……律は持っていくもの多くなっちゃうよな」
 澪がそれもそうか、と頷いて律に振った。
「ん? スティックだけ持ってくつもりだけど?」
「オイ……」
 ムギの話によると、父親が別荘に知り合いのバンドを呼ぶので機材一式が揃っているそうだ。ドラムセットから各アンプまで。楽器屋を傘下に収める琴吹家ならではの至れりつくせりである。どちらにしろ、重い機材と1セットの移動は厳しいものがあるので助かる話だ。機材車なんてないのだ。
 
 

 結局、合宿は二泊三日。夏休み第一週、つまり来週の金曜日から三日間となった。目先に決まった楽しげなイベントに「くくっくくっ」と笑いが止まらない夏音は帰り道で通りすがる人々に気味悪がられた。
 そもそも二泊三日も男女混合のお泊りが許されるのかという疑問が浮かんだ。浮かぶものと思っていたが、誰も触れないので考えないことにした。だから、いいのだ。もしかして異性として意識されていないのかもという考えは思考の外にぶん投げた。おそらく信頼されているのだ。そうなのだ。
 そのへんの繊細な問題については曖昧な笑みで濁しつつ、夏音は肝心の合宿内容について考える。
 先ほどの話合いで出された宿題。バンドで合わせるといってもオリジナルの曲も用意していない状態だとコピーしかない。何よりコピーの方が色々手っ取り早いという事で、コピーする曲を決める事になったのだ。これについては各自でやりたい曲を持ってこようという話に落ち着き、明日までの宿題となった。

(五人で、キーボードが入った編成のバンド……。もしもの時はアレンジしてやるのもいいか。迷うなあ)
 夏音はその日、自分の持っているCDやデータを漁って今の軽音部にぴったりな曲探しに明け暮れた。バンドで合わせた事はないものの、軽音部のメンバー全員とは一対一で音楽で触れているのだ。各自の実力も大体把握したつもりである。問題は唯である。唯を基準に曲を決めねばならない。
 あれもこれもと出てくるが、絞らないといけないとなると、どうも難しい。
 結局、その日は深夜までかかって何百と曲を聴いていた途中で眠気に負けてしまった。


 電気を点けたまま寝入ってしまい、そのまま朝をむかえた夏音は放課後になって曲を絞りきれなかった事に焦っていたのだが。いらぬ心配であったようだ。
「結局絞れませんでした」
 という意見が見事に出揃った放課後。皆、同じような悩みを持ったのだと思われる。これは好きな曲をベスト3で挙げてみて、と言われた時の境遇と同じようなものだ。
「そもそも、だよ!」
 夏音はここで曲を決めかねた理由を言った。
「このバンドの編成ってどうなの? きちんと決定した覚えはないんだよね」
 最も重要なことを忘れていたことに、お互い目を反らした。同じ穴のムジナ。それが軽音部。
「といってもドラムは律。キーボードはムギ。唯はギター。だから残るのは……」
「ベースが澪か俺か、だろう?」
 夏音は問題となっていた部分に触れた。そして続けざまに「澪でいいだろう」と言った。
「俺がヴォーカル。必要ならギターも弾くよ」
「でも、夏音はそれでいいのか?」
 澪が複雑な心中を表しながら夏音に尋ねた。
「全然かまわないよ。むしろ、一番それがすっきりするだろう?」
「夏音がそれでいいなら」
 未だ納得していない様子の澪を無視して「これで編成も決まった事だし!」と夏音が議題を進めた。
「どうする? 俺が全部の曲のヴォーカルということで決めていくの?」
「どうせなら、そうして欲しいな」
 澪は万が一でも自分が歌うことになったら大変、と夏音に歌を一任するように頼んだ。そもそも、唯が入る前にこの話は出ていたのだが、結局きちんと決定せずにここまできてしまっていたのだ。ここで夏音が歌うことに誰も異議はなかったので、ようやく話はまとまりつつあった。
「それでは、俺がヴォーカルということで曲を決めていきましょう! そしてバンドが演奏可能な曲を! お互いを思いやって曲を選んでください!」
「はーい」
 四人分の良い返事が返ってきた。夏音はそれに満足そうに頷いた。
 しかし、後日メンバーが選んできた曲はことごとく却下された。


 結局、今から合宿までの期間を考えると、三曲が限界だという事に。夏音は「そんなものか」と不承不承ながら納得して曲決めを進めることにした。ただ「好きだから」という理由で曲を選んだ彼女達の向こうみずっぷりを見かねて、結局のところ夏音主導での曲選びとなった。
 何と言っても、それぞれの技巧を顧みない選曲ばかりだったのだ。それでも何とか曲が決まった。採用されたのは、律と唯、夏音の曲である。
 それぞれに音源が渡され、練習に打ち込むように言いつけられた。
 これで軽音部もその名にふさわしい部活になってくれるだろうか。一抹の不安は拭いきれないが、あとは皆が練習してくるのを信じて合宿までの日数を消化していくしかない。


 帰宅後、夏音がリビングのソファでうとうとしていると、滅多にならない家の電話がけたたましく響いた。のろのろとした動作で電話の子機をとりあげると、そこからは聞き慣れた声が聞こえた。
『Hello!!』
 鈴を振ったような声。受話器越しにも鼓膜を通り抜けてくる独特な存在感を持った声の持ち主は他にはいない。
「Mom?」
 夏音は思わず声をあげた。
『そうよー元気にしてた?』
 電話をかけてきた主は、夏音の母・アルヴィであった。
「母さんこそ! 今どこにいるの?」
『北海道よー』
(相変わらず神出鬼没だな……)
『あのねー、もう少しで夏休みじゃない?』
「そうだよ。よく知ってるね」
 あの両親が自分の予定を把握しているとは、珍しい。
『たまには家族で過ごすべきだと思うの』
「帰ってくるの?」
『八月の第一週よー』
「げっ」
『何かあるの?』
「三日間ほど軽音部の合宿があるんだ」
『まあ! まぁまぁまぁ~……なんてことなの!』
「だから、三日間ほど家を空けることになるんだけど」
『ひどいわ夏音! ママたちより新しいお友達を選ぶのね!』
「そういうわけじゃないよ。もう決まってることだし、急に言われても困るよ。だから、帰ってくるなら二週目にして」
『でも、次の週にはお仕事で九州に行かなければならないの』
「じゃ、四日間だけかまってあげるよ」
『もーーつれない!』
 電話の向こうでぷりぷり怒っている彼女の様子が目に浮かび、夏音はくすりと笑った。
「ママに会えるのを楽しみにしてるよ」
『夏音……あなた、やっとママって……っ!』
「じゃぁ、忙しいから」
『あ、夏音! もしかして女の子と一緒にいるんじゃないでしょうね?』
 ブツッ。
 夏音は強制的に通話を終了した。
「やれやれ」
 クスッと笑って夏音はふとカレンダーに目をやった。丸が付けられている三日間まであとわずか。
 今はこちらの方が大切だから。申し訳ないけど、両親には我慢してもらう。




「はい、これ」
「F#7」
「次」
「Cadd9!」
 合宿前々日。夏休み初日とも言う日だが、夏音と唯は部室でギターを構えて向かい合っている。昼下がりの学校にいるのは、夏休み初日から気炎をあげて練習に打ち込む運動部。その他の文化系の部活動のみ。一般生徒の姿はほとんどない。
 校内に響く管楽器の音は吹奏楽部である。桜高の吹奏楽部はかなり大所帯で競争が激しいと聞く。個人が鎬を削り合ってレギュラーに食い込むために個人練習に励む姿勢は、軽音部とは大違いと言いたい所だが、今回ばかりはそうとも言えない。
 部室にいる二人の部員は練習のために休みの学校に来ているのだから。しかも、この練習は唯から言い出したものだ。初めてバンドで合わせる。本当の意味で軽音部の活動の第一歩を踏み出すのに、自分が足手まといになりたくないのだと唯は語った。
 当然夏音は「この立花先生に任せな!」と二つ返事で受けた。
 せっかくの休みという事で昼までたっぷり寝て、昼過ぎに部室に集まった。この三ヶ月間ほど、唯にギターを教えてきた夏音。初めは一から音楽知識がない唯に対して、どういったアプローチで教えようか悩んだ。ギターを弾くと言っても、ギターを弾く事だけ教えれば良い訳ではない。ギターよりも音楽を教える事が重要だと夏音は考えている。
 音楽理論については、教えようとして即頓挫してしまった。三度、五度やコード理論。唯の頭から煙が燻り始めてしまうのだ。夏音が見た限りでは、明らかに唯は感覚的にギターを弾くタイプの人間である。むしろそういう人間に理詰めで理論を叩き込むのは効率が悪い。いつか身につけるべき事であるが、時期尚早かもしれないと踏んだのだ。
 そうした事柄を踏まえた上で夏音が唯に叩き込んでいる事。それは、指板上のどこにどの音があるのかを徹底的に把握するという作業である。指板の上をフレットで区切られているギターは、フレットごとに音が存在する。ドレミファソラシドの音階が幾つも存在するのだ。オクターブがどこにあるのか、これで把握する。さらにスケールを覚え込ませようとした。教えたスケールをどの場所からでも弾けるようにひたすら繰り返すように言った。
「はい、Aドリアン」
 夏音は淡々とスケールを指定していく。夏音が言うスケールを唯が弾く。それでたまに間違う。
「違う!」
「え、えーと……これは……」
「それ、リディアン」
 こんな感じにスパルタでやらせてきた。何も全てのスケールを覚えこませようとしている訳ではない。ペンタトニック等のよく使用するスケールを中心に教え、それが完璧にできるようになったところで、他のスケールや応用を教えているのであった。同時に覚えたせいか、スケールがごっちゃごちゃになっているようであった。
「例えば、ここで9thの音を足すとこういうフレーズになるんだけど。なんか聞き覚えない?」
「聞いた事あるような、ないような……」
「あれー。一昨日、こういう手癖を多用する人のCD貸したばかりなんだけどナー」
「あぁ、それで聞き覚えが!」
 まぁ、そんなものかと苦笑した夏音であった。
「こういうフレーズの中にこうやってトリルを混ぜると、こんな感じに。よくソロで使っている人が多いです」
「ほぉー! 格好良い!」
 瞳を輝かせる唯に夏音も嬉しくなる。彼女は今まで自分がぽやーっと聞き流していたギターのフレーズ、その作り方を学んでいるのだ。以前に唯が、いつかギターソロを弾いてみたいと話していたのだが、こういう作業が積み重なってできるようになるのだという事がおぼろげにも見えてきているのだ。
 このような作業の中、唯は合宿に向けて曲の練習に励んでいる。幸いな事に、軽音部の面々は耳の力でフレーズをコピーする能力を持っていた。夏音としても、唯には市販のバンドスコアなどに触れて依存するようになって欲しくないので都合が良かった。
 三曲、全てを夏音は唯に耳で覚えさせた。崩した言い方で言うと、耳コピである。音楽初心者はこれをできない者が圧倒的に多い。今まで唯には指板上の音を全て覚えさせた。スケールも覚束ないながら覚えさせた。
 ここで嬉しい誤算が起こる。耳コピする中で、コードの構成音やらを感覚的に覚えつつあるのだ。何となく、の次元だがしっかりツボを押さえている。
 唯は絶対音感を持っている。ひょっとして化けるのではないかと夏音は腹の底からわき上がる言いしれぬ感覚にドキドキした。
 何としても、よく分からない身につけ方をされたりするので、教え甲斐はないかもしれない。向こうが納得しても、こちらが腑に落ちない、等がよくある。
 唯は結果、三曲全てを耳でコピーしてしまった。 


 そんな風に合宿も前日に迫ったところで、夏音自身に重大なトラブルが起こってしまった。
「なんというタイミングで……」
 夏音は自分の太ももにできた発疹を睨む。痛々しい、この……ジンマシン。
「サバなんて……サバなんて食わなければよかった!!」
 膝をついて昼食で食べた青身の魚を呪った。近所のマダムに貰ったものだから。急遽かかった医者は「君は青身魚だめなんだねー。美味しいのに」と暢気に笑った。薬を飲んで安静にしていろと言われて帰された。
 合宿の場所こそ秘密であったが、泳げる場所があるので水着を用意してきてねとムギに言われていた矢先の出来事。
 しかし、どうだろう。こんな状況で泳げるはずもない。他の者が楽しそうに泳ぐのをただ指をくわえて見ているだけということだ。
「なんてこと……俺に残るのは、あいつらの水着鑑賞だけか………………それもそれでよし、か」
 それも間違っている。


 合宿当日。
「I`m alone...alone...alone...」
 郷愁を感じさせる味のある表情で夏音は車を飛ばしていた。大型のワゴンには、運転席に座る夏音しかいない。後ろに積んだ機材や……唯のギター以外に同乗しているものはない。
「くそっ」
 思わず汚い言葉を吐く。俄然アクセルは強め。メーターは頂上を振り切っている。ハイビームのごとく山道を疾走する夏音は損な役回りを務めている自分に自分で同情した。
「×××ジャーップ!! 唯のやつーーっ!!」
 伏せ字は有名なFワード。一人、孤独に車を走らせているのも、全てあの破天荒な天然娘のせいなのであった。

 

