WWW http://www.iwate-np.co.jp

51年前の記憶が明暗 大船渡、高齢者が逃げず犠牲に


 

 「なあにぃ、ここには来ねえ、来ねえ」。これが最後の言葉だった。巨大津波で多くの家が押しつぶされ全壊した大船渡市大船渡町字野々田の川原地区。ここは、同市が国内最大の被災地となった1960年のチリ地震津波の到達点にある。大津波警報でも逃げなかった高齢者たち。生死を分けたのは皮肉にも51年前の「記憶」だった。

 「大津波だ。早く逃げろ」。同地区で民生委員を務める木下正弘さん(65)は大津波警報が発令された直後、地区内を回り、大声で高齢者に避難を呼び掛けた。

 「なあにぃ…」。取りあわない80代の男性に「損したと思ってもいいから逃げろ」と怒鳴ったが、動こうとはしない。近くの川を見に行く男性までいた。

 仕方ない−。木下さんは高台に向かって走りだした。その時だ。振り向くと遠くの野々田埠頭(ふとう)を越える巨大な津波が見えた。濁流に追われ膝まで水に漬かりながら逃げるのが精いっぱいだった。

 約140世帯、350人の同地区で、15人ほどがいまだに行方不明、2人の死亡が確認された。その多くが動けるにもかかわらず避難しなかった高齢者という。

 市内で国内最多の53人という犠牲者を出した51年前のチリ地震津波。到達点を示すプレートが同地区に埋め込まれている。ただ当時、津波が同地区まで届くころには勢いがなく被害はほとんどなかった。「大津波でもここまでは来ない」というのは地元でも半ば「常識」になっていた。

 今回の巨大津波はそのプレートのはるか200メートル奧まで達し、家屋をなぎ倒した。

 「すぐに逃げれば助かったはずなのに。先入観があったんだろう」。木下さんはやるせない表情を浮かべる。

 チリ地震のプレートのそばに住む新沼賢雄(たかお)さん(61)は「助かっただけでもありがたい。『津波てんでんこ』って言うからなあ」と語る。「てんでんこ」とは、津波が来たら親も親戚も構わず1人で必死で逃げろ−という同地方に伝わる言葉だ。

 「チリ地震津波が悪い記憶になってしまったのかなあ。ただ、誰も想像できないほどすごい津波だったから…」。がれきの山を見つめながら、新沼さんは静かにつぶやいた。

【写真=チリ地震津波の到達点を示すプレート。そのはるか200メートル奧までがれきの山が続いている=大船渡市大船渡町字野々田】

(2011.3.20)


トップへ