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[20924] 優しい光【禁書目録再構成】上条当麻×御坂美琴
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:37f67125
Date: 2010/08/07 00:40
初めまして、スネークと申します。

本文をお読み頂く前に、以下の点をご確認下さい。



・このSSは『とある魔術の禁書目録』の二次創作です。時系列としては本編第三巻終了(絶対能力進化実験阻止)後となります。

・SS内のカップリングは上条当麻×御坂美琴となります。

・作者独自の設定や改変が数多く登場します。

・作者はSS初心者です。



以上の内容にも動じない凄い方は本文にお進み下さい。

このSSが読んで下さった皆様にとって、ちょっとした時間潰しとなれば幸いです。



[20924] 第1話 妹達編・その後①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:37f67125
Date: 2010/09/04 05:45

水曜日の夕方。お気に入りの雑誌が売り出されている今日。
いつもだったら行きつけのコンビニで立ち読みしているはずの私は今、買い物カゴを片手にスーパーの中をウロウロしていた。
一つ一つ手にとって吟味して、慎重に食材を選んで、会計を済ませて、買った物を大きめのビニール袋に詰め込んで。
買い物を終えてスーパーを出ると、私はその足を病院へと向ける。アイツが入院している病院に向かって歩き出す。
ゆっくり歩いたつもりなのに、気がつけばもう着いてしまっていた。あっと言う間だった。でもまあ、そんなの当たり前だ。
何しろ、もうすっかり慣れてしまった道だったから。
アイツのお見舞いに来るのに、何度も何度も使っている道だったから。


玄関が近づいてくる。
何だか、胸がドキドキしてくる。
玄関はどんどん、どんどん近づいてくる。
それに比例するように、ドキドキもどんどん激しくなっていく。


気がつくと、立ち止まっていた。
病院はもうすぐそこだ。入口まで、あと十メートルくらい。
うー、と思わず唸ってしまう。
会う前からこんな調子で、本当に大丈夫なんだろうか?
家事を手伝いたい、なんて。ちゃんと伝えることが出来るんだろうか?
今日、退院するって言ってたアイツに。
日常生活にも不自由する程の大ケガをしているアイツに。


落ち着け。落ち着くのよ、私。
別に特別なことをするワケじゃない。
これからやろうとしているのは、人として当然のこと。
そう、忘れちゃいけない。アイツの手助けを私が申し出るのは当然のことなのだ。
だって、アイツがケガをした原因は他でもない、私なんだから。
少しでもアイツの役に立ちたいって思うのは、至って自然な流れなんだから。


だから大丈夫。アイツが変に遠慮なんかしたって、そんなの全く問題無し。
その時には、このビニール袋を見せつけてやる。
もう夕飯の買い出しもしちゃったんだって言って、困らせてやる。
ああ、でも露骨にイヤな顔をされたりしたら応えるだろうな。
迷惑だ、なんて言われたら、ものすごくショックだろうな。
そんなことを考えたせいか、目頭がちょっとだけ熱くなった。


ああ、もう、ヤだなあ。


アイツのことになると、どうしても上手く気持ちが整理できない。
でも、一つだけ。たった一つだけど、でも、はっきりと分かっていることがある。
それは私、御坂美琴が上条当麻に惚れてしまったってこと。
どうしようもないくらい、大好きになってしまったってこと。
とは言え、それを口に出したことは一度だってないんだけど。


うーん……私は、どうしたいんだろう?


自問してみる。でも、答えなんて決まっている。
アイツに認めてもらいたい。好きだって、言ってもらいたい。アイツとずっと、ずっと一緒にいたい。
ほら、考えるまでもない。
毎日毎日アイツの顔ばっかり浮かぶ私に、他の答えが出てくるワケがない。
だから、いつまでもこんな所でグジグジしていられない。


……よしっ!


覚悟を決めて足を動かそうとした、その時だった。
背後で何か音がした。ドサリ、と。地面に何かが投げ出されたような、そんな音。


首だけで振り返ってみる。

「……え?」

人が倒れている。真っ白な衣装に身を包んだ誰かが、コンクリートの地面に伏している。

「ちょっ、ちょっと!」

そばに駆けつけ、しゃがみ込み、その身体を仰向けに抱え起こす。
顔を見て、すぐに分かった。女の子だった。綺麗な銀色の髪をした、女の子だった。

「どうしたの?」

女の子の顔は真っ青だった。唇は震えている。

「しっかりして!」

叫んだ。

「ねえ!」

でも、返事は無い。

「ねえってば!」

女の子はぐったりしたまま。
私は辺りを見回した。誰もいない。声も聞こえない。
でも、救いの手は絶対にある。病院の中なら、きっとある。
この子、軽そうだし、私一人でも充分運べそうだ。
女の子に目を戻すと、その瞼が少し震えた。

「大丈夫!?」

女の子の頬をそっと叩く。

「しっかりして!」

少しだけ瞼が開いた。

「……か……た……」

私を見ながら精一杯、唇を動かす女の子。

「え?何?」

女の子の口元に耳を寄せる。

「お……いた……」

途切れ途切れになりながらも、女の子は必死に言葉を紡ぐ。

「お……か……いた……」

もう少し。もう少しで、この子が何を伝えたいのか分かりそうだ。
全神経を耳に集中させて、私は聞いた。

「おなか……すいた……」

はい?聞き間違い、かな?
そう思ってもう一度、耳を傾けてみる。

「お腹……空いた……」

残念ながら、聞き間違いじゃなかった。


えーっと、つまり……この子が倒れた原因はケガでも病気でもなくて、ただ単に空腹で立っていられなくなったってだけ?
とりあえず、近くにあったベンチに女の子を寝かせる。

「ちょっと待ってて」

全く反応が無い女の子の前で、ビニール袋をゴソゴソと漁る。

「はいコレ」

リンゴを一つ、差し出す。

「すぐ食べられるの、コレしかないけど良かったら……」

その次の瞬間に起きた出来事を、私は生涯、忘れることはないだろう。
私の手の中から、リンゴがいきなり消えたのだ。
驚きで声を上げかけたものの、何とか踏ん張る。
しかし、リンゴの行方を追って前方に視線をずらしたところで。

「ええっ!?」

今度こそ、驚きの声を上げてしまった。
目の前では、女の子が物凄い勢いでリンゴにかぶりついていた
ついさっきまでピクリとも動かなかった女の子がベンチにきちんと座り直して、両手でしっかりとリンゴを固定して、ひたすらモリモリ食べている。
そして、程無くしてリンゴは跡形もなくなってしまった。果肉はおろか、種も、芯も残らなかった。
みんな等しく、分け隔てなく、女の子の胃袋に収められてしまった。
ここまで時間にして約十秒。恐るべき早業、そして荒業である。


リンゴを食べ終えると、女の子はニッコリと微笑みかけてきた。
一点の曇りも無い笑顔には、たった一つの思いが込められていた。


もっと欲しい。もっと食べたい。


思いっきりキラキラした目は、明らかにそう告げている。

「あ、ははは」

思わず笑みを返してしまった。笑う以外、他にどうしろというのだ。
ビニール袋にはもう、すぐに食べられる物はない。調理を必要とする物しか入っていない。今の私では、彼女の望みを叶えてあげられない。
でも、その事実をなかなか言い出せない。期待に満ち満ちた目で見つめられて、言い出せない。


女の子は私に笑いかける。私は女の子に笑いかける。
お互い、笑顔でひたすら見つめ続ける。
何と言うか、異様で微妙な光景だった。












ちょっと緊張していた。
緊張していないフリをしようとすればするほど、逆に緊張が高まっていく。
室内はしんと静まり返っていた。
私は一人、台所で鍋の様子を見ている。火にかけた鍋の中身が、ぐつぐつと音を立てて煮えている。


確認しよう。
私は一人、台所で料理をしている。
銀髪の女の子と、彼女が飼っているらしい三毛猫は、居間と寝室を兼ねた部屋でくつろいでいる。
上条当麻の部屋にいるのは、それで全員だった。

『お腹いっぱい、ご飯を食べさせてくれると嬉しいな』

腹ペコ少女に連れられて、辿り着いた先。そこは、とある学生寮のとある部屋。ネームプレートには上条の文字。
まさかと思って、女の子に訊ねてみた。だって上条なんて、どこにでもいるような苗字じゃないでしょ?そうしたら案の定

『ここ?とうまの家だよ』

彼女の答えに、胸がチクリと痛んだ。
とうまの家だよ、だって。当麻、だって。
呼び捨てだった。ちょっぴり……ううん、かなり羨ましかった。


あの子はアイツの、何なんだろう?
妹って感じじゃない。だって、アイツとはこれっぽっちも似てないし。家族とか、親戚とかじゃ絶対にない。
でも、じゃあ、何なんだろう?あの子は一体、何者なんだろう?どうしてアイツと一緒に住んでいるんだろう?
そんなことをグダグダと考えていると、居間から声が聞こえてきた。

「にっくじゃがー。にっくじゃがー。にっくじゃがー」

妙な節を付けて、女の子が楽しそうに歌っていた。
私が作っている肉じゃがを、よっぽど楽しみにしているらしい。
その声はまるで小さな子供のようで、私は少し笑ってしまった。
さっきまでのモヤモヤした気持ちは、どこかに吹き飛んでしまった。


しょうがないなあ。
あんなに期待してくれているのだ。期待通りの、いや、それ以上の物を作ってあげようじゃないか。












「うわぁ……」

思わず声が洩れた。目の前の光景は、それだけ凄まじいものだった。
五合は炊いたご飯も、四人分は作った肉じゃがも、大根を丸々一本使用して作った大量の味噌汁も。女の子はみんなみんな、きれいさっぱり平らげてしまったのだ。

「よっぽど飢えてたのねー」
「そう!そうなんだよ!」

お腹が膨れて、すっかり元気になった女の子がズズイっと身を寄せる。

「それもこれも、とうまの退院が一日延びちゃったからなんだよ!」

拳を握って、女の子は熱弁する。今朝、彼女にかかってきた電話のことを。
アイツは昨日、病院で頭を強打してしまったそうだ。何でも、散歩中に廊下で足を滑らせ、転んでしまったらしい。
で、足を滑らせてしまった理由ってのがまた、とんでもなくて。

「バナナの皮?」
「うん。廊下に落ちてたんだって」

何だかなあ。
バナナの皮で滑って転んじゃうなんて、今時漫画でも滅多にお目にかかれないような光景だ。
だけど不思議と、アイツだったら有り得るなって思えてしまう。
アイツのことだ。ふ、不幸だ、なんて頭を打った直後にボソッと呟いたに違いない。
検査の結果、とりあえず異常は何も見られなかったらしいけど。

「念のためってことで、もう一日入院する羽目になったのかも」

この子が餓死しかけていた理由も、これでようやく分かった。
つまりアイツが今日の分の食事を用意してなかったのが原因だったワケだ。
かと言って、アイツを責めるワケにもいかない。
アイツには何の落ち度もないんだから。悪いのはアイツじゃなくて、アイツの運なんだから。
ホント、しょうがない。明日また仕切り直そう。
もうじき門限だ。寮監の厳しい目もあることだし、今日はもう帰った方が良さそうだ。
そんなことをぼんやりと考えている時だった。
女の子は静かに立ち上がった。

「ちょっと歩こうよ。みこと」

まだ教えてもいない私の名前を口にして、女の子は玄関に向かって歩き出した。











[20924] 第2話 妹達編・その後②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:45

名前も知らない女の子と、少し暗くなった学園都市を歩く。
夏の日はもう建物の向こうに消えて、空はうっすらとした闇に染まっている。
西の方はまだ白っぽく光っているけれど、東はもう夜そのものだ。


そんな空に、星が点々と光っていた。私達が歩くその先で、星達は輝いていた。
私も、女の子も、女の子に抱かれた猫も、ただ黙り込んだまま。
特に行き先も無いまま、私達は歩き続けた。


訊きたいことはたくさんあった。
だけど、そのどれ一つとして言葉にはならなかった。
訊きたいけど、訊きたくなかった。
私の知らない上条当麻を、この子の口から聞きたくなかった。


やがて公園に着いた。
夜の公園には誰もいなくて、静かだった。
昼間の賑わいがまるで嘘みたい。そんなことを思っていたら、女の子が不意に足を止めた。
視線の先には一台の自動販売機。瞬きの一つもせずに、赤い直方体の箱をじーっと見つめている。

「飲みたい?」

訊ねると、身体をこちらに向けてコクコクと力強く肯いた。
ホント分かりやすい子だ。

「オッケ。じゃ、ちょっと離れてて」

女の子は不思議そうに私を見上げる。
まあ、当然の反応だと思う。
小銭を投入して、ボタンを押す。たったこれだけ。
自販機から離れなきゃいけない理由なんてどこにも見当たらない。
そう、正攻法だったら離れる必要なんて無い。

「裏ワザがあるのよ」

笑いかけると女の子は困惑した表情のまま、それでも脇に退いてくれた。


さあて、と。当たりを出しなさいよ、アンタ。


赤い機体と対峙する。狙うは機体の左側面。

「ちぇいさーっ!」

裂帛の気合いと共に、渾身の上段回し蹴りを叩き込む。
グラグラと揺れる自販機。そして、約三秒の間を置いて

「お」

取り出し口にアイスココアが二本、落下した。

「ラッキー」

いつもは一度の蹴りで一本しか出てこないのに。
今日は結構、ついている。それとも、この子のおかげかな?
差し出したココアを受け取る女の子の屈託の無い笑顔を見て、柄にも無く幸運の女神なんてものを連想してしまった。











「あの自販機にさ、カレーサイダーってあったでしょ」
「うん、あったあった」
「どう思う?あれ」
「どうって?」
「カレーは飲み物ってことでオッケー?」
「え?うーん……どうなんだろ?」

カレー談議に花を咲かせながら、二人でベンチに向かって歩いていく。

「ちょっと休もうか」

二人並んでベンチに座る。
それからも、女の子と色んな話をした。
今、ハマっているテレビ番組のこととか。新発売のジュースで一番美味しいのは何だとか。
どうでもいい話ばかりだったけど、でも、楽しくて。すごく、すごく楽しくて。
適当に時間を潰して、すぐに帰るつもりだったのに。