「唯……もしかしてまだ寝てるんじゃ……」
 集合時間になっても一向に姿を現さない唯に不安を駆り立てられた澪が恐ろしい一言を吐いた。
「ま、まさかー。いくら唯でも、そんなはずは……」
 フォローの言葉が見つからず、律は押し黙ってしまう。ありえなくないや。
 夏音も足元のエフェクターケースに腰掛けたまま、焦れながら唯の到着を待っていた。普段からどこか抜けている少女を思い浮かべてさらに不安は増す一方である。
「よし。私、唯に電話してみる!」
 とうとう澪がシビれをきらした。電車の到着時刻までに余裕をもって集合時間を定めたが、これ以上遅くなるのであれば電車に乗り遅れるという最悪の事態も起こり得るのだ。それこそ笑い事では済まされない。
 一同は唯に電話をかける澪の様子を静かに見守った。きゅっと口を結んで相手が出るのを待つ澪であったが、その表情は見る見る青ざめていった。
 彼女はゆっくりと口を開いた。
「……お、おはよう」
 その一言を聞いた一同に戦慄が走ったという。
 案の定、寝坊をかましたという唯は二十分後に合流した。
「ごめんなさーーーい!!!」
 登場して早々、いきなり両手を地面について謝る彼女に、皆は山ほど言いたかった言葉を飲み込まざるをえなかった。何より、そんな時間の余裕はなかった。何と言っても発車時刻の五分前である。一同は土下座する唯を引っ張って猛然と走り出した。
「ほら、急ぐぞ! 切符はもう買ってあるから!」
 澪があらかじめ買っておいた切符を走りながら唯に手渡す。
「うん、本当にごめんね澪ちゃん!」
「まったくひやひやしたぞー」
 走りながら唯を咎める律であったが、夏音に「それを言うのはまだ早い!」と指さされた先には電車がホームに入ってくる光景が。
 そのまま息を切らしながら走る一同は、なんとかホームにたどり着いた。
「ふう~。なんとか間に合った……ていうか、五分くらい停車するんじゃんかよー」
 アナウンスを聞いた律が汗を拭いつつ夏音を軽く睨んだ。
「そんなの知らなかったもの」
 間に合った事で安堵したせいか、文句を言い合う二人にムギが笑いながら割って入った。
「まあまあ。とにかく間に合ってよかったじゃない……ってアラ……唯ちゃん……ギターは?」
「へ?」
 後に唯は『これが夢であればとどれだけ思ったことか』と語った。
 遅刻した少女は旅行鞄を一つ引っ提げて来た訳である。背中に背負っているべき重量がない事に気付かない程焦っていたという事だろうが、持ってきていないものはどうしようもない。そして、もうギターを取りに行く時間はなかった。集合した駅から出る電車から乗り換えを行わなくてはならないのだが、乗り換えるべき電車の本数が少ないのだ。調べてみると、次の電車は二時間後というお話。
 青褪めて二の句もつげぬ様子の唯。同様に言葉を失った一同に残された最終手段を必死に探る。
 その瞬間、四対の視線がちらりと夏音に向けられたのは偶然ではないと夏音は思い返した。


 最終手段として、夏音が唯の自宅までギターを取りに行き、単独で車を走らせて合宿地まで向かうという措置がとられた。
 自分に照射された視線に、ついに夏音は頭の隅に置いておいた対抗措置を引っ張ってきた。考えたくはない。これでは夏音がひく貧乏くじがあまりにも大きい。とはいえ、他の策を考える時間もなかった。おずおずと手を挙げて、自ら申告した。
「本当に大丈夫? 電車なら割とすぐなんだけど、車だと結構かかるのよ?」
 自分もソレを期待していた一員だとしても、やはり人道的な観点から夏音に悪いと思ってしまうムギは最後まで心配そうに夏音を見詰めてきた。それこそ、全員が同じ気持ちであったが、自分が犠牲になってどうにかなるのならやってやろうと夏音は意気込んだ。
 別荘の場所と住所を教えてもらい「男に二言はない!」とつっぱねた。
 その間、唯は地面をおでこで割らん勢いで土下座をしていた。


 夏音はすぐ切符の払い戻しをすると、車を取りに自宅まで走った。どうせならとアンプ類の機材を積み込んでから唯の家へ車を飛ばした。事前に連絡がいっていたらしく、唯の妹の憂がギターケースを抱えて家の前で待っていた。
 真っ青になって姉に負けじと平謝りをする憂を宥めてから、目的地まで車を走らせる旅に出たのである。
 比較的空いていた首都高を抜け、常盤道に入ってから一時間弱が経った。まっすぐにのびた道の先に陽炎が浮かんでいる。SAで休憩していた夏音は、皆はそろそろ目的地へ到着しているころだろうかと想像した。自分に悪いと思って沈み込んでいるかもしれない。特に、唯がしゅんと元気がない様子はこちらの心境も悪くなる。軽いお仕置きをする事にして、許してやろうと思った。
 SAを出発する前にカーナビをチェックする。それによるとあと一時間弱で着くらしい。もうひと踏ん張りだ。
「チクチョーその半分で行ってやる!」


 その頃、一方の女の子たちは。
「ははぁー、すっげぇー!!」
「海だーー!」
「泳ぐぞーー!!」
「だから、遊びにきたんじゃなくて!」
「うふふ」
 仲間愛とは何であろう。 



 軽音部から夏音をひいた面子は別荘に到着した。それはもう滞りなく着いた。途中、お腹を下す者も電車の中に忘れ物をするという者もいなかった。彼女達が乗車した特急は罪悪感という物を振り切る速度で目的地まで突っ走ってくれたのだ。
 やあ暑い。そうねえ、うふふと言った会話を挟みながらムギの案内で敷地内に案内された一同は揃って絶句した。絶句。出すべき言葉が脳みそから吹っ飛んでしまう程の衝撃。
 目の前にでかでかと建つのは想像やテレビ越しにしかお目にかかれないような「金持ちの別荘!」を凝縮した建物。
 やがて律が「でっけぇー」と呆けるように呟いた。
「本当はもっと広いところに泊まりたかったんだけど、一番小さいところしか借りられなかったの」
 付け加えるムギの発言に誰もが耳を疑った。目の前の現実に出会い頭にパンチされたというのに、まだこの上があるという。
「一番小さい……これで?」 
 律が皆の心の内を代弁した。どうやら自分達はこの不思議な友人の底を見誤っていたらしい。中でも律は今度テレビの長者番組に琴吹という名がないかチェックしようと心に誓った。
 早速施設の中に通されると、外観通り広い。家と称される屋内でこんなに歩くこともないだろう。木造の建物の中は、若干東南アジアや南の島のテイストが盛り込まれ、風通しの良い造りであった。避暑にはぴったり、というわけである。
 自分達が三日間を過ごすことになる建物のあまりの豪奢な加減に興奮した律と唯は歓声をあげながら屋内をずんずんと進んでいった。居間のテーブルにはセレブのパーティーに登場しそうなフルーツ盛り、冷蔵庫を開けてみると霜降り牛肉。天蓋付きのベッドには花が散らされていた。一般女子高生にとっては未経験ゾーンの贅沢が出るわ出るわで、はしゃぎまくった。
「うぅ……ごめんなさい」
 申し訳なさそうにさめざめと泣いているムギは、しゅんとうなだれて彼女の事情を話した
「いつもなるべく普通にしたいって言っているんだけど、なかなか理解ってもらえなくて……」
 その話を聞いた澪は、よく分からないがお嬢様も大変なのだなーと同情した。同時に自分には縁遠い話だ、とやさぐれかけた。
 肝心のスタジオに通されてから、機材をチェックし終えた澪は他の二人がいないことに気がついた。
「あれ、唯と律は?」
「途中でいなくなっちゃったけど……?」
「しょうがない奴らだ」
 溜め息と共にそう漏らしてから、澪はおもむろに旅行バッグからラジカセを取り出した。
「それ、なぁに?」
「これね」
 澪は言葉で説明するより、と再生ボタンを押した。攻撃的な高速ビートの曲が流れる。ずんずんと低音を響かせ、技巧を効かせたリフがうねっている。いわゆるメタルと呼ばれる音楽。
「昔の軽音部の学園祭でのライブ。この前部室で見つけたんだ」
「上手……」
 ムギは耳に入る弦楽器隊の技巧の数々に驚かされた。背後に疾走するドラムに乗っかって自由に喧嘩し合うツインリード。音質は悪いが、実際にその場にいたら圧倒されていたのだろうと想像できる。
「私たちより相当上手いと思う」
 澪は演奏が区切れたところで停止ボタンを押した。表情が曇ったまま。
「うん」
「なんか、これを聴いていたら負けたくないなって」
「それで合宿って言いだしたのね?」
 それで納得した様子のムギは澪の負けず嫌いな一面を知り、微笑ましく思った。
「まあ、ね」
「負けないと思う」
 その一言に澪ははっと顔をあげる。ムギは澪の顔をしっかりと見てから、力強く繰り返した。
「私たちなら」
「ムギ……」
 ムギの瞳に広がる静謐な光。それは揺れることなく、まっすぐに信頼という感情を表していた。澪はまだ付き合いの浅いこの少女の言葉がすっと胸に入ってくるのを感じた。不思議と「その通りだな」と納得してしまう。
 行き当たりばったりというより、全てに手探りで挑んでいる自分達には可能性がある。この音源の先輩方を凌駕できないはずがない。
 その言葉を誰かに言ってもらえただけで澪は胸につっかえた物がいくらか取れたように感じた。
 二人の間にさらなる友情の絆が結ばれようとしたその時。
「ぃよーーーーしあっそぶぞーーぃっ!!」
「オーイェーー!!!」
 真剣な空気は二人の闖入者によって木端に破壊された。
「って早っ! お、おい練習は!?」
 既に戦闘準備万端の二人に面食らった澪であったが、既に二人は部屋の外に突っ走っていってしまった。
「先行ってるから、二人とも急いでねー」
 遠くから唯の声が響いてくる。
「これでも……?」
 地獄の底から響いてきそうな声が澪の喉元から響いてきた。じっと暗い眼差しをあてられたムギは苦笑いを浮かべた。
「え、ええ……まぁ」
 ああいう流れがあった手前、若干気まずい。一気に不機嫌になった澪をちらっと見詰めたムギだったが遠くに響く歓声にふっと笑みを零した。
「澪ちゃん、いこ?」
 ムギからまさかの提案に澪の体がびくりと跳ねた。
「え……ム、ムギ行くつもり?」
「せっかくだし、少しくらいなら……ね?」
 ね、と悪戯っぽく笑うムギは心なしかうきうきとして見えた。今にも走り出しそうな、それでいて抑えているような。そんな彼女の様子に澪の心は揺れ動いた。
(ムギ、もしかしなくても遊びたいんじゃ……?)
 澪は、合宿前に彼女が同年代の友達と遊ぶことがなかったと言っていたのを思い出した。
「で、でも私は……」
 再び聞こえた律たちの催促の声に「はぁーい」と返したムギはついに「待ってるからー」と澪の元を去ってしまった。止める間もなかった。
 澪は、中途半端に伸ばしかけた手を力なく落とした。
「そ、そもそも夏音にあんなことさせておいて……その夏音だってまだ到着していないのに……」
 皆は何て冷たいんだろう、自分は決して行くもんかと背を向けた澪。そもそも唯は暢気に遊べるような心境に持って行けるのは逆にスゴイと思う。褒められたものではないが。

―――キャハハー、いっくぞー!
―――二人とも待ってー。
―――ビーチボールふくらますのやってよー!

 人のいない建物に響く楽しげな笑い声。澪の胸のあたりをぐっと這うような何かがこみ上げる。勝手に足がじたばたとなるのを抑える。
(でも、夏音が……)

 揺れる良心。

―――澪はまだこないのかー?
―――先行ってるって言っといたからー。

(ごめん、夏音!!)

「私も行ぐーーー!!!」

 割れる良心。

 言葉で言い尽くせない様々な理由によって涙を流しながら、澪はバッグの中から水着を探した。


 その結果がこうなる訳であった。

「もし、あなたがたに良心というものがあったなら―――」
 腕を組んで仁王立ちした夏音はそれ以上を続けることができなかった。
「―――お”、お”れ”の”……どうぢゃぐをま”っでから……うぅ……う”ぅ”……!!」
「!?」
 膝をついていた者たちは、鼻水と涙の滝が足元の砂に吸い込まれていくのをしっかりと目の当たりにした。
「申し訳ございませんでしたーー!!!」
 四人そろって土下座をする女の子たち。唯は心の中で、今日はよく土下座をする日だと思った。唯的土下座記念日。
 やっぱりこうなるよね、と澪は内省する。後の祭りだが。



 夏音はSAを発ってからわずか三十分で別荘まで到着という快挙を勝手に成し遂げていた。やっと辿り着いた別荘の駐車場に車を停め、見上げる建物の外観に溜息を漏らす。
「良さげな雰囲気だなー」
 そわりと吹いた潮風が髪をさらった。この時、既に夏音の気持ちも実に晴れやかで唯への怒りも鎮まりきっていた。
 それもそのはず。運転中。別荘に近づくにつれ、ばっと開けた視界に海が飛び込むロケーション。窓を開けると爽やかな風に潮の香り。遠くには夏空に浮かぶ入道雲。その空と同じ色をした瞳に、どこまでも開放的な夏の景色が映り込んだ。こんな環境でいつまでも怒っているのも馬鹿らしいではないか。
 それからは快適にここまでハンドルを握ってきた。
 最高のロケーションで合宿を楽しめると胸を撫で下ろしたところで、機材をせっせと室内に運ぶことにした。
 ところが。
 建物をどれだけ探しても、人の気配はない。偶然スタジオにたどり着くと、そこには散らかった荷物がお留守番をしていた。
「なに……?」
 事態をよく把握できなかった夏音は、遠くから聞こえる悲鳴を耳に捉えた。
 海の方からだ。
 このスタジオは、ガレージをスタジオ使いしているだけらしく、外に直結していた。
 夏音は木造のデッキから外に出て、海へと下る道を歩いた。そして先ほどの悲鳴の主たちに気がつく。
「俺を……さしおいて……なんてこと……?」
 浜辺に出ると、そこには水着姿で黄色い声をあげてはしゃぐ軽音部の仲間たちが。水着姿で。自分が到着するまでくつろでいるだろうと思っていたが、まさかスロットル全開で遊んでいるとは思いもしなかった。
 あまりのショックに、ふらふらと足元もおぼつかないまま近付いてくる夏音に誰も気が付かない。
「あ、あ、あ、アンタラァーーー!!!」
 その声が届いた彼女たちは、真夏なのに極寒にさ迷いこんだような感覚を覚えたという。



「ご、ごめんね夏音くん!!」
 もはや、土下座というより身を投げ出している唯が許しを請う。
「そ、そんな泣かなくても……っ」
「お、おい律!」
 そして、泣き濡れる夏音の顔を見上げた二人は「ギャーー」と叫びそうになるのを寸でこらえた。夏音はひたすら悲しそうな顔をしていたのだ。
 それは雨の中震える子犬を彷彿とさせる。もう、誰も顔をあげられなかった。
 天気は快晴なのに、どんよりと湿った空気が肌にはりついて離れない。こんなスタートの合宿嫌だ……と思っていた時。
「はぁ~あ……別にいいよ、もう!」
 打って変わった明るい声に顔をあげた皆は、涙などございましたか? とばかりにあっけらかんとした様子の夏音にずっこけた。
「切り換え、早っ!!?」
「ったく、連絡くらい入れてくれよなー」
 ぶつぶつ文句を言う夏音は、砂浜に投げ出されていたビーチボールを手にした。その硬度を確かめ、ぽんぽんと手で遊ぶ。
 それから、暗い視線を唯へと向けた。
「シカシ、唯サン」
 たまらず嫌な予感がした唯。
「は、はひっ」
 上擦る声は、次に起こる出来事を予感している。
「恩を仇で返すとは、このことだぁーっ!!」
 夏音はおおきく振りかぶった。その後の出来事は割愛に処する。



