webreigoさんの経歴
監修・講話承ります。
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法規に係わる理念
われわれは「尺度」を欲する。しかも同時に「伸縮する尺度」を要求する。(東大名誉教授、末弘厳太郎先先)
ネットはマスになり得るのか
気軽な便利さが軽率へ、匿名性が法に抵触する行為へと流されていくケースがあります。ネットがニッチな層への利用や伝達に留まるのであれば、マスコミュニケーションの本来の機能とは離れていく可能性が高いと感じている今日この頃です。
税金
そこで、ついに内閣府や財務省をはじめとする、我が国の専門分野の英知が集結し、日本国の総力をあげての共同開発で、よい方法が発見されました。
その方法とは・・・・・。
「知っているやつに聞け」
今回は印紙について。
みなさんも、人生の中で1度くらいは見たことがあるでしょう。あの、切手のお友達みたいな形の証票です。
印紙税は、課税文書作成のときに収入印紙を貼り消却することによって、納付しますが。
売上金・有価証券の受け取り書の場合などでは、10億を越えると20万ですから。あのちーさな、ちーさな・・・吹けばぁ、飛ぶような、将棋の駒に〜♪て・・・何の話でしたっけ?
ああ、印紙ね、印紙。あの面積に20万円の価値が発生するわけです。そこまでの額は生涯無縁としても、それでも誤納税はちよっと痛いと感じませんか?
そこで、今回は、間違えて貼ってしまったとか、多く貼ってしまったなど、誤って収めた収入印紙の還付の仕方をご紹介します。(なお、収入印紙は、国の各種手数料の納付などにも使用されますが、これらの納付のために誤って収入印紙をはった場合などは、印紙税の還付の対象になりません。)
まず、過誤納の事実を証明しなければなりません。所管の税務署長に「印紙税過誤納確認申請書」を提出します。
そして、それだけではなく、過誤納であるという文書も提示しなければなりません。つまり一筆「すまんが、間違えて、はっちまったんで、返金してくれ」と。
(この通りに書くと税務署員各位が顔を真っ赤にしてやおら、立ち上がりますのでくれぐれもお止めください。)
お手本印紙税過誤納確認申請書の書き方(PDFファイル)印紙税法第14条第1項、第2項、印紙税法施行令第14条第1項、第4項
税務署に、「印紙税過誤納確認申請書」は用意されていますので、過誤納であるという文書と印鑑をご持参ください。
「過誤納処理済」という印鑑等が押されれば、返戻します。ただし、還付は現金や、その場での返金ではなく、銀行か郵便局経由となりますので、若干の日数を要することがあります。・・・え゛?貼り間違えた金額が200円。
・・・・どんまいっ、てことで。
私の苦手なもの
「相手より自分の方に正義がある」と何かを掲げ、言い募る人をなるべく回避するようにしている。 時に自分も同じように正義を叫び、法にも助けを求めておきながらである。
そう、正義も思想も宗教も、そして法さえも多くの人を現実から目をそらさせる。
しかし、矛盾するようだが、法も正義もない社会には暮らしたくないし、正義のそのあるべき居場所を探求する必要があるようにも感じる。
本来の意義の「法律」とは何なのか、それは、「法規範」の創出とも言われている。法は行いのお手本として、人を愛しみ幸せにするものだと思っていたりする自分がいる。
自分にとって最も受け入れやすい正義は、個人の尊重かもしれない。他人から不当に侵害されない自由を含む以上、当然、他人の自由を(なるべく)侵害しないということであり、論理的に、自由に対するあらゆる制限は、それが他者の自由を侵害する行為に向けられた制限に限られるという方向につながっていく。
私は残念ながら「正義の味方」にはなりえないが、一面的な「正義」に翻弄されない「正義の見方」を身につけていく努力をしたい。
日本国憲法第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
そもそも人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、真理の絶対的な妥当性は認めがたい、個々の主張をそれぞれ認めるというのは確かに進歩的な発想だとは思う。
基準と言うのは、時と場合と人によって変わるものである、ゆえに絶対の判断も価値も存在しないと言える。自分にとって価値があるというものが、他人にとっても価値があるとは限らないように。立ち止まっている自分からみれば走っている電車を早いと感じたとしても、電車と同じスピードで走れば、電車は止まって見えるのだから。自分が動けば周囲も当然動く、全ては連動し連鎖しているからである。
しかし、目的をもって推進するゲゼルシャフトにおいては、価値観の多様性を認めることだけに留まらず、その主観から人々に共通する普遍性を取り出そうとする努力を互いに行わなければ、自己の主義主張にしかならないと私は思っている。