東北地方にお住まいの皆さん、お元気でしょうか。
地震の被害にあわられた皆さんに
心からお悔やみを申し上げます。
かく申し上げる手前どもも、
福島県いわき市平の出身でございます。
故郷には次姉が一人住んでおります。
その次姉とここ三日間連絡が取れずに
ヤキモキしておりましたが、
昨晩遅くようやく連絡が取れて無事でいることが分かって
一安心いたしました。
本人はいたって元気で、この地震でそれまで顔を見合わせても
話すことのなかった同じアパートに住む住人たちと
助け合って交流の輪ができた、と楽しそうに話していました。
ヤレヤレでございます。
この間、心配で心配で何も考えることができず、
このブログをご無沙汰してしまいました。
次姉の無事を確認できましたので
ようやく筆を取らせていただいた次第です。
いつもご愛読いただいている皆様にはご迷惑をおかけしました。
お許しください。
次姉は手前どもより3歳年上です。
次姉の性格は一言でいえば「しぶとい」でございます。
若くしてご亭主と別れてこれまで女手一つで三人の子供を育て上げてきた
女偉状夫でございます。
次姉は子供たちが一人前に育つまで
それこそ朝から晩まで不眠不休で働いてきました。
朝早くから早朝勤務の電子工場で組み立て工員として働き、
夕方家に戻るとオデン屋に働きに出て夜遅くまで働きました。
深夜家に戻ると子供たちの洋服の破れをつくろい、
明日学校に持って行く弁当の準備をして、
床につくのはほとんど明け方近くでした。
その頃のことを振り返って次姉は
「私はあの頃の10年間、一晩も寝なかった」
とよく言うのであります。
人間10年間一睡もせずに生きることなのできるわけがないのですから、
次姉の話しは誇張であることはあきらかです。
があの頃の次姉の「獅子奮迅」ぶりを知る身としては、
あながち全部が嘘とも言えないような気がするのでございます。
それほどまでに次姉は働きに働きました。
本当に次姉はいつ寝ているのだろう、
と不思議に思ったことが何度もあります。
そんな生命力に溢れた次姉のことでございます。
このたびの大地震にみまわれても
何があってもしぶとく生き延びるに違いない、との思いを持っていましたが、
福島県浜通りの被害情報を刻々とテレビで知るに至って、
不安をつのらせていたのでございます。
金曜、土曜の二日間はまんじりともせずに夜を過ごしました。
次姉とのことでの思い出が走馬燈のように頭をよぎりましたが、
中でも強くよみがえってきたのは
幼き日のサーカスの帰りのときのことです。
五、六歳の頃と記憶しています。
五、六歳の時のことなのに何故かこのシーンが
いままで何度も思い出されてきて
鮮明に頭にきざまれてあるのでございます。
街にサーカスがやってきました。
母親がサーカスのテントの前の入り口の場所に戸板を敷いて
その上に飴やセンベイをのせて露天の店をやっていました。
次姉と一緒に母親の手伝いにその露天に行きました。
手伝い、とは名ばかりで母親から飴やセンベイを
一つでも分け与えてもらおうというコンタンでした。
冬の寒い季節でした。鼻水をたらして寒い寒いと母親にまとわりついては
喰べものをねだって叱られていました。
陽が落ちてサーカス興行が終わりました。
人の影が消えたなかで露天を店閉まいして家路につくことになりました。
母親は戸板を二つに折りたたんで背負い、
両の手に売り物の飴やセンベイの入った袋をぶらさげました。
トコトロと三人揃って山の上にある家に向かって歩きました。
途中で急に睡魔が襲ってきて歩けなくなりました。
「眠い、歩けない」とグズって道にヘタリこみました。
しかし母親は一願だにせずスタスタと歩き去って行きます。
「母ちゃん!!」と大きな泣き声を上げましたが
母親はいっこうに振り向く気配が見せませんでした。
「ほれ、姉ちゃんがおんぶしてやっから」
と云って次姉はしゃがみこんで背中をみせました。