「あ」

何気なく公園の時計を見上げて、びっくりした。
門限なんてとっくの昔に過ぎてしまっていたのだ。
辺りもすっかり、真っ暗になってしまっている。

「ご、ごめん」

慌てて立ち上がる。

「もう帰らないと。じゃあね!」

踵を返して走り出そうとした、その時

「待って」

女の子に呼び止められた。

「忘れ物だよ」

振り返ると、女の子が何かを投げてきた。
大きな弧を描いて飛んできたそれを、私はほとんど反射的にキャッチした。
それは鍵だった。アイツの部屋の鍵だった。

「とうまのこと、よろしくね」

小さく笑って、女の子はそう言った。

「な、なんで?」

ワケが分からない。

「見ず知らずの私に、そんな……」
「よく知ってるよ」

戸惑う私の言葉を、女の子は笑顔で遮った。

「私がお見舞いに行くとね」

そして、話し始めた。

「とうまは決まって、みことの話をするんだよ」

私の知らない上条当麻のことを。

「みことのことになると、すっごいおしゃべりになるんだよ」

私が知りたかった上条当麻のことを。

「みことがお見舞いに来た日のとうまって、すごく機嫌が良いんだよ」

上条当麻の、意外過ぎる一面を。

「とうまはね、みことのことが好きなんだよ」

絶対にね、と悪戯っぽい笑みを浮かべて付け加える女の子。

「とうまには、みことが必要なんだよ。だから」

よろしくね、と言って女の子はベンチから立ち上がった。
私に背を向けて、歩き出した。

「ま、待って!」

つい、呼び止めていた。

「また会える?」

ぴたりと止まった女の子の背中に問いかける。
女の子はゆっくりと振り返って、にっこりと笑って

「もちろん!」

私が一番欲しかった答えを返してくれた。
そして、女の子は一歩を踏み出した。

「じゃあ、またね」

ひらひらと手を振って、去っていく女の子の顔は

「また、美味しいご飯を食べさせてね!」

最後の最後まで、とびっきりの笑みで埋まっていた。












ちょっと変な感じがする。
久し振りに着る制服は、どうも身体に馴染まない。
余儀なくされた入院生活の長さを、改めて実感させられる。


でも、何でだろう。長かったという感じはしない。
入院生活はつまらなかったけど、だけど、退屈はしなかった。
それはきっと、アイツがいてくれたから。
ほとんど毎日のように、アイツがお見舞いに来てくれたから。


……まあ、昨日は来てくれなかったワケなんだが。


はぁ、と洩れる溜め息。
それから、たった今した自分の行動を疑問に思う。
どうして、ここで溜め息なんて出てくるんだろう?
分からない。自分のことなのに、分からない。
たった一日会えなかっただけで、何でこんなに気が滅入るんだろう?
アイツに会えないってだけで、何でこんなに調子が狂うんだろう?
こんな気持ちに陥る自分に、驚きだった。
ああ、でも今朝早くにやって来たインデックスの発言だって、負けず劣らず驚きだったな。


何せ開口一番


『これからは、こもえに面倒見てもらうんだよ』


なんて笑顔で言われたら、そりゃビックリもする。


でもまあ、良いんだけどさ。
ようやく気楽な一人暮らしに戻れるんだから
本当はまだ入院してなくちゃいけないんだけど。
ちょっとした不幸のせいで、予定より一日延びてしまったりもしたけど。
病院はつまらないって理由で、今日俺は退院する。


病院の出入り口に向かう。目の前で開いた自動ドアを通り抜けて、外に出る。
すると、そこには見知った顔が俺を待ち受けていた。

「昨日は見舞いに来てくれなかったな」

不機嫌に言いながらも、俺は嬉しくてたまらなかった。
会いたくてしょうがなかった女の子が。御坂美琴が、待っていてくれたのだから。

「薄情な奴め」

でも、そんな気持ちをコイツに知られたくなくて。
わざとしかめっ面を作って、心にも無いことを口にする。

「水曜は忙しいのよ」

だから大目に見なさい、と。あっちも不機嫌そうな表情で言い返す。

「へいへい」

弾む心を必死に抑えて、あくまで不満そうに肯く。

「じゃ、行こっか」
「歩きでか?」
「当然」
「病み上がりの身体にはキツイんですけど」
「リハビリよ、リハビリ」

こっちがまだ渋っているのにも関わらず、御坂は歩き出す。
仕方なく、俺も並んで歩き出す。
あとはまあ、いつも通りだ。
とりとめのないことを話しながら、気の向くまま、足の向くまま散歩を楽しむ。
二人きりの時間を楽しむ。


ちらりと、御坂の横顔を眺める。
肩の辺りまで伸びた御坂の髪が、風に揺れていた。
まるで、今の俺の気持ちみたいに軽やかだった。

「家事」

ポツリ、と御坂が呟いた。

「大変でしょ?」

その視線は、包帯で覆われた俺の両腕に注がれている。

「ん?まあな」

俺は何でもないことのように答えた。

「ま、どうとでもなるさ」

会話はそこで止まった。
いや、会話だけじゃない。
御坂は突然、立ち止まってしまった。

「どうした?」

俺も立ち止まって、訊ねてみた。

「御坂?」

どうも様子が変だ。
顔を真っ赤にして俯いている。
怒っているのだろうか?
でも、何に?
今の会話の中に、御坂を怒らせる要素があったとは思えないんだが。


やがて、何かを決意したように、御坂が身体をこちらに向けた。

「その……」

その顔を見て、ようやく分かった。

「て、手伝ってあげる……わよ……」

御坂は照れてるんだ。

「言っとくけど、拒否は許さないわよ?」

照れ隠しのつもりだろう。

「妹の件でアンタにはすごく世話になったし、それに」

顔を赤くしたまま、御坂は早口でまくし立てる。

「アンタを傷ものにしちゃった責任、しっかり取らせてもらうんだから」

ものすごく嬉しくなってきた。
御坂が家事を手伝ってくれる。
俺と、もっと一緒に、いてくれる。
心が弾む。

「ちょっと」

そして、思わず、

「何ニヤニヤしてんのよ?」

俺は笑っていたらしい。

「アンタ、人の話ちゃんと聞いてた?」

ずいっと寄せてくる顔は、やっぱりまだ赤いままで――どきりとした。

「ん?どうしたの?」
「い、いや……」

言葉に詰まる。
良い言葉が出てこない。いくら考えても出てこない。
ある一つの言葉を除いて、全く出てこない。
だけど、これだけは言えない。言えるはずがない。
可愛かった、なんて口が裂けても言えるワケがない。
散々悩んだ末、俺の口から出てきた言葉は

「じゃあ、お願いするよ」

なんて言葉だった。

「よろしく頼む……って」

口をへの字にして、御坂は俺をじっと見ている。
一瞬の表情の変化すら逃すまいとするかのように、じっと。

「何だよ?」
「一応、訊くんだけどさ」

それから五秒ほどの沈黙を挟んで、御坂は訊ねた。

「嫌じゃ、ないよね?」

コイツにしては随分と弱気な発言だった。
ついさっきの勢いが、まるで嘘みたいだ。

「当然だろ」

え、と驚く声。
御坂の顔を見ないようにそっぽを向いて、俺は更に付け加えた。

「ヤなワケあるかよ」

なんか、恥ずかしいな。
顔を見られないようにしたのは正解だった。
きっと今、俺の顔はかなり赤くなっている。


ちら、と御坂の様子を覗き見る。
どうも精神的なダメージはあっちの方が上だったらしい。
御坂は空飛ぶ円盤でも見たかのように呆然としている。


だが、やがて

「そっか」

なんて、ぼそっと呟いた。


そして

「そっか」

笑った。まるで、パッと花が咲いたみたいに。
本当に嬉しそうに、笑ったんだ。
どんな男だってイチコロに違いない、笑顔。
俺はそれを、しっかりと胸に刻んでおいた。
他の誰にも見せたくない、見せてほしくない。御坂美琴の、最高の笑顔を。











[20924] 第3話 御使堕し編①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:47

「ふう」

湯船に肩まで浸かると、そんな息が自然と洩れた。
十人くらいが入れる湯船に、十人くらいが座れる洗い場。
小さな銭湯って感じのお風呂場には私以外、誰もいない。
まあ、当然か。今年は太平洋沿岸で巨大クラゲが大量発生したって言うし。
猛暑なのに海の客足がゼロに等しいって話も肯ける。


そう、海だ。
ここは常盤台の学生寮じゃない。
学園都市の中ですらない。
神奈川県の某海岸。海の家『わだつみ』の一階奥にある、お風呂場なのだ。


ホントに“外”まで来ちゃったんだなあ、私。


学園都市最強の超能力者である『一方通行(アクセラレータ)』を倒したアイツと一緒に。
濡れた前髪を指でいじりながら、ちょっと物思いに耽ってみたりする。


だってさ、仕方ないじゃない。
アイツ、いきなり一時避難を言い渡されたのよ?
あれはもう、ほとんど強制退去だった。
しばらく学園の外で大人しくしていろ、だなんて。


だからさ、仕方ないじゃない。
アイツに借りがある身としては、避難先までついていくのが筋ってもんでしょ。
インデックスにだって、アイツのことを頼まれてるし。
べ、別にアイツの傍にいたかったワケじゃないんだからね!


ああ、ダメだ。少しのぼせたみたい。
貸し切り状態だからと言って、ちょっとばかり入り過ぎたか。
そろそろ出ようかな。


私、長風呂派だから部屋で待ってて。


そうは言っておいたけど、アイツのことだ。
きっと入口の辺りで私のことを待ってくれているんだろう。
上条当麻とは、そういう奴だ。
頭に超が付くほどのお人好しで。
困っている人がいたら、何としてでも力になろうとして。
諦めるって言葉を知らなくて。


あの夜、私達姉妹を救うために、アイツは必死で戦った。
絶対無理なのに。明らかに不可能なのに。それでも、アイツは諦めなかった。
ボロボロになりながら、それでも、アイツは戦い続けた。
あの姿が、ずっとどこかに残ってる。あの姿に、後押しされてる。


ああ、だからかな。
だからこんなに、気になるのかな。


……好きに、なっちゃったのかな。












脱衣所を出ると、やっぱりと言うか、アイツがいた。

「よう」

わざとらしく言ってきた。

「やあ」

私もわざとらしく言ってやった。
それから二人して笑った。笑い合った。
何かいいな、こういうの。すごく楽しい。

「じゃ、行くか」
「うん」

肩を並べて、私達は歩き出した。
居間に向かって歩き出した。

「あー、お腹減った」

今日は食べるぞー、なんて気合いを入れていると、隣からは何故か溜め息。

「先に言っとくが、御坂」
「何?」
「晩飯、あんまり期待するなよ」
「え?何で?」
「海の家のレパートリーはラーメン、焼きそば、カレーの三つだけと相場が決まっている」

ええ、と非難するような声を上げる。

「これだけ海が近いんだし、お刺身の一つくらい……」
「それすら出ないのが、海の家の性ってヤツでしてね」

う、嘘だ。
海が目と鼻の先にありながら、海の幸にありつけないなんて。
すっかり意気消沈した時、気づいた。
食堂も兼ねた居間が、妙にざわついていることに。


あれ?おかしいな。
ここの宿泊者って、今日は私達だけのはずなのに。
コイツの両親も、明日の朝まで合流出来ないって連絡あったし。


思い出して、急に頬が熱くなった。
そうだ、コイツの……上条当麻の両親に会うんだ。
とは言っても、外出する際の保証人として同行してもらうだけ。
特別な意味なんてない。全然ない。
ない、んだけど……。
なのに、ひどく緊張してしまうのは何でだろう?


緊張の正体が分からないまま、居間に辿り着く。
しかし、私達は立ち止まった。
居間は人で溢れ返っていた。
乱立している丸テーブル、いや、ちゃぶ台かな?
とにかく、それらはどれも満席状態だった。


え?何?この人達。
一体どこから、こんなに湧いてきたの?

「お、丁度良いところに」

唐突に聞こえてきた声に、唖然としたまま振り返る。
“大漁”と達筆な字で書かれたTシャツを颯爽と着こなすオヤジさんが立っている。『わだつみ』の店主さんだ。

「あの、この人達は一体……?」
「悪いねえ。この兄ちゃん達、テメエの車で本州一回り、なんて無茶してる連中らしいんだけど」

それはまた酔狂な。
そんな時間とお金があるってことは、この人達、大学のサークル仲間とかかな?

「どうも揃ってガス欠になっちまったらしくてな。この辺にはガソリンスタンドもねえし、夏とは言えもう日も暮れる」

というワケで、と両手を合わせるオヤジさん。
何だろう。イヤな予感しかしないんですけど。

「アンタらに、ちーっとばかし頼みがあるんだが」












日のすっかり落ちた夜。
六畳一間の和室を照らすのは、古めかしい電灯カバーの付いた蛍光灯の明かり。
ボロボロの畳が張られた床。
プラスチックのボディが黄色く変色した、エアコン代わりの扇風機。


まあ、別にこの程度の環境は何の問題にもならない。
事前に話も聞いていたし、こんなものは余裕で許容範囲だ。
でも、そんな心の広い私にも苦手な環境というものはある。
例えば、気になっている異性と同じ部屋に泊まると言うような、精神に対する圧迫だ。
頼んでもいないのに、二枚の布団はピッタリとくっついている。


ちょっ、何のジョークよ、これは。まるで新婚初夜じゃない。


全く、あのオヤジさんは何を誤解してくれてるんだろう。
部屋が足りなくなったから、今日は二人一緒の部屋で寝てくれだなんて。
あの人絶対、私達が恋人同士だと勘違いしている。


むう、と唸る。
困った事態になった。
その、カ、カップル扱いされたことは別に不満じゃないけど。
で、でもこの状況はさすがにマズイというか……。


今現在、私は究極の二択を迫られていた。
現状を受け入れて素直に布団に入ってしまうか。
拒否して布団を思いっきり離してしまうか。


どうする自分。どうする美琴。
こんなチャンスは二度とないような気がする。
でも、どう考えても早い。早過ぎる。
どうしたらいいんだろう。


迷いに迷っていたその時、コンコンとノックの音。

「おーい、まだかー?」

あっと、いけない。
着替えるから、廊下に出てもらってたんだっけ。

「どうぞー」

ドアを開けて、アイツが入ってきた。へえ、と唸った。

「お前、そういうの着るんだ」

しきりに感心している。


今、私が着ているパジャマ。
それはいつも寮で着ているパジャマじゃない。
以前、初春さんと佐天さんの二人と一緒に行った洋服店『セブンスミスト』
そこで見かけた花柄の、可愛らしいパジャマを着ているのだ。


子供っぽいって二人が口を揃えて言うもんだから、その時は買わなかった。
だけど、どうしても欲しくて、着てみたくて。我慢出来ず、とうとう買ってしまったのだ。


ちなみに、このパジャマ姿をお披露目するのは今日が初めて。
黒子には見せてない。
このパジャマの存在すら知らない。
バカにされると分かってて、誰が見せてやるもんか。


ああ、でもでも。


思い切って着てみちゃったけど、コイツはどう思うかな。
そんな少女趣味の持ち主だったのかって、コイツも笑うのかな。
可愛いなって、言ってくれたりしないかな。
この朴念仁に、そんな甲斐性はないかな。
どうなのかな。
ああ、やっぱりよく分かんないや。

「何よ」

私をじっと見つめていたアイツの肩が、ビクリと震えた。
急に、その視線を外した。

「あぁーっと、そのー」


何?この曖昧な喋り方は?


どういうワケか、その視線が泳ぎまくっている。
一瞬だけ目が合ったけど、すぐに逸らされた。

「まあ、何と言うかだなー」
「はあ?」
「これはあくまで、俺個人の感想なんだがー」
「何?何が言いたいの?」

戸惑っていると、アイツは頭をバリバリと右手で掻き回した。

「お前、こんなに可愛かったっけ?」

そして、小声で言った。
言葉の意味を理解するのに、たっぷり五秒は必要だった。
次に、顔がボッと熱くなった。


か、可愛い?可愛いって、言ってくれた?


