「首都圏の快適で便利な暮らしの根底は、いったい何によって支えられていたのか」。大地震から2週間が経過し、だんだんとそれが見えてきた。これまで頭で考えることはあっても、実感として身にしみることはなかった。少なくとも、私はそうだった。その一つが原発だ。「楽コレ」(楽しくなるのはコレからだ)のコラムにはふさわしくないかもしれないが、今回も大震災について記す。
事故を起こした原発は福島県(双葉町、大熊町)にあるが、東北電力ではなく東京電力の発電所である。首都圏に電気を送るための施設だ。しかし、福島県に電気を送っているのは東京電力でなく東北電力だから頭が混乱する。これは、「原発銀座」といわれる福井県の関西電力敦賀原発も同じで、当の福井県に電気を供給しているのは、関西電力ではなく北陸電力である。「莫大(ばくだい)なお金をかけて鉄塔や送電線を設置しなくても、安全なら東京に原発をつくればいいではないか?」という広瀬隆氏の「東京に原発を」が出版され、話題を巻き起こしたのは1986年。もう四半世紀も前になる。その後、原発反対運動はさまざまな変遷をたどってきたが、近年はCO2排出量規制の国際的な取り組みなども追い風になって、「原発は火力発電と違ってCO2を出さない地球環境にやさしいクリーンエネルギー」といううたい文句の方が声高になったような気がする。今回の事故後の避難や屋内退避の現実を目の当たりにして、広瀬氏の本を思い出した人も多かったろう。
原発に頼っている電力は、いま、日本全体で概ね3割といわれる。首都圏へ送電している原発は福島原発と柏崎刈羽原発(新潟県柏崎市、刈羽村=これも地元は東北電力管内)だから、1~2割を福島原発に頼っている計算になるのだろうか。それでも、東京電力は戦後間もない時期にやった経験があるだけという計画停電(輪番停電)を実施しなければならないことになった。中部電力や関西電力から余剰電力を送電してもらうわけにもいかなかった。日本の商用電力は東日本が50Hz(ヘルツ)に対し、西日本は60Hzと周波数の相違があるからだ。これは明治時代に関東では電力会社が50Hz仕様のドイツ製発電機を、関西では60Hz仕様のアメリカ製発電機を採用したことに原因を発する。敗戦後、復興にあわせて統一しようという構想はあったが、そのうち、工業技術から電子レンジや洗濯機なども1台でどちらでも使えるようになり、引っ越しでも暮らしに不自由がなくなったためこの問題は国民から忘れ去られていった。一つの国の中で、こうした混在があるのは日本だけと言われている。周波数変換所によって東西間の電力供給は可能だが、変換できる電力は100万KWとわずかである。
私は、広瀬氏の本が出版された1986年から1年半、松江支局で原発取材の経験をした。中国電力の島根原発。福島原発と同じ、沸騰水型軽水炉。今は3号機まである(3号機の運転開始は来年3月の予定)が、当時は1号機だけで、2号機の建設計画が進んでいる時だった。原発の仕組みや放射能について、にわか勉強をし、原子炉の見学会などにも参加した。もちろん、中国電力広報室に先導されての見学会なので、いかに安全に設計されているかを強調されたが、反対派や批判的な学者からも同様に取材して、自分の頭の中でこなしていった。1979年に出版されていた堀江邦夫氏の「原発ジプシー」も読んで、どういう人たちが原発で働いているのかも質問したことを覚えている。
島根原発の最大の問題は、県庁や松江市役所から約10キロという近距離の立地であることだった。当時は鹿島町というもともとは漁業の町だったが「日本で一番県庁所在地に近い原発」というのが、記事を書く際の枕ことばだった。それは今も変わらない。それどころか、2005年に合併で鹿島町は松江市となったので、今は「県庁所在地に立地する日本でただ一つの原発」ということになっている。10キロということは、今回の福島原発事故に当てはめれば、防災・避難計画の拠点となるべき指令所が、一番最初に退避しなければならないエリアに入ってしまうということである。
その後、大阪に転勤したが、原発問題についての立地県と電力大量消費地との意識の差が気になって仕方なかった。そんな中、大阪府南部の泉州といわれる地域の駐在記者となった時、取材エリアの熊取町というところに核燃料棒を製造している工場があると知った。原子燃料工業の熊取事業所である。粘りこんでそこを見学させてもらい、輸送経路の一部についても取材した。「二酸化ウランや、核燃料集合体を積んだトラックが、大阪の道路を走っているんだということを大阪の読者に知ってもらうことで、原発は遠い地方の問題という意識を少しでも変えてもらえれば......」というおこがましい思いから、大阪の地域面の連載にした。それから四半世紀、私はその後、原発取材に携わることなく、深く考えることもしないで暮らしてきたように思う。
松江のことが気になって、本紙島根版を繰ってみた。島根原発1、2号機は運転開始の後、近くで活断層が見つかり、運転差し止め訴訟が起きていたということも心配だった(昨年5月、松江地裁が請求棄却)。記事によると、島根原発は津波の最高水位を5・7メートルと想定していた。とりあえず中国電力は、非常時でも電源が確保できるよう発動機車2台を敷地内に配備し、原子炉建屋内の発電機が被害を受けないように、今後1~2週間をかけて、運転中の2号機の扉に浸水防止の補修を施すという。1号機も近く同じ対策を取る。住民に説明を求められた松江市の原子力安全対策室長は「国が防災指針を見直すと思うので、市として対応していく」と答えていた。
福島原発は、まだ危険な状態が続いている。予断を許さない。放出された放射性物質については「正しく怖がる」「理性的に怖がる」ということに尽きる。同時に、私たちは「原発事故が問いかける私たちの暮らしのあり方」について、考え続けなければならないと思っている。 (編集局次長)
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