甲斐・山梨県
県花 | 県木 | 県鳥 | 県名の由来 |
ふじざくら | かえで | うぐいす | 山また山の続く地形から「山成す」が転じたといわれる |
甲府市・山梨市・東山梨郡(十六話)
第一話 : 信玄さんと甲斐の国(しんげんさんとかいのくに)(甲府市) 平成13年10月20日
南に霊峰(れいほう)富士(ふじ)、北に奥秩父(おくちちぶ)山系、そして北西には秀峰(しゅうほう)八ヶ岳(やつがたけ)を仰ぐ山梨県(やまなしけん)、その昔ここは”甲斐(かい)の国”と呼ばれておった。 ”甲斐”といえば、誰もがすぐに思い浮かべるのが信玄さんじゃろう。そう、戦国時代のあの有名な武将、武田信玄(たけだしんげん)さんじゃ。 信玄さんが、お生まれになったのは、大永元年(たいえいがんねん)(1521年)の秋じゃった。 明けても暮れても戦ばかりが続いておる頃でなあ、そりゃぶっそうな世の中じゃったそうな。そんな中で成長し、武田家を継いだのは、信玄さんが二十一歳のとき。強いうえに、たいそう戦がうまかったもんだ、回りの国々をどんどん攻め滅ぼしていってなあ、あっという間に、信玄さんの勢力は全国へと広まっていった。そうしてその当時では、日本の中でも強い武将の一人になったんだそうな。 だけんど、それほどまでに強い武将になられた信玄さんじゃったが、人は城、人は石垣、人は堀といいなさってな。とうとう生涯城を築かず、躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館に住まわれたという。この館も、今では信玄さんを祭神とする”武田神社”となっておるが、毎年四月には、信玄祭りも行なわれるんだと。このように五百年以上立った今でも、信玄さんは多勢の人々から敬(うやま)われてのう。その子孫、十五代目にあたる人が、今でも元気でおられるんだそうな。 |
第二話 : 夢見山と夢見石(ゆめみやまとゆめみいし)(甲府市) 平成13年10月20日
昔むかし、日本中が戦をしておった頃のこと、甲斐(かい)の国は、武田信虎(たけだのぶとら)という人によって、治められていただと。 あるとき、駿河(するが)の今川氏が、大軍を率いて甲斐の国に攻めこんで来た。けれども甲斐の軍勢は、飯田河原(いいだがわら)で見事、これを討ち破ってな、信虎は館近くの小高い山で、戦勝祝賀(せんしょうしゅくが)の宴を開いたそうな。山の上ですっかり酒に酔った信虎は、良い気持ちになって、うとうといねむりをし始めたと。すると夢の中に、一人の女が現れてな、 「今、奥方様が男の子を産み落とされました。この子こそ、曾我五郎時致(そがのごろうときむね)の生まれ変わりでございます」 と言うとすうっと姿を消してしもうたと。曽我五郎といえば、あだ討ちで有名な、あの強い武士 はっと信虎が目を覚ますと、まもなく館から、若君誕生の知らせがはいったちゅう。これが後の武田信玄であるが、どうしたものかこの子は、右手をしっかり握ったままだったと。 その頃、一人の僧が駿河の山麓を旅していた。夜になって一軒の庵(いおり)に宿を借りた僧は、そこの主人からこんな話を聞かされただと。 「私は曽我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)と申しますが、弟の五郎時致が、先ほど甲州、武田信虎様の御子(おんこ)として生まれ変わりました。その証拠に、若君は我が曽我家の家宝、金竜の目貫(きんりゅうのめぬき)の片方を右手に持っておられますよ。館の東南、大泉(だいせん)という泉で洗えば、右手は開くでしょう」 そして主人は、ふところから目貫の片方を出し、僧に渡すと、かき消すようにいなくなってしもうたそうな。 さて、僧はさっそく甲府へ赴(おもむ)くと、信虎にすべてを申し上げたと。そうしていわれた通り、大泉の水で若君の右手を洗ってみると、たちまち手は開き、中から、目貫の片方が現れたちゅう。こうして若君は、曽我五郎時致と言われるようになってな、信虎が夢を見た山には"夢見山”という名がつけられただと。 やがて若君は成長して信玄となり、父信虎と同じく、戦国の世にふさわしい武将となった。信玄も合戦のあい間には、夢見山にのぼるのが好きであったと。