1 日本文化の黎明
<旧石器時代>
#1[更新世の日本]
#2A
更新世(〜1万年前)
#3B
日本の状況
#4[旧
石器文化](1万年以上前)
#5A
特色
#6B
打製石器の進歩
#7C
更新世人類 |
1 日本文化の黎明
<旧石器時代>
・最初に見てゆく旧石器時代は、別名を更新世ともいう。これはそれぞれが独特の時代区分による名称だ。最初
に
時代区分について考えておこう。
Q1 多くの場合、歴史というのは文字に書かれた史料を元に復元された過去のことを指
す。過去のそれぞれの時期を振り返るとき、適当に時代で区切った方が
わかりやすいため、時代区分がおこなわれる。奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸という時代区分は、何に基づいているのか?
A1 政治形態に着目。政権の所在地が変わったため、奈良
(平城京)に政権があった時代は奈良時代、京都(平安京)に政権があった時代を平安時代などといって
いる。 |
・しかし、歴史以前では区切るものがない。だから文化による区分が用いられる。
古墳時代は古墳が作られた時期、弥生時代は弥生土器を使った時代、縄
文時代は縄文土器を使った時代、旧石器時代は旧石器を使った時代である。
・もっと古い時代には文化もなかったりする。そのため、岩石の不整合の様子や、化石で出る古生物の変遷で歴史を振り返るということがある。こ
のような時代区分を地質
年代と呼んでいる。
・地質年代では、恐竜が栄えた時代は哺乳類の時代よりも古いというように、何かに対して古いか新しいかという観点で時代区分がされる。この
よ
うなものを相対年代と言っている。
・相対年代の求め方はいろいろあるが、代表的なのは地層の層序による方法であろう。下の地層から出たものは古く、上のものは新しい。
・普通は、出土する化石から、生物の発生の段階ごとに始生代(生
物なし)、原生代(原生生物、45〜5億年前)、古生代(魚類、5〜2億年
前)、中生代 (爬虫類、2億〜6000万年前)、新生代(哺乳類、6000万年前〜)と分けている。
[更
新世の日
本]
A 更新世(〜1万年前)
氷河時代=氷河期と間氷期のくり返し、人類の発
生の時期
・哺乳類が出現した新生代は、第三紀と第四紀に分けられる。第四紀が人類出現の時期で、さらに更新世と完新世に区分される(近年、人類の発生は鮮新世にさかのぼらせている)。この2つの時期は、約1万年前
に訪れた最後の氷期終了で区切っている。地球は寒冷な氷河期と
温暖な間氷期をくり返してきた。ヨーロッパでは、この氷河期
をギュ
ンツ、ミンデル、リス、ヴュルム
に分けている。
・氷河期の日本は北海道から中部山岳にかけてが氷河で覆われ、名古屋で北海道並の気温
だった。年平均で
6〜7度低かったらしい。地球に出現した人類は、何度かの氷河期を生き延び
てきたのである。
Q2 第四紀の始まりの目安は人類の出現といっても、サルと人間はどこが違い、どうい
うものが人類と言えるの
だろうか?