次姉の背中に体をあずけて重なりました。
おぶりながらヨイショ、ヨイショと小さな声で音頭をとりながら次姉は
曲がりくねった坂道を家の方へ向かって歩きはじめました。
「チコ姉ちゃん・・・」と小さな声で次姉の名前を呼びました。
次姉は何も答えずに勢いのいい声をヨイショ、ヨイショと出しながら
歩き続けました。
幼稚園に入る前の小さな子供といっても
小学三年生の次姉にとって大変な負担だったに違いありません。
しかし根を上げずに我慢をして家にたどりつくまで一度も
歩みを止めることはありませんでした。
その日から「次姉」をもっと大好きになりました・・・。
半世紀以上前のあの時の姉の小さな肩のぬくもりが、よみがえってきます。
この三日間、あのときの次姉の小さな肩のことばかりを想い出していました。
いま一度、生きて次姉に再会しあの肩にめぐりあいたい、と願っていました。
無事でいることを知って、オヤジとオフクロの仏前に報告しました。
「この野郎、お前は長男なんだから、しっかりチコちゃん(次姉のこと)
のことを守らなければ駄目じゃないか」
と仏壇に飾ってあるオヤジとオフクロの写真が
小言を言ってるように見えました。
福島県いわき市の故郷の皆さん、皆さんの無事を心より祈っています。
今朝方、マンションの前にある神社に行って
いつもの10倍近くの時間をかけて手を合わせてお願いをしました。
この神社にはもう11年近く、毎朝欠かさずお参りに行っています。
艱難辛苦の境遇を今日まで無事にたどりつけたのも、
この神社のお蔭と常々感謝しています。
霊駿あらたかな神に無心で祈りました。
神様、合せて東北の地にあえぐ人達に助けの手を差しのべて上げて下さい。
先程福島の平にいる60年来の親友の所へ電話をかけました。
彼は青果業を営んでいます。
季節の折にはもう何十年もおいしい果物を贈ってくれている、
ありがたい友達です。
今一番困っているのは何だ、と聞きましたら「水」とのことでした。
電気は通っているのですが水道の配管がやられてしまっていて
「断水」しているために、「水」に困っている、と語っていました。
水がないために炊事洗濯ができずに、
トイレにも入れないありさま、だそうです。
また車のガソリンも何時間もならんでも
一台あたり10リットルしか買えないのだそうです。
コンビニやスーパーも物流が途絶えて売るものが無くなってしまい、
すべてシャッターを下ろしている有り様だといいます。
友は妻や子供たちがトイレで使う水を夜川にくみに行ったついでに、
畑で野グソを50年ぶりにした、といって乾いた笑い声を上げていました。
タフな男です。家族を守ってこれからも何があっても
頼もしい父親であり続けるでありましょう。
何かお役に立ちたい、と思っても
このところがポルノ屋稼業の悲しいところでございます。
ひとたび災害となりますと、あらゆる職業の中でたった一つ、
ポルノ屋の出番は全くないのでございます。
少しでも目立った動きをすると
「野郎、この非常時に不謹慎極まりない」
と絞め殺されそうでございます。
つくづくポルノ屋稼業は皆さまの幸福と安全が担保された社会でのみ
生きることが許されるのだ、と改めて感謝とともに納得したのでございます。
友達の会社は築何十年もを経た古い建物だそうで、
立っておられないほどの揺れであったのにもかかわらず
崩壊することがなく命拾いをした、と話していました。
彼の会社の近くにある事務所や住宅でも
あれほどの揺れであったのにもかかわらず
倒壊した家屋が全くなかったそうでございます。
不幸中の幸いと申しましょうか、このたびの大地震で
日本の建築の優れた耐震構造技術が再認識されております。
宮城県の陸前高田市をはじめとする三陸地方の街を
大津波が襲う映像がテレビで流されておりましたが、
大きな地震にみまわれたのにもかかわらず
家屋はみんなシッカリと倒壊することなく直前まで建っていました。
手前どもビルの8階におりましたが、
