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[26621] 【魔まマ】眞劍少女まどか☆ジュゥべえ【柳生】
Name: 丁々発止◆2ec803b2 ID:3724bb89
Date: 2011/03/22 19:10
 ――おれは、ジュゥべえ。
 ある日、それは、吾々の前に現れるなりそう名乗ると、にっ、と笑った。
 ――汝ら、某に誓紙を奉じ、眞劍少女と変ずるべし。


 それから、十年――。


 目が覚めると、なんとも心地良い朝の匂いが、ふあっ、と、吾を包みこんでいた。よい日和である。日和がよければ、心持ちもまたよくなる。寝台より身を起こし、寝室のカアテンを開くと、ますますもって、朝の匂いが清々しく感ぜられた。
 ――夢か。
 夢であったらしい。さて、何が――よくは思い出せずとも、得てして夢とはそのようなものである。

「どうした、まどか」
「夢でござる」
「ほう、夢」
「夢でござるよ」

 立ち上がると、床の冷たさが身に沁みた。
 寝巻きのまま寝室を出る。硝子張りの、中庭に面した廊下を歩いていると、父上がいた。父は主夫で、この時間はいつも家庭菜園の手入れをやっている。今は軍手をはめ、しゃがみ込んでプチトマトを収穫していた。朝の日差しを浴びて、うなじのところに汗が浮いている。
「お早う御座いまする、父上」
「おはよう、まどか」
「母上は、如何に」
「達也がいってる。手伝ってやって」
「かしこまってこざる」
 きた道を戻って、母の寝室を目指した。さほど近づかぬうちから、まだ幼い吾が愚弟の、母を急かす声が聞こえてくる。弟は元気がよく、母は朝に弱い。
 寝室の扉を勢いよく開け放つと、思った通り、母は寝台の上で布団を被ってぐずついていた。弟は簀巻きになった母に跨って、声高にそれをなじっている。吾は二人の横を行き過ぎると、ばっ、とカアテンを開いた。
「ぎぇえええええええええ!」
「ママ起きたァ――ッッッ!」
 母と愚弟の奇声もいつものこと。今朝も至って、鹿目のうちは平和である。
 着替えて髪をかろく結い、母上と一緒に洗面台で歯を磨く。それにしても、父上は偉い。まだ夜も明けきらぬうちから、起きて家族のために働いておられる。母は母で働いているから、偉くないわけがない。ただ、二人の生産するものを食い潰すよりない中学生の吾身のみ、今のところ価値がない。
 なにせ吾身は女である。お家を継ぐことままならぬ。
「最近、どうなの」
「仁美どのに、また恋文が届きて候――今月になって、はや二つ」
「直に告るだけの根性もない男は駄目だ」
 歯を磨きながら、吾々はもそもそと語り合った。
「和子はどう」
「教諭は未だ続きて候。ホームルームにて、惚気を些か――今週で、三ヶ月目に届かば、記録更新の模様でござる」
「さあ、どうだか。今が危なっかしい頃合いだよ」
「左様で」
 うがいを済ませて、母上は髪にドライヤーを当てている。朝のこの時間は、ずぼらな母上が華麗なる女へと変ずる時間帯であった。吾はここまで露骨には変じられぬ。せいぜいが、顔を洗ってさっぱりするのが関の山。タオルを手探りで探していると、母が渡してくれた。
「本物じゃなかったら、だいたいこのへんでぼろが出るのさ。まあ、乗り切ったら一年はもつだろうけど」
 気のない返事をしながら、母上をちらを見やる。みるみるうちに「化けて」いく。大人の女は恐ろしい。
 やがて、それは一見して母上とは異なる何かへと変じた。
「――完成」
 出来上がったそれは、小粋にスーツを着こなした、いわゆる「デキる女」であった。その本性は巧妙に隠匿されている。
 吾は、母上から両の手に持った二つのリボンへと視線を転じた。
 赤と――黄。
「さて、どちらにすべきか」
 ぴっ、と、指が赤を差した。母である。
「ちと、派手すぎではござらんか」
「それぐらいでいいのさ。女は外見で嘗められたら終わりだよ」
 果たして、どうであろうか。対手の慢心、油断につけ込むのは、これは兵法においてはもはや定石といって過言では――。
 つらつらと考えながらも赤のリボンで髪を括ると、母上は「うふっ」と頬を吊り上げた。
「いいじゃん。これならまどかの隠れファンもメロメロだ」
「ご冗談を」
「いると思っておくんだよ。それが美人の――ヒ・ケ・ツ」
 ケレンである――柳は緑、花は紅――ただ、吾は吾。
 母が去ってのち、吾は鏡にうつった吾を一瞥した。

「よく似合っておる」
「派手すぎではござらんか」
「それが似合うと云っておる」

 思わず笑ってしまった。それで、そのことはもう気にすまいと思った。
 それから、朝食になった。母と愚弟とでダイニングの食卓を囲む。父上は、キッチンに立っていた。吾が家は、いわゆる「あっとほーむだっど」なのである。
「キェァ――ッ!」
「でェァ――ッ!」
 愚弟の、奇声と共に振り下ろしたフォークから、プチトマトが逃れて宙を舞った。やはり奇声を上げて、母上がそれを受け止めようとする。
 それより前に、吾がプチトマトを取って愚弟の皿に戻した。
「――セーフ」
 母上がほっと一息吐いた。
「ほれ、残さないで食べてね」
「アェ――ッ!」愚弟である。
 父上が、母と時計を見比べて云った。
「コーヒー、おかわりは?」
「んー、いいや」
 母も時計を見て、やおら席を立つ。それから愚弟と親愛のキスを交わし、父上と「行ってきます」の口付けを交わし、それから立ち上がった吾に手を挙げると、ハイタッチを交わした。
 母上は右拳を握り締め、鬨の声を上げる。
「おっし! んじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「いってらったい」
「御武運を」
 母を見送ったあと、父上は「さあ、まどかも、急がないと」と、吾を急かした。もっともであったから、食卓に残っていたものをありったけ口に運んで、吾もまた、席を立った。
「では、往きまする」
 父上と愚弟から、いってらっしゃいと声が返ってくる。その頃には、吾はもう玄関を飛び出して、学舎へと通じる坂道を、勢いよく降りくだっていたのであった。
 おお、なんと青き空。なんと快き風よ。今日もまた是好日、一生に一度の吉日である。吾が足は軽く、万里を風の如く飛びかける。

「まっこと、好き日にござるなあ」
「日々是好日」
「まったくでござる。おっ、あれなるは――」

 青々とした緑も眩しき通学路に学友を認めて、吾は手を振り足を早め、目の前を行く二人の女学生に追いすがった。
「二人とも、お早う御座いまする」
「おはようございます」
 まずは、志筑仁美。これは見目麗しく、また気立てもよく、まことに稀な女人である。緑の黒髪も匂やかに、肌は白磁の如く白く、なよやかでいて、芯のところは程よく強い。故に、朝、母上との会話にも出た通り、男の噂に事欠かぬ。
「まどか、遅いぞ」
 次いで、美樹さやか。これは明朗快活を絵に描いたような娘であり、吾とは縁深き間柄である。仁美とは対照的に、髪は短く、表情は明るく、声は大きく、感情は激しい。中々、一緒にいると楽しませてくれる。
 そのさやかが、悪戯っぽく「おっ」と声を上げた。
「可愛いリボン」
「ちと、な」
「とても素敵ですわ」
 仁美がふんわり笑った。実に素敵である。
 それから吾らは、川沿いの通学路を、可笑しいわけでもないのに笑いあいながら、和気あいあいと歩んでいった。

「花も恥じらう、乙女が三人。けっこう、けっこう」
「お早う御座います、先生」
「お早う。さやか、大事ないか」
「はっ」
「なら、挨拶なんぞしとらんで、朋友と遊べ、遊べ」
「ははっ」

 小川のせせらぎが、耳に涼しい。
「――で、恋文でなく、直に告白できねばならん、と」
「相変わらずまどかのママは格好いいな。美人だし、バリキャリだし!」
「そんな風に、きっぱり割り切れたらいいんだけれど」
 前を歩いていた仁美が、はぁ、と立ち止まってため息を吐いた。さやかが、腰を手にあてて肩をすくめる。
「羨ましい悩みだね」
「恋文でござるか――」
 一通くらいは、貰ってみたくもある。
「ほう、まどかも仁美みたいなモテモテな美少女に変じたいと。そこでまずは、リボンからイメチェンですかな」
 さては! と、さやかは鼻息も荒く手をわきわきとさせた。
「ママからモテる秘伝を教わったな! けしからぁん! そんな、破廉恥な子は――」
 さやかは学生鞄を上に放り投げた――吾もまた、学生鞄を地に落とす。
「――一手ご指南」
「――その手は悪うござる」
 ぴん、と空気が張り詰める。

「ばか」

 その声に、吾々ははっと我に返った。落ちてきた学生鞄に気を取られていると、さやかが「隙あり!」と絡みついてくる。
「どぅへへへ、可愛いやつめ。男子にモテようなんて許さんぞ。まどかはあたしのカキタレになるのだ!」
 カキタレとはなんでござる――と、口に出そうとするより早く、仁美が「こほん」と咳払いをした。吾とさやかは、揃って仁美に目をやる。
 おお、学舎が、もうこんなに近く――吾々は気恥ずかしくなって、それぞれから離れた。
 

 さて、所変わって、担任の早乙女和子が、教室で酷くどうでもいいことについて論じている。目玉焼きの固さがどうとか、こうとか。察するに、母上の言葉が現実になったとみえる。前の席から、さやかが肩越しに振り向いて、吾と似たような見解を述べた。苦笑を返す。
「――それから、今日は皆さんに転校生を紹介します」
 教室がどよめいた。主に、それを先に云うべきではないか、というような意味合いで。
 早乙女教諭が名前を呼ぶと、転校生とみられる女の子が、颯爽とやってきて教諭の横に立った。
 またしても、教室がどよめく。
「うわ、すげえ美人」
 さやかが、はからずも生徒の総意を口にしてくれた。そのものずばり、彼女は「すげえ美人」だったのである。
 吾は、転校生を見た。
 ――こやつ、かなり使うか。
 それ以外にも、何やら思うところがあったような気もするが、どうでもよくなってしまった。ただ、見れば見るほどこの転校生が「使う」ことが気になって、他のことが頭に入らなくなってしまったのである。

「砲術か」
「やはりそう思われますか」
「さて、それだけではない気もするが」

 吾らは、揃って転校生を見定めた。何やら、強靭なものを感じる。薄墨を流したかの如き黒々とした長髪は細やかに、薄紅梅の一枝を思わせる手は細く。しかして、そこに強さがあるのは、やはり心に芯が通っているからであろう。強靭な意志が、か弱き少女を強者たらしめているのである。

