――おれは、ジュゥべえ。
ある日、それは、吾々の前に現れるなりそう名乗ると、にっ、と笑った。
――汝ら、某に誓紙を奉じ、眞劍少女と変ずるべし。
それから、十年――。
目が覚めると、なんとも心地良い朝の匂いが、ふあっ、と、吾を包みこんでいた。よい日和である。日和がよければ、心持ちもまたよくなる。寝台より身を起こし、寝室のカアテンを開くと、ますますもって、朝の匂いが清々しく感ぜられた。
――夢か。
夢であったらしい。さて、何が――よくは思い出せずとも、得てして夢とはそのようなものである。
「どうした、まどか」
「夢でござる」
「ほう、夢」
「夢でござるよ」
立ち上がると、床の冷たさが身に沁みた。
寝巻きのまま寝室を出る。硝子張りの、中庭に面した廊下を歩いていると、父上がいた。父は主夫で、この時間はいつも家庭菜園の手入れをやっている。今は軍手をはめ、しゃがみ込んでプチトマトを収穫していた。朝の日差しを浴びて、うなじのところに汗が浮いている。
「お早う御座いまする、父上」
「おはよう、まどか」
「母上は、如何に」
「達也がいってる。手伝ってやって」
「かしこまってこざる」
きた道を戻って、母の寝室を目指した。さほど近づかぬうちから、まだ幼い吾が愚弟の、母を急かす声が聞こえてくる。弟は元気がよく、母は朝に弱い。
寝室の扉を勢いよく開け放つと、思った通り、母は寝台の上で布団を被ってぐずついていた。弟は簀巻きになった母に跨って、声高にそれをなじっている。吾は二人の横を行き過ぎると、ばっ、とカアテンを開いた。
「ぎぇえええええええええ!」
「ママ起きたァ――ッッッ!」
母と愚弟の奇声もいつものこと。今朝も至って、鹿目のうちは平和である。
着替えて髪をかろく結い、母上と一緒に洗面台で歯を磨く。それにしても、父上は偉い。まだ夜も明けきらぬうちから、起きて家族のために働いておられる。母は母で働いているから、偉くないわけがない。ただ、二人の生産するものを食い潰すよりない中学生の吾身のみ、今のところ価値がない。
なにせ吾身は女である。お家を継ぐことままならぬ。
「最近、どうなの」
「仁美どのに、また恋文が届きて候――今月になって、はや二つ」
「直に告るだけの根性もない男は駄目だ」
歯を磨きながら、吾々はもそもそと語り合った。
「和子はどう」
「教諭は未だ続きて候。ホームルームにて、惚気を些か――今週で、三ヶ月目に届かば、記録更新の模様でござる」
「さあ、どうだか。今が危なっかしい頃合いだよ」
「左様で」
うがいを済ませて、母上は髪にドライヤーを当てている。朝のこの時間は、ずぼらな母上が華麗なる女へと変ずる時間帯であった。吾はここまで露骨には変じられぬ。せいぜいが、顔を洗ってさっぱりするのが関の山。タオルを手探りで探していると、母が渡してくれた。
「本物じゃなかったら、だいたいこのへんでぼろが出るのさ。まあ、乗り切ったら一年はもつだろうけど」
気のない返事をしながら、母上をちらを見やる。みるみるうちに「化けて」いく。大人の女は恐ろしい。
やがて、それは一見して母上とは異なる何かへと変じた。
「――完成」
出来上がったそれは、小粋にスーツを着こなした、いわゆる「デキる女」であった。その本性は巧妙に隠匿されている。
吾は、母上から両の手に持った二つのリボンへと視線を転じた。
赤と――黄。
「さて、どちらにすべきか」
ぴっ、と、指が赤を差した。母である。
「ちと、派手すぎではござらんか」
「それぐらいでいいのさ。女は外見で嘗められたら終わりだよ」
果たして、どうであろうか。対手の慢心、油断につけ込むのは、これは兵法においてはもはや定石といって過言では――。
つらつらと考えながらも赤のリボンで髪を括ると、母上は「うふっ」と頬を吊り上げた。
「いいじゃん。これならまどかの隠れファンもメロメロだ」
「ご冗談を」
「いると思っておくんだよ。それが美人の――ヒ・ケ・ツ」
ケレンである――柳は緑、花は紅――ただ、吾は吾。
母が去ってのち、吾は鏡にうつった吾を一瞥した。
「よく似合っておる」
