東北関東大震災下で働く医療関係者の皆様へ――阪神大震災のとき精神科医は何を考え、どのように行動したか 本文全文


「災害がほんとうに襲ったとき」は中井久夫編『1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神科医たち』(1995年3月刊・みすず書房)に収録されています。本稿の電子データの公開および無償頒布につきましては、著者の中井久夫氏とみすず書房の許諾を得ております。



「災害がほんとうに襲った時」
中井久夫

●パート1
電話は多くの生き残った人に「自分は孤独ではない We are not alone 」という感じを与える効果があったと私は思う
1995年1月17日午前5時46分から

 最初の一撃は神の振ったサイコロであった。多くの死は最初の5秒間で起こった圧死だという。行政の対応が遅れた理由は簡単である。幹部は、多くは郊外の自宅にいて眠っていた。つまり一私人であった。私もそうであった。昼間に起こっていたら公務員は持ち場にいてシナリオは多少変わっていたであろう。しかし、都市活動が始まるほぼ30分前に起こった幸運には代えがたいかもしれない。後に私は何度もこのことを頭の中で反芻することになる。博多行「ひかり」の初発は6時12分に新大阪駅を発車していたはずであった。現場通過は6時20何分かである。

 私も眠っていた。私には長いインフルエンザから回復した日であった。前日は私の61歳の誕生日であり、たまたまあるフランスの詩人の詩集を全訳して、私なりに長年の課題を果たした日でもあった。さて明日から働けるだろうかとのかすかな心配をしながら、職場の仲間との久しぶりの再会を楽しみにしていた。私は年が改まって以来、出勤していなかった。

 睡眠薬をのんでいたためもあって、あの20秒はグリセリンの中で強制的にトランポリンをさせられている感じであった。家人とともになすがままにゆられている他はなかった。何が起こったのか。何も言葉を発しなかったつもりであったが、家人によると「ワーッ」と叫んでいたそうである。自分ではわからぬものである。

 大きな揺れがひとしきり収まった後、私はまだ暗い街を眺めた。家は100メートルほどの丘の中腹にある。準平原の常として上は平たく、けわしい坂を下ると狭い谷がある。谷の家々の灯も街灯も消え、その向こう4キロほど先に、後の報道によれば震源地であった海が静まりかえっていた。

 地震だ、これは近いなと思った。しかしどれほど大きな地震なのか、比較の尺度はなかった。小学校5年の時の南海大地震は、その直後に訪れた奈良では灯籠が倒れ、蔵にひびがはいっていた。戦時下とて、正確な報道はなかったと思う。福井大地震はハイキング中に西宮の畑の真ん中にいて体験した。けっこう揺れても、野原で地震に会えば地面とともに揺れていればよい、地震は都市で起こるからおおごとなのだとこのとき知った。しかしこの2つの地震で身体が覚えているのは上下動でなく水平動だけであった。

 関東大震災は、体験した曾祖母の伝聞を祖母から聞いていた。祖母は当時大阪北郊の石橋に住んでいて、正午に何かめまいがして、立っておれず、横になったという。ちなみに、今度の地震でも東京・板橋区の運送業の社長さん(59歳)が私にそう伝えてきた。何かおかしい、身体が揺れると思ってテレビを点けたら第一報であったという。いずれにせよ、関東大震災はわが家の伝説になっていた。墨田川を「助けてくれ! 助けてくれ!」と叫びながら流れてゆく人。それを目にしながらどうにも出来ずに鉄橋を這って渡る人など。話は曾祖母が直接経験したようになっていたが、牛込若宮町に住んでいた人が墨田川を渡るのはよく考えると解しがたいことである。

 朝鮮人虐殺、大杉栄一家虐殺を教えたのは戦時中の祖父であったが、もうひとつ、虐殺そのものではないが、一種のネクロフィリアとして多数の死者の写真が販売されてわが家にも何枚かがあった。被服廠跡の10万人といわれる死体の写真もあった。官憲がこの種の撮影を禁じたにもかかわらず、この種の写真は猟奇写真といわれ、今の猥褻写真のごとく、高価で、ことに被災地でないところで取引されたらしい。

 私の地震に関しての記憶はそれだけであった。

 ちなみに、今回、そのような写真を売る者はおそらく一人もなかった。

震災の中心が神戸とは、家族の一人としてつゆ思わなかった。「神戸に千年地震なし」を私も信じていた。十数年前の神戸移住のための家族説得の切り札の一つでさえあった。東京からの帰途、新幹線が関ケ原を越える度に「地震の恐れのない地域にはいった」とどこかでほっとするものがあった。

 後から考えれば、いくつかの要因が重なって、震源地から4キロほどの私の家にほとんど何も起こらなかったのであった。「震源地」とは、直下型地震では、振動の始発点に過ぎないことを私は初めて知った。海の向こうを震源地とする海溝型地震がモデルとして私の頭にもあったから、それが一点であり、地震波は同心円を描いて拡がるという錯覚が私にも生まれていた。実際には破断は北東に走り、震源地のほぼ北にある私の家のあたりをかわした。また、私の住宅地は丘の中腹を削ったもので、わが家は植物が大きく育たないほど直かに岩盤の上にあって、しかも軽量鉄骨のスレート葺きのプレハブ住宅である。昭和24年の台風で屋根を飛ばされて修理代に苦労した私は家を直方体にした。私のかつての家は昭和初期のモダン住宅で傾斜の急で複雑な屋根に吹きつける風は千々に別れて奇妙な悪戯をした。インフレと重税に悩むわが家は屋根の修理一つに非常な苦難をなめた。新しいわが家の壁はアルミ・パネルであった。何が主要な因子だったかは知らず、本棚の横積みの本も、本棚の上にブックエンドさえなくてただ立ててあっただけの辞書類も落下せず、横積みにしてあったテープさえそのままであった。植物の鉢がテーブルいっぱいだったが、これも微動だにしなかった。さすがに戸棚の皿、茶碗は扉の前に密集していたが、扉が開かなかったため救い出すことができた。私が失ったものは十数個のワイングラスとインカの水差し模造品一つだけであった。位置、地盤、家の構造が幸運を与えたと知ったのは後のことである。情報の皆無の時期においては、京都あたりの大地震かと思った。東京でもごく初期の報道は近畿のどこかというたいそう広い範囲でなかったか。なお寝室にはほとんどベッドだけしか置いていなかった。

 この被害のなさは後に「申し訳ない」という罪悪感を私の中に生むことになる。目下私の小さな書斎(と大学の自室と)はしばらく最小限の片付けにとどめている。震災記念室である。

 私の家は、しばらく後に、ガスが出ない区が列挙される中に「垂水区ただし神和台を除く」と全国に放送された、その神和台にある。ガス管は格別他と変わるまいから地盤が決め手であったのであろう。よく見れば、この住宅地にわずかながらある埋め立て部分には屋根瓦の落下があって、家の中も転落物で埋まったと聞く。しかし、揺れがひととおり出尽した時の私の家は静まり返り、二階の寝室の戸を開けて窓から見わたせばゆっくりと明けゆく空の下の街並みも何ごともなかったようにみえた。空にはところどころ青空がみえていたが、東方ほど濃い乱れ雲から雨脚が垂れて霰(あられ)でも降るかなと思わせる空模様であった。

 もとよりまったくの未経験のことであった。われわれは、いきなり来たこと、縦揺れが強く、ゆらゆらという横揺れがなかったことを確認しあった。直下型ってこれではないかとは家人の直観であった。電気も水道もガスも電話も止まっていた。家人はまず落下したワイングラスの破片を拾った。私は落下した絵皿類(割れていない)を机に置いた。後に私は、多くの者もまず家族を点呼して、次に些細な家庭の片付けを半ば反射的にしたことをきく。床にガラス片をみれば誰でもするようなことを私たちもしたのであった。しかしややあって二人は少し心の視野を広げた。2キロほど先に独り住まう妻の母を思った。電話は通じなかった。車で走った。視界にある車は1、2台であった。東に山のある6時半前後の空にはまだ暗さが残っていた。谷の対岸の屋根瓦の落下、門柱の傾きにわれわれは次第にこの地震が「ほんもの」であることを知っていった。この地区は戦前の地図で溜め池が多く描かれていた。妻の母の実家は、丘の頂上に近く、外見は無傷であった。内部には、転倒落下物があり、箪笥はわずかに義母の頭を避けて床に横たわっていた。われわれはしばらく無事を喜び、恐怖体験とその実態が何であるかを議論するのに時間を費やした。

 たまたま電話が生きているのを私は発見した。直ちに東京都練馬区の友人Rに掛けた。近くに電話したらたとえ通じても「何だろうね」と言い合うだけだろうと思ったからである。「近畿地方に大地震」。何が映っている? 「阪神電車の車庫の傍が燃えている」。私は東京経由で事態を知ったのである。まず私は火災が発生したことを知った。報道される死者は数人、ついで数十人であった。死者数は少なくても、行方不明者が千人台となり、容易ならぬ事態であることが次第に私にしみ通ってゆくのにはまだ時間があった。

 明け行く東の空には黒い雲があった。それは、最初、雨脚を出しているかにみえたが、やがて上昇し、たなびいた。私は阪神間の、家人は北九州の空襲を経験している。二人は「あの時の雲と似ている」と言い合った。妻の母の家の前に二人の着膨れた中年の男がいて「細かな燃えかすが降ってまっせ」と言った。

 NTTの回線の多くが生きていたのは称賛に値いする。やがて、私には全国から電話が殺到してきた。国際電話もあった。電話は多くの生き残った人に「自分は孤独ではないWe are not alone」という感じを与える効果があったと私は思う。公衆電話優先や回数の間引き(10回に1回通じる程度)は、それだけの骨を折る気のない、動機の弱い通話を淘汰する巧みな方法であったと思う。遅くかけてきた人は「回線がなかなか通じなくて」と断った。私は重要な電話には再ダイヤルポーズのボタンを10遍押した。こうして、私は勤め先との間に電話を確保できた。かけ先は昨夏完成した最新の精神科病棟であって、大きな揺れはあったが、額一つ落下していなかった。

 テレビで国民が戦闘場面をみる戦争を「テレヴァイズド・ウォーtelevized war」というのは、『タイム』で知っていた。ベトナム戦争はアメリカの、チェチェン戦争はロシアの、最初のテレヴァイズド・ウォーだという具合である。この表現に倣えば、阪神大震災は、日本最初の「テレヴァイズド・カタストロフ」である。全国的規模において多量の救援物資と多数のボランティアとを動員させたパワーは、テレビ画面であった。首相官邸でさえ、大幅にテレビに依存していたという。

 後のことになるが、今回の震災において、活躍したのは電話とともにコピー機とファックスとワードプロセッサーとであった。ファックスは電話よりもはるかによく通じた。ワープロは「ひとが読める」情報紙面を叩き出し、コピー機がそれを何十倍何百倍と複製して流布させた。これらなしにはわれわれの活動ははるかに非能率であったろう。われわれの対災害キャンペーンは「電子化された震災キャンペーン」であった。残念なのはファックスのある「医局」と大学精神科の指揮所になっていた精神病棟研修医室とが敷地の南北両端にあって、その間を徒歩連絡せざるを得なかったことである。回線が割当てられなかったためらしいが、両者にファックスがあればどれだけマンパワーを節約できたことであろうか。

 私は家人と車で北須磨まで出た。家から2キロほどのそこから先の20キロの渋滞はとうてい突破できないとみた。初期の渋滞は事態の重大さを知らされなかった通勤者が起こしたものでなかったか。脱出でなく流入の洪水であった。神戸西郊(西区、垂水区、北区)は落下転倒程度の被害だったからである。これらの新しい計画都市は車のある生活が前提であったといってよいだろう。事実、須磨区北部から西区へと走る市営地下鉄の各駅には一、二の例外はあるが、自宅から駅までを送迎する車のための大きなカーポートをタクシー乗場とは別箇に備えていた。

●パート2
個々のスタッフの臨床の練度が老医である私をしばしば凌いでいることを私は悟っていた。臨床を第一とし、優秀な実験室研究者でも臨床の分担を免除軽減することのない伝統が試されるのは今だと私は思った。

1995年1月17日10時前後

 臨床の指揮を直接取る立場のS病棟医長は私よりもさらに遠い団地に住んでいたが、間髪を入れず、「オカユ」になった家を後にしてただちに出撃した。しかし機敏な彼にして通常は40分以下の行程に5時間を要した。翌日に出た助手の一人は全体の三分の一に5時間を要してついに引き返した。私は運転ができず、ついでにいってしまうとバイクにも自転車にも乗れない。到着したSは私に私の到達努力の非なることを連絡してきた。私は結局、最初の二日間を自宅で執務した。「渋滞に巻き込まれて進退きわまり、数時間連絡不能になることは最悪」であると彼は言い、私も思った。いつも動ぜず、ユーモアと軽みとを添えてものをいう彼は「いずれお連れしますよ、それまで私がいます」と言った。

 私は二日自宅に留まったことになる。この出足の遅さは家人をいらいらさせたらしい。私にも「旗艦先頭」の美学がないではなかった。しかし、私は現場のスタッフを信頼していた。結局、S病棟医長と徒歩通勤可能の助手、医員と9人の研修医が大学精神科の初期医療に当たった。研修医は以後ずっと、大学病院精神科病棟に籠城する。自宅にいる間の私は、戦争末期、マリアナ沖海戦において東京湾・木更津沖に繋留した軽巡洋艦「大淀」から指揮をとった連合艦隊司令部のような立場になった。しかし、通信網は、おそらくどなたかの配慮であろう、私から発信する場合にはおおむね確保されていて、私に情報は必ず流入した。そして私の最大の仕事は、彼らの仕事を包括的に承認し、個別的に追認することであると私は考えた。救急医療が初期のすべてであった時、私にはすることがあまりなかった。還暦を過ぎた老医は、エネルギーを蓄え、「頭をぶらぶらにしておく」ことがまず必要であった。個々のスタッフの臨床の練度が老医である私をしばしば凌いでいることを私は悟っていた。臨床を第一とし、優秀な実験室研究者でも臨床の分担を免除軽減することのない伝統が試されるのは今だと私は思った。