「どう思われますか」
「さて、敵か、味方か」

 名は、暁美ほむら――そう黒板に書いてある。お辞儀をした彼女に、吾とさやかを除いた生徒各々が手を打ち鳴らして歓迎していた。
 目が合う。
 ――やはり、使う。
 そればかりが気になった。
 朝のホームルームが終わると、仁美が近づいてきて、ほむらに関してこう述べた。
「不思議な雰囲気の人ですよね、暁美さん」
 さもあらん。一体、何処であれ程に鍛錬を積んだものか。
「ねえ、まどか、あの子、知り合い? なんかさっき、思いっきりガン飛ばされてなかった?」
「それは、お互いさまでござる」
 おもむろに、暁美ほむらが席を立った。そのまま、カツカツと吾らに近寄ってくる。やがて立ち止まると、ほむらは席に座った吾を見下ろした。
 他の二人が、ほむらを見やる。ほむらは吾だけを見ている。吾もまた、ほむらのみを見る。
「鹿目まどかさん」
「いかにも」
 ぴくっ、と、ほむらの眉が上がる。
「いかにも?」
「話は聞いていた。保健室に行きたいのでござろう。ちょうど、吾もお手前に話がござった。道々、ゆっくり話し込むとしよう。では、さやか、仁美どの、御免」
 ずあっと立ち上がると、ほむらは一歩あとずさった。そして、
「なん――な――なん――?」
 と、明らかに狼狽えた。吾は、気にせず廊下へと歩み出た。
 どうも、些か、吾の喋り方は、初対面のものには奇異に感ぜられるらしい。
 困ったものである。
 靴音は、あとからやや戸惑いがちに廊下を続いた。全面硝子張りの教室を横切ると、中からほむらに好奇の視線が向けられる。しかし、その中で彼女の伎倆を見抜けるであろうものは、さやかを除けば、上級生に辛うじて一人――。
「大したものだ」
「えっ」
「隠されずともよい。かなり、使われるな」
「えっ」
「足音でわかる」
「えっ」
「さて、何々流とも思えぬ、我流とお見受けいたすが――」
「えっ――あ――ほ、ほむらでいいわ」
「では、ほむら流と。なるほど、ほむら流か――」
 暁美流でないところに、おかしさがある。暁美とつけば先祖代々、子々孫々の流れであるが、ほむらと呼べば、それは一代の流派である。
「実に――奥ゆかしい」
「えっ」
「云わずとも、わかる。北斗に届くほど金を積んでも、あの世には持ってゆけぬ。流派も同じ。御身一代ですっぱり捨てようというその心意気、あっぱれでござる」
「えっ」
「実に――あっぱれでござるなあ」
 足音が止んだので、吾は立ち止まった。ちょうど、校舎を繋ぐ渡り廊下の半ばである。硝子張りだから、中庭がよく見えた。こういうと、吾が家と学舎は少し似ているようだ。同じ町にあるからだろうか。
 ほむらは、なんとも云いがたい、笑っているような、泣いているような、曰く左右非対称の表情をしていた。
「鹿目まどか、あ、あなたは自分の人生を尊いと――」
「生き死にに興味はござらん。ただ、大義に生きることのみ肝要と心得てござる」
「か、家族や友達を――」
「人生は一期一会でござる。あらゆる人とのあらゆる時が大切でござるよ」
「そ――そう――なら、あの」
 ほむらは落ち着きなく左右をきょろきょろと見回すと、「あの」と云って、それから口を噤んだ。そしてぽつりと云った。
「あの、なんでもありません」
「そうでござるか。ははは」
「あの、鹿目さん」
「まどかと呼んでくだされ、暁美どの」
「じゃあ、私も、あの――ほむらでいいです」
「なら、ほむら、どうした」
「あの――あの、やっぱりなんでもありません。すみません」
「なんでござる。おかしな人でござるなあ」
 そう吾が笑うと、ほむらはしきりに首を傾げて「おかしい、おかしい」と一人呟いていた。


「文武両道で才色兼備かと思いきや、人生についても深い考えを持っている。くーっ、どこまで完璧になれば気が済むんだ、その転校生は! 萌えか、そこが萌えなのか!」
 少なくとも「萌え」ではあるまい。立派なことである。
 ファーストフードで腹を満たし、ひとしきり茶を楽しんだあと、仁美は「茶の稽古」のために吾らとは別れた。茶とはいっても、こちらは格調高い方の「茶」である。他に、花と日本舞踊も嗜むらしい。女たるもの、かくあるべしと云わんばかりである。
 さやかと二人、店を出ようと立ち上がったとき、彼女がすっと顔を近づけてきた。
「まどか、帰りに古書店に寄ってもいい?」
「上條どのでござるか。励んでおられるようで、なによりでござる」
「まあね」
 古書店では、さやかとそれぞれ目当ての本を探して別れた。さやかは南條先生の「孤高の剣鬼」を探しているのであるが、さて、絶版して久しい本であるから、見つかるかどうか。
 吾はというと、山風先生の「笑い陰陽師」を見つけたので、さっと目を通した。何度読んでも、よいものはよい。それから隆慶先生全集も見つけたので、買うべきかどうか迷った。内容は知っているから、なくってもよいことはよいのだが――と、迷うようなら、やはり要るまい。書棚から出しかけていた本を、そっと押して元に戻した。
 そのときである。
「――まどか」
「心得てござる」
 吾らは古書店をあとにした。ショッピングモールを疾風のように走り抜ける。瞬く間に表通りから外れた。薄暗い通路を進み、階段を駆け上がると、「改装中」と札がかけられた入り口がある。その先のフロアから、云い知れぬ邪気が吾を呼ぶようなのだ。迷わず中に飛び込むと、そこは壁紙もタイルもない、むき出しの空間であった。暫くすれば新しいテナントがいくつも入ると思われるが、今は何もない。明かりもなく、無造作に積まれた建築材に埃がたまっていた。さやかと二人、塵風を巻き上げて走る。
「さやか、聞こえてござるか」
「なにが」
「聞こえぬならいい――そこか!」
 天井が崩れて、何かが腕の中に落下してきた。抱きとめる。
「たす、けて」
 それは、人語を介した。驚くべきことである。さやかが油断なく周囲に目を走らせているおかげで、吾はそれをまじまじと観察することができた。
 ――まるで、白狐のような。
 ような、と、思われるだけで、それは白狐とはまるで似ていない。そもそも白狐は稲荷神の神使であるからして、稲荷大社から遠く離れたここになんの用もなくいるはずがないし、ましてや誰かに害されるいわれもない。
 そう、それは傷ついているのだった。だから、助けを求めていたのである。
 ――まるで、まんじゅうのような。
 それくらい丸い顔である。猫を思わせる。ただ、耳のところに――なんだ、なにかよくわからない、長い毛のようなものが垂れ下がっている。ちょうど、「ついんている」とかいう髪型のようである。胴体は猫や狗のようであり、体毛は白狐を連想させるくらいだから、真っ白であった。大きさも、猫や狗に等しい。否、やや大きいか。
「さやか、こやつ、なにゆえ追われていたのでござろう」
「見ればわかる」
 見れば、よくわかった。
 目の前の暗がりから、じゃらじゃらと音がする。骨組みを剥き出しにした天井から、機材を吊り下げていたと思わしき鎖が垂れ下がっていて、それが人に当たってじゃらじゃらと鳴っているのだった。
 暁美ほむらである。暗がりだからよくは見えぬが、中学校の制服ではない。
「そいつから離れて」
「しかし、こやつ、怪我をしておる」
 吾が謎の小動物を抱えて下がると、さやかが代わって前に出た。
「あなた達には関係ない」
 ほむらが一歩踏み出す。さやかの眼が光った。

「――三十六計、逃げるに如かず」

 さやかも吾も、その声を聞くなり逃げ出していた。後を省みぬ全力逃走である。さやかが殺気を漲らせていたことが功を奏して、ほむらは呆気に取られたまま吾らを見逃す格好となったようだ。
 並走するさやかをちらっと見やる。さやかも吾を見ていた。
「――で、なにそれ? ぬいぐるみじゃ、ないよね。いきもの?」
「不明にござる。不明にござるが――」
 腕の中でもがくそれは、息も絶え絶えであった。
「――助けなければなるまい、人として」
 さやかは片眉を上げた。言葉にすれば「やれやれ」といったところである。
 それにしても、出口はまだか。二人の忙しい靴音ばかりいつまでも反響している。さやかと吾の全力疾走は、生半な選手よりも疾い。それで来るときよりも時間がかかるというのは、ちょっと普通では考えられぬことである。まさか、一本道を迷ったはずもなし。
 さやかも、同じことを思ったようだ。
「非常口がないね」
「奇妙奇天烈摩訶不思議。どんどん道が変わっていくようだ」
「先生はどう思われますか」

「進めど進めど出口がなし――ヌリカベやフスマと呼ばれる妖怪のようにも見えるが、さあて、おれはそっちは門外漢だからなあ」

「さやか、なにやらいるぞ!」
 吾らは背中合わせになった。小動物を片手に抱え、さやかと互いを庇い合う。あたりに、よからぬものが跳梁跋扈し始めていた。なにかはわからぬ。わからぬが、よからぬものである。
 ――蝶か。
 飛んでいた。あたりの景色が一変している。暗い花畑を、黒い蝶が飛んでいた。この世の光景ではない。魔境である。黒々とした狭い空に、瞬かぬ星が蠢く。否、星にあらず。虚空より、もそもそと、不気味に小さきものが姿を見せた。
 綿菓子のようだった。真っ白な綿菓子にひげが生えている。手足もあったが、ひげと比べれば大して印象に残らない。大きさは人くらいあった。小刻みに跳ね回っている。子どもがかごめかごめをするように、ぴょんぴょんと吾らをかこんでいた。
 包囲網が完成しつつある。
 兵法の定石に従って、多勢は寡兵を押し包むものである。これに対する吾らの定石は、死に物狂いでの一点突破のみ。
「さやか、出口はわかってござるか」
「わからないけど」
「なら、正面に突破するしかあるまいな」
 友が頷き、吾らが今にも駆け出そうと腹を決めたとき――光が押し寄せてきた。綿菓子のお化けが蹴散らされる。光は、吾らには無害のようであった。というよりは、吾らを外してくれたのか。
 振り向くと、新たな闖入者がいた。
「危なかったわね。でも、もう大丈夫」
 吾らと同じく、見滝原中学の制服を着ている。上級生である。名前は知らない。
 だが、顔は知っている。
 上級生は、綿菓子お化けが一掃されたところをコツコツと歩み寄ってきた。年長者らしく、落ち着いた佇まいである。とはいえ、この状況で落ち着いていられるのは、歳が上だからという理由のみではあるまい。
 ――やはり、こやつ。
 上級生は吾に目をやると、「あら」と声を上げた。
「キュゥべえを助けてくれたのね。ありがとう。その子はわたしの大切な友達なの」
 黙って話を聞いていると、彼女は「キュゥべえ」とかいう動物と吾を見比べて、一人で「なるほどね」と、なにやら納得したように頷いた。
「その制服、あなた達も見滝原の生徒みたいね。二年生?」
「あなたは」
 さやかが、ずいと割って入ってくる。闖入者はそれに笑みを返すと「そうそう、自己紹介しなくちゃね」と、間延びした声でいった。その背後で、真っ黒な茨がぎしぎしと音を立てている。やつらである。あの綿菓子の化けたやつらが、また悪さを企んでいるのだ。
 吾は、さやかと目配せをし合った。目の前の上級生は、手に持ったランプのようなものに目をやる。
「でも、その前に――」
「それには及ばぬ。さやか!」
「応! 先輩、キュゥべえとかいうのを頼みます」
「――えっ」
 吾らは云うなり、キュゥべえを上級生に預けて、それぞれ目についた綿菓子お化けに向かって跳びかかっていた。
 間髪入れず、吾らは打った。得物がないから、手で打った。打って、打って、打ち殺した。一匹仕留めれば、次に目についた一匹目がけて殺到し、手刀で真っ二つに両断した。血飛沫が舞った。
 ――やわい。
 まるで、雲を掴むようだ。さやかと二人、縦横無尽に駆け巡りながら、視界に入った綿菓子お化けを千切っては投げ、千木っては投げ――ものの一分もしないうちに、あらかたは掃除し終わってしまった。
「す――すごい」
 上級生が呟いた。吾らは頬についた返り血を、手の甲で拭ったところだった。いつしか、景色は元通りになっている。ただ、生温い、気色悪い色をした返り血だけが、今の魔境を物語る。
「袖が汚れたな」
 さやかが云った。
「致し方あるまい」
 吾は返した。そして二人で、そちらを向いた。
 暁美ほむらである。震えていた。かわいそうに。彼女も、吾らを追ってきて恐ろしい目にあったに違いない。目を見開いて、唇を戦慄かせている。きっと信じられないものを見たのだ。吾は袖に張り付いていたあれの肉片を、手で摘まんで足元に捨てた。
 それまで閉口していた上級生が、ほむらにおずおずと口をひらく。
「魔女は――あの、魔女は逃げたわ。仕留めたいなら、すぐに追いかけなさい。今回はあなたに、その、譲ってあげるから」
「あ――はい」
 ほむらは、すごすごと引き下がった。
 それから、上級生はなにやら不思議なまじないをして、キュゥべえの傷を癒した。やはり、あの暁美ほむらと同じく、なんらかの術の使い手であるようだ。二人は、吾らのあずかり知らぬ事柄に精通しているらしい。
 傷が癒えると、キュゥべえは地面に四足をついて、屈み込んでいた上級生を見上げた。
「ありがとう、マミ! 助かったよ」
「お礼はこの子たちに。わたしは、その、本当にただ、通りかかっただけだから」
 吾とさやかは、互いに顔を見合わせて苦笑した。キュゥべえが、しゃがんだ吾らに顔を向ける。
「どうもありがとう! ぼくの名前はキュゥべえ」
「鹿目まどかでござる」
「美樹さやか」
「ジュゥべえ」
「ぼく、君たちにお願いがあっ――ごめん、もう一回いいかな」
「鹿目まどか」
「美樹さやか」
「ジュゥべえ」
「もう一人いる!」
 吾らは顔を見合わせた。
「こやつ、ジュゥべえがわかってござる」
「先生、もしかしてとは思いますが」
 吾らが揃ってそちらを見ると、キュゥべえと上級生もまた、つられて目をやった。
「ははは、なんだ、見えるのか」
 ゆらっ、ゆらっ――と、キュゥべい達には、そんな風に出てきたように見えるのではあるまいか。
 声の主は、草鞋の先っぽを、吾らに向けて踏み出した。たっつけ袴が見えてくる。それから打裂き羽織である。腰に帯びた大小こそないものの、それはまさしく、侍とかいう、まったくもって時代錯誤な生き物なのであった。歳の頃は四十路を回ったばかりか。無精ひげをざらざらと撫でながら、苦みばしった男らしい顔つきで、にっと笑っている。
「拙者、ジュゥべえ――柳生十兵衛でござる」
 思えば、十年前も、彼はこのようにして吾らの目の前に姿を現したのだった。



