衣服を着ている遺体も多いが、そのようなものの大半は、5から7枚程度の上着を厚着しているように見えた。多くの方が、津波が来るときいて、避難を始めた最中に巻き込まれたそうだが、みな被災地で寒い思いをしないために、厚着して出たのかもしれない。だとすれば、その時間がなんとも、惜しい気がする。もし、暖かい避難所が過去に多く用意されていれば、もっと身軽な格好で逃げられたのでは?との意見を述べる者もいた。
警察の検視での持ち物検査にも立ち会わさせていただいたが、なんとも心が苦しい。ただ、見てはいけないものを見ているのではないかという思いがある一方で、亡くなった方の思いというのが伝わりもし、それを誰に知らせもせずに終わらせていいのだろうかとの思いも交錯してしまう。
リュックサックを身に着けたまま亡くなっている方もいた。その中には、アルバムの一部と、未開封のチョコレートなどが入っていた。チョコは、避難場所で飢えをしのぐためにいれたのだろうか。アルバムは、家が津波でなくなっても、残したいものだったのだろうか。家をなくしても、家族との思い出の品だけはもって出たいという気持ちの表れのように思えた。
孫や、子供と夫と写った写真、子供の結婚式の写真を、財布などにしたためている方も時々いた。もしご家族が生きていれば、こんなにも愛されていたことを伝えたくもなるが、津波災害の場合、そのご家族も亡くなっているケースが多いようで、なんともいえない気分になってしまう。
若い方の遺体はそれだけで痛々しい。避難用のヘルメットを持っている小学生、部活帰りに避難所に駆け込んだと思われる高校生、、、、みな、避難がうまくいき、生きていれば、楽しい明日があったというのに。
地元を急いで離れてしまったことから、地元で事件があった場合、無防備になってしまうので、5日目に戻ってきたが、まだまだ残された仕事も多く、もっといなければならないと後ろ髪を引かれる思いだった。
帰りの道中は、かなりの寒さだった。警察車両での往復だったが、帰り道はスリップしてしまい、遭難し、凍死するんではないかと心配したが、なんとか戻ってこれた。現地の方がこの寒さに耐えられるのか、心配になってしまった。
今回の場合、阪神大震災と違って、交通のアクセスが、かなり難しいこともひとつの課題とえるだろう。単独行動のボランティアだと、現地でガソリン不足などで立ち往生し、かえって迷惑をかける場合もあるなと思った。
今後、身元不明なご遺体おの捜索と検査は数ヶ月続くだろうといわれている。今後は継続的に支援できる体制を整え、再度支援に向かおうと思う。