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2008/01/12

電気炬燵と歩めなかった半世紀?

 冬になると炬燵が恋しくなる。
 だったら、炬燵くらい買えよってことになるが、生憎、懐具合の淋しさはともかくとして、我が部屋の中があまりに汚すぎる。狭い。
 よって、置き場所もだが、床が汚すぎるので、炬燵を置く気になれないし、ましてたとえ座布団などを敷くにしても座る気には到底なれない。
 自分の部屋なのだが、いやなのである。
 でも、炬燵が恋しいってのは正直なところ。

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← 歌川国芳『炬燵に美人』 (画像は、「Cat-City Museum:猫と浮世絵」より)

 年末年始など郷里に帰省するのが常なのだが、楽しみは炬燵である。
(尤も、郷里の家で炬燵が不可欠なのは、木造の古い和式の家屋なので隙間風が凄く、炬燵なしでは居られないってこともある!)
 小生は18で郷里を離れたが、そんな少年時代までの思い出が炬燵と共にあるように思えてならない。
 幼少の頃は掘り炬燵で、炭が熱源だった。
 いつから電気炬燵に変ったのか、覚えていない。兼業だが農家ということもあり、結構、遅かったような。帰省の折、時々、朝などに炭を継ぎ足しさせられたこともあるから、二十歳前後?

 炬燵という呼び方やら「おこた」という呼び方もあったような。
炬燵 - Wikipedia」によると、「炬燵と一体化して生活することを「かたつむり」をもじって俗に「こたつむり」と呼ぶことがある」というが、小生など、「おたく」族の語源は、案外と「おこた」とも極めて少ない縁があるのではと憶測している。

 唐突に炬燵の話題を出すのは、過日、暇の徒然にテレビを見ていたら、電気炬燵の歴史に富山の人が関わっているというエピソードが紹介されていたからである。

「炬燵(こたつ)」そのものの歴史については、ネットで容易に充実したサイトが見つかるので、今回は深入りしない:
日本の暖房の歴史-こたつ
炬燵 - Wikipedia
NipponStyle JKヴィジュアルアーカイブ 第3回 冬のニッポンスタイル・コタツ

Suh2kots

→ 鈴木 春信『炬燵の二美人』 (画像は、「浮世絵大判錦絵の世界」より)

(ついでながら、過日のテレビでのメインのエピソードは、二つあって、一つは富山の人が電気炬燵の歴史に登場するってことと、もう一つは、普及する上でのエポック的な話題で、「当初発売されていた電気炬燵は熱源部分が白かった。しかし、当時多くの人が「これで本当に温まるのか?」と疑問視してなかなか購入しようとはせず、売り上げが伸びなかった。そこで企業は熱源部分を赤くして温かさがきちんと伝わる様に見せたものを1960年頃に発売した。そうしたところ売り上げが伸びた」という話だった。)
 が、である。
 これらの炬燵の歴史のいずれの記述にも富山は登場しない!
 せいぜい、「NipponStyle JKヴィジュアルアーカイブ 第3回 冬のニッポンスタイル・コタツ」において、以下のような記述が見出せるのみ:

 現在のコタツの基本的な形態である、机式のコタツのヒントは、雪国の温泉街のそば屋にあったという。電化製品の普及活動のため、北陸電力の職員と石川、富山の各県を巡回していた山田は、宇奈月温泉の温泉街にあるそば屋に立ち寄った際、天井から飛び出た金属製の容器を発見した。これは階上で床に穴を開け、その中に容器を埋め込み灰と炭をおさめ、その上にやぐらと布団をかけてコタツにしていたものを階下から覗いたものであったが、そのとき山田は、下にあるのが常識とされたコタツの熱源を上部に持っていくことを思い立ったそうだ。

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← 歌川国政『娘に猫』 (画像は、「Cat-City Museum:猫と浮世絵」 あるいはpdf形式だが、「炬燵の娘と猫」)