そんなある春の日、いつものように夢見山にのぼった信玄は、頂上の大石にもたれて、うたたねをしておった。 すると夢の中に、一人の女が現れてなあ、三味線をひき始めただと。どのくらいたったころか、信玄がふと目覚めると、その体には、クモの糸がぐるぐるに巻かれていたそうな。そんなことがあってから、クモはたびたび信玄の夢に現れるようになった。白い糸をはいては戦勝を告げ、赤い糸をはいては、負け戦になるから用心しろと知らせてくれただと。 そのためか、信玄は大そう戦に強い武将となっていった。そうして、信玄がもたれて夢を見た石は"夢見石”と呼ばれてな、この石に腰掛けてねむると、良い夢が見られると言われている。 |
第三話 : 甲斐の湖(かいのみずうみ)(甲府市) 平成13年10月21日
えらい昔、甲府(こうふ)の町が、未だでっけえでっけえ(おおきい)湖であった頃のことだ。 四方を山に囲まれたこの国には、田畑にするような平たい土地がなかったんだと。 だから村人達は、ごつごつの山すそを耕して貧しく暮らしておった。 ところで、そんな村人達の様子を、この村の地藏様が見てござった。そうでな、何とかこの湖の水を富士川に流して、田畑を切り開こうと考えなさっただと。そうして、二人の神様に応援をたのみんさったそうな。 「よっしゃ、おらが山に穴さあけてやらあ」 と一人の神様が答えると、あとの一人は、 「ようし、おらはあの山あ、けたおしてやる」 ちゅうてな、さっそく鉄のみを持って、ぐららとでっけえ山をくずしはじめただと。 したら、今まで満々だった湖の水が、どどどどどうってものすげえ音をたてながら、どんどんかけくだっていったそうな。そのすげえ音を聞いて一人の不動様が、水の流れをたくみに導き、富士川におとしたという。 やがて湖の水は、七日七夜流れ流れて、ついに平らな底を見せたんだと。 それからちゅうもん、村人たちは、肥えた平地で田畑を耕すようになったそうじゃが、その後、ここには稲積地蔵(いなずみじぞう)がまつられたそうな。 また、山に穴をあけた神様を穴切神社(あなきりじんじゃ)、そして、山をけやぶった神様を蹴烈明神(けさきみょうじん)としてな、それに富士川に水を導いてくれた神様を、瀬立不動様(せたてふどうさま)としてまつっただと。 |
第四話 : 甲州善光寺の棟木(こうしゅうぜんこうじのむなぎ)(甲府市) 平成13年10月21日
その昔、日本国中くる日もくる日も、戦ばかりが続いておった頃のことじゃ。 甲斐(かい)の国主に、武田信玄(たけだしんげん)という強い大将がおったそうな。たいそう戦の上手な人だったというが、あるとき、隣の国、信州(しんしゅう)を攻めようということになったんだと。ところが信玄さんは、その国の善光寺にある仏様が焼かれてしまうのを心配してな、さっそくその仏様を、自分の国へ移すことにした。 やがて甲州板垣の里に、善光寺という名の大伽藍(だいがらん)をを建てて、仏様を移すことにしたというが、ここで困ったことがあったと。 その寺というんが、横十五間、奥行き二十五間もある、でっけえでっけえ寺なんじゃ。だもんで、そんな大寺の本堂を支える棟木になるような大木が、どこを探してもないんだと。 信濃、武蔵、相模と、毎日毎日大木を探して歩いたものの、どこにも見つからん。 信玄さんは、ほとほと困ってしもうたそうな。 ところがなあ、甲府の南、高畑村にきたときじゃ。千年もたったかと思うような古い、でっけえ柳の木をみつけたんだと。そんでな、さっそくその木を切り倒すことにしたと。さて同じ頃、高畑村の隣、遠光寺村(おんこうじむら)というところに、お琴という美しい娘がおった。 お琴には、深い契りを結んだ若者がおったが、なんでかその若者は、近頃めっぽう元気がないんだと。それでな、ある月夜の晩げ、お琴はそれとなく、若者にたずねてみた。 「おめえ、どうしてそげえに悲しそうな顔をしているずら」 したら若者はなあ、ぽろろぽろろと大きな涙を流してこう言うんだと。 「おら、今夜でおめえとお別れだ。実はおらは高畑村の柳の木なんだ。明日は切られて善光寺の棟木になる身、だけんどおらあ、千人二千人の力じゃあとても動かせねえ。そんでけ声をかけてよ、おめえがかおくれ。そうすりゃ、するするするって動くから」 あまりのことに、お琴が口もきけずにいると、若者は、すららすうぅと消えてしもうた。さて次の日、若者の言った通り、柳の木 は善光寺に運ばれ、みごとな本堂ができ上がったというが、信玄さんもそんなお琴の話に強う胸を打たれてな、たいそうなごほうびをあげたんだそうな。 |