 新設間もない2階建、独立棟の精神科病棟「清明(せいめい)寮」はたまたま日本の大学病院で最新であった。シンプルなレイアウト、大きな窓からの明るい採光、規定より広い廊下と病室、色彩管理など、これらが試される時が来た。私を含めて医師、ナースが医学部、大学本部に積極的に協力し、多年の研究と討論を経てつくりあげた病棟であった。私はひそかに1920年代の英国巡洋艦の設計思想をモデルとしていた。将来の改造に備えてすべてを広くとることと職員の居住性を非常によくすることとである。病室階を通らずに直接外から入ることのできる2階の広い研修医控室が、戦闘指揮所、会議室、仮寝室、食堂となった。精神科医は常に一堂に会しえた。この一見雑然とした基地は実はC3I室(Command, Control, Communications and Intelligence Room──指揮・統制・通信・情報室)として機能した。その真下にはナース・ステーション(看護婦詰所)があった。この四方総ガラス張りの広いステーションからは患者の動静を居ながらにしてほぼ把握することができた。ただし直接の監視ではなく、徴候感覚による把握であって若干の経験を要する。

 神戸大学の精神科研修医は精神科だけでなく、内科救急にも参加して、後に救急部門から感謝されることになる。実際彼らは研修プログラムの中で一般救急医療の研修をほぼ全員が済ませていた。

 昭和41年完成の古い基準に従って建てられた一般科病棟は窓の四隅から斜め上下の窓の隅へと亀裂が走り、ところどころに剥落もあった。建築診断上安全と判定されたが患者の不安は続いた。スティーム暖房が断水により停止したことも一般患者の不幸であった。これに対して、精神科病棟は完全に無傷であり、空調の蓋が一つ落下しただけであった。寒い外部からこうこうと電灯の輝く清明寮に近づき、清潔なオフ・ホワイトのタイル張りの2階建の内部に入ることはまったくの別世界に入ることであった。ひろびろとした病棟は疲労して帰ってくる職員に非常な精神的安定を与えた。患者に接する者の精神安定に寄与するべく休息区域を広く取ったことも効果を発揮した。医師当直室が男女2室、合計4ベッドあり、それぞれシャワー室を備えている。作業療法室には暫くのあいだ被災ナースとその家族とを収容することができた。実際には、会議室にも、芸術療法室にも、研修医控室にも、多くの精神科医が泊まり込んだ。応援精神科医を寝袋一つ持参の条件で何人も受け入れることができた。廊下に寝れば患者のベッドを借用せずに数十人を宿泊させることができると私は踏んだ。ボランティアの中には、こういう部屋に泊まると被災者に申し訳ないという人もあった。しかし、私は設計段階から職員のアメニティーを良くすることが実効性のある何事かをなすための基本的前提であると確信していた。

●パート3
有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。

1995年1月17日夜─1月18日

 初期の修羅場を切り抜けおおせる大仕事は、当直医などたまたま病院にいあわせた者、徒歩で到着できた者の荷にかかってきた。有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。初期ばかりではない。このキャンペーンにおいて時々刻々、最優先事項は変わった。一つの問題を解決すれば、次の問題がみえてきた。「状況がすべてである」というドゴールの言葉どおりであった。彼らは旧陸軍の言葉でいう「独断専行」を行った。おそらく、「何ができるかを考えてそれをなせ」は災害時の一般原則である。このことによってその先が見えてくる。たとえ錯誤であっても取り返しのつく錯誤ならばよい。後から咎められる恐れを抱かせるのは、士気の萎縮を招く効果しかない。現実と相渉ることはすべて錯誤の連続である。治療がまさにそうではないか。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。「何が必要か」と電話あるいはファックスで尋ねてくる偉い方々には答えようがなかった。今必要とされているものは、その人が到達するまでに解決されているかもしれない。そもそも問題が見えてくれば半分解決されたようなものである。

 最初の混沌の二日間の現場を私は見ていない。その間は「乱戦時代」であったと聞く。大学病院においては就任まもないI救急部長はこの試練によく耐えた。次々と到着する救急車、「到着時死亡」の連続であった。生きる可能性を測って優先順位を決める非情さも時にあった。死体は霊安室にあふれ、多数の研究会議室を埋めた。一人の法医学教授がヘリコプターによって神戸、淡路などをへめぐって4300の死体を検案した。死体検案なしには火葬、埋葬ができない。精神科医も一部の死体検案を行った。多くの死体はヘリコプターで対岸の大阪府の火葬場に運ばれた。空襲の際と異なり、死臭漂う街にならなかったのはこのためであった。

 外来ホール、1階、2階は避難民で埋められていた。これが一週間続いた。病院は避難所に指定されていない。しかし非常時に彼らの阻止はしょせん無理である。不毛な摩擦は両者ともに望まなかった。そうして流入した彼らは診療を妨げることはなかった。避難民の流入という事態は今後の災害においても想定されなければならないものである。東京でいえば、多数の近代的病院、官庁、さらには迎賓館、豊島岡(としまがおか)墓地、皇居さえにも避難民が流入しようとすることは大いにありうる。これらはもとより各区の避難所に指定されていない。小松左京の未来小説には、たしか、皇居に殺到する避難民を機動隊が阻止して射撃する話があった。そのようなことはあってはならない。こういう事態をもっとも悲しまれるのは、「国民とともにある」現天皇皇后両陛下であると信じる。神戸大学病院当局は、避難民を最初から阻止しなかった。市が食事を配付したこともあった。表向きは患者職員用であるが、正面玄関前の植え込みには仮設便所が設置された。その林立する様は壮観ですらあった。いつの間にか自治組織に近いものができた。診療が再開されるにつれて、彼らは診療の時間には席を外し、夜に戻ってくるようになった。そして一般患者の数が待合室に増えるにつれて、いつとなく、静かに、新しく設定された市文化ホールの避難所に移っていった。後にはビニール袋いくつかが残っていただけであった。何一つ荒らされていなかった。

 しかし、大学病院は状況のごく一部であった。開業まもない中年の精神科医M君は、余震の中を自宅から長田区の診療所に駆けつけた。午前10時だった。果して、迫る火の中をいつものように薬を取りにきている患者が一人いた。彼は、診療所とマンションとを失って「借金だけ残った」。妻がいてくれるから何とか生きてゆきますけれどとぼやきながら、三日目から最寄りの保健所に精神科救護室を開設し、無料で診療と処方を始めた。これが、神戸市の各保健所に芦屋、西宮両保健所、県立精神保健センターに救護所が一週間以内に、次々に開設される嚆矢であった。遠方の副院長を勤めている、かつての保健センター医師も初期から活躍した。そこに近畿各県からの精神科医が合流した。岡山県の精神科医が須磨保健所の救護所に、愛知県の精神科医が中央保健所のというふうに、次第に多くの精神科救護所が応援精神科医に引き継がれて、こうして、末端の市民、警察、消防、自衛隊を毛細管とする保健所の精神科救護所が各区に活動を開始した。救護所の存在はラジオで報道された。『精神科救護所情報』は、データをファックスで大阪府に送ればあるボランティア精神科医が作成しては送付してきた。これは大変ありがたい援助であった。

 これを統括したのが、県立精神保健センターの課長をつとめる精神科医A君であった。いちはやく自転車で到達した彼は早速このネットワークを作り始めた。センターの一室はこのネットワークのC3I基地として大学病院精神科のC3I基地と連携した。大学精神科は患者を引き受け、医師を送った。このネットワークは、誰が命令したわけでも指示したわけでもなかった。片手で数えられる中堅精神科医が動きながら形づくっていったものであった。上長はそれを追認することがもっとも重要な仕事であった。それができるのがまあよい上司である。

 さて、神戸市を中心に精神科診療所が各駅に最近は二つ三つ存在する点が古くからの特徴である。総計50余のこれらの診療所は、大阪府の診療所が催眠、森田療法、精神分析など、それぞれ専門を掲げているのに対して、どのような精神疾患でも診るジェネラリストであることが特徴であった。これが有利に働いた。いっとき神戸市中心部の診療所群が壊滅したという噂が流れた。建物の破壊という点ではそうかもしれなかった。しかし、全焼したのは二つの診療所であり、その一つの先に挙げたM君は長田保健所に診療の場を移した。何度もテレビに移った丸顔・不精髭、童顔ながら不屈の面魂(つらだましい)の彼である。もう一人のI精神科医は友人の診療所に間借りして診療を再開した。焼失を免れた診療所群は、窓口だけ潰れ残っているA先生のようなところも含めて、ほとんど一日も休まずに診療を続けた。精神科医の利点は薬のほかは複雑な器械を用いずに緊急診療ができることである。精神分析を主とする数少ないKさんの診療所は、心理士が常勤していた。自宅も診療所も内部を破壊された彼女は一般診療に切り換え、少し後になるが、千葉大学、福岡大学の応援を得て、1月29日から24時間の電話相談と往診との体制を作っていった。しかしいつも通じる3本の電話回線を一民間診療所に与えることへの異議を結局は多くの人々の力で押し切ってのことであった。

 破壊された鉄道網の断端近くに位置している診療所と総合病院精神科とはにわかに多忙となった。幸い、中小規模の総合病院も精神科を持っており、その大部分を神戸大学精神科が担当していた。要するに多くの私たちの仲間がいた。大学病院の精神科に通院できなくなった多くの患者の問い合わせに対して、最寄りの診療施設を教え、処方をファックスあるいは電話で伝達するむねを伝えることができた。大学のコンピュータ・コンパクト・ディスクには3ヵ月間処方を保存してあることが役に立った。患者の住所、電話番号を知る上でもコンピュータが生きていたことは幸いであった。カルテの自動搬送装置も幸い再作動できるようになった。しかし、3年前の患者からの連絡もあり、このような場合は行き先の精神科医に薬の現物を示すようにという助言を行った。粉末の場合は処方内容の同定は不可能であったが、幸い、それは一、二例であった。彼ら彼女らは時に私の名と処方のメモだけを持ってくる患者を受けて苛酷な診察に耐えた。時に百をはるかにこえる患者が来たという。

 やはり鉄道の末端にある450床の県立精神病院「光風病院」は、元来、古い建築、古いスタッフ、古い患者の、日本の都道府県にほぼ一つずつある昭和13年に建設された公立精神病院の一つであったが、最近まで神戸大学精神科助教授であった、私の盟友ともいうべきY君によって刷新されつつあった。古い建物こそその改築が進行中であったが、スタッフはわれわれの送った最良の人たちであり(一部京大)、ここ数年半ば冗談に「(この病院では)史上最強のメンバー」といわれていた。スタッフは慢性の準安定患者を後方病院(慢性患者が多く占める私立病院)に送り、貴重な60ベッドを確保した。大学病院の「清明寮」は46ベッドであったから同一規模の精神科病棟が新設されたことになる。この病院は都立松沢病院のように名が知れているために、救いを求めて患者が「殺到」した。患者の中に巣くう病院・治療・薬物の忌避とは幻かもしれないとさえ思えるほどであった。まだまだアメニティーの低い日本の精神病院もその存在によって彼らの少なくない部分の安全保障感にいくらかは寄与しているかもしれないと思わせられた。神戸大学精神科では、第1年の大学病院研修、第2年の公立病院研修の後は民間精神病院にいったん出ることがルールとなっている(これを回避しようと思う人がとりうるルートはなくもないがそれは推奨されているわけではない)。そのまま精神病院に残る人もあって、精神病院のスタッフは大幅に若返っていた。

 精神科医たちは、精神科薬物の中絶が数年の治療を空無に帰しうることを知っていた。向精神薬の確保も、焼け跡の開業も、患者転送業務も、その認識の上に立っていた。患者もそうであった。彼らが渋々薬をのんでいるというのは伝説となった。彼らは薬の必要性をよく知っていた。後に私は薬物を老人患者、遠距離で最寄りに診療所のない地域に郵送することになる。西宮と宝塚との概ね富裕な住宅地帯は精神科医療の過疎地帯であった。西宮の二つの公立病院(県立と市立)と宝塚の一つ、尼崎の二つのうち一つは精神科を持っていなかった。西宮北口西北の外科病院にふだんは一日だけ外来を行っているリエゾン中心の精神科医師Sさんはにわかに多忙となった。彼女の電話による報告の、周囲がすべて崩壊して一軒だけ無事で残った人の抑うつ、家族全員が死亡して、たまたま彼女の病院に入院していたために助かった人の苦渋で複雑な反応などは、いかにもと深くうなずけるものがあった。

 自家処方でなく院外処方箋発行を通例とする病院は、大学病院も含めて少なくなかったが、これらの薬局が開き始めるには数日を要した。薬物が散乱していたのである。そして救援物資の中の薬は内科の薬ばかりで向精神薬は含まれていなかった。私はこの事実を知って、東京の精神科医に次々と電話をかけて、この事実を知ってほしい、誰かに伝えてほしいと頼んだ。麻薬取締法違反ではないかという異議があったことは後に知った。スイスの捜索犬を狂犬病検査のために2週間検疫所にとめおこうとしたのと同じ現実離れした発想である。行政も、われわれ医師と同じく「現実と相渉る」業務ではないか。結局、県立精神病院の「光風病院」に送付して、それから院長の責任で配付することとなった。これが、院長が自分の責任で精神科の薬を「横流し」して危機を救ったという伝説のもとである。先の24時間電話相談の開設に当たっても、「民間」に特別の電話回線が割り当てられることには大きな抵抗があった。総じて、役所の中でも、規律を墨守する者と現場のニーズに応えようとする者との暗闘があった。非常にすぐれた公務員たちに私たちは陰に陽に助けられた。その働きさえ記すことのできない彼らのためにこの一行を記念碑として捧げたい。

 県地域保健課は毎日、県下全精神病院の空床数をファックスで送付してきた。二つの大阪の精神病院が患者の積極的引き受けを連絡してきた。一つは、差額ベッドに差額なしで引き受け、迎えの車を出すと明言した。結局、日頃、仕事をとおして信頼関係にあるところが実質的な援助を与えてくれた。明石の精神科診療所長I氏の名言によれば「ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない」のである。いや、細かく情報を交換したり、現状を伝えたりする必要さえなかったのである。「彼は今きっとこうしているはずだ」と思ってたとえ当らずとも遠からずであった。いわゆる口コミで仲間の活動はおのずと伝わってきた。そして誤伝達はきわめてすくなかった。サインを頻繁に送り合うこのごろの野球のチームワークでなく、むしろラグビーのチームプレイであろうか。