「あれ、夏音は泳がないのか?」
 ビニールシートの上で一休みしていた律は同じく横で座る夏音に訊いた。いったん着替えてくる、と別荘に戻った夏音は海辺にふさわしい装いに変わっていた。膝上までのパンツに、ノースリーブパーカー。髪を頭上で結んで、後ろの髪も折り返した所で留めて邪魔にならないようにしていた。
 間違っても男には見えないなー、と律は感心した。
「今、何か思ったでしょ?」
「な、なんも思ってないっ!」
「本当かなー?」
 律は、しっかりと心の内で「ナンパされても笑えねーなコイツ」と男数人にナンパされる夏音を妄想していた。男とは思えぬ容姿はもちろんのこと、陶器のように白くプルンプルンな肌はほんのり汗ばんでいて、どこか艶めかしい。丈の短いパンツからすらりと伸びた形の絶妙な太ももなんて……。
 そこまで考えたところで律は思考を停止させた。
(いやいや、私はオヤジかっ! しかも、相手はただの野郎……野郎だろう! あ、いま韻踏んだ)
「泳ぎたいさ」
 夏音はすねたように口をとがらせ、海ではしゃぐ唯たちの方を向いた。それから、「ほれ」と言って律に向かって腿を見せた。裾をまくりあげて、見せる、魅せる……。
(う、ヤバイ)
 律はうっかり鼻をおさえて、目をそらした。
「ジンマシンがさー……サバでさー……ということなの」
「え?」
 鼻の奥から漏れる液体を根性で引っ込ませながら、律が聞き返した。
「だから、サバでジンマシンが出ちゃったの! 海に入れないんだよ」
「えー、大丈夫なのかそれ?」
「安静にしてれば、ね。海水に浸かっちゃだめなんだって」
 すっかりしょぼくれている夏音の様子に律は慌ててフォローした。
「ま、まあ浅瀬で遊ぶには平気じゃないか?」
「ん……あ、そうか」
 それは思いつかなかった、とガバッと立ちあがった夏音。
「お前……どこかズレてるよなー」
「そうだよね! カバディやろう律!」
「何でよりによってカバディ!?」
 それから数時間ほど軽音部の一行は照りつける太陽の下、海水浴を楽しんだ。
(俺、勝ち組! 勝ち組!)
 間近にいる水着の女子高生たちの中、自分だけ男一人という状況に心の中でガッツポーズをとった夏音であった。
 傍からみればただの「海水浴に訪れた女の子集団」にしか見えなかったのは本人は知らない。



 一同は、日が暮れるまでたっぷりと遊んだ。すっかり本来の目的を忘れていた澪があわてて練習しようと騒ぎ出したところで海水浴は終了となった。それから交替でシャワーを浴びて海水でべたつく体をさっぱりしてから、スタジオへ向かうことに。
 さあ楽しい練習のお時間のはじまりである。といったところで、問題児二人によって阻まれた。
「初日なんだし、いっぱい遊びたいよー」
「唯に同感ーっ」
 遊び疲れてスタジオの床へ突っ伏す二人組を見下ろして夏音は深いため息をついた。
「どうしようもないねー。練習してから遊べばいいじゃないか」
「そうだぞお前ら。何しに来たと思っているんだ」
「……澪だって忘れてたクセに」
 腰に手をあてて夏音にのっかった澪だったが、瞬時に飛んできたピッチャー返しに言葉が詰まってしまう。
「う、私はちゃんと練習するつもりで……っ!」
 まあ、説得力はないけどと誰もが思った。
 

 夏音は持参のスピーカーを配置するとミキサーとつないでマイクの音量調節を終えた。それから、セッティングのセの字もしていない二名に目をやってそっと溜め息をつく。
 夏音と澪は自然に視線を交わした。何をすべきか心得た二人は頷き合う。
 澪はドンとアンプを二人のそばに置き、最大音量でかき鳴らす。
 鼓膜を揺るがす重低音に、二体の屍はたまらず身を起こした。死者をも呼び覚ます四弦使いを眼前に、怠惰は許されない。
 そこに澪の怒気を孕んだ一声がつきささる。
「は・じ・め・る・ぞ!!」
 それから二人は、ノロノロとした動きでセッティングにとりかかった。気怠そうにハイハットの位置やシンバルの角度を調整していた律は、作業を中断してタムタムの間に両手をかけてよりかかった。
「あー、だっりー」
 すっかり気力を失い尽くしている様子に澪はイラっとしたが、何か思いついたように意地の悪い笑みを浮かべた。
「そういえば、さっき思ったんだけど律太ったんじゃないかなー。やっぱり最近ドラム叩いてないかなー。あ、独り言だから気にしないで欲しいんだけど」
 宙に視線をさまよわせ、誰に言うでもなく、だが、しっかりと特定の人物に届く声で呟かれた言葉は、真っ直ぐに律の心に突き刺さった。
 え、うそ。マジなの? と自らの身体を見下ろして戦慄く律は救いをもとめて他の者に視線を向けた。その場にいた者は、ちらりと律の体に目を向けて、背ける。
「う、う、う、オリャーーーー!!!!」
 一心不乱にドラムを鳴らす。苦手なはずの難解なタム回しも完璧で夏音は一瞬呆気にとられた。
「人間の底力を見た気がする」

 そうしているうちに、唯もとっくにセッティングを終わらせていた。アンプ直結の唯がすることと言えば、チューニングくらいしかないので当然といえば当然である。
 今回の合宿でやることになった三曲は「Bon Jovi」「Deep Purple」「東京事変」の三バンドから、その中でも難易度を鑑みて曲が選ばれた。
「さぁ唯。この日のために特訓した成果を見せてもらおうではないか」
 夏音は不敵に笑って唯を指さす。
「何から演る?」
 全員のセッティングが終わったところで夏音が弾んだ声で、皆を見回す。
「そうだな、とりあえず簡単なものからがいいかな。スモーク・オン・ザ・ウォーターにしないか?」
 澪がすぐにそれに答えて他の者に同意を求めた。
「ええ、私はどれからでもいいわよ」
「唯は?」
「えーと、それってジャッジャッジャーって始まるやつだよね?」
「唯から始まるやつだね」 
 ディープ・パープルのあまりに有名すぎる一曲だ。リッチー・ブラックモアのギターの3コードのリフから始まる誰もが聴いたことのある印象的なフレーズ。しかし、この曲は一般のイメージによる簡単な曲というほど一枚岩ではなく、『スモーク・オン・ザ・ウォーターを笑うものは、スモーク・オン・ザ・ウォーターに泣く』とまで言われているほど奥が深いものだ。今の唯にそこまで求める訳ではないが、絶対に通って欲しい曲だと夏音はこの曲を選んだ。
 あと、律の事を思って手数を少なくアレンジできる点も。
「じゃ、演ろうか?」
 夏音は自分の青色のストラトを構える。ふと顔を上げると、何かにがんじがらめになっているような皆の姿があった。これほどわかりやすく緊張しているのも面白い。だが、演奏にならない。
 夏音はパンパンパンと手を叩いて注目を集めた。
「Let`s enjoy the music!! 唯! いったれ!」
 唯の右手がぎこちなく振り下ろされ、3コードのリフで曲が始まる。唯のピッキングを素直に拾うハムバッカーの音が歪みと共にアンプから放たれた。
今、この場に響いているのは六本の弦の振動。
 そこにムギのシンセから飛び出るオルガンの音色が控え目に跳ねる。すぐにフィルインからのドラムが参加して、ビートが生まれる。ここでこの曲のエンジンがかかる。すでに走り出したグルーヴに8ビートを刻む澪のベースが加わった。
夏音は、ふっと息を吸い上げる。
「We all came out to Montreux`―――」
 天高くまで届けとばかりに歌い上げる。
 その瞬間の空気が爆ぜるような圧が皆を均等に圧倒する。夏音のギターはトリッキーにアンサンブルの中を動きまわり、時に自由にオカズを加え、かつ原曲を壊さずに参加していた。
 バンドとしては、各楽器の音のズレがあちこちで発生しているというちょっとした惨事が進行中であった。
 あえて表現するなら、カッチカチ。夏音はいつまでも堅苦しい演奏を続ける彼女たちの音に、内心で舌打ちをした。初めてなのだから仕方ない、とはいえ彼女たちは演奏を楽しんでいないではないか。そこが不満なのだ。
 手元の楽器をただ鳴らすことだけに集中してしまい、他の楽器の音を聞いていない。
 しかし、経験の差だろうか。律と澪だけはきちんと顔をあげ、時折互いをみやって上手く曲をコントロールしている。彼女たちはそれなりに楽しんでいるように見えた。その楽しさを唯やムギにも共有してやってくれ、と思う。
 夏音は少しだけ苛立ちながら、このままで終わってたまるかと密かに決意を固めた。
(やってやろう)
 かくして、彼はタイミングをはかる。
 初めての合奏だからこんなものでも仕方ない? 違う。
 初めてだからこそ、彼女たちには何かを得て欲しい。理屈じゃ語れない化学反応。音楽の奥深さ。そういったものの一片でも感じとってほしいと思った。
 熱い想いはどんどん膨れ上がっていった。そして、夏音の待ち望んだ瞬間が、やってきた。
 夏音は足元のエフェクターを踏み替えた。
 空気が雷鳴に引き裂かれる。雷鳴と擬音できるほど、夏音が激しい光と音をもってその場に君臨した。
 ギターソロのお時間だ。チョーキングをした左手をそのまま、オーバードライブという味方をつけた夏音は破壊的なサウンドを携えて中央に躍り出た。下を向いて演奏をしていた唯やムギの目はすでに夏音から照準を離すことができずにいた。
 しかし、曲を壊すことはないものの、すでに原曲はぶち壊していることは言うまでもなかった。
 例えば、ジェット機のエンジンの間近にいるとこんな感覚だろう。轟音に身が縮こまりそうになった彼女たちは、次第にそれが直接アンプから出ている音によるものではないと気が付いた。
 今、全員の目線を釘付けにしている人物の発している音の力が、凄絶すぎるからゆえの圧力だと認識した。現実に測れないとして、確かに何かすごい物がこの場に発生している。
 華奢で、女の子みたいだと思っていた夏音。その彼が偉大なロックスターのように腰をかがめて、ギターを歌わせていた。
 どこまでも太く、存在感のある音を出す彼はこのスタジオを埋め尽くすほど巨大な姿となって映った。
 アームを使ってマシンガンのように響くエロティックなヴィブラート、そこからどこをどう弾いているか可視不可能な早弾き。ピッキング・ハーモニクスによって甲高い悲鳴をあげるギター。どこまでも高く、それは次第に女性の悲鳴みたいに、喘ぎ声みたいに妖艶に響いた。
 夏音は何小節も驀進し続けてから、すっと顔をあげた。
 音色が変わる。相変わらずソロは続くが、音の雰囲気がはっきりと変化したことに全員が気付いた。今までとは打って変わったハイポジションのバッキング。夏音はニヤリと笑って澪の目を見る。
 視線で射貫かれ、びくっとした澪であったが夏音の意図を正確にくみ取った。不幸な事に、気付かぬフリは通用しない。
「Mio, it`s your turn!!」
 マイクを通して夏音が言った発言に、他の三人は驚きの反応を見せた。表情だけで溜め息をつくという器用なジェスチャーをした澪は、小節の区切りでハイフレットの和音を伸ばした。
 次の瞬間には、夏音はごく自然に自らのソロを収束させていき、小節をまたぐ際に澪につないだ。
 一小節分、まるまると音を伸ばしてから、ブルージーなフレーズを生み出してく澪。まだまだ単純なスケールをなぞるだけのものであったが、夏音の影響で増やしたバリュエーションもあって、堂々とソロを弾ききった。
「お次は~~」
 獲物を見定めるような目つきの夏音に誰もがいっせいに目をそらした。
「…………やっぱ俺~!!」
 夏音、空気読む。
 エフェクターを踏んで元の音色に戻し、抑揚されたフレーズが続く。そのままいくらか時間がまわったところで、夏音の演奏も終盤に向けて走りだした。自分が暴走しすぎたので、周りの彼女たちが無事演奏を終われるか怪しかったが。
 高速のトリルを続けながら、やりすぎちゃったかも、と舌をちろりと出して夏音は笑った。

 

 
 唯は夏音のソロが始まってから、ずっと同じコードの繰り返しばかりで、弾いている場所を見失っていた。変な不協和音を奏でている訳ではないから、間違ってはいないだろうと思ったが、それでも収拾がつかなくなるのではと不安がちらりと渦巻いた。
 しかし、同じところばかり繰り返しているだけなのに湧き上がってくるこの高揚感はなんだろうか。
 曲が夏音によって頂点まで盛り上がる時には、もう何年もこのまま突っ走ってきたみたいに曲になじんでしまっている、信頼感。五回に一回はミスをしてしまうが、今の自分は確実に楽しんでいる。
 自分が影で固めて行く道の上を夏音が自由に、堂々と走りまわる。
 楽しい。それだけしか、感じられない。
 いつの間にか、夏音のギターが通常のバッキングに戻っており、彼の声が再び「湖上の煙」の歌詞を歌い上げていた。
(何だろう、この……なんか、長い旅から帰ってきたような感じ)
 唯は、今自分が響かせている音すら、百八十度変わって聞こえた。隣のムギを見ると、しっかり顔をあげたまま、演奏が始まった時より堂々とした様子。自分と目が合うと、にっこり微笑んでくれる。それだけで自分のバッキングにノリが出るような気さえした。
 演奏も終盤になると、音源通りの流れになった。夏音がわかるように指を四本立てた。あと四回、回すという合図。
 腕はもう感覚がない。それでもきちんとコードを押さえていられる不思議。
ムギが最後にクラッシュを打つと、音が止んだ。
 嵐の後の静けさ。そう表現するにぴったりの空気だった。