A2 火を使う、言葉を話す、道具を使うなど、サルと人間の差を示す指標はいくつもある。しかし、決定的な違いは直立二足歩行。他の現象は、直立二足歩行を獲
得したことによってもたらされた。
|
・二足歩行によって前肢は歩行から解放され、やがては道具を使うようになる。二足歩行
により、頭部が重くなっても支えられるようになり、脳の容積が増加し
てゆく。二足歩行によって、喉頭のスペースが確保され、言葉を発せられるようになる。人間としての特徴は、いずれも直立二足歩行によって獲得されてい
る。
・直立二足歩行をしていたかどうかは、化石の骨格で判明する。腰骨が大切なのである。
ex)アウストラロピテクス(100万
年以上前)
・アウストラロピテクスは400万年〜80万年前に生きていた。1924年、南アフリ
カで発見され、当初は100万年前のものとされる。その後、この近種
が次々に見つかり、発生年代がさかのぼっている。
・遺伝子DNAから人類の祖先を探る研究があり、最初の人類についての推定がされてい
る。結婚して子供を産むと、両親の遺伝子が混
ざり合って混血の子供ができる。混ざり合い具合を解きほぐし、両親の
遺伝子DNAのタイプを検出し、その両親へとさかのぼってゆくと、最終的には元祖人類に行き着くことになるらしい。この研究を進めている人によれば、人類
の祖先はアフリカ
に生きていた一女性にたどり着く。人類はこの女性から発生したのであり、キリスト教で人類の祖先とされるアダムとイブに因み、「アフリカのイブ」と呼
ぶ。この人の旦那は猿だったのかしら?。
・アウストラロピテクスは猿人と呼ばれ、脳の容積もさほどではない。完全な直立歩行で
はなかったらしい。
ジャワ
原人、北京原人(50〜25万年前)
・原人は80〜15万年前に生きていた。1891年、直立猿人(ホモエレクトス)が
ジャワで発見される。1927年、北京原人が北京周口店で発見される。
後者はたき火のあとがあったことから、火を使ったことが判明している。
・猿人と原人の連続性についてはよくわかっていない。
ネアンデルタール人(10万年前)
・旧人は15〜3万年前に生きていた。1856年、ドイツで発見されたネアンデルター
ル人が有名だ。彼らは葬送儀礼をおこない花を供えたことが分かってい
る。出土した遺骨の上には、たくさんの花粉が残されていた。仲間の死を悼んで花を供えるというのは高度な精神文化を持っていたということ。旧人はホモ
サピ
エンス(智の人)と呼ばれる。
・旧人は今の我々とは頭の形が違う。目の上にはこぶがあり、後ろは丸い。ゴリラのような感じだ。
クロマニヨン人(3万年前)=現世人類の祖先
・新人は現在の人類に直接つながる。旧人とともに生きていたらしい。この頃は、人類に
も2タイプあったことになる。1868年、南フランスでクロマニヨン
人が発見される。ホモサピエンスよりも賢いので、ホモサピエンス・サピエンスという。洞窟内に壁画を描いたのは彼らだ。
※打
製石器の使用、狩猟・採集経済
・彼らの使用した道具としては、打製石器しか発見されていない。生活についてもよくは
わからない。現在、もっとも文明から遠い世界で生きている人たちの例
からして、狩猟や採集で食べていたと考えられている。
B 日本の状況
海
退現象で大陸と地続き
Q3 氷河期の日本列島は寒かったという他、地形の点では現在とはどのような違いがあ
るのか?
A3 現在、地表の10%が氷河に覆われる。氷河期は、これが陸地の30%を覆う。ヴュルム氷期のスカンジナビア半島は、4000メートルの氷で覆わ
れていた。
地表の水が氷として固定されているのだから、その分だけ海水面が低下することになる。
|
・日本列島周辺の海は干上がって、大陸と陸続きになっていた可能性が高い。海面低下の
数値にはいろいろな説がある。マイナス100メートル以上は確実で、湊正雄は140メートルと
言っている。
・海峡の深さは朝鮮海峡が140メートル、津軽海峡も140メートル、宗谷海峡が60
メートル、対馬海峡は120メートル、奄美大島・屋久島間は1000
メートルだ。140メートル低下なら朝鮮半島と九州、シベリア大陸と北海道は陸続きであったと考えられる。ここを通って大陸から生き物が日本に渡ってくる
ことができた。
Q4 九州と南島の間は陸続きではなかった。動物相はどうなるのか?