 改めて思う。日本人の集団指向は事の半面である。いきなり状況の中に一人投げ込まれて真価を発揮する人間が存在しているのである。吉田満の『戦艦大和ノ最期』に、艦体の前半を失った駆逐艦が士官全員戦死、兵曹長これを指揮して後進にて佐世保に帰還したとあり、陸軍の戦記にも軍医が指揮して敵中を突破して生還した例がある。組織が崩壊あるいは機能を失った時、このような人が現れ、決意と創意工夫とを以て事に当たる。ドイツの精神医学全書の「捕虜の精神医学」の項に、シベリアにおけるドイツ軍捕虜に比して日本軍捕虜を恥ずかしくなるほど称えた文献の引用がある。いわく、ソ連軍が日本軍捕虜の指揮官を拘引するとただちに次のリーダーが現れた。彼を拘引すると次が。将校全員を拘引すると下士官、兵がリーダーとなった。こうして日本軍においてはついに組織が崩壊することがなかったがドイツ軍は指揮官を失うと組織は崩壊した、と。日本の組織は軍でなくとも、たとえば私の医局でも私がいない時は誰、その次は誰と代行の順序がわざわざいわなくとも決まっている。これは日本の組織の有機性という大きなすぐれた特徴であると思う。ただ、ソ連においては日本兵捕虜の軍組織命令系統を温存したのに対し、米国ではこれをかなり破壊した。この場合にはアナーキーとアパシーとが支配したようである。ソ連における日本人捕虜の場合も、ドイツ人医師の報告のような、モデル的な場合ばかりではなかったろう。

 そして、われわれの精神科においては、先の病棟医長を始め、大部分のスタッフは教授である私の意見に異議を唱え、指示に不適当であると答え、代案を提出することがいつでもできる人たちであった。私はまさにそのことをかねがねひそかに誇りに思っていた。

 しかしナースはもっと過酷な条件下にあった。そのうえ、彼女らは大学病院近辺に住居を構えていることが多く、このことは震災直後のナース出勤率が高かった一因であった。それは大学病院の機能継続にきわめて有利であった。しかし、被災ナースの多さの原因ともなった。家庭を持っている医師の住居の多くは、遠い住宅地にあった。このことは私をはじめ初期の医師の出勤率の低さの一因であった。ただ、初期の医療を担った医師たちの多くは若い医師で、彼らの下宿はナースと同じく大学近辺にあった。彼らも被災したが、被災ナースは百人を越えた。にもかかわらず、彼女らは勤務を優先させ、帰宅さえしなかった。彼女らの多くは家財を掘り出しにゆく時間さえなかった。既婚ナースの夫と子どもとはよくその負担に耐えた。われわれは雨の来る日の一日でも遅いことを願った。瀬戸内海の冬期雨量の少なさはわれわれに幸いした。

 医師とナースとをインフルエンザが見舞った。患者に蔓延したインフルエンザは不眠不休の医師・ナースに容易に伝染した。救急副部長がついに倒れた。精神科から救急部に出向していたH研修医によれば、3日不休で働き、おにぎり一つにありついたのは3日目だったという。総じてロジスティックス(兵站)という概念の欠如が目立った。このように飲まず食わずでも持ち場を放棄しない日本人の責任感にもたれかかって補給を軽視した50年前の日本軍の欠陥は形を変えて生き残っていた。

 最初の日の私の仕事はスタッフの安否と動員可能性を知ることであった。安全を告げるスタッフあるいは関係者の電話は次々と自宅に掛かってきた。私は電話機の側に座りづめとなった。電話機が鳴りづめで会話を一時中断して待たせ、割り込み電話の相手と話して、こちらと手短かに会話しおおせては、またもとの話に戻るということがしばしばであった。電話のピークは1月22日の日曜日であった。全世界に大きく報道されたためであろう、国際電話もあった。医局長と情報を交換しつつ、おおむね2日以内に「医局」全員の安否がほぼ把握された。三田(さんだ)保健所長に出ているK君が夫人と一児とともに亡くなっているのを新聞に発見した。最近引っ越した家で、赤子が残っているのに気づいて戻ろうとして梁の直撃を受けたという。一人の遺児が残された。肉親を亡くした人は他にもいた。避難所暮らしを始めた者もいた。精神科看護婦長の自宅は全壊し、母君は3時間生き埋め後に救出された。彼女は精神科婦長室に泊まり込んで指揮に当たった。他にも被災ナースとその家族を精神科病棟の2階に収容できた。後にそこは、多数の応援医師に「寝袋一つ持ってくれば泊まれる」場となる。

 地震と同時にいやおうなしに活動を始めたのは当直医、夜勤ナースであった。いきなり「状況」の中に投げ込まれ、倒れた家具の中から這い出し、開かない扉をこじあけて彼ら彼女らは待ったなしの救出医療に当った。もっとも不眠不休だったのは彼ら彼女らである。勤務交替制などはけしとんでいた。自分たちの外に人がいなかったのだから。彼ら彼女らの救った患者の数は多い(焼死患者はいないのである)。

●パート4
私は、整理された部屋が一つでもあることは心理的に重要であることを知った。次に私がしたことは、電話番であった。第三の仕事は、ルートマップの作成であった

1995年1月19日

 S病棟医長から「お迎えに上がります」との電話があった。彼は私の家の中のことなげなのをみて「夢かと思う」と言った。私の家に近い彼の自宅も内部はそうとう荒らされたのだという。大学における私の仕事の第一は医局の整理とそこの通信機能の回復であった。私は、整理された部屋が一つでもあることは心理的に重要であることを知った。翌日からF秘書が徒歩一時間の距離を通勤してくると連絡があったが、秘書は多くの書類を廃棄するべきかどうかに迷うはずであった。私は多くの陶器類とともに職権を以て、多数の散乱している書類を捨てた。床に放り出されていたマッキントッシュのコンピュータは後にすべて作動した。この頑丈さは敬服に値する。ファックスも、日付こそ狂って4月5日になっていたが、作動した。コピー機は一週間後、焦げる匂いが漂ったが、とにかく当面は動いた。二人の秘書は精神科病棟からかなり離れたこの「医局」で執務し、私は清明寮と外来棟の上の6階にある医局と同じく四階の「看護管理室」(ナースのC3I室)と県立精神保健センターとを往復した。清明寮と医局とは約200メートル離れていたが、精神保健センターも医局から300メートル、清明寮から400メートルの距離にあって、徒歩連絡が容易であった。

 次に私がしたことは、電話番であった。私は電話を掛けてくる患者の住所を聞き、最寄りの診療所、総合病院精神科を紹介して、電話番号と位置とを教え、私の名を告げて部長に紹介されたと言うように告げた。薬の残りの量を問い、コンピュータによって処方を教え、とっさの場合には現物をみせるようにと言った。長くこの大学病院にいる私は診療所の分布地理には比較的詳しかった。この日が患者からの電話のピークであった。不在の医師にかかってきた電話であっても、私は私の名と部長であることを告げ、「私で何かお役に立つことはありませんか」と言い添えた。おおむねは私で済むことであった。

 第三の仕事は、ルートマップの作成であった。一般に古く着任した人、地位の高くて収入の多い人は東部に住み、新しく赴任した人、中堅の人は多く垂水区、西区、北区に住んでいた。前者は被害をこうむり、出勤不能が多かった。西部からは勤務可能であるが少なくとも3時間を要するといわれていた。私の頭には西部地域の地理が叩き込まれており、思わぬ小路までを往診などで知っていた。移動を他の車輛に依存する私は、迷惑をかけないで短時間で私の家のある西部地域から大学まで到達するルート開拓が問題だと思った。そのようなルートの発見は職員の出勤率の向上と出勤の際の心身の消耗とを軽減すると思った。私はもともと地理が好きであった。私をナヴィゲーターとしてS病棟医長の車は一時間余で走りおえた。西部地域はほぼ南北に走る丘の稜線が東西の交通に普段も渋滞する難所をいくつか作っていた。これをいかに突破するか、破壊された道路をいかに避けるかであった。私は南北に流れる、さほど大きくない川の堤防道路とJRに沿った路との組み合わせを考えた。江戸時代の西国街道に密接して敷かれたJR線脇の道路は地盤もよく、被災地区でも山側と浜側の両側を巧みに交替すれば通過可能であった。また、焼け野原でもビルなどのランドマークがはっきりしていた。一般に江戸時代以来の西国街道沿いは道路がしっかりしていた。幕末開港の時代、西国街道の両側に小屋掛けし筵を敷いて商品を並べたのを始まりとする元町商店街は、戦後昭和24年の木造建築を表面だけ現代ふうにしたものであるが、舗道の煉瓦一つずれていなかった。その一ブロック南のビジネス街「栄町」筋の被害は甚大であるにもかかわらず。しかし、私が元町を見たのは10日後のことである。最初の日、被災地の悲惨に胸打たれつつも、私はいくつかの観察を行った。神戸は街路樹が人口当たり日本最大の街である。「県の木」クスノキを中央分離帯に両側にはクスノキの他にスズカケ、タイワンカエデ、イチョウ、マロニエ、中にはネム、コブシ、アメリカハナミズキなどの落葉樹を植え、さらに灌木の植込みをその下に茂らせた道路が多い。樹の倒壊は実に一本も目撃していない。落葉樹も今は冬木であるにもかかわらず、幹さえ焦げていなかった。クスノキの樹冠の表面があぶられたようになっているのを一、二見ただけであり、それよりも著しいことは、そこで火が止まっていることであった。公園や広い道路ができない場合でも樹影の濃い並木は防火帯になるな、と私は思った。神戸の街路樹は東京をはじめ、他都市にくらべて樹高が非常に大きく、樹容が自然に近くて、スズカケ、クスノキは道路全体の上をおおっている。剪定は樹形を整える程度に留め、しばしば、4階5階の高さに達している。スズカケは晩秋、クスノキは初夏の5月におびただしい落ち葉を沿道の屋根に降らすが、市民はさほどの苦情をいわず、一度、あまりに大きくなった平野(ひらの)から東に向かう1キロのスズカケの大剪定を行った程度である。ここはさしかわす枝が編み目のように覆って道路から空がみえなかったところである。

 この時、冬の神戸は晴れて、山なみは青く、海は鏡のように輝いていた。近くにみえる山と海とは私に大きな精神的な安定感を与えた。被災者にもおそらくそうだったのではないか。町は焼けてもなつかしい稜線は不変であった。背後に迫る山には市のマークと錨のマークとが夜は電飾されていた。このマークはかなり早くから点灯されていた。それだけでなく、最大幅がわずか4キロといわれ、東西に長い街の南北の交通は徒歩で逃走可能であった。神戸市という一次元都市は実に海と山という広大な防火帯を両側に持っているようなものであった。圧倒的に圧死者であって、焼死者は一割であり、そのまた多くが家屋から脱出できなかった人であったのは、このためもあったにちがいない。市民は徒歩でゆく道を少なくとも南北に関しては「足」で覚えていた。

 警察の規制には遭わなかった。初期の渋滞は脱出者の車でなく、事態を軽くみた者の出勤車によると思う。被災した都市への流入であって、災害シナリオにあるような避難民の車ではなかった。西の郊外に住んで、家屋の破壊を免れた人たちの車が目立った。情報がもっと早かったら多くは出勤を見合わせたと思う。遺憾なのはこの点であって、車ではない。彼らは住宅に入居して間もないので、周知の大きな道を通った。市外から流入する車を規制し、市内の車を自由に走らせる方針は正しかったと私は思う。道が整備しているところ、道に倒壊家屋が横たわっているところでは必ず迂回路が指示されていて、行き止りということはよほどの小路でなければなかった。交通警察の行動は評価されねばならない。彼らはまた柔軟であった。路肩駐車は多く黙認された。2月に入ってのことであるが、「ここは駐車禁止です。すみませんね」と私たちの車は言われて恐縮した。

 3日目である木曜日には渋滞はいくぶん楽になっていた。東京都民はしばしば信号7回で交差点を渡れるような渋滞に慣れている。神戸で渋滞といえば信号2回である。神戸人であるS病棟医長が「渋滞だ」とぼやく時にもとにかく車が流れていることが結構あった。神戸市民は渋滞に慣れていない。私は神戸人である病棟医長のいう「渋滞」を「東京では普通だのにな」と思った。私は、目印の地物を多く書き込んで、病棟医長と私との名をとったSNルート図をつくった。A3用紙二枚分のそれはコピーされて、まず看護部、ついで事務部に配付された。これは、ナースの疲労軽減と出勤率向上に多少貢献しただろう。しかし、情報は拡散するものであり、同じルートに気づく者も当然いる。ルートの威力も5日間ぐらいであった。しかし、これは貴重な5日間であった。

 東方ルートを書くことは不可能であった。灘区、東灘区、芦屋市、西宮市、宝塚市より成る東部被災地域は貧困層もいるが富裕地帯であり、芦屋市一市の所得税、固定資産税だけで九州一県に匹敵するといわれた。この地域も大きな邸宅に住む老人たちが被災したが、多くは第二の邸宅、子女の家に避難し、一部はホテル住いを始めていた。むろん被災者はおり、避難民はいたが、通過してきた者の言によると西部被災地域に比してほとんど無人の印象を与えたという(私自身はこの地域を実見する時間がなかった)。往診の経験が一、二回しかなかった。第一ほとんど枝道がない。徹底的に破壊された無人の街の中をリュックを背負い、医師が大阪、奈良方面の家族避難先から出勤してきた。彼らは船を使い、長距離を数時間歩いた。直前に完成していた関西空港は、京都、大阪から一旦空港用のJRあるいは南海電鉄の特急電車を使って、関西空港から神戸の中心へのジェット水中翼船の利用を可能にした。同じ船が大阪港からも出た。阪神甲子園から西宮今津港に至り、そこから神戸メリケン波止場までの高速艇ルートは空いていて、結局これがスタッフの「おすすめ」となった。二人の秘書は時刻表を調査し、各部局にコピーを配付した。阪神電鉄はかねて「タイガース・ファン」に鍛えられて短期大量輸送のノウハウを持っており、それが遺憾なく発揮された。

 この時になると、私の仕事は隙間を埋めること、盲点に気づくことと、とにかく連絡の付くところにいることとなった。いわば、私は一人で「隙間産業」を営んだ。教授である私にはこういう場合に細々と規定された義務がなかった。私は教授の「自由裁量権」というものを初めて味わった。

 まず、私は看護部を訪問した。私は看護管理室首脳部の孤独を理解していた。S看護部長は被災していなかったが妹君の介護を背負って、いまインフルエンザであった。Y副部長は家を失って病院に泊まり込んでいた。T副部長なども被災していた。彼女らを物心両面で援助することが次の私の仕事であった。

