80歳老人の問わず語りです
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【5154】 日本最初の新聞について
 ★10月は「新聞週間」のある月です。毎年、日本新聞協会が主催する新聞大会がひらかれます。 諸行事のピークは来週に集中しますが、いい機会です。日本最初の日刊新聞『東京日々新聞』の創刊号を出来るだけ忠実に復元してご紹介したいと思います。

 ★2~3年前の話ですが、日本の新聞は、誰が、どのような事情ではじめたのか? それを調べたことがあります。当時の調査メモも残っていますので、それを利用しながら、お話ししてみましょう。 この連休、新聞の原点をご一緒に見つめていただくのもご一興かも・・・

     ******* 日本の新聞:誕生日は1872年3月29日 *******

 ★第1号の発行日付は「明治5年2月21日」ですが、これに並列して「西洋千八百七十二年三月二十九日」とあります。??? 当時は未だ太陰暦の時代ですから、現在の太陽暦に換算すれば3月29日と言うわけです。

 ★創刊第一号は、木版彫刻で創られました。その方法は、新聞全紙大の木版を12片に細かく切り、編集室に控えていた版木師6人が、記者が原稿を1片書く度に直ぐ受け取ってそれを彫っていくようにしました。一人2片ずつ彫る割り当てです。出来上がった刳型(くりかた)を12集めて、二人の職人が一晩中かかって手刷りで印刷しました。

 ★第1号は浮世絵を想わせる木版2色刷の美しいものでした。これを彫ったのは、東京・牛込赤城の版木師・村橋昌蔵とその弟子だった、と記録されています。発行部数は1000部、との記録が残っているそうです。
 しかし、美しいのはたしかですが、なんせ手間がかかる。これでは日刊新聞は発行できません。そこで翌日の2号からは上海から輸入してあった活字活版で発行されました。

 ★定価は、1部140文。1ヶ月銀20匁(モンメ)となっています。オカシイのは、円、銭の新貨条例は前年の明治4年に公布されているのに新貨幣呼称を採用していないことです。多分、未だ一般民衆は「円や銭」の通貨単位に慣れていなかったのでしょうね。

 ★明治初年の物価は、「上等日本酒1瓶250文、牛鍋(スキヤキ)300文、そば1杯20~24文だったそうで、新聞1部140文は現在の円に換算すると2000円になるそうです。個人が買えるものではありません。回し読みした、という記録も納得できますね。

 ★、さて本題の記事内容ですが・・・。
 第1号は全文、1239文字。「官書公報」と「江湖叢談」の二つの欄で構成されています。
 「官書公報」は文字通り、政府の布告や公文書を掲示する場所です。第1号には「旧来郷士と称し家筋由緒有之候者は士族へ入籍可」などというおふれ掲載されています。
 「江湖叢談」は、これまた文字通り、”江湖”=世間のよろず談義(ニュース)を掲載する社会面です。
 ★オカミのおふれなど復刻しても面白みはありません。今日のところは、これを割愛して、興味深い社会面ニュースの2本をご紹介しましょう。

         ********** 【江湖叢談】 ********** 
 【信州今井村に農夫宇兵ヱと云る者あり其家極めて貧により人の為に雇われて田を鋤畑を打聊の賃を得て其日の烟を立たりしに一朝病に染て立事能わず病床に在こと三年の久きに及べり其妻阿仙貞にして且美麗なり能く夫に事えて其病中の尽力困苦傍人をして感泣せしむるに至れり時に東京の客僧慶山と云る者の此地を過るあり仙女是を家に迎えて夫の為に疾を祈らん事を乞う慶山仙女が十二分の姿色あるを見て窃に其床に赴き是を挑むと雖も仙女敢て従わず慶山なお欲情を禁ずること能わず其翌夕又迫るに白刃を以てし強て姦淫せんとす仙女従容弛まず却て是を諫諭せり慶山且慙且憤りて仙女を斬害して逃奔せり時は壬申首春の事なり県官令して慶山を捕縛し齣問して獄中に撃しとぞ】
 ●なんと、日本最初の新聞のトップニュースはセンセーショナルな僧侶による強姦未遂殺人事件でした。病夫を抱える貞女が治癒を祈って欲しい、と僧侶に頼んだが、その女性の色香に迷った僧侶は欲望を抑えきれず刃物で脅迫して迫ったが、逆に諫められ、逆上して殺した、と云うのです。何とも凄まじい事件ですが、明治5年、未だ通信事業も未発達のそのとき、遠い長野の今井村の事件を記者はどうしてキャッチしたのでしょうか? 