第五話 : 弥三郎岳(やさぶろうだけ)(甲府市) 平成13年10月21日 ↑戻る
甲府(こうふ)には御岳昇仙峡(みたけしょうせんきょう)という天下の名勝がある。昇仙峡には、覚円峰(かくえんぼう)とか屏風岩(びょうぶいわ)、天狗岩など、見るべきところが多い。ところが、この昇仙峡のロープウェイ山頂あたりに、大きな岩穴があり、弥三郎権現と呼ばれる酒の神さまが祀られているそうな。そして、このあたりは弥三郎岳といわれ、不思議な話が残っておるのじゃ。 その昔、甲斐の国に、弥三郎という酒造りの名人がおったそうな。弥三郎は武田家に仕えて、勝ち戦の祝い酒や兵たちの疲れをいやす酒を造っておっただと。とにかく、弥三郎の造る酒のうめえこと、武田の家臣たちも何かにつけて重宝がっておったのじゃ。 ところがある日のことじゃ。弥三郎は何を考えてか、ふいっと行くえをくらましてしもうただと。何日たっても弥三郎は帰ってこなんだ。さて、困ったのは武田の家臣たちじゃ。 「弥三郎はどこへ行っただ!草の根をわけてでも捜しだすのじゃ」 家来たちも四方八方、手をつくして弥三郎を捜したと。だけども、弥三郎の姿は見つからなんだちゅう。 そのうち誰かが、弥三郎を御岳(みたけ)山ん中で見かけたっちゅううわさが流れたそうな。 みんな、それっとばかりか昇仙峡の隅々まで捜し回ったのじゃ。 ところがどうじゃ、当の御本人、酒を入れるひょうたんを持ったまま、絶壁の岩穴で横たわって息を引きとっているではねえか。 結局のところ、弥三郎が何故こんな所で死んでしもうたか、誰一人としてわからなんだ。 ともかく、土地のものは、ここに不動をたて、ねんごろに弔ったということじゃ。それからのち、この地を弥三郎岳と呼ぶようになったそうな。 |
第六話 : 鬼の湯(おにのゆ)(甲府市) 平成13年10月21日
甲府(こうふ)の町中でなあ、北の方にある湯村(ゆむら)にな、病によく効く温泉があるちゅうことで昔から評判が良かっただと。切り傷やひふ病などにも効くというんで戦国時代には、武田信玄が傷を負うた侍たちを治すのに、この湯を使ったとも伝えられておる。 ところで江戸時代のことじゃ。徳川将軍の旗本に多田三八(たださんぱち)ちゅう強い侍がおった。あるとき三八は、湯村温泉の評判を聞いて江戸をあとにしたが、笹子峠(ささことうげ)から鶴瀬(つるせ)の関所を通り、天目山(てんもくさん)のふもとにさしかかったときのことじゃ。 突然高い所から、 「三八ッ」ちゅうて大きな声がしたかと思うと、にゅうと太いうでがのびて、三八の頭をつかんだ。じゃがさすがは武芸の達人。 三八は少しもひるまずに刀をぬくと、そのうでをバッサリ切り落としただと。見ればなんと、大きな羽をつけた、九尺余りもある大きな翼ではないか。 とっさに上を見ると、何者ともわからんような怪物が、枝から枝へと逃げていったと。やがて温泉宿についた三八は、湯に入ってゆったりとした気分を味わっておった。 ところが、ある雨の激しい夜のこと。 三八がいつものように湯につかって体を休めておると、一人の大法師が、三八と同じ湯舟に入ってきたんだと。見ると、その法師の背中には、大きな斬りきずの跡が生々しく残っておるではないか。 「まあ、大変な傷跡じゃが、一体どうしてそんな怪我をしたでェ」 しばらくして客の一人が法師にたずねた。したら法師は、低い声でこう答えただと。 「多田三八というやつとな、武芸の試合をしたところ、ふかくにも傷を負ってしもうた」 されを聞いた三八ははっとしたが、すかさず近くにおいてあった太刀(たち)を引き寄せると、 「多田三八、これにあり」 ちゅうて法師に斬りかかったっちゅう。じゃが法師もさるもの、飛鳥(ひちょう)のようにとび上がって風呂場をぬけ出すと、たちまち湯村山の方へ逃げてしもうた。 このことがあってから、この温泉は"鬼の湯”と呼ばれるようになったそうな。 |