「派手すぎではござらんか」
「それが似合うと云っておる」
思わず笑ってしまった。それで、そのことはもう気にすまいと思った。
それから、朝食になった。母と愚弟とでダイニングの食卓を囲む。父上は、キッチンに立っていた。吾が家は、いわゆる「あっとほーむだっど」なのである。
「キェァ――ッ!」
「でェァ――ッ!」
愚弟の、奇声と共に振り下ろしたフォークから、プチトマトが逃れて宙を舞った。やはり奇声を上げて、母上がそれを受け止めようとする。
それより前に、吾がプチトマトを取って愚弟の皿に戻した。
「――セーフ」
母上がほっと一息吐いた。
「ほれ、残さないで食べてね」
「アェ――ッ!」愚弟である。
父上が、母と時計を見比べて云った。
「コーヒー、おかわりは?」
「んー、いいや」
母も時計を見て、やおら席を立つ。それから愚弟と親愛のキスを交わし、父上と「行ってきます」の口付けを交わし、それから立ち上がった吾に手を挙げると、ハイタッチを交わした。
母上は右拳を握り締め、鬨の声を上げる。
「おっし! んじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「いってらったい」
「御武運を」
母を見送ったあと、父上は「さあ、まどかも、急がないと」と、吾を急かした。もっともであったから、食卓に残っていたものをありったけ口に運んで、吾もまた、席を立った。
「では、往きまする」
父上と愚弟から、いってらっしゃいと声が返ってくる。その頃には、吾はもう玄関を飛び出して、学舎へと通じる坂道を、勢いよく降りくだっていたのであった。
おお、なんと青き空。なんと快き風よ。今日もまた是好日、一生に一度の吉日である。吾が足は軽く、万里を風の如く飛びかける。
「まっこと、好き日にござるなあ」
「日々是好日」
「まったくでござる。おっ、あれなるは――」
青々とした緑も眩しき通学路に学友を認めて、吾は手を振り足を早め、目の前を行く二人の女学生に追いすがった。
「二人とも、お早う御座いまする」
「おはようございます」
まずは、志筑仁美。これは見目麗しく、また気立てもよく、まことに稀な女人である。緑の黒髪も匂やかに、肌は白磁の如く白く、なよやかでいて、芯のところは程よく強い。故に、朝、母上との会話にも出た通り、男の噂に事欠かぬ。
「まどか、遅いぞ」
次いで、美樹さやか。これは明朗快活を絵に描いたような娘であり、吾とは縁深き間柄である。仁美とは対照的に、髪は短く、表情は明るく、声は大きく、感情は激しい。中々、一緒にいると楽しませてくれる。
そのさやかが、悪戯っぽく「おっ」と声を上げた。
「可愛いリボン」
「ちと、な」
「とても素敵ですわ」
仁美がふんわり笑った。実に素敵である。
それから吾らは、川沿いの通学路を、可笑しいわけでもないのに笑いあいながら、和気あいあいと歩んでいった。
「花も恥じらう、乙女が三人。けっこう、けっこう」
「お早う御座います、先生」
「お早う。さやか、大事ないか」
「はっ」
「なら、挨拶なんぞしとらんで、朋友と遊べ、遊べ」
「ははっ」
小川のせせらぎが、耳に涼しい。
「――で、恋文でなく、直に告白できねばならん、と」
「相変わらずまどかのママは格好いいな。美人だし、バリキャリだし!」
「そんな風に、きっぱり割り切れたらいいんだけれど」
前を歩いていた仁美が、はぁ、と立ち止まってため息を吐いた。さやかが、腰を手にあてて肩をすくめる。
「羨ましい悩みだね」
「恋文でござるか――」
一通くらいは、貰ってみたくもある。
「ほう、まどかも仁美みたいなモテモテな美少女に変じたいと。そこでまずは、リボンからイメチェンですかな」
さては! と、さやかは鼻息も荒く手をわきわきとさせた。
「ママからモテる秘伝を教わったな! けしからぁん! そんな、破廉恥な子は――」
さやかは学生鞄を上に放り投げた――吾もまた、学生鞄を地に落とす。
「――一手ご指南」
「――その手は悪うござる」
ぴん、と空気が張り詰める。
「ばか」