●パート5
ボランティアがいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる。孤立していれば、漂流ボートの食料や孤立した小部隊の弾薬と同じく、自分のスタミナをどのように配分し「食い延ばし」たらいいかわからない。3人しかいなければ3人でできることが頭に浮ぶし、7人なら7人でできることがというふうに

1995年1月20─22日

 1995年1月20、21、22日と私は自宅で電話の応接に当たった。電話は文字通り切れる間がなかった。安否の問い合わせと、ボランティアの申し出とが主であった。この時点では、私にはまだボランティアというものがわかっていなかった。私が看護部との連絡という、一種のボランティア活動をしたことが従来の私のありふれた「ボランティア」観を改めさせる契機になった。以下時間を追って述べる。

 看護部はもっとも遠いところでは旭川からの援助を得て、出勤不能ナースの欠陥を埋めていた。ナース業務の普遍性は医師に比べて優れていた。一般科医師が大学にボランティアを受け入れなかった理由の一つは術式や規格が違うことであった。もっとも、接待に遺漏があって不快な思いをしていただいてはこの大学の名誉にかかわるという人もいた。また実際そういう待遇を要求した人もなかったわけではない。

 精神科は、明石にある県立看護大学の教官である精神科職員ナースの応援を得ていた。この大学で「精神健康学U」(精神医学)を講義する私には顔見知りの、親しい若い聖路加看護大出身者であった。しかし、これは1月23日を以て、この大学の敏速な授業再開のために引き揚げられた。8日目に再開したのは明石市という被害軽微被災地非指定の地域にあったとはいえ、大学授業再開の先頭である。ちなみに神戸大学医学部は3月末までの授業を打ち切り、4月3日より再開し、夏期休暇を3週間とすることに決定した。ただし臨床実習は2月13日より開始することとなった。

 看護部首脳らの要請の第一は、精神科以外の病棟に収容されている被災患者の精神状態を精神科医によって判定してほしいということであった。まもなく保護されたとはいえ、家屋倒壊患者一名の前晩の失踪は、彼女らに一夜の不眠を強いていた。私は発想の豊かなI助手に全被災患者のサーヴェイを依頼した。彼は19ある一般病棟の被災患者130余名の精神医学的評価を3時間で完了し、私と看護部とに報告書を提出した。その時点で常時介護必要一名、定時巡回必要数名、他はひとまず問題ないだろう、であった。第一類の一名を精神科病棟に移した。しかし、身体損傷の軽症化とともに、家族の死、家屋の崩壊を知らされていた患者、軽症化の時点で知らされた患者の精神医学的問題が顕在化することも考えられた。私は全病棟の精神科医による看護詰所巡回(御用聞き)を毎日実施することを約したが、人員の不足から定時には行えなかった。しかし、東京の聖路加看護大学大学院出身の「リエゾン・ナース」Iさん、Sさんの来援があった。彼女らの被災患者への対応はさすがプロとして皆の称賛を誘った。

 看護部の次の希望は被災ナース全員の面接であった。希望者というだけではナース社会では面接を受けないだろうというのである。他方、全員に強制すれば、研究のためという誤解を招きかねない。私がボランティア導入を決意したのはこの時点である。大学としてはボランティアを断るという決定を下していたので、これは神戸大学精神科とその大学の精神科との「災害精神医学共同研究」という形で私の責任において行うこととした。看護部も似た形式を取ったと思う。被災ナース面接は職場での同僚ではない九州大学からの来援精神科医二名に依頼し、神戸大学精神科医師には記録に接することを禁じた。これがボランティア第一号であった。

 26日午後1時、松尾正医局長に私は電話で来援を要請した。九州大学と神戸大学とはかねて共同勉強会をした仲であった。個人的交友もあった。さらに田代信維教授はただちに「全力を以て応援せよ」といわれた。

 このツルの一声を待って二名の精神科医が早くも午後9時半に寝袋を背負って博多から清明寮に到達し、ただちにC3I室に入った。私は、箱庭と地図とを使ってまず神戸の地理を頭に叩き込ませてもらった。箱庭による地形説明は人によく理解された。

 次いで、私がかつて勤めた都下青木病院の二名と都立墨東病院の一名が翌日遅くに来た。東から来た者のうち二名は神戸大学精神科出身、一名はかつての私の同僚であった。結局、個人的人脈による応援である。九州大学は、こちらの必要としなくなるまで、費用一切持ちで応援を継続すると言明してくれた。「引き揚げる」と宣言されるとうなずく他はない被援助側にとって、この明言は特に貴重であった。そこで次からはボランティアの申し出に、私は、引き揚げる時、そちらで次の部隊を探して引き継いでくれるとありがたいと言った。東京からは6つの大学精神科が手を上げてくれたが、一度に来られるのは得策でなく、また、調整を私が行うのは、すでに電話に一日中張りついている私には過重な負担であった。そちらで調整してくれるとありがたいと私は言った。(帝京大学の広瀬教授はただちに準備に着手し、調整とは別個に二名の派遣を決定された。他は東京大学松下正明教授が座長となり、目下調整中であって、2月20日に一名調査に神戸大を訪問するという。精神神経学会理事会では大阪医大の堺教授が代表として来訪されたが私は不在であった。)

 一般にボランティアの申し出に対して「存在してくれること」「その場にいてくれること」がボランティアの第一の意義であると私は言いつづけた。私たちだって、しょっちゅう動きまわっているわけでなく、待機していることが多い。待機しているのを「せっかく来たのにぶらぶらしている(させられている)」と不満に思われるのはお門違いである。予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる。われわれが孤立していれば、漂流ボートの食料や孤立した小部隊の弾薬と同じく、自分のスタミナ(この時期には資材はいちおう順調に届いていた)をどのように配分し「食い延ばし」たらいいかわからない。そして、われわれの頭はやはり動員可能な人員をベースにした発想しかできないようになっている。3人しかいなければ3人でできることが頭に浮ぶし、7人なら7人でできることがというふうに(われわれの精神医学教育はリアリズムを基礎とし、実現不可能な願望思考をしないように訓練してきたものであった)。人が増えればそれだけ分、あたかも高地に移ったかのように見えてくる問題の水平線が広大となる。新しく問題が見えてくる。新しい問題が発生した時にも対応できるようになる。そして実際、日々、問題は新しくなる。これは事態の変化によるものでもあると同時に、われわれが発生する問題をとにもかくにも解決して行っている場合に特にそうなるのである。

 「ボランティアが問題を掘り起こしたままでわれわれにゆだねて帰るのは困る」と私は言った。たとえばその後有名になってしまった「心的外傷後ストレス症候群」(PTSD)の事例を引き受けたならば、最後は電話ででもいいから、一年は継続してかかわる覚悟でいてほしいと私は言った。

 先に述べたように東京からは6つの大学が手を挙げてくれたが、この相互の調整は現地では不可能であった。私は二つの電話にかかりきりであり、割り込みのできない大学の電話ではしばしば二つの電話を交互に聞くことがあった。ファックスで送られるレターへの返事も大仕事であり、「現状を知らせよ」というファックスには6ページの同文の現状報告と東京方面からの接近法と高速ボートの時間表を送付して、手を挙げてくれている大学のリストを付し、それら大学相互間で調整してくれるように返事した(執筆時現在、長崎大学と帝京大学のボランティアがはいっている。短期間のボランティアは別としてである)。

 私は「ありがたいとは思っているが、恩恵を乞うのではない。次の震災のシミュレーションを天が行ったと思っていただき、来るべき御地の災害に御地の大学がよりよく対応できるようにと考えながらやってほしい」とも言った。

 逆に私は、東京が、名古屋が、災害に見舞われたらどのように応援すべきかのシミュレーションを、移動中に考えることが多かった。

 ボランティアに対して私は「寝袋一つでくればよい」と言った。新しい精神科病棟は他に比すれば自己完結的な能力を持っていた。一般病棟の一階分ではこうはいかなかったであろう。日本の大学精神科病棟の多くが、建て直しの時期に来ている今、日本全国が災害地候補であるからには、精神科病棟は災害精神医学活動の基地能力を持っている必要があることを強調したい。

 来る途中、神戸の地図を頭にたたき込み、神戸について書いた本を何でもいいから読んできてくれることも重要である。聞きなれぬ地名が次々に耳に飛び込んでくるはずだからである。これは九大チームの経験からである。

 すでに記したように、大学病院の最初の三日は修羅場であった。第一日の緊急患者は推定450人。整形外科は患者の七割を診た。骨折患者である。整形外科と精神科とは研究室や医局の整理を後回しにして全力を投入した。しかし、3日が経過した後、各科は次第にその任務を終了しつつあった。最初の3日は外科が主役であった。次は内科であった。筋肉の挫傷によって筋肉成分が腎臓をつまらせる「挫滅症候群」が始まった。同時に一週間目の後半は胃カメラの消毒が問題となった。ストレスによる消化器出血である。蜘蛛膜下出血もあり、心筋梗塞もあったと聞く。

 精神科においては、最初は興奮、昏迷、錯乱患者であった。初発患者も再燃患者もあった。精神科以外の被災患者の10パーセント近くが精神科受診歴のあることを自己申告していた。彼らが逃げるのが器用でなかったのか、被災地帯が精神科患者にとって住みやすい地域であったためか、その両者かである。

 加害患者が一人もいなかったことは精神科患者の名誉のためにぜひ言っておかねばならない。それどころか、主治医の多忙を思いやって電話をかけることさえためらうのが特に統合失調症患者であった。

 実際、兵庫・長田地域は、独り身の老人、外国人あるいは障害者に部屋を拒むことのほとんどない地域であった。私どもの韓国籍のスタッフの証言である。医師、医学生という地位のあるせいも多少はあるだろうが、それでも他都市では自分なり友人医師なりに拒否経験があるというのである。また私の往診先の患者の部屋は確かに鼠が走っていそうであったが、家賃は1万2000円であった。受ける側には不満もあろうが、全国的にみて福祉の厚いところでもある。この焼失は、都市計画者には地域をビューティフルな街に一新する絶好の機会であろう。彼らのための住宅を辺地に置こうという声が聞こえなくもない。しかし神戸のホームレスは市民との間に暗黙の交感がある。働かない者を排除する気風はない。かつてある盛り場の「ホームレスを取り締まれ」という投書に対して「そういう人が少しはおられるのが街というものではないでしょうか」という市側の返事を新聞か広報で読んで感嘆したことがある。10年前のことであるが、このスピリットが行政に今も生きていてほしい。ホームレスの人は避難所の焚き出しには現れているかもしれないが、断固彼らの生活習慣を守っている。避難所には行かないのである。彼らの囲みは頑丈になった。損壊オートバイ数台を外壁とする囲みをもみた。しかし、彼らは宝くじ売り場、神社の外壁のたぐいに囲みを作り、個人商店の前などには決して作っていない(元町から神戸駅周辺の見聞)。

 さて消化器出血などの心身症患者の次には、一週間目前後から家屋全壊被災者の一家心中があった。保健所ルートからの通報を私が受けた。すぐに4人の精神科医が救急外来に駆けつけ、外科処置の後に全員を清明寮に収容できた。3日目には彼らに表情が戻ってきた。外傷のひどい自殺未遂患者で外科へと精神科医が往診する例もあった。

 行政当局が外部の応援を断ったのには接待や宿泊の世話が大変だという本音があった。日本人はかねがね「援助下手」であったが「援助され下手」でもあった。最初の一週間の後、現地の精神科には疲労の色が濃かった。多くの外部の精神科医はさまざまなルートをたどって実情を把握し、自主的に近い形で援助を開始した。来援の精神科医は神戸の地理に疎く、災害や避難所の惨状に茫然とすることもあり、被災地を見学したい気持ちもあったろう。現地の職員は被災地を見にゆく余裕などなかった。多少ともPTSDの症状を呈していた現地の職員は来援者には奇異に映っただろう。「彼らには帰るところがある」という感情が来援のヘリコプターを見送る側に働いたこともあった。しかし、このような齟齬は時とともに解消し、自然発生的なコーディネート・システムによってすべてが円滑となった。

 内実のあることをなしえた人たちは本来の意味でのボランティアのみであった。「志願兵」というその元来の意味では私も含めて神戸の精神科医たちは所属を問わず志願兵すなわちボランティアであった。彼らは「志願兵」らしくふだんにはない即興能力(インプロヴィゼーション)を発揮する者が多かった。

 大学病院の外来は、最初、全科を診る立場を取った。実際には各科の専門医が診ることが多かったが──。研究室の活動が停止しているために「こんなにわが大学には医者がいたか」とびっくりする者もいた。ついで、各科外来を、主治医制なしに再開し、交通の回復とともに主治医制に移行しつつあるという順であった。3日以内にコンピュータ・システムはほぼ完全に回復した。コンピュータは頑丈なものだと改めて感心した。過去の予約を実行することはできなかったが、新規の予約が可能となった。

 最初の5日間、病院の中央業務がどうなっていたか、私は知らない。おそらく、出勤できる職員だけでできることをやったのは、われわれと変わらないだろう。1月22日になって私の家に連絡があり、23日に会議があるので出席せよとのことであった。

●パート6
私は行き帰りの他は街も見ず、避難所も見ていない。酸鼻な光景を見ることは、指揮に当たる者の判断を情緒的にする。私がそうならない自信はなかった。動かされやすい私を自覚していた。

1995年1月23日

 会議は、朝6時に自宅を出たという病院長が到着しないため、救急部長I助教授が議長を務めて始まった。助教授が出席可能な教授多数を含む会議を主催したのは、私の大学医師生活でも初めてであった。全身になお硝煙を漂わせているという表現がぴったりのI救急部長の報告はわれわれを圧倒した。精神科からの救援に感謝されたことは、いささか面はゆいが、うれしかった。輸血部、中央検査部、中央手術部、中央材料部などの、ふだんは地味な、縁の下の力持ちの長が次々に現状を報告した。授業停止中の学生がボランティアをつとめて、患者の担送に当たったと聞いた。一年生にとっては強烈な体験であったろう。

 臨床教授は附属病院の各科の部長を兼任していた。拙速であっても診療を全面再開するか、大学病院にふさわしい条件を整備してから再開するか、大きく分ければ議論は二つに割れた。拙速派は昭和一桁あるいは二桁の初めに多かった。私もその一人であった。より若い世代は慎重派に属することが多かった。MRI(核磁気共鳴による断層図像撮影装置)の再開を条件にする科もあった。その科としては無理ないのであるが、MRIの磁気から外部を保護する40トンの鉄は位置がずれていて、とうてい患者をその内部に入れられるものでないことがやがてわかった。麻酔科は液体酸素タンクから酸素を手術室まで運ぶパイプの漏洩がないことを条件にした。手術中の漏洩が患者の死に繋がりかねないことはわれわれにも理解できた。