右に左にと立っていられないほどに大きくビル全体が揺れました。
室にある本立てがガタンと倒れて床の上にたたきつけられました。
30年来の友人と同じ事務所の中で打ち合わせをしておりましたが、
あまりの揺れの大きさにおじけずいた30年来の友人は、
事務所の扉を開けて外に飛び出して行きました。
外に飛び出しても目の前にあるのはエレベーターのドアでございます。
何度も事務所を訪れてその構造を熟知している筈の
30年来の友人でございましたが、余程助かりたかったのでしょう。
「あぶないから室の中でジッとしていて」
との手前どもの言葉を振り切って室を飛び出して行ったのでございます。
室を飛び出してエレベーターの扉の壁に直前した彼は
直ちに事務所の室に戻ってきました。
戻ってきて彼がしたことはドアのノブに両手をついて
頭をつけて中腰になり尻をこちらに向けるポーズでした。
それはあたかもダチョウが危機を感じたときに
「ヤブの中に頭を突っ込んで尻を隠さず」
のあのポーズをとる様に酷似していました。
いざとなるとダチョウ顔負けの行動を取る人間が
30年来の友人のなかにいたのでございます。
それも60を過ぎてでございます。
60まで生きればもう後はもらった寿命と諦念をもって
しかるべきなのでございますのに、
60過ぎてもまだあと100年は生きたい、
との怨念に憑りつかれているかのような振る舞いでございました。
人の振り見て我が身をなおせ、といいます。
このたびの地震では皆さまの周囲にもこうした
「あさましい」人間が見うけられたでありましょうか。
このたびの震度5強の大きな地震に見舞われても東京では
二、三ヶ所での崩落が報告されただけにとどまりました。
世界のどの国や都市においてもあれほどの大きな地震に見舞われて、
これほど安全で無事でいることができえたでしょうか。
おそまきながらに日本の建築技術の素晴らしさに感銘を受けております。
auの携帯を使っております。
メールなどやり方がわからず、
もっぱら電話とワンセグだけの用で使っているのですが、
このauの携帯が「けたたましい」のでございます。
気象庁の地震情報の警報発表が出されると同時に、
ブウブウとけたたましく震えながらの音を出し、
知らせてくれるのでございます。
どういう加減でそうなっているのか分かりませんが、
多分携帯を買ったときにそうしたソフトが
一緒に組み込まれてたのでしょう。
けたたましく携帯が震え出すと
約10秒後には確実に地震がやってきて震えが始まるのでございます。
最初は真夜中熟睡中にもかかわらずけたたましく起こされて、
もういいかげんにしてくれ、と辟易したものでしたが、
この頃ではこいつが身を守ってくれている、
と携帯を随分といとおしく思えるようになっています。
テレビを見ていて涙が流れたことについて書きます。
一つは福島の第一原発の一号機と三号機で作業をしていて
負傷した東電の社員及び下請け会社の作業員の皆さまのことです。
彼等は命をかけて危険もかえりみずその職責をまっとうされた人達です。
とくに大多数は東電の恵まれた待遇の社員とは違って
3Kの立場の労働者の人達でした。
それぞれがその道の専門家ですから一歩間違えればどうなるのか、
分かっていたはずでした。
しかしそうした危険に臆することなく
彼等は使命をまっとうして被害にあわれたのでございます。
まさしく「公」の為に命をなだ出した「英雄」でございます。
今日の私達の繁栄と豊かさはこうした名もなき人達の献身的な行ないの
「犠牲」の上にあることを忘れたくないものです。
原子力が怖いの危険だのとホザいても、
その存在のおかげで私達の幸福な生活が
成り立っているのは明きらかなのです。
東電の社長役員以下、負傷された「英雄」たちのもとに駆けさんじて、
その労に最大の栄誉と報酬によってむくいるべき義務があります。
直ちに行動に移して下さい。東電の役立たずの万死に値する経営者諸君!!