その声に、吾々ははっと我に返った。落ちてきた学生鞄に気を取られていると、さやかが「隙あり!」と絡みついてくる。
「どぅへへへ、可愛いやつめ。男子にモテようなんて許さんぞ。まどかはあたしのカキタレになるのだ!」
カキタレとはなんでござる――と、口に出そうとするより早く、仁美が「こほん」と咳払いをした。吾とさやかは、揃って仁美に目をやる。
おお、学舎が、もうこんなに近く――吾々は気恥ずかしくなって、それぞれから離れた。
さて、所変わって、担任の早乙女和子が、教室で酷くどうでもいいことについて論じている。目玉焼きの固さがどうとか、こうとか。察するに、母上の言葉が現実になったとみえる。前の席から、さやかが肩越しに振り向いて、吾と似たような見解を述べた。苦笑を返す。
「――それから、今日は皆さんに転校生を紹介します」
教室がどよめいた。主に、それを先に云うべきではないか、というような意味合いで。
早乙女教諭が名前を呼ぶと、転校生とみられる女の子が、颯爽とやってきて教諭の横に立った。
またしても、教室がどよめく。
「うわ、すげえ美人」
さやかが、はからずも生徒の総意を口にしてくれた。そのものずばり、彼女は「すげえ美人」だったのである。
吾は、転校生を見た。
――こやつ、かなり使うか。
それ以外にも、何やら思うところがあったような気もするが、どうでもよくなってしまった。ただ、見れば見るほどこの転校生が「使う」ことが気になって、他のことが頭に入らなくなってしまったのである。
「砲術か」
「やはりそう思われますか」
「さて、それだけではない気もするが」
吾らは、揃って転校生を見定めた。何やら、強靭なものを感じる。薄墨を流したかの如き黒々とした長髪は細やかに、薄紅梅の一枝を思わせる手は細く。しかして、そこに強さがあるのは、やはり心に芯が通っているからであろう。強靭な意志が、か弱き少女を強者たらしめているのである。
「どう思われますか」
「さて、敵か、味方か」
名は、暁美ほむら――そう黒板に書いてある。お辞儀をした彼女に、吾とさやかを除いた生徒各々が手を打ち鳴らして歓迎していた。
目が合う。
――やはり、使う。
そればかりが気になった。
朝のホームルームが終わると、仁美が近づいてきて、ほむらに関してこう述べた。
「不思議な雰囲気の人ですよね、暁美さん」
さもあらん。一体、何処であれ程に鍛錬を積んだものか。
「ねえ、まどか、あの子、知り合い? なんかさっき、思いっきりガン飛ばされてなかった?」
「それは、お互いさまでござる」
おもむろに、暁美ほむらが席を立った。そのまま、カツカツと吾らに近寄ってくる。やがて立ち止まると、ほむらは席に座った吾を見下ろした。
他の二人が、ほむらを見やる。ほむらは吾だけを見ている。吾もまた、ほむらのみを見る。
「鹿目まどかさん」
「いかにも」
ぴくっ、と、ほむらの眉が上がる。
「いかにも?」
「話は聞いていた。保健室に行きたいのでござろう。ちょうど、吾もお手前に話がござった。道々、ゆっくり話し込むとしよう。では、さやか、仁美どの、御免」
ずあっと立ち上がると、ほむらは一歩あとずさった。そして、
「なん――な――なん――?」
と、明らかに狼狽えた。吾は、気にせず廊下へと歩み出た。
どうも、些か、吾の喋り方は、初対面のものには奇異に感ぜられるらしい。
困ったものである。
靴音は、あとからやや戸惑いがちに廊下を続いた。全面硝子張りの教室を横切ると、中からほむらに好奇の視線が向けられる。しかし、その中で彼女の伎倆を見抜けるであろうものは、さやかを除けば、上級生に辛うじて一人――。
「大したものだ」
「えっ」
「隠されずともよい。かなり、使われるな」
「えっ」
「足音でわかる」
「えっ」
「さて、何々流とも思えぬ、我流とお見受けいたすが――」
「えっ――あ――ほ、ほむらでいいわ」
「では、ほむら流と。なるほど、ほむら流か――」
暁美流でないところに、おかしさがある。暁美とつけば先祖代々、子々孫々の流れであるが、ほむらと呼べば、それは一代の流派である。