 この問題を解決したのは、神戸中央市民病院が19日に再開宣言をしたことであった。5階の圧壊で有名になった西市民病院も外来を再開した(あの階の人たち46名は一人を除いて全員救い出された。鉄製ベッドに寝ていたことがよかったのである。立って廊下にいた一人だけが即死した)。これに対するライバル意識が早期再開に決する契機になったといって当らずとも遠からずだろう。実際には、入院は継続しており、外来も、先に述べたように最初は全科を内科外来室に集中させての緊急外来、ついで主治医に必ずしも当たらないが外来へと進んでいて、大学病院の治療がまったく途切れたことは一度もなかった。

 私が改めて感じたのは、われわれの医学が、ガス、水道、電気の存在を空気のように前提としていたことであった。かつて、冗談まじりに「医師国家試験には電気のない条件でかくかくの疾病を治療せよといった問題を出すべきだ」と言ったことがある(もっとも、日本医師のそのような条件下での行動力は十年前に比べてかなり向上していると私は思う)。それだけでなく、われわれが運営していたのはコンピュータ化された医学であった。中央化・自動化したカルテ室は崩壊しなかったが、恒温に保つ装置が停電のため作動しなかった。自動化されたカルテは隙間なく集積されていた。手動でカルテを取り出すことになれば棚が崩壊していなくてもおそらく困難であったろう。

 多くの研究データのフロッピー・ディスクは失われた。身元のわからなくなった実験動物は安楽死させることになった。装置は破壊されたが、さいわい実験室火災は起こらなかった。

 実験室の再開は急ピッチであった。「トントンと再建の槌音」という戦時中の新聞表現が思い出された。一般に何の整理を優先させるかにその科の哲学が現れていた。

 全時期をつうじて、860余名の入院患者の診療は継続されていた。精神科以外の患者と職員は断水によるスティーム暖房の停止のために寒気に耐えなければならなかった。援助の毛布の分配をめぐっての議論もあった。倒壊しないとされたものの、縦横にヒビのはいった建物は患者に不安を与え、患者が「医師」といつわって消防署に検査を依頼し、署員が安心させる一幕もあった。建設会社はそれぞれが建てた部分に社員を派遣した。

 精神科病棟はまったく平常どおりに空調されており、患者の中には地震をそれほどのものと思えず、買い物や散歩や喫茶店に行くといって、外はとてもそういうことができるところでないと説得して渋々やめてもらうこともあった。私は庭に建てたヨットのマストに万国信号旗を掲げた。ほんとうのヨットの中古マストを寄付してもらったものである。旗は、一般科の病棟の窓からよく見え、ナースから「気持ちが明るくなる」とのお褒めをいただいた。患者にとってもそうであってほしいと思った。パイプやチューブがむきだしのコンクリート壁を一目眺めているのが、一般科の患者たちだからである。「精神科においては病棟は最大そしてほとんど唯一の治療用具である」とわれわれは考えていた。

 患者の動揺はなかった。いや、神戸全体に患者がどうのこうのということは一切なかった。人に迷惑な行為もなかった。時に「奇異」とされる行動のために注意を惹くことはあったが、おとなしすぎるために色々なことで後まわしになってしまう傾向があったと避難所を廻る医師は語った(これは決して周囲の作為的な差別ではない。この街が私の過した他のいかなる街よりも奇人に寛容であるとは私の体験である)。これは損なわれがちな精神科患者の名誉のためにぜひ言っておかなければならない。彼らは一切の暖房とプライヴァシーのない体育館や講堂の避難所で零度の寒さに耐えた。かつての精神病院について、私は、患者だからこそこの過密に耐えられるのであって、患者でなければ修羅場になるであろうと書いたが、そのとおり、多くの患者は困苦欠乏と過密とに耐えた。薬物の服用も進んでいった。後には避難所から通院した。

 大阪の病者と名乗る方から「患者の薬はどうしているか」との質問があった。「(一)電話での問い合せには最寄りの精神科医を紹介して処方を伝達し、(二)一週間以内に来院された方をコンピュータで拾い出し、(三)一週間以内に来院されなかった方全員に紹介状と最寄りの診療所(できうれば複数)を紹介し、公共交通機関で通える精神科診療所のない場合には私の責任で薬物を郵送した」と答えるとたいへん安心したとの返答が返ってきた。精神科の病者の薬物の意義と有用性への理解が変わってきたと私は感じている。それだけ私たちの責任は大きいのであるが──。

 むしろ気の毒なのは、精神科のシステムに乗らない慢性内科疾患患者であった。高齢の糖尿病患者、高血圧患者が避難所にいつづけた。ある時期までは救急段階にならないと入院させてもらえなかった彼らは、精神科患者よりも恵まれていなかった。数十万の避難民の医療ということは誰も想像していなかった事態である。一般科のシステムについては私は知らない。しかし、80代、90代の老人が避難所で息を引き取る例を一人ならず耳にした。戦時中、老人と小児は真先に栄養失調で死んでいったことが思い合わされた。しかし、梅雨や台風の季節よりも冬のほうがましな点もあった。インフルエンザから肺炎になった患者は大学病院に入院してきたが、夏ならば消化器系の伝染病が猛威をふるったろう。とくに6月と9月である。

 私は行き帰りの他は街も見ず、避難所も見ていない。酸鼻な光景を見ることは、指揮に当たる者の判断を情緒的にする。私がそうならない自信はなかった。動かされやすい私を自覚していた。県立精神保健センターにあって、私と同じ任務についていたA君も、やはり見ていないと言った。最初にJR線が西から神戸市内に入った時、車内にあった私が見たのは、須磨から次第に無残となりゆく光景に、乗客が息をのむ姿であった。長田の菅原市場を頂点とする焼け跡に車窓から涙ぐむ人も一人二人でなかった。しかし、さらに悲惨なのは灘区、東灘区であると、徒歩で通勤してきた医師は言った。

 多くの精神科医はPTSDについて語っている。しかし、われわれの関係者の私への報告によれば、避難所のようにむきだしに生存が問題である時にはこれは顕在化しない。おそらく仮設住宅に移住した後に起こるのであろう。

 相対的にいえば、時とともに貧富の差が次第にその顔を見せはじめた。第一日にはひとしなみに運動場の避難民であった被災者も、豊かな人、遠くに親戚のある人、大企業に勤めて寮や社宅に入れる人から、櫛の歯を引くように避難所を去っていった。

 東部の高級住宅地をカバーしている総合病院・西宮渡辺病院精神科のS医師によれば、周囲が倒壊し、死者を出している中で一軒だけ無事であった家の人が「済まない」という気持ちから抑うつ反応になっているという、理解しうる例がある。この病院に入院していたために助かって、一家が死亡している例の反応はさらに深いものがあるという。

 ひょっとすると、全国いや海外からも殺到する見舞いの電話、手紙、小包の中には、この不条理な無事に対する「済まない」という感情が込められているのかもしれない。少なくとも不条理な有事を共有shareする行為である。国内の義援金が「ワン・ビリオン・ダラー」(10億ドル)と聞いた県立看護大学のアンダーウッド教授は「リアリー?」と眼をむかれた。それに呼応するかのように、郵政の末端は非常な努力で震災の翌々日には私の家にも配達を実施してくれた。特定郵便局の老局長さんみずからのバイク姿の御出馬であった。普通ハガキで4日から7日、速達はずっと早かった。郵便小包も次々に配達された。私も、20年前に診てなお入院中の方から1万円、10年前に一度相談に乗った方から多量の鉱泉水などを頂いて驚いた。他にもかつての患者さんからの物資、見舞い、手紙がもっとも多かった。しかも年賀状を欠礼してしまった前任地、前々任地からの御贈り物もあった。これらの意義をさとって配達された郵政省の職員に敬意を表したい。

 地震当日が私どもの地区の荒ゴミ収集日であった。さすがに当日は清掃局の収集車が来なかったが二日遅れできちんと収集され、次回からは定時に収集が行われた。驚くべきことである。「このような時期に荒ゴミを捨てるとは」と東京あたりからお叱りを受けそうであるが、それほど、私のあたりは被害が少なかった。不条理な話であるが、ふだんは意識しない地盤と家屋構造と破断の走り方とによって明暗は大きく分れたのである。

 精神科の病いにおいては、一般に早く症状が始まり、派手であるほど治療によって早く軽快する傾向がある。初期にはヘリコプターに対する反応が目立った。その轟音、巻き上げる砂塵、風圧、のしかかる巨体、さらに見られている、あられもない姿を撮影されているという感覚。ヘリコプターが集中してゆくところには何か不吉なことが起きているのではないかという推察。地上の苦悩を知らぬげに飛び回るマスコミのヘリコプターの姿は憎悪の対象になった。もっともテレビ取材班の中には、避難所の内部に入っての撮影はとうてい忍びないという人もいた。ヘリなら撮れるというのである。例外もあろうがマスコミ関係の方々の取材はこれまでほど横柄でなかった。若い記者たちは被災地を被う「共同体感情」とでもいうべきものに巻き込まれ、気づかぬうちにボランティアになって精神科医の苦手とする校長先生のよい聴き手となってくれたことは特筆すべきであろう。

 廊下ですれ違う医師やナースは「せんせいところはこれからですね」と声を掛けてくれる。一般医にも精神科に対してそういう認識はあるのである。

 他の科の医師の精神科医の仕方への理解はこの10年の間にずいぶん進んだ。そのことをはしなくも認識したのが今回の大震災であった。他地方は知らないが神戸大学の関連総合病院の大多数はこの10余年間に院長先生の理解の下に精神科を次々と開設してきた。そのことの成果である。数年前、院長先生たちの集まりで「精神科って置いてみるといいものですよ」という会話を耳にして胸が熱くなったことを思い出す。

 今回の震災対策について色々取沙汰されていると聞く。ほとんどテレビをみる機会なく、新聞もくわしく読めてはいないが、いちばんの遺憾は生き埋めになった方々の救出である。光風病院のY院長も「一人を掘り出した」と語っているが、自らも被災者である市民の手での救出が少なくなかった。一人ではあるが4日後に凍死・餓死状態で発見された遺体があった。海外ではスイス、フランス、アメリカ、国内では富山に救助犬を駆使する部隊がいただけに、残念でならない。通訳がいないなどは問題でない。渺(びょう)たる神戸大学精神科でさえ英独仏西中韓はもちろんウルドゥー語ですら何とかなる。災害においては柔かい頭はますます柔かく、硬い頭はますます硬くなることが一般法則なのであろう。心身の余裕のない状態においてそうなることは容易に理解されることである。

 いろいろの議論はあろうが自衛隊の早期出動は1995年1月17日現在において生き埋め者の救出を大きくはかどらせたろう。米軍基地がなく、自衛隊もめだたないこの地域の感覚は他と少し違うだろうが、軍旗、日章旗を翻えし、軍靴を轟かせ、ラッパを吹き、カラカラという97式軽戦車のキャタピラの音までが何かと騒々しかった旧陸軍とまったく対照的な印象を与えた。暗い小道にひっそりと停まっているジープはたいへん安心感を与えた。

 「無原則的な関西人」といわれるかもしれぬが、多くの人が輸送艦の名を冠した仮設浴場に通い、黙々と汚れ仕事を遂行する隊員に好感を持った。車輛に日の丸がついていないのがむしろ意外であった。

●パート7
突然、避難民をあずかる羽目になった校長先生と教員たちの精神衛生はわれわれの盲点であった。校長先生たちは災害においてこのような役割を担おうとは夢にも思っておられなかったはずである。

当面の問題

 今、授業は再開に向かって進み、官僚システムは起動しはじめた。この二週間余り、われわれは多忙ではあったが、雑多な書類仕事からはまぬかれていた。到達不能な拘置所から精神鑑定人が予定どおり午前中に到達しないと困るという現実を離れたお叱りもあった。全員の現在居住地を調査しおわらなければ職員バスを運行できないという無理な話もあった。しかし、そういうことは笑い話にできるほど稀であった。今や被害調査、自宅損壊調査、協力者名薄作成などが押し寄せてきた。授業の準備も再開しなければならなくなった。大学ボランティアも人事異動の季節に入って3月には別途考えさせてくれというところも出てきた。病院は30日限りで正常化宣言を行い、食料も来なくなった。災害精神医学活動は不意に「余業」に変わった。ふり返ってみれば、われわれは二週間、貨幣経済から遊離した状態にいた。食料が来なくなることは交替で食事にゆかねばならず、戦闘を継続している精神科には定員減の意味合いがある。物も時間に換算できるのである。土居健郎先生から頂いた見舞いの5万円がさっそくインスタント食品に化けた。しばらくの間は、精神科だけでなく、各科の医局から鍋物の匂いが漂った。「現地自活」をせざるを得ないのは、近くの食堂がまだ開いていないからでもあるが、交替で食事に立つ間、重症患者の診療は手うすになる。精神科病棟は採算を度外視して職員用にジュース、缶コーヒーなどの自動販売機を設置してもらっており、これだけでもふだんの当直医の常駐性を高めていた。

 私個人は外来診療を中止した。それは個々の患者の問題に入ってしまうと全体がみえなくなるということが一般にあり、かりに外来診療を行おうとしても殺到する電話、ファックスに呼び出されて落ち着いて診療できないからでもあった。しかし授業再開となれば、教育診療(いわゆるポリクリ)はしないわけにゆかなくなる。

 心理的問題については、私の視野の幅は、まず、他科の入院患者から被災ナースに広がった。おおよそ24日ぐらいからである。私は頻繁に看護管理室に顔を出し、被災ナースの九州大学精神科による面接から、ボランティア一級建築士(実をいうと娘の恩師)による家屋安全度診断(27日、5件)、次に家屋倒壊ナースに対する不動産サービスを医局秘書によって行った。婦長クラス、副部長クラスは病院にずっと泊り込んでいるために、一時間を争う賃貸アパート獲得レースに参加さえできない人があったからである。ケースワークを行う精神科はこのような業務に慣れていた(一医師への賃貸仲介サービスを行った「東急リバブル」が手数料を取らなかったことを明記しておく)。