「こ……濃ゆっ!!」
 律が椅子からずり落ちて、床にへばりこんだ。気がつけば、皆汗だくになって息を乱していた。
「一曲目なのに……これってどうよ?」
 律は上半身だけ起こし、夏音に対して責めるような視線を向けた。夏音は、500ミリのペットボトルの水を一度に半分も空にして一言。
「楽しかったでしょ?」
 そうやって夏音は片頬だけあげてニヤリと笑った。これより先、こんなのがずっと続くのかと、彼以外の全員の目に諦めに似た感情がこもったのを唯はしっかりと目撃した。
 おそらく、自分もそんな目をしているに違いなかった。今日の晩御飯はさぞかし美味しく食べれることだろう。

 一時間ほどスタジオにこもって練習を終えた者たちは、空腹の絶頂期をいくつ超えただろうと指折り数え、やっと夕飯にありつけることに滂沱の涙を流した。
 さて、晩飯だといったところで何もないことを思い出したところで、一瞬垣間見た気がする天国は遥か彼方へすたこら逃げて行ったのだが。
「夕飯も自分たちで作るってことにしただろー?」
 あらかじめ買っておいた食材と調味料などの確認をする夏音がもう言葉を失くしている彼女たちの方を呆れた声を出した。
「もーーーだれかやったってー」
 生気のない声が床に突っ伏した唯から聞こえた。
「結局きちんと練習したのは最初の三十分だけだっただろう!!」
 夏音は思わず、手元のキュウリを唯に投げつけた。
 三曲を二回通したところで、唯律のコンビが駄々をこね始めた。
 もームリ、と。
 その瞬間、人のこめかみに青筋が浮くのを初めて目撃したという澪は夏音から一歩身を遠ざけた。
 温和な笑みを顔にはりつけたままのムギ。
 しまいには唯が「もうこのギターもてない……」と言い出す始末。だからギブソンやめろと言ったのに、と数か月前の不安が現実になった瞬間であった。
 なんともいえないプレッシャーが夏音を襲う。いくつもの視線が自分に訴えかける……休憩の一声をかけない訳にはいかなかった。
「ご飯にする?」
 打つ手なしの有様にすっかり匙を投げてしまった夏音はさっさと機材を片づけて練習終了を宣言した。


「という訳で、味見要員の者ども。テーブルを拭いたり、食器を並べたりしていなさい」
「はぁーーい!!」
 良い子の返事が返ってきた。結局、料理を作ることになったのは夏音、澪、ムギの三名に落ち着いた。既に動く余力がないと駄々をこねた律と唯はその他雑用を押しつけられた。
 厨房で火を使う夏音、包丁を握るのは澪、ムギは野菜の皮を剥いたりサラダを作ったり、ご飯や味噌汁係を担った。
 実に芳しい匂いが厨房を満たすと、その場の三人の腹がいっせいに鳴った。くすくす笑っている四人のもとへ唯がやってきた。
「すごく良いにおいー!!」
 これまた腹がきゅるりと鳴り、唯は恥ずかしそうに笑うが目が本気だ。涎が出ていることなど、気にしてもいない。
 その晩のメニューは白米、味噌汁、アボカドの肉餡かけにラーメンサラダ、から揚げという豪華な料理が食卓を彩った。
「シェフ、感激です!!!」
 運ばれてきた料理を見た唯が尊敬の眼差しで夏音を見上げた。
「これくらいは当然。そろそろ涎を拭きなよ唯」
 それから皿まで食いかねない勢いで全てを平らげた一同はデザートにスイカを切って、外のテラスで涼んだ。
 辺りに満ちる潮の匂いが鼻をくすぐり、海からは穏やかな風が吹いてくる。澪と隣あって座っていた夏音はスイカの種を勢いよく飛ばしながら、先ほどからごそごそと忙しなく動く律たちをぼーっと眺めていた。
「終わったら練習再開するからなー」
 澪がスイカを口いっぱい頬張りながら、浮つく彼女たちにしっかり釘をさしていた。頬を膨らませるその姿はまるでハムスターのようだとは口が滑っても言えない。
「わかってるわかってるー。それに明日もあるんだからダ―イジョーブだって!」
 どこまでもポジティブな部長のお言葉にムギが力強く頷く。
「ありがたいね……」
 夏音はぺっ、とスイカの種とともに吐き捨てた。相当荒んでいる。

 律とムギが動きを止めて、頷きあったのを見て何が始まるんだと夏音は注目した。
「せーーの!」
 光の波が瞳の奥に押し寄せた。吹き上げる閃光の中に躍り出たシルエットに夏音と澪は目を瞠った。
 相棒・レスポールを武器に、眩いステージでギターをかき鳴らす唯はどこまでも自由だった。アンプラグドのはずが、実際にエレキの音が聞こえてくるような気さえしてくる。
 澪と夏音、二人の網膜を支配した唯がさらに腕を大きく振り上げる。
 光の花が夏の夜空を照らし、その足元には一人のミュージシャンが。横にいる澪の目には何が映っているのだろう。自分の瞳には何が映っている。一瞬だけ唯が目の眩む光の先で何万人もの観客の前で演奏している姿が浮かんでいた。
 それは本当に刹那の幻覚にすぎなかったのだが、突如の出来事に夏音の心は突き動かされた。
 吹き上げる花火は徐々にしぼんでいき、後に残るのはオーイェー! とハシャぐ唯と火薬の硝煙のみ。
「え、もう終わり!?」
 予想以上に花火が続かず、これからが良いところだったのに―――、と唯は残念そうな声を出した。
「すまん、予算の問題で……」
 律が申し訳なさそうに言うが、その表情はどこか満足気だった。
「でも、いつかまた……ね?」
「そうだな! 武道館公演でこう、もっと派手にバババババァーッと!!」
 夏音はそういえばそんな話が初めに挙がっていたのを思い出した。
「ぶどーかん?」
「おいおい、目標はそこだって決めただろー!? なっ!?」
「へっ?」
 と急に話をふられた夏音と澪は二人揃って素っ頓狂な声をあげてしまう。
『目指せ武道館』
 このメンバーで。夏音はふと寂しさに似た感情がちくりと胸を突いたことに気付かないふりをした。彼女達がその夢を実現できたとして、その中に自分はいるのだろうか。
 夏音はコツンと自分の頭を小突いた。せっかく盛り上がっている中で何を暗くなっているのだろう。
 それでも胸がしくりと痛むのを留められなかった。大きなステージ。今はただのお遊びでしかない彼女達がそこに立つ日が来るのだろうか。
 暗い思考から逃げられないでいると、ふいに聞き覚えのある曲が夏音の耳に入ってきた。
 急にメタルなんか流してどういうつもりだ、と夏音はラジカセを手に持った澪を訝しげに見た。
「武道館目指すなら、まずこのくらいできるようにならなきゃなー」
 澪がこの合宿に思い立った理由。彼女はこれを聴いて皆に軽音部としてのスタンスを一度考え直して欲しかった。
 夏音は澪がメタルをやりたかったのだろうかと首を傾げた。
「へぇー、上手いなー」
 律が素直に感心した声を出す。既にその曲を一度聴いていたムギは静かに耳を傾けている。
「これ、私達の先輩なんだぞ?」
「これ軽音部なのか!?」
「ここからソロなんだけど、本当に高校生が弾いてるのかって次元だからよく聴いておけよ」
 かくしてギターソロが始まり、沈黙のまま誰もが聴き入っていた。
「あれ、この曲って……」
 夏音は横で何かに反応した唯が気になったが、何も言わなかった。曲が終わるまでじっと待ち、少しどや顔をしている澪がふん、と鼻を鳴らした。
「どうだ? これを超える演奏ができるようにならなくっちゃな!」
 何でお前が自慢気なんだと皆が思う中、ふとラジカセからこの世の怨嗟をぶち込めたようなドス黒い声が唸りを上げた。
『死ネーーーーッッ!!』
 テープから漏れる叫びにラジカセが宙を飛ぶ事になった。


 一同は怯えきった澪を宥めてからスタジオへ戻った。澪の作戦も功を奏したのか、律や唯が練習に向かう姿勢を見せたのだ。
 皆が再びアンプのセッティングを済ませていると、ムギが戸惑いの表情で唯を見つめていた。
「唯ちゃん、本当にさっきの曲……」
「うん! 見てて!」
 そう言って唯は、ギターを構える。
「…………うそ、だろ……?」
 唯が弾き始めたフレーズは先程カセットで流れた曲のギターソロであった。もちろんつっかかる部分があるし、原曲よりテンポも遅いし音数も少なかったりする。
 まさか、ここまでとは思っていなかった。夏音は一度聴いた曲はそのまま忘れないでいられる。初見ならぬ初聴でほぼ完璧に曲を再現できるし、それができないようであればプロとしてトップを走っていられない。
 しかし、ギターを初めて三ヶ月の唯が同じような事をできるとは思っていなかった。合宿用の曲を覚えた時はやけにすんなり覚えたなぁと思っていたが、これには度肝を抜かされた。自分が教えてきた事がこんなに早く実を結ぶとは思ってもみなかった。
 夏音は唯が絶対音感を持っている事を思い出し、さらにはそのセンスを侮っていた事を痛感させられた。
 皆、同様に目を見開いている。
「はいっ、どう!?」
 得意気に振りむく唯。
「すごいっ、完璧!」
 ムギが拍手したが、他の律と澪は声が出なかった。
「へへへへっ、でもみょーんってところがわからなくて……」
 頭をかきながら首をかしげる唯に、やっと言葉を取り戻した夏音が口を開いた。
「ベンディングだね」
 夏音が口を開くと澪が首を傾げた。
「ベンディング……ってチョーキングのこと?」
「あ、日本ではそう言うんだっけ?」
「ちょーき……ぐへっ」 
「これのこと?」
 新出の単語に唯が聞き返そうとしたところに律がプロレス技をかけた。
「それ、チョーキング違い……いいから、やめ!」
 夏音は貸してみぃ、と律から解放された唯からギターを受け取る。
「こうやってね」
 夏音は適当なフレットを押さえて、音を鳴らし、それをぐいっと指板に並行に引っ張った。
「音を出して、その弦を引っ張るんだ。それで音程を上げる奏法のことだよ。さっき俺も多用していただろ?」
 そのまま、チョーキングを使ったフレーズをささっと弾く。
「適当に引っ張るわけでもないんだよ。音程を考えてやらないといけないから、奥が深い」
 そういって、驚かされたお返しだとばかりに夏音はCD音源通りのギターソロを弾いた。
「す、すっごー……」
 夏音が唯にギターを返して「Try it」と言ったので、早速唯は実践する。
「こ、これ何か変ーーーー!!!」
 チョーキングがツボに入ったのか。弦を引っ張りながら大爆笑する唯に、彼女の頭の中の不可思議さについていけなくなった夏音であった。
 それから各曲を一度通してから今日の練習は完全に終了とした。
 シャワーで流したとして、やはり海水に浸かった体をしっかり洗いたい一同は風呂に入ることにした。ムギ曰く、大きい露天風呂がついているそうだ。しかし、男女で分かれていないので夏音は一人ぼっちである。
 事もあろうにスタジオに軟禁状態。やれやれ、俺の雄の部分を警戒しちゃってまぁ……と嬉しくなった夏音であったが、ここまでするのはどうだろう。
「ぜーったい覗くなよーっ」
「し、信用しているからな夏音のこと」
「夏音くんなら大丈夫だよー」
「ふふふ、一緒に入ってもいいんですよ?」
 三者三様、の反応。個室に閉じ込めておくにも鍵は内側から開く上、外から鍵をかけられる物置に閉じ込めるのは幾らなんでも不憫だという事で、お前はスタジオでずっと音を鳴らし続けておくのだ、と命じられたのである。
 この扱いは不憫ではないと言うのだろうか。
「あんまりだ……」
 露天風呂に入っていると、スタジオから響く音は十分すぎるくらいだそう。
 どうして彼女たちの風呂のBGMまで担当しなければいけないのか。どれだけ憤ったところでどうしようもないので、夏音はどうせなら爆音でやってやろうとアンプをセッティングし始めた。
「ムギの別荘の設備に感謝しなきゃなー」
 ハートキーの2000Wのキャビネット・スピーカー×2が片隅にどーんと置いてあったのだ。ついでに持ってきたベースでセッティングをする。さらについでにギターのセッティングをする。
「そもそも、あいつらちゃんと聞いてるんだろーな」
(ループさせてこっそりのぞいてやろうか?)
 しかし、それは決してやることはなかった。なんだかんだで弾いているうちに夢中になってしまったのである。


「お、ちゃんと弾いてるなー」
 外の露天風呂につかっている女子組は、バカでかい音で小宇宙を繰り広げている唯一の男子メンバーを思い浮かべた。
「ちょっとかわいそうじゃないか?」
 澪が眉を落として言ったが、「のぞかれたいのか~?」と律に茶化されて慌てて否定した。
「まぁー、当てつけのように激しいの弾いてるな」
 空気を裂いて響いてくる音。伝わるのは、怒り。轟音がここまで届いてうるさいほど。
「怒っているな」
「怒っているねー」
「でも、しかたないよね」
「しかたない……かもしれない」
 なんだかこの合宿で、夏音を怒らせてばかりな気がした一同。埋め合わせしなければならないと考えた。
「夏音一人だけなのに色んな音がきこえるなー」
「ええ、不思議……」
 割とどうでもよさそうに恍惚の表情で落ち着く彼女達。ループを多用してギターとベースを同時に弾いているとは思いもしないだろう。
「まさか露天風呂まであるとはねー」
 鼻歌をすさびながら、唯が星の瞬く夜空を見上げた。
「今日は本当に楽しかったー!」
 ムギもルンルンと上機嫌で足をのばしていた。
「ムギの言ってた通り、そんなに慌てる必要はなかったのかもな」
 今日、初めて音を合わせたバンド初心者の二人の様子を見た澪。もっと音楽とはこうあってもいいんだと再確認した一日でもあった。
「だったら明日はもっと遊ぶぞー!」
 ふいに潜水していた誰かが浮上した。
「だ、誰だっ!?」
 肝心の顔が前髪で隠れて、誰か判別できない
「私だ!」
「前髪長っ!?」
 我らが部長、律であった。普段カチューシャでおさえている前髪を下ろすとこんな感じらしい。新事実。
「案外可愛い……」
「あんがいってどういうこったコラ」
 そんなやりとりをしてから、二人の間に強引に並んだ律は絶えず聞こえてくる音に耳を向けた。
「ま、ゆっくりやろうが慌ててやろうが頼もしい奴がいるじゃん」
 その言葉の後に、ふいに曲調が変わった。
 夏の夜にふさわしい、涼やかだがどこか哀愁漂う情緒感。ひょっとしたら、今の夏音の内面を表しているのではないだろうか。
「さびしいのかな?」
「まぁ……さびしいんじゃね」
 ふと、澪は会話に加わらずに左手を奇妙に動かす唯に気付いて近づいた。
「それは、もしかしてこう?」
 手の形から、なんとなくコードを推測してみた澪に瞠目した唯は「すごーい」と喜んだ。
「唯……手の皮、ずいぶん剥けたな」
「あ、コレ? うん、今日一日でねー。ちょっと水ぶくれになっちゃった! だいぶ硬くなったと思ってたんだけどね」
 珍しく痛い話にかかわらず、自ら話題を振ってきた澪。自分も通ってきた道なので、案外それについては見ても平気だったりする。
「でも、やっぱり音楽っていいね。今日、初めてみんなと合わせてみて楽しかったなー」
「唯……まて、本当に楽しかったのか?」
「うん! 一番初めに合わせた時、すごく興奮したもん! 血が湧く、ってああいうかんじなんだね!」
「それはたぶん……夏音のおかげだろうな」
「そうなのかな? すごかったよね、夏音くん。私も早くあんな風に弾けるようになりたいなー」
「うん……唯なら、できるよ! 今日、唯があれだけ弾けるようになっていてビックリしたよ。きちんとバンドでも合わせられたし!」
「澪ちゃんが合宿を計画してくれたおかげだね! もし合宿がなかったらいつまで経っても、この気持ちを知らないままだったから……!!」
「そ、そう?」
「ありがとう、澪ちゃん」
 両手をつかんで礼を言う唯にもはや沸騰状態の澪を、律が抜け目なくからかった。
「澪のやつ照れてるぞーっ」
「こ、これはのぼせただけで……っ!」
 その場には、笑い声と………夏音が奏でる物悲しいメロディがあった。
「あ、そろそろ出ないと夏音くんが…………」
「あぁ……泣きのメロディーに入ってるな……あ、むしろ狂気?」
「早く行ってやろ……」
 