第七話 : 連歌の初め(れんがのはじめ)(甲府市) 平成13年10月21日 ↑戻る
甲府(こうふ)の東はずれに、酒折の宮(さかおりのみや)という小さな神社がある。ここは日本で最初に連歌が行なわれたところだといわれておるが、ここには、こんな話が残っておるんじゃ。 むかしむかし、景行天皇(けいこうてんのう)日本の国を治めておられた頃、日本武尊(やまとたけるのみこと)という皇子(おうじ)がおった。 頭もいいし戦も上手じゃったから、朝廷に従わない豪族どもを、ことごとくやっつけておったそうな。 あるとき、東北地方の豪族を退治して大和へ帰る途中、尊(みこと)の一行は甲斐の国に寄った。 宿でいっぷくしてから庭に出てみると、空には明るい月がのぼり、裏山の枝をわたる風の音だけがかすかにきこえてくる、そりゃあ静かな夜でのう。 尊は、今までの苦しかった出来事を思いめぐらしながらふっと、 新治(にいはり) 筑波(つくば)をすぎて いく夜かねつる と、歌で誰にともなく問いかけられた。その歌は、新治や筑波を通りすぎてここまでくるのに、いったいいく晩寝てきたことか、という意味なんじゃ。 ところが、尊のふいの問いかけに、供の中には誰一人、答えられる者はおらんかった。 するとそのとき、社(やしろ)でかがり火をたいている老人がとっさに、 かがなべて 夜は九夜 日には十日を (日々をかさねて夜では九夜、昼では十日になりますよ) と歌い答えたという。思いがけない老人からの上手な返し歌に、尊はたいそう感心してな、老人を東(あずま)の国造(くにのみやっこ)という、身分の高い役人にしてやったそうな。 後になって、尊と老人とのやりとりは、連歌のはじめとされ、連歌のことを「筑波の道」とよんだりしたという。 またこのお宮には、連歌や俳諧(はいかい)を志す人々が、全国いたるところからお参りするようになったそうな。 けれども今は、めっきり訪れる人も少なくなってのう、わずかに文学を学ぶ人々が、ときおり訪れるだけなんじゃと。 |
第八話 : 鎧塚((よろいづか)(甲府市) 平成13年10月22日
善光寺(ぜんこうじ)近くの山の麓に、鎧塚(よろいづか)という小さな塚がある。 昔むかーし、江戸日本橋油町(えどにほんばしあぶらちょう)に、美濃屋権兵衛(みのやごんべえ)という質屋がいただと。この権兵衛は、甲斐(かい)の国、善光寺の熱心な信者だったちゅう。 ある日のこと、美濃屋の店先に、一人の男がやって来て、緋縅の鎧(ひおどしのよろい)を質入していった。 ところがな、妙なことにその日から毎晩、鎧から変な音が聞こえるんだと。家の者はみんな不思議に思うたが、それから何日待っても受け出しに来ない。とうとうそのうちに三年の月日がたってしもうたもんで、その鎧は古物商に売り払われたちゅう。 それから半年ばかり経って、またこの店に鎧を質入れした者があっただと。どうも前にあずかった鎧とよく似ていると思ったが、受けとってみるとまた、夜になって変な音が聞こえてきたと。これも一年ほどして、古物商に売られた。ところがなあ、どうしたわけか半年経ったころ、また同じ鎧を質入れに着た者があったんだと。この時ばかりは、番頭も気味が悪くなって、懸命に断わったそうな。するとそのとき、主人の権兵衛が出て来て、 「実はここ数日、甲斐善光寺の如来様の夢ばかり見るんじゃ。これも何か深いわけがあるに違いない」というてな、この鎧を受け取っただと。 そうして権兵衛は、さっそくこれを甲斐善光寺へ持って行ってな、この鎧を着ていた人の霊を供養し、寺近くの山麓の老松(ろうしょう)の下に、これを埋めたちゅう。後、ここには石塔が建てられ、いつしかそれが"鎧塚”と呼ばれるようになったちゅうこんだ。 |
第九話 : 雷の手形(かみなりのてがた)(甲府市) 平成13年10月21日 ↑戻る