 私はA医局長の支持の下に、そろそろ消耗のめだつときく精神科診療所の医師たちを歴訪しようと試みた。最初に、24時間診療を始めた小林和さんに注射器を届けるために彼女の診療所に行った。私たちは涙もろくなっていた。いつもより早口で甲高い声になっていた。第三者からみれば躁状態にみえたかもしれないが、実際には、自己激励によるエキサイトメントであったと思う。万一「空しい」と感じてしまえばそれこそコトだと私は思った。

 私たちは次に長田保健所の精神科救護所を訪問したが、ちょうど帰ろうとする一行に出会った。私たちは写真をとられ、お弁当をもらった。かすかに何かがピークを越しつつある感じがあった。私はこの訪問をつづけるようにすすめられた。ちょうど両陛下がまわられた直後であった。私はIさんの診療所に顔を出したが、先生は「ちょっとひとりになりにゆく」と外出されたところであった。彼は必死で自分の精神健康を守ろうとしていた。そのうちにわれわれ自身のスタッフの精神健康へのケースワークが必要になって、このせっかくの試みは中断した。

 一般職員へのワークはまだであり、われわれのスタッフ自身へのワークはさらにまだである。事務職員への精神科医による直接のアプローチは大学内でもむつかしく、ナースの指導部に仲介を依頼した。2月6日、加賀乙彦氏は一ボランティアとして大学精神科に来られた。氏は私の要請に応えて多量の花を背負い子にかついでやってこられた。黄色を主体とするチューリップなどの花々は19箇所の一般科ナース・ステーション前に漏れなくくばられ、患者にもナースにも好評であった。暖房のない病棟を物理的にあたためることは誰にもできない相談である。花は心理的にあたためる工夫の一つであった。

 突然、避難民をあずかる羽目になった校長先生と教員たちの精神衛生はわれわれの盲点であった。校長先生たちはある意味ではもっとも孤立無援である。避難民には突き上げられ、市にはいっさいの人員援助を断られ、そして授業再開への圧力がある。災害精神医学というものを曲りなりにも知っていた精神科医とちがって、校長先生たちは災害においてこのような役割を担おうとは夢にも思っておられなかったはずである。そして、精神科医に対して偏見がある方も少なくなかった。精神科医にも校長先生や学校に対して偏見があるであろう。精神科医たちが一堂に会した時、いかにいじめられっ子出身者が多かったかに驚いたことがある。いじめられっ子は先生に絶望した体験を持っているものだ。私は今、精神科関係の挨拶回りがいちばんの仕事として要請されている。やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知acknowledgeされ評価appreciateされる必要があるのだ。しかし、校長先生には精神科教授など迷惑な存在の親玉にしかみられまい。私はマスコミ関係者ごとに、先生がたの話の聞き役になっていただきたいと頼んでいる。大学のC3I室で校長先生への不満が噴出したことがあった。私には、ある女性医師がなぜひとりうつむいているかがすぐにわかった。父君が校長先生なのである。作家の加賀氏に真先にしていただいたのが校長先生の訪問である。初日に5人の校長先生に会われた。避難所をもまわられた氏の万歩計は2月7日の一日で3万1000歩をこえた。

 看護管理室に居合わせたナースたちは加賀さんに会いたいと5、6人が用を作って現れた。一人が色紙をさし出した。私は、これは「ミーハー」的行為ではないと思った。皆、加賀さんの花のことを知っていた(「花」が大事だという発想は皇后陛下と福井県の一精神科医とがそれぞれ独立にいだかれたものという。「花がいちばん喜ばれる」ということを私は土居先生からの電話で知った)。

 私は居合わせないナースのために、加賀氏に、「希望するナースには色紙を書いて下さい。皆いっしょに働いたのですから」と申し上げ、氏は快諾された。全病棟に通知が出された。私は自室のうず高い廃物の山から無きずな携帯用筆硯を掘り出すことができた。百枚に近い希望があった。氏は結局東京からたくさんの色紙を送ってこられた。

 弱音を吐けない立場の人間は後で障害が出るという。私も気をつけなければなるまい。私はどちらかといえばアイデア型であり、その常として一般に不安定であり、私はそれに属する。常識豊かでいつもユーモアと軽みを絶やさないS病棟医長とはよいコンビであった。アンテナの繊細なA医局長は、二つの基地の間の調整を行い、ボランティアたちを「調律」し、自身、もっとも困難な患者の治療に当たっていた。その他、私は私のスタッフを誇りに思っている。彼らが私を支えてくれた。いっぽう、彼らはボランティアと語ることで大いに救われたという。全国の精神科医が系列を越えて、同じ目標、同じフィールドで働くことは、願って与えられる経験ではない。沖縄の精神医療の特徴は学閥のないことだといわれる。私たちは石垣島の県立八重山病院精神科を担当してきた10年余の経験を通じてその事実であることを知っていた。それには青天井の下に立つようなさわやかさがあった。それが一時的にせよ、神戸でも実現した。神戸のスタッフは、医学部の多い東京などに比べて、交流や競争の機会が少ない。センスのいい精神科医ってほうぼうにいるのだなあ、とスタッフは改めて眼を開かれた思いであるという。

 一躍有名になったPTSDであるが、その全貌を現すのは今後であろう。むしろ、周辺部、富裕地域のほうが多かろう。一市にして九州一県の税収を凌ぐといわれる阪神間の富裕都市は、精神科的には過疎地帯である。彼らに精神医学的問題が発生した時は遠隔地で医師にかかる傾向がある。ひょっとすると、富裕な避難民が移転した都市、特に東京と大阪の精神科医がこれに当たることになるかもしれない。

 米国と(おそらく関東大震災とも)違うのは災害に続く略奪・暴動・放火・レイプがなかったことである。「要するにコミュニティが崩壊しなかったことだね」と師の土居健郎氏はいわれた(私は師によく電話で報告し、師から支持や見解をいただいた。それは家族を別にすれば私を孤独感から大いに救った)。

 コミュニティが崩壊しなかった証拠はいくつもある。街の物価は突然安くなった。隣の店が崩壊している時に商売していて暴利をむさぼるなんてとんでもないと言った人もいる。コーヒーは100円ないし200円となり、ライスカレーは500円となった。焚き出しで食べることが、その気になればできるということもあるかもしれないが、どこの焚き出し所でも、被災者かどうかを疑うことはしなかった。こういう状況では頭から人を信じてしまうか、頭から疑ってかかるか、どちらかしかない。神戸市民は前者を選んだのであろう。

 私はかねがね東京の、たとえばラッシュ時の一、二番線から出る中央線電車を待つ整然たる列に感嘆していた。神戸ははるかにだらしないとみえるだろう(もっとも、我先に乗り込むということはあまりない。東京ならば空いているとされる電車で、もう多くの老若男女が次を待つ)。その神戸人が急にきちんと整列するようになった。歩行者赤信号で車が通っていなくてもきちんと待つ姿は微笑を誘った。道端に糞便がなされているのを私は見たことがない。立ち小便の跡さえである。友人の宝石商は4日後に店に行き、大破したショウウィンドウ越しに指輪一つなくなっていないのを知っていかにもと思ったそうである。彼は三代目の神戸人である。彼が4日目に行ったということ自体、私を驚かせた。彼は「ぼつぼつ、どろぼうさんもゆとりが出てはるでしょうから」と言った。

 警官は取り締まる人の顔をなくした。家人が県警機動隊の車の列に遭遇して、右折したいと意思表示すると、運転の警官はユーモラスな手つきでどうぞといい、長い車の列は停止した。私の乗った車も「ここは駐車禁止です。すみません」といわれた。そのやわらかな音調が耳に残っている。駅員も、混雑にもかかわらず、かつての怒号でも民営化後の無理じいされた丁寧さでもなく、非常に自然になった。

 こういう感情がどのように変わってゆくか、それは予測できない。PTSDでは残酷な視覚的映像が覚めている時も夢にも繰り返し出てくるのであるが、今回は払暁の睡眠中であるために、視覚映像を欠いている人が多いのも一つの特徴かもしれない。

 現在、もっとも喜ばれた一つに、福井県の精神科医がかついできた大量の水仙の花がある。われわれのスタッフも、避難所を訪問する時に花を携えてゆくようにしたいが、いかんせん、入手が困難である。皇居の水仙を皇后が菅原市場跡に供えて黙祷されたのは非常によいタイミングであったというほかない。両陛下が来られる前日、当日の神戸は、あの鼻白ませるものものしい警戒がなかった。東京の街で、「あ、誰か皇室の方が通られるな」とすぐわかる、あの雰囲気がである。そして、日本の政治家のために遺憾なのは、両陛下にまさる、心のこもった態度を示せた訪問政治家がいなかったことである。

 年配の人は空襲体験と比較する。似ているところは、ほんの僅かな差、偶然が生死を、財を失うか否かを分けることである。戦争体験と同じく震災体験もきっと千差万別だろう。違うのは、まず、再空襲の恐怖は余震の恐怖とは段違いだということである。余震には、あの第一撃を想起させる何かがあって、恐怖を増幅させている。空襲となれば、避難先が無事な都市であればあるほど、空襲を受ける確率が高いと考えられた。援助は期待できなかった。至るところで恐怖政治が支配していた。徴兵の恐怖はかねがねあったが、本土決戦の接近とともに、老人と少年は全員「国民戦闘隊」に組織されるはずであった。国力は日々に低下していた。食糧難とは「三日食べずにいること」ではなく「手持ちのわずかな食糧をいつまで食いのばせばいいかわからないこと」である。手持ちのなくなった人には「次がいつ届くかわからないで飢えを我慢すること」である。亡くなられた方には申し訳ないが、現在はまったく違う。通信手段も格段の差である。情報の量と正確さとが圧倒的に違う。流言飛語はむしろ他地域に多いのではないかと思われた。大根一本1000円という商売は誰もみた者のないものであった。海外の人との馴染みもある。年間1000万に近い海外旅行者は無駄でなかった。そして、在日韓国人にせよ朝鮮籍の人にせよ、それぞれ独立した祖国があって、われわれの振る舞い如何によっては、教科書問題に何倍する国際的抗議が殺到するにちがいない。

 しかし、神戸人から震災が神戸でよかったとひそかにささやきを聞く。他都市ではこうはゆくまいというのである。それが当たっているかどうかは、この次の災害によって決まるだろう。

●パート8
店を開いた人たちが争って値下げをしたということは「私はよい商人である I am a good merchant」という態度表明である。これは町の将来、人々との交流の将来を信じているからである。

当面の問題2

 この報告は、1995年2月2日の夜から朝にかけて一気に書き上げたものである。その後、もっとも過酷な条件でたたかった精神科医たちを休養させる必要が急速に増大した。私は第一陣とともに出発した。神戸からJRで一時間半あまりのところに赤穂御崎(あこうみさき)という塩類泉がある。温泉は京阪神の人の憩いの場であり、宴会場というより家族の湯治場であった。赤穂一帯は北に300メートルほどの高さの山脈に護られていて「兵庫県の伊豆あるいは紀南」である。旅館は相次ぐキャンセルで客がいないに等しかった。南側の窓からは一面に照り輝く海であった。水平線に瀬戸内海の一番東の群島である「家島(えしま)」の島影が遠く、あるものはやや近く霞んでみえた。

 私はヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の最後の章を思い出した。代わって、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の詩句がそのりんりんと響く脚韻とともに蘇ってきた。一面焔の海に漁船が餌をついばんでいた。私はありあわせの紙にこの島々をスケッチした。

 私はいささかの平常心を取り戻したのであろう。それまで私の頭の中で鳴っていたのは、吉田満の『戦艦大和ノ最期』であり、大岡昇平先生の『レイテ戦記』であり、豊田穰の『ミッドウェー』であった。戦時中の小学生であり、父をブーゲンヴィル、ラバウルに送っていた私は大本営発表と戦域の地図にひどく敏感であった。戦後間もなく、その虚偽を修正するために、1945年10月に朝日新聞に連載された「連合艦隊かくて果つ」以来、戦争の記録を集中的に読んだ時期がかなり長かったが、かなりの部分を暗誦しているのは、この3冊であろう。私は、この記録の中に私の起こしうる錯誤を探った。

 電話は清明寮との間にも自宅との間にも保たれており、家人は出先にいる私に「こちら本部長」などとおどけてみせた。このころには電話が即座にかかり、時に「線がこみあっております。しばらくそのままお待ち下さい」という器械的な声がはいり、数秒後に通話が開かれることがある程度であった。しかし、私は電話でこまごまと指揮をとったのではない。声の調子や話し方で、何かを感じた場合に行動したことが多かった。多く私は「スタンバイ」の状態にあって、隙間と盲点とのありかを頭の中の暗闇にさぐっていた。

 電話をかけて来ず、来院もしなかったわたしの患者全員に2週間前に処方のプリントアウト記事を、コンピュータを駆使できる医師の助けによって、見舞い状と最寄り診療所とともに郵送していたが、その返事がぼつぼつ返ってきた。薬の郵送を必要とする場合には、彼女と秘書3人がやってくれた。

 多数の通信業務とともに、見舞いの買い物や不動産を探す仕事にも秘書が活躍した。ぬいぐるみや絵本が集まったが、一般の避難所では数が少なすぎて配分ができないということで、私はベトナム系の人の避難所に多くをふりわけるように言った(こういう場合、届いたかどうかの確認に手間ひまをかけられなかった)。

 このころになると、訪問する精神科医は、一輪の花を各避難所に届けることができるようになっていた。手ぶらで訪れるよりもずっと入ってゆきやすいと皆は言った。東京都下・青木病院からのH医師の面接は特に喜ばれ、逆に被災者からぜひといってお菓子や果物を「また貰っちゃった」と言って持ちかえってきたが、これは避難所に物が余りだしたわけでは決してない。感謝の気持ちを全財産をなくした人はとにかく表したかったのである。一輪の花を手向けるように──「お地蔵様へのお供え」というほうが当たっていようか。実に多くの人が、この状況にあって「ただでものをもらう」ことに抵抗を感じていた。初期にはそのためのためらいがあった。かなりの神戸市民は政府の援助を争って受けたのではない。心理的抵抗を乗り越えてようやく受けたのであることを彼ら彼女らのために言っておきたい。

 奇妙な3週間であった。2月2日、私ははじめて光風病院長のY君と会った。住吉の彼の家は残ったが、水道、電気、もちろんガスなく、電話も絶たれ、物々交換の原始生活であった。私も財布を使ったことがなかった。われわれは残業していた秘書とともに、垂水まで行って、コーヒーとトーストとにお金を払った。不思議な感動が走った。