 
「おやすみー」
 と言って四人の女の子たちは別の部屋へ移っていった。夏音は別の部屋で眠る事になっていたが、何となく寝室に向かう気分にならなかった。ふうと息をついて居間のソファに横たわる。目を閉じると、様々な出来事が脳裏に浮かぶ。
 慌ただしい一日だった。本当に色々なことがあった。これだけ濃い一日を過ごしたのは久しぶりである。昼間の熱をひきずっていまだに気温は高いが、開け放しの窓から抜ける風が心地よくてだんだんと瞼が落ちてきそうになる。
 ふと横のテーブルを見ると、先ほどまで広げられていたトランプが綺麗にまとめられていた。記憶の残滓がまだそこに留まっているようで、夏音一人がここにいるという気がしなかった。
「楽しかったな」
 ポツリと呟かれた言葉は見上げた天井に染みこんで消えた。夏音は自分が持て余している気持ちを歯痒く感じた。
(さびしい、だなんて)
 これだけ楽しいのに、並行して寂しさが募っていく。どこまでも矛盾した生活をしていると思う。元いた場所への郷愁、尚今いる場所の心地よさ。どちらも手放したくないし、それが両立できたら悩むことなどないのに。
 個性が強い軽音部の皆。自分の周りに集まる人は魅力的な人が多いと思う。こんなに恵まれている自分は幸せだと感じた。
 でも、いつかは戻らねばならない日が来るだろう。自分が、自らの立ち位置を曖昧模糊としている間に、周りが動いていた。カノン・マクレーンは求められていた。ジョンはやり手だ。夏音の意志を尊重しつつ、もしかしたらこれからどんどん仕事を持ってくるかもしれない。そして徐々に自分を誘導してこの生活から切り離されている、という未来が訪れる可能性は大いにある。
 その前に向こうに放置してきた親友がやって来たとしたら。自分はあっさりと今ある環境を手放してしまうのだろうか。
「でも、まだみんなダメダメだしなー」
 唇が震えて何か言葉を紡いだ気がしたが、いつの間にか意識は暗く溶けていった。
 

 夏音は全くスッキリとしない頭のまま、目を覚ました。意識の膜が何重にも自分を眠りに閉じ込めようとしているようだ。しかし、周りが騒々しさが丁寧かつ乱暴にそれらを引っぺがしてくる。窓が全開になっているのか、潮風が強く吹き込んでくるのを感じた。
 むくりと体を起こすと、体の節々が凝っていた。結局、ベッドに行かないで居間で寝てしまったらしい。ぼーっと半開きの目で朝食の準備に忙しなく動き回る彼女達の姿を見る。
「顔、洗ってこよ」
 すっと腰を上げるとムギが声をかけてきた。
「夏音くん卵どうするー?」
「Scrambledでお願い」
 洗面所に向かい冷水を顔に叩きつけて、口をゆすぐ。それでもいまいち脳が覚醒しない。
 席に着くと朝食の準備が整っていた。マフィンやキッシュ、三種類のベーグルにお好みでトースト。ソーセージとスクランブルエッグに目玉焼き。グリーンサラダにスープとなんとも豪華なメニューが揃っていた。
 いただきます、と一斉に食べ始める中、半覚醒状態の夏音はぼろぼろとパン屑をこぼしたり、牛乳を口のまわりに滴らせたりと隣の澪が世話を焼く始末だった。
「こいつ、こんなに朝ダメだったか?」
「毎朝、ゾンビみたいに歩いているのは見るけどね」
 口に巻き込んだ髪をむしゃむしゃ咀嚼するあたり、「だめだコイツ」と律が呟いた。
 

「さて、諸君。今日の予定だが……ん、その顔はなんだい?」
 食事も終わり、身支度を整えて全員が集合したので今日の予定を組むことになった。
 仕切るのはきりっとした夏音。
「……いや、さっきまでぼろぼろ食べ物零していた奴と同じ人間かな、と」
「う……っ、朝は割とダメな方なんだよ!」
「堂々と言い切りましたね……」
 夏音はうぉっほんと咳ばらいをして、話を戻した。
「今日は、午前中に練習をしたら午後は遊びつくそうと思います。だから午前中に集中しよう!」
「んー、まあ涼しいうちにやった方がいいよな」
 もっともだと律がうなずく。
「それで、澪から提案があるそうだ」
 といって話を振られた澪はうん、と頷いてと前に出た。
「オリジナル曲を作ろうと思うんだ」
「オリジナル!?」
 唯が驚いた声を出す。コピーではないオリジナル。唯は、そういうのはもっと経験を積んでからやるものだと思っていた。
「せっかく軽音部として出るんだから、コピーだけだとつまらないだろ?」
「で、でもオリジナルって私……っ」
「あぁ、唯は特に何もしなくていいよー。今回は基本的に俺が示すように弾いてくれれば」
「あ、それなら……なんとか」 
 なるのだろうか。

 しかし、オリジナルの曲製作はさっそく壁にぶち当たった。やはり、まだ楽器初心者の域を出ない唯がなかなか作業の効率を下げてしまうのだ。昨日見せたプレイは幻覚だったのだろうかと誰もが嘆いた。
 しかし、こればかりは仕方ないと誰もが寛容にならざるを得ない。それでも夏音は皆から出てきたアイディアをまとめ、唯に丁寧に教え続けた。
「うん、イントロとAメロはE、A、Bの三つのコードを繰り返してね」
「ブラッシングも前に教えたよね。こうやってミュートするんだよ。え、ミュートって何だと!? まぁ、こんな音を出すようにやってみて……できてるじゃん。それで、ちょっと応用! これがカッティング!」
「そうそ。左手もミュートして右手もね。どっちかだけできちんと音が止まれるくらいになろーね」
「逆にダウンだけになるとかなりヨレるねー。何で? でもここはダウンで頑張ろうか。漢らしくあれ」
 このように、夏音がつきっきりで教えることによって何とかサビまで通せるようになった。
「ふぅ~……まぁ、合宿中に完成させるのは無理だな」
「それでも前の私たちの状態からしたら十分な進歩だよ」
 休憩中にそんな会話を澪としていた夏音であったが、休憩の合間ももくもくと曲の練習をする唯に視線を向けてふっと笑った。
(一度集中すると止まらない、か……)
「それにしても、こういう曲を作るのは初めてだなー。なんていうか、女の子っぽいポップな感じ」
「夏音からしたら、完成度としてはどうだ?」
「うーん……それを評価する段階ですらないな。骨格を組み立てている最中だし、気になるところは尽きないね」
「た、たとえば?」
「澪はもう少しシンコペーションを減らしてよ。もう少しフレーズを歌わせてほしいな。せめて2コーラス目では、もう少しきちんと考えてくれ。律も手数増やして。もっと気の利いたフィルたのむよ。ムギは音符の長さをちゃんときっちり合わせてくれ。バンドの中ですごくもたついてるからね」
 淡々とメンバーの演奏を講評する夏音。あまりに歯切れよく言われるものだから、言われた側は目を丸くしていた。澪は、心の中で「始まった……」と思った。 皆もついに自分と同じ目に合うのか、と。
 しかし、その心配は現実にならなかった。夏音はそれだけ言って一番のサビまでできた構成をチェックすると、「まあ、いいや」と練習を終わらせてしまった。

「いやー、なんかやけにあっさり終わったな」
 まだお昼にもなっていない。律が夏音に訊ねた。
「あれ以上は、効率悪くなるだけだから」
「どうせなら、もっと進んでもよかったんじゃないか?」
「今できている部分も、アレでいいとは思っていないよ。それに、夏休みはまだまだあるんだし、焦ってやらなくてもいいだろう?」
 気楽にやろうぜ、と笑顔で言われた律はわんなわなと震えた。
「しょ、初日のアレはなんだったんだ……っ!!」
 鬼気迫るものがアナタから感じられましたよ、とは死んでも言えない律であった。
「泳ぐぞーーー!!!」
 はりきっていこー、と先陣切って飛び出そうとした夏音であったが。
「そういえば、今泳げないんじゃなかったか?」
 じんましん、悪化。


 最終日は日中、海で遊びつくし、昼寝も挟んでから夜はバーベキュー大会に興じた。それから馬鹿野郎、金のことなんか気にすんじゃねえと昼間の内から夏音が車を飛ばして大量に買い込んできた打ち上げ花火やドラゴン花火で光の大輪を咲かせたりした。
 花火セットの中に線香花火がない事にムギが文句を言っていたのが珍しかった。
「またいつでもできるだろ?」
 頬を小さく膨らませるムギに言う律は、ぽんと膝を叩いて立ち上がり、夏音の方を向いた。
「さて、と。風呂に入るかな」
「はぁ……」
「風呂に、入ろうと思うんだ」
「つ、つまり……?」
 二日間とも彼女達の風呂の時間にベースを弾くことになった夏音は新たな感性に目覚めるところだった。
(なあ、これって何ていうプレイだろ……あれ、なんだろこの感覚……)

 合宿最終日の夜であったが、皆二日間体を動かし続けて疲労困憊の状態だったので早めの就寝となった。少しだけカードゲームを全員でやったが、あくびがあちこちで発生するようになったのでお開きとなったのだ。
 彼女たちは別室へ行き、夏音は一人。自分に割り当てられた部屋へと移動したが。
「…………どうしよう。まったく眠くない」
 困ったことにこれ以上ない! というくらい冴えわたっている。
「ハイになっているのかな」
 お酒でもあれば眠れるのかもしれないが、あいにく未成年である夏音が酒を買うことはできない。
 あるのは料理用の酒だけ。却下。
「みんなの寝顔でも写真に収めようかな……いや、間違いなく変態の烙印を押されてしまう……」
 悶々と悩む十七歳の少年は、スタジオの方へ向かった。
 しんと静まりかえったスタジオに入り、電気を点けようとしたが月明かりが入り込んでいるのに気付いた。
 蒼白い光が自分を導くように揺らいでいる。夏音は合宿中にあまり使わなかったアコースティックギターを手に取る。そのままスタスタとテラスの方へ向かい、皮を編んで作られた一人がけのソファに腰掛けた。
 調弦をあっという間にすませて、月明りの下、弦をつま弾いた。
 月が夜空を支配していて、星たちは主役の裏に控えている。
夏音は時折思う。人は月を見て美しいと思う。しかし、本当に美しいのは月が照らす空や雲、その下にあるすべての世界ではないか、と。誰も月は見ていない。月は見られていると思っていないので、気ままにすべてを照らしている。
 海に浮かぶ満月、静かに寄せるさざ波。遠いところから走っては寄せる、優しい自然の音楽。
 夏音はそっと目を閉じて、それらと調和していく。柔らかい音色のアルペジオが風に馴染んでいく。この瞬間にややこしい思考の入る隙間はなかった。
夏音は何も考えずに、ただそこにある世界と調和して、気がつけば一時間くらいアコギを弾き続けていた。
 二弦が切れなかったら、そのままずっと弾いていたかもしれない。演奏が止まると、背後から拍手の音。仰天して振り向くと、唯がいた。
「唯、いつからそこにいたの?」
「んーとね、たぶん三十分くらい前!」
「声、かけてくれればよかったのに」
「えー、そんなのもったいないよ」
「もったいない?」
「夏音くんのギターを止めちゃうの、もったいないと思ったから」
 また不思議な感性をもった唯のことだ。何の苦もなく、立ち通しで聴いていたのだろう。夏音は一人掛けのソファから、ベンチに移動した。唯も横に座った。
「眠れないの?」
「ううん、さっきまでお布団に入りながら少しだけみんなと話していたんだ。でもみんなすぐ寝ちゃったからトイレ行こうとしたら、ギターの音が聞こえたから」
「音がうるさかったかな?」
「ううん、たぶん夏音くんの音楽の力が強すぎたんだよ」
「なーるほど」
 夏音は謙遜もせずに、素直にその言葉を受け取った。
「唯は、今回の合宿楽しかった?」
「とっても!」
「俺も。また、合宿したいね」
「うん! 私、もっと軽音部のみんなと色んなことしたいな!」
 そうだな、とうなずいて夏音は立ちあがった。
「夏といっても、あまり潮風にあたるのはよくない。そろそろ入ろう?」
「はーい」
 歩きだした自分に、そろそろと背後に唯がついてくる音がした。夏音は、その時そんなことを言う予定ではなかった。しかし、何故かそれは出てしまった。
「なあ、唯……俺がどこから来たと思う?」
「えー? どこから……アメリカ?」
「そうなんだけどさ。向こうで俺がどんなことしていたか、とか……話してないじゃないか?」
 夏音は、口が自分の意思を離れてしまったような感覚に襲われた。そんな事を訊いてどうするのだ。
「向こうで?」
「そー。みんなにまだ話してない秘密の部分」
「………」
「もうそろそろ話しちゃおうかなって思うんだ」
 秘密を抱えたままは疲れる。今回の合宿で感じた。この少女達とはこれから長い付き合いになるだろう。少なくとも三年は一緒になる。いつまでも誤魔化していたくない。壁を作って過ごしたくない。
「うーん………別にいーよ!」
「え?」
 思わず背後を振り返る夏音。唯も立ち止まって夏音の顔をにっこり微笑みながら見ていた。
「夏音くん辛そうだよ。無理に言わないでいいよ。そんなの夏音くんが言いたくなったら言えばいいんだよ。別に秘密とか、気にしないでいいと思うけどな」
 夏音は頭をかいて、気まずく目をそらした。
「そ、そうだよなー。秘密の一つくらい持ってもいいよなー」
「そうそう!」
「先週、唯の分のコーヒーゼリー食った犯人とかなー」
「そうそ……ってえぇー!? 誰、誰なのっ!? それは許されざる秘密だよ! 大罪だよ!」
「誰にでも秘密はある。ただ、コーヒーゼリーも食い過ぎるとお腹に良くないんだよな……」
「おんしかーっ!」
 ギャーギャーと騒ぎ出した唯を見て、夏音は声をたてて笑った。ちょっとだけ荷物が軽くなった気がする。ちなみに、エスカレートしていく唯の怒りを体感するうちに、夏音は予想以上に深い恨みだったことにたじろいだ。
 口は災いのもと。うっかりご用心。とりあえず、今度同じものを買うことを約束してその場を諌めた。
 こうして合宿最後の晩は過ぎ、世界は朝を迎える。人の気配がない浜辺の側には朝焼に輝く燦然とした大海原。しかし、そんな世にも美しい光景を完全に素通りして午後まで爆睡していた軽音部の一同は昼食を摂ってから夏音の車で帰宅した。
 これにて三日間の合宿は無事終了とす。



