<< 2011年03月 >>
123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031

田中明先生を偲ぶ 不肖の弟子として

2011/03/23 00:01

 

私の韓国問題での師匠である田中 明先生が昨年12月8日 心筋梗塞で逝去された。84歳だった。様々な事情でその消息が伝わるのが遅かった。最近になり、関係者が偲ぶ会を行う準備をしている。偲ぶ会準備会のために書いた拙文を掲載します。

 

 

 

 

 

田中明先生を偲ぶ  不肖の弟子として

 

 

西岡力

 

 昨日36日、藤沢にある田中明先生の勉強部屋を訪問した。座卓にはパソコンと眼鏡が置かれており、その周囲には新聞の切り抜きや雑誌論文コピー、日韓の多くの書籍、様々な辞書辞典などがぐるっと周囲を囲む形で積まれていた。壁のほとんどに立てられている本箱と押し入れも本と資料であふれていた。カレンダーが昨年12月のものだったが、田中先生が散歩から帰ってきて、座卓に坐って朝鮮に関して何か調べ物をし、書き物をしてもおかしくないと思ってしまった。

 勉強部屋の積まれた本の一番上に拙著「日韓誤解の深淵」が置かれていた。田中先生は私を弟子としてかわいがってくださったのだなと、あらためて思った。形見として、その拙著と田中先生の著書「朝鮮断想」を勉強部屋の本棚からいただいてきた。「朝鮮断想」こそ私の研究に最も影響を与えた本だ。この本を読むことができたから私の韓国研究は成り立っている。

 その日、葬儀の写真を見せていただいた。棺の中に横たわっている田中先生の姿を写真で確認し、本当にお亡くなりになったのだなと実感した。認めたくないことを最終的に認めざるを得なかった。いまも私の携帯に、田中先生からビールでも飲みたいから藤沢に来なさいという連絡がくることを待っているのだが、それはないのだ。

 

 私が初めて田中先生にお会いしたのは、1979年か1980年、大学院2年生のころだった。いまから30年以上前になる。修士論文として書いた「戦後韓国知識人の日本認識『思想界』の日本関係記事を中心に」を見ていただくため、本郷の喫茶店でお会いしたと記憶している。丁寧に読んでくださり、数日後にわざわざ電話をくださって、結論の部分に論理的な矛盾があるという指摘をいただいた。それから親しくご指導いただきつづけてきた。

 特に、1984年から2002年まで私が月刊現代コリアの編集部にいたときは、多いときには毎週、少なくとも月に数回はお会いしてきた。まがりなりにも私が韓国問題を勉強つづけることができたのは、田中先生のおかげだ。私にとって韓国研究の師匠だ。もちろん、ここ10年以上、きちんとした研究論文を書くことなくきた私であるから不肖の弟子であることは間違いない。

 2003年以降、私が北朝鮮拉致問題での活動で多忙を極めたことと、田中先生が東京に出てこられる頻度が少なくなったことが重なり、お会いする機会は減ったが、数カ月に1回、藤沢で酒食をともにするときを持たせていただいてきた。その際は、現実の政治運動の中にいる私に対して、韓国研究を越えて人生問題全般について温かい励ましとご指導をいただいていた。

 

 田中先生から「最初に論文を持ってきたとき西岡君は気の弱そうな世間知らずのお坊ちゃんだった」とよく言われてきた。そして「朝鮮問題は頭で取り組むのではなく、腹で取り組むのだ」と教えられた。私が曲がりなりにも拉致問題と慰安婦問題に取り組むことができたのも、田中先生のその教えがあったからだ。

 慰安婦問題では19921月、田中先生と私のもう1人の師匠佐藤勝巳現代コリア研究所所長が「謝罪すればするほど悪くなる日韓関係」という対談を月刊文藝春秋で行った。たしか、田中先生は体調を崩されていてテープ起こしのゲラを病院のベットで点検されていた。対談で2人は公権力による強制連行説について疑問を提起した。

 文藝春秋編集部はその対談を受けて、慰安婦問題について本格的に取り組むことを決め、私に調査と原稿執筆の依頼をしてきた。そのとき、田中先生は「これを引き受けることは大変なことだぞ」と、積極的には勧めなかった。当時は、産経新聞を含む全てのマスコミが強制連行があったことを前提に報道をしていた。ご自分はその渦中に入っていきながら、私がそこにつづいて入ろうとしたとき、消極的な態度を取られたことを思い出す。世間知らずのお坊ちゃんに、慰安婦問題での論陣を張る「腹」がないと思われたのだろうか。実は、そのとき文藝春秋に書いた論文が、田中先生の勉強部屋に置かれていた拙著「日韓誤解の深淵」に収録されている。

 

 田中先生の韓国研究の質の高さは、韓国の屈指のジャーナリスト趙甲済氏に韓国政治をどの様にとらえるべきかという点で強い影響を与えたことからもよく分かる。

 田中先生は199211月「韓国政治を透視する」という著書を出された。その年の12月の選挙で民主化運動のリーダーであった金泳三が大統領に当選した。韓国と日本のマスコミ・専門家は、「経済成長の結果生まれた中間層が韓国の民主化の担い手として登場した結果、1987年の民主化が実現し、87年には、野党側の分裂で軍人出身の盧泰愚が大統領選挙に勝ったが、92年に当選した金泳三こそが中間層の支持を集める民主政治を行うだろう」と見ていた。そのとき、田中先生は韓国政治史において朴正熙時代だけが「例外」であり、その影響力が失われれば「通常」である李朝的価値観に回帰するという見取り図を実証的に提示され、金泳三政権の失敗を予言した。

 月刊朝鮮の編集長として韓国言論界をリードしていた趙甲済氏も、金泳三政権の前途を楽観していた。私は、9212月頃ソウルで趙甲済氏に会って、田中先生の厳しい見方を伝え「韓国政治を透視する」を贈呈した。

 金泳三政権は内政、外交、南北関係すべてで失政をつづけ、最後には国家経済を破綻させてIMFの管理下にはいるまでに至った。趙甲済氏もすでに93年後半には金泳三大統領の政治スタイルのおかしさに気づき、月刊朝鮮誌上で本格的批判を繰り広げだした。その頃、趙甲済氏は田中先生の「韓国政治を透視する」の主要な論点を紹介しつつ、韓国政治の弱点を自己批判する長文の論文を書いた。

 田中先生は80年代半ばに心筋梗塞で大手術を受けられ、その後、一度も韓国を訪問していない。現場の第1線で取材しているジャーナリストである趙甲済氏が外国人である田中先生の見方に感化され、自国政治に関する見方を大きく変えていったのだ。それを目撃しながら、田中先生の韓国政治論の確かさと深さに驚愕したことを思い出す。


カテゴリ: 世界から    フォルダ: 指定なし

トラックバック(0)

 
このブログエントリのトラックバック用URL:

http://tnishioka.iza.ne.jp/blog/trackback/2208638

トラックバック(0)