 うーむ。これではイカン。小生が乗り出すべきときである。
 ネットで電気炬燵と富山の人間との関わりを記述するサイトを探す。

 すると、とんでもない事実が判明した。

 小生、「炬燵」を巡っての雑文を既に綴っていたのである。しかも、少なくとも二つ!:
炬燵や囲炉裏で見る夢は」(2005/12/26)
仲冬・大雪・炬燵」(2004/12/08)
 括弧内は、書いた(あるいはアップした)日付である。
 僅か二年前、あるいは三年前のもの。
 恐らく、06年に「炬燵」絡みの雑文を書かなかったのは、さすがにその頃は自分が炬燵を巡っての小文を既にアップしていて、とりあえずは新たな話題はないだろうという読みがあったのだろう。

Mukash11

→ 勝川春潮『風俗十ニ候 十月』 (画像は、「90才のホームページ こたつ(炬燵)」より) 

 それにしても、である。
「炬燵」についての雑文を書いているってことを忘れてしまっているだなんて、いかにも自分らしい。
 それ以上に情けないのは、炬燵はともかく、電気炬燵と富山(の人間)との関わりに調べが及んでいないことである。
 
 それはさておき(気を取り直して先に進む)、富山はともかく、電気炬燵が北国(雪国)で発想されたのは必然性があるようだ。

日本の暖房の歴史-こたつ」によると:

(前略)炭団(たどん)は木炭の粉を、ふのりなどで丸く固めたもの。庶民の燃料として近年まで活躍しました。しかし、炭火はおこすのに手間が掛かるうえ一酸化炭素中毒の危険もあり、昭和30年(1955)頃からは徐々に電気炬燵が主流になりました。
 炬燵は熱源を布団で覆うため熱効率が良く、日本人には心地よい暖房器具。が、部屋全体を暖める機能はなく、いったん足を入れるとなかなか抜け出せなくなりがちですね。これは、日本の住まいが伝統的に全室暖房に向いていないことや、そのための十分な燃料がなかったことなども要因でした。また、質素・倹約を美徳とした暮らしぶりにも、一因があったようです。(後略)

 そう、ポイントは、隙間風と一酸化炭素中毒の危険である。
 だからこそ、遅かれ早かれ北国(雪国)で電気炬燵が発想される土壌があったというわけである。
 
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← 歌川 豊国『芸妓と仲居』(文化年間末頃1804-18) (画像は、「えこまの部屋」より。「江戸の誘惑――ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展」に出品されたようだ:「激しい誘惑|しおさい通信」)

 さて、(ようやく)本題である。
 ネットで調べてみたら、下記のようなサイトが見つかった:
番組HOT情報|KNB WEB 未来創造堂 2月16日(金)よる11:00-11:30「電気コタツ誕生物語」

 KNBとは、北日本放送の略称で、念のために断っておくと昨年の放送である。
 番組のみどころは、「電気コタツ誕生秘話」で、「昭和30年代、電気コタツを発明・開発したのは、KNB先々代社長・横山良一だった」というもの。
 なんだか、楽屋落ちのような話だが、事実なのだろうから、先を続ける。

Suzukota

→ 鈴木春信『?』 (画像は、「江戸川柳による歳時記(冬の部)-嘯風弄月(しょうふうろうげつ)」より)

 以下、番組内容紹介を(一部)転記する。どうやらドラマ形式で放送されたようだ:

 昭和30年代、高度成長期を目前に、電気コタツは企業の開発室の中ではなく、北陸の発明王こと横山良一の自宅で開発された・・・。

 昭和31年 富山市
 冬の団欒にはコタツが一番。孫の哲夫(鈴木励和)がコタツに頭を突っ込むのを“火の神様が怒る”としかる四郎右衛門(石田太郎)。当時のコタツは練炭などをいれた火鉢を中に置いた“置きゴタツ”や、床を掘り足元に炭を置いた“掘りゴタツ”など。コタツの中を炭の炎が照らし、ぬくもりを感じさせた。しかし、冬が来るたびに一酸化炭素中毒などが多発。事故による死者が毎年100人を下らなかった。“合理化”が口癖の良一(国広富之)は「炬燵だって電化すれば死亡事故なんておきない」と主張。良一は「魚自動両面焼き機」や「ジェット水流式自動風呂沸かし機」など、自宅で使うためのちょっと便利な数々の機器を考案していた。日本の進むべき道は“電化” “合理化” “自動化”だと信じる良一は、安全で合理的なコタツを目指し開発に取り掛かかる―。