昔むかしの話だけんどな、甲府(こうふ)の町の一蓮寺(いちれんじ)に朝比奈和尚(あさひなおしょう)ちゅうて、力の強い坊さんがおっただと。 ある晴れた日だったか、この寺で葬式があっただと。いつものように、和尚が本堂でお経をあげておったときのこと。良い天気だったのが、急に雲ゆきが怪しくなってきて、あたりが暗くなっただと。そうして、ピカッピカッと稲光りがしたかと思うと、ゴロゴロ雷が鳴りだしてなあ、そのうちにザーザー降りの雨になったちゅう。葬式に並んでおった人は、だんだん気味が悪くなってな、みんなざわざわし始めたが、和尚ときたら、何とも平気な顔で、お経をよんでおったちゅう。 ところがそのときのこと、いきなり、バリバリッとものすごい音がしたかと思うと、本堂の屋根がふっ飛んでなあ、黒い雲の中から、毛むくじゃらの大きな腕が、ぬーっと出てきて、和尚の首をつかもうとしただと。だけんど、そこは力持ちの和尚のこと、少しも驚いた風も見せずに、さっと手を伸ばすと、 「エイヤッ」とばかり、毛むくじゃらの腕をつかんで、反対にそいつを本堂にひきずり下ろしたそうな。ところがなんと、そいつは、真っ赤な体に大きな目玉をぎょろぎょろさせた、大鬼ではないか。 鬼は和尚をはね返そうと、懸命に暴れたが、どうにも和尚の力にはかなわない。そのうちに雨がやみ、雲もはれて空はまた明るくなったと。鬼は天に帰ろうにも、雲がなければ帰れんからな、急にションボリとして、 「もう二度と雷は落とさねえから、命だけは助けてくれ」とあやまったと。 けれども和尚は黙ったまま。そのうちとうとう鬼は、 「ウオーン、ウオ―ン」と大声をあげて泣き出したちゅう。その様があんまり哀れなもんで、和尚は、これからは絶対に、この辺に雷を落とさないという約束で、鬼を許してやることにしただと。そうして鬼に向って、 「約束を忘れんように、証文を書いて行け」ちゅうた。だけんどなあ、鬼は字なんぞ書いたこともねえ。かわりに手のひらに墨をぬってな、そばにあった長柄の傘(ながえのかさ)に、ペタリと、手形をおしつけて逃げていっただと。 それからというもん、一連寺では、葬式があるときには決まって、和尚はこの傘をさして出かけるようになっただと。今でもこの傘は寺にちゃーんと残っておってな、七月の虫干しに参詣(さんけい)すれば見られるそうだが、この手形というのがまあ、うちわくらいのおおきさで猫の足跡そっくりだちゅうこんだ。 |
第十話 : 矢坪の一つ火(やつぼのひとつび)(山梨市) 平成13年10月22日
甲府(こうふ)の東を流れる平等川(びょうどうがわ)をさかのぼって行くと、矢坪(やつぼ)に着く。 ここには、武田信昌(たけだのぶまさ)を弔(とむら)う永昌院(えいしょういん)というお寺があるが、裏山には昼間でもうす暗いほど大木が茂っておってな、道に迷うと出てこられんようになると言われておるんじゃ。 むかし、この永昌院が建てられたころのことじゃが、伝海禅源法印(でんかいぜんげんほういん)という、そりゃ立派な坊さんがおったそうな。 法印は、いつも裏山の見回りをすることを仕事のひとつにしておった。ちょうちんを片手に長い杖をつき、美しい音色の鈴を鳴らしながら山を歩くんだと。なにしろ広い山でな、昼ごろ出かけても、帰りは夜になってしまうほどじゃったそうな。 さて、ある春雨の降るうすら寒い夜のこと。法印はいつものように山の見回りに出かけたものの、何が起こったのか、いつまでたっても寺にもどってこんかったど。 二日たち三日たち、そのうち五日、十日がすぎても、法印の行方はわからん。村の者たちが何度山を探しても、法印の姿を見つけることはできんかったそうな。 みんなそりゃあ嘆き悲しんでのう、法印の木像を刻み、永昌院の本堂に安置したという。 ところがその後、妙なことが起こるようになった。 雨の日になると決まって、法印の木像の杖には泥がついておるんじゃ。いくらきれいにふきとっても、雨の日になるとまた、同じように汚れておる。 「法印さまは、今でも山を見回ってくれているにちげぇねぇ」 村人たちは、口々にそう語り合うようになったそうな。 それから後、永昌院の裏山では、一つ火がついたり消えたりするようになったんだと。 この火はやがて"矢坪の一つ火”と呼ばれてな、法印が山を見回っておる合図じゃといわれるようになったそうな。 火の玉のたくさん見える年には豊作じゃといわれ、今でも毎年、春の彼岸には、伝海法印の供養祭が行われておるという。 |