 ●創刊者の一人、西田伝助は後に「二十年の新聞生活」という懐旧談話を『東京日々新聞』(1909年3月30日付)に発表していますが、この中で、「当時の72県の出張所が今(当時)の印刷局のある所にあって地方向の用は皆、ここへ来て届けたものでした。新聞の探訪(記者のこと)などもここへ行って地方の種を取ったものなのです」と、取材源を明らかにしています。 出張所取材・・・今で云えば、記者は東京にいながら、都道府県の東京事務所や全国市町村会館で地方ニュースを取材した、ということなのでしょうね。

        *** 米国塩湖より朋友に送る書簡の抜粋 ***
         次に驚くべき記事は、「国際ニュース」です。

 【御使節一行去十二月二十二日桑港を発し途中大雪同月二十六日ソールトレイキシテイへ逗留今日まで未だ発程難相成一同退屈併何れも無恙候間御省察可被下候尤も数日の内には積雪相開け可申と之風聞に御座候○シテイは山間湖辺の一幽境にて土地頗繁昌居民一同モルモン宗を尊崇し市中に大伽藍有之此宗派は一夫数妻を娶り候事を免じ開宗之導祖ヨンダと申者は現存の人なり十六人の婦人を擁し居候由依て市中一夫一婦之家は絶えて無之年輩の宿し居候ホテルの主人も三婦を擁し居候趣実に未曾聞之宗派にて始め此宗徒ニウヨルクより放逐され此地に来たりて草業を開き屋宇を営み漸く市府をなし追々繁盛に至り此節華盛頓より官吏を置て管轄せり各国人も態々見物に来たり候程のよし開化文明自由の権を講ずる共和連邦の如き如此邪宗あるは疑わしきことにて候○桑港より当地迄の途中積雪五十八尺巳上の山谷を経過し当地も四方之山獄何れも雪を頂き候得共寒威は概ね御地と相適し候程にて四十度寒暖表内外に有之候】  
 ◆こちらは、米国ユタ州ソルトレークシティへの訪問記です。内容は、今では有名なモルモン教徒の一夫多妻を認める珍しい共同体に驚き、その概要と印象を綴っています。後半末尾にはサンフランシスコからソルトレークシティまでの豪雪について触れており、気温は華氏40度(摂氏4度)内外、”寒い”と伝えてもいます。

 ◆ここでは、ご紹介出来ませんが、毎日新聞社に保存されている第1号現物には、この記事には「塩湖之略図」とキャプション付きのイラストが掲載されています。創刊号の中心で人目を惹くこのイラストは日本で初めて新聞に掲載された外国風景図です。

 ◆ 記事発信者が触れている『御使節』について考察しておく必要があるでしょう。この記事は誰が書いたのか? それは長い間、知られていませんでした。後に『東日8000号記念』の特集記事で、著名な明治のジャーナリスト・福地桜痴が自ら友人に書き送った手紙の抜粋であったことを明らかにしました。福地桜痴は、当時、大蔵省の役人でしたが、岩倉使節団の一員として各国を訪れていました。『御使節』は岩倉使節団のことですね。

 ◆ 岩倉使節団は、1871年の12月26日にソルトレークシティに着き、翌年1月中旬まで滞在しました。それから欧州を視察したのでしたが、福地桜痴は帰国後の1874年、官を辞して『東京日日新聞』に入社し、主筆、のち社長になりました。明治の超一流ジャーナリストとして歴史に名を残す大人物です。

    ********** 馬車で乗り付けた読者第1号**********
 
 ▼最後に、日本最初の日刊新聞が発行された「1872年3月29日」(明治5年2月21日)に『東京日々新聞社』を馬車で乗り付けた官吏の話を付け加えておきましょう。新聞の発刊を知って、わざわざ新聞社本局を訪ね、「素晴らしいことだ」と激賞し、読者になることを告げてくれた人のことです。その人の名は、江藤新平。当時、明治新政府・左院(立法諮問機関)副議長の要職にありました。
 
  ▼このエピソードは、1887年(明治20年)2月20日付け『やまと新聞』付録の「近世人物史 第5回・江藤新平」の記事の中で紹介されたことで有名になりました。細かいことは省略しますが、当時、発行本局は、東京浅草・茅町1丁目にあった条野伝平の私宅に置かれていました。
 
  ▼第1号が発行された日、その家に一人の官吏が馬車で乗り付けました。当時、馬車に乗るほどの人はかなり身分の高い人で、雇い人たちは「馬車の門前に留まるさえ不思議」に思ったと云います。
条野はともかく本局2階の粗末な6畳間に通しました。

  ▼この官吏は「新聞などで利益を得るのは困難だろう。しかし世の中が進むにつれて新聞に勝るものはない。これを維持するのは忍耐、読者を増やすのは勉強だ。この二つをわきまえば一大商業になるのに10年はかかるまい。私も読者になる。明日から役所に配って欲しい。読者を増やす斡旋もしよう」と励まし、協力を約束してくれたのです。固定読者No.1の申し出です。
 
 ▼「あなたは?」と訊ねる条野に、その官吏は「予は麹町7丁目の江藤です」と答えましたが、これを「伊藤」と聞き違えた条野が「伊藤何と?」と聞き返すと、「江藤新平です」との答え。そこで初めて立法諮問機関・左院の副議長と気づき、「肺腑に銘じて忘却仕るまじ」と平謝りした、といいます。
 創刊に相応しい、ちょっといい話ですね。

by zenmz | 2005-10-08 11:49
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