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【東京】

都知事トリビア−権限、歴史、実態探る 「短命」首相より存在感

2011年3月25日

 首都のリーダーとして、都知事は他道府県の知事とは比較にならない強力な権限を持つ。その歴史や実態を紹介する。

◆戦後6人目

 知事が公選制になった一九四七年以降、知事選は十六回行われ、現在の石原慎太郎さんは六人目。石原さんが四選を果たせば、四代目の鈴木俊一さんに並ぶ長期政権となる。最短は、わずか一期で終わった五代目の青島幸男さん。

 初代公選知事となった安井誠一郎さんは三期務めた。戦後復興が最大の課題で、五〇年に始まった朝鮮戦争の特需景気で都心部は建設ラッシュに沸き、人口は急増。しかし、三期目には公共事業に絡む汚職事件で職員らが次々と逮捕されるなど腐敗が目立った。

 二代目には、医学者で国際オリンピック委員会(IOC)委員だった東龍太郎さんが選ばれた。当時、六四年夏季五輪を目指しており、東さんは就任翌月の五九年五月にミュンヘンで開かれたIOC総会で勝利。行政経験が全くなかった東さんは、副知事の鈴木俊一さん(後に知事)に実務を任せ、五輪成功に向けて渉外に駆け回った。

 唯一の革新都知事は三代目の美濃部亮吉さん。社会党(当時)と共産党が共闘し、自民党などの推薦候補に競り勝った。背景には、急成長を果たした東京の都市問題があり、公害問題や福祉分野で国に先駆けた施策を次々と打ち出した。ところが、石油ショックで都税収入が落ち込むと、都財政は窮地に陥り、バラマキ福祉の批判も浴びた。

 四代目は官房副長官も務め「官僚のエース」と呼ばれた鈴木俊一さん。東さんの下で副知事を務め、十二年ぶりの都政復帰だった。実質赤字だった都財政を立て直し、都庁舎の丸の内から新宿への移転を実現した。

 バブル崩壊で金融危機が叫ばれる中、登場したのが無党派知事の青島幸男さん。鈴木さんが手がけた臨海副都心構想の総仕上げとして一年後に迫っていた世界都市博覧会を中止した。

◆月給150万円超

 月給は百五十一万一千円だが、都財政の再建に迫られていた石原さんは就任早々から、自ら一割カットし百三十五万九千九百円とした。ボーナスは二〇一〇年度で二・六六カ月分。年収は二千万円を超えるが、一般の国会議員と同レベルで、総理大臣や最高裁長官に比べたら、少ない。

 副知事は四人まで任命できる。初代の安井さんは当初、すべての副知事(当時は三人まで)を外部から登用したが、「都庁一家」とも呼ばれた官僚の壁は厚く、東都政で国の官房副長官から副知事となった鈴木俊一さんを除き、都庁内部からの抜てきが続いた。

 石原さんは一〜二期目前半、国会議員時代の公設秘書を、〇七年には作家の猪瀬直樹さんを登用した。

 都職員は、警察官や教員を含めて十六万五千人。自衛隊を抱える防衛省に次いで、大きな官僚組織とされる。財政規模は特別会計や公営企業会計を合わせ十一兆七千六百億円(一一年度)。韓国の十四兆円、ノルウェーの十二兆七千億円などの国家予算に匹敵する。

 知事は予算提出権のほか、職員の任免権、議会の解散権などを持ち、身分が四年間保証されていることから、短命に終わることの多い首相より、影響力を行使できるとされる。

◆現職は全勝

 「万万万が一、間違った行政が東京で行われてはいけない」

 石原さんは今月十四日の会見で不出馬から一転して出馬に転じた理由をそう説明した。

 過去三度の選挙で圧勝した石原さんに限らず、これまで都知事選では常に現職が勝利し、その強さが際立っている。都知事の交代は、現職が自ら退任したときのみ起きているのだ。

 今回、前宮崎県知事の東国原英夫さんが出馬したが、他府県の知事経験者が立候補するのは、一九六三年選挙に立候補した元兵庫県知事の阪本勝さん、前回選挙に出た元宮城県知事の浅野史郎さんに次いで三人目。阪本さんと浅野さんはともに敗れた。

 石原さんのように、引退が既定路線だったのに再出馬した人に、三期務めた美濃部亮吉さんと四期の鈴木俊一さんがいる。

 社共共闘で誕生した美濃部さんは、社会、共産両党の対立が表面化し、三選不出馬を表明していたが、当時、自民党衆院議員だった石原慎太郎さんが出馬を宣言すると「(タカ派の)石原氏が都知事になるのは耐えられない」と一転して出馬を表明。わずかな差で石原さんを破った。

 鈴木さんの場合、知事与党だった公明党が八十歳の高齢を理由に四選に反対し、公明の意を酌んだ自民党幹事長の小沢一郎氏(現・民主党)が鈴木さんを降ろそうとしたことに反発。「東京の自治を守ろう」と訴えた鈴木さんが四選を果たしている。

 再選を果たした美濃部さんと鈴木さんだったが、いずれも政権末期は都財政を悪化させ、引退の「花道」は惨憺(さんたん)たるものだったという。

 

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