●週刊現代 週刊現代3月26日号に《検証「偽りの八百長裁判」「八百長はない」と断じちゃった23人の名前と見識》というタイトルの記事が掲載されている。
既に「八百長のあったことは明らか」といえる。なぜ、「週刊現代」が前述の記事を掲載したのか。北の湖らが「週刊現代」と「相撲協会」などとの3件の裁判において、ウソの証言や陳述書により裁判所を騙して4785万円もの賠償金を払わせ、取り消し広告まで出させたことによる。
●鷲見一雄の視点 私は法に携わる弁護士、裁判官、検事と政治家、高級官僚と経済人などとの癒着など『特殊な社会の特殊な事件』の『観察と批評』を専門にしている。だから『特殊な社会』を知らない人の解説など「バカバカしく」て反論する気にもならない。
しかし、週刊現代と相撲協会と裁判所の問題は「知る権利を侵害した」由々しきことと認識している。
大相撲も『特殊な社会』、八百長は『特殊な事件』である。明確な証拠はないが、何人かの力士と交流のあった人の間では「十両以上の力士」の間に範囲はともかく「八百長が存在する」というのは「公然の秘密」であり、「常識」であった。
「週刊現代」は問題を提起した。この対応として力士と相撲協会や北の湖理事長が損害賠償請求訴訟等を起こした。
いうまでもなく裁判官が「八百長があったか、なかったか」の真相に迫るのは並大抵のことではない。「大相撲の八百長」は「特殊な社会の特殊な事件」、力士とほとんど交流のない裁判官に「八百長があったか、なかったか」の判断ができるはずはない。大相撲は特殊社会、八百長は特殊事件、裁判官には「特殊な社会の特殊な事件」という捉え方ができないのである。
とは言っても、民事裁判官は原告、被告のどちらかを勝訴させ、それなりの利益を得させることが必要なのである。
当然両当事者は「八百長はあった」「なかった」と根本から対立する。相撲協会側は「あったというなら証拠を出せ」と主張する。一方、「八百長の存在」を暴いている週刊現代側は根拠としている「証人調べをしろ」と反論する。
ところが、裁判官は「八百長があった」かどうかを自らが判断することよりも、両当事者の主張が提出する証拠によって立証しきれたかどうかしか判断しないのである。ここが問題なのである。裁判官は勝訴させるか敗訴とするかは「八百長があったかどうか」で決めるのではないのだ。
「週刊現代」の事案では裁判官は「被告側申請証人の証言ぐらいでは『八百長があったという間接証拠』としか捉えず、(直接証拠がない以上)八百長があったとは認められない」と考え、「週刊現代」敗訴の判決を出したと思う。小沢氏と3人の秘書との政治資金収支報告書の虚偽記載の共謀と酷似している。検察の判断と検察審査会の判断が異なったことは記憶に新しいことだ。
ところが、大相撲の世界では「地位を守る」ことが「力士の命を守る」こと。そこに「仕掛け」(八百長)の生まれる必然性がある。今回はメールの遣り取りという直接証拠が明るみに出たが、そもそも八百長は力士同士が謀議するより、仕掛け人の存在が大きいと私は見立てる。金の受け渡しも必ず仕掛け人が関与する。
従って裁判官の「証人の証言ぐらいでは間接証拠としか捉えられず、八百長があったとは認められない」という捉え方は間違っていると私は思う。
十両以上の力士の場合、数々の特権が与えられているのだから、関係者から「八百長があった」と証言があった場合、「なかった」という挙証責任は原告側に課すべきなのである。それを証人調べもいなかったのは公平を欠く裁きとしか私は評価できない
被告側が証言の信用性の証明するのは当然、裁判官は原告の請求の趣旨より報道の公益性を重視すべきだと私は考える。裁判官は判断基準の見直しが必要と指摘したい。