※前回の投稿から時間が空いてしまいました。これからオリジナル色ががつんと強くなってくるはずです。



[26404] 第九話
Name: 流雨◆ca9e88a9 ID:a2455e11
Date: 2011/03/27 21:48
 夏音は注ぎ口から湯気があがる白磁のティーポットをぼーっと眺めた。
「にっぽんのーー、夏」
 チリン、と風鈴の音が鳴った。本日も、晴天なり。


 夏休み中の学校はあらゆる部活動がここぞと練習量を増やしているせいで、通常の学期中とほとんど変わらぬ賑わいと熱気を醸している。普段は使えない教室で各パートに分かれて練習する吹奏楽部の鳴らす金管楽器の音が廊下中にけたたましく響く。時折、楽器の響かない静寂の隙間には蝉の鳴き声。それをかき消す運動部の気合い。どうやら運動部もこの時期に重なる大会に力を入れているのか、掛け声の気合も二倍増しだ。
 このように部活動に所属する生徒達が精を出す中、もちろんご多分に洩れずに軽音部の活動も精力的になってきた。それは一学期の頃とは較べようもない部活動としての姿。
 合宿も終わり、目指すべき目標もできたところで、学園祭へ向けてオリジナル曲の作成が目下の課題だった。
 二週間(土日休み)もの間、根を詰めて練習した成果は上々。

 とは問屋がおろさねえのが、この部活。


「アイスティーが飲みたひ……」
 くっつけ合った机、ちょうど夏音の向かい側へ座っていた、もといしがみついていた唯が蚊の鳴いたようなか細い声を出した。さっきより三割増しで溶けている。
「ごめんね。氷を持ってこようと思ったんだけど、うっかり忘れちゃって……」
 かいがいしくお茶を淹れているムギが心から申し訳なさそうに詫びた。軽音部にそんな彼女を責めようとする者はいない。唯はかろうじて片手をあげるとひらひらと振って再びぱたりと力無く下ろした。
 気にするな、と言いたいのだがそれだけの言葉を発する気力も失せている。もう少しで溶けて無くなりそうである。
 窓は全開。空気の通りをよくするために扉を開けているものの、風通りは芳しくない。まさに蒸し風呂状態の部室であった。心ばかり、とつけた風鈴の音が虚しく響く。
 唯の言う通り、冷たい飲み物を欲していたが文句は言えない。ムギの用意する紅茶の味は最高で、夏摘みの茶の芳しい匂いはその茶葉が上等なものだと知ることができる。蒸らし加減もしっかり心得ているムギが演出するティータイムは文句のつけどころがなかった。
 しかし暑いものは暑いのだ。
「こんなに暑いんじゃ、機材も長時間使えないな」
 夏音はアンプヘッドを触って「アウッ!!」と外国人っぽい反応を見せた。彼も今年の猛暑には文句の一つや二つ言いたいところであった。天気予報では、今年の夏は猛暑を通り越して酷暑。どうでも良いが、ビールがよく売れるらしい。夏音は飲めないし飲みたいとも思わなかったが、何となくCMに出てくる俳優がごくごくと美味しそうに黄金の液体を飲み干す様子はそそるものがある。冷蔵庫にしまいっぱなしの父親のビールを開けてしまおうかと画策中だったりした。
「プールでも行こうよー」
 唯が相変わらずの姿勢でそう言うと、長い髪を持ちあげて首元に風を送っていた澪が手を止めた。
「プールなら先週も行ったばかりだろ。毎日こうなんだから我慢するしかないだろ」
 そして、再び手を動かす。手に持つ団扇は先々週の夏祭りで手に入れたものだ。
「それにしても連日こうだと流石にまいるな……」 
 暑いもんは暑いと、いつになく覇気のない声を出す澪も連日続くこの天気には弱っているようだ。
 練習どころではない。LA育ちの夏音も日本の湿気を伴う暑さだけは慣れる事ができない。暑さに強いと思っていた夏音でもへばりかけるのだ。誰も彼もがへとへとだった。このまま駄弁っていても何も実にならないので、そろそろ帰ろうかなと誰もが考えていたところ。
「ね、たまには外のスタジオでやってみないか? クーラー完備のさ!」
 そう言って袖を限界までまくり、生足を惜しげもなく晒しているのはこの部の部長。仮にも男の前でそれはどうだろうと夏音は思った。いまさらだが。
「外のスタジオか……それ、いいかもな!」
 澪はクーラー完備、スタジオ、と聞いて夏音の方をちらりと見たが律の提案に賛成した。
「外のすたじお~?」
 唯はそんなものあるのー、と机に向って呟いた。
「あぁ、スタジオにはクーラーがついているし機材だって…………まぁ、ここに揃っているのよりは劣るかもだけどさ」
 そういえば、いつの間にか高級機材に囲まれていることを思い出した律であった。一人の男による仕業である。
「それにたまには環境を変えてやるのもいいんじゃないか。すごく集中できるかもしれないし」
 すでに澪も外のスタジオへ行くことについて乗り気になっており、今にでも行こう! とそわそわしている。律にしては良いこと言った! と顔に書いてある。
「私、外のスタジオって行ってみたい!」
 実は、この暑さの中ただ一人顔色すら変えていないムギもキラキラとした表情で手を叩いた。
「涼しいとこならどこでもいいよ~」
 賛成に一票追加。澪はちらりと夏音の方を向いたが、「俺はどっちでもいいよ」と肩をすくめたのを見て立ちあがった。
「じゃ、決まりだな!」
 決まったと同時に機材をさっさと片付けて部室を出た軽音部一同は、カマドのように熱気が渦巻く校舎から逃げるように飛び出した。太陽から身を遮ってくれる物がない校門前で立ち止まり、律に注目が集まった。
「行くといっても、どこに?」
 今回の発言の責任者である律に質問が飛ぶが、彼女はまぁまぁまぁと余裕の笑みで携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「あ、もしもしー。今からすぐで空いてますかー? あーー、二時間くらいで、五人です。ハイハイ、田井中です。番号は090-××××-○○○○」
 皆、しんとなって通話をする律の様子を見守った。通話中も、自信に満ちた様子の律は最後に「とくにないです」と答えてから電話を切った。
「どこに電話したの?」
 達成感に満ちた表情の律に、ムギが首をかしげた。
「ふふーん。私の行きつけのス・タ・ジ・オさ!」
「行きつけ!?」
 ムギが瞠目して、口を押さえる。
「律っちゃんて、すごいのね!」
 その一言にさらに気をよくしたのか、律はさっさと先を行ってしまう。一度振り向いてから、きらりと歯が輝く。
「ついてきな!!」
 あくまで常識派と自負している夏音と澪は顔を合わせ、怪訝な表情を確認しあった。
「行きつけ……?」
「まぁ、律だから……付き合ってやってちょうだい」
 大人しく着いて行く一行。学校から歩いて三十分ほど歩き、大通りに一度出た。そこから、街の中心部に向かってしばらく歩いた。国道を道なりに歩いて数分すると、雑居ビルがひしめき合う場所に差し掛かった。ごちゃごちゃとしたビルの隙間を縫うように歩いたところで律は立ち止まる。

「つ、着いたぞ……」

 呟かれた一言はいっそう重々しく聞こえた。先ほどのテンションはどこ吹く風、今や汗だくになって元気を失っていた。
「さっきの元気はどこいった」
 そんな律に一言つっこんでおいた夏音は、一見ただの雑居ビルの一つとしか見えない建物を見上げた。いや、どう見てもただの雑居ビルだろう。
「そこの入口から降りて地下に行くんだー」
 むりやり足を交互に出して歩いている、といった様子の律はビルの横にぽつんと構える昇降口に進んでいった。
 スタジオというからには、防音機能がしっかりしていないとならない。このように周りにテナントが集まる場所にスタジオを構えるには、地下というのは都合が良いのだろう。
 店の看板らしきものには【ONE OF THE NIGHTS】とある。
 夏音はもしかして、イーグルスの「ONE OF THESE NIGHTS」とかけているのかと思った。イーグルス直球世代のオーナーの顔が何となく思い浮かばれる。

 階段を降り始めるとすぐ、ライブハウス独特のヤニ臭さが鼻につく。階段の途中には、壁一面を埋め尽くすようにありとあらゆるポスターが貼ってあった。どこのバンドの企画ライブ、フライヤー、落書きを通り過ぎると広いスペースに出た。
 正面に受付がぽつんとあり、貸し出し用のコーナーにギターやベース、シールドなどがかけられてある。この広めにつくられているスペースは待合スペースとなっているらしく、ベンチやソファーがテーブルを挟んで並んでいた。自動販売機も三つも用意しているあたり、客入りは良い方なのだろう。
 制服姿で現れた集団に気が付いた受付の男が「おはようございます」と頭を下げてきた。
「おはよう?」
「挨拶されちゃったよ!」
「返した方がいいのかしら?」
「そだね。おはようございます!」
 スタジオ初心者の二人組が微笑ましいやり取りを繰り広げる中、律が受付に歩み寄り、「予約していた田井中ですけどー」と言って受付カウンターに寄りかかった。何となく馴れ馴れしい。本当に常連なのかもしれない、と夏音は思った。
 その堂々とした様に、ほぅーという感嘆の声が背後からあがる。常連っぽさにハクが上がる訳でもなし。早くスタジオに入りたいと夏音は思った。
「はい、先ほどお電話いただいた田井中さま、でお間違いないですか? 当店のご利用は初めてでしょうか?」
「や、やだなー! 私ですよ、私! いつも使ってるでしょ?」
「あ……そうでしたっけ、すんません」
 店員の男は明らかに怪訝な表情をしたが、すぐにどうでもよさそうに律の主張に合わせた。
「お時間まで少しありますけど、もう入っても大丈夫です。Kスタでーす」
 それだけ言うと、店員は下を向いて何かの作業に戻ってしまう。律はそのまま振り向かない。自分の背中に受ける幾つもの視線に律はすっかり振り向けるはずがなかった。
「ねえ、こっち剥きなよ」
 夏音の慈愛に満ちた声が律の背中にぶつかった。
「あれは、その…………普段は別の人が、ねえ」
「皆まで言わなくていいよ」
「私ってあんまり濃い顔じゃないから」
「うんうん」
「ほ、ほんとに何回か入ったことあるんだぞ!?」
「うん、わかってる」
「あれは、私がまだドラムセット買えないころに……」
「律……」
 耐えかねた夏音は、ぽんと律の肩に手を優しく乗せた。
「夏音……?」
 目を開いて振り向いた律。爽やかな笑顔で夏音は口を開いた。
「死ぬ程どーでもいいや」
 日本刀の鋭さで斬りつけた。
「あいつ……鬼だな」
 後ろに控えていた三人は、律が不憫になってほんのり涙を目にためたとか。いないとか。