[26621]
Name: 丁々発止◆2ec803b2 ID:3724bb89
Date: 2011/03/22 19:09
(前半部略)
 仁美が去つたのでさやかと古書店に向かつた。


 都會を離れた書店の中は空いてゐた。
 この店には、くたびれた老婆がひとり坐つてゐるだけだ。
 休日でも無いのに古書を買ふ者など誰も居らぬのだらう。


 何と今日は良い天気だ。
 入口からの風が額に頬に心地良い。僅かに古紙の匂ひがした。何と心地良い。


 山風先生の忍法帖にすつかり夢中になつてしまつた。


 書架の前で頁を捲つてゐると、何時の間にか前の棚に獣がいつぴき坐つて居た。
 色の生白い、狐なのか狗なのか解らぬ獣だな。随分とまろい、人形のやうな顔だ。こんなに空いてゐるのに、何を好んで此処に坐つたものか。
 つらつらそんなことを考へる。
 獣は匣を持つてゐる。


 大層大事さうに膝に乗せてゐる。
 時折匣に話しかけたりする。
 頁から目を離し、いつたい何が入つてゐるのか見極めようとするが、どうにも駄目だつた。
 金貨か宝石でも入つてゐるのか。
 何とも手頃な善い匣である。
 獣は時折笑つたりもする。


「ていろ・ふいなあれ」
 匣の中から聲がした。
 鈴でも転がすやうな女の聲だつた。
「聴こえたね」
 獣が云つた。蓄音機の喇叭から出るやうな聲だ。
 うんとも否とも答へなかつた。頁の続きが気になつたからだ。
「誰にも云はないでくれよ」


 獣はさう云ふと匣の蓋を持ち上げ、こちらに向けて中を見せた。


 匣の中には綺麗な娘がぴつたり入つてゐた。


 伊太利亞人形のやうな顔だ。勿論善く出来た人形に違ひない。人形の首から上だけが匣に入つてゐるのだらう。
 何ともあどけない顔なので、つい微笑んでしまつた。


 それを見ると匣の娘も
 につこり笑つて、
「もうなにもこわくない、」
 と云つた。
 ああ、生きてゐる。


 何だか酷く獣が羨ましくなつてしまつた。
(以下略)


 目覚まし時計の音――一挙に目が冴えた。
 寝間着の背中が濡れている。汗をかいていたようだ。布団は辛うじてかかっていたが、朝の無慈悲な冷たさに、吾はぶるっと身震いした。
 ――まあ、すぐに暑くなる。
 寝具から起き上がり、枕元の木刀を取った。
「待て」
 すぐ横から、十兵衛の声がかかる。
「なんでござろう」
「なんでもなめこもなでしこもあるまい。乱れておる」
「まさか」
 吾は木刀を取り上げて、立ち尽くした。とはいえ十兵衛が嘘を云うはずはあるまい。
「乱れておるとは」
「うん。や――わからん」
 十兵衛は顎の無精ひげをざらざらと撫でた。思えばこの十年、一日として十兵衛から無精髭がなくなったことはない。というよりも、彼は生老病死より脱却したいわゆる亡霊なのであった。
 だから、ある意味で、この柳生十兵衛に、吾は十年も憑かれている――とも、云える。
「ともかく、今朝は止めだ。話にならん」
 十兵衛はそう云うと、羽織りを翻してすたすたと去っていった。吾は手の木刀を見下ろして、溜息と共にそれを枕元に戻す。
 ――坐っていたキュゥべえと、目が合った。
「おはよう、まどか!」
 吾は苦笑した。四十路の十兵衛と十年連れ添ったのだから、いまさら一匹増えたとて。
 それから着替えながら、つらつら思う。それにしても、このキュゥべえも十兵衛と同じく、余人には見えぬものらしい。といって亡霊かといえばそうでもなく、なんとも可笑しげな畜生である。
 部屋を出て洗面台に足を向けると、母上がいた。挨拶して、横に並び、歯ブラシを取る。キュゥべえもついてきた。母上の顔を窺うも、やはり見えないらしい。
 歯を磨きながら、母上がもそもそと云った。
「まどかぁ、夕べは、帰りが遅かったんだって?」
「上級生のうちに御呼ばれでござった」
 母上はうがいをして、さくっと云う。
「ま、門限とか煩いことは云わないけどさ、晩飯の前には一報入れなよ」
「御免」
 母上の言に、昨日のことが思い出された。


 あのあと――吾らは、揃って巴マミ上級生のうちを訪ねた。郊外寄りの新造マンションに住んでおり、中学生とは思えぬ暮らしぶりである。独りで住んでいるということだった。
「ろくに、おもてなしの準備もないんだけれど」
 と、謙遜しながらも、巴上級生は手製の西洋菓子など出して、吾らをもてなした。名前は知らぬが、酷く甘い。実に、女の子らしき趣味であると思われる。
 菓子を作った巴上級生というのも、やはり酷く甘ったるい顔つきをした女であった。ふあふあと靡く髪からは、甘やかな匂いが漂ってくるようだ。ふくよかな身体つきも、仁美とはまた別のところで、男心を惹きつけるものがあるように思われる。
 鈴を転がすような声を聞いていると、なんだか酷く――。
 洒落た卓子に揃ってつき、吾らが菓子を一口、二口ほど頬張って、賛辞を述べたところで、巴上級生はおもむろに話を切り出した。
「キュゥべえに選ばれた以上、あなた達にとっても他人事じゃないものね。ある程度の説明は必要かと思って」
「うんうん、なんでも聞いてくれたまえ」
「さやか、逆でござる」
 巴上級生はにこやかに笑んだ。知的な人である。そして彼女は手を出すと、吾らに宝石のようなものを差し出してみせた。黄玉のようにも見受けられる。それが、入れ物の中に、みっちりと嵌っている。
 妖気さえ漂わせるような美しさに、さやかが息を呑むのがわかった。吾も、思わずため息が出る。
「ほう、」
 何だか酷く、羨ましく――。
「これは、ソウルジェム――キュゥべえに選ばれた女の子が、契約によって生み出す宝石よ。魔力の源であり、魔法少女であることの証でもあるの」
「契約って?」
「ぼくは、君たちの願い事を、なんでも一つ叶えてあげる」
「えっ、ほんと?」
 身を乗り出したさやかに、キュゥべえはなおも続けた。
「なんだって構わない。どんな奇跡だって起こしてあげられるよ」
「お、おお。金銀財宝とか、不老不死とか、満漢全席とか!」
「でも、それと引き換えに出来上がるのがソウルジェム――この石を手にしたものは、魔女と戦う使命を課されるんだ」
 奇跡と引き換えの闘争――のちに、吾は母上にこう訊いてみた。
 ――什麼生、母上。奇跡起こりて、願望成就せんとするなら、如何なる願をかけりゃ。
 ――役員を二人ばかり余所に飛ばしてもらうわ。
 母上は云った。
 ――あとそうねえ、社長もさあ、もう無理が利く歳じゃねえんだから、そろそろ隠居を考えて欲しいんだけど、代わりがいないってのがなあ。
 ――いっそ、母上が成ればよろし。
 母上は云った。その手があったか――と。
「魔女ってなんなの? 魔法少女とは違うの?」
「願いから生まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから生まれた存在なんだ」
 さやかとキュゥべえの問答は続く。
「魔法少女が希望を振り撒くように、魔女は絶望を撒き散らす。しかも、その姿は普通の人間には見えないから性質が悪い」
 ――なるほど、普通でなければ見えるのか。
「不安や猜疑心、過剰な怒りや憎しみ、そういう災いの種を世界にもたらしているんだ」
「理由のはっきりしない自殺や殺人事件は、かなりの確率で魔女の呪いが原因なのよ」
 巴上級生が、キュゥべえの説明を引き継いだ。
「形のない悪意となって、人間を内側から蝕んでいくの」
「そんなやばい奴らがいるのに、どうして誰も気づかないの?」
「魔女は常に結界の奥に隠れ潜んで、決して人前に姿を現さないからね。さっき、君たちが迷い込んだ、路のような場所がそうだよ」
「結構、危ないところだったのよ。あれに飲み込まれた人間は、普通は――普通なら、生きて帰れないから」
 ――なるほど、普通でなかったから、帰れたわけだ。
「巴上級生は、あんなものと戦っておられるのですか」
 吾は、久しぶりに口を利いた。
「そう、命懸けよ。だから、あなた達も慎重に選んだ方がいい。キュゥべえに選ばれたあなた達には、どんな願いでも叶えられるチャンスがある。でもそれは、死と隣り合わせなの」
 吾とさやかは、視線を交し合った。
「悩むまでもないな」
「左様――巴上級生、吾ら、眞劍少女二名、是非ともお供に加えて頂きたく存じまする」
 吾らは、揃って絨毯に手を付いた。巴上級生ははっと息を止める。
「斯様に、伏してお願い申し上げまする。何卒、何卒――」
「えっ、で、でも」
「吾ら、物心つく前より十兵衛に誓書を奉じ、眞劍少女となるべく厳しい修行に耐えて参りました。辛く苦しい修行の日々も、いずれ世のため人のため、存分に剣を振るうことを夢見ればこそ――」
「十兵衛先生は云っておられます」
 さやかが、決然と顔を上げて巴上級生を見上げた。
「曰く――兵法は、人を截るとばかりと思ふは、僻事也。人を截るには非ず、悪を殺す也」
「また、孔子に曰く――義を見てせざるは、勇なき也とも。お手前一人残して去っては、吾ら、武士の一分が立ちませぬ!」
 巴上級生は、吾らの激しい語調にたじろいだかに見える。
「でも、死――」
「吾らは、とうに死人にございまする」
「し――びと?」
 吾は、うっそりと顔を上げてマミをみた。
「左様、大義に殉ずる滅私の奉公!」
「迷うようなら、死すべきと、云うがまどかの口癖ならば!」
「武士の命は、羽毛の軽さ! 羽撃く鳥から、落つるが如く――」
 然して!
「――巴上級生。羽撃かなければ、飛べませぬぞ!」
「あっ――は、はい!」
 巴上級生の返事に、吾とさやかは頷き合ってにっと笑んだ。
「ならば、吾ら三人!」
 吾らは握り拳をつき合わせて、その日、義姉妹の契りを結んだのだった。
「生まれは違えど――死すときは同じでござる!」
 キュゥべえがなにやら云いたそうにしていたが、結局は何も云わずに終わった。