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← 鳥居清長『北郭雪の朝 大判二枚続 (右側部分)』 (画像は、「複製画通販-鳥居清長の浮世絵(美人画・役者絵)」より) こうやって炬燵の登場する浮世絵を眺めていくと、小生、炬燵が好きなのか美人画が好きなのか分からなくなる…。ま、誰だって炬燵でヌクヌクしたいものね!

 ここには雪国(北国)ならではの複雑な事情が絡んでいることが容易に察せられる。
 木造家屋。風通しがいい。湿気が篭らないという利点があるが、同時に冬は寒い。隙間風が辛いのである。
 襖や障子、窓、天井、さらには何と、床からも隙間風。畳は敷いてあるが、その下は板。板の下は高床というほど大袈裟ではないが、風が床下を通るようになっている。
 こういう寒くなりがちな構造の家だから、隙間風が入る。炬燵が恋しい。炬燵に入る。ついつい炬燵で寝る。気が付くと、頭から炬燵に入って寝ている。
 必然と、一酸化炭素中毒(や炭火に端を発しての火事、衣類の焼け焦げ、痴話)が間々発生するわけである。

 それにしても、昭和三十年代の初めに電気炬燵が発想・考案され発明・発売されたわけである。小生が生れたのは笑話29年……、じゃない、昭和29年である。
 ほとんど、小生は半世紀を越える電気炬燵の誕生や変化と歩みを共にしてきたようなものだ。
 小生が炬燵を恋しがるのも必然性があったというわけだ ? !

[ 本文中に小生には炬燵をめぐっての拙稿が幾つかあった(!)と、自分でも驚きながらサイトを示している。今日、ある記事を探していたら、偶然、他にもまさに炬燵をテーマとした拙稿があることに気がついた。「炬燵について」である。今、ちょっと帰省しているので、毎日、炬燵に入れる。家の外も中も、子供の頃とは随分と違った風景となっているのだけれど。 (08/02/09付記)]

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コメント

懐かしいですね、炬燵。
我が家――実家――にも、かつて掘り炬燵があったことを、
想い出しましたよ。

炬燵といえば、
二十年ほど前の冬に北国の温泉の古い旅館に宿泊した時、
女将に炬燵に脚を入れて眠るように言われて驚きました。

投稿: ゲイリー | 2008/01/12 10:23

ゲイリーさん

電気炬燵のほうが安全なのは分かるけど、掘り炬燵って風情が違いますね。
実際には掘り炬燵があった当時は、たまに朝など親からお前が炭を継ぎ足せって言われたりして、面倒だなーって思ったものです。

>二十年ほど前の冬に北国の温泉の古い旅館に宿泊した時、
女将に炬燵に脚を入れて眠るように言われて驚きました。

不思議な話ですね。もしかして炬燵で寝ているゲイリーさんの寝込みを女将が襲ってくるつもりだった?
んなわけないね。
多分、隙間風とかを心配していたのかも。北国は寒いから、暖房を消すと深々と部屋が冷えるのを心配してくれたのでしょうね。

古い宿…。関越であわや遭難事件で石打近くの宿に泊った夜のことが忘れられない。
炬燵に冷え切ったブルブル震える体を突っこんで、炬燵の中で夜明かししたものでした。


この記事へのアクセスが非常に多い。
どうやらニフティのトップ頁から直接アクセスしているらしい。

投稿: やいっち | 2008/01/12 13:35

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