幼稚園から小学中学と同級生だったSクンという男がいます。
目が丸々と大きい、なかなかの美男子でした。
彼は学業の成績がすこぶる優秀でした。
700人ほどいた中学の同級生の中でいつもトップの成績を誇っていました。
彼とは幼稚園時代から小学校中学生位までは仲良しでしたが、
当方のあまりの馬鹿さ加減に彼の方がついてこれなくなったのでしょう、
段々と疎遠になり、中学に入ったころは廊下で顔を合わせて
オウと軽く合図を交わす程度の付き合いになっていました。
高校から東大へと彼は進学を果たしました。
ヤッパリ東大に入ったのか、と地元の夕刊紙にデカデカと載った
「東大合格者」と書かれた彼の名前を見て納得しました。
納得の中に、小さなヤキモチがありました。
彼と親しかった幼稚園から小学校の中学生時代の頃までは、
頭の良さでは負けていないと自負していたからです。
算数や国語が、というのではなく、それは「地頭」のことです。
話す内容や会話のセンスが自分の方が彼より少しマシだ、
とウヌボレていました。
俺だって頑張れば東大に入っていたかも知れない、という例のアレです。
35歳のとき、突然彼が死んだ、という噂を耳にしました。
彼は東大を卒業して原子力の研究の道に進み、
その研究開発の過程で被爆して命を落とした、という話でした。
彼は結婚していて妻と幼ない娘が二人いた、ということです。
通夜は本葬は彼の遺体がないままに取り行なわれました。
遺体がないのは原子力に被爆したときにうけたダメージで
彼の体はグチャグチャに壊れていて
とても遺族に見せられる状態ではなかったため、という噂でした。
その時は被爆はどんな状態でおきて体はどんなふうに
グチャグチャになるのか想像することができませんでしたが、
あんな優秀な奴が原子力の事故にあって死んでしまうなんて、
と原子力の底知れぬ恐しさを感じたものでした。
あれ以来原子力、と聞くと彼のことを想い出して心がざわめきます。
危険だリスクだと騒ぎたてても我々にとって原子力は
かけがえのないものとなっている現実があります。
今回の事故の教訓をもとに、アツモノに懲りてナマスを吹く、
といった愚に陥ることなく名実ともに世界一安全な
原子力のシステムの構築に全力を注いでいただきたいものでございます。
それが多くのこれまで原子力開発に命を捧げてきた人達への
なによりの供養となるからです。
土曜日の午後、地震の災害から24時間も経っていないうちに
お隣りの国韓国からシェパード二匹と五人のレスキューの専門家が
応援のため羽田にやってきました。
人の情け、とはありがたいものでございます。
弱った心でいるときはなお一層身に染みます。
韓国から早々とかけつけてきた5人の「勇士」を見ながら
涙が止まりませんでした。
また米国空母をはじめとするやってきた救援チームのコードネームは
「トモダチ」作戦でございました。泣ける話、でございます。
宮城県の三陸の町の崩壊した町のガレキの山の一隅から
年輩のご老人が助け出されました。
両脇を救援隊にかかえられながら出てきたご老人は
取材するカメラに向かって笑顔でこう答たものでございます。
「私は50年前(1960年)のチリ地震を経験しています。
あのときも今度と同じように全部無くなりました。
今度もまたみんなで再建しましょう」
さすがでございます。お言葉に千金の重み、がありました。
そうした不屈の精神が敗戦の廃墟から日本をたち建ち直らせたのです。
我々の父や母ができたことがその血筋を引く子供の
我々にできないはずがありません。
このような素晴らしい老人がいたことを知ることができたことは、
このたびの災害での最大の収穫でした。
3月9日夜の新宿ロフトプラスワンで開催されたイベントは
おかげさまで大盛況のうちに終えることができました。
大入り満員となり、せっかくご来場いただきましたのに
会場に入ることができずお帰りになられたお客さまが
沢山いらっしゃいました。
本当にご免なさい、心からお詫び致します。
またの機会に是非ご来場いただきますよう心からお願い申し上げます。
今回のイベントのテーマは「元気のお裾分け」でございました。
その「元気のお裾分け」をいただく源泉はご出演いただきました