 そして、翌日――つまり、今日。
「お早う御座いまする」
 朝日にきらめく新緑の木々を縫うように歩きつつ、吾は先日と同じように、通学路を行く二人の女学生の背中に朝の挨拶を投げかけた。
 最初に振り向いたのは、仁美である。
「おはようございます」
「おはよ――うっ!」
 さやかが、顔を引き攣らせる。吾の肩に乗った、キュゥべえにである。家にいろと云ったのに、付いてきてしまったのだ。
 仁美はキュゥべえが見えないから、不思議そうな顔をする。
「どうか、しましたか? さやかさん」
「あっ、いや、ちょっと立ち眩みが――あはは」
 しかし、十年も十兵衛と一緒だったものだから、さやかの方も手慣れたものである。すぐに慣れたらしく、そのあとは何もなかった。
 ――以心伝心もできるのか。
 ――吾らには不要でござったな。
 ――ああ。
 教室で席に着きながら、吾らは念波で会話する。とはいえ、姿さえ見えていれば気配でなんとはなしに意志が伝わるところまで修行は進んでいるから、はっきり云ってこれは無駄である。
 むしろ、わざわざ考えなければ伝わらないのは、煩わしくって仕様がない。
 ――つーかさあ。あんた、のこのこ学校まで付いてきちゃってよかったの?
 ――どうして?
 机の上で坐したキュゥべえは、さやかの問いかけに首を傾げた。
 ――云ったでしょ? 昨日のあいつ、このクラスの転校生だって。あんた命、狙われてるんじゃないの?
 ――むしろ学校の方が安全だと思うな。マミもいるし。
 ――義姉上は三年生だから、教室はちと遠くでござるが。
 と、
 ――ご心配なく。
 巴マミの念波に、吾らは天井を振り仰いだ。
 ――話はちゃんと聞こえているわ。
 ――この程度の距離なら、テレパシーの圏内だよ。
 キュゥべえに目をやってから、吾は上階にいるであろう義理の姉に云った。
 ――義姉上、お早う御座いまする。
 ――ちゃんと見守っているから安心して。それにあの子だって、人前で襲ってくるような真似はしないはずよ。
 ――もし、そうなったとしても、返り討ちですがね。
 さやかがそう云うと、噂をすればなんとやら、ほむらが教室にやってきて、席についた。さやかの嫌気が伝わってくる。
 義姉上に話されたことを思えば、無理からぬことである。
 曰く――やはり、ほむらは手練の魔法少女であるらしい。キュゥべえを狙っていた理由は、これ以上の魔法少女を出さぬため。何故ならば、魔法少女にとって魔女狩りとは旨みのある行為であり、ならば少ないパイを大勢の同業者で奪い合うのは避けたいと、そういう腹積もりであるらしい。キュゥべえなくば魔法少女も生まれず、魔法少女なくば魔女は全て現存する魔法少女のものである。
 ないし――魔法少女を葬れば、独占も夢ではなし。
 こちらの考えも伝わったものらしく、さやかが念を飛ばしてきた。
 ――気にすんな、まどか。あいつがなんかちょっかい出してきたら、あたしがぶった切ってやるからさ。マミ姉だって付いてるんだし。
 ――そうよ。ぶっちゃけ、わたしはいらないかもしれないけれど、ともかく姉さんが付いているから大丈夫、安心して。
 ――そんなことはありませんよ!
 吾ら三人は、まことの姉妹のように笑い合った。
 時間は、常に何事もなく流れる。ほむらは真面目に授業を受け、さやかは首で船を漕ぎながらも、自然と臨戦態勢を崩さない。吾は二人を見比べながら、筆記帳に授業とは関係のない事柄をつらつらと書き込んでいった。
「うふ。可愛らしい絵だ」
「十兵衛! 覗き見とは趣味が悪うござるぞ」
 忽然、姿を見せた十兵衛から、吾はさっと筆記帳を隠した。
「ははは、隠すな、隠すな。おれは、お前の父や兄、いや、叔父のようなものではないか」
「だから、隠すのでござる」
「恥ずかしいか、修行が足りんな」
「な、何を――」
「おお、むきになる、むきになる」
「ぐぬぬ」
 吾は頬を膨らませ、渋々ながら手をどかした。元より、一度見られているのだから、二度も三度も変わりない。
「魔法少女か」
「可愛いでござろう」
「ふん。おれは、どうも気にくわんな――あ、違う。お前の絵のことではない。やめろ、おい、ばっ、そんな顔をするな!」
 吾が機嫌を直すと、十兵衛は咳払いをして、神妙な面持ちになった。
「一晩、つらつらと考えてみたが――あの、キュゥべえとかいう、どうもおれと名前が似てるやつ。どんな理で奇跡を起こすのか、さっぱりわからん。お前とて、わかっていような」
「無論のこと。あれは、ペテンでござるよ」
「ああ。しかし、種がわからんと、不気味だ――何やら、知らず知らずのうちに、とんでもない企てに巻き込まれているような気がする」
「兵法者の勘――で、ござるか」
「うん、ま、そうだな――まどか、わかっていような。お前には、天稟がある」
 唐突に、十兵衛は云った。
「吾が祖父、柳生石舟斎は、天狗の誘惑を文字通り一刀両段にふり切った。例え、魔境に引きずり込まれようとも、まどか、己が一刀のみをただ信ずるのだぞ」
「心得てござるよ、十兵衛」
「ならばいいが」
 云って、十兵衛は姿を消した。吾らの会話を聴くものは、何人たりといないはずである。吾らはそれこそ、念波を使うまでもなく、以心伝心に心を伝え合うことができるのだから。
 気づくと、昼になっていた。


 屋上に、爽やかな風が吹き抜ける。普通、学校の屋上は立ち入り禁止となっていると聞くが、ここは違った。二人ほどが座れる長椅子も置かれていて、吾らはここで、いつも昼食を取る。青空を見ながらの飯というのも、これは非常におつなものである。
 今日も今日とて、空きっ腹に弁当をかっこんでいると、長椅子の横に座っていたさやかが吾を呼んだ。
「ねえ、まどか。願い事、なんか考えた?」
「いいや」
「あたし達ってさ、常時死人だから、命懸けって云われても『ふーん、それで?』ってなっちゃうよねえ」
「吾らは足りているのでござるよ」
「まあ、そうなんだろうね――あたし達は」
 そろりと――どちらからともなく立ち上がった。軽く、小さな靴音が聞こえてくる。男子ではなく、そしてこの靴音には聞き覚えがあった。
 昇降口から、姿を見せたのは暁美ほむらである。屋上を渡る風に黒髪をたなびかせながら、ゆっくりと近づいてきた。
 さやかが臨戦態勢に入る。得物がなくとも、人の肩甲骨をブチ割るくらいは平気でしでかす女である。
 ――大丈夫。
 義姉上の声がした。対岸の物見塔にいるようだ。ほむらも気づいたらしく、そちらに目をやりながら歩み寄ってくる。
 そして、止まった。
「昨日の続きかよ」
「いいえ、そのつもりはないわ。そいつが鹿目まどかと接触する前にけりを着けたかったけれど、今更それも手遅れだし」
 ほむらはキュゥべえと、それから吾を見た。
「で、どうするの? あなたも魔法少女になるつもり?」
「いいや」
「あっ――なら、いいです。あの、お邪魔しました」
 ほむらは、すごすごと退散した。


 放課後、吾らは茶店にて、今後の方針を立てていた。遠くの席にはちらほらと同級生らの姿も見受けられる。彼女らが吾らの話を聞いたら、きっと耳を疑うだろう。
 吾とさやかに向かい合わせになり、義姉上はアイスティーを飲んでいたが、不意にカップをテーブルに置いて、両手で頬杖を突いた。
 いちいち、可愛らしい御仁なのだ。
「さて――それじゃあ、見滝原フィナーレの第一陣、張り切っていってみましょうか、準備はいい?」
「義姉上、準備はともかく見滝原フィナーレとは何でござる」
「チームの名前よ。昨日、徹夜で考えたの。もっとも、これは表向きで、真名は《運命の三女神(ウィールド・シスターズ)》と云うわ。これは北欧に伝わる女神で、過去を司る《ウルド》、現在を司る《ヴェルダンディ》、未来を司る《スクルド》がいるの。今日はこれから、誰が誰を担当するかを決めるわ」
「いやでござる」
「えっ」
 吾は云った。
「絶対にいやでござる!」
「ど、どうして? こんなに格好いいのに。なんなら、わたしのノート見る? もっとあるけど」
「否、柳生四天王と名乗りたく」
「えっ」
 義姉上は眉を潜めた。
「三人しかいないけど」
「十兵衛がいるでござるよ! 吾は、昔っから『ややっ! その剣、もしや柳生四天王!』と言われるのが夢だったのでござる! ちなみに吾は庄田喜左衛門を担当するでござる!」
 義姉上は「ふんふん」と頷いた。さやかと目配せし合って、首を傾げる。
「うーん、まどかさんさ、柳生四天王じゃ、ちょっと平凡じゃない?」
「はい?」
「ヤギュッツェン・フォン・フィーアでどう?」
「ですね」
 と、さやかが合いの手を入れる。「ちなみに、フィーアはドイツ語で四のことよ」と、義姉上は云った。
「それと柳生さんだけれど、わたしの解釈だとあれは亡霊じゃないの。あれは《遺産》なのよね。遙か過去より掘り起こされた遺産」
「《失われし大いなる遺産》ね」
「それから私の解釈では、あれは剣法じゃなくて《眞劔斬巧法》って呼びたいな。それとね――」
 一時間後。
「見滝原四天王、真名を《柳生の四女神(ヤギュッツェン・フォン・ウィールド=フィーア)》は、《失われし大いなる遺産(ロスト・パワード)》に導かれ、《眞劍斬巧法(エッジ・ザ・アーツ)》を以て《魔女(ヘキセ)》を打破せんと画策していた――これでどう?」
 義姉上は「どや?」と言わんばかりの顔で云った。吾は、すっかり氷のとけた飲み物をちびちびと口に運んだ。さやかは「《蒼の刃(ディープブルー・バスター)》」とかなんかぶつぶつ云っていた。
 吾は頭を抱えそうになった。
「熱心に何を話しているのかと思いきや――お前ら、ばかか!」
 顔を上げると、十兵衛がいた。
「失われし大いなる遺産さん!」
「おいやめろ! もう一回云ったらぶった切るぞ!」
「十兵衛!」
「先生!」
「お前ら、魔女が出てるぞ。わからんか!」
 吾らは瞠目し、バネ人形のように立ち上がった。
「見つけたのでござるか!」
「待って! まだチーム名が未定なの! それに二人の必殺技が決まってないわ!」
 十兵衛は「うがが!」と、唸った。
「ええい、そんなもの!」
「そんなものじゃないわよ!」
「なら――なら、ええと、待て!」
 吾らは椅子から腰を浮かしたまま、二人の問答を見守った。
 それでも十兵衛なら、十兵衛ならきっとなんとかしてくれる――十兵衛は「よしっ!」と手を打つと、云った。
「柳生六歌仙だ!」
「六歌仙? 先生、でも人数が」
「そのうち揃う! いいから行くぞ! マミ、よかろうな!」
 十兵衛の言葉に、吾とさやかは義姉上を振り向き、そして見た。聞いた。
「――いい」
 おお。人の心は、かくも容易く転ぶものか――。


 夕焼けの街並みを、吾らは走る。吾とさやか、十兵衛は元より、義姉上もまた、余人には遠く及ばぬ疾走をしていた。どうやら、魔法は人並み外れた敏捷性をも齎すものらしい。
 吾、さやか、十兵衛の三人は、些かも迷うことなく一直線に突き進む。遅れて、マミが続いた。
「あなた達、魔女がわかるの?」
「大体のところは」
「こうまで邪気が強くては、まず見失うものではござらん」
「そうね――わたしの第三の眼も、あなた達とよく似たものを見ているわ」
 義姉上の話では、魔女は「交通事故」や「傷害事件」もしくは「自殺」に深く関わっているらしく、前者であれば人気のある歓楽街を、後者であれば人気のないところを探すことになるようだ。要するにどこにでもいるということだが、今回は――。
「ああ。まず、自害と見てよかろうな。どんどん人気のないところに進んでいくぞ。おれは亡霊ゆえ、手は出せん。お前ら、頼むぞ!」
「はい!」
「はっ!」
「御意!」
 茜色の空を、鴉が三、四羽、飛んでいく。それと行き違うようにして、吾らは地上を掠める燕の如く駆け抜けた。赤信号、皆で渡れば、怖くない。するりと車と車の間を抜けても、誰もクラクションを鳴らさなかった。
 やがて、苔むした廃ビルが見えてくる。かなり高い。十階建てくらいか。これは、飛び降りてはタダでは済まぬ。
 その屋上に、人影ひとつ。
「各々!」
「承知!」
 十兵衛の号令に、吾は一段、二段も速度を増すべく地を蹴った。大股に三歩も跳べば、直下に入る。両隣には、さやかと、変化を終えた義姉上の姿もあった。三人で、投身自殺を図った人を受け止める。何程のこともなかった。
「女か。むっ、この首筋の紅いのは」
「《魔女のくちづけ》――と、わたしは呼んでいるわ」
 気絶したらしい女の首筋に、何やら赤く浮き出た青刺のようなものがある。十兵衛は義姉上にきな臭そうな顔を向けたが、ざらりと顎を撫でてこぼした。
「まあ、名はともかく、やはり魔女の仕業ということだな」
「ええ。柳生六歌仙――その初陣に相応しい夜になりそうね」
「そうだな。よし、往くぞ!」
 柳生六歌仙は、魔女の結界へと突入した――。


