【コラム】被災者よ、もっと声を上げよ

津波被災地にて

 東日本巨大地震の発生翌日、東京に到着し、最初に取材したのは津波被害を受けた千葉県内の被災地だった。一部土留めが崩れ、建物が傾いているところもあったが、翌日訪れた東北地方沿岸に比べれば、被害ははるかに小さかった。千葉の被災地で目にしたのは、断水で炊事できない住民の「秩序ある買い占め」だった。午後3時ごろには食品はほとんど売り切れた。即席めん、インスタント食品、冷凍食品の売り場は空っぽだった。飲料水は買い占めを防ぐため、数量を限定し、売り場の入り口付近で配給方式で販売されていた。

 翌日、寸断された道路を避けながら、大きな被害を受けた宮城県に到着した。午後5時に千葉を出発し、仙台市の沿岸部に到着したのは翌日午後9時だった。夜が明けて、目の前に迫る光景は悲惨だった。海岸にある木造住宅は軒並み跡形もなく倒れ、仙台港の貨物船は埠頭(ふとう)に乗り上げていた。日本三景の一つ、松島に向かう道路は泥に埋もれていた。

 被災者は本当の沈着だった。家族を失った人々は静かに涙を流し、生きていた家族と劇的に再会した人も、悲しみにくれる人たちを配慮し、静かに喜んだ。空腹でも食べ物をもっとくれと騒ぐ人はなく、切羽詰まって立ち小便する人もいなかった。ペットを連れて避難所に入ることを禁じられると、子犬を抱き、避難所の外で布団をかぶって寝る人の姿も見られた。危機に直面した彼らは、普段よりもさらに声を押し殺し、ぐっとこらえていた。

 ここに来るまでに感じたことがある。28時間かけて運転する道中、救援物資を積んだトラックの列を見かけなかった。裕福な日本はなぜ自国内で十分な物資を送るのにこんなに時間がかかるのか。被災地の人々はおにぎり1個で1日を耐え忍んでいるというのに、首都圏の人々の買い占めによって、被災地に送る物資が足りなくなる(15日付朝日新聞)という矛盾した現実がなぜ報じられるのか。「恥ずべき姿だ」と互いを非難し、自衛隊でも動員して、システムを整える方がましではないか。

 日本人は自分よりも他人に配慮する民族だと言われる。5年半の特派員生活で接した普段の日本人はそうだった。地下鉄でも、争って座ろうとする行動を恥じる国民だ。そんな日本人をわたしは今も尊敬している。被災地の住民も涙が出るほど互いに配慮し合う姿をみせている。彼らは政府を恨んだりしない。しかし、首都圏の人々の行動は、そういう評判とはかけ離れている。静かに列をつくり、もっとくれと騒いだりはしないが、買い占めには違いない。むしろ売り場に殺到して騒いだ方が、深刻な状況が際立ち、状況を改善する上では有効だ。むしろ醜い本質はそのままさらけ出すべきだ。

 被災者の人々には「早く食べ物をくれ、早くトイレをつくれと、もっと声を上げてはどうか」と言いたい。「耐えることだけが良いわけではない」と叫びたい。声を荒げて、こぶしを振り上げなくても救援物資が迅速に届く状況であれば構わない。しかし、現実はそうではない。今の日本は「耐える民族」「礼儀正しい民族」という自己催眠に陥り、自ら苦痛を生み出している。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)産業部次長待遇

【ニュース特集】東日本巨大地震

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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