3名のトップAV女優さまと美人ライターのサンディさまでございます。
ご来場いただいた皆様にはよくよくご理解いただけたと存じますが、
彼女たちは皆美しく輝いていました。
普通AV女優といいますと、
パッケージ写真に写っている本人たちと比べて、
実物のそれが格段に落ちていてガックリさせられる、
というのが相場でございましたが、
彼女たちはその心配を見事に払拭してくれました。
なぜ彼女たちはあんなにも輝いていたのでしょう。
それは彼女たちが日々ガチンコで勝負しているからなのです。
ガチンコといっても何も「本番」だけのことを
申し上げているのではございません。
人気という実に不確から明日をも知れぬものに、
自分のすべてを賭けて捨て身で生きているゆえに
「輝いていた」のでございます。
いつもヤスリでコスられている鋼鉄はまぶしい光を放つ、
ということでございます。
それはまたリングに上がるチャンピオンのごときであります。
バッターボックスに立つイチローや
この一打に精魂を傾ける石川遼君のように、
全智全霊をかけて勝負に挑むものが一様に発つ
オーラが彼女たちにも宿っていたのでした。
彼女たちはこのままでも誰かが助け船を出してくれるから
何とかなる、という境遇に生ききていません。
太平洋で屋根の上に乗って漂流し
ようやく数十時間後に助け出された三陸の被災者のように、
厳しい境遇をもがき続けて生き延びてきています。
壁にぶつかるとすぐ諦きらめてしまういまどきのビジネスマンと違い、
彼女たちはリスクを恐れることが一番のリスクだ、
ということを知っています。
どんな風に自分を売って人気者になるか、ではなく、
お客さまは何を求めているかを鋭く洞察してその求めているものに
果敢に化身していく、という自己プロデュース力に優れています。
たかが淫売というなかれ、
彼女たちの裸一つで商売をしていく困難さと見事さは、
殿方が我が身に置き変えてみればすぐわかることでございます。
機せずしてあのイベントがあった日から2日後に
このたびの東北大地震が発生しました。
この「困難」という難局を乗り越えるにあたって、
彼女たちの生き方から学ぶことは少なくありません。
この覧でこれまで何度も書いてきましたが、
東南アジアに限らず、世界の人々は日本のAVを熟知し焦がれています。
あれほどまでにパワフルで多様性に富み、
たくみな性愛の世界をむさぼってきた日本人、
日本民族に畏敬の念を抱いています。
圧倒的なSEXの世界を賞でている日本民族が、
こうした絶望的困難をどう屈服するのか、
とお手並み拝見と手くずねひいて見ている、といっていいのでございます。
苦しいとか、助けてとか、もう駄目だ、はおととい来いの話しでございます。
いまこそ日本人の心意気を見せて団結しこの逆境を
見事に建てなおすべきでございます。
新たな伝説をつくるのです。
これまで何度も国内外を問わず逮捕の浮き目にあってきました。
米国で370年の刑を求刑されたときはもうこれで駄目か、
と何度もヒザを折りかけました。
1993年に50億の借金を背負って倒産したときは、
正直もう世の中から雲がくれしようと思いました。
死にたい、死にたいと千回は思いつめました。
それでもこれまでやってこれたのは「意地」でした。
ヨシ、逮捕されたり倒産したりした人間でなければ出来ない仕事、
人格を磨いてやろう、と心に誓ったのです。
逮捕されて50日も100日も150日も拘束されることは辛いことです。
すべてそれまで培ってきたものがゼロになってしまう、
と考えるといても立っていられなくなります。
でもこう考えることで耐えることができました。
「命を取られたワケじゃない、
これから先の人生、人が5年でやるところを2年で、
10年でやることを4年でやれば今度の逆境など
いくらでもオツリがくるものだ」と。
「ピンチはチャンス」といいます。
この苦しいつらい経験をバネにして生きる、
という考えを失くしては成功はおぼつきません。
何故ならたいていの場合、失敗に続く失敗の連続の果てに、
ようやく成功の頂上が見えるからです。
世界からニッポンガンバレ、ガッツを持とう、
の応援の声が寄せられています。
後世において、あれほどの復興を日本でなければできなかった、