A4 南島と九州の動物相は著しく違う。南島の島々は早い段階で島化しているので、古い時代に栄えた動物が絶滅せず、残存している。イリオモテヤマ
ネコやアマ
ミノクロウサギなどである。
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=ナウマン象、更新世人類の渡来
・ゾウの歴史は6000万年前からで、人類よりもはるかに歴史が長い。日本列島は
1500万年前に基礎ができ、大陸と
くっついたり離れたり繰り返した。この間、22種のゾウが歩いて来ている。
・マン
モスは4万年前に北回りで来るが、本州では未発見である。津軽海峡の陸橋は早くに水没したらしい。
・ナウ
マン象は30万〜1万6000年前に朝鮮海峡経由で入ってきている。しかし、陸橋を渡ってきたナウマン象は
ヴュルム氷期には生存していた
が、旧石器時
代人に食い尽くされてしまったらしい。大きな象は格好な食料だった。
・長野県の野尻
湖遺跡はそのキルサイトであり、象化石と打製石器が共に出てきた。1962年以来、湖底が干上がる3月に発掘している。2〜3万年前はタ
イガの植生
だった。
Q5 更新世の地形は、関東地方では関東ローム層と呼ばれる赤土である。戦前は、縄文
の遺物を掘ってゆき、関東ロームに行き当たるともう何もないとして掘
らなかった。どうしてなのか。
A5 関東ロームは火山灰土で、厚いところは30〜40m積もっている。富士、赤城、箱根、浅間などの火山が活発に活動していたのがこの時代であ
る。これでは
人類は生存できないと考えられていた。
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火山活動の活発化→火山灰の堆積 ex)関東ローム層(赤土の台地)
[旧
石器文化](1万年
以上前)
相
沢忠洋による岩宿遺跡(群馬)の発見で確認
(1949)
・相沢忠洋は納豆売り、小間物行商をしながら縄文時代の考古学を研究していた。昭和
21年、群馬県笠懸村岩宿の丘の切り通しの赤土の中に石片を発見。長さ
3センチ、幅1センチの小さなもので、ガラス質で両側がカミソリの刃のように加工されていた。これだけ小さなものをパッと見つけだしたところが相沢の素晴
らしさである。
縄文時代の石器であれば、共出するはずの土器は、あたりには見あたらなかった。
・連絡を受けた明治大学の芹沢長介が発掘し、昭和24年に更新世のものであることを確
認。以後、全国で3000件を超える遺跡が発掘されている。
A 特色
土器を使用しない打製石器(旧石器)のみの文化
Q6 打製石器は旧石器、磨製石器は新石器と呼ぶが、どちらが進んだ道具だと思うか?
磨製石器はどうして登場
していないのか。磨製の製造法がわからなかったのか。
A6 磨製が打製よりも進んでいると思うのは間違いである。それぞれ用途が異なっている。磨製石器は使い道がなかったので作らなかったのである。
|
・打製石器は刺突用の道具である。ガラス質の石を打ち欠いて作るため、ナイフとして優
れている。切開手
術に黒曜石を使うことも可能である。鋭いがもろいのが欠点
で、これで
木を切り倒すようなことはできない。
・磨製石器は斧として使うのによい。土を対象とする場合は打製でも磨製でも遜色がない
が、
木を倒すということは磨製の方がすぐれている。先土器時代の人も、磨
製の技術は持っていたとされる。しかし、氷河期の植生はタイガであり、木が太いために容易に切り倒すことができず、磨製石器は用いられないのである。
狩猟・採集生活
cf)新石器時代=磨製石器+土器+農耕・牧畜
・ちなみに、磨製石器を用いる文化が新石器文化であるが、単にこの道具を使っただけで
はだめである。文化というのは生活様式の総体だから、この他に土器を使い、農耕や牧畜をおこなったのものをヨーロッパでは新石器文化と称している。
B 打製石器の進歩
・石器はどうやって作ったのか。その作り方の進歩を見れば、石器の進歩がわかる。
核石器=打製石斧(握槌)
・もっとも単純なのは核石器。作りたい大きさに近いものを手に入れ、不要部分を割り
とったもので握鎚などができる。
Q7 石器の材料は貴重品である。一つの材料から一つの石器しか作れないのは効率が悪
い。たくさん作るにはどうするか?
A7 3万年前以後の後期旧石器時代になると、石核から連続
して剥片をとってナイフに加工したものが登場する。これを剥片石器と
いい、細いものである。このナ
イフを石刃という。
|
剥片石器=ナイフ型石器(石刃)・尖頭器(石槍)
(3.5万年前、後期旧石器時代になって拡大)
細
石器=細石刃(1万5000年前〜、シベリアから伝来)
・もっと後になると打ち欠いたときに出たクズも石器として利用するようになる。細石刃といい、長さ数センチ、幅数ミリ。アスファルトなどで木に取り
付けて使用し
た。これで一つの素材からとれる石器の刃渡りは飛躍的に増大した。利器としての刃物の善し悪しは刃渡りの長さで決まる。
・細石刃の文化の発生地はバイカル湖あたり。1万5000年ほど前にシベリアから北海
道に伝わり、東日本に拡大したという。西日本にも広まるが作り方が違
い、ナイフ型石器と併用される。きっと、違う文化が東西に存在していたのである。
cf)中石器時代=磨製石器の登場
・細石器が登場しだした時代は、磨製石器も併存している。このため、中石器時代と呼ぶ
人もいる。
Q8 日本の旧石器時代の遺物は石器ばかりで、人骨が出ないという。どうしてか?