どうしよう。すごく、すごく嬉しい。
聞き間違いじゃないよね?
確かに、そう言ってくれたよね?

「あの」

確認のため、声をかけようとした。
刹那、アイツは逃げるように布団に潜り込んでしまった。
恥ずかしいのはお互い様、ということらしい。


私はクスリと笑みを洩らすと、部屋の明かりを消した。
布団を被って横になった。アイツの隣で。お互いの布団をピッタリとくっつけたままで。

「……ねえ……」

ふと、声をかけてしまった。
自分らしくもない、勢いに欠ける声。

「ん?」
「いや、その……」

何となく良い雰囲気だったから声をかけたんだけど、話題が無い。
いくら考えても、良い言葉が全く出てこない。
散々悩んだ末、口から出てきたのは、

「美琴って呼んで」

なんて言葉だった。


何でそんなことを言ったんだろう?
何かを誤魔化すためだったのか。思わず本音が洩れてしまったのか。
今でもよく分からない。でも、確かにそう言った。

「どうしたんだよ、急に?」
「だって……いつまで経っても名前で呼んでくれないし」

一度言ってしまうと、もう止まらなかった。

「なんか他人行儀って感じがするし」

そういうの、なんか寂しいし。

「お前が先に言うんなら考えなくもないな」

あ、何よそれー。

「強情」
「お互い様だろ」
「意地っ張りー」
「うっせ」

ふーん、意地でも自分からは呼ばないってワケね。
分かったわ。上等よ。
お望み通り、私から呼んでやろうじゃない。
名前ぐらい楽勝よ。

「と……」

なんて思ったのに。

「……とう……」

言い切るより先に顔中が熱くなった。


うわあ、ダメじゃん私。
人のこと言えないじゃない。

「お前だって人のこと言えないだろ」

得意げな声。
その一言に、カチンときた。

「当麻当麻当麻当麻当麻っ!」

狂ったように連呼してやる。
顔が熱くってしょうがないけど、知ったことか。

「当麻当麻当麻――」
「美琴」

それは突然だった。不意打ちだった。

「……ずるい」
「悪いかよ」
「悪い」

いきなりなんてずるい。

「もう一回」

そんなの、呼んだことにしてやらない。

「ちゃんともう一回呼んで」

しばらくの沈黙。
それから、当麻の唇が動いた。
美琴、と動いた。
胸がキュンと鳴った。

「名前で呼ばれると新鮮だね」
「そっか?」
「そうだよ」

そのあと、ちょっと信じられないことが起きた。
布団の外に出していた私の左手に、当麻が自分の右手を重ねてきたのだ。
そして、ぎゅっと握ってきた。
何故か自然に手が動き、私はそんな当麻の手をしっかりと握り返した。

「だったらいつでも呼んでやるよ」

ああもう、どうしよう。
幸せ過ぎる。
今夜はずっとずっと起きていたい。
思わずそう願ってしまった。
そうすれば、当麻の温もりをいつまでも感じていられる。

「お休み、美琴」
「うん。お休み」

温もりを感じたまま。
当麻と手を繋いだまま。
私は緩やかに眠りに落ちていった。











[20924] 第4話 御使堕し編②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/27 04:59
夜が明けて、

「お兄ちゃーん」

という女の子の声で目が覚めた。


……何、今の?


うっすらと目を開ける。
そして、当麻と顔が合った。
眼前いっぱいに広がる当麻の寝顔に、思わず何秒も見入ってしまう。
ちなみに私達の手は昨夜のまま。


一晩中、繋ぎっぱなしだったんだ……


我を忘れて和みかけた、その時、

「お兄ちゃーん」

という声、再び。
女の子の声は、ドアの向こうから聞こえたみたいだった。


はて、どうしてだろう?
この声、物凄く聞き馴染みがあるんだけど。
いやでも、あの子がここに来てるはずがない。
どこに行くかなんて一切、ヒントすら教えなかったんだから。
他人の空似ってヤツよね、きっと。
そう結論づけた瞬間、ズバーンという大音響と共にドアが開け放たれた。

「お兄ちゃん!」


な、何々?何なの、何が起きたの……殺気!?


「起きろー!」

頭より先に身体が反応した。
繋いでいた手を振り解いて緊急回避。
おかげで私は難を逃れることが出来たけど、

「げぼあ!?」

まだ夢の中にいた当麻にボディプレスが直撃。ごめん当麻。
女の子の全体重をお腹に受け、布団の中で咳き込む当麻。が、十秒もしないうちに、

「……誰だテメエは?誰だテメエはおんどりゃあ!」

叫んで、バネ仕掛けの人形のように勢いよく起き上がった。
当麻の上に乗っかっていた女の子が、

「きゃあ!?」

という悲鳴を上げて部屋の隅まで転がった。

「ちくしょう誰だ?人の安眠タイムを邪魔しやがったのは」

怒り心頭の当麻と共に、プロレス技の使い手に目を向ける。

「え?」

思わずそんな声を上げていた。
畳の上に転がっていたのは、寮のルームメイトである白井黒子だった。

「ちょっとー、それがせっかく起こしに来てやった妹に対する態度なワケ?」

赤いキャミソールを着た黒子は、尻もちをついたまま頬を膨らませてみせる。


おかしい。
黒子が普通に喋ってる。
いつものお嬢様口調じゃない。
それに妹?今、妹って言ったよね?
それって“妹”?それとも“義妹”?
それが問題だ。
たった一文字だけど、そこには天と地ほどの差が存在する。
どっち?ねえ、どっちなの黒子!?

「黒子……?」
「はあ?私は裏方じゃないよ?」
「そっちじゃない!自分の名前でボケるな!」

怒涛の勢いでツッコミを入れる。
全く、こっちは大真面目だっていうのに。なのに、それなのに。


うん?


という顔を、黒子はした。

「ねえ、何を勘違いしてるの?」
「勘違い?」
「私、黒子って名前じゃないよ」

今度はこちらが驚く番だった。

「私には乙姫って名前がちゃんとあるの。て言うかさ」

目を細めて、

「貴女、誰?」

一言。


あまりの驚きに、思わず声を上げてしまった。


黒子が私を知らない。
そんなこと、あの子は口が裂けたって言わない。
となると、目の前にいるこの女の子は本当に別人?
でも、それにしては似ている。似過ぎている。
双子ってことにしても充分通じそうだ。

「御坂美琴、だけど」

訳が分からないけど、とりあえず自己紹介してみる。

「御坂……美琴?」

途端、女の子の表情が一変。

「ひょっとして、あの『超電磁砲(レールガン)』?」
「う、うん。まあ」

目をキラキラと輝かせて、私の手を両手でガッチリと握ってきた。

「あのっ……私、竜神乙姫です!当麻お兄ちゃんの従妹やってます!」
「そ、そう。よろしくね」

ブンブンと手を振られながら考える。
正直、何が起きてるんだか見当もつかない。
でも、一つだけ分かったことがある。
この子はやっぱり黒子じゃない。それぐらいは分かる。
二年に上がってから今日まで、あの子とは毎日のように顔を合わせているんだから。


でも本当にソックリね。見た目も、声も。
他人の空似ってレベルじゃないわよ、これ。

「御坂さん、一緒に朝ご飯食べましょう。で、おじさん達にも会って下さい」
「おじさん達?」

はい、と満面の笑み。

「刀夜おじさんと詩菜おばさん。お兄ちゃんのお父さんとお母さんです」

ドクン、と心臓が跳ねた。

「私、下で待ってますから。早く着替えて来て下さいね」

嬉しそうに、楽しそうに。
竜神乙姫と名乗った女の子は、ぱたぱたと足音を立てて部屋から出ていった。

「……どういうこと?」
「知るかよ」

俺が訊きたいぐらいだ、と当麻は頭を抱えた。












「着替え、終わったか?」
「うん」

ガチャリと開いたドアの先。
ベージュの落ち着いた色合いをしたスラックスと黒地のTシャツというラフな格好をした美琴が、そこにいた。
じっくりと、様々な気持ちに揺さぶられながら、俺は美琴を眺めた。
美琴が私服なんて、ちょっと変な感じだ。

「何よ」

途端、美琴が不機嫌になる。
俺は気押されながら、もごもごと言った。

「あ、いや、普通の服だなーって……」

俺の言葉を、どうやら美琴は勘違いしたみたいだった。
急に気弱そうな顔になって、訊ねてきた。

「変かな?」

そして自分の服を心配そうに眺めた。
そういう仕草の一つ一つが、いかにも女の子って感じだった。


やっぱり美琴だって、服とか気にするんだな。
それに、こう見えても美琴は能力開発の名門である常盤台中学のお嬢様だ。
今の流行なんてよく分からないのかもしれない。

「変じゃない。似合ってるよ」
「ホント?」
「ああ、すっげえ似合ってる」

本当はそのあとに言いたい言葉もあった。
可愛いよ、とかさ。
でも、昨夜の二の舞になってしまいそうだったから口に出さなかった。
心の中でこっそり言っておく。


ホント可愛いぞ、美琴。マジで似合ってるから心配すんな。


良かった、と安心したように呟く美琴。
それから、そっと息を吐いた。

「どうしたんだよ」
「ん」
「何溜め息なんか吐いてんだよ」
「ん」

どうにもはっきりしない。
よく分からないまま、俺は美琴と共に一階へ向かった。


狭い木の階段を下りる。
やけに静かだ。
どうやら昨日の連中は俺達が眠っている間にここを出ていったらしい。


じゃあ、残ってる客は俺達だけか。
俺と美琴。それにいつの間にかやって来た、従妹と名乗るテレポート女と、俺の両親。


上条刀夜と、上条詩菜。


心の中だけで溜め息を吐く。
どんな顔をして、二人に会えばいいんだろう。
俺には二人と過ごした記憶が無い。
二人の顔すら思い出せない。
でも、それを悟られるワケにはいかない。


久し振りに再会した息子が、自分達のことを忘れている。
それが一体、どれだけの悲しみになるのか。
想像するだけで嫌になる。
だから、悟られるワケにはいかない。


自分のせいで誰かを泣かせてしまう。
そんなこと、絶対にしたくない。
覚悟を決めて居間へ足を踏み入れる……が。

「当麻!元気そうだな。変わりないか?」

中に入った瞬間、そういった考えは一気に吹っ飛んだ。


記憶に無い人物から声をかけられたからじゃない。

「あ、やっと来た。お兄ちゃーん」

妹キャラを継続中のテレポート女にうんざりしたからでもない。


父親と思しき男の隣。
当たり前のようにちゃぶ台に就いている人物に目を向ける。

「インデックス?」

え、何?何でコイツがここにいるの?
コイツは今、小萌先生の世話になってるはずだよな?
て言うか、この格好は何だ?
足首まである薄手の長い半袖ワンピースにカーディガン。
おまけに頭には鍔広の大きな白い帽子。


はっきり言おう。
コイツには圧倒的に似合わない。
お前はどこの避暑地のお嬢様なんだと、小一時間ほど問い詰めたくなる。

「お前、何してんの?」

当然の如く浮かんだ疑問。
しかし父親らしき人物は、何故か怒気交じりに言った。

「こら当麻。母さんを“お前”呼ばわりとはどういうつもりだ」


はい?母さん?今、この人“母さん”って言いました?


唖然としたまま振り返る。

「アレ、何に見える?」

美琴だけに聞こえるよう、小声で訊ねる。

「どっからどう見てもインデックス」

頼もしい返答をありがとう。
だよな。やっぱりそうだよな。
アレはどう見ても十四歳以下の銀髪不思議外国人だよな。

「父さん」
「何だ」
「アンタ本当にソイツが母さんに見えてるのか?」
「当麻。それ以外の何に見える?」

可哀想なものを見るような目で俺を見つめる父さん。


待て、ちょっと待て。
ボケるにしてもこれはない。
ここまでボケられちゃうと、どこからツッコんでいいのか全然分からない。


ああ、そうか。
これってアレだ。ドッキリってヤツだ。
となると、どこだ?
作戦成功のパネルはどこにありやがるんだ?

「ねえねえ、お兄ちゃん」

キョロキョロと辺りを見回していると、突然、

「ここのテレビって勝手にスイッチ入れてもいいのかな?」

普通の喋り方が逆に気持ち悪いテレポート女が、そんなことを訊いてきた。

「何だよ、いきなり」
「むー。リモコン見当たらないしさー。こういう所のテレビって勝手にいじったら怒られそうなイメージがあるから触れないんだようお兄ちゃん」

やっぱり妹キャラのままなのかよ。


頭を抱える俺の隣で、美琴は腕を組んで何やら考え事をしていた。そこに、

「おう。ようやくお目覚めかい」

と、唐突に聞こえてきた声は男性のもの。
何となく聞き覚えのある背後からの声に、首だけで振り返る。


赤髪長髪の魔術師ステイル=マグヌスが、そこにいた。


「なっ……!?」

何でこんな所にいるんだよ、この英国人は。
お前、戦闘とか虐殺のプロなんだろ?
“大漁”なんてデッカイ字が躍るTシャツ着て何やってんだよ!


ん?大漁?


ぼんやりと思い出す。
そう言えば昨日、オヤジさんがこんな格好してなかったか?

「腹減ってるだろ。ちょっと待ってな」

呆気に取られていると、ビーチサンダルに首からタオルの魔術師がいきなり、

「おい麻黄!客の注文取って適当に食いモン出しとけ!」

と叫んだ。程なくして、パタパタという足音が近づいてくる。


誰だよ?今度は一体、誰が来るっていうんだ!?


「おい父さん!適当に、とか言うなよ!客の前だぞ!」

またもや聞き覚えのある声。でも、ちょっと待て。
俺の知っている限り、この声は間違いなくアイツだ。
だけど、いや、だからこそおかしい。
アイツがこんなに声を張り上げるワケがない。
だってアイツは、殺される直前でも無表情無感情を貫くような奴なんだぞ?


半信半疑で振り返る。


美琴のクローンである御坂妹が、そこにいた。


美琴と瓜二つの容姿。日に焼けた肌。
エプロンの下は大胆にも紺色の海パンのみ……ってオイ!
これってほとんど裸エプロンじゃねえか!
横から見たら、横から見たら胸の辺りが大変なことになったりしませんか!?

「何てカッコしてんのよ!」

真っ先に声を上げたのは美琴だった。

「アンタ、私と同じDNAマップ持ってるのよ!?私が見られてるのと一緒なのよ!?分かってる!?」

顔どころか身体中を真っ赤にして怒鳴り散らす姉。

「あの、お客さん。何言ってるのかサッパリ分かんないんだけど」

対して、妹は引きつった笑みで応じている。

「何でもいいから服を着なさい!今すぐに!」
「はあ?別にいいだろ、このままで。減るもんでもないし」
「精神的に減るの!いいからこっち来なさい!ほら!」

妹の首根っこを掴み、そのまま引っ張る美琴。

「な、何すんだよ!」
「うるさい!きびきび歩く!」
「痛い痛い痛い!」

ぎゃあぎゃあ喚きながら、二人は二階へと消えていった。
その様子が何ともおかしくて、おかげでちょっとだけ冷静になれた。
とは言え、それで事態が好転するワケでもなくて。

「何だったんだ、ありゃ?」
「読めたぞ。彼女は麻黄君と二人きりになるために一芝居打ったんだ」
「うわー。御坂さんってば朝から大胆」
「あらあら。美琴さん的にはああいう純朴な子が直球なのかしら」

好き勝手言うギャラリー共。


おかしい。ドッキリにしては規模が大き過ぎる。
ドッキリではないような気がする。
でも、じゃあ、何だ?


テレポート女が妹を主張し。
インデックスが母親を名乗り。
ステイルが海の家のオヤジになって。
まるで、みんなの中身と外見がそっくり入れ替わっているような。


……で、どういう理屈で?











[20924] 第5話 御使堕し編③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:49

十六インチの画面に大映しにされる寮監の顔。
ピンク色のエプロンを身につけ、妙に艶めかしい腰つきで、泡立て器を高速回転させている。
甲高い声がテレビのスピーカーから溢れ出る。

『ここがポイントよん♪』

よん、って何ですか、よんって。


次――


グレーの背広を着た佐天さん。深刻な表情。

『――刑務所から死刑囚、火野神作が脱獄しました。周辺の中学校などでは部活動を緊急で中止にするなどの迅速な対応が――』


次――


向かい合って将棋盤を睨む二人。
一人はスーツをビシッと決めた初春さん。
そしてもう一人。着物姿の男には何となく見覚えが……って。
アイツ、黒子にコテンパンにされた発火能力者じゃない。

『今のは悪手でしたね』
『そうですね。あの状況で角と飛車を交換するべきではなかったでしょう』

ガングロ女子高生が解説しちゃうんですか、そうですか。


次――


マイクを持った総理大臣がにこやかに笑っている。
おお、ようやくまともな映像が。

『さて、今日は千葉県の銚子にやって来ました。全国屈指の水揚げ高を誇る漁港があります』

あ、怪しい雲行き。後ろでは某国の大統領がわざとらしく網の手入れなんかしてるし。

『あ、こちらに漁師さんがいました!少し話を伺ってみましょう!』

うわあ、ダメだ。全滅だ。
どこもかしこも、おかしくなってる。
私はテレビを消すと、畳にごろんと寝転んだ。
静かだ。ほんの二十分前までの騒がしさが嘘みたい。


朝ご飯を食べ終えるや否や、当麻の両親及び従妹を名乗るヘンテコメンバーは海へと繰り出していった。
絶賛混乱中の当麻をズルズルと引きずって。
きっと今頃は何だかよく分からないままに砂浜に突き立てたパラソルの下、レジャーシートの上で一人、体育座りでもしているに違いない。
実は私も誘われてるんだけど、なかなか重い腰が上がらない。
ごめん、当麻。正直な話、あの三人のノリについていける自信がないの。


それにしても大丈夫かなあ、こんなのんびりしてて。
どうも世間は大変なことになってるみたい。
かと言って、どうすればいいのかなんて全然分かんない。


横になったまま、ケータイを取り出す。
待ち受け画面に映っているのは私と黒子。
それに、佐天さんに初春さん。
私の知ってるままの姿で、全員が映っている。


画面を切り替える。
今朝、乙姫ちゃんと一緒に撮った写真。
その中の乙姫ちゃんは、黒子とは似ても似つかない。
ショートカットで活発な感じの女の子が、そこに写っていた。
なのに乙姫ちゃんは言ったのだ。
綺麗に撮れましたねー、と。
映し出された異常に対し、何の指摘もなかった。


間違いない。
乙姫ちゃんは、ううん、多分みんな気づいてない。
中身と外見が入れ替わってしまっていることに。


でも、どうして?
どうしてそんなことが起こってしまったんだろう。
超常現象?何らかの能力?
分かんない。さっぱり分かんない。


ああ、分かんないと言えばもう一つ。
何で私と当麻は無事なんだろう?
日本中、ううん、ひょっとしたら世界中で異常は起きているはずなのに。
何か特別なことでもしたっけ?
うーん。これといった心当たりもないんだけどなあ。

「へえ、こいつは驚きぜよ」

そんな声と共に、誰かが入ってきた。
私はのっそり、身体を起こした。


ツンツンに尖った短い金髪。
地肌に直接着たアロハシャツとハーフパンツ。
薄い青のサングラスをかけ、首には金の鎖のオマケ付き。
当麻の学生寮の隣人、土御門さんだった。


この人、一見するとガラの悪い不良にしか見えない。
だけどそれは、本当に見た目だけ。
実のところは義理の妹である舞夏を何よりも大事にする優しいお兄さんなのだ……って、ちょっと待って。
何でこの人がここにいるの?どうやって学園都市の外に?
よっぽどの理由がなきゃ、学生が一人でホイホイ外に出られるワケないのに。


あ、そうか。みんなが入れ替わってるってことは、この人も土御門さんじゃなくて別人……


「まさかヒメっちも難を逃れてたなんてにゃー」

前言撤回。この人やっぱり、土御門さんだ。

「なあヒメっち。一個確認したいんだが」
「何ですか?」
「ヒメっちにはオレが『土御門元春』に見えてるぜよ?」

はあ?いきなり何を言い出すんだろう、この人は。

「当たり前じゃないですか。あと、『ヒメっち』は止めて下さい」

知り合って間もない頃から、ずっとこんな調子なのだ。
全く、お嬢様って肩書きだけでもウンザリだっていうのに。
一体どこをどう見れば、私がお姫様になるんだろうか。全くもって意味不明だ。

「となると、いや、まさかにゃー……」

信じられないって目で、私を見つめてくる土御門さん。が、突然、

「ま、いいか。とりあえずヒメっち。オレ達をカミやんのトコまで案内してくれ」

なんて言って、さっさと居間を出て行ってしまった。


もう。何なのよ、いきなり。
俺達を当麻の所へ連れて行け、なんて。
もう何が何だか……って、俺達?他にも誰かいるってこと?
と、廊下から奇怪な猫ボイスが飛んできた。

「うにゃー、ヒメっちー?まだかにゃー、ヒメっちー?」
「行きます!今行きますから!」

だからお願い。ヒメっちって連呼しないで!












状況が理解出来ない。
砂浜に突き立てたパラソルの下。
何で俺はレジャーシートの上で一人、体育座りをしてるんだろう?


巨大クラゲが大発生したおかげで砂浜には他に海水浴客らしき人影は無い。
完全に貸し切り状態だ。
波打ち際ではインデックスとテレポート女、それと父さんが一緒にビーチボールで遊んでいる。
ヘンテコだ。激しくヘンテコな三人組だ。
メンバーもヘンテコだが、格好はもっとヘンテコだ。


まずはテレポート女。
お前、何でスクール水着なんだよ。
ここは塩素臭い学校のプールじゃないんだぞ。


そしてインデックス。
何だよ、その黒いビキニは。
紐の部分、全然見えねえぞ?
ひょっとしてビニールで出来てんのか?
隠すべき部分に布を直接両面テープで貼り付けてるようにしか見えねえよ。
はっきり言う。幼児体型のアイツにはまるで似合わない。
ちぐはぐだ。何もかもちぐはぐだ。


ああ、早く来てくれ美琴。
俺一人じゃツッコミきれねえよ。
と、背後からサクサクと砂を踏む足音が近づいてくる。
良かった。やっと来てくれたか。

「おいおい、遅いじゃ」

ないか、と最後まで口に出せなかった。


体育座りのまま首だけ振り返った先に、美琴はいなかった。
後ろに立っていたのは異質な少女だった。
何が異質なのかって?そりゃもう、全部だよ、全部。


羽織った外套の下はワンピース型の下着みたいなインナースーツだけ。
しかもあちこちに黒いベルトやら金具やらが付いている。
太い首輪には伸びた手綱。腰のベルトには金属ペンチに金槌。
果てはL字型の釘抜きや鋸までもが刺さっている。


だがしかし、恐れることは何もない。
上条当麻は知っている。記憶が無くても、経験則で知っている。
こういうふざけたコスプレで現れる奴は、大抵俺の知り合いであるということを。
よって、この状況において俺が取るべき態度は一つ。

「よ、久しぶ」

またもや言い切る直前だった。


俺の首筋には鋸の刃があてがわれていた。
ほんの一瞬。瞬きするほどの間に、間合いを一気に詰められていたのだ。

「問一」

機械のような平坦な声で、彼女は言った。

「術者は貴方か」

術者?何だよ、術者って。何ワケ分かんないこと言ってんだよ?

「問一をもう一度。術者は貴方か」

二度言われたって分かんねえモンは分かんねえよ!ていうか、答えてほしかったら鋸を引けよ!この状態じゃ喋りたくても喋れねえだろうが!


鋸のせいで身動きが取れず、心の中でツッコミ続けている最中、

「ちょっと待ったあああっ!」

横から割り込むように声がかかった。
待ちに待った声だった。
美琴だ。美琴がやっと来てくれたのだ。
俺は視線だけを声のした方へ向けた。


うん?何だ、ありゃ?


美琴だけじゃない。他にも二人いる。
一人は長い黒髪の、女性にしては背の高い女。


そして、もう一人。


それが誰なのかを理解して、俺は呆けた声を出していた。

「はあ?」

つ、土御門?

「ふう。間に合って良かったにゃー」
「はあ?」

鋸を首筋にあてがわれたまま、俺は完全に固まってしまった。











[20924] 第6話 御使堕し編④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/04 05:53

「魔術?」

私はそう繰り返した。

「魔術、ですか?」
「はい」

神裂さんの目は真剣そのもの。
冗談を言っているようには見えない。


それにしても、魔術と来たか。


目下、とある魔術が世界規模で進行中。
それは理屈も仕組みも、前例すらも定かではない魔術。
謎だらけのソレは起きた現象の特徴から『御使堕し(エンゼルフォール)』と名づけられた。
この魔術の影響で、みんなの“中身”と“外見”が入れ替わった。
つまり、この騒ぎは誰かが起こした人為的な事件というワケだ。
これだけでも充分、迷惑だっていうのに。なのに、どうもこの魔術、入れ替わりは副作用に過ぎないらしい。
じゃあ、本来はどういう効果があるんですかって訊いてみたら、

「天の位にいる天使を強制的に人の位に落とすのです」

と、真顔で答えられてしまった。

「えーっと……天使?」
「はい。厳密には天の使いではなく主の使いですが」

何か問題でも、とやっぱり真剣な表情で訊き返す神裂さん。
いやいや、大問題ですってば。
まあ、とりあえず魔術や魔術師の存在は信じるとしよう。
こんなふざけた現象、さすがに能力でも起こせそうにないし。
神裂さんの格好、確かに普通じゃないし。


整った顔立ち。サラサラの長い黒髪。
スタイルも抜群に良いし、肌も透き通るように白い。
完璧過ぎるくらいに完璧だ。
なのに彼女の服装が、その全てを台無しにしていた。


上は脇腹辺りで余分な布を縛った白い半袖Tシャツ。
下は片脚だけが太股の付け根まで見えるほど大胆に斬られたジーンズ。
足には西部劇に出てくるようなブーツ。
そして極めつけは腰に差した日本刀。
ざっと見ただけでも二メートルはありそうね、あれ。
長い黒髪のポニーテールと合わせて見ると、まるで和洋をゴッチャにしたサムライみたい。
そんなヘンテコな格好も、魔術師という単語一つで許容範囲になってしまうから不思議だ。


だけど、それでも天使はキツイ。
そこまで信じちゃったらもう、何でもありになっちゃうじゃない。
どうにも気持ちの整理がつかない、そんな時、

「て言うかさ、理屈なんてどうでもいいんじゃねえか?」

ばっさりと。

「とにかく不思議なことが起こってて、何とかしなきゃいけないってことだけ分かってりゃ充分だろ」

あまりにも簡単に人の悩みを切り捨ててくれる輩が約一名。

「アンタはそれでいいの?」
「だってしょうがないだろ」

相手は魔術なんだから、と当麻が言った。

「俺達の常識なんて通じねえよ」

まあ、確かにそうなんだろうけどさ。
モヤモヤした気持ちのまま、私は手元にあるクーラーボックスからコーラを取り出した。

「もらうわね」
「おう。飲め飲め」

よく冷えたコーラをぐびぐびと飲んだ。
自分で思っていたより、ずっと喉が渇いていたらしい。
あっと言う間に、小さなペットボトルの半分くらい飲んでしまった。


私と当麻、それに土御門さんと神裂さんは揃ってレジャーシートに座っていた。
静かだ。おじさん達のはしゃぐ声も、今は聞こえない。
沖の方に行ったのかな?

「落ち着いたか?」
「ん。大分」
「そっか。そりゃ何より」

言って、当麻もクーラーボックスに手を伸ばす。
取り出した缶コーヒーの蓋を開け、傾ける。
その一連の動作を、私はじっと見つめていた。

「何だよ」
「いや、やけに落ち着いてるなーって」

世界規模で不思議なことが起きてるっていうのに、当麻は相変わらず。
慌てたりとか、焦ったりとか全然してない。
そりゃあ、朝はコイツもめちゃくちゃ驚いてたよ。一体どうなってるんだーって。
でも魔術が原因だと分かった途端、妙に落ち着いちゃって。

「アンタよく今の話をすんなり受け入れられるわね」

私なんて、魔術なんて単語が出てきて余計に混乱してるっていうのに。

「そうかにゃー。自分のクローンが一万人も殺されたって話よりよっぽど現実味があると思うんだけどにゃー」

しばらく、土御門さんが何を言ったのか分からなかった。
理解した途端、叫びそうになった。


待って待って!ちょっと待って!


「土御門さん」

その恐ろしい事実に打ちのめされながら、私は言った。

「どこまで知ってるんです?」

土御門さんは笑った。

「ぶっちゃけ全部」

ニヤリ、と。悪戯を成功させた子供みたいな笑み。

「学園都市最強の超能力者、『一方通行(アクセラレータ)』を被験者とした絶対能力進化実験。これぐらい筒抜けぜよ」

君の力があれば筋ジストロフィーで苦しむ人達を救えるかもしれない、なんて言葉を信じて提供したDNAマップは、しかし全く別の目的に使われた。


『妹達(シスターズ)』。


私の軍用量産モデルとして作られた体細胞クローン。
前人未到の絶対能力を生み出す。それだけのために『一方通行』に殺され続けた、私の妹達。


今でも時々、考える。
あの日、あの時、あの場所で。
もしも当麻に会えなかったら、私はどうなっていたんだろう?
少なくとも、明るい未来はこれっぽっちも想像出来ない。

「どうして?」

あの実験を知っているのは、学園都市の人間でもごく一部だ。
あんなふざけたもの、公表なんて出来るワケがない。
闇だ。アレは学園都市が抱える闇そのもの。
それをどうして、一学生に過ぎない土御門さんが知っているんだろう。

「そんなの、オレが魔術師だからに決まってるぜよ」

あっさりと。あまりにもあっさりと、土御門さんは言った。
缶コーヒーを傾けていた当麻の手が、ピタリと止まった。
信じられないって目で、土御門さんを見つめている。

「何だそりゃ?お前が魔術師?」
「おうよ」

素直に肯く土御門さん。

「学園都市に魔術師はいないって思ってたか?むしろ逆だろ。科学ってのは魔術の敵だぜい。だったら敵地に潜り込んでる工作員の一人や二人、いたっておかしくないだろうに。オレの他にも何人か混ざってそうだし」

でも、と当麻は口籠る。
本人の口からそう言われても、実感が湧かないみたい。

「そ、そうだ。お前は学園都市でカリキュラムを受けてんじゃねーか。確か能力者に魔術は使えないんだろ?」
「そうだぜい。敵地に潜るためとはいえ、おかげで陰陽博士として最上位の土御門さんも今じゃ魔術は打ち止めさ。おまけにハンパに身につけた能力は使えないしにゃー」

もうさんざん、とさして残念でもなさそうに笑い飛ばしてみせる土御門さん。
お前、と力なく呟く当麻。
そんなやり取りを見ながら、頭のどこかで二人の言葉を考える。


工作員。簡単に言えばスパイってこと。
あまりにも現実離れした言葉。まるで映画の話でもしているみたい。
けれど学園都市ならそういうのもあり得るかなって思える。
あの都市の闇を一端でも目にしてしまった今なら、そう思えてしまう。


でも何よ。能力者は魔術を使えないって。
何でアンタがそんなこと知ってるのよ!?ねえ、何で!?

「ま、こっちのことは置いとくとして。今は入れ替わりの方をどうにかしようぜい」
「どうにか?出来るんですか?」
「おうよ。まだ『御使堕し』が完成してない今ならにゃー」

まだ完成してない?
そんなこと、何で断言出来るんだろう?
仕組みも分からないって、さっき言ってたはずなのに。


私の疑問に気づいたのか、土御門さんはニッと笑って。

「まだ全てが入れ替わったワケじゃないだろ」
「全て?」
「そ。例えば」

そう言って、土御門さんはハーフパンツのポケットに手を突っ込む。
再び手が出てきた時、そこには一台のケータイが。

「これ。写真の中でも入れ替わりは起きてたかにゃー?」

そこまで言われて、ようやく気づく。
確かに写真の中は正常だった。入れ替わりは起きてなかった。
でも、それじゃ何?『御使堕し』が完成したら、写真の中も入れ替わっちゃうの?
私達の思い出すら、この魔術は歪めてしまうの?


記憶も、記録も。
過去も、現在も、未来も。
何もかも、めちゃくちゃになってしまうの?

「……させない」

思わず口にしていた。
そうだ。そんなこと、絶対にさせるもんか。

「『御使堕し』を止める方法は二つ」

神裂さんが話を引き継ぐ。

「一つは術者を倒すこと。もう一つは儀式場を崩すこと」
「儀式場?」

また聞き馴染みのない単語が出てきた。

「ええ。『御使堕し』は世界規模の魔術。魔術師単体で行使するには荷が重過ぎます。よって、結界なり魔法陣なりを使った儀式場を築いている可能性が高いのです」

正直、理解出来ないことは多い。でも、やるべきことは分かった。
要は犯人を見つけ出せばいいのだ。このふざけた魔術を止めるために。入れ替わったみんなを元に戻すために。

「で、これからどうするんです?犯人を特定する手がかりとか、ないんですか?」
「あー、それにゃー」

のんびりとした口調で、土御門さんは続ける。

「異変を調べた結果、どうにも歪みの中心にいるのって」

そこまで言うと、土御門さんは人差し指をビシッと当麻に突きつけた。

「え?俺?」
「推察一。貴方は『御使堕し』を引き起こした張本人である」

今の今まで沈黙を貫いていた人物が、唐突に話に割って入った。
レジャーシートから一歩離れた位置。残暑も厳しい八月下旬の炎天下の中、平然と立っている金髪の女の子。
神裂さんの話によると、この子の名前はミーシャ=クロイツェフ。
はるばるロシアからやって来た魔術師らしい。らしいんだけど、でも、とりあえず訊いてみたい。


その格好は趣味なの?


ワンピース型の下着みたいなインナー。
その上に羽織っているのは外套一枚、ただそれだけ。
百人が見たら百人全員が変質者だって思うわよ、それ。

「おいおい、何でそうなるんだよ?」
「解答一。貴方に入れ替わりは発生していない」
「はい!?ちょっと待てよ。んなこと言ったら土御門だって同じじゃねーか!」

確かにそうだ。
土御門さんだって外見に変化はない。
当麻と何ら変わらない。そう思った。

「ところがどっこい。オレの場合、完璧に『御使堕し(エンゼルフォール)』から逃れられたワケではないんだにゃー」

でも、ちょっと違った。

「入れ替わった人達から見れば、オレはヒトツイハジメに見えるらしいぜい」

ヒトツイハジメ?
ああ、最近テレビによく出てるアイドルか。
確か、漢字の“一”を三つ並べて『一一一(ひとついはじめ)』。
本名だったらすごいわね。弄られること間違いなしだ。

「全く、『御使堕し』も優しくないぜよ。こっちはテメエで結界まで張ったってのに」

……あれ?今の台詞、おかしくない?

「……ん?」

当麻も気づいたみたいだ。

「お前、魔術使えないんじゃなかったっけ?」

能力者に魔術は使えない。
ついさっき、当麻はそう言った。
土御門さんだって、その事実を認めた。
なのに、土御門さんは魔術を使った?魔術を、使えた?

「ああ、だから見えない所はボロボロだぜい。もっかい魔術使ったら確実に死ぬわな」

土御門さんのアロハシャツの前が、風になぶられた。
ぶわりと広がったシャツの中。左の脇腹全体を覆い尽くすように、青黒い痣が広がっていた。
それはまるで、得体の知れないモノに身体を侵食されているように見えた。

「ちなみに、結界張るのに使ったのがコレ」

そう言って、土御門さんが手を差し出してきた。
土御門さんが手を引っ込めると、当麻の掌にフィルムケースが一つ現れた。中には小さな折り鶴が入っている。

「ただの折り鶴、じゃねえのか?」
「モチのロンだにゃー。よーく見てみな。中身取り出してもらっても構わんぜい」

じゃあ遠慮なく、と蓋を開ける当麻。
ケースを傾け、折り鶴を右手で受け止めようとした。
でも、掌の中で、それは音もなく崩れ去った。

「どうだ」

唇の端を小さく上げる土御門さん。

「これで満足だろ?」

土御門さんの言葉に、ミーシャは小さく肯いた。

「正答。イギリス清教の見解と今の実験結果には符合するものがある。この解を容疑撤回の証明手段として認める」

そうか。あの折り鶴は当麻の能力をミーシャに見せるための道具だったんだ。
当麻の右手に宿る能力。あらゆる異常を触れるだけで打ち消してしまう、ある意味最強の能力を。

「少年、誤った解のために刃を向けたことをここに謝罪する」

いや、謝るんなら当麻の目を見なさいよ。
実はちっとも反省なんかしてないでしょ、アンタ。
でも、ま、いいか。当麻の身の潔白は証明されたんだし。
これで心置きなく犯人探しが出来るってワケだ。
よし、ここらで少し状況を整理してみよう。


『御使堕し』という世界規模の魔術が、当麻を中心に展開されている。
この魔術の影響下では一部の例外を除き、あらゆる人間の中身と外見が入れ替わる。ただし、術者本人に効果が及ぶことはない。


つまり、だ。当麻の近くにいて、尚且つ入れ替わってない人物が怪しいと……って、あれ?
当てはまる人物に、めちゃくちゃ心当たりがあるんですけど。

「問二。では」

ジロリと眼球だけを動かして、ミーシャが私を見た。

「貴女が術者か」

やっぱ矛先、こっちに来たああああっ!

「違う違う!私、魔術のマの字も知らないし!」

首をブンブン振って否定する。
ここで黙っていたらマズイ。冤罪を押しつけられてしまう。

「問三。それを証明する手段はあるか」

始めから予期していたかのように重ねられる質問。
その場凌ぎの嘘で難を逃れようとしている。そういう風に思っているんだろう。
にしても、困った。証明する手段?そんなの、あるワケないじゃない。
私自身、何で助かったのか分かってないのに。
電磁場で魔術を打ち消すなんて、さすがに出来ないだろうし。

「昨夜のことを正確に思い出してみて下さい」

思わぬ所から助け舟が出た。
神裂さんが私のことをじっと見ていた。
ひどく真っ直ぐな眼差しだった。

「『御使堕し』が発動したのは昨日深夜。その時、貴女は何をしていましたか?」

昨日の夜。そう言われて、不意に思い出してしまった。
当麻と同じ部屋で過ごした、あの夜を。
ヤバイ、顔が熱くなってきた。


当麻の大きな手。温かい手。
握った時の感触。逞しさ。
いつでも呼んでやるよ、という声。


「美琴、顔が赤いぞ。暑いのか?」
「あ、いや、別に暑くは……い、いや、そうかな……暑いかな」
「もう一本飲むか?」
「そ、そうしよっかな……は、ははは……」

慌てて立ち上がり、そして、

「あ」

唐突に気づいた。

「私、ずっと当麻と手を繋いでた」

単純な話だった。
私はまたもや当麻に助けられていたのだ。
当麻の右手にずっと触れていたから、『御使堕し』の影響を受けなかったんだ。

「ほほう」

不吉な声が聞こえた。

「なるほどなるほど」

土御門さんだった。
笑っている。ニヤニヤと、楽しそうに笑っている。

「なあなあヒメっちー」
「な、何ですか」

ニヤニヤ笑いを微塵も隠そうとせず、土御門さんは一言。

「夕べは二人、お盛んだったワケですかにゃー?」
「んなワケあるかああああっ!」

静かな砂浜に、私の声はよく響いた。











[20924] 第7話 御使堕し編⑤
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/12 02:13
時間って残酷だ。待ってほしい時に限って、ひどく早く流れていく。
こうして立ち止まっている間にも、『御使堕し(エンゼルフォール)』は完成に近づいているかもしれない。
ひょっとしたら、もう後戻り出来ない所まで来ているかもしれない。
なのに何も分からない。真犯人はおろか、手がかりの一つすら掴めていない。


ポケットからケータイを取り出し、時間を確認する。
午後八時。ちょっと遅めの夕食を求めて、海の家『わだつみ』の宿泊客が全員、居間に集まっていた。
客、と言っても私を除けば上条一家しかいないんだけど。メンツのほとんどは中身と外見の入れ替わった、ヘンテコメンバーだけど。
このヘンテコなメンツに、神裂さんは当麻の友達としてごく自然にテーブルに就いていた。
騒ぎの中心にいる以上、術者が当麻に接触を図る可能性は捨てきれない。だったら身辺警護も兼ねて、私達の側にいた方が良いと判断したらしい。


はあ、と溜め息。
まただ。また守られてる。
どんなに格好をつけても、今の私は役立たずの子供に過ぎない。
超能力者は何でも出来るなんて、とんでもない間違いだ。

「はあ……」

溜め息ばかりが洩れる。
自分がこんなに無力だなんて、考えもしなかった。
そりゃあ、強いだなんて思ったことはないよ。一度もない。
私、元々は単なる低能力者だったんだから。
超能力と呼ばれる力を掴んだあとだって、色んな人に助けられてきたんだから。
私はちっとも強くない。そんなこと、分かりたくないくらい、分かってる。
でも何も出来ない自分を突きつけられるっていうのは……楽しくない。ああ、ちっとも楽しくない。

「はあ……」

それにしても、空気が重い。
とっとと晩ご飯を食べたいんだけど、何故か店員さんの姿が見当たらない。
テレビを点けても、火野神作とかいう死刑囚が脱獄したまま発見されないという陰鬱なニュースが流されるだけなので、話題作りにもならない。
こんな時、土御門さんがいてくれたら良くも悪くも場を盛り上げてくれるのに。
でも、この場に土御門さんはいない。世間的には、とある人気アイドルに見えてしまうからだ。
同じような理由からだろうか、ミーシャの姿もここにはない。


ふと、思った。入れ替わった人達には、神裂さんやミーシャの姿はどう映っているんだろう?


と、当麻のお母さんと入れ替わっているインデックスが神裂さんに訊ねた。

「あらあら、それにしても見事なまでに真っ青ね」
「え?」
「大丈夫?髪の毛傷まない?」
「あ、いや、はい。お気遣いなく」

曖昧なことを言って、ぺこぺこと頭を下げる神裂さん。どうにも妙な雰囲気だった。


神裂さん、どうしたんだろう?
どうしてインデックスと視線を合わせないんだろう?
あと、何で訂正しないんだろう?
真っ青な髪、なんて。どこをどう間違えれば、あの綺麗な黒髪が青く見えるんだろう?

「あらあら、物腰も丁寧で。大柄でがっしりした人だから、おばさん最初はもっと違うイメージを抱いていたのだけど」

大柄で、がっしり?
神裂さんってモデルみたいに背が高いけど、でも“がっしり”って?
疑問に思っていると、今度は当麻の従妹役をしている黒子が、

「けど、その言葉遣いはちょっとね。それじゃ女言葉っぽいよ。そんな良いガタイしてるなら、少しずつでも男言葉に直していかないと。仕草もちょっとだけ女っぽいよ?」

あ、そうか。入れ替わった人達には、神裂さんは男に見えるんだ。
それも、大柄でがっしりした、青髪の大男に。
なるほどねー、なんて一人で納得している場合じゃない。
チラリと隣を見る。神裂さんの肩が震えている。

「ちょっとだけって」

とか呟きながら、身体のあちこちを震わせている。
ヤバイ、話を逸らさなきゃ。でも、それより先に当麻のお父さんが、

「こらこら、やめないか二人とも。言葉なんてものはニュアンスさえ伝わればそれでいいんだ。おそらく彼は身内に女性しかいない環境で育ったからこうなっただけだろう。見た目がどうだろうがそんなものは関係ない」

険しい顔になる神裂さん。このままじゃマズイ。

「神裂さん!」

立ち上がって、私は言った。

「行きましょう!」
「は?行くってどこへ?」
「いいから、ほら!」

私は神裂さんの手を取って歩き出した。

「し、しかし食事がまだ」
「いいから!」

強引な私に、神裂さんは少し戸惑っているみたいだった。
さっきまでの迫力は微塵もない。慌てふためくその姿を、可愛いなんて思ってしまったくらい。


それにしてもホント、どこに行こう?
連れ出すことしか頭になかったから、行き先なんて決めてないんだよね。
せっかくだし、神裂さんとゆっくり話でもしてみたいところだけど。さてさて、どうしたものか。












手を掴まれ、引っ張られる。
御坂美琴がどんどん歩いていくので、コケそうになる。

「ちょっ、痛いですって!何するんです!?」
「いいから!」
「分かりました!分かりましたからせめて手を!手を離して下さい!」
「いいから!」

ぎゃあぎゃあ喚いている間に、店の奥に着いていた。
そこには曇りガラスの引き戸があった。入浴室だった。
そう言えば、トラブル続きでロクに湯浴みもしていませんでしたね。

「付き合って下さい」

言って、彼女はTシャツを脱いだ。

「ほら、神裂さんも」
「何で私も風呂に入らなければいけないのですか」
「ノリですよ、ノリ」

あはは、と笑って、彼女はさっさと脱衣所から風呂場へと入っていった。


ううむ、一体何を考えているんでしょう。
理解に苦しみます。土御門以上に意味不明です。
さっさと居間に戻ろうかとも思ったが、どういうワケかそんな気にもなれなかった。
まあ、いいでしょう。風呂に罪はありません。
それに、なんだかすっきりしない気分ですし。こんな時は風呂もいいかもしれません。


私は服を脱ぎ、風呂場に入った。
ムッと湯気が押し寄せてくる。
御坂美琴はすでに湯船に肩まで浸かっていた。
お湯で身体を流し、私もまた湯船に身を沈める。

「熱いですね、この風呂」
「そうですね」
「私はもうちょい温い方が好きなんですけど」
「私は熱い方が好みなので、丁度いいですね」

何て下らないことを話しているんだろう、私達は。
そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか、彼女が黙ってしまった。私ももちろん黙っていた。
湯気がもうもうと湯船から上がっている。斜め前に顔だけ浮かべた御坂美琴がいた。沈黙は一分ほど続いた。

「この間、インデックスにご飯を作ってあげたんですけど」

話しかけてきたのは、彼女の方だった。

「あの子に?」
「ええ、壮絶でしたよ。あの子の胃袋、底無しで」
「ないですよ、底なんて。それに物凄く丈夫です。前なんて消費期限が軽く一ヶ月は過ぎてしまったショートケーキを一ホール、平然と食べていたことがありまして」
「平気だったんですか、インデックス」
「本人曰く、ちょっと酸っぱかったそうです」
「鉄の胃袋ですね」
「ええ、正に鉄です」

私達は声を揃えて笑った。
あの子のことなら、いくらでも話すことが出来た。
おっちょこちょいなところとか、意外と優しいこととか、だけど怒らせると怖いこととか。
この世にもっと、あの子みたいな人間がいればいいのにと思った。
だったら私だって、いくらでもこうして笑いながら話せるかもしれない。

「ところで、どうして目を合わせなかったんですか」
「え?」
「インデックスと」
「いえ、大したことではないんです」

彼女から視線を逸らし、顔を上げる。
視線の先には何もいない。ただ湯気が舞っているだけ。
だけど、私は確かに見ていた。あの子の笑顔を。穢れを何一つとして知らない、無邪気な微笑みを。

「本当に、大したことではないんです」

御坂美琴に答えるというより、むしろ自分自身に言い聞かせる声。


彼女は顔を洗い、言った。

「そうですか」
「ええ」

再び沈黙。
少しのぼせてきた。
ふう、という息が洩れた。

「ただ、償ってみたいんです」
「償う?」
「ええ」

私と関わったせいで、その人生を狂わされてしまった全ての人に。

「人はその人生において何度も過ちを犯し、大切なものを失う」

例えば、慕ってくれた仲間の命。
例えば、その小さな身体に重過ぎる宿命を背負った少女の記憶。

「そのいくつかは取り戻せますが、やはり取り返せないものも多くある」

私が未熟なために。そう、全ては私のせいで。

「私はそうした過ちをただ精一杯、償ってみたいんです」

いつもの私なら、こんなことを人に打ち明けたりなんてしないだろう。
だけど今は、風呂の湯気のせいか、他の何かのせいか。
あるいは、出会って間もない彼女にさえもすがりたいくらいヘコんでいるのか。
よく分からないけど、すらすらと言葉が出てきた。

「……ごめんなさい」

しばらくして、彼女は言った。

「貴女が謝ることではありません」
「そうですけど、でも、ごめんなさい」

辛そうに、本当に辛そうに言った。

「思い出させてしまってごめんなさい」


ああ、彼女はいい子だ。


今の私相手では、慰めの言葉さえ嘘になってしまう。
人の同情は嫌いだ。でも、人の同情をつっぱねる自分はもっと嫌いだ。
彼女は私に、そんなイヤな気分をさせたくないのだ。


私達はそれからあまり喋らず、さっさと髪と身体を洗って、風呂を出た。
廊下に出た時には、二人ともほかほかと湯気を立てていた。

「神裂さん」
「何ですか」
「失ったら、ホントに取り返せないんでしょうか?」
「え?」
「どんな過ちも、きっと何かの形で取り返せる。私はそう信じています。だって」

彼女がこちらを向く。私を正面から見据える。そして、

「そうじゃなきゃ、悲し過ぎますから」

笑った。とびっきりの笑顔だった。

「……そうですね」

気がつくと、私も笑っていた。

「そうかもしれません」

呼吸するみたいに、あまりにも自然に、笑っていた。











[20924] 第8話 御使堕し編⑥
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/12 02:16
「ふあああああ~」

長い長い欠伸が洩れる。
私は今、海の家の二階にあるベランダに立っていた。
火照った身体に、風が心地良い。
うだるような昼間の暑さも、今はない。ひっそりと静まり返った夜。
見上げると、そこには半分の月があった。ひどく明るく輝いている。
星も輝いている。深く重い闇を湛えた空に、たくさんの星が誇らしげに輝いている。
綺麗だ。学園都市の夜空とは全然違う。
出来れば当麻と一緒に、二人っきりで見たかったなあ。
でも残念ながら、ここにいるのは私だけ。

『たまには男同士の友情も深めないとにゃー』

なんて自称スパイの一方的な意見の元に、当麻はどこかに連れ去られてしまったのだ。


むう、と唸る。
あの人、ホントに何なんだろう。
私達の仲を応援してくれてるのか、それとも面白がってるのか。
両方、かな。きっとそうだ。
神裂さんの姿も見当たらない。
ミーシャと一緒に、真犯人の捜索でもしているのかもしれない。


それにしても、だ。
これからどう動いたらいいんだろう。
神裂さんが言うには、天使の力は一瞬で世界を焼き尽くすほどの代物らしい。
でも、それはやっぱり魔術であって。魔術師でない人間には、使い道が分からないワケであって。
うーん、いくら当麻を中心にして歪みが起きてるって言われてもなあ。
今いるメンツの中で容疑者として浮かび上がりそうな人って、誰もいないんじゃないかな。
みんながみんな、入れ替わってるワケだし。


――後になって悔やむ。この時、この瞬間にソレを疑っていれば、あんなことにはならなかったかもしれないのに――


何か、私に出来ることってないのかな。
当麻には、全ての異常を打ち消す右手がある。
土御門さんに神裂さん、それとミーシャには魔術の心得がある。
でも、じゃあ、私は?
『御使堕し(エンゼルフォール)』を止めるために、私に出来ることって何だろう?


ああ、そう言えばアイツに確かめるの忘れてたな。
能力者に魔術は使えないなんて、どうして知ってるのかって。
勢いで学園都市の外までついてきちゃうくせに、たったそれだけのことが訊けないとか。どうなのよ、これ。
そんなことを考えながら、ぼんやりと夜空を眺めていると、


ブツン、と。


いきなり全ての電気が消えた。












まあ、こんなものか。
月明かりのせいで真っ暗闇というほどにはならなかった。
だが、これでいい。充分だ。
愛用のナイフを舐め、ニヤリと笑う。
この闇がある限り、私が負けることはない。
この視界では、あの少女は何も見えないだろう。
でも私は違う。暗闇での戦いは得意分野だ。
大丈夫、闇は……そしてエンゼル様は私の味方だ。


左手に持った木の板に目をやる。ニヘラ、と笑う。
ノートぐらいの大きさをした板には、文字がびっしりと刻まれている。
これこそが私の救世主。何でも知ってるエンゼル様からのメッセージ。
刻まれる文字に、私はいつでも従って生きてきた。
エンゼル様はいつでも正しい。エンゼル様の言うことを聞いていれば何も間違えない。
たまにやりたくないことを命令してくる時もあるけれど。
そのせいで二十八人も殺してしまったし。


土足のまま、建物の中に入る。
思った以上に単純な作りだった。
廊下の突き当たりにあった階段から、あっさりと。
そう、拍子抜けするほどあっさりと、少女がいるベランダの入口まで到達する。
別の部屋から女性の驚き喚く声が聞こえるが、関係ない。
奴らが平静を取り戻す前に、全て終わるのだから。


悪く思うなよ、と名も知らぬ少女の背中に心の中で呟く。
人を殺すなんて嫌なんだ。本当だ。でも、仕方ないんだ。エンゼル様がそう言うんだから。
生贄を捧げれば、今回も私を助けてくれるって。警察の目を逃れて、無事に仲間の元へ辿り着かせてくれるって。
私のせいではないんだ。ああでも、やっぱり可哀想だな。


だから、だからさ。


少女の背後に音もなく忍び寄る。停電騒ぎのおかげで楽勝だった。
少女はぼーっと夜空を見上げていた。下で見た時と全く同じ体勢のまま。
後ろから突き刺すには、実に都合の良い姿勢。


せめて何も見えないまま、何も分からないまま死んでくれ。


ナイフを頭上にまで振り上げ、落とす。
深々と、突き刺さる。すぐさま、ナイフを引き抜く。
勝敗は決しているというのに、それでも私は体勢を立て直そうとする。


なぜなら、

「往生際が悪いわね」

ナイフは少女をかすりもせず、板張りの床に突き刺さったのだから。

「な、何で……!?」

呪うように叫ぶ。
何で、何で分かったんだ?
どうしてナイフをかわせたんだ?
少女は瞬間移動をしたワケではない。
取り立てて派手な動きをしたのでもない。
身体を少し捻っただけ。たったそれだけの動作で、私の渾身の一撃を避けた。
それも、ずっと私に背を向けていたにも関わらず。


少女の右足が走る。
そう、勝敗は既に決していたのだ。

「ちぇいさあっ!」

自らの身体を回転させて勢いをつけた少女の蹴りが、無防備である私の腹部を直撃した。
情け容赦のない一撃に、私の意識は瞬く間に遠のいていった。












ふう、危ない危ない。
ただの停電じゃなさそうだったから、多少の用心はしていた。
けどまさか、襲われるなんて思ってもみなかった。
でも残念。私に奇襲は通用しない。
私の身体からは常に電磁波が出ている。
妙な動きがあったら反射波で察知できるから、死角とか関係ないのよね。


ナイフを握ったまま倒れ伏す黒い影を見下ろす。
あれだけモロに決まったのだ。一応手加減はしておいたけど、しばらくは動けないはず。


そう思った矢先、

「ぎビっ、ガあ!!」

獣のような声を上げて、黒い影がいきなり起き上がった。


その影は痩せぎすの中年男の姿をしていた。
一目で内臓がボロボロだと分かるような、不健康な肌。
汗と泥によって汚れたベージュの作業服。
そして、血走ったような、泥の腐ったような、狂ったような眼球。
とてもじゃないけど、人間の目とは思えない。


何だろう、気持ち悪い。
不思議な居心地の悪さを感じる。
中年男は鉄の爪のような三日月ナイフを構え、でも襲いかかってこない。
ふらり、ふらりと。上半身を揺らしながら、何かをブツブツと呟いている。

「エンゼルさま、えんぜるサマ……」

作業服の胸の辺りで、何かがキラキラと光っている。
月明かりを受けて輝くそれは、名札だった。

「エンゼル様、エンゼル様、エンゼル様!」

糸で縫い止められたプラスチックの名札。
そこには無機質な文字で、こう書いてあった。


囚人番号七―〇六八七


「エンゼル様、どうなってんですか。エンゼル様、貴方に従ってりゃあ間違いはないはずなのに!どうなってんだよエンゼル様、アンタを信じて二十八人も捧げたのに!」

壊れてたように、狂ったように、終わったように、絶叫を続ける囚人服の男。


あれ、コイツ……


今朝から飽きもせずに流れ続けていたニュースの内容を思い出す。
刑務所を脱獄した死刑囚、火野神作。二十八もの命を無差別に刈り取った殺人鬼。
そのあまりに衝撃的な殺人を犯したが故に、捕まったあとも凶悪な事件が起きるたびに名前や顔写真が公開されるほど。


そう、私は火野神作の顔を知っている。
そして目の前で絶叫する男は間違いなく、私の知っている火野神作だ。
だからこそ、おかしい。どうして火野は入れ替わってないの?
『御使堕し』のせいで、誰もが入れ替わってなきゃおかしいのに。
火野がさっきから口にしているエンゼル様って何?
『御使堕し』って、何を手に入れるための術式だったっけ。


コイツ、まさか……


とある解答が頭の中で弾き出されそうになる寸前、

「答えろよエンゼル様!どうすればいい、このあとどうすればいい!?エンゼル様、責任取って今度こそきちんと答えやがれええええええっ!」

思わず目を背けそうになった。
火野が自分の胸にナイフを突き立てたのだ。
ガリガリと。ナイフの切っ先が乱暴に動かされる。
めちゃくちゃに振るわれたナイフは作業服を引き裂き、汗にまみれたシャツを切り裂き。
火野の身体は、あっと言う間に血に染まっていく。


その奇行に、感じ始める。
ああ、まただ。あの不思議な居心地の悪さをまた、感じる。
これは?この感情は、何?


火野の身体は血まみれの傷だらけ。なのに、火野は笑っている。
ニヤニヤと。自身で作った無数の傷を見て、壮絶な笑みを浮かべている。
ここに来て、私はようやく今まで抱いていた居心地の悪さの正体が分かった。


これは、恐怖。


もちろん、これまでだって恐怖を感じてなかったワケじゃない。
ただ、それがあまりにも異質だったから。
『一方通行(アクセラレータ)』を前にした時に感じたソレとは形が違っていたから、上手く把握できなかっただけ。


火野は一歩下がると、革布を取り出して血に塗れた刃を拭き始めた。

「え?」

予想だにしていなかった行動に、私は息を呑んだ。
その隙をついて、火野はナイフをこちらに向かって投げつけた。
恐怖を理解した私は、反応が遅れてしまった。
それでも眼前に迫り来るナイフを、とっさに首を振って回避する。
ナイフは私の頬を浅く切り裂いた。ただ、それだけ。なのに。


あ、あれ?


おかしい。頭がクラクラする。
物凄い疲労感が身体の奥底の方から湧き上がってきた。


しまった。これ……毒、だ。


火野は革布で血を拭ってたんじゃない。
ナイフの刃に毒を塗ってたんだ。


膝が崩れるのを感じた。
視界がぼやける。
火野が笑う。
その声がだんだん遠くなっていく。
私に分かったのはそこまでだった。


ぷっつりと、意識が切れた。











[20924] 第9話 御使堕し編⑦
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/12 03:05
身体がだるい。頭が熱い。
そりゃもう、ひどいもんだった。
起きているのか眠っているのかも分からない。
いや、眠ってるんだろうな。だって、目の前で母さんが笑ってるんだもん。
缶ビールを片手に、ゲラゲラと。全くもう、すっかり出来上がっちゃってるし。まあ、いつものことか。


妹達も出てきた。振り回されっぱなしだった。
黒子も出てきた。お小言を頂戴した。
それからも、色んな人達が現れては消えた。


全く、熱ってヤツはたまらない。
人の心の中に眠っている色んな思いやら記憶やらを勝手に引っ張り出してくるんだから。
そのうち何もかもが闇に包まれ、意識が遠ざかり、歪み、消え、生まれ……やがて、別の夢へと移り変わっていった。












当麻が、いた。
昨日、私達が一緒に泊まった部屋に。
布団で横になっている私のすぐ傍で、胡坐をかいている。


そう、そんな夢だ。


私は当麻の顔をじっと見つめた。
どうせ夢なんだから、見ておかなきゃ損だと思った。
何しろ当麻は人に顔をジロジロ見られるのが嫌いで、五秒も見つめていると必ず目を逸らしてしまう。
もっとゆっくり見せてくれてもいいのに。減るもんじゃあるまいし。ホント当麻はケチだ。
夢の中の当麻は、さすが夢だけあって、目を逸らしたりしなかった。同じように、じっと私を見つめていた。
辛い時、コイツの言葉で何度も癒された。コイツの優しさに助けてもらった。


当麻……


私は想った。
目の前にいる、大切な人のことを。
当麻の強さを。当麻の優しさを。
どうしてだろう。当麻のことが物凄く近くに感じられた。誰よりも、ずっと。


ねえ、当麻、と私は言った。

「ごめんね、一緒に海に行けなくて。せっかく水着も持ってきたのに……そうだ、この事件が解決したら、もっと遠くの海へ行かない?沖縄とかさ。すっごく透明な波が、ざぱーんざぱーんって打ち寄せてくるんだ。テレビでしか見たことないんだけど、ホントに綺麗なんだよ。当麻は行ったことある?」
「ねえよ」

当麻が答えた。
ああ、本当にリアルな夢だ。
こんなにちゃんと答えてくれるなんて。


調子に乗って、私は続けた。

「じゃあ、一緒に行こうよ。そうだ、沖縄じゃなくて、イギリスもいいかも。私の父さん、ロンドンに単身赴任してるんだ。結構広い部屋に住んでるって言ってたから、頼めば泊めてくれるかもしれないよ。だったらいいよねえ。宿泊代は浮かせられるし、久し振りに父さんに会えるし。時間が合えば、父さんにあちこち案内してもらうことだって――」

急に息が苦しくなった。
胸の奥から空気が噴き出してきて、私は咳き込んだ。止まらない。
息が出来なくなり、私は身体をくの字に曲げた。と、当麻が背中を擦ってくれた。

「大丈夫か?」
「う、うん」

当麻がこんなに優しくしてくれるんなら、いつだって私は大丈夫だよ。
それにしても、何ていい夢なんだろう。
目覚めるのが怖くなってきた。


ようやく咳が治まると、当麻は私のおでこに手を置いた。

「熱いな」

そのまま、頭を撫でてくれた。
目覚めるのが怖くて、私は喋るのをやめ、当麻の顔をただ見つめていた。
当麻はひどく優しい顔をしていた。その目は少し潤み、唇の端に笑みが浮かんでいる。
そんな当麻の顔を見ているだけで、何故か泣きたくなってきた。

「なあ、美琴」

当麻の方から話しかけてきた。

「何か欲しいものあるか?」

ううん、と首を横に振る。

「何も要らない。傍にいて」

正直な気持ちを、何の臆面もなく伝えた。
恥ずかしがる必要なんてない。
だってこれは、夢なんだから。

「分かった」

当麻は肯いた。

「お前の気が済むまで、ずっといてやる」

ああ、なんていい夢なんだろう。
最高だ。こんな夢なら、いつだって見ていたいな。


だんだんと、意識が薄れていった。
いくら夢の中とはいえ、喋り過ぎて疲れたのかもしれない。
世界がうすぼけていく。当麻の顔がうすぼけていく。


ねえ、当麻……


もう声にならない声で話しかける。


アンタ、何で泣きそうな顔してるの?


「ゆっくり休め」

泣きそうな顔をした当麻が、やけに優しい声で言った。

「ごめん、美琴」

どうして?どうして謝るの?
当麻はなんにも悪くないのに。
私はこんなに、幸せなのに。


そう思いながら、私は目を閉じた。












『二人だけにしてくれないか』

その一言で部屋を追い出されてから、もうすぐ一時間。上条当麻はまだ出てこない。


私は手元にある木の板に目をやった。
御坂美琴が倒れていた部屋に落ちていたものだ。
ノートぐらいの大きさの薄い板の表面は、釘のようなものでボロボロに傷つけられている。傷のない部分がないぐらいだ。
どうもアルファベットが刻んであるようだが、何度も上書きされているせいで内容は読み取れない。


これは神託か自動書記の類でしょうか。となれば、御坂美琴を襲った人物は我々と同種ということになるのですが。


ふう、と息を吐く。
今回における一連の騒動は魔術師が起こしたもの。
よって、責任は同じ魔術師である我々が取らねばならない。
なのに、何故?どうして魔術師でもない彼女が傷つかねばならない?
あの優しい少女が狙われる理由がどこにあった?


木の板を睨みつけ、私は誓った。
『御使堕し(エンゼルフォール)』に関わっているかどうかなんて関係ない。
彼女を傷つけた責任、しっかりと取ってもらいますよ。


やがて、ドアが開いた。

「上条当麻」

出てきた人影に、私は駆け寄った。
ん、と上条当麻は言う。

「何だ、まだいたのか」
「え、ええ」

追い出されてから二時間、私はずっと待っていた。

「あの子は?」
「ああ、もう大丈夫だ」
「そうですか」

ほっとした。膝から力が抜けた。

「良かった」
「ほら、行こうぜ」
「あ、はい」

どんどん進む上条当麻のあとをついていく。
どういうワケか、彼は早足だった。

「なあ、神裂」
「何ですか」

一秒だけ、目が合った。

「あのさ」
「はい?」
「……何でもない」

おかしい。この少年がここまで素っ気ない態度を取るなんて。

「上条当麻」

思わず声が出ていた。

「何だよ」

一秒だけ、目が合った。

「えっと、その」
「うん?」
「……何でもないです」

言葉がこんなに使いづらいものだったなんて、初めて知った。
胸の中に渦巻く気持ちを、欠片だって表現できない。
それから私達はもう口を開くことなく、ただ廊下を歩いた。
言いたいことや訊ねたいことはたくさんあるはずなのに、結局どれも言葉にならなかった。


玄関の前で、上条当麻は立ち止まった。

「ちょっと風に当たってくる」

靴を履き、海の家から出ていってしまった。


やっぱりおかしい。
どうして彼は、あんなにも冷めているのだろう?
現場にいち早く駆けつけたのは、確かに彼だ。
あの子の容体に気づき、適切な処置を施したのだって彼だ。
しかし先刻からの、あの態度はどういうつもりなのだ。


あの子をあんな目に遭わせた人物に対して、貴方は何の感情も抱かないのですか?
あの子は……御坂美琴は貴方にとって、その程度の存在でしかないのですか?


「どうして……」
「そんなに落ち着いているのですかって?」

突然の声。振り向くと、そこに土御門が立っていた。
ハーフパンツのポケットに両手を突っ込み、壁にもたれかかっている。


ムッとして、私は言った。

「何か用ですか」
「いんや、別に」

ただ、と土御門は付け加える。
土御門は笑っていた。普段の彼らしからぬ、悲しそうな顔で。

「マジでそう見えるんなら、ねーちんの目は節穴だぜい」

そして土御門は歩き出すと、私の脇を抜けていった。












夜が更け、星が空を東から西へと動いていき、風が吹き始め……俺はずっと砂浜に座りこんで海を眺めていた。

「ちくしょう……」

守れなかった。
こんな近くにいたのに。
自らの愚かさに、頭の芯が熱くなった。


初めて出会ったのは、とある自販機の前だった。
二千円札を飲み込まれて途方に暮れていたところに、

『ちょろっと。ボケっと突っ立ってんじゃないわよ。買わないなら退く退く』

あの時は失敗したな。
で、何だコイツ、なんて返しちまって。
でも、しょうがないんだよな。
記憶を失った俺にとって、あの出会いこそが美琴との始まりだったんだから。


二つ年下で、お嬢様学校に通ってて、超能力者で、何故か俺をライバル視する女の子。
アイツはたった一人で全てを背負い込んでいた。
助けて、と叫びたいはずなのにずっと我慢していた。


どうしてかは分からない。ただ、助けよう、と思った。


今考えればバカな話だ。
学園都市最強の超能力者に無能力者が挑むなんて。
全てのベクトルを触れただけで操る『一方通行(アクセラレータ)』の前に、俺は成す術もなかった。
それでも俺は諦めなかった。どうしても諦めたくなかった。
泣きたくても泣けなかったアイツを救いたかった。


で、結局どうなったと思う?
なんと倒しちまったんだ。この俺が、あの『一方通行』を。
もちろん、その代償は大きかった。身体が全く動かせないほどの大怪我を負って、俺は入院生活を余儀なくされた。


そんな俺の前に、美琴は突然やって来て、

『ありがとう』

初めて、そう、初めて素直な感じで笑ってくれた。何よりそれが嬉しかった。


そして多分、この時からだったんだ。
この、自分の弱さを曝け出すことが出来ない女の子を、守りたいと。なのに、それなのに。
ちくしょう、どうして俺を襲わなかったんだ。不幸体質なのは美琴じゃなくて、この俺だろうが!


目が熱くなった。涙が溢れていた。
倒れている美琴を見つけた時、目の前が真っ白になった。
この世の全てが、終わってしまったような気がした。そして思い知らされた。
俺の一番は、アイツだってことを。俺はアイツが……御坂美琴が、好きなんだってことを。


たくさんの涙が、頬を流れ落ちていった。
拭うことさえも出来なかった。

「強くなりてえ」

誰にも聞こえないよう、思いっきり小さな声で俺は呟いた。


俺は強くなりたかった。誰よりも、何よりも。
美琴をどんな危機からでも守り抜けるくらい、強くなりたかった。











[20924] 第10話 御使堕し編⑧
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/18 01:06

ぱっ、と唐突に目が覚めた。
たっぷりと寝たせいか、眠りの余韻はほとんど残っていない。
むくり、と身体を起こしてみる。
すっかり慣れてしまった六畳一間の和室。
着ている服は昨夜のまま。右の頬には絆創膏。
どういう経緯か分からないけど、とりあえず助かったみたいだ。


壁に掛けられた時計の針は、五時頃を示している。
こんな時間でも、もう外は明るくなっている。
さすがは夏。太陽にも気合いが入っている。
でも起きるには、まだちょっと早いなあ。
どうしよう。もう一回寝ちゃおうかな。
そこで、ふと気づいた。

「……当麻?」

当麻がいない。
当麻の分の布団もない。
何だか、急に不安になった。
このまま布団に潜っている場合じゃない。


布団を勢いよく引き剥がし、部屋を出る。
一階に下りて、スニーカーを履き、海の家を後にする。海に向かって歩いていく。
夏とはいえ、早朝はさすがに涼しい。思わずくしゃみを一つ。
それから、ちょっとだけ悩む。さて、どこから探したものか。
しかし、その悩みは僅か数秒で解決することになる。
波打ち際。寄せては引く波の前で、探し人は砂浜に胡坐をかいていた。


夢の光景が、浮かんできた。

『お前の気が済むまで、ずっといてやる』

頭を撫でる、その手の温もり。

『ゆっくり休め』

急に顔が熱くなってきた。いくら夢とはいえ……というか、願望ってのが近いけど……とんでもない夢だった。


顔が更に熱くなる。
や、やめよう。引き返そう。
今当麻に会ったら、もっと熱が上がってしまう。
もうちょっと気持ちの整理がつくまで我慢。そう、我慢だ。
引き返そうとして身体の向きを変えた、その時だった。

「何してんだよ」

いきなり、そんな声が聞こえてきた。


ああ、後ろを振り向きたくない……


もちろん背中を向けたままでいられるワケもなく、私は慌てて振り向いていた。
むりやり笑みを浮かべて、言う。

「お、おはよう、当麻」

当麻がいた。もちろん。
立ち上がって、私を見ていた。

「そんな所でいつまで突っ立ってるんだよ」
「え?気づいてたの?」
「何かブツブツ言ってるのが聞こえたからな」

全く、と当麻が言った。

「めちゃくちゃ怪しかったぞ」


あれ?どうしたんだろう?


物凄い違和感があった。
いつもの当麻はこう、何ていうか、飄々とした感じなんだ。
なのに今、目の前にいる当麻は、妙に優しい顔つきをしていた。

「ご、ごめん」

戸惑ったまま、とりあえず謝る。
当麻は海の方を見た。

「ほら、こっち来いよ」
「う、うん」
「今朝は涼しいな」

とか言いながら、当麻は砂浜に腰を下ろした。
私はどうしていいか分からなくなってしまい、その場に立ち尽くした。


きょろきょろと、辺りを見回す。
誰もいない。正真正銘、二人っきり。

「どうした?」
「う、ううん、別に」

私は慌てて、当麻の隣に腰を下ろした。

「当麻って、こんなに早起きだったっけ」
「ああ、今日はちょっとな」
「ちょっと?」
「気分転換だよ、気分転換」

やけに素っ気なく言う。
それから、じっと見つめてきた。
私は思わず息を呑んでいた。

「美琴」
「な、何?」
「熱、下がったか?」

額を触られる。
ん、と声が洩れる。

「まだ少し熱いな」
「う、うん」
「気分は?」
「悪くないよ」
「そっか」

それからしばらくの間、二人とも無言だった。
ただ黙って、寄せては返す波を見ていた。


チラチラと横を見る。
私の視線に気づくと、当麻は笑いかけてくれた。
その笑顔を見た瞬間、頭の中でモヤモヤしてたものがすうっと消えていった。


いつまでも、当麻の隣にいたい。
守られるだけじゃなくて、私も当麻を守りたい。そう思った。
もちろん、私に出来ることなんて、たかが知れているかもしれない。
大きな失敗だって、してしまうかもしれない。
それでも、私は当麻の傍にいたかった。
当麻のために何かしてあげたかった。


ねえ、当麻。
私の一番は、当麻なんだよ。
世界よりも、自分よりも、大事なんだよ。


もちろん、そんな言葉を口に出したりなんかしない。
心の中で、呪文のように唱えるだけ。
そう、言わない方がいいのだ。
こういうことは、そっと胸の奥にしまっておけばいい。
大体、恥ずかしくて言えるワケがないし。

「大丈夫。心配するな」

当麻がいきなりそう言ったので、私はびっくりした。
もしかして、私、思ってることをそのままベラベラ喋ってた?
焦っていると、当麻が続けて言った。

「この辺にはもう、お前を襲った奴はいないってさ」
「あ、うん……」

ほっとした。
良かった、そっちの話か。
いや、待って。それはそれで良くないような。

「とりあえず今日はゆっくりしとけ。『御使堕し(エンゼルフォール)』は俺達で何とかするから。それに」

当麻が私の顔を見て、すごく恥ずかしそうに目を逸らした。

「一応傷口から毒は吸い出しておいたけど、それでもまだ万全ってワケじゃないだろ?」

傷口から毒を吸い出す。
その言葉を受けて、だんだんと顔が熱くなってきた。
だって、傷は頬につけられたワケで。
吸い出したってことは、つまり、私の頬に当麻の唇が触れ、触れ……!?


何も喋れなくなる。
何も考えられなくなる。
そんな私に、当麻は更に続ける。

「ったく、ホント焦ったんだぞ。毒を吸い出したあとも、しばらく熱でうなされてたし。お前に何かあったらイギリスにいる親父さんになんて言えばいいんだよ」

え?え?
何で父さんのこと、知ってるの?
父さんがイギリスにいるって、私、当麻に話したっけ?
熱を出している時?ってことは……
顔どころか、身体中が熱くなった。
あの夢は……夢だと思っていたものは、夢じゃなかったの?


額に置かれた、当麻の手の温もりが蘇ってくる。
あまりにもそれは優しくて、心地良くて。
あれは夢じゃなかったの?
いやいや、そんなバカな。
あれは夢だ。幻想だったんだ。


それにしても、熱い。
まあ、まだ少し熱が残ってるし、当然だ。
他の理由なんてない。絶対、ない。












「むう……」

目を細めて、神裂さんが唸っている。


火野神作は他の誰とも入れ替わっていない。
その事実を伝えてから、ずっとこんな調子だった。
ちなみに現在の時刻は午後十二時。お昼ジャスト。
上条家の一族は当麻を除き、例によって砂浜に飛び出していたりする。
海の家の二階。私と当麻が一緒に使っている客室。
世界の異変に気づいている五人が丸テーブルを囲むように、そこにいた。


本当は目を覚ましてすぐ、火野のことを神裂さん達に教えたかった。
だけど魔術師三人組は朝から『御使堕し』の術者の捜索をしていたらしくて。
結局、お昼まで時間が延び延びになってしまったのだった。


私は神裂さんの言葉を待った。
当麻も、土御門さんも、ミーシャも待った。
しかし神裂さんは腕を組んで唸るばかり。

「どうしたんですか?」
「いえ、ちょっと状況把握を……」
「犯人は火野で決まりじゃないんですか?」

ちょっと意外だった。
入れ替わりが起きていない。
それだけじゃ、決定的な証拠にならないんだろうか。

「まあ、入れ替わっていない時点で火野は限りなくクロに近いのですが」
「ですが?」
「彼が犯人なら、どうして窮地において天使の力を使わなかったのでしょう?」

言われて、昨夜の襲撃を思い出す。
火野の行動の一つ一つは、別に人間に不可能なことではなかった。
能力も魔術も一切関係なし。
やろうと思えば誰にだって出来る内容ばかりだった。

「昨日は気配すらなかったしにゃー」

わざとらしく肩をすくめてみせる土御門さん。

「もっとも天使クラスの魔力なんざ、そのまま放置しておきゃ、それだけで土地が歪んじまう。何らかの方法を使って隠蔽してることは間違いないんだろうけど」
「隠蔽って……そんな簡単に出来るんですか?」

訊いてみると、土御門さんはサングラスのフレームをいじくり回しながら、

「出来るさ。じゃなきゃ人類の歴史なんてとっくに終わってるぜい」

む、と思わず黙り込んでしまう。

科学が著しく発達した学園都市の中でも、聖書を読む機会くらいある。
確か旧約だったかな?天使に関して、こんな記述があった。
自分の正体を隠して人の町へ赴き、民家に上がって人と共に食事をしたって。
河で溺れた子供を助けた大天使の話もあった。


そして同時に記されていたものを、私は今でもよく覚えている。
学園都市のあらゆる最先端技術を用いても成し得ない奇跡の数々。
好きな時、好きな場所で、想い望んだだけで、この世界を壊せるほどの力。

「いいかヒメっち、力のある奴には責任がある。自分の力を完璧に制御するっていう責任が」

無言のまま、肯く。
確かにそうだと思う。
あっと、勘違いしないでね。
別に天使の存在を認めたワケじゃない。
天国とか地獄とか、やっぱり実感湧かないし。
でも、今の話は天使に限ったことじゃない。


聖書が後世に語り継ごうとしたもの。
それは魔術に関わる人達に限った話じゃ、決してない。
私達、能力者だって同じ。
力があれば偉いの?何をしても許されるの?
違う。そんなこと、あっていいはずがない。

「ところでヒメっち」
「何です?」

顔を上げて、びっくりする。
すぐ目の前に土御門さんの顔がある。

「ヒメっちは当然、大丈夫だよにゃー?」

至近距離で土御門さんが訊ねてくる。
ちょっ、近い。むちゃくちゃ近いですって。

「な、何がです?」
「能力。ちゃんと制御出来てるかにゃん?」

見下すような視線を投げかける土御門さん。
まあ、実際に見下してるんだけどね。
土御門さんの方が私よりずっと背が高いから。

「ちょびっとキレたくらいで能力使ったりしてないかにゃー?」
「え……」

マズイ。身に覚えがある。あり過ぎる。

「お子様呼ばわりされて電撃ぶっ放したりー」
「それは……」
「シカト続ける誰かさんの前で、電流帯びた拳をATMに叩きつけたりー」
「えっと……」
「雷落として街中の電気機器をお釈迦になんてしてませんかにゃー?」

何で?何でそこまで知ってるの?

「どうなのかにゃー?」

ジリジリと迫る土御門さん。
まるでキスする寸前みたいな感じだ。
そんな土御門さんの肩を、がっしり掴む人がいた。

「それぐらいにしとけよ」

ひどく低い声で、当麻は言った。

「へいへい。そろそろ本題に戻るとしますか」

言うなり、えらくあっさりと引き下がる土御門さん。


でも、私は見てしまった。
土御門さん、当麻の手を退かした時、ふふんって笑ってた。
確かにふふんって笑った。絶対笑った。

「とにもかくにも、まずは情報収集かなーっと。うりゃ」

と、土御門さんは客室の隅っこに置いてある古臭いテレビのスイッチを入れる。
意外なものでも映ったのか、


うん?


という顔を、土御門さんはした。

「どうかしましたか?」

神裂さんの問いには答えず、土御門さんは無言のままテレビのボリュームを上げた。

『――の続報が入りました。火野は神奈川県内の民家に逃げ込み、その周りを駆けつけた機動隊が包囲しているとのことですーっ!現場の……あ、繋がってる?現場の釘宮さーん』

瞬間、この場にいる全員がテレビに釘付けになった。


どこにでもあるような平凡な住宅街。
二階建ての建売住宅が並ぶ閑静な街は今、混乱の極みにあった。
野次馬。それを押し止める警察官。今から戦争でも始めようとしているかのような装備に身を包む機動隊。
画面を覆い尽くさんばかりの人、人、人。
警官や機動隊がおじいちゃんや幼稚園児に入れ替わっているのも含めて、節々に不安が募ってくる。
マイクを握っているのは、赤いランドセルを背負ったツインテールの女の子。
日の光を受けて、金色の髪が輝いている。

『えー、御覧のように我々報道を含めた民間人は火野神作が立てこもっているとされる民家の六百メートル手前で封鎖されています。周りにいる人々は避難勧告を受けた住民達のようです。関係者筋の情報によりますと、火野神作は民家の中に逃げ込み、カーテンや雨戸を閉めて中の様子を分からなくした上で立てこもっているとのことです』

チッ、と舌打ちの音。
土御門さんだった。目に見えてイラついている。
この人がこういった感情を表に出すところなんて、初めて見た。

『民家の中の様子は分かりません。人質の有無や火野神作の持つ凶器の種類なども判断できないことから、機動隊は強行突入を避けているようです……っと、あれは何でしょう?一台の乗用車が立ち入り禁止区域の中へと入っていきます。警察の交渉人か何かでしょうか――』

画面が切り替わる。
ヘリコプターを使った上空からの映像が映し出される。
赤い屋根の家にピントが合わせられる。
どうやらあそこが問題になっている立てこもり現場らしい。


しっかし、報道陣も何考えてんだか。
火野だってテレビを見てるかもしれないのに。
上空からの映像なんて流したら、機動隊員の配置を教えることになっちゃうじゃない。
今はズームにしてるから、まだいいけどさ。

「さてはて、困ったことになったぜい」

全く緊張感のない口調で、土御門さんは言った。
完全にいつもの調子に戻っている。ついさっき見せた、怒りの表情がまるで嘘みたい。

「『御使堕し』の実行犯かもしれない火野が警察の手に渡ると、我々としては困ったちゃんになっちゃうぜよ。出来れば警察に介入される前に火野を回収しちまいたい所だけど、どうしたもんかにゃー」

土御門、という声が部屋中に響いたのは、その時だった。


声の主は神裂さんだった。
目が吊り上がっていた。口は右端が歪んでいた。物凄い形相だった。

「今の台詞、仮に人質がいた場合どういう結果を招くか分かって言っているのですか!?」

土御門さんを睨みつける神裂さん。恐ろしい目だ。

「うにゃーん。それじゃ火野を回収するにしても人質を救出するにしても、とにもかくにも現場に行ってみないと」

それでも、土御門さんは何事もなかったかのように受け流した。
この人、ひょっとしたらとんでもない大物なのかも。

「それで、現場ってどこなんだか。神奈川県内、だけじゃあ結構広いぜよ」

と、この状況下で、もう一人の大物が片手を挙げてみせる。

「あのー」
「何ですか」

神裂さんの声は静かに怒り狂っていた。

「我々に同行したいという要望なら却下します」
「そうじゃなくて。さっきの映像で気になる点が一個あったんだけど」
「何か?」
「いや、でも。けど、あの。うん、見間違いかもしれねーし」
「即刻言いなさい」
「うーん。ウチの母さんの趣味がパラグライダーらしくてさ」

はい?パラグライダー?

「あーパラグライダーにも色々あって原動機付きだっけか?良く分かんねーけど、パラシュートのついたブランコみたいなのに腰かけて、でっかいプロペラ背負って空飛ぶヤツだよ、確か」

ふーん、そうなんだ。で、それって今必要な知識なの?

「で、俺が入院してた時にどこがいいのか全然分かんねー近所の上空写真を山盛りで送ってきたことがあるんだけどな」
「上空写真?それが」

どうしたのですか、と言いかけた神裂さんの口が止まった。
私もやっと、当麻の言いたいことが分かった。


ああ、と当麻は一度だけ肯いて、

「なーんかあの赤い屋根って見覚えある気がするんだよなー。ウチの上空写真で」











[20924] 第11話 御使堕し編⑨
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/09/26 22:00
「お待たせー」

後ろから声がした。
振り向く。当麻がそこに立っていた。

「随分長いトイレだったわね」

作戦会議が終わってすぐ、当麻はトイレに直行していた。
よっぽど我慢していたんだろう。ちょっとトイレ、とやけに早口で言って、慌てて部屋を出ていったのだ。
当麻の実家がどこにあるのか。それを知ってるのは、この中では当麻だけ。
よって残された私達は真っ昼間の太陽の下、待機を余儀なくされていたワケである。

「それで、貴方の実家というのはどこにあるのですか」
「ん、車での二十分くらいのとこ。タクシーでも呼んで向かった方が無難じゃねえかな」

ええ、と上がる不満の声。
発生源は私でも、神裂さんでも、もちろんミーシャでもなく、

「じゃ、タクシーやって来るまでどっか隠れてますかにゃー」

言うや否や、鮮やかな身のこなしで海の家から離れていく土御門さん。
まるで忍者だ。スパイっていう話も、あの動きなら肯ける。

「ったく。魔術師相手でもあんななのか、アイツ」
「ええ。アレはああいう生き物です。相手が誰だろうと関係ありません」
「ふーん」

つまらなそうに唸ると、当麻はズボンのポケットから板ガムを取り出した。そして、

「食う?」

と言って、それを差し出してきた。

「え、いいの?」
「ああ。俺は目覚まし用に一枚あれば充分だからな」

というワケで、私達はガムに手を伸ばした。
じゃあ遠慮なく、と私が一枚。
ありがとうございます、と神裂さんが一枚。
で、ミーシャはと言うと、板ガムの端っこを指で摘まんで取っている。
当麻の指に触らないよう、細心の注意を払っている。


何てことはない光景。
そう、そのはずなのに、何だろう。
妙に引っかかるものを感じる。


すっきりしない気分のまま、銀紙を外し、板ガムを口の中に放り込む。
一口噛んだだけで、酸味の効いたフルーティな香りが口いっぱいに広がる。
これはちょっと濃過ぎるかも。でもまあ、当麻が気を利かせて渡してくれたのだ。ありがたく頂くことにしよう。

「待ってな」

当麻がそう言ったのは多分、一分か二分……もしかすると三分くらい経った頃だったと思う。

「鍵、取ってくるからさ」
「え?鍵?」
「ウチの鍵。父さんから拝借してくる」

暑さに手で顔を扇ぎつつ、砂浜へと歩いていく後ろ姿をぼんやりと見送る。


無断で借りる気ね、あれは。
確証はないが、確信はあった。
まあ、しょうがないか。下手に事情を話しても、おじさん達を混乱させるだけだもんね。
ホント、しょうがない。タクシーは私が呼んであげよう。


ポケットに手を突っ込み、ケータイを取り出そうとする……と、誰かにTシャツの裾を引っ張られた。

「問一」

ミーシャが板ガムを突き出してくる。

「これは食物なのか」

どうやら板ガムという物を知らない模様。
ひょっとして、ロシアでは板ガムって売られてない?
いやいや、いくらなんでもそりゃないか。
ミーシャの周りにはなかったってだけよね、きっと。

「食べ物だけど飲み込んじゃいけない物よ」
「……?」

小首を傾げるミーシャ。うーん、説明しづらいなあ。

「とりあえず食べてみなよ」

ここはやっぱり、実際に体験してもらうのが一番だ。
私の勧めを受けて、ミーシャはモソモソと銀紙を剥がす。
出てきたガムに鼻を近づけてフンフンと匂いを嗅いだり、表面を舐めたりする。
思いっきり警戒している。が、やがてミーシャは板ガムを口に放り込んだ。
小さな口が咀嚼を繰り返す。

「私見一。うん、甘味はいいな。糖の類は長寿の元とも言うし、神の恵みを思い出す」

ミーシャの口元が、ほんの少し綻んだ。
良かった。気に入ってくれたみたいだ。
モグモグとガムを噛み続けるミーシャを前に、ホッと安堵の息を吐いた、その時、


ごっくん、と。


ミーシャの喉が動いた。

「あ」