 今や、貨幣経済が復活しつつあった。病院長名で、「もう援助に甘えていることは許されない」と非常事態終結宣言がなされた。食料調達がわれわれの荷にかかってきた。S病棟医長は西区に走って魚を買い、鍋物を隔日に行うようにした。これらは、20年前の患者が送ってきたお金を始め、上級医師のお金でまかなわれた。

 震災以来の研修医当直料が一日につき一名分しか来ないことは、皆を憤慨させた。誰もが請求などしない。私は不眠不休で次々に問題を切り抜けてきた彼らに何とか報いてやりたかった。ボランティアには帰るところがある。しかし、われわれにはない。しかも、正常事態宣言によって、われわれの仕事は突然「余業」になった。『災害の襲うとき』にラファエルが記すような、事に当たっていたものが「取り残され」感情を持つような時が訪れつつあった。

 私は、動作がのろくなり、少し短気になり、おこりっぽくなった。不眠が酷く、時にメジャーを必要とした。マイナー・トランキライザーでは浅く短い眠りしか与えられなかった。この3週間に私は4キロを失った。これはよくジョークの種になった。

 エリアス・カネッティの『群衆と権力』によれば人間集団はある臨界点を越えると突然「液状化」して「群集」と化し、個人ではまったく考えられないような掠奪、暴行、放火などを行うという。

 「神戸ではそれがみられなかった」ということは日露戦争以後はじめて日本が世界からほめられた事態であった。私には生まれてはじめての事態である。韓国、北朝鮮の人たちの心をいくらかはほぐしたとも仄聞する。

 なかったことは事実である。そのことをわざわざ記するのは、何年か後になって、今「ユダヤ人絶滅計画はなかった」「南京大虐殺はなかった」と言い出す者がいるように、「神戸の平静は神話だった──掠奪、放火、暴行、暴利があった」と書き出す者がいるかもしれないからである。そのタイトルの文字が私にはもう目に見えるような気がする。

 もとより神戸の人間は絵に描いたような優等生ではない。「中国にはハエが一匹もいなかった」と文化大革命のころに宣伝されたような意味では、たぶん絶無とは言えないだろう。毛を吹いて疵を求めるならばいくらかの事例はあるだろう。いや神戸の犯罪率は仙台の10倍といわれてきた(もっともこの種の統計は過信できない)。放火も暴行も多いほうではなかったろうか。しかし、ふだんより格段に少なくなったという印象はぜひ記しておきたい。

 町にタクシーがめだちはじめた。今日(2月9日)乗った初老の運転士によると、1月21日から営業を始めていた(いちどもタクシーの運行が禁止されたことはなかった。ありたけのお金を持ってタクシーで逃げる老人が少なくなかった)が、「収入は少ないが今ほど安心に客を乗せられることはかつてなかった」と言い、ことばを継いで「人は皆やさしゅうなってますなあ。(私も)母にも言葉がやわらこうなったといわれますのや。組合委員長なんかして(家族から)荒いといわれてきたのですがな」「涙もろうなっていますな、私もお客さんも」。

 私のみるところ、人々がメルトダウンしなかったわけではない。ただ「液状化現象」は起こらなかった。起こったとしたら温かいメルトダウン、逆方向の液状化現象であった。多くの人はかるく退行していた。私もまた。しかし、エルンスト・クリスのことばをかりれば「自我に奉仕する退行regression in service of ego」であってわれわれの心の奥底にある無記名の怖るべき「エス(イド)に奉仕する退行regression in service of id」ではなかったといえば海外の多くの人にもわかっていただけよう。

 2月6日、私は再開された県立看護大学の講義に明石市に行った。バス乗場ではわらわらと人がたむろし、バスが来て皆が乗り込む時には横から来てさっさと乗ってしまうオバサンが一人いた。「ああこれがいつもの神戸だった」と私はいっそ懐かしかった。

 ふだんの神戸人はどうであったか。私は思いだそうと何度もこころみた。母方の叔母の夫は、江戸時代の平野(ひらの)村の地主であって、いわば最古層の神戸人であるが、彼によると、「あまりヤイヤイ言うな」というのが、基本的なモットーだそうである。「あまり目くじらをたてるな」「むやみに言いつのるな」というほどの意味である。「いい加減≠ニいう言葉がよい意味をもっているのが神戸だ」と、赴任したばかりの私に言った男もいた。裏を返せば、決定性・几帳面さにいくらか欠けるということであろうか。

 神戸人は勤勉でないか? いや、けっこう勤勉な人もいるのだが「あれは好きでやっているのだ」とされる。怠け者も怠け者なりの待遇をされて排除されないことが多い。「ユア・デューティ」(君がやるべきことだ)という言葉は、東京の大学病院でも名古屋の大学病院でも日常語だったが、ここでは耳にしたことがない。

 街もけっこう清潔だが、これは市がこまめに掃除しているからである。道路洗滌車が私の住む「さいはて」の住宅地までときどきまわってくる。タバコの吸いがらのポイ捨ては尊敬されはしないが、穏やかな眼で小さな悪として寛容されるのが普通である。「頭に血がのぼる」のは、大いに美学に逆らうらしい。大学の会議でも眼のつり上がった議論はめったにない。わが教授会の所要時間の短さは組織秘密である。神戸市の税金は東京都より格段に高いのだが、不平のための不平を耳にすることは稀である。私は若い日、ある関西の大学にいて、教授への低級な密告の投書──「バーのマダムとねんごろ」「ホモ」の類い──の多さに驚いたが、ここでは15年教授商売をしていて、その例をみない。

 世界的に有名な暴力組織がまっさきに救援行動を起こしたということは、とくにイギリスのジャーナリズムを面白がらせたそうだが、神戸は彼らの居住地域であり、住人として子どもを学校に通わせ、ゴルフやテニスのクラブに加入しているからには、そういうことがあっても、まあ不思議ではない。

 店を開いた人たちが争って値下げをしたということは「私はよい商人であるI am a good merchant」という態度表明である。これは町の将来、人々との交流の将来を信じているからである。それに加えて、倒壊した隣の店に対する「すまない」という意思の表明でもある。この事実から出発して考えれば、「暴利」とは現在しか信じえない絶望の所産であり、「掠奪」もまた絶望の所産である。この両者があいまって、悪循環をおこし、街角ごとにつむじ風を巻きあげることは、なにもアメリカの専売ではなく、日露戦争直後の日比谷の焼き打ちをはじめ、日本の戦前の歴史には稀ではない。

 戦前、神戸に転勤したサラリーマンは出世を忘れると言い慣わされていた。むろん、この街にあきたらない青年も多い。そのために多くの進学校がある。しかし、進学校出身者も社会に出てから、われ先に争うのが少ない人たちが多いときく。例外はあろうが、一般に、神戸人はわれがちに先を争うというほど血相を変えるのは美しくないと思っているようだ。他地方出身の家人は、運転をしていて二つの道が一つに合流して一車線になるとき、必ず一台おきに一列になってゆく見事さにいまも感心している。一車線になる少し手前の片方の道は大きく空いているのが普通だが、抜け駆けをする車はめったにない。さらに面白いことに、抜け駆けをした車が、先のほうでちゃんと入れてもらえる。「たぶん特に急ぎの用があるのだろう」とみなされているらしい。

 むろん、例外はいくらでもある。今度の震災でも、数日後にあがった火の手は、漏電によるものと証明されるまで放火ではないかというささやきに遭った。高級ブティックから女子高校生が品物を持ち去ったということはあったとも聞く。高校生の万引きはふだんまあ珍しくないから、そのようなことがあっても驚きはしない。ただ、これが流言飛語となって広がることはなかった。

 いくぶん問題なのは、そういう噂があると、「それは隣の大都市から来た者のしわざだ」と決めつけがちなことである。

 この3週間、私はたしかに「共同体感情」というものが手に触れうる具体物であることを味わった。47人が皆救われた病院の焼け跡のそばに半身をあぶられたオリーヴの木があった。私はその一枝なりとも取りたかった。しかし兵庫警察署のごく近くで警官たちがいっぱいいた。私はいささかためらい、警官と眼が合った。「ここで病人が皆助かったのです、記念にと思って」と言うと、彼らはしみじみとうなずいた。近所の人が集まってきた。「この木のおかげで私の家は焼けなかったのですよ」と狭い小路からおばさんが出てきて言った。その隣の倒壊した家屋の前にいた初老の男が「たんと持っていきなよ。あそこでは18人死んだのだよ」と病院の向こう側の瓦礫を指さした。秘書のHさんはオリーヴの産地小豆島農業改良指導センターに問い合わせて、挿し木を生かす方法を教わった。「オリーヴは強い木だが5センチほどの太さの枝が必要だ」と聞いて、私と彼女は翌朝脚立(きゃたつ)と鋸とをもって出撃した。オリーヴの枝はしたたかに水分を含んでいて、そのか細い枝葉からは想像もつかないほど強靱であった。

 私たちはたくさんのオリーヴの枝をたばねて大通りをひきずって歩いた。見とがめる者はいなかった。むろん警官たちも。やはりすこし退行していた私は顔色の悪い初老の女性に声をかけた。全財産を失ったという返事だった。「何もしてあげられないけれどこのオリーヴの木だって生き残ったのですよ」とふだんなら吐かないであろう感傷的な言葉を私はかけて一枝を差し出した。

 このような「共同体感情」が永続しないことは誰しもひそかに感じている。先の運転手は「いつまでもこうだと仕事をしやすいのだけれど、そう続くもんではないんだろうなあ、どんな形で終わってゆくのだろう」と言った。それこそ、私の問題であり、私の中に住む精神科医の問題であった。

 まだ答えはない。PTSDの概念にあてはめることはひょっとすると「将軍たちはいつも一つ前の戦争を闘っている」という警句にあてはまってしまうかもしれない。この警句の意味は第一次大戦を日露戦争をモデルとして戦い、第二次大戦を第一次大戦の方式で戦ったという事実をふまえてのことである。既成の将軍たちの論理がつき果てたときに、戦争は現実から教訓をもぎとって新しい論理を組みたてえた者に引き継がれていった。戦争にかぎらず、すべてのキャンペーンはそうなのであろう。ただひそかに恐れるのは第二次大戦の日本海軍の処遇をくりかえすことである。原為一少将や田中頼三少将など米国の戦史に激賞されている即興能力の持ち主は後に左遷されていないまでも昇進していない。

 この「共同体感情」の行先はわからないが、ただ神戸は日本の都市としてはほとんど唯一、市の中心部に宗教建築群をもつ都市である。古くからの生田神社を上からつつむようにして、カトリック教会、ギリシャ正教会、多くのプロテスタント教会、それもたとえば華僑たちの教会というふうに使用言語別、また東京の代々木とここにしかないモスク、シナゴーグ、関帝廟、さらにはジャイナ教の寺院。まだまだある。イラン人もインド人もロシア人も信徒が100人いると教会が建つという法則があるという。宗教的コミュニティが無条件の善ではなかろうが、少数民族の有機化がされていることは、まちがいない。私はかつてギリシャ人のイスラム教徒を発見して驚いたことがある。100年前には絶滅していたはずのオットマン帝国時代の名望家層であったイスラムに改宗したギリシャ人が、ここに安住の地を見出していたとは。行政の重要な問題は中国や韓国(朝鮮)などの居留民組織に相談しておくともいう。少数民族への迫害はあやうくまぬかれたというものではない。誰も思いつきもしなかったというのが真相に近い。

 しかし、私たちはどのような形で日常に再着陸するのだろうか。願わくば、それが軟着陸であることを希いつつ、私は関与的観察をゆっくりとつづけていきたい。(2月9日 午後11時)

* 私の書ききれなかった事蹟が多く、知りえなかったことも多いはずである。私はいちいち各人の行動の報告を求めなかった。災害への対処は、猫の目のように情況がかわる戦争ほどの報告は不要である。訂正のきく錯誤はおかしてもよいのである。極端にいえば、食料の不足はこまるが、現在の経済情況では余った食料はあとで処分すればよい。

●パート9
どうしたかというと、ボランティアの医師をどんどん入れ、ヘリコプターを使って患者を運び入れた。入院患者は廊下にあふれ、押入れにまではいった。廊下に患者を寝かせることは違法である。行政官は最後に「そんなこと私に報告しないで下さいよ」と言ったそうである。いっぽう、東京都では休暇をとってボランティアに来た精神科医は「都知事より先に行くとはけしからん」と叱責されたと都精神科医よりのファックスにあった。

1995年2月24日からみて

1 はじめに

 1989年のこの日はそぼ降る雨で昼すぎから通りはしぶきにほとんど暗かった。今日、神戸は晴れて春の到来が確実と思われる日となった。

 6年前のこの日は昭和天皇の「ご大葬」の日であった。その日、「自粛」から「記帳」に至る、東京を中心とした一種の共同体感情は終わった。あの日は、私は友人のY弁護士と、ある裁判の最終弁論を書きおえるためにオリエンタル・ホテルに会したのであった。街には人がなく、店は閉じていた。ホテルだけは食堂を開いていたが、彼女は、少し街に出てみましょうよ、と言った。堂々と店を開けているのは、韓国(朝鮮)、中国の店であった。私は時々寄る北欧料理の店をみつけた。日本人の経営である。「よく開けていますね」「ああ、そういえばそうですね」。

 あの日、われわれはそれぞれの形で「昭和」を送った。私たちが書いていた「最終弁論」はある知識層で福祉に責任のある公務員の殺人で、一部では「極悪非道」といわれ、一部では精神分析的な「エディプス的愛」の結果ではないかといわれていた。私たちは、証拠が明確で被告も殺人を認めているこの事件で、実際はどちらでもないことを明らかにしえたと思っている。このような場合「被告が納得して刑に服するような判決文をかちとる」ことを目標として弁論を展開する彼女の持論に私は深く共鳴するところがあった。一精神科医が、いくら数十年前に法学部に籍を置いたからといって、法律に携わるのは、ある労働組合のために労働協約を作成した青年時代以来であった。しかし、最終弁論は私と彼女の共同作業となり、被告は、それによって、ある程度理解されたと感じて刑に服した。

 私は「昭和天皇論」を同時に始めていた。それは、一部には「極悪非道」といわれ、一部には「無私無垢のひと」といわれる裕仁天皇を等身大で理解しようという試みであった。私の中の「昭和」が私を突き上げ、私はほとんど狂わんばかりにして、長大な昭和天皇論を執筆した。エスタブリッシュメントだけが読む「内部雑誌」に執筆されたそれは一部に反響を生んだが、知る人は少ないと思う。

 今から思えば、並行して進められた、この作業は、いずれも「極悪非道」とも「純粋無垢」ともいわれるひとの等身大の像を描く仕事であった。私は同一の作業をしていたのであった。それは、また、一部では精神科医として、時には余業を過大評価され、親族においては「けなげな子」とされつつ、幼い日の家族の葛藤を、特にある時期烈しかった私の家族内暴力という反応を、あるいは戦時中のかさにかかったイジメへの憎悪と屈辱とのくすぶりを、越えていなかった私自身への答案でもあった。「クリーン」といわれつつ、私は己の「極悪非道」にさいなまれていた。

 2月24日は、1989年においては一つの「終わり」であった。私にとって、またおそらく多くの人にとって──。では1995年においては?