A8 火山灰の酸性土壌であるため、アルカリ性の人骨は溶けてしまうからである。アルカリの人骨を保存するにはアルカリ性のもので覆ってやる必要が
ある。
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Q9 ちなみに日本の古い人骨は、縄文時代のものがたくさん出ている。弥生時代以降の
ものは少ない。どうしてか?
A9 貝塚から出るから、貝の石灰分で守られているのである。貝塚は縄文時代の墓場でもあった。
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Q10 旧石器時代の人骨が出るアルカリ性の土壌というのはどんなところか?
A10 セメントを掘るような石灰岩地帯からしか出ない。
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C
更新世人類
明石原人(兵庫)、
・見つからないはずの更新世の人骨が出た。1931年、明石市の更新世の崖で直良信夫が腰骨を発見。東大に送った。直良は明石原人と命名したが、当時は更
新世のものとは断定できなかった。
・この人骨は、1945年の空襲で焼失してしまう。戦後、石膏模型を見た長谷部言人
は、その形態から北京原人相当の古いものとした。
・1982年、コンピュータ分析の結果、せいぜい1万年前の形態で、現代人でも80人
に1人はそういう形をしているという見解も出され、更新世人骨として
は否定的な見方が広がった。
・そこで、1985年、再調査をすることになった。崖を12m掘り下げたところ、加工
したように見える木片
が出た。炭素14法で5〜6万年前とされるので、ここから出た骨なら
ば、旧石器人の可能性はあるとされたが、実態はよくわからない。
牛川人(愛知)、浜北・三ヶ日人(静岡)=不確か
・牛川人と呼ばれるものは、愛知県と静岡県の境の石灰石採掘場から出た。1957年に動物の骨とともに女性の上腕骨の一部10センチほどと、子供の大腿骨
破片が
発見されている。唯一旧人的で身長135センチとされ、本当だったら10万年前のものという。しかし、骨の断片が小さく、動物の骨という意見もある。
・浜北人は、同じく愛知・静岡県境の石灰岩地帯で1962年に発掘された。絶滅したト
ラやヒョウの骨と一緒に出ているので、古いものと推定され、1万8千
年前くらいという。
・三ヶ日人は1959年に発掘。更新世後期と判断されたが、縄文早期という意見も強
い。
・これらは教科書にも紹介されたものであるが、新しい骨という鑑定も出ているので不確
かである。葛生人、聖嶽人も出たが、ねつ造とか中世の骨という説が強
い。
港川人(沖縄)→縄文人との連続性(古モンゴロイド)については不明
・沖縄は隆起サンゴの島なので石灰岩地帯。ここで、日本で唯一、更新世人骨と断定され
ているものが出土している。港川人と呼ばれ、5〜9体の古人骨で、1
万8千年前のもの。男155センチ、女144センチと小さい。
・高身長の華北人より、低身長の華南人に似ている。しかし、本土人と同じだったかどう
かはわからない。サハリン経由で北海道、東北に南下した人たちとは別
系統。沖縄は早くから本土との間に海が形成されているので、頻繁に行き来したとは考えにくい。
※中期(3.5〜13万年前)、前期(〜13万年前)遺跡も不確か
・日本では3万5000年前を基準に、それ以前のものを前期旧石器と称している。大陸では中期旧石器文化で旧人の時代になる。更新世人骨が不確かなのと
合
わせて、前期旧石器時代の遺物の存在もはっきりしない。
Q11 地層の順序を見ればどっちが古くて新しいかはわかるが、実際に今から何万年
前のものなのかということはわからない。今から何万年前かを表すものを
絶対年代というが、その求め方はどのようなものか?