第十一話: デイラボッチの話(でいらぼっちのはなし)(山梨市) 平成13年10月23日 ↑戻る
昔、むかしの話だとよ。”デイラボッチ”というでっけえ男がいただと。 でっけえでっけえって、その男の足の下にゃあ、蓆(むしろ)がなんと、八枚も敷けたっちゅうからなあ。それにまた、えらい力持ちでな、なんでも山を片手で持ち上げるぐれえだから、そらあとんでもねえ、ばか力の持ち主だったとよ。 ところで、ある晩のこと。デイラボッチは、神様の言いつけでな、盆地の南の方の山をもっこに入れて、おがら(麻のくき)の天びん棒で、ドッコイショ、ドッコイショと東の方へ運んでおったそうな。 ところがなあ、石森(今の山梨市)のあたりまで来たら、東の方の空がだんだん白んできてな、夜が明けてきたんだと。デイラボッチは、 「こりゃあ、まごまごしちゃおれんわい」ちゅうて、急いで走り始めたずら。そんだら足もとの石にけっつまずいてな、その拍子に、担いでおったおがらが、真ん中からポキンって折れちまっただと。 だもんでデイラボッチは、仕方ねえって、もっこの土をそこへ置いたまんま、南の方へ走って行っちまっただとよ。 そんでな、前のもっこに積んであった土は小山となって残り、後のもっこの土も石森山となって、ぽつんと盆地の中に残されちまったそうな。 今でもなあ、石森山へ行くと、デイラボッチが、おがらが折れた拍子に手をついたもんで、そのでっけえ手の跡がついた、でっけえでっけえ石が残っておるんだと。 |
第十二話: 長源寺の大蟹(ちょうげんじのおおがに)(山梨市) 平成13年10月23日
山梨駅(やまなしえき)から山沿に西へ行ったところに、長源寺(ちょうげんじ)という寺がある。 今は、その辺りは田んぼになっておるが、四、五百年も前には、深い森林に囲まれたそりゃあ寂しいところじゃったそうな。 その頃、長源寺には、夜になると正体の知れぬ怪物が現れるもんで、村人たちは、びくびくしながら暮らしておった。ひどいときなんぞ、坊さんが殺されてのう、胴体は影も形もなく、首だけが本堂にころがっておることさえあったというからな、そりゃあひどいもんじゃ。いつしかこの寺には、住む者もおらんようになって、荒れ放題になってしもうた。 そんなある日のこと、村を通りかかった旅の僧が、この噂を聞いた。 その僧というのが、また勇敢な僧でのう、化け物の正体をあばいてやろうと、なんと一人でその寺に泊まってしもうたそうな。 やがて真夜中、突然本堂が大きく揺れ動くと、出た出た、おっそろしい姿をした化け物が、月明かりの中にあらわれたんじゃ。その顔や手足には、針金のようにとがった毛がはえておってな、とても人間とは思えんものじゃったそうな。 じゃがなあ、さすがに修行をつんだ僧のことじゃ、落ち着いてこうたずねた。 「お前は何者か」 すると化け物は、 「四足八足(しそくはっそく)、両眼天(りょうがんてん)を差すときはいかに」 ちゅうてしわがれ声で叫ぶではないか。それを聞いた僧は、とっさに、 「きさま、カニの怪物だな」 というやいなや、力一杯、杖で化け物を叩きつけた。すると化け物は、大きな叫び声をあげて、たちまち外へ逃げて行ったそうな。 さて、あくる朝、おそるおそる寺へ行ってみた村人たちは、あっとおどろいた。なんと僧はぴんぴんしており、本堂には、血のしたたる跡がついておるんじゃ。跡を追ってみると、どうしたわけか、裏山のほら穴につづいておる。こわごわ中をのぞいた村人たちは、肝もつぶれるほどおどろいた。なんとそこには、こうらが二間四方もある古い大ガ二が、背中を割られて死んでいるではないか。 今まで殺された坊さんたちは、みんなカニの問答に負けたんで、食い殺されたんじゃな。 その後、僧は「救蟹法師(きゅうかいほうし)と名を改め、この寺の住職になったという。そして今でも、この長源寺には、カニのこうらや、つめ跡のついた石が残っておるということじゃ。 |
第十三話 : 奉納相撲(ほうのうずもう)(山梨市) 平成13年10月28日 ↑戻る
