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ギシリ、とベットの軋む音で私は目覚めた。(或いは、その音は世界の始まりという錯覚であったかも知れない。)
私は窓の外の赤く、くすんだ軟らかな透明の光が視界に刺さったのを感じ、 から現実へと覚醒した。
ぼんやりとした意識に映る明瞭な視界から衛生的な白い壁面が白百合の花の様に優し気な印象を私に与え、夕暮れのやや薄影が射す中での統一された色合は心の安寧をもたらした。その病室へと開放的に開いた窓からは玲瓏たる風に運ばれた外界の新鮮な大気が入り込み、世界への認識の冒頭としては壮麗なものであると感じた。窓から覗く風光は夕暮れ時特有の優雅に地平線を覆う一面のフラクタルな雲に太陽の赤みが細塵の如く繊細にばら蒔かれた黄金色に輝く光が散乱され、神々しい複雑壮美な絶佳を成していた。……しかしそれ程までに、壮大に感じ居るのは自分が矮小な存在で、非此世的な幻想然とまで麗しく想うのも己が醜悪だからではないか。……私は脳裏に思い浮かんだ自虐的な言葉に、自分には楽しい事が有ると萎縮してしまう酷い性質が有るのを想い出した。
ふと、覚醒しつつある脳のシステムには何処か不調なのか、漠然とした違和感を感じたが、気にしなかった。
私は確か精神病院にいるのだが、どうにも其処で何をしているのか想いだす事が出来なかった。
……いや、確か、私は今自分が何者であるかではなく、如何するかを考えるべきだった筈なのだ。
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「私」というものは「他者」が居て関わり初めて生まれる物なのだから。教えられる規則も道徳も教養も物理法則もどれも自分一人の為に在るのではないというのは考えるまでも無い。人格なんてものは「他人」が居なければ自覚しがたい。自分が物語の中でどんな役割を背負わされているのかは終末が訪れる迄は解らないモノだ。わたしの人格は私の為に在るのではない。「他者」の為だ。勿論「他者」とは他人の事ではない。なぜならどの他人も当人にとってみれば「私」で有るが故に、この観念は全ての「他人」に対して当てはまるものだからだ。
ならば「他者」とは何か?――それは全てにとっての他人。全ての外。非存在であり、全てを客観視する在り得ない視点。小説で例えれば読者。いや、存在しない理想の読者。物語に意味を与える読者のことだ。
だから読者の為に存在しているのだ世界は。勿論楽しませる為とは限らない。良く分からない気分にさせたり、感動させたり、失望させたり、憤慨させたり、発狂させたり、達観させたり、呆れさせたり、苛立たせたり、恐怖させたり、納得させたり、見下させたり、特に何も感じさせなかったり――色々だ。そしてそうした読者の反応が世界の意味なのだ。例えば僕が己の脳髄に手を突っ込んで掻き混ぜて死んで、其れを読んだ読者が嘔吐感を感じたら、屹度僕はその為にそうしたのだ。
まあ、勿論その読者はこの物語の意味を正確に理解してくれる人でなくてはいけなくて、そうでなければ僕達には正しい意味が与えられずあまりにも報われない。しかし、そんな人となるとそれは……僕しか居ない!!この世は地獄だ!!そう決めた。そう決められた。僕に。
僕が僕に。――なぜなら、僕が、読者だからだ。
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私は再び窓の外から射す光を見やった。
窓の外、其れは縁取られた世界。閉鎖的な部屋から見る解放された現実の光景。しかし、縁取られた世界など部屋の模様の一つに過ぎない。なぜなら私は視ているだけだからだ。この部屋は陰惨と言うまでの病的な白濁色に塗りつぶされていて、吐き気がする。吐き気が眩暈を起こし、眩暈が気を滅入らせ、体調が悪くなり、力が入らなく、活力も出ないので全身が鈍磨し、体中の鈍磨した重みが金縛りのように身体を蝕み、動けなくなった私は、自身が生きたまま屍と化したかのような錯覚を覚え、そのイメージは滅入った気を摩耗させ、譫妄状態の様に、悪夢が夢の内から這いずり出て来て現実と混濁し、全身の麻痺は極限に達し、結果、過集中した思考回路が絶望感を生み、生み出された絶望感は悪夢と合わさり邪悪な妄想を呼覚まし、妄想が現実を汚染し、汚染された現実が認識を妨害し、ノイズだらけになった世界から冒涜的な言霊が木霊し、何時の間にやら自身の姿は形容し難く見る者へ嫌悪感を催す矮小な体躯の禁忌的で凄惨な身の毛が弥立つ程の脆弱さの腐肉じみた拒否感を与えるのた打ち回る直視できない蟲の様になった気がして、白濁色の壁面にさえ清浄過ぎて人体に有害な紫外線じみた眩さを感じる。そんな部屋の一模様の外界の景色はやはり常識の埒外の既知概念外に対する埒外の彩色で、彩色と言ったのも唯の色の集まりとだけ認識しなければその余りの熱狂的な悪意の混沌の成す狂態に私の薄弱な脳髄など焼き焦げてしまうだろうからだ。