 
「義姉上、まずは吾らが露払いを!」
 湧いて出た雑兵に、吾とさやかは同時に跳び出した。
「さやか!」
「応ッ!」
 以心伝心、吾らの手刀は件の綿菓子お化け――どうも使い魔とかいうらしいが――を、瞬く間に両断してゆく。迷宮の結界が、鮮血に染まった。
 石畳の階段を登りながら、義姉上に云う。
「雑兵は吾らに任せて、義姉上は魔力を温存して下され!」
「マミ姉の出るまでもないわァ!」
「ええ。なら、わたしはティロ・フィナーレの《詠唱準備(スペル・ウェイト)》に入るわ!」
「ティロ・フィナーレ?」
「わたしの《最終魔法(フィニッシュ・マギカ)》よ。《最終砲撃(ティロ・フィナーレ)》――魔女は死ぬ」
「いたぞ!」
 先行していた十兵衛に追いつくべく、階段を登り切ると、そこには伊太利亞の闘技場のような空間になっていた。広さは、少年野球の球場くらいはある。吾ら余人は、上層の観客席にあたる場所からその中央を見下ろしていた。
 魔女である。大きい。闘技場の中央部に、圧倒的な存在感で鎮座している。蛸のような顔に、名状しがたき身体がついている。なんというか――なんとも言えない。あえていうなら、蛸のお化けである。どう見ても蛸ではないのだが、あえていうなら蛸としか言えない。色は緑色だった。ぬめぬめしている。手刀で斬れないことはないだろうが、大きくて時間がかかりそうだった。やはり義姉上にティロ・フィナーレしてもらうより他に、手はあるまい。
 義姉上を見ると、彼女はこくり、と、頷いた。
「あれをやるしかないわね」
 よかった、伝わった――。
「一つ――人の世の生き血を啜り」
 全然伝わってなかった。
「二つ――不埒な悪行三昧」
 さやかも続いた。
「三つ――醜い浮世の鬼を」
 とりあえず、続いておいた。十兵衛がすごい顔で吾を見た。吾にそんな目を向けられても、その、困る――十兵衛は「ええい!」と小さく呻くと、云った。
「斬ってくれよう――六歌仙!」
「《銃製(マスケット・ワークス)》のマミ! 往くわ!」
 とりゃーっ、と、義姉上は闘技場に躍り出た。そして撃った。撃って撃って撃ちまくった。何で撃っているのかといえば、どこかからマスケット・ライフルを取り出して、それでやたらめったらに釣瓶撃ちしているのだった。
 あとで聞いたところによると、このマスケット・ライフルを操るのが義姉上の魔法らしい。義姉上は《無限の銃製(アンリミテッド・マスケット・ワークス)》とその能力を名づけていた。
 どう考えても不必要な動きを交えつつ、義姉上は最後に云った。
「ティロ・フィナーレ!」
 魔女は死んだ。


 結界が消えると、ビルの中だった。大きな窓から、斜陽が差し込んでいる。義姉上は魔女の死んだ辺りに歩いて行くと、何やら地面から拾い上げたようだった。吾らが近寄ると、義姉上は拾ったものを見せてくれた。
 それは、一見すると独楽に見える。ちょうど大きさもそれくらいだ。色は黒で、球体の中心から上下に突起が出ている。それは義姉上の手に直立していた。
「これが《グリーフシード》――と、わたしが呼んでいるもの。魔女の卵よ」
「たまご?」
「運が良ければ、時々魔女が持ち歩いていることがあるの」
「大丈夫! その状態では安全だよ。むしろ役に立つ貴重なものだ」
 キュゥべえが云った。というか、たった今、いたことに気づいた。
「わたしのソウルジェム、夕べより、ちょっと色が濁っているでしょう」
 たしかに、その手の中のソウルジェムは、なんだか澱が沈んだような色合いをしている。義姉上は、左手にソウルジェムを、右手にグリーフシードを持った。
「でも、グリーフシードを使えば、ほら」
 そしてそれらを近づけることで、ソウルジェムから澱が分離して、グリーフシードへと移っていった。吾らの目にも、しかと見えた。
 義姉上は笑んだ。
「ね。これで消耗したわたしの魔力も元通り。前に話した魔女退治の見返りっていうのが、これ」
 ――消耗?
「うん? おれには――」
 吾と十兵衛は、密かに頷き合った。
 ――ソウルジェムからグリーフシードに澱が移るなら、それは消耗とは真逆に、ソウルジェムに「何か」が「溜まる」のではないのか。
 吾の疑問を余所に、義姉上はグリーフシードをあらぬ方へと投げ捨てた。云うまでもなく、暁美ほむらである。彼女以外、ここを嗅ぎつけられるものを、吾はまだ知らぬ。
 義姉上は云った。
「あと一度くらいは使えるはずよ。あなたにあげるわ――暁美ほむらさん。それとも、人と分け合うんじゃ不服かしら」
「あなたの獲物よ。あなただけのものすればいい」
「そう。それがあなたの答えね」
 投げ返されたグリーフシードを受け取って、マミは目を細めた。ほむらは踵を返す。その後姿を見送って、さやかは地団駄を踏んだ。
「くうう、感じ悪いやつ!」
「そうか? おれは、嫌いじゃないがなあ」
「同感でござる」
 吾と十兵衛は、互いに頷き合った。義姉上は吾ら三人を見て苦笑した。


 それから、吾らは飛び降り自殺を図った女性を介抱して、その場をあとにした。


 吾は、つらつらと想ふ。


 叶えたい願い事は、吾には決まりきっていて、それ故に難しく、
 されど、魔法少女として力を振るう義姉上の姿は、とても魅惑的で、
 こんな吾にも、あのような超常の理、


 即ち、魔剣があれば――と、


 何だかとつても、女が羨ましくなつてしまつた。



[26621] さん
Name: 丁々発止◆2ec803b2 ID:3724bb89
Date: 2011/03/22 19:25
 後から聞いた話である。
 その日――。
 美樹さやかは、上條恭介の病室を訪れたのだそうだ。彼はベッドに横になって、夕陽を眺めていた。開きっぱなしになった窓から、生暖かい宵の風が吹き込んできていた。看護婦に開けてもらったということだった。
 上條恭介は、事故で手足を欠損している。
「やあ」
 と、彼はさやかに云った。さやかはベッドの近くに椅子を持っていくと、そこに腰掛けた。そして鞄から南條先生の「孤高の剣鬼」を取り出すと、彼に差し出した。
 恭介は嬉しそうに云った。
「いつも本当にありがとう。さやかはレアな古本を見つける天才だね」
 病室の書架には本がぎっしりと詰まっていた。多くは恭介の蒐集したものであり、少なからずさやかの送ったものも混じっていた。
 恭介は本に顔を近づけて、匂いを嗅いだ。インクの甘ったるい匂いが、さやかにも感ぜられた。それから彼は、うきうきとした調子で頁を開いた。
「この人の本は、本当に凄いんだ。さやかも読んでみる?」
 そう云って、恭介はさやかを手招きした。さやかはおずおずと、気恥ずかしさを堪えながらも、ひとときの喜びを噛み締めたと云う。
 恭介の顔のすぐそばから頁を覗き込むと、彼はやさしく頁をめくり始めた。
 南條範夫著「孤高の剣鬼」――恭介が読み始めたのは《丹田斬法》の章だった。
 丹田斬法――凡そ、尋常ならざる剣法が軒を連ねる伝奇小説においては、それはむしろ地味な話だった。丹田斬法とは「隻眼」「片手」「跛足」となった片輪の剣士が、にも関わらず非凡の剣法者として飛躍を遂げる様を生き生きと描き出した大傑作である。主人公は身体の一部を次々と欠損しながらも、却ってそれ故に強さを増し、それ故に孤高の剣鬼として結実してゆく。
 恭介は云った。思わず、頁の一節が言葉に出てしまったようであった。


「不屈の精神を持った剣士にあっては――」


 不屈の精神を持った剣士にあっては、
 自己に与えられた過酷な運命こそ、
 かえってその若い闘魂を揺さぶり、 


 遂には――。


 そう、遂には――。


 夜の公園に、義姉上(あねうえ)の「ティロ・フィナーレ」が轟いた。敵は爆散し、結界は消滅する。《銃製(マスケット・ワークス)》で創り出した極大のマスケット銃を取り消すと、義姉上は街灯の上で月を仰いだ。
「――この限りなく美しい月夜に捧げる、ティロ・フィナーレよ」
「うひょー! マミ姉かっけー!」
 さやかは拳を振り上げて云った。義姉上は「もう」と嗜めるように、しかし満更でもない様子で、
「見世物じゃないのよ。一歩間違えば死と隣り合わせの、そう、これは死亡遊戯なのだから」
 と云った。それから宙返りして街灯から吾らの前に降り立った。吾は「おや」と首を捻った。
「グリーフシード、落とさなかったでござるな」
「今のは魔女から分裂した使い魔でしかないからね。グリーフシードは持ってないよ」
 キュゥべえが説明してくれた。魔女でなければ、グリーフシードは落とさないということらしい。つまり、変身して使い魔を倒しても、魔法少女の益は薄いということだ。
「なんか、ここんとこずっと外れだよね」
「使い魔だって放っておけないわよ。成長すれば、分裂元と同じ魔女になるから」
 義姉上はさやかに云って、それから笑んだ。
「さ、帰りましょう」
 吾らは帰り道を歩き始めた。義姉上を真ん中に、右に吾が、左にさやかが陣取る。単に話し易いというだけでなく、急の襲撃でも各々を援護できうる陣形であった。
 義姉上は云った。
「二人とも、何か願い事は見つかった?」
 吾らは沈黙した。義姉上が苦笑する。
「まあ、そうよね。あなた達には、必要ないかもしれないわね」
「義姉上は、どのような願い事を?」
 義姉上は、唐突に立ち止まった。吾らも立ち止まる。しまった、やぶ蛇だったかと、吾は背筋に薄ら寒いものを覚えた。
「わたしの場合は――」
 義姉上は、遠い目をした。


 ――聞いた話である。
 義姉上は、交通事故で家族を亡くしたそうである。大事故であったようだ。生き残ったものは一人としていなかった。義姉上は「自分は一度、そこで慥かに死んだのだ」と云った。哀しそうな目をしていた。
 夢を見ていたのか、それともあの世に逝きかけていたのか。義姉上の曖昧な意識に、キュゥべえは現れた。
 是非もなし。黄泉返るには、魔法少女となるより他に、手はなかったのである。