昔むかしの話だとよ。下神内川(しもかのがわ)に、大層相撲の強い男がおっただと。体は小さかったが身のこなしがす早いもんで、”手取りの甲斐の小雀(こすずめ)”といわれておったちゅう。 あるとき、小雀は、もっともっと強い力士になりたいと、大滝の不動山にこもって修行を始めただと。そうして二、三年もたったころには、不動山のごりやくがあったのか、どんな難しい技もこなせるようになっただと。 ある年のこと、信州の諏訪神社(すわじんじゃ)で、大相撲大会が開かれることになった。この時とばかり、小雀は信州へと出かけて行くと、次から次へと力士たちを負かしてなあ、とうとう大相撲大会では、九人も勝ちぬいてしもうたそうな。見物人も小雀の早わざには、驚くばかり。負けた力士たちも、舌をまくほどだったちゅう。 「どうだ、相手になる者は、もうおらんのか」 小雀は得意顔で言いながら、見物人たちを見回したと。けれども誰も出てくる者はおらん。いよいよ勝ち力士は小雀に決まろうかというとき、 「わしが相手じゃ」 いきなり声がしたかと思うと、一人の白髪の老人が土俵に上がってきた。 「おりろ,おりろ,小雀に勝てるわけがない」 見物人たちは口々にさわぎたてたと。けれどもおりるどころか、老人はきびしい目で小雀をじっと見るんだと。小雀も一瞬たじろいだが、 「どうせ俺の勝ちに決まっている」 と思いながら、仕切りに入ったちゅう。 いよいよ取り組みが始まった。小雀が押すと老人も押し返す。投げをうつと投げ返す。老人もなかなかのもんであったと。小雀は、何としてでも自分が勝たねばと、あらゆる技と力を出して必死に攻めたちゅうが、老人は何とも平気な顔でびくともせん。そのうち小雀は焦ってきた。大粒の汗が、滝のように流れ出したと。ところがその時の事、いきなり老人は小雀を高々とさし上げたかと思うと、力一杯土俵に叩きつけたではないか。そればかりか不思議なに、皆があっと思ったときには、老人の姿はもう、かき消すようにいなくなっていただと。 「ひょっとするとあの爺さんは、諏訪明神の化身ではないかのう」 誰かがそんなことをささやくと、みんなはてんでにうなずき会った。 こんな事があってから、小雀はすっかり自信をなくしてしもうてなあ、大滝の不動山へ帰ると、滝にうたれながら、自分の高慢(こうまん)だった態度を反省したという。そうしてそれからは、故郷の下神内川で、技と力と心の相撲を教えて暮らすようになったとさ。 小雀の死後、その骨は山王社(さんのうしゃ)に葬られた。そしてその供養に、祭りの日には”奉納相撲”がとられるようになったそうな。 |
第十四話 : 笛吹き川(ふえふきがわ)(東山梨郡) 平成13年11月7日
昔むかし、上釜口村(かみかまぐちむら)芹沢(せりざわ)というところに、権三郎(ごんざぶろう)ちゅう名の若者が、年老いたおっかあとふたりで暮らしておった。 この二人は、都から戦で逃げてきた弟を探しに旅に出たんだそうな。そしてこの芹沢で、 「都から来た人が住んでいる」ちゅう噂を聞いたんだがなあ。その人はもう死んじまって、あとにはその人の持っておったお守りが残っておるだけだったんだと。ところがそのお守りというのが、まちがいなくおとうのもんだったから、二人はえらく気を落としてのう、それでも、二人でおとうの霊を慰めようと、この芹沢に住むようになったんだと。 おっかあは、苦労が重なったせいか、やがて盲目になってしもうた。そんなおっかあのただひとつのなぐさめは、権三郎の吹く笛の音だったとよ。 孝行者の権三郎は、毎日毎日おっかあのために笛を吹いておったもんでな、いつの間にか村の衆は、権三郎のことを”笛吹権三郎”ちゅうて呼ぶようになったんだと。 そんなある年の秋のことだ。えらい大水がでてのう、権三郎もおっかあも、家といっしょに水に流されてしもうた。権三郎は、大岩にとっついて何とか助かったけんど、おっかあは、どこにも見つからかったそうな。 それからちゅうもん、一人ぼっちになった権三郎は、くる日もくる日も川岸にすわって笛を吹くようになった。雨の日も風の日も、この笛を聞けば、おっかあが帰ってくると思うてな。ところが、最初はそんな権三郎をあわれんでおった村の衆も、日がたつにつれてだんだん冷たくなってきたんだと。そうしてそのうち、また大水の出る頃になると、ぷっつりと権三郎の姿が見えんようになってしもうたそうな。 