との誇り高き伝説を作るために一致団結して奮闘するのです。
それがこのたびの災害で亡くなった御霊への
なによりの鎮魂となるものと信じます。
テレビで何時間も整然と行列をつくりながら順番を待つ人達の姿を見て、
これぞ日本人と感動しました。
近くにJALのホテルがあります。
ロビーは普段より3分の1程度の明るさで保たれていました。
丸正のスーパーに行きました。
店内のあちらこちらの照明が落ちていて暗くなっています。
普段は光々と灯りで照らしている鮮魚売り場も
薄暗く照明が落とされていました。
それぞれがご時勢を思い計ってのさすがの
企業コンプライアンスの実行でございます。
とりあえず手前どもが住む東京23区は計画停電の対象から
現在のところは外されております。
このたびの計画停電でこれまで自分たちは
いかに電気を無駄に使ってきたかを思い知らされました。
思えば消費こそ美徳である、との時代を長く生きてきました。
節約は美徳とでもとなえようものなら
「国賊」扱いされない風潮がございました。
いま一度、もののありがたみを知る上で、
貴重な体験をさせていただいているのだと、
感謝の気持ちで過ごしております。
ポルノ稼業など混乱と不安と悲しみが充満する社会にあっては
砂上の楼閣であることをこのたびの東北大地震のことで思い知らされました。
使命は世の中の平和を願うこと、それがポルノ屋の生きる道と、
なにやら新興宗教の教祖さまになったごとき啓示にうたれて
背筋がピンと延びております。
こうした大災害のときに筆をとることは気が重いことです。
何を言っても、不謹慎のそしりをまぬがれないからです。
黙して語らず、がかしこい立場であるかも知れません。
でもあえて筆を取りました。
伝えたかったこと、があるからです。
それは被災された皆様に、国民の皆んなが注目し、同情を寄せて、
心から応援している、ということを、自分の声で改めて伝えたい、
と願ったからでした。
これまでエロ事師稼業を30年近く続けてきて
多くの皆様にご声援をいただいてきました。
生まれ故郷地元福島、浜通りから双葉地区をへて仙台、
三陸地区の皆さまにも多くのご声援をいただきました。
今日あるのも皆さまのおかげであると心から感謝をしています。
地元平浜通り地区をはじめ多くの人がお亡くなりになりました。
小学校、中学校、高校と同級生や顔見知りだった人達も、
残念なことですがその中に少なからず含まれているに違いありません。
また地元福島をはじめとして仙台、三陸地区の皆様には
これまで親交をあたためてきた人達がおられます。
それらの人達の顔がこうしてこの文章を書いていると
頭に浮かんできて涙が止まりません。
男泣きに泣いています。悔しくてなりません。
悔しくてならないのです。
こうして書いていて何を申し上げたいのかわからなくなっています。
ただ悲しいのです。
三人の子供と妻を失なった青年の顔をテレビで見ました。
彼は泣いていました。
これまで生きてきてあんな悲しい人間の顔をはじめて見た気がしました。
あの若いお父さんの青年の将来を思うと祈らずにはおれません。
たくさんの涙が流れて書いています。
原稿は原稿用紙に手書きで書いて
それをスタッフがインターネットに上げる作業をしています。
泣き虫のところをスタッフに見られて恥しい気がしますが
涙が止まりません。
「世にありがたき至宝は涙なるべし」、と言います。
涙が自分の都合や打算ではなく、
被害者の皆さまの心とつぐものと考えれば
誠にありがたき至宝というべきものでございます。
命がんばれ!!東北人たちよ!!
「泣くことの出来ない悲哀、
世の中にこれ位い辛く恐ろしく凄まじいものはありません」(若山牧水)
泣きながら生きて幸福をつかみ、
いつか必ず無念の涙を晴らそうではありませんか。
3月9日の新宿ロフトプラスワンでのイベント風景






〜〜最新映像作品のご紹介〜〜
THE真正中出しショータイム4
主演:浜崎りお
監督:村西とおる
奇跡のコラボ「村西とおる×モブスターズ」
下記画像を【クリック】してモブスターズでご覧ください。

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