2010年12月5日() 放送

糸が哭き 棹が鳴る
初代 高橋竹山

 今年は初代・高橋竹山の生誕百年にあたります。そこで今日の活彩あおもりは三味線奏者・高橋竹山を振り返ります。
 
 初代・高橋竹山は津軽三味線を日本中・世界にまで広め、唄や語りの伴奏にすぎなかった三味線を独奏楽器にまで高めました。
 ニューヨーク公演、パリ公演、国内では85歳にいたるまでの22年間、精力的に演奏活動を続けました。その驚異的な演奏活動の陰には出会いと別れ、自らを奮い立たせる力となった若者たちとの深い絆がありました。

 1910年(明治43年)6月、高橋竹山こと高橋定蔵は父・定吉、母・まんの末っ子として貧しい小作農家に産まれました。
 三歳の頃はしかをこじらせ、視力を失いました。
 「誰も恨むことはできない、親が一番苦しくつらかったはずだ」。のちに竹山はそう語り、振り返りました。

 唄好きの父は度々唄会を開きました。まだ7〜8歳の竹山は唄のおもしろさに惹かれていきました。
 竹山は14歳で隣村の戸田重次郎に弟子入りし、三味線と唄を習いました。盲目の少年にとって生きる道はひとつ、門付け芸人でした。唄の素養があった竹山は2年あまりで師匠の許しを得て、独立しました。


 竹山16歳の門出、想像を絶する屈辱と苦難の道が待っていました。冷害が続き、門付けしても米は貰えませんでした。
 彼は漁村めあてに海岸線を歩き始めました。故郷が恋しい、だが戻れません。
 やがて唄会興行や農家の座敷を借りる座敷打に加わりましたが、「こうしてはいられない。三味線が上手くなりたい。」芸人たちの巧みな芸に触発されて、そう思うようになっていました。

 竹山29歳。薦める人があり、平内町清水川の亀田ナヨと結婚しました。
  同い年のナヨはイタコの修行で竹山同様に辛酸を舐めていました。
 妻に支えられ、竹山はひとときの平安、やすらぎを得ました。

 昭和16年、竹山の運命を変える大きな出合いが訪れました。同じ小湊出身の小形サヨ・成田雲竹女が、津軽民謡の神様と言われた師匠・成田雲竹に引き合わせました。雲竹は伴奏者を探していました。
 昭和19年に入り戦争は激化、三味線では生活ができなくなり、「息の根を止められた」と絶望、竹山は妻・ナヨの勧めで鍼灸師の資格を得ようと、八戸盲唖学校に入学しました。
 戦後、鍼灸師となっていた竹山でしたが、客足は延びず、誘われるまま雲竹の伴奏に本腰を入れていきました。この頃から雲竹が名づけた「竹山」を名乗るようになりました。雲竹は決して酒の席では歌いませんでした。竹山は師の背中に芸の道を見ていました。

 昭和38年。キングレコードが「津軽三味線 高橋竹山」を制作しました。雲竹のレコードを聴いた若いディレクターが竹山の伴奏に興味を持ち、彼を説きふせて制作したものです。しかしこれが発売2年で7万枚の大ヒットとなりました。
 その後、成田雲竹と共に労音に招かれ、三味線を弾きました。その三味線が大きな反響となり、三味線奏者・高橋竹山が誕生しました。
 昭和39年、共に労音のステージに出演していた成田雲竹が引退し、長年のコンビが解消されました。

 独奏に手ごたえを感じた竹山は「若い人たちに聞いてもらえなければ三味線の未来はない、そのためには彼らが求める三味線音楽を作る以外にない」と考えました。新しい高橋竹山が生まれようとしていました。
 昭和43年、北海道での公演中、竹山は息子の訃報に接しました。竹山は言いました、「このころの三味線は泣いていた。気持ちが泣いているんだ、三味線も泣く」と。
 やがて地元・青森労音の佐藤貞樹のはからいで若者の街・東京渋谷「ジァンジァン」で演奏会を開始しました。これは全国に津軽三味線ブームを巻き起こすきっかけとなりました。

 高橋竹山65歳、日本民謡協会から名人の称号が贈られました。そして「自伝 津軽三味線ひとり旅」が刊行されました。この作品をもとに新藤兼人脚本/監督で映画化され、作品はモスクワ映画祭に出品されました。
 73歳には勲四等瑞宝章。その後、初のアメリカ公演、またパリ市立劇場で演奏会、共に大好評を博しました。
 平成5年、妻ナヨが死去。竹山の音の集大成「岩木即興曲」はイタコだった妻の山での厳しい修行時代を回想したものでした。

 平成5年11月、「沖縄ジァンジァン」のファイナルコンサートに出演。挨拶では声をふるわせ、涙を落としました。
 平成8年病いに倒れましたが、翌9年弟子の高橋竹与が二代目・高橋竹山を襲名しました。「渋谷ジァンジァン」で行なわれた襲名披露に病を押してゲスト出演しました。竹山はホーハイ節・あいや節を横笛で、そして三味線を一曲だけ披露し、「あとは竹与に」とつぶやき、舞台を去りました。

 竹山が愛した、生家にほど近い愛宕神社。鳥を愛し、彼が口笛で鳴き声をまねれば、鳥たちが寄って来ました。彼は言いました、「三味線の音を作るときは山との相談だ。あとは頼るものもない。山は好きだ。ごろりと横になれば、すべて忘れてしまう。苦労したことも、つらかったことも、過ぎてしまえば何もなくなる」。
 この世に生を受けた時から何もかもが始まっていました。彼が片時も離さなかった津軽三味線。津軽三味線は調弦の最初の一音からすでに演奏が始まります。それがそのまま、前弾き・前奏へとつながっていきます。そして、ゆるやかに激しく、糸が哭き、棹が鳴り始めます。



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