2 街角から

 「共同体感情」はほぼ終わった。ただし、反動的な無関心、アパシーではなく、ほぼ軟着陸しつつあるといってよいであろう。

 運転手は普通の無口に戻った。神戸の運転手は無愛想ではないが、名古屋ほど素晴らしく親切ではない(もっとも名古屋で「口をきかなかった」とでもタクシー業の事務所に電話すれば運転手は解雇され、東海6県に写真付きの手配書がまわり、6県では就職ができないのだという解説を聞いた。名古屋の商人は正直で丁寧であるが、そうでなければ少なくとも私の住んでいた程度の住宅地にはいられなくなるのを私は実見した)。

 あるいは反動からか、一時の多弁を恥じるからか、ふだんよりも無口になったのかもしれない(神戸では同じ運転手に乗り合わせることも時々ある)。少なくとも、客と運転手という壁が再び降りた。売り手と買い手との立場の分離である。運転手は、ひとびとが「歩くことを覚えてしまった」のを嘆いた。

 物価は極端な安さを失った。敗戦後の屋台と違って、依然高くはなく、買い手市場ではある。「共同体感情」の消滅は貨幣経済の復活にやや遅れて起こり、両者にはある程度の関係がありそうである。

 10日前、私は、食器の一切を失った友人のため、元町で一軒だけ開いていた陶器店に立ち寄った。店主は、明らかに高揚しており、泣かんばかりにして私を迎え、結局、私はかなりの安価で少し上等のものを求めた。

 すべてが変わったのではない。もともと神戸は夜の店じまいが早く、元町の閉店は7時であり、8時には市の清掃車が元町のゴミを集め、道路を洗っている。そういう街であるが、今人々はさらに早く家路に就く。九時以後の電車はがらがらである。

 一般に周囲の夫婦仲は明らかによくなっている。10ヵ月後には人口の一時的増加が見られるのではないかというワルイ冗談がある。いっぽう、突然同居を強いられた親子、親戚、姻戚の間で葛藤が再燃するということはあるが、これはいっときのものであってほしい。

 先の弁護士に再会した。現場主義の彼女は多忙であった。一隊のボランティアを率いた彼女は、家の補強や片付けを精力的に行っている。相続や訴訟途中の家屋はうっかり取り壊せないのである。

 神戸人は人生の工夫が好きで上手であり、生の楽しみを忘れない。私は2月12日、東京から帰った。大阪港の天保山棧橋からジェット水中翼船に乗った私は、42ノットという戦前2隻の駆逐艦がごく短時間出した記録のある高速を維持して大阪・神戸間25分という特急以上の早さでポートアイランドの船着場に到着した。驚いたことに、乗客は遊山の帰りのように楽しげであり、リムージン・バスいっぱいの乗客の大部分はこの巨大な人口島の中央にある停車場で降りてしまった。彼ら彼女らは、大阪に買い物に行き、ついでに遊んで帰ってきたのであった。この島は一時的にであろうが、大阪の付属島になっていた! 数人だけが本土の入口である「税関前」で下ろされ、廃墟の街に散っていった。

 花と書籍はまだ街にゆきわたっていない。ヴァレンタインのチョコレートはぐっと少なかった。手紙がそれに代わることが多かった。私は1月30日、神戸大学生協医学部分館の開店と同時にはじめて新本をみた。文学書、旅行書、趣味書の多いことで知る人ぞ知るこの書籍部の棚は見る見る空いていった。私は明石まで書籍を買い出しに行った。最近、大きな店が開いたのである。私は書籍を乱買した。

 納税の季節であるが、税の申告期限は災害地終了宣言後2ヵ月とされた。避難所がある間は終了宣言はないから、例年の慌ただしさがない。税務署も被災で大変ですと付記された挨拶状がまわってきた。

 ダウン・ジャケットにリュックサックというのが、大阪でも明石でも目立つ、新しい「神戸人スタイル」であった。チロル・ハットがせめてものオシャレであったろう。ふだん瀟洒な服装を競う神戸人が、実用一点張りの服装にあっという間に転換した。これが時宜に適ったおしゃれであろうか。このスタイルはまだ続いている。

 私の町にも理髪店ができた。東部で被災して、かねて買っておいたこの店で営業を始めたというのである。何という用意のよさ。12年塩漬けにしてあったわけだが、老後はここでと思っていたそうである。

 2月9日朝、夢うつつに私は暴走族の爆音を聞いた。それは、日常性の再開を告げる号砲であった。

 ちなみに、神戸の暴走族は「ヴァンダリズム」すなわち公共建築物への無意味な落書きが少ない。行政がこまめに消していることも意味があるだろう。放置されている違法は、それが黙認されているとして、次の人の犯行への閾値をぐっと下げる。一般に、神戸の街の小ぎれいさは行政が道路のチューインガム・カスから空き缶までを除去するのに熱心なことによる。

 今回でも、神戸人が行政に文句をつける程度は格段に低い。もっとも、神戸人は自分らなりに注文をつけていると思って、これが普通だと感じている。他都市もそれぞれそうであろうから、この落差は陰の部分にはいってなかなかわからないようだ。ただ、司馬遼太郎氏が『街道をゆく』の中で「神戸人が神戸を語る時は維新の志士のごとくである」と述べておられる。これは「わがことのように膝を乗り出し熱を入れて称揚する」という意味で、決して志士が幕府を罵るような意味ではない。

 この点は震災以後も変化していない。「外部」の雑誌をみると政府の無策を罵倒する記事が目立つが、私の知る範囲──といえば家族と職場とご近所と理髪店とタクシー運転手とであるが──では、政府や府県を罵倒する声を絶えて聞かない。

 これはどうしたことであろうか。

 もう十数年前のことになるが、東京都では都公務員の遅刻が問題となり、都の精神医学総合研究所をはじめ、都の研究所の前にストップ・ウォッチを持った市民運動家がたむろして、個々の公務員の出席を取ったことがある。要するに、自分たちが税金で養っている公務員の遅刻がけしからぬので、その時間分の税金の返還を都に請求したのだそうである。私の友人は、睡眠の研究家であるのに、夜間研究して自宅へ朝食に帰ってすぐに出勤することを繰り返し、結核を悪化させて早世した。研究所へ入ってから寝ればよいようなものだが、職場に出れば、書類や会議で、たいていの人はそうそう寝ておれまい。

 この話をすると、神戸の人の誰も私を信じない。まず、神戸では、些細なことに目くじらを立てる(やいやい言う)ことは好まれない。次に血相を変えた人間はここでは小さく見える。元来の神戸人でない私は血相を変えてしまうことが時々あって、周囲の反応が他都市とはっきり違うことがよくわかる。一緒に変えだす人がいない。それどころか、何かあわれむような、「この人とこの場合となら無理ないんだろうなあ」という空気が流れ出す。

 これは、神戸人が羊のようにおとなしいことを意味しない。右翼さえ、奥崎謙三の「反天皇」の大看板を黙認している。あの大看板が破壊されたら神戸人はいうであろう、「余所の街からきた右翼がこわしよった」と。奥崎氏が孤独な闘争者であって賛同者がまずいないのは、氏の「眼がつり上がって」いるからであろう。氏に賛同しない者も「ああいうものを置いておく神戸」を誇りに思っているはずである。存在を信じない外来者に看板を見せに連れてゆくからである。

 では、神戸人は行政に期待していないか。期待できることだけを期待しているのであろう。いざ火災の時に水が出なかったことは全国のテレビに放映されたが、あそこで消防署員に詰め寄る光景はなかった。家族をなくした人が詰め寄ることはあって当然で、あったと思うが、群衆がそれに加勢して署員を殴るのたぐいは、もしあって私が知らないとしても、僅かであろう(われわれは消防署員の精神健康を護る段階に進みつつあるから近くもっと詳しいことがわかるだろう)。むしろ、署員の無念を市民は了解し共感して協力したと思う。一般に、神戸人は、自分たちも神戸に地震はまさかこないと思っていたことを棚に上げて行政を罵倒しない。

 警官に対する漫罵は世界的なものだが、神戸ではほとんど耳にしない。家内は単身赴任時代の私を神戸にはじめて訪ねた時、革ジャンパーに白いヘルメットのハンサムな白バイ警官をみて、思わず「カッコイイー」と叫んだ。私も、神戸に米国の沿岸警備隊のカッターがはいった時はさっそく、名古屋から来ていた友人を連れて見に行き、案内の士官に「ナイス・シップ」と褒めて帰ってきた。並んで停泊する日本海上保安庁の巡視船が立ち入り禁止だった(「危険物搭載中」を意味するB旗を上げていたが、日曜日のことで半舷上陸のはずであり、人影もなく、何の動きもなかった)。

 この日のために、きちんと備蓄し、水を必ず溜めていた女性医師が一人いたが、周囲の人にわけ与えて格別誇ることも教訓的になることもなかった。

 一日、鉄道末端に近い総合病院診療所の部長と電話で話した。私が紹介したのを含めて遠距離患者が集中している箇所の一つである。行政の上部が「精神科医はいらない」をはじめ、他の科の医師もいらないという報告を出した時、実際の現場は火の車だった。どうしたかというと、ボランティアの医師をどんどん入れ、ヘリコプターを使って患者を運び入れた。入院患者は廊下にあふれ、押入れにまではいった。廊下に患者を寝かせることは違法である。行政官は最後に「そんなこと私に報告しないで下さいよ」と言ったそうである。「入院定数をまもれ」と言った行政官もいなかったわけではないが、あっさり無視された。「後で譴責できるならしてみろ」という気持ちだが、わざわざいうものはいない。

 いっぽう、東京都では休暇をとってボランティアに来た精神科医は「都知事より先に行くとはけしからん」と叱責されたと都精神科医よりのファックスにあった。

 では、なぜ神戸の行政は神戸的でないのか。県と市との感情的対立は近年弱まってきたが、要するに県は「国の出店」であり、要所は中央からの出向者で占められている。神戸人が治めているわけではないのである。といって市民に白眼視されているわけではない。沖縄開発庁と沖縄県との関係にかなり近い。ここ四半世紀、知事は歴代佐賀人である。小規模県の一つ佐賀県は「佐賀に汚官なし」といわれ人材が司法界に向かう県である。

 兵庫県は幕府時代、多数の藩と幕府直轄領から成っていた。伊丹市のように近衛家の領地だったところもある。佐賀県、熊本県、鹿児島県、高知県のような県民意識はない。これを一つにまとめる任務を帯びたのが初代知事・伊藤博文であって、以来、兵庫県は行政官のトレーニングの場となり、一時は先行試行と称してひそかに施策の実験を行ったので、国民としては国が考えていることを知るにはよい「定点観測点」であった。実際、人口150万の、世界有数の港湾とかつては造船、製鉄で栄え、今はファッション都市をうたっている近代都市神戸があり、人口40万人の「世界文化遺産」の城を中心とした城下町姫路があり、人口数万だが戦前すでに自動車の存在を前提につくられライフラインの地下埋設を完成し道から建築物が見えないことを条件として建設された丘と森の街「六麓荘」を含む芦屋などの飛びきりの富裕都市があり、多数の軽工業都市、富裕な農村(播磨平野もであるが淡路島はタマネギと米と牛の島である)、離島(家島群島)、山村、漁村、過疎地帯、僻地(日本海岸の道路は戦後はじめて建設された。社会党知事のもとで自衛隊が建設したのである)など、総じて「日本の縮図」とみなされている。神戸市でさえ、区内に広大な森林、先進農業地帯、複数の漁港、さらには過疎地帯を持っている。「縮図」ということは「自己完結性」が高いということである。

 中央からの出向者が事実上いないということでも沖縄県と並ぶ神戸市は、戦後の就職難時代に京都大学から地方自治体にはじめて直接就職し始めた世代があったが、そういう人々から神戸大学出身者などにゆるやかに移りつつあると見られる。3年間、京都大学法学部に在籍し、現在もクラス会に出席する私にはこの世代の心情が分かる。神戸市行政の独立性は、この無念と気負いとを秘めた世代によって建設されたと私は思う。それをよく指導した京大工学部土木工学部出身、学生時代は陸上競技で鳴らした内務省出身の市長・原口は発想の塊のような人で、都市は「治めるもの」でなく「経営するもの」であると規定しなおし、水害に悩む都市を「(危ない)山をなくせばいいのだろう」と、当時は深くて不可能とされていた神戸港の埋め立てを始めた。初期には河原にダンプカーを通し、次には長大なベルトコンベヤーによって専用の港に運び、そこから「プッシャー・バージ」(強力なエンジンを備えたタグボートによって押されて動く巨大なハシケ)によって現地に運ばれた(液状化によって噴出するのが山砂なのはそのためである。東京ならば何が噴出するであろうか? 現在、不燃ゴミは過疎地帯の谷に捨てるフランス方式を採っているようである)。

 今の神戸市民の話題は、今度はどんな街になるかというほうに向かっている。「老人、障害者など弱者が今までのように中心部におれる街」というのが、私の聞いたもっとも大きな願いである。

 夕方、秘書とJR神戸駅前に向かって歩いた。春の匂いを風が運んでいた。すべてはほどけてやわらかかった。「終わったという感じが流れているね、まだ不通の電車も避難所もあるのに」「4、50日しかスタミナは続かぬだよ、生理的に」「その間に主なことをやってしまう必要がありますね」。われわれはやりおおせたのだろうか。(3月2日記)


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「東北関東大震災下で働く医療関係者の皆様へ――阪神大震災のとき精神科医は何を考え、どのように行動したか」 文:中井久夫 データ提供:みすず書房 サイトの責任:最相葉月

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