どんな文豪であっても、この光景を形容する言葉がなくて苦しむに違いない。
今東京の新橋や柳橋の花街で風雅に遊ぶ者たちよ、ぬくぬくと暖衣飽食の金持ちたちよ。美人をはべらせる一宵の費用や、食前の酒を減らして、この惨状にある人たちを救ったらどうだ--。
1896(明治29)年6月24日付の東京日日新聞はこんな趣旨の記事を載せている。文語体を今の日常の言葉に直したものだが、所は岩手の釜石。累々と続く大津波跡の廃虚から発したものだ。
その月15日夜、三陸を襲った大津波は2万2000人に及ぶ犠牲者を出した。「明治三陸津波」である。
新聞記者たちが各地から駆けつけた。東京日日から派遣された2記者の1人、石塚剛毅は、鉄道、3人引き人力車、馬と乗り継いで急いだ。最後は徒歩の山越えで3日目の夜遅く、東京からは最も早く釜石にたどり着く。
その夜のうちに現場を回り、数字を挙げて<其(その)惨状眼(め)も当てられず殊に医師及薬品の欠乏して救済行き届かず傷者路傍に呻吟(しんぎん)するもの多し>と一報を電信で打った。
その後広く歩き、酸鼻を極めた光景や、生死離散の話を集めては送稿している。
助かった者も、支え合おうとする人々も皆見捨てられたように疲弊しきっていた。23日の紙面は、国がすぐ予備費を支出し、国民はそれぞれが出せる義金を出して同胞を助けるのが<当務なるを絶叫せずんばあらず>と強い調子で訴え、翌日は冒頭に紹介したくだりを記事に入れた。憤怒みなぎるふうである。
日清戦争に勝利した翌年だった。日本は近代的な国民国家の認知を国際社会に得たという気分に浸った。その時にこの大災害だった。記事から見れば、国の動きは鈍い。
その10年後--。
やはり天災である大冷害に襲われた福島、宮城、岩手の冬を北上し、ルポルタージュ「雪の凶作地」を連載した東京朝日の記者がいる。杉村楚人冠(そじんかん)(広太郎)である。
日露戦争後の冬だ。杉村は雪に埋もれた大凶作地で分断孤立し、公的支援からも見捨てられた村々を歩き、その実録を東京へ送稿し続けた。データを重視し、筆致は努めて冷静だが、時として感情の高ぶりを抑えられず、泣いたことも記されている。
窮状の一因は、戦争に働き手を取られたことにあった。これは当時全国の村々に広がる疲弊でもあった。
次の言葉に共感する人々は今も多いに違いない。
<嗚呼之(ああこれ)が東京市内の事にて其の記事の新聞紙に出(いで)たるものならんには世の慈善家なるもの豈(あ)に打棄(うちす)てゝ置きなんや>
これが東京の出来事で新聞に報じられていたら、慈善家といわれる人々も無視はしておれなかっただろう、というのだ。これは「東京メディア」の自己批判でもある。
当時と今とでは情報伝達のスピード、量、範囲、種類の多さは比較にならないほど異なる。だが「情報集散地」東京ですべて事情に通じたような錯覚、あるいは遠隔地への無関心、無共感、つまり想像力の薄さという通弊は、当時も今も大して変わらないのではないか。そして、今回の大災害もそれを示していると思うのだ。
たとえば、物が滞り、小さな共同体は情報や注意から漏れ落ち、日を経てなお体もふけず、寒さとひもじさに耐える同胞がいる現実。諸条件は明治のそれではないにしても、「中央」の意識と実態の落差ということは変わりない。
一線の各メディアの記者たちの懸命の取材と報道でその一端が知られ、状況が改まったという例が今回もある。1世紀以上前の大津波や大凶作の現地報道も行政を動かし、国民から相当な額の義援金が寄せられた。
おそらく今、一線の記者たちの目も、人々が打ちひしがれた山野海岸を歩いた明治の記者たちの目と共通の怒りや哀切をたたえているだろう。その目から書かれる記事が、なにものかを動かし、状況を開き得るのだと思う。
原発被災が重なり、文字通り未曽有の事態になった今回の「複合大災害」は、日本社会のありようを変えるかもしれない。目指すべきは「復旧」ではなく「復興」だとも論じられている。新しく、よりよいものを興し、構築するという意味で。
その通りだろう。だが、まさに今、理不尽な孤独と不安、疎外感に追いやられている人たちと共同体から目を離さず、そこから明日のありようを考え、発想してこそ前に進む論議ではないだろうか。
現場発の記事がその土台であることは、時を経ても変わらないはずだ。
==============
ご意見をお寄せください。〒100-8051毎日新聞「記者の目」係/kishanome@mainichi.co.jp
毎日新聞 2011年3月23日 東京朝刊