A11 放射線を調べるのである。
|
・放射線を用いる絶対年代の測定法には次のようなものがある。
(1)放射性同位元素の測定=代表は炭素14年代法。死んだ
生物の体内にある炭素14が崩壊してゆく量を測
る。半減期は5700年。3万年前以降を調べるのに
よい。開発者のリビー(米)はノーベル賞を受賞した。
(2)熱ルミネッセンス法=鉱物中の放射性元素が電子を追いやっていることに着目。熱すると蛍光を発して電子が元に戻るので、発光量を調べる。一度加熱
される
と発光力は0になる。それから放射線を浴びると発光力がついてくる。先に熱せられて以降の年代がわかり、百万年〜数千年前まで。
(3)フィッション・トラック法=石器や土器などに含まれるジルコン中のウランが崩壊するとき、鉱物に付けた傷を電子顕微鏡で数える。熱せられると傷が
消える
ので、それ以降のウラン崩壊による傷を調べる。10億〜数万年前の測定によい。
・この他、木の年輪から絶対年代を導く方法もある。
(4)年輪測定法=寒暖の差によって年輪のでき方が違う。古い時代の建材や古木で、絶対年代が明らかとなっているものを基準に決めておき、それと比較す
る。
・このうち、もっとも信頼のおけるのが(4)であり、次いで(1)となる。古い時代のものを明らかにしようとすれば、それだけ誤差が大きくなる。
Q12 打製石器の年代を確定するため、出てきた石器を一つ一つ放射線分析するのは
たいへん。何かよい方法はないか?
A12 地質学では、ある化石がでてくれば、それでその地層の古さがわかる。アンモナイトが出れば中生代である。そういうものを示準化石と呼んでいる。日本全体
を覆う地層を見つけ、その年代を確定しておけば、それより古いか新しいかで大まかな年代を知ることができる。
|
・1970年、野川遺跡の4メートルの関東ローム層の発掘で、中に薄い火山灰層の存在
が判明した。火山ガラスの特徴から鹿児島の姶良カルデラの噴出物。炭
素14法で2万2000〜2万1000年前のもの。姶良火山の爆発は大規模であったため、日本中に火山灰を降らせている。南九州で50センチ、中部で
20
センチ、東北南部でも10センチ堆積している。したがって、この層を見つければ、2万年の前か後かという石器の編年ができる。
・しかし、こういう物差しになるものは、古い時代には存在しないので、どうしても放射
線分析に
なる。そして、古い時代のものを明らかにしようとすれば、それだけ誤
差が大きくなるのは仕方ない。
→座散乱木遺跡、馬場壇A遺跡、上高森遺跡(宮城)?
・電器メーカー勤務の藤村新一が1976年、宮城県座散乱木で石器を発見した。熱ルミ
ネッセ
ンス法で3万3000〜4万3000年前のもので大発見。その後、馬
場壇Aで出たものは20万年前となり、上高森では60万年前までさかのぼった。
・この発見の成果は教科書に記載され、日本の更新世の遺跡は北京原人の時代にまでさかのぼった。藤村は「神の手」とされて次々に新発見を続ける。「遺物の
あるとこ
ろの土は見るとわかる。他より柔らかい」と言っていた。何万年も前の土が柔らかいのだ。中には、動物を解体するのに使ったものとの証拠とされた脂肪酸のつ
いたもの、同一の材料から取った石器が遠く離
れたところから出て、交易がおこなわれていた証拠とされたものも出る。
・藤村が掘るたびに「世紀の大発見」としてスクープしたのは毎日新聞だった。なかなか遺物が出な
い
とき、彼を呼ぶと、「明日はあそこから出る」と言って、それが事実となる。自治体がおこなう遺跡発掘は、何も出ないと問題になることがあり、発掘の状況が
思わしくないとき、藤村はいろいろなところから声をかけられた。
・しかし、どうして藤村だけが掘り当てるのかがわからなかった。怪しいということになり、毎日新聞はビデオを隠してまわし、藤村が何をするかを
見ていた。結局、別の所で出た石器を、古い地層の中に埋め、翌日掘り出していたのである。
・現在、藤村が関わった全ての遺跡が再調査対象となっている。
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