 気を取り直した一同は、奥の扉をくぐってスタジオがいくつも並ぶ廊下に出た。入ってすぐの案内板を見て、Kスタジオの場所を確認した。
「お、ここだね」
 少し進んだところで廊下が二又になっており、さらに進んだところで、鉤状に伸びた角の先にKスタジオはあった。夏音は厚い防音の扉を開けて中に入り、手探りで電気を点けた。
 スタジオ内の広さは学校の教室の四分の一といったところで、各アンプからドラムセット、スピーカー、ミキサー、マイクスタンドにマイク……あと、壁の一面に巨大な鏡までがそろっていた。
 暑がりの面々によってさっそくエアコンのスイッチがオンにされる。
「うわぁー、これがスタジオっ!!」
 ひょこんと中に突入してきた唯が室内を見回して感動の声をあげる。まず巨大な鏡を見てテンションがあがるのを見て、それもどうだろうと苦笑する夏音は早々に機材を下ろした。
「なんかテンションあがるだろ?」
ドラムの椅子に腰かけた律が言う。
「私も昔、今のドラムセット買う前にたまに来てたんだよ。当時はスティックしか買えなかったし、本物のドラムを叩きたい! って思ったからなー」
「なるほどね。あながち本当のことだったんだね」
 夏音は素直に感心したように笑った。この部長にもそんなしおらしい一面があったのだ。
 機材を確認すると、ギターアンプにはマーシャルのJCM900-4100の二段積みとローランドのJC-120、通称・ジャズコ。さらに奥にはピーヴィーの5150もあった。さらにベースアンプにはアンペグのSVT-4PRO。ドラムはパールのMASTERS PREMIUMであったが。何故かシンバルの一つがTAMA。
 傍では、澪は初めて使うアンプに「コレ、コレコレ使ってみたかったんだー!!」と声をあげていた。そうか、嬉しいんだねと微笑ましくなった。
「あら、キーボードアンプはどこかしら……?」
 ムギがきょろきょろと自分の楽器に対応したアンプがないことに戸惑っていた。
「あぁー、コレ使いなよ」
 夏音は、ジャズコを指さして言った。
「え、でもコレってギターのアンプじゃないの?」
「ううん、キーボードでも使えるんだよ。プロでも使っちゃう人はいるよ」
「へー! 初めて知ったー」
 夏音は、唯にマーシャルを使うように言ってからセッティングを始めた。自分の機材のセッティングがひとまず終わってからは、マイクをいじって音量を調節させた。
 未だにドラムの各配置を細かく決めている律の方を見る。ドラムを叩く上でも、自分のセッティングというものは存在する。むしろ、かなり重要である。ハイハットの高さ、シンバルの角度、距離。同じくタムの角度。
 たいていのドラマーは、自分のセッティングをきちんと持っている。こだわりにこだわる者が多くを占めている理由もいくつかある。特にプロで活躍するドラマーにとっては、それが重大にかかわってくる。いちいち手元を見ながら叩くわけにもいかず、普段の練習で慣れている距離感などで感覚的に叩いている分があるのだ。極端に言えば、セッティングが1センチでもずれていれば、怪我などにもつながることがある。
 もちろん、見た目も大事。 だから夏音は律のセッティングが遅れても文句を言わない。
 早くドラムをくれないと音をくれ、と思っても言わない。そんなドラマーたちの中でも律は存外こだわり派だったのだから。
(悩め悩めー若人よ)
 夏音は、そっと呟いた。もちろん心の中で。やっと金属を叩く音が連続して鳴った。
 バンド初心者が多いこの軽音部で、夏音は音作り、それもバンドとしての音作りの重要性と奥深さを何度も説いている。それはもうしつこいくらいに。
 個人で弾いている時だと、その楽器単体だけが鳴っているのでどこをどう弾いても音は聴こえる。それに、各々の音の好みもアンプのイコライザーをいじって自由にできる。
 しかし、バンドだと互いに違う音を抱える。上から下までの広い帯域が存在することになる。例えば、一番上の帯域がシンバル類かスネアとくる。それからおおざっぱに上からギター、ベースとなる。バスドラとベースの音をかぶらせないようにする事が重要だ。
 とはいっても、それらの楽器も同じ帯域を共有することになる。ぶつかり合って、それで互いの音を埋もれさせてしまうこともある。逆にそのマスキングを良い感じに使うことができれば音作りを分かってきた証拠でもある。
 特にこのバンドはギターが二人いる。唯がハムバッカーというピックアップを搭載しているギターなので、サウンドのキャラクタを分かりやすく分けるために夏音はシングルコイル搭載のストラトキャスターを選んだ。
 このようにして、二つのギターの音色にも区別をつけたりすることも一つの手である。特に、自分がベース弾きゆえにベースにこだわりがある夏音は、バンドにおけるベースの音作りは一番奥が深いと考えている。だから、澪に対しては若干厳しく構えることも多い。
 そういうこともすべて把握した上で、実力のある者は自分の個性を出していくのだ。
 音をぶつけ合うことも計算の内ならばよい。状況によってあえて抜けない感じにする場合もある。奥が深過ぎて、これを言葉で教えるのは困難であるのだが。
 音作りに時間をかけて、ある程度整ったところで夏音は手を掲げて注目を集めた。
「なら、決まったところまで通してみよう」
「ワン、トゥ、ワンットゥスリーフォー!!!」


 曲の構成としては、イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロとくるのは別におかしくない。少し面白い展開を入れるのも一興だとも思う。今、そこに悩んでいるところであった。
「メロディーも単純だから、同じのが何回も続くなら短く終えていいと思う。二つ目のブリッジを終えたところでCメロ? 的なものでも入れたらどうだろう? もしくは転調を工夫するとか」
「でも、もう少し単純でもいいと思うんだけどな。お前のギターソロでいいんじゃないか?」
 このように曲に対する意見が練習の合間に出てくる。お互いの意見は頭ごなしに否定する事はしないで、とりあえず実践してみる。それでいまいちだったら別の案。というように曲作りは進んでいった。中でも曲の骨子を造ったムギに意見を問うてみると、それぞれの見せ場があると良いかも、だそうだ。
「それぞれの見せ場ねぇ。ソロ回しでもするか?」
「それでも一小節か、長くて二小節程度かな。ぐだぐだやるのには適さない」


 このように次々へと曲が変わっていくのは面白い。こういう作業こそ軽音部らしくなってきたではないか、と皆目を輝かせながら意見をぶつけ合っている。皆……一人おかしいのがいた。
「おい、唯。何か死にそうなんだけどどうしたの?」
 一度演奏を通した時から何だかおかしかった。音に覇気がないというか、切れが悪いというか。今は個々の演奏より曲自体をどうにかしないとならないと思って、あえて夏音は注意しなかったのだが。明らかに様子がおかしい。自らの身体を抱きかかえるようにしてぶるぶると震えているのだ。軽くヤバイ病気の人だ。もしくはゾンビに噛まれて豹変する前の人だ、と思った夏音は慌てて唯に近寄って肩を掴んだ。
「お、おい平気か唯っ!?」
「……ムイ」
「なんだって?」
「しゃ、しゃむい……わだし……エアコン苦手だったんでした……」
 それだけ言うと唯はへたり込んだ。床にギターのボディが当たり、ノイズが漏れる。
「そんなんどうすればいいんだよ!?」
 唯の面倒臭いパラメータが3上がった。

 暑いのは嫌なの、かといってエアコンも嫌なの。とのたまった唯はとりあえずスタジオから追い出された。何でも人工の風に当たっているとだんだん皮膚が粟だって身体が弱ってくるそうだ。そうなるとクリプトナイトをぶっさされたスーパーマンのごとくダメになってしまう。それでも団扇などは可、という良く分からない基準が彼女の中に存在しているらしく。夏は毎回それで乗り切るという。
 超面倒くせぇ、と誰もが思った。どうすれうべきかと悩んだところで、エアコンで既に冷えている室内に後から入る分には問題ないそうだ。仕方がないので、冷房でキンキンに冷やした状態で唯を再びスタジオに入れることになった。結局、ダメージを喰らったのは唯以外の全員だった。
 そんな風にトラブルもあったが、環境が変わったことで軽音部一同の集中力は格段に上がった。スタジオという狭い空間の中で大きな音を出すので、それによる解放感のようなものもあるのだろう。絶対ある。爆音で楽器を鳴らすのは大変気持ちの良いことである。耳がおかしくなる程の爆音で全員がハイになっていた。
 二時間で予約していた時間はあっという間に過ぎ、気が付けば終了時刻に迫ってしまった。
「あ、もうこんな時間かっ!」
 律がスタジオの時計を見て、驚いた声を出す。
「早く片付けなきゃっ! 五分前には片づけを終わっているのが礼儀だ!」
 その言葉を聞いた面々は、すぐに片づけを始めた。夏音は右手の一振りでツマミをすべて0にして、急いで機材をを片づけた。
 時間ギリギリでスタジオを飛び出た五人は、ささっと受付で会計をすませて外に出た。

「ぷはぁーーっ! なんか空気がおいしいなー!」
 スタジオを出て間もなく、律が大きく伸びをした。
「たしかに……たばこ臭かったしな」
 女の子たちはおタバコの臭いに敏感だった。
「でもスタジオは涼しかったし、音もいつもと違った感じだったよね。楽しかったー」
 唯がにこやかにそう言って律の方を向いた。その場にいた全員が涼しかったのはお前だけで自分達はむしろ寒かった、という言葉を飲み込む。
 おそらくエアコンが必要な季節の利用はこいつには向かない、と思いながらも律は得意気に頷いた。
「そうだな。今日は律にしてはまっとうな提案だったと思う」
「カチーン」
 上から目線の澪が腕を組んでうんうん頷くのを見て、律がえらく表情を引き攣らせた。こそこそと澪に何か耳打ちをしたと思うと、「イヤァァァァ」と耳を押さえてしゃがみこむ澪。
 いつものことだ。夏音はもう何も気にしない。
「それにしても二時間集中したせいかお腹すいたなー」
 夏音が切実に腹を押さえながら言うと、律がすかさず反応した。
「おっ、このままどこか飯食いに行くっ!?」
「わーい、ゴゴスいこーゴゴスー!!」
「でもお夕食には早いかしらね?」
「でも、お金がちょっと……」
「パフェくらいならおごってもいいケド」
「お供いたします」
「おい澪、今ダイエットしてるんじゃ……」
「あ、いや、でも、しかし!」
 仲良し軽音部、学園祭まであと少し。



「今日は俺が一番乗りかー」
 軽音部の部室には、夏音一人。荷物を置いてソファでぼーっとしていると誰かが扉をノックしてくる。
「はーいどうぞー」
 夏音が返事をすると、入ってきたのは吹奏楽部の顧問・軽音部とも縁ある山中さわ子教諭であった。
「ごめんねー、譜面台借りていくわねー……ってこれまたずいぶん機材増えたわねー」
 たまに部室を訪れる時にお茶をしていてもスルーな彼女だったが、久々に来た部室の様変わり具合が流石に目に止まったらしい。呆然と部室を見回すが、呆れているというより、どうやら興味津々で食い入るようにギターアンプを見詰めているような気がした。
「これ、え……うそ……何でこんなヴィンテージが……!?」
 わなわなと震えながら、慄く先生。
「え、先生わかるんですか?」
 夏音は若干目を大きくして、訊いてみた。
「え? あ、いや……何もわからないわよ!? 何一つ! なんか冷蔵庫みたいねこの機械……って、これも……渋い」
「…………」
「私は何も言っていないわね?」
「…………」
「し、失礼しましたっ!!」
 夏音が返しあぐねていると、さわ子は逃げるように部室を出て行った。今のは何だったのだろう、と首をかしげた夏音と大量の疑問符だけが部室に取り残された。

 

「部として認められていないだって!?」
 本日の部活は、そんな衝撃的な発表から始まった。部室であははうふふと殺気立ちながらインディアンポーカーで戯れていた律、澪、夏音の三名(敗者は労働奉仕)は遅れて部活へやってきた唯とムギが揃って持ってきた獲れたて衝撃情報にぶったまげた。
「ていうか……」
 皆、夏音の言動の先に注目した。
「部として認められていないのに、部室をこんなに好き放題にしちゃってよかったのかな……フホーセンキョってやつじゃないか?」
「ふ、不法……」
 何かよからぬ想像をしたのか、澪が怯え始める。夏休みが終了し、九月に入った現在の音楽準備室こと軽音部部室。
 もし四月の時点の部室風景を収めた写真と、現在のものとを見比べたとしたら、衝撃のビフォーアフターに誰もが仰天することだろう。
 戸棚に収納されたティーセット(高級)。部室の中央にでんと居座る冷蔵庫ほどの高さのベーアン含めたアンプ類(全アンプ合計で6つ)。ミキサーやスピーカーまで揃っている素敵な小スタジオと化している。
 それに加えて、本来なら授業で使うこともあるのだろうホワイトボードは軽音部員によってあまねくホワイトの部分を埋め尽くされている。主に落書き、落書き、謎のチラシなど。要するに、あらゆる私物で埋め尽くされた軽音部の部室は、部であるからこそ教師たちの海より深い寛容の精神によって看過されてきたのである。
 主犯各である二名の男女は落ち着き払っていたのにも関わらず、他の三人は狼狽しきってぎゃーぎゃー騒いでいる。
「ムギ、とりあえずお茶飲みたいよ」
「はぁい、ちょっと待っててね」
 爽やかにそんな会話を交わす主犯各のお二人。この二人のまわりにだけさらっとした風がそよいで見える。
「部員が五人集まったら大丈夫じゃなかったのか!?」
「そのはずなんだけどなー」
「おかしいねー」
 肩を寄せ合い、真剣に話し合う三人。
「あー、美味しい。今日はアッサム? スコーンにあうね」
「ええ、ジャムも四種類あるのよ」
 素敵なティータイムに勤しむ二人。
 同じ部室なのに、まるで空間が隔絶されているように別世界を作り上げていた。
「って、ソコこら! もっと真剣に考えろよ! 部の廃退の危機だぞ!?」
 スルーしきれなかった優雅な空間を作っていた夏音とムギに律がキレた。
「部の……っていっても、部じゃないんでしょ?」
 紅茶を片手に足を組んだ状態で振り返った夏音は、ガンを飛ばしてきた律に、その青い瞳に力を込めて律を見詰め返した。
「それは……そうですけども……」
「負けるの早いな」
 一瞬で勝負に敗れた幼馴染にため息をついた澪だったが、きっと眉をひきしめて夏音に詰め寄った。
「これだけ練習頑張っているのに、学園祭に出られなくなるんだぞ?」
コトリ、と置かれる白磁のティーカップ。
「More haste, less speed」
「な、なに?」
「急ぐならば、落ち着けってことだよ。まぁまぁ焦ったらいいことはないさ。とりあえずお茶、でしょ?」
 軽音部の基本は「とりあえず、お茶」である。何があっても部室に来ても寝ても覚めてもお茶に始まりお茶に終わる精神を持つ者すなわち軽音部なり。
 その軽音部の心得をこの五か月程で培ってきた(不本意)一同は、その言葉によってはっとして自分を取り戻した。
 三十分後。ムギの持ってきたお菓子をこの世から胃の中へ押し込んだ者たちは、落ち着いた心持ちで話し合った。
「それより、どういう理由なのか聞きにいかないとな~」
 先ほどまでの肩の力をどこへ消し去ったのか、軟体動物予備軍と化したぐにゃぐにゃ律は緊張感もなしにそんな提案をした。
「そりゃ、落ち着き過ぎだ」
 流石の夏音もしっかりツッコまざるをえない。