「実に――奥ゆかしい」
「えっ」
「云わずとも、わかる。北斗に届くほど金を積んでも、あの世には持ってゆけぬ。流派も同じ。御身一代ですっぱり捨てようというその心意気、あっぱれでござる」
「えっ」
「実に――あっぱれでござるなあ」
足音が止んだので、吾は立ち止まった。ちょうど、校舎を繋ぐ渡り廊下の半ばである。硝子張りだから、中庭がよく見えた。こういうと、吾が家と学舎は少し似ているようだ。同じ町にあるからだろうか。
ほむらは、なんとも云いがたい、笑っているような、泣いているような、曰く左右非対称の表情をしていた。
「鹿目まどか、あ、あなたは自分の人生を尊いと――」
「生き死にに興味はござらん。ただ、大義に生きることのみ肝要と心得てござる」
「か、家族や友達を――」
「人生は一期一会でござる。あらゆる人とのあらゆる時が大切でござるよ」
「そ――そう――なら、あの」
ほむらは落ち着きなく左右をきょろきょろと見回すと、「あの」と云って、それから口を噤んだ。そしてぽつりと云った。
「あの、なんでもありません」
「そうでござるか。ははは」
「あの、鹿目さん」
「まどかと呼んでくだされ、暁美どの」
「じゃあ、私も、あの――ほむらでいいです」
「なら、ほむら、どうした」
「あの――あの、やっぱりなんでもありません。すみません」
「なんでござる。おかしな人でござるなあ」
そう吾が笑うと、ほむらはしきりに首を傾げて「おかしい、おかしい」と一人呟いていた。
「文武両道で才色兼備かと思いきや、人生についても深い考えを持っている。くーっ、どこまで完璧になれば気が済むんだ、その転校生は! 萌えか、そこが萌えなのか!」
少なくとも「萌え」ではあるまい。立派なことである。
ファーストフードで腹を満たし、ひとしきり茶を楽しんだあと、仁美は「茶の稽古」のために吾らとは別れた。茶とはいっても、こちらは格調高い方の「茶」である。他に、花と日本舞踊も嗜むらしい。女たるもの、かくあるべしと云わんばかりである。
さやかと二人、店を出ようと立ち上がったとき、彼女がすっと顔を近づけてきた。
「まどか、帰りに古書店に寄ってもいい?」
「上條どのでござるか。励んでおられるようで、なによりでござる」
「まあね」
古書店では、さやかとそれぞれ目当ての本を探して別れた。さやかは南條先生の「孤高の剣鬼」を探しているのであるが、さて、絶版して久しい本であるから、見つかるかどうか。
吾はというと、山風先生の「笑い陰陽師」を見つけたので、さっと目を通した。何度読んでも、よいものはよい。それから隆慶先生全集も見つけたので、買うべきかどうか迷った。内容は知っているから、なくってもよいことはよいのだが――と、迷うようなら、やはり要るまい。書棚から出しかけていた本を、そっと押して元に戻した。
そのときである。
「――まどか」
「心得てござる」
吾らは古書店をあとにした。ショッピングモールを疾風のように走り抜ける。瞬く間に表通りから外れた。薄暗い通路を進み、階段を駆け上がると、「改装中」と札がかけられた入り口がある。その先のフロアから、云い知れぬ邪気が吾を呼ぶようなのだ。迷わず中に飛び込むと、そこは壁紙もタイルもない、むき出しの空間であった。暫くすれば新しいテナントがいくつも入ると思われるが、今は何もない。明かりもなく、無造作に積まれた建築材に埃がたまっていた。さやかと二人、塵風を巻き上げて走る。
「さやか、聞こえてござるか」
「なにが」
「聞こえぬならいい――そこか!」
天井が崩れて、何かが腕の中に落下してきた。抱きとめる。
「たす、けて」
それは、人語を介した。驚くべきことである。さやかが油断なく周囲に目を走らせているおかげで、吾はそれをまじまじと観察することができた。
――まるで、白狐のような。
ような、と、思われるだけで、それは白狐とはまるで似ていない。そもそも白狐は稲荷神の神使であるからして、稲荷大社から遠く離れたここになんの用もなくいるはずがないし、ましてや誰かに害されるいわれもない。
