PJ: 池野 徹
モンスター大地震と大津波からの「大脱走」!?!
2011年03月15日 08:24 JST
"Oh My God Sky!" (撮影:池野 徹 Mar.11.2011) 
【PJニュース 2011年3月15日】3月11日午後2時46分過ぎグラッと来た。緩やかに揺れている。大きくなりそうな予感、ワイフとストーブを消して外へ出る。家の前の直ぐそこの空き地へ行こうとしたが、歩けないのだ、立っていられない。やっと空き地の芝にしがみつき、近くの電信柱が倒れない場所を探す、丈夫そうな樹の下へ。一度おさまったので、もっと広い枯れ草地にいくと、またグラッとデカイのが来た。しゃがみ込んだ。海原で船に乗って酔っぱらってる様だ。頭の血がロッキングしている感じだ。
近所の人が、長年、千葉にいるがはじめての経験で震度7レベルだから、津波が来てもおかしくないと教えてくれた。そう言えば、昨日、九十九里海岸へ、ウオーキングに行ったら、海岸線が10メートル近く、いつもより、引いていたので、何故なのかと思ったが、地震と津波の前兆だったのだ。10メートル超える津波が予測されるという情報だと言った。此処は粟生野、九十九里の海岸から海抜も平坦で、5キロ位だ。3階建ての家の屋根でも上がらないとやられてしまうと言うので、どうしたらと言うと、とにかく高地の10キロ以上先の土気方面へ逃げるしかないと言われる。
揺れの続く中、毛布、羽布団、飲み物お菓子を詰め込み、セーターとオーバーコートとラジカセを持ち出す。電池が心配。財布と、ケイタイとカギを持ち、マイカーのMINI-MOKEに乗り込む、しかし、ガソリンが5リッター位しかないのがわかる。さて何処まで行けるか。途中ガソリンスタンドに寄るも、停電で通電しないと給油は出来ないとの返事、こういう時こそと言うがアウトであった。これで、高地の土気には行けない事が決定的になる。道路の信号は停電で無反応、行列渋滞になっている。クルマが動けなくなる予感がして、JR外房大網駅近くで、家からは10キロ位先のコンビニのセブンイレブンにパークする。此処なら食い物とトイレが確保できる。
しかし店内も停電で、客が行列して、おにぎり、サンドイッチ類は売れ切れ、電池も売れ切れ、カップラーメンが売れていた。ポテトチップとドリンク類を買った。いつものコンビニも余震でがたつく中、異様な状態だった。覚悟を決めて、そこでクルマに戻り待つしかなかった。夕方6時を過ぎて雨が降って来た。暮れかかった空はグレイの低い雲に、地平線がオレンジ色で不気味な色だった。昔、おふくろが関東大震災の時の紫色に変色した空の事を話してくれたのを思い出した。カメラで数枚シャッターを切る。夕闇が迫り寒くなる。普通の乗用車と違い我がクルマは、幌張りのクルマで隙間から、まぎれもなく寒気が入ってくるのだ。寒いクルマで毛布と羽布団をかぶりじっと待つが、その間、余震が来る。それがまたデカイのだ。クルマごと船酔い状態になる。ガソリンはないしこれ以上逃げられないし、此処まで津波が来たらと覚悟を決めた。
カーラジオもエンジンかけ放しというわけにいかない。電池を気にしながら、ラジカセで、AMラジオNHKを聞く。情報では、日本中この地震の被害を受けてる事が解って来た。結果的には、16時間もこの放送を聞いた事になる。しかし、その情報のコンテンツは、全国レベルで、大津波情報もひとくくりで、地域的な情報は全然解らないのだ。これは、ケイタイでも同じ事だ。ケイタイもなかなか繋がらない。息子からケイタイに心配してかかってきた。何十回かけてやっと繋がったと言っていた。メディアでは、何処に非難するとか、個々の刻々の逃げ道情報は、全く解らない。結局、普段から、自分の情報を持っていて、自分の判断しかないことが、嫌と言うほど解らされた事だ。日本は島国だから、マンモス津波が来たら、日本沈没かと思っていたのがマジに現実になりそうだと驚愕の気持ちだった。大自然のマンモスパワーにひれ伏すのが、人間どもの運命か、これも、自然破壊の神の復讐かななどと、冷え始めた外気の中で考えた事だった。