 その理由とやらを聞きにはるばる生徒会室まで向かうことにした一同。
「殴り込みじゃー」
「討ち入りじゃー」
 と生徒会室へと近づくにつれ、そんな単語を連呼する夏音と律。時の赤穂浪士に失礼である。
 彼らは完全に悪ノリの生き物である。主食は悪ノリ。ある教室の前で止まる。プレートには【生徒会室】と書かれてある。
 前線の二人は顔を合わせ、うなずく。
「たのもーーー!!!」
「イェー、ファッキンジャ○プ!!」
 ドアノブをまわした律、すかさず扉を蹴破った夏音の二名は、入った瞬間に突き刺さったいくつもの視線に凍りついた。
 皺一つない制服をぴちっと着こなす優等生の集団・生徒会。彼らは、和を乱す存在が嫌いというきらいがある。何かの分厚い資料を広げて、迷惑な存在を見る「ような」視線で貫いてくる。くいっとメガネを上げる人間ばかりだ。
「あ、会議中でしたか……」
「こいつぁ、失礼!」
 こてんと頭を打つ小芝居をいれておどけるが、場の空気は氷点下まで下がりつつあった。
「あれ、和ちゃん?」
 前線に立ちながら、もじもじとうつむいていた夏音たちの背後から声を発したのは唯。あれ、と顔をあげるとしっかりと会議の司会進行を務めていた人物に気が付いた。
「あら、唯?」
 アンダーリムの珍しい眼鏡をかけるその少女は、唯の幼馴染である真鍋和その人であった。
「へぇー、和ちゃんがここに!?」
「何でって、生徒会だからだけど?」
 唯の親友が生徒会だったなど、聞いていない。夏音は唯を軽く睨んだが、全く悪びれた様子がない唯は「知らなかったー」と暢気だ。
「とりあえず、会議が終わってからまた来てくれるかしら?」
 大人しく追ン出された。

 廊下でしばらく待っていると、幾つもの椅子が引かれる音がしてから、生徒がぞろぞろと生徒会室から出てきた。先ほどの闖入者たちをしっかりと睨んで行く者もいた。退出する生徒の波が途切れると、夏音たちは生徒会室へ再び入室して用件を話した。
「うーん、やっぱりリストにはないわねー」
 和は各部活動のリストを広げて確認してくれたが、どうしても軽音部の名前は見当たらないそうだ。つまり、これで軽音部が部活動として認められていないことが間違いないということになる。
「もしかして……」
 律が顎に手をあてて緊張した声を出す。夏音はまた阿呆な発言が飛び出すに違いないと全力スルーの構えをとった。今は省エネの時代。
「何か心あたりが?」
 だが、しっかりと乗っかる者もいた。唯だ。誰か乗っかってくれてよかったと内心安堵した律は、一度強く頷いてから和を鋭く見つめた。
「弱小部を廃部に追い込むための生徒会の陰謀!!」
(ほーら、やっぱり)
 それも、恐ろしくとんでもない阿呆な発言であった。ハハハ、と乾いた笑みを浮かべた夏音であったが、まさか本気でそれを信じようとする者がいるとは夢にも思わない。
「和ちゃんは本当は心のきれいな子! 目を覚まして!」
 ここにいた。
「何の話? ていうか部活申請用紙が提出されていないんじゃないの?」
 唯のこのような調子にも慣れっこなのか、和はさらっと流して事の原因を推察した。
「部活申請用紙?」
 聞きなれない単語に首を傾げてムギが反芻する。
「な、何だそりゃー。そんな話は聞いてないぞーっ!!」
 あくまで我に正義アリ、と言い放つ律であった。しかし、たらりと一筋の汗が額を流れた。
「田井中、うしろーっ!!」


 結局、和がその場で部活申請用紙を埋めてくれることになった。それで判子さえ押せば、晴れて軽音部も部活動の仲間入りである。
 すらすらと和のペンによって空欄が埋まっていく。軽音部の面々が息を呑んでそれを見守っていると、ふと彼女のペンが止まった。恐ろしい台詞が待っている予感がした。
「で、顧問は?」
「コモン?」
「Common?」
 何故、初めからそこに疑問が行き着かなかったのか。答えは簡単。全員、基本的に非常識の集まり。それが軽音部。


 件の顧問問題について即座に緊急会議が開かれた。開始数秒で山中さわ子先生に頼むのが良いのではないか、という意見が出てその方向に向かう事に。
彼女は音楽教師であり、吹奏楽部の顧問を担っている。
 容姿もさることながら、その物腰の良さで生徒から圧倒的人気を誇っている美人教師である。数か月前、夏音がベーシストだということを一発で見抜いた慧眼の持ち主でもあった。
 先日のこともあり、夏音もなんだかこの先生が適任である気がしてきた。アテが無くもないし、上手くいきそうな気しかしないのだ。


「ごめんなさい。なってあげたいのはヤマヤマだけど……私、吹奏楽部の顧問をやっているから、掛けもちはちょっと……」
ショックが皆を叩きのめす。私、付き合っている彼氏がいるからちょっと……と言われたようなものである。
「そんなぁ」
「本当、ごめんなさいね」
 そう言ってさわ子は心から申し訳なさそうに目を伏せた。 
「お時間はとらせません!」
「練習なら、自分たちでちゃんとしますから!」
「山中先生の損にはならないはずです!」
「ここに名前書いて、判子押すだけ! ね、簡単でしょ!?」
 どこの悪徳商法だとばかりに口先八丁で押す軽音部の面々だったが、相手は苦笑するばかり。
 こうなったら。
(奥の手だ……)
 一瞬だけ視線を交差させる。
(やるよ!)
 唯がさわ子の顔をじっと覗き込んでにんまり微笑む。
「な、なぁに?」
「先生、ここの卒業生ですよね?」
 できるだけ無邪気に。無垢な生徒の純粋な疑問を装うように唯をこの係に選んだのだ。上手くやれ、と皆の心が一つになった。
「え、えぇ」
「さっき、昔の軽音部のアルバム見てたんですけど……」
 その瞬間、びくっと体が跳ねたさわ子。
「あ、アルバムはどこにあるの?」
「部室ですけど?」
「そう……」
 ふらふらと後ろを向いたさわ子。その反応に夏音はにやっとした。ここで夏音は自分たちの予想が外れていなかったことを確信する。
「あれ、先生どうしたんですか?」
 唯がそう尋ねた瞬間、さわ子の体が深く沈んだ。それは、まるでチーターが獲物へ襲い掛かる瞬間に体を沈める予備動作そのものである。
 その体が跳ね上がると、瞬く間にさわ子の姿は廊下の遥か先へ消えていった。
「イエス!!」
 夏音はガッツポーズをしてから、急いで彼女の後を追った。
「イエス言うけど、先生めっちゃ速いぞ!?」
「問題ない!」
「うおっ! お前も足速いな!?」
 速度を増し、廊下を全力疾走する夏音は軽音部の部室へと向かった。スカートという事もあって、全力で走れない女子を置いて夏音は突っ走った。これでも一時期パシリとしてならしていた身である。一介の音楽教師に遅れをとる夏音ではない。「フハハハハー」と相手を追い詰める高揚感に高笑いしながら走り続けた。
 後を追ってきた四人が部室へ辿り着く時には、薄暗い部室の中央で膝を着いて固まる山中先生と、その背後には両腕を膝について荒い息をして笑む夏音の姿があった。ニヒルな笑いを浮かべようと必死だが、割と全力疾走が堪えたらしく余裕がなかった。
「やっぱりアレは先生なんですね」
 蒼褪めた顔でゆっくりとこちらを振り返るさわ子。その答えは聞かずとも、明白であった。
 

 夏音達は、先ほど部室にて昔の軽音部のアルバムを覗いていた。いわゆる軽音部の黒歴史というアイテムを見つけたのだと思ったのだ。
 嬉々としてアルバムをめくり、軽音部のOBが本当にメタルの住人だったんだと大いに笑ったところで、ふとアルバムの中の写真に既視感を覚えた。
 長い髪を振り乱して観客をこき下ろしている女性。フライングVを又に挟んで狂ったようにタッピングをする姿。
 極めつけには、その人物のスナップ写真。
「この人ってどこかで見たような……」
 という唯の一言から始まり「あ、やっぱ似てるよねー?」と夏音が頷き、もしや……と話が膨らんだ。
 冗談半分で盛り上がっていただけなのだが、それはやがて確信めいたものへと変わり…………今回の計画につながったのである。

「山中先生、あなたはかつて軽音部員だったんですね!!」
 びしっと山中先生に指を向ける律。どこぞの探偵さながらのキレである。息が切れ切れの夏音から体よくその役を奪った律は活き活きとしている。
「よくわかったわね……そうよ、私……軽音部にいたの」
 あっさり自供したさわ子。肩を落とし、乙女座りでうなだれた彼女は「あぁ……あれはうら若き高校時代のこと……」それから、軽音部一同は山中先生の重く、悲しい過去を知ることになるのであった。自分でうら若きって言ったらダメだろうというツッコミはなかった。

 省略。おおざっぱにまとめると。
 当時、軽音部に所属していた山中さわ子。勉強は中の上、読書と音楽を愛するモラトリアムまっただ中の文化系少女だった。ただ、モラトリアム少女侮るべからず。当時、彼女が片思いをしていた彼がワイルドな女性が好みだと聞くや否や、さわ子は今までのアコースティック路線を瞬時に投げ捨ててしまう。あれが若さ、という勢いだと彼女は語った。
 それから、どんどんメタルの奥地へと足を踏み込んで止まらなくなった日々。ラウドネスを信仰する事から始まり、海外メタルに触手を伸ばしていく毎日。スィープ? タッピング? 電ドリとは何ぞや? と純真そのものだった少女の姿はそこにはもうなかった。
 最終的に、もちろんそんな彼女にどん引きした彼にはフラれてしまうのだった。めでたし。
 なんとも痛快なストーリーだったな、と夏音は話が終わった瞬間に惜しみない拍手を送りそうになった。寸で察した澪に止められた。日本人は空気を読めないといけないそうだ。

 自分の人生の恥部を生徒に曝け出した山中先生は、うっすら涙目だ。
 そんな時に唯が「じゃぁ、今もギター弾けるんですか?」とギターを渡したものだから、山中先生のソロリサイタルが始まってしまった。
 超絶的なテクニック、と表するにはとうが立っている気もしたが、彼女は確かな技術を持っていた。あのテープのリードギターをやっていた人物というのも納得できる程のレベル。
 早弾き、タッピング、歯ギター。普段あまり生でお目にかかれないピロピロサウンドに女子高生は興奮しっぱなしだった。夏音はと言うと、歯ギターをガチでやる人を見て、どん引いた。
 ギターを弾くと昔の荒々しさが出てしまうのだろう。よくある話だが、すっかり気が大きくなった彼女はそのままの勢いで軽音部一同をぎょろっと睨んだ。
「お前ら音楽室好きに使いすぎなんだよーーーー!!!!」
 軽音部一同は、そのあまりの気魄に両腕をついた。脳髄を介さない行動だった。
しかし、土下座という行為が脳みそにプリセットされていない夏音は腕を組んでふんぞり返っていた。
 にこやかと。
 一斉に自分に向かって頭を下げる生徒の姿に正気になったさわ子はおろおろと崩れ落ちた。
「やってしまったわ……」
 ヨヨヨと泣き崩れる先生に向かって夏音は歩き出した。その震える肩を抱き、優しく先生を見つめる。
「立花くん……」
 夏音は潤んだ瞳で見つめてくる山中先生にざっくり一言。
「バラされたくなかったら、顧問やってください」
「あいつ、やっぱり悪魔だな」
 企画・進行・結末までも一挙に成功させた彼についてそう評価するとともに、また彼の一撃をくらった不憫な山中先生を偲んで涙を流したとか。流していないとか。



「こんな感じのオリジナルなんですけど」
 「快く」顧問の件を引き受けてくれる事になったさわ子に今作っているオリジナルの曲を聴いてもらうことになった。相変わらず唯のリズムのヨレ具合や、中盤に入るフィルからテンポアップする律のドラムは一向に直らないだけでなく、他のメンバーの演奏面に不満だらけであった。
「顧問として、どう思います?」
 ベンチに腰掛け、じっと演奏を聴いていたさわ子先生がゆっくり口を開く。
「そうねー。『顧問』として、言わせてもらうわ。各自の演奏技術については他として、特に言うことはないかしら」
「いやー、顧問としてのご意見ありがとうございます!」
「いえいえー顧問として当然よー? ただ、ひとつだけね。歌はないの?」

 沈黙が何秒かその場を包む。パシン、と音がして夏音が自分の額を叩いていた。

「いっけないっ! まだだった!」
 舌を出して誤魔化す夏音に非難の視線が集中した。
(俺だけのせいじゃないのに……)
 夏音とて色々忙しかったのだ。曲の構成を決めてから譜割などを決めようと思っていたし、曲の全体像を掴んでから、と思っていたのだ。
「じゃぁ、まさか歌詞もまだとか?」
「まぁ、そりゃあね」
「それでよく学園祭のステージに出ようと考えたわねー」
 先生の様子が明らかに変化していく。具体的にいえば、眉がぴくぴくとし始め、眉間に血管が浮いて……。
「音楽室占領して今まで何やってたの!? ここはお茶を飲む場所じゃないのよ!?」
 本気の怒声が五人につきささった。かつての軽音部員として、桜高の学園祭で名を馳せていた先生。方向性はともかく、真剣に音楽に取り組んでいたのだろう。むしろ、現役が異常である。
「言いたいことはわかります! けど、今の演奏を聴いたでしょう?」
 怒れる獅子の前にすっと立つ夏音。一同は、恐れを知らぬ勇者の姿に固唾を呑んで見守った。
「ここにいる唯はギター初心者。数か月前までコードすら知らなかったんです。ムギにいたっては、バンド初めてだし。澪は音量にバラつきがあるし、律は相変わらずダメダメで……」
 後半、ただのダメ出し。
「それでも、演奏に関してはびしばしと練習してきました! 歌詞と歌は後からハメりゃあすむでしょう。そんなのすぐにできます! 何故なら、俺がヴォーカルやっちゃうからね!」
 理論になっていないが、何故か強引に納得しかけてしまう説得力。
「そう、それでやれるというならば……けど、これはないしょ。これだけ音楽室を好き放題にしちゃダメでしょ。私らだってここまでやってなかったっつーのに。その前に高校生の分際でなしてこんな機材揃ってんのよー!!? うらやましぃアーーーッ!!!」
「ごめん俺には手がつけられない」
 夏音、前線離脱。
「せ、先生!」
 息が荒い獣の前にムギがそろりと出る。
「ケーキ………いかがですか?」
 さわ子先生の人を殺せそうな目線がムギに向けられる。

「いただきます!!!」

 教師ですら陥落させるムギのお菓子こそ、ある意味で軽音部最大の武器かもしれない。




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