そう、それは傷ついているのだった。だから、助けを求めていたのである。
――まるで、まんじゅうのような。
それくらい丸い顔である。猫を思わせる。ただ、耳のところに――なんだ、なにかよくわからない、長い毛のようなものが垂れ下がっている。ちょうど、「ついんている」とかいう髪型のようである。胴体は猫や狗のようであり、体毛は白狐を連想させるくらいだから、真っ白であった。大きさも、猫や狗に等しい。否、やや大きいか。
「さやか、こやつ、なにゆえ追われていたのでござろう」
「見ればわかる」
見れば、よくわかった。
目の前の暗がりから、じゃらじゃらと音がする。骨組みを剥き出しにした天井から、機材を吊り下げていたと思わしき鎖が垂れ下がっていて、それが人に当たってじゃらじゃらと鳴っているのだった。
暁美ほむらである。暗がりだからよくは見えぬが、中学校の制服ではない。
「そいつから離れて」
「しかし、こやつ、怪我をしておる」
吾が謎の小動物を抱えて下がると、さやかが代わって前に出た。
「あなた達には関係ない」
ほむらが一歩踏み出す。さやかの眼が光った。
「――三十六計、逃げるに如かず」
さやかも吾も、その声を聞くなり逃げ出していた。後を省みぬ全力逃走である。さやかが殺気を漲らせていたことが功を奏して、ほむらは呆気に取られたまま吾らを見逃す格好となったようだ。
並走するさやかをちらっと見やる。さやかも吾を見ていた。
「――で、なにそれ? ぬいぐるみじゃ、ないよね。いきもの?」
「不明にござる。不明にござるが――」
腕の中でもがくそれは、息も絶え絶えであった。
「――助けなければなるまい、人として」
さやかは片眉を上げた。言葉にすれば「やれやれ」といったところである。
それにしても、出口はまだか。二人の忙しい靴音ばかりいつまでも反響している。さやかと吾の全力疾走は、生半な選手よりも疾い。それで来るときよりも時間がかかるというのは、ちょっと普通では考えられぬことである。まさか、一本道を迷ったはずもなし。
さやかも、同じことを思ったようだ。
「非常口がないね」
「奇妙奇天烈摩訶不思議。どんどん道が変わっていくようだ」
「先生はどう思われますか」
「進めど進めど出口がなし――ヌリカベやフスマと呼ばれる妖怪のようにも見えるが、さあて、おれはそっちは門外漢だからなあ」
「さやか、なにやらいるぞ!」
吾らは背中合わせになった。小動物を片手に抱え、さやかと互いを庇い合う。あたりに、よからぬものが跳梁跋扈し始めていた。なにかはわからぬ。わからぬが、よからぬものである。
――蝶か。
飛んでいた。あたりの景色が一変している。暗い花畑を、黒い蝶が飛んでいた。この世の光景ではない。魔境である。黒々とした狭い空に、瞬かぬ星が蠢く。否、星にあらず。虚空より、もそもそと、不気味に小さきものが姿を見せた。
綿菓子のようだった。真っ白な綿菓子にひげが生えている。手足もあったが、ひげと比べれば大して印象に残らない。大きさは人くらいあった。小刻みに跳ね回っている。子どもがかごめかごめをするように、ぴょんぴょんと吾らをかこんでいた。
包囲網が完成しつつある。
兵法の定石に従って、多勢は寡兵を押し包むものである。これに対する吾らの定石は、死に物狂いでの一点突破のみ。
「さやか、出口はわかってござるか」
「わからないけど」
「なら、正面に突破するしかあるまいな」
友が頷き、吾らが今にも駆け出そうと腹を決めたとき――光が押し寄せてきた。綿菓子のお化けが蹴散らされる。光は、吾らには無害のようであった。というよりは、吾らを外してくれたのか。
振り向くと、新たな闖入者がいた。
「危なかったわね。でも、もう大丈夫」
吾らと同じく、見滝原中学の制服を着ている。上級生である。名前は知らない。
だが、顔は知っている。
上級生は、綿菓子お化けが一掃されたところをコツコツと歩み寄ってきた。年長者らしく、落ち着いた佇まいである。とはいえ、この状況で落ち着いていられるのは、歳が上だからという理由のみではあるまい。
――やはり、こやつ。
上級生は吾に目をやると、「あら」と声を上げた。