「――考えている余裕さえ、なかったってわけ。後悔しているわけじゃないのよ。今の生き方も、あそこで死んじゃうよりは余程よかったと思っている。でもね、ちゃんと選択の余地がある子には、きちんと考えた上で決めて欲しいの。わたしにできなかったことだからこそ」
「ねえ、マミ姉」
 さやかが云った。
「願い事って、自分の為の事柄でなきゃ、駄目なのかな。例えば――例えばの話なんだけどさ、あたしなんかより、余ほど困っている人がいて、その人のために願い事をするのは」
「それって、上條どのでござるか」
「た、喩え話だって云ってるじゃんか!」
「別に、契約者自身が願い事の対象になる必然性はないんだけどね。前例も、ないわけじゃないし」
「でも、あまり――」
「――あまり関心せんな」
 キュゥべえに続いた義姉上に被せるようにして、神出鬼没の亡霊は云った。
「十兵衛先生、それは」
「関心せんぞ。人の生き方にケチをつけるというのはな」
「ケチ――ですって?」
 十兵衛は、自分の右目に手をやる。
「お前らも知っての通り、おれは右目が視えん。剣法者としては、これは再起不能と云ってもよかろうな。しかし、どうだ。今となっては、隻眼の剣豪といえば柳生十兵衛と云われるくらいだ。お前、おれにケチをつけるのか?」
「そ、そんな言い方」
「おれだけではない。無住心剣術を創始したのは、事故で片腕を不自由にした男だった。その流派からは千度試合して千度勝った天才剣士が出たと云う。中条流の使い手、盲目の富田勢源のことはお前もよっく知っているはずだ」
 次々に身体を欠損した剣法者の名を出され、さやかは次第に閉口していった。十兵衛は一眼を以て、さやかを厳しく睨める。
「五体欠損、何する物ぞ! 手足の二本や三本なくなったとて、何程のこともないわ、このすっとこどっこいが! 大体なあ、まずお前は恭介に思いの丈をぶちまけねばなるまい。それもできんうちから、うじうじうじうじと、ああ、もう、見てて腹が立つ!」
「じゅじゅじゅ十兵衛先生! 何を言うんですか!」
「教えたはずだぞ、さやか」
 十兵衛は云った。さやかがたじろぐ程に、それは強い言葉だった。
「剣法者に、明日や次はないと。だから一日一日、地道に努力しようなどと思うな。一打一打、重ねて打とうとするな。やるなら今日、この時に一気に上手くならねばならん。乾坤一擲、ただ一打を以て勝負を決する心意気がなければならん! 対手に負けておっ死んだら、明日も次もないのだぞ! 恋もまた然りだ! 少しずつ仲良くなろうなんぞ、くだらん! さやか!」
「は、はい!」
「毎朝、死んでいるというなら、恥など一生にかき捨てだ! さっさと上條に、お慕い申しております、とか云ってこい!」
「ふぁ、ふぁい!」
「よし!」
 義姉上が、憮然とした顔で十兵衛に云った。
「柳生さん、女の子を急かす男子は嫌われるわよ」
「生命短し、恋せよ乙女、とも云う。お前こそ、いい男の一人や二人いないのか? ん? このままだと、さやかに先を越されてしまうのではないか?」
「そ、それは、その」
 うう、と、後ずさった義姉上に、十兵衛はふっと笑って、
「――だが、それがいい!」
 と、云った。
「マミ、お前はそれでいいのだ。焦ってろくでもない男を捕まえては、却って真実の出会いを失ってしまう。だから、今のままでいいのだ。恋など、一生に一度やれば、それでもう十分に足りるのだからな。次の出会いなど考えず、初恋を一生のものとすることだ。よいな、マミ」
「は、はい!」
「よし!」
 それから十兵衛は、吾を変な顔で見た。
「しかし、まどか――うん、お前はな」
「なんでござる」
「お前はな、もうちょっと、こう、な」
「こ――こうなったのは十兵衛のせいでござろう! 十年付き纏われれば、嫌でもこうなるでござるよ!」
「うん。や、そうか――すまん」
「それに、吾には十兵衛がいるでござる。他の男はどうでもいいでござるよ」
 十兵衛は「お、おお」と、らしくもなく言葉を濁した。そしてはっとしてニヤニヤしている義姉上とさやかを見て、それからニヤニヤしている吾を見た。
 そして云った。
「ばっ――ばか!」
 吾らの笑い声が、月夜に高く高く上がった。


 寝間着で寝具に寝転がる。柳生十兵衛著「月之抄」を読んでいると、随分と夜も更けてきた。枕元にはキュゥべえがいる。十兵衛はふらりと何処かに行っていた。どうも彼には放浪癖があるようだった。
 吾は和本から顔を離して、独りごちる。
「簡単なことは、それ故に難しくもある。やりたいことをやる――ただ、それだけのことが、吾らには途方もなく難しいのでござるな」
「まどかは、十兵衛に憧れているのかい」
「あるいは――吾は剣法以外に取り柄がないゆえ、十兵衛のように格好良くって人を諭せるような人になれればと、そう思うのでござろうな」
「まどかが魔法少女になれば、十兵衛よりずっと強くなれるよ」
「そういうことではござらんよ」
 吾は苦笑した。
 と、部屋に不意のノックがあった。父上である。吾はベッドから起き上がって返事をした。扉を開けて、一階に降りていく。すると、仕事帰りの母上が、玄関先で伸びていた。酒の臭いがする。
 そばで、父上が母上を介抱していた。
「またでござるか」
 呆れつつも、酔っ払った母上に水を飲ませ、父上と一緒に担いで寝室まで運んでいった。ベッドに寝かせると、仕事場の愚痴を口にしながら、そのままいびきをかき始める。
 吾と父上は肩をすくめ合った。
「ありがとう。ココアでもいれようか」
「かたじけない」
 月光の射す居間で、テーブルに座り、父上のいれたココアを飲む。それから思ったことを口にした。
「なにゆえ、母上はあれほどまでに仕事が好きなのでござろう。あの会社で働くことが夢だったわけでもなさそうでござるが」
「ママは、仕事が好きなんじゃなくて、頑張るのが好きなのさ」
 父上はテーブルの向こうから即答した。
「嫌なことも辛いことも一杯あるだろうけど、それを乗り越えたときの満足感が、ママにとっては最高の宝物なのさ。そりゃあ、会社勤めが夢だったわけじゃないだろうけどさ、それでもママは、自分の理想の生き方を通してる。そんな風にして叶える夢もあるんだよ」
「生き方そのものを、夢に?」
「例えば『老子』には、こうあるね。曰く、大道廃れて、仁義あり――世が乱れたからこそ、人の模範となる仁義が生まれた。人は、その仁義に生きることを夢見たんだ。でも、世が治まっていた頃は、仁義や夢なんて言葉はなかった。それは人生と一つだったんだ。ただ、ありのままに生きることで、人はそれぞれの夢を叶えることができたんだよ。ママはね、そういう昔のタイプの人間なのさ」
「仁義――即ち、大義でござるな」
「孔子に曰く、仁とは人の心、義とは人の路――でもね、路は沿って進むものじゃない。路は切り拓くものだ。ただ一念一刀を以て新たな路を切り拓けば、あとには多くの人がそこに続く。まどかは少し変わった子かもしれないけど、自分の路を切り拓くことのできる強い子に育ったと思うよ。人の云うことに惑わされず、路なき路を往きなさい。雄々しく、ただ独り犀の角のようにね。どう思うかは人それぞれだろうけど、僕はママやまどかのそういうところが大好きだ。尊敬できるし、自慢できる素晴らしい人だってね、そう思うよ」
 父上の言葉に、吾はなんだか胸が一杯になって、ココアを随分と残してしまったのだった。


 次の日――。
 病院の待合室にあるソファに座っていると、エレベーターの着く音がした。みっちりと詰まった人の中には、さやかの姿もあった。彼女は意気消沈した様子で吾に歩み寄ってくると、力なく「よう」と声をかけた。
「お待たせ」
「上條どの、会えなかったのでござるか」
「何か今日は都合悪いみたいでさ。わざわざ来てやったのに、失礼しちゃうわよね」
 ぶつくさと云うのを慰めながら、吾はさやかと並んで病院の玄関を後にした。それから帰路に着くべく、駐輪場を通って道路に出ようとしたのだが――。
 吾らは立ち止まった。
「さやか、気付いてござるか」
「うん、この感じは!」
「グリーフシードだ! 孵化しかかってる!」
 キュゥべえである。付いて来ていたようだ。
「まずいよ、早く逃げないと! もうすぐ結界が出来上がる!」
「それはそれとして、まどか、マミさんの携帯聞いてる?」
「否、そもそも、吾は携帯電話を」
「持ってないもんね――まどか、二手に別れよう」
「承知、吾は義姉上を呼ぶ」
「私は雑兵を掃除する」
 吾らは頷き合うと、それぞれの戦場に向けてすれ違った。
「さやか、死ぬなら善く死ね!」
「まどか、私を死なせてくれるなよ!」


 ――ぞるっ。


 ――ぞるっ。


 ――ぞるっ。と、それは歩いた。


 後に聞いた話である。
 医療器具の散らばった、不気味な洞窟であったらしい。薄暗く、じめじめしている。そこかしこから、注射器や、はさみや、よくわからない諸々の器具が突き出していた。地面はぶよぶよとしていて、一歩踏み出す度に、落ち着かない気持ちにさせられる。洞窟は狭くはなかったが、息苦しかった。
 キュゥべえが付いて来ていることに、そのときようやく気づいたらしい。
「怖いかい、さやか」
 と、それは云った。
「いや、別に」
「願い事さえ決めてくれれば、今、この場で君を魔法少女にしてあげることもできるんだけど」
「別に」
「そうかい」
 ドラマや映画でよく見かける「手術中」と書かれたランプがあった。洞窟の中に、である。ランプは灯っていた。中に、不気味なものがいることを考えて、さやかはぞっとしたそうな。そのまま素通りした。
 そのとき、後ろから、


 ――ぞるっ。


 ――ぞるっ。


 ――ぞるっ。


 と、そんな音が聞こえてきたと云う。さやかはおっかなくなって、先を急いだ。その音というのが、ともかく、ただ歩いているだけの、不気味なものだったからである。使い魔や魔女のものではなく、義姉妹達のものでもなく、ただ、


 ――ぞるっ。


 ――ぞるっ。


 と、その音は響いていたそうな。先を急ぐと、次第にその音は遠のいていった。
「使い魔だ!」
 不意に、キュゥべえが云った。見れば、目の前からぐるぐると渦巻き模様のついた、黒いぬいぐるみのようなものがやってくる。大きさは、人の腰くらいまで。一メートルほどか。さやかは手刀を以て、これらを悉く寸断した。生身でも、対手が生き物であれば凡そ截るのに不足はない。そもそも虎や狼は自らの爪牙で狩りをするのであるし、むしろ自然界においては武器を扱う人こそが異端なのである。さすがに骨を截つことはできないが、砕くことは容易な業であった。もっとも使い魔に骨らしきものはなかったが。
 十重二十重に迫りくる使い魔の群れを、一匹残らず截り尽くす。鮮血の中で、さやかは踊った。十兵衛の声が聞こえる。錯覚とはわかっているものの。
 ――舞え、踊れ。
 横に回るのを舞と云う、縦に揺れるのを踊と云う。横に薙ぎ払い、縦に切り下ろす剣法には、舞踊に通ずるものがあった。息の詰まりそうな洞窟の中で、さやかだけは自由である。天井から、谷間から、山間から、洞窟の凹凸から押し迫ってくる使い魔を、さやかは真っ二つにし続けた。
「やれやれ、数が多いな」
 さやかは血みどろになりながら云った。
「今日はさやか一人だからね。魔女を倒さないことには、使い魔は増え続ける一方だし。どうだい? 魔法少女になれば」
「ならば、手は一つ! シャオォ――ッ!」
 さやかは五指で眼前の使い魔をバラバラに引き裂くと、そのまま全力疾走を開始した。キュゥべえがあとに続く。
「どうする気だい? 普通の人間には、魔女を倒すことは不可能だ」
「そんなことは、シャオォ――ッ! やってみなければ、シャオォ――ッ! わからなシャオォ――ッ!」
 さやかの甲高い声に遅れて、使い魔は血反吐をぶちまけていった。
 指である。さやかは五指で使い魔の肉を引き千切り、裁断しているのだ。あまりに力が強いせいで、切り口はやたらと滑らかに見える。しかして、その殺し方が対手に与える苦痛は計り知れない。皮膚を、肉を、神経を、さやかの指は抉って文字通り千に切り取るのである。
「シャオォ――ッ!」
 十匹の使い魔を一息に截り殺したところで、景色が変わった。いつしか洞窟を抜けている。さやかは頬についた血を拭うと、左右に目を走らせた。
 キュゥべえが、その心中を代弁する。
「お菓子の城みたいだね」
「ああ」
 その通り、そこはお菓子の城であった。足元に目を向ける。気色悪い感触と、甘ったるい匂いがしていた。生クリームである。地面は生クリームで出来ている。壁はスポンジケーキで、そこら辺に屹立している柱は、キャンドルのようだ。
 吐き気を催す甘ったるさだった。さやかは前を見上げる。
「キュゥべえ、あれ?」
「そうだよ、魔女だ!」
 魔女は、小さかった。昨日の、くじらくらいある大きさとはうって変わって、今日はさやかの足元にも及ばない小ささである。胸に抱えられるくらいしかなかった。ぬいぐるみにも見える。可愛らしい頭巾を被り、ちっちゃなマントを付けていた。そして常識外れに足の長い椅子に腰掛けている。足だけでも十メートルはゆうにありそうだ。それでいて座るところは小児用のサイズだから、バランスが悪い。縦に長過ぎる。殆ど、空中に腰掛けているようなものだ。
「キュゥべえ、下がってな。シャォオ――ッ!」
 さやかは一足で椅子に駆け寄ると、椅子の足を指で裁断した。
「シャア――ッオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオァ――ッ! シャオシャオシャオシャオシャオシャオ!」
 そして、椅子がぐらつくよりも前に、次々に椅子の足を截り取っていく。だるま落としの要領である。瞬く間に魔女はさやかの指が届く位置まで下がってきた。
 さやかはにっと笑んだ。勝利の笑みである。
「シャァ――ッ!」
 慥かな手応えと共に、さやかの指はぬいぐるみの魔女を切り裂いた。
 さやかは思ったそうな。どうして、こんなに無謀なことをしたのか。どうして、こんなに急いでしまったのか。それは、恐らくはそこが病院だったからに違いなかった。上條恭介がいるからである。だからさやかは急いでしまったのだ。
 気づいたときには、手遅れであった。