したら、それからしばらくして、 「小松に川流れがあがったぞ」 「権三郎が死んじまったちゅうぞ」て大さわぎになってのう、村の衆がとんで行ってみると、変わり果てた権三郎が、川岸にあげられておったんだと。 みんなは、権三郎をあわれんで、ていねいに弔ってやったちゅうが、それから毎晩、どこからともなく、悲しげな笛の音が聞こえてくるようになったという。 村の衆は、そらあおっかながってな、おむすびを作って川へ流してやったりしたというが、ちょうどその頃,長慶上人(ちょうけいしょうにん)ちゅうえらい坊さんがまわってきて、権三郎のためにお経をあげてやっただと。するとその晩から、笛の音は、ぷつりと聞こえんようになったと。 それでなあ、そのときからこの川は、”笛吹川”ちゅうて呼ばれるようになったって話だ。 |
第十五話 : 粟粒をつけたヤマメ(あわつぶをつけたヤマメ)(東山梨郡) 平成13年11月7日 ↑戻る
昔むかしの話だけどな。 ある日の晩方のこと、みすぼらしい身なりをした旅の坊さんが、笛吹川の上流の村にたどりついただと。 坊さんは、朝から何も食べず歩き通しだったもんでな、もう腹がへって腹がへってたまらんようになっておったずら。 ところが、ある家の前を通りかかったら、ちょうどいい案配に、台所で一人のばあさんが夕食のしたくをしておった。大きななべに、粟(あわ)がゆをグツグツ煮ておっただと。 坊さんは、思わずばあさんに声をかけた。 「もしもし、すまんが、なべの中のおかゆをちっとばかり分けてもらえんかのう」 するとばあさんは、 「何を言うでごいす、この中へはヤマメを入れて煮こんどうですから、生ぐせえので、坊さんにゃあ上げるわけにゃいきやせん」ちゅうて断わっただと。何とまあ欲のふけえばばあでねェか。だけんどなあ、坊さんは、 「ヤマメは川へ放してやるから、粟がゆを恵んでくれんかの」ちゅうて、何度も何度もたのんだんだそうな。でもばあさんは、 「何ちゅうこと言うずら、煮た魚を川へ逃したって、生きけえるわけがねえじゃん」って全然相手にしないんだと。そこで坊さんは、だまったまま、かゆに入れて煮たヤマメをつかむと、そのまま川へポイポイっと投げこんだ。 するってえと、どうずら、ヤマメはみんな生きかえって、粟がゆを体につけたまんま、すいすいって川を下っていくでねえか。不思議なこともあるもんだが、それからはな笛吹川のこの辺じゃあ、粟つぶのついたヤマメがとれるようになったんだそうな。 |
第十六話 : ケサ松淵のヤマメ(ケサまつぶちのヤマメ)(東山梨郡) 平成13年11月7日
昔むかしのことだあ、柚木(ゆのき)にケサ松ちゅう男がいただと。何でもケサ松は、ヤマメ釣りの名人でな、こいつにかかれば、どんなヤマメもいっぺんに釣られちまっただと。 ある日のこと、ケサ松はいつものように釣りに行っただと。だけんどどうしたわけか、その日はちいとも釣れんのだと。 「今日はまた、どうしたことずら。妙なこともあるもんだなあ」ケサ松は、そんなことを言いながらどんどん川上へ上っていってな、でっけえ淵んとこまでやって来ただと。糸をたれていたら、しばらくしてまあ、今まで見たこともないような、でかいヤマメがかかったちゅう。ケサ松はもう、うれしくなっちまって、 「今日はこれで、しまいにしざあ」とでかいヤマメをつり下げて、持って帰ろうとしただと。すると一体どうしたずらか、急に川が荒れだしてな。いきなりどっからか、 「ケサ松におっ取られたあ」ちゅう声が聞こえてきただと。ケサ松はびっくりして、淵の方をふり返ってみると、ハア、淵あ、血みてえに真赤になっちまって、そのうえグツグツ湧きたっているじゃねえか。 ケサ松のやつ、もうおっかなくてたまんねえようになってな、持っていたヤマメを淵にほうりこんだちゅう。するとどうしただか、淵は急に静かになって、色ももと通りになっただとお。ケサ松はのう、一目散に逃げ帰ったと。 だけんどなあ、家に帰ったケサ松は、それからわけのわからねえ熱にうなされて、とうとうもだえ死んでしまっただと。それからはな、村の衆はこの淵を”ケサ松淵”ちゅうて呼ぶようになって、だあれも近ずかんようになったちゅうこんだ。 |
Original
picture by I-Talk House
Original CG by SIFCA ↑戻る