コンビニの若い子に次の食材は何時来るか聞くと11時頃と言う、さすがと思ったのもつかの間、食材は来ません、コンビニも閉店にすると言う。あせって、トイレに駆け込んだ。そして、人とクルマもいなくなり、真っ暗闇のコンビニの前で取り残される事になった。前の道路もクルマが少なくなっていた。しかし空は晴れて月が出て、星が瞬いていたのが、不思議な光景だった。
足の指が凍った状態だ。身動きもできず座った状態は、飛行機で外国へ行った状態が思い出された。ラジオでも、エコノミックシンドローム(静脈血栓塞栓症)に気をつけろと言っていた。トイレを催し始めたのでクルマを動かし、近くの大網駅へ行った。途中暗闇交差点で、譲ってくれたクルマのお陰で通過した。駅に着いた。11時だった。タクシー乗り場に20人位待ち人がいた。少ないタクシーを寒さの中で待っていた。駅はシャッターを下ろしていたが、中はコウコウと電気がついていた。トイレを貸して欲しいと裏口をノックした、表の駅外にあるという、そこは、電気もつかず解りにくかったのだ。なぜ、この非情時に、駅を閉め駅の明るいトイレを使わせないのか腹が立った。タクシー客も入れてやれば良いのにである。
ターンして、直ぐ近くの明かりの消えたコンビニのファミリーマートへパークする。しかし、余震は止まない。さらに世の明けるまで、此処にいるしかないと、再覚悟を決める。寒さと眠気との繰り返しの中で、時々、水気は控えて駄菓子を食べながらラジオのニュースを延々と聞いていた。時々イヌの散歩に来る人がいる。コンビニに確かめにクルマが入って来る。そして開いてないのかとつぶやき立ち去る。ターンするカーライトの何と眩しい事か。
闇の帳を破り東の空が朝焼けになって来た。この異常なる時に見事な晴天に美しさを添えているのは、何だろうかと思った程だ。早朝6時を過ぎていた。何と家を出て16時間もクルマで過ごしたのだ。長かったのか、短かったのかわからない。妻は、チョットした冒険だったねと言って、津波が来てもこのクルマは水陸両用みたいだから浮かぶわよなどと笑っていた。自分達は、戦後の日本の生き方も知っていたし、非情時を楽観時に変える術は持っているつもりだ。しかし、このデジタルネット情報時代に、電気が消えただけで情報も真っ暗闇になることが解った。自分の事は、自分の判断でやる事も再確認された。
我が家にたどり着いた。カギを開け中に入ると、棚の上のものが散乱していた。しかし他は無事。ましてや、津波も押し寄せてなかったし朝の光が燦々と入り込んでいた。しかし、テレビのニュースを見ると、そこには10メートル超のモンスター大津波が無惨にも、宮城福島県の町を村を、人を家を飲み込んでる光景が次々と映し出されていた。さらに、天災か人災か、原子力発電所の爆発とテリブルなニュースまで伝わって来ていた。この東北地方、太平洋沖地震の凄まじさに驚かされたのだった。そして後で、我らの避難していたコンビニは、10メートルの大津波で到達する場所だった事が解ったのである。津波の方角が、九十九里では、銚子より下の旭市辺りまでだったので、運が良かっただけだと解らされた。大脱走したのは正解だった。しかし何で、きょうは、こんなに紺碧の空なのか何事もない様に。その眩しい光に、睡魔を耐えた眼は痛かった。
「いつもラジオとバッテリーとガソリンは忘れずに。」
被災された方に心からのお見舞いと元気を。
【了】
■関連情報
http://blog.livedoor.jp/stone999/