 ぬいぐるみの中には、みつちりと――


 ――別のぬいぐるみが、入つていた。
 

 大蛇のように、見えたそうな。ぬめるような黒色の鱗と、馬鹿に白い面をして、ぎらぎらと牙を光らせていたそうな。
 人ひとりを噛みちぎるには、大きすぎる口だったとか。
 さやかは、身動きできなかったと云う。歩き方を忘れてしまったと云っていた。


「今すぐぼくと契約を! さやか、願い事を決めるんだ! 早く!」


 死ぬ――と、思ったと云う。それから、


 ――ぞるっ。


 と、聞こえたと云った。


「――その必要はないよ」


 脚を引き摺りながら、現れたと云う。


「こいつを仕留めるのは、僕だ」


 背中を見たと云う。


 ――果たして、


 隻腕の剣士の刃は、骨を断つことが出来るのか?
 跛足の剣士の刃は、対手に触れることが出来るのか?


 出来る。

 出来るのだ!


 見よ!
 異形と化すまでに鍛え込まれた背中!


 見よ!
 鳴神の如く下されんとする鉄の鋒!


 そこから放たれる恐怖の一閃を知る者は、常人禁制の結界にて勝負を見守る一人の女。


 おお――。


 不屈の精神を持った剣士にあっては、


 自己に与えられた過酷な運命こそ、


 かえってその若い闘魂を揺さぶり、 


 遂には――。


 そう、遂には――。


 遂には――孤高の剣鬼と成り果てるのである。


 上條恭介は、云った。


「 丹 田 斬 法 」


 魔女は、死んだ――。




 ――眞劍道は、漢の大道。


 以て絶望、切り拓く也。


 以て奇跡、踏み躙る也。

 
 以て逆境、撥ね退る也。


 血汗、
 血涙、
 以て道標に残す也。


 ――不撓不屈の生き様也。
 
 
 故に、眞劍――妥協と敗北を知らぬ也。



[26621] よん
Name: 丁々発止◆2ec803b2 ID:3724bb89
Date: 2011/03/23 16:23
 これも後から聞いた話である。


 云っていたと云う。
 ――事故に遭うまでは天才少年だったんでしょ? 剣道の。
 ――歩けるようになったとしても、指の方はね。もう二度と剣を握るなんて、無理でしょうね。
 云われたと云う。
 ――諦めろ。
 云ってくれたと云う。
 ――で、どうする。
 云ったと云う。
 ――医者は、諦めろと。
 云い返されたと云う。
 ――どうする、と、聞いた。
 云い返さなかったと云う。
 ――何でもありません、やりましょう。
 そして、云った。


 ――正気にては大業成らず。眞劍道は、死狂ひなり。


「今日も元気だ、飯が旨い!」
 もふっ、もふもふっ――と、吾(わたし)は父上の炊いた白米をかっこんだ。食卓には、出掛ける支度を済ませた母上と、愚弟。調理場には父がいて、吾(われ)らを優しい眼差しで包んでいる。吾は半熟の目玉焼きを箸でさっくりと切り分けて、それを舌先へと運んだ。じゅわっと、たまごの甘みが口に広がり、程よく利いた塩気が旨い。
 吾は満面の笑みで云った。
「やあ、生きてると、父上の飯がこんなに旨い!」
 父上が、にっこり笑って云った。
「まどか、口にものを入れて喋らない」
「御免!」
 家族の団欒に包まれて、吾は黙々と箸を動かした。
 日々是好日、今日も然り。
 朝食を終えると、吾はキュゥべえと連れ立って学校に急いだ。今日も今日とて、すこぶる快晴である。木漏れ日の滴る小川沿いの小路を往くと、やはりいつもの二人の姿があった。吾は二人に追いついて挨拶を交わし、それから並んで歩き始めた。
 さやかが、馬鹿に調子を上げて云う。
「でさあ、恭介ったら『大丈夫かい?』なんて云ってくれちゃってさあ! そりゃこっちの科白だっての。入院中なんだから、ちっとは自分のことも案じろっていうかさ。こっちはもう、吃驚したのなんのって」
 でれでれしながら惚気るさやかに、仁美は穏やかな微笑みを浮かべていた。


 夕べ――。
 義姉(あね)上と共に病院に着くと、さやかは駐輪場で腰を抜かしていて、傍には恭介が枯れ木のように立っていた。手には真剣が握られている。気が紛れるからと、主治医に無理を云って室内に置かせてもらっていたのだと云う。
 会うのは久々であった。吾は膝を突くと、地面に手を番えて目礼した。
「上條どの、否――義兄(あに)上、お久しゅう御座いまする」
「そう呼ばれるのは久々だね。元気だったかい?」
「はい、義兄上もお変りなく――」
 吾は顔を上げて、にっと笑んだ。
「――いえ、実に、お変わりあそばされた」
 恭介――義兄上は、吾にふっと微笑んだ。一回りも、二回りも、かつての義兄上よりも大きくなったようであった。
 と、おずおずと、義姉上が吾と義兄上を見比べて云った。
「あの、こちらの人は?」
「おお。義姉上、そうでござった。義兄上、こちらは、吾らと新たに義姉妹の契りを結んだ巴マミ上級生でござる」
「よろしく。上條恭介です、愚妹達がお世話になっております」
「あ、ええ。こちらこそ――あにうえ?」
「元々、十兵衛に憑かれていたのは、こちらの上條恭介どのなのでござるよ」
 吾は、立ち上がって膝の埃を払うと、つらつらと述懐してみせた。
 十数年前――十兵衛は、突如として上條恭介の前に現れた。当時、義兄上――尤も、その時はまだ、義兄ではなかった――は、ヴァイオリンを習い出したばかりだったと云うが、瞬く間に剣法の魅力にとり憑かれ、それからは剣一筋の天才少年剣士として、幼児ながらも注目を集めていたと云う。そして、吾とさやかは義兄上の鍛錬を見学に赴いた際、そこで十兵衛と出会ったのであった。四歳の頃である。
 十兵衛は云った。
 ――ふむ。お前らも、おれが見えるか。なら、やってみるか? 剣法は面白いぞ!
 それから、吾らは片時も離れることなく、三位一体となって十兵衛に剣を学んだ。
 そう、あの不幸な事故が起こるまでは――吾は、義兄上に云った。
「義兄上、お躰は、もう?」
「すっかりとは、とてもね。でも、生半な奴には遅れを取らないよ」
「では、吾らと共に――」
「それはできない」
「な、なぜ!」
「今、何を截ったのかは、大体察しが付く。だからこそ、僕にはやるべきことができた」
「それは、」
「天下布武だ」
 驚く吾を尻目に、義兄上は手の中の刀を見下ろした。
「僕は、常々思っていた。十兵衛先生に出会えなければ、どうなっていただろうと。事故に会って、そのまま女の腐ったような奴になっていたんじゃないかってね。そして今日、あれに出くわして確信したんだ。人があれに打ち克つためには、天下布武が絶対不可欠だと。妥協と敗北を知ることのない、真剣な生き様こそが今の世の中には求められている。僕は、僕の生き様を以て、この世の中に眞劍道を広めるつもりだ。そのためには一分一秒たりと無駄にはできない」
「義兄上――」
「だから、これは君にやる」
 義兄は、剣を鞘に納めて吾に差し出した。
「千古の眞劍――伯耆大原眞守。眞(まこと)を守ると書いて、眞守(さねもり)と読む。受け取ってくれるか」
「義兄上――それは、上條家家宝にござりますぞ」
「ああ」
「――決して、疎かには致すまい!」
 がばとひれ伏して、吾は義兄上から眞守を受け取った。千古の重みをずっしりと両手に感じたのを覚えている。義姉上は呆気にとられて閉口していた。かと思いきや、おもむろに夕焼けの方を眺めて、ふっと哀しげな顔つきをした。
「夕日が、沈むわね――」
「――ああ。天才と謳われた上條恭介は、今、死んだ」
「そう――それもまた、運命(さだめ)ね」
「あなたは――」
「何も云わないで――わかってる」
 義兄上は、哀しげに微笑んだ。
 二人を、宵の静けさがそっと包み込んでいった。

 
 さやかのことを思い出すまで、暫くかかった――。


 時刻は今に戻って、昼休みである。吾とさやかは、相変わらず屋上の長椅子で弁当を広げていた。青い空には、白い雲。心地良い風に乗って、新しい声が聞こえる。
「二人とも、お待たせ」
「おお、来てござるか」
 義姉上であった。手製の弁当箱を抱えて、昇降口よりやってくる。吾らは少しずつ離れて、義姉上の座れるスペースを作った。義姉上は黄色いハンカチを敷いて、むっちりとした尻を載せる。
 発育が良いのである。間近で見ると、おっぱいもぼいんぼいんであった。
「うひょー、マミ姉と昼飯だー! でもマミ姉、いいの? クラスの友達は?」
「いいのよ。わたしは、孤独な存在だから――」
 義姉上は、そう云って髪を掻き上げた。空を仰いで遠い目をする。
「――いいえ、だった、と、云うべきかしらね」
「そうですよ、今は私らがいるじゃないですか」
「死でさえ、吾らを分かつことはできませぬ」
 義姉上は弁当箱を広げながら、吾らに微笑んだ。
「そうね、なんだか心が軽い。こんなに幸せな気持ちでお弁当を食べるなんて初めて」
 その眦に、きらめくものがあった。
「もう何も恐くない」
 吾らは笑い合う。
「恐いものがあったら――」
「――吾らが叩っ截るでござる」
「ええ、そうね。お願いね、二人とも――さ、食べましょう? ケーキ、焼いてきたから、後でみんなで食べましょうね」
「うひょー!」
「ご馳走になりまする!」
 吾らは弁当を食べた。そして義姉上のポットに入っていた紅茶と一緒に、西洋菓子を食べた。格別の味わいであった。義姉上は箸が転んでも笑い声を上げる子どものように、何事にも笑みを絶やすことがなかった。吾らには本物の姉妹以上の絆があった。
 ふと、義姉上は云った。
「さやかちゃんは、今でもまだ、魔法少女に成りたいって、思っている?」
「いいえ」
「そうね、それでいいのよ。あなた達はもう、眞劍少女なんだもの」
 キュゥべえが何やら云いたそうにしていたが、結局何も云わずに終わった。


