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2011年3月24日(木)付

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ヨウ素検出―あかちゃんを守ろう

福島第一原子力発電所から放出されたとみられる放射性物質が広がっている。福島県に続いて、東京都の水道水からも見つかった。これからも、さまざまな場所で放射性物質が見つかって[記事全文]

衆院定数判決―格差正し政治に信頼を

自分たちの代表として、どんな人を国会に送り込むか。そして、国民を守ることを最大の使命とする政府を、いかに確かで頼れる存在にするか。東日本大震災は、民主主義社会の根幹とも[記事全文]

ヨウ素検出―あかちゃんを守ろう

 福島第一原子力発電所から放出されたとみられる放射性物質が広がっている。福島県に続いて、東京都の水道水からも見つかった。

 これからも、さまざまな場所で放射性物質が見つかって不思議はない。

 不安に思う人は少なくないだろう。

 ここで共有したいのは、放射線の影響を一番受けやすいのは乳幼児や妊婦だという事実だ。大人は、こうした放射線から守るべき人たちを最優先に守って、落ち着いて行動したい。

 東京都の発表によれば、23区と多摩地区の一部に供給する金町浄水場の水から、1リットルあたり210ベクレルの放射性ヨウ素が見つかった。

 原子力安全委員会が飲み水の基準として決めた300ベクレルより低いが、厚生労働省が乳児を対象にして決めた基準値の100ベクレルを上回っている。都は給水地域の住民に対し、乳児には控えるようにと呼びかけた。

 ベクレルは放射性物質が放射線を出す能力、つまり放射能の強さを表す。一方、人間が放射線を浴びたときに受ける影響を表すのがシーベルトだ。

 平均的な摂取量をもとに、一定の被曝(ひばく)線量を超えないように物質ごとに放射能の基準値が決められている。「ただちに健康に害を与えない」といわれるのは、基準を超える物質を何回か口にしても、すぐにはこの被曝線量には達しない、という意味だ。

 放射性ヨウ素は、乳幼児の甲状腺にたまりやすい性質がある。甲状腺への被曝量は、年間50ミリシーベルト以下にすると定められている。

 今回見つかった濃度の水道水を長期間飲み続けると、乳児の場合はこの上限を超える恐れがある。

 むろん、短い間ならば水道水でもかまわないが、検出が続く間、乳児にはペットボトルの水を与える方が望ましいだろう。それも震災後、不足気味だ。ここは、乳児はもちろん、幼児や妊婦に譲りたい。

 旧ソ連のチェルノブイリ事故では、放射性ヨウ素で汚染された牛乳を飲み続けた汚染地域の小児のうち6千人以上が甲状腺がんになり、2005年までに15人が亡くなったとされる。

 同じ地域でも、大人は、がんの発生に目立った影響は見られなかった。

 こうした過去の貴重な知見に学びたい。不安というだけで水や食品に過剰に反応すれば、不足も心配される。

 国際放射線防護委員会は、放射能で汚染された食品の摂取基準について、経済的、社会的な要因も考えて、合理的にできる限り低く保つという方針を示している。行政も市民も、冷静に考えることが重要だ。

 放射性物質の拡散を断つには、福島第一原発の状態を安定させ、放射性物質を原発内に封じ込めるしかない。現地での作業が最も急がれる。

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衆院定数判決―格差正し政治に信頼を

 自分たちの代表として、どんな人を国会に送り込むか。そして、国民を守ることを最大の使命とする政府を、いかに確かで頼れる存在にするか。

 東日本大震災は、民主主義社会の根幹ともいうべきこの問題を、私たちに改めて突きつけているように思う。

 首相を指名し、法を定める役割を担う国会議員が適切に選ばれる。そのことが大切なのは、言うまでもない。

 そこで長年問題となってきたのが一票の格差だ。政権交代が起きた先の衆院選でも最大2.30倍あった。これについて最高裁は「法の下の平等を定めた憲法の要求に反する」と判断した。

 小選挙区割りを変更する時間がなかったとして「違憲」の手前の「違憲状態」との評価にとどめたものの、国会の事情を過度にくんできた最高裁が厳しく是正を迫ったことを評価したい。

 判決は、格差をもたらす要因である「1人別枠方式」について、もはや合理性はないと断じた。中選挙区制からの移行期における過渡的な仕組みにすぎないという位置づけである。

 1人別枠とは、小選挙区の300議席をまず都道府県に1議席ずつ割り当て、残りを人口に応じて配分する方式をいう。過疎地に住む人の声を国政に十分反映させるのが目的とされた。

 この考えはどこまで説得力を持つだろうか。地元選出議員の数が減ることへの不安は分かる。しかし、カネや利権を持ってくることが地域振興につながる時代ではない。右肩上がりの経済が去り、議員には「地域の代表」ではなく「全国民の代表」として行動することが、従来以上に求められている。

 1年半前、私たちは投票によって政権を交代させられることを身をもって知った。そして今、期待と現実との落差の前に、戸惑い悩んでいる。

 国民自身が選んだ政権である。その「功」はもちろん「罪」も最終的には有権者一人ひとりが引き受ける覚悟を持つ。それが民主主義だ。

 だがそのとき、住む地域によって一票の重みにばらつきがあると、どんなことになるだろう。「自分たちが選んだ」という感覚はそのぶん薄くなる。国民と代表との距離を遠くし、政治への不信を呼び起こしかねない。

 震災の災禍はまだ続いている。現政権はもちろん、将来の幾代にもわたる政権、そして国会が再生と復興に取り組むことになるだろう。社会保障と財政のあり方など未解決の重要課題も数多い。この先、厳しく、苦い政治の判断が繰り返し必要になってくる。

 国権の最高機関である国会の正統性に疑義がもたれ続けるようでは、そうした困難を乗り越えていくことは容易でない。判決の説くところを理解し、衆参両院のあり方を視野に入れた改革に正面から取り組む。それが国民の代表者の務めである。

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