その際限の無い空前の、しかし絶後である事を心の底より懇願したいあのおぞましさを具体的に言うならば、先ずは理性の内に表せるあの「雲」の事から話そう。
遥か巨大で、人智の内に其の僅かばかりの片鱗さえ描くことが不可能が故に、常時の意識など無意味に感じる程に精錬された、日頃常軌を逸した修行に耐え非凡な才能の上に更に昇華した比類なき才知を手に入れる事によって得た精神の理解を持つ一流の魔術師達の内の高位な者の中の一握りから厳選された者のみがようやく辿り着けるかどうかの神の領域、その自ら把握しきれない深淵なる心理の領域の深淵な部分の末端にて、ようやく塵芥の様な雀の涙ほども無い薄弱な理解が得られる「非現実的怪異の未知ながらに感じる不気味な不吉さの向う側に存在する其の理体」の持つ非現実的怪奇の概念の群が混ざり合い、浸食してくるような自ら把握しえない未知の凄惨で、まるで自らを構成する常識の理に編み出された世界観を一瞬の様に暴力的で、拷問の様な永劫の中で粉々に踏み躙り、灼熱に照る飴色ような溶ける甘い悪夢に溶かされる狂想のなかで感じる柔かさを持った幼虫の群れが、肺の中に詰め込まれているような感覚を、あの「雲」からは感じる。
死んだ魚の目と、おぞましい呪詛や不可触の知識、邪悪に満ちた儀式をページ一面に極細やかに隙間なく書き記した後に、その惨たらしい内容を理由に焚書に逢わぬよう見掛けだけ漂泊して現れた白紙の白を併せたような白濁色の、濁りに濁った白さの内に、時折漏れ出す光は、雲とは対照的に過剰な清絶で、見ているだけで全身の細胞に濃縮された強力な滅菌剤を流し込まれたような嘔吐感がするように、異常に純粋な聖的な光の、尋常ではなく高濃度な塊であるのだが、そのような人に対するには逸脱した邪と聖が混然と交り合う様は此の世の終末のような凄絶な風景で、認識不可能な極小の一瞬を観察しただけで眩暈を覚えそうな程の病的な質の暴力の奔流をあの雲は持つ。
しかし、冷静に考えればそれはあの雲の本質ではなく上辺だけの些細な事柄にしか過ぎないと私は気付いてしまった。あの善悪の概念の両極の最端を挽き合わせる事が、何よりも恐ろしいものなのだ。善と邪を双方従えると言う事はそれらの成し得る概念と同質でありながら、それらが成し得る全事象を超越した存在でなければ成らない筈だ。しかし、そんなもの理解できない。なまじ直接に理解できないために、理解を越えているという事が解り、善と邪、その概念の理解し得ない閉ざされた最果て、感覚の源泉であるイデア界が在ったとしてもその内に収め切れるのか疑念を懐いてしまう矛盾せずに非存在である恐ろしいなにかよくわからないもの。観測から帰納された、感覚の延長線にて、抽象的に演繹された超越。それがあの雲の持つ恐ろしい本性なのだろう。
次にその向うの「夕陽」だ。あれは――
――いや、もう止めよう。今ので自分が如何するべきか、判った気がする。外の景色を観て、私は自分の本質を垣間見た気がする。抱えたのは朦朧としたイメージだ、しかし自分がこの光景に対しこの様な見方をする理由を理解するにはその程度のイメージで十分(うんざり)だった。……そう、私は恐らく禁断の知識により精神の、取り分け記憶の面に不安定なぶれを患った、……魔術師なのだ。
私は窓からの外から目を逸らした。
どうもこの病室に居ると悪夢めいた誇大妄想的強迫感に見舞われるようなので、病室の外へ出る事にした。
廊下に出てまず目についたのは夕陽を受けて鮮血に塗れた臓物の様に潤然と赤く照り輝く廊下がじゅんじゅんと続き、その先がまるで懊悩する脳髄が混迷しているような昏冥へと続いている光景だった。その光景に何処か記憶を揺さぶられたのか塵々と全身がノイズへ溶け込む様な痛みが脳裏から視野にかけて奔った。
暫らく、歩いていると私はとある病室の前に辿り着いて居た。
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