「キュゥべえを助けてくれたのね。ありがとう。その子はわたしの大切な友達なの」
黙って話を聞いていると、彼女は「キュゥべえ」とかいう動物と吾を見比べて、一人で「なるほどね」と、なにやら納得したように頷いた。
「その制服、あなた達も見滝原の生徒みたいね。二年生?」
「あなたは」
さやかが、ずいと割って入ってくる。闖入者はそれに笑みを返すと「そうそう、自己紹介しなくちゃね」と、間延びした声でいった。その背後で、真っ黒な茨がぎしぎしと音を立てている。やつらである。あの綿菓子の化けたやつらが、また悪さを企んでいるのだ。
吾は、さやかと目配せをし合った。目の前の上級生は、手に持ったランプのようなものに目をやる。
「でも、その前に――」
「それには及ばぬ。さやか!」
「応! 先輩、キュゥべえとかいうのを頼みます」
「――えっ」
吾らは云うなり、キュゥべえを上級生に預けて、それぞれ目についた綿菓子お化けに向かって跳びかかっていた。
間髪入れず、吾らは打った。得物がないから、手で打った。打って、打って、打ち殺した。一匹仕留めれば、次に目についた一匹目がけて殺到し、手刀で真っ二つに両断した。血飛沫が舞った。
――やわい。
まるで、雲を掴むようだ。さやかと二人、縦横無尽に駆け巡りながら、視界に入った綿菓子お化けを千切っては投げ、千木っては投げ――ものの一分もしないうちに、あらかたは掃除し終わってしまった。
「す――すごい」
上級生が呟いた。吾らは頬についた返り血を、手の甲で拭ったところだった。いつしか、景色は元通りになっている。ただ、生温い、気色悪い色をした返り血だけが、今の魔境を物語る。
「袖が汚れたな」
さやかが云った。
「致し方あるまい」
吾は返した。そして二人で、そちらを向いた。
暁美ほむらである。震えていた。かわいそうに。彼女も、吾らを追ってきて恐ろしい目にあったに違いない。目を見開いて、唇を戦慄かせている。きっと信じられないものを見たのだ。吾は袖に張り付いていたあれの肉片を、手で摘まんで足元に捨てた。
それまで閉口していた上級生が、ほむらにおずおずと口をひらく。
「魔女は――あの、魔女は逃げたわ。仕留めたいなら、すぐに追いかけなさい。今回はあなたに、その、譲ってあげるから」
「あ――はい」
ほむらは、すごすごと引き下がった。
それから、上級生はなにやら不思議なまじないをして、キュゥべえの傷を癒した。やはり、あの暁美ほむらと同じく、なんらかの術の使い手であるようだ。二人は、吾らのあずかり知らぬ事柄に精通しているらしい。
傷が癒えると、キュゥべえは地面に四足をついて、屈み込んでいた上級生を見上げた。
「ありがとう、マミ! 助かったよ」
「お礼はこの子たちに。わたしは、その、本当にただ、通りかかっただけだから」
吾とさやかは、互いに顔を見合わせて苦笑した。キュゥべえが、しゃがんだ吾らに顔を向ける。
「どうもありがとう! ぼくの名前はキュゥべえ」
「鹿目まどかでござる」
「美樹さやか」
「ジュゥべえ」
「ぼく、君たちにお願いがあっ――ごめん、もう一回いいかな」
「鹿目まどか」
「美樹さやか」
「ジュゥべえ」
「もう一人いる!」
吾らは顔を見合わせた。
「こやつ、ジュゥべえがわかってござる」
「先生、もしかしてとは思いますが」
吾らが揃ってそちらを見ると、キュゥべえと上級生もまた、つられて目をやった。
「ははは、なんだ、見えるのか」
ゆらっ、ゆらっ――と、キュゥべい達には、そんな風に出てきたように見えるのではあるまいか。
声の主は、草鞋の先っぽを、吾らに向けて踏み出した。たっつけ袴が見えてくる。それから打裂き羽織である。腰に帯びた大小こそないものの、それはまさしく、侍とかいう、まったくもって時代錯誤な生き物なのであった。歳の頃は四十路を回ったばかりか。無精ひげをざらざらと撫でながら、苦みばしった男らしい顔つきで、にっと笑っている。
「拙者、ジュゥべえ――柳生十兵衛でござる」
思えば、十年前も、彼はこのようにして吾らの目の前に姿を現したのだった。