 放課後――。
 吾らは、夕方になるまで義姉上のうちで茶をご馳走になった。義姉上は西洋焼き菓子など出してもてなしてくれた。吾とさやかは揃って、菓子の作り方など習った。さやかは義兄上に作るつもりなのだろう。吾は十兵衛にでも作ってやろうと思った。食べるかは謎である。
 日も暮れかかってきた頃になって、吾らは義姉上のうちを後にした。義姉上は名残惜しそうにしていたが、吾が「いつでも会えるでござるよ」と云うと、微小を浮かべて、「また明日ね」と云った。
 吾とさやかは暫く一緒に歩いて、分かれ道で別れた。少し行くと、後ろから呼び止められた。
 暁美ほむらだった。
「おや、奇遇でござるな」
「ええ、あの」
「立ち話もなんでござる。歩きながら」
 吾らは歩き始めた。真っ赤に染まった道に、影法師が長く伸びていた。吾らは肩を並べて歩いた。やがてほむらは云った。
「向こう側で死ねば、死体なんて残らない」
「さやかのことでござるな」
「ええ。こちらの世界で、彼女は永遠に行方不明にされる――かもしれなかった。あなたもよ、まどか」
「眞劍少女の末路は、そんなものでござろう」
 ほむらは立ち止まった。吾はなるべく、穏やかに彼女に云った。
「大義に殉じて、孤独に死する。誰にも気付かれず、寂しく――それこそ、武士の誉れではござらんか」
「えっ」
「最初っからそういう腹積もりで、吾らは眞劍を執ってござる。誰のためでもなく、自分自身の大義のために、吾らは死ぬのでござるよ。誰にも気付かれなくても、忘れ去られても、いいではござらんか。誉められたくて、名を残したくて、そんなことのために戦っているのではござらん。ただ、気分善く生きて、気分善く死ねれば、それで十分ではござらんか。義とは人の路、路とは自分で拓くもの。路なき路を、ただ一念一刀を以て自由に往くためなら、命なんぞ喜んで投げ捨てられる」
 吾は笑った。何の屈託もなく笑えるのである。
「善く生きるべく、そのためにこそ善く死ぬのでござるよ。ほむら、眞劍少女の生き様とは、そういうものでござる」
「あ、ああ。あ、あああ」
 ほむらは、膝から地面に崩れ落ちた。そして、云った。
「私も――私も、お供させてください」


 後から聞いた話である。
 上條恭介は、病室の窓から夕焼けを眺めていた。真昼の熱気を残した風が、その頬を撫でていたと云う。ベッドの上で、恭介は動かぬ左手を見下ろしていた。しかし、すぐに笑って、顔を上げた。
 柳生十兵衛がいた。
「恭介、成ったのか」
「成りました、先生」
 十兵衛は顎の無精ひげをざらりと撫でた。
「天下布武か、流派はどうする」
「上條流と」
「上條流か」
 十兵衛は云った。
「恭介、落花流水をどう読む」
「花は落ち、水は流れる――諸行無常を顕し、また、柳生柳に云う転の極意をも顕すかと」
「そして季節が廻れば、また花は咲き、流れた水は雨となって、山へと注ぐ――さしずめ、今のお前は咲いたばかりの花と云ったところか、恭介」
「はい」
「落花流水の心、忘れるな。立てた一流に拘らず、衰えるときは自ら衰え、死ぬときは自ら死ね。それでこそ、栄え、生きる」
「はい――はい、先生」
 恭介は堪え切れず、ようやくそれだけを云って、あとはただ、唇を戦慄かせた。
 十兵衛は頷き、踵を返した。
「弟子よ、然らば」
 その背を、恭介は精一杯に平身低頭して見送った。


 今生の別れであったと云う。


 あの後――。
 吾はほむらと別れて帰路に着いていた。寄り道したせいで、辺りはすっかり暗くなっている。ショッピングモールにはきらびやかなネオンの光がまたたいていた。ショーウィンドに、吾の焦った顔が映っている。
「こりゃまた、母上にちくりと云われるのを覚悟せねば――お?」
 と、そのときである。吾は見知った顔を見つけて、そちらに駆け寄っていった。
「仁美どの! 今日は、稽古はよろしいのでござ――ぬうっ!」
 吾は吾が目を疑った。真っ白な仁美の首筋に、くっきりと、義姉上が「魔女の口づけ」と呼ぶ印が浮かび上がっていたのである。吾は急いで仁美に駆け寄り、どこかぼんやりとしている彼女の肩を揺さぶった。
「仁美どの、仁美どの!」
「あら――鹿目さん、ご機嫌よう」
「い、如何なされた。何処へと向かうつもりでござった!」
「どこってそれは――ここよりもずっといい場所、ですわ」
 仁美は小首を傾げて、愛くるしい顔つきになって云った。怖気が走った。いつもの仁美に非ず。仁美であって、仁美でない。
 仁美は「ああ、そうだ」と、妙案でも思いついたかのように手を叩くと、吾に云った。
「鹿目さんも是非ご一緒に。ええ、そうですわ。それが素晴らしいですわ!」
 吾の返事も聞かず、仁美は夜の街へと消えていった。きらきらと光るネオンの中に溶けていった。
 吾は急ぎ、仁美を追いかけた。他の姉妹に伝えている暇はなかった。
 仁美は上機嫌であった。子どものように腕を大きく振りながら、鼻唄を歌いつつ夜の街を歩く。吾は気が気ではない。そうこうしているうちに、仁美と同じような人々が集まり始めていた。何人も何人もいる。皆一様にとり憑かれたようになって、ある一箇所を目指しているようだった。仁美一人であれば殴って連れ去ってもいいのだが、こうまで多くてはそれもままならない。
 ――吾が、何とか魔女を截るより他にないか。
 吾は腹を決めると、邪悪なハーメルンの笛吹きに呼び寄せられるかのように、人々の行列へと紛れた。小一時間も歩くと、海岸沿いに出る。行列の先頭は、その中の工場へと消えて行くようだった。吾も、中へと足を踏み入れる。随分と静かだった。大勢いる人は、皆、生きているのか死んでいるのかわからない。それに、工場そのものも整然とし過ぎていた。潰れてしまったのかもしれない。
「そうだよ、俺は、駄目なんだ」
 吾はぎょっとした。月明かりの差し込む建物内で、くたびれた壮年の男が云っていた。
「こんな小さな工場一つ、満足に切り盛りできなかった。今みたいな時代にさあ、俺の居場所なんて、あるわけないんだよなあ」
 男は汚い木箱に座って、ぽつぽつとそう云った。ここは彼の工場らしい。もしくは、彼の工場だったのだ。
 吾が息を凝らしていると、バケツを担いだ地味な女がやってきた。女はバケツに、洗剤のようなものを注ぎ始める。形からして、トイレの洗剤らしかった。吾の脳裡を、母上の言葉が過ぎった。
 ――いいか、まどか。この手の洗剤には、扱いを間違えるととんでもないことになるものもある。あたしら家族全員、あの世逝きだ。絶対に間違えるなよ。
「――集団自殺か! いかん!」
 駆け出そうとした吾を、横にいた仁美の手刀が阻んだ。チッ――と、前髪を何本か持っていかれる。咄嗟に顔を背けなければ、眼球をどちらか片方、持って行かれたはずであった。
 吾は吃驚して飛び退く。仁美は元居た場所で悠然と笑んでいた。
「邪魔をしてはいけません。あれは神聖な儀式ですわ」
「しかし! 皆、死んでしまうぞ!」
「そう――私達はこれから皆で、素晴らしい世界へ旅に出ますの。それがどんなに素晴らしいことかわかりませんか? 生きてる躰なんて邪魔なだけですわ。鹿目さん、あなたもすぐにわかりますから」
 憑かれたように笑う仁美に、人々は万雷の拍手を送った。吾は左右に目をやる。
「それでいいのか! そんな死に方でいいのか、各々方!」
「いいんですのよ、鹿目さん」
「いいわけあるかァ!」
 手刀を作った吾を見て、仁美は、


「うふふ、」


 と、笑った。
 吾は心胆を寒からしめられた。
「仁美どの、お主――習っていたのは日本舞踊ではないな!」
「まさか。日本舞踊ですわよ。鹿目さんは、舞の起源をご存知で? 本来、舞とは神に捧げる神楽の巫女舞を指しました。私の家は、その舞を今に伝える巫女の家系です。そして神と剣には、深い関わりがありますの」
 曰く、日本剣術の源流は神代にまで遡ると云われる。
 遥か昔には、剣を司る二柱の神がおわし、それらに仕える剣の二流があった。


 一つ――雷神、建御雷神――その系譜、鹿島中古流。


 一つ――剣神、経津主神――その系譜、香取神道流。


 そして、それらを祀り、脈々と剣を受け継ぎし神社の名は――。
「鹿島神宮、香取神宮――私の家系は、それら神職の末流に当たります」
「ならば、新当流の流れか!」
 仁美はニッカリと笑んだ。ひゅんひゅんひゅんっ――と、風切り音を伴って、どこからか日本刀が投げ渡される。仁美は見もせずにそれを掴むと、一息に抜刀した。
 吾は「ぬう!」と、唸った。仁美の伎倆の凄まじさもさることながら、せっかく義兄上に頂いた眞守を常時手にしていなかったことが悔やまれたのである。手刀のみでは、これはさすがに分が悪すぎる。
 仁美は鞘を投げ捨てると、刀を右上段に取った。吾の背中に、じっとりと冷や汗が滲む。左右を見ると、生気を失った人々が何事もないかのように吾らをみっしりと取り巻いていた。概ね、二十メートル四方に隙間なく人がいる。
「正気でござるか――人混みの中で截相など、狂気の沙汰でござるぞ!」
「まさしく狂気にございます。正気にては大業ならず――武士道とは、まことに死狂ひなもの」
「仁美どの!」
「問答無用!」
「ならばァ!」
 吾は右拳を手刀に取ると、仁美に相対した。


「柳生新陰流、鹿目まどか――お手向かい致しますぞ!」


 それに、仁美もまた応えた。


「志筑仁美、綾瀬兵法刈流――並びに、吉野御流合戦礼法!」


 仁美は、なんら迷うことなく跳び出して来た。尤もな判断である。あらゆる面で優っているのだから、そうしないわけがなかった。
 吾は右半身になる。右足を踏み出し、右肩を差し出し、左の腰に右手をやる。刀があれば、ここから抜き打ちが繰り出される格好であった。これを右車とも云う。対手が先を取って截り懸かってくるなら差し出した右肩に、また後を取って截り勝とうとするなら溜めている右手に太刀が来る。間合いで劣る吾から打って出るわけはないから、ここでは十中八九まで対手の先手を待つわけだ。無理をすれば頭と右足を狙えないこともないが、対手は熟達の剣法者である。必ず、無理のない勝ち筋を求めてくる。
 即ち、遠目の間境から右肩に截り懸けてくるはず!
 ――が、しかし!


「うふふ――真昼の月欠を見たことがあって?」


 思わせぶりなことを云いながら、仁美はあっさりと一足一刀の間境を踏み破った。疾走である。みるみるうちに間合いが潰されていく。改めて間合いを計ろうとしたが、水平近くまで寝かされた仁美の太刀は、彼女の肩と背中に隠れて見えなかった。つまり、正確な刀長がわからないから、正確な間合いも掴めない――。
 あたかもそれは、欠けた月を見られぬが如く!
 ――ま、拙い!
 吾は事此処に至って、ようやく志筑仁美の剣を悟った。それはあまりにも遅すぎた。彼女は最初から云っていたのだ。自分は「死狂ひ」であると。
 ならば定石は無効!
 ならば常理は無駄!
 定石を覆し、常理を捩じ曲げる、それはまさしく――。


「志筑仁美――魔剣の使い手か!」


 仁美は笑み――そして、眼を円くした。


「ならばアァ――ッ!」


 吾身を截らせて、太刀を取る! ――これしかあるまい! 出来れば五体満足で帰りたかったが、この場合は已むを得ぬ!


 吾は五体を投げ打つが如く、仁美に向かって跳び出した。


 魔剣が定石を覆すというなら――予め覆した定石を!
 魔剣が常理を捩じ曲げるというなら――予め捩じ曲げた常理を!


 死狂ひには、


 死狂ひを!


 善く生くるべく――吾、死すべし!


 吾らは殆ど頭蓋と頭蓋と打ち合わせんばかりに接近した。そして――。


「なら、そう。これは、魔剣士(デュエリスト)に捧げる――魔弾(ティロ・フィナーレ)よ」


 吾と仁美は、同時に真後ろへと跳び退いた。二人の間を、弾丸が風を切って行き過ぎる。それは工場内を突っ切り、機械室か何かのドアをぶち破り、その着弾点と思わしき地点からは、人ならざるものの断末魔が轟いた。
 糸が切れたように――あるいは憑き物が落ちたように、仁美は地面に倒れた。他の人々も同じく。
 吾は、かろうじて床に膝を突きながら、顔を上げた。そして見た。
「あ、義姉上――何故、ここに」
 工場の入口に立っていた巴マミはふっと笑うと、降り注ぐ月光を眺めた。


「あまりに、月が冴えていたから――心が騒いだのよ」


 吾は精根尽き果てて、その場に崩れ落ちた。


 最後に、聞いた話をもう一つ。
「――あんた、神を信じるかい?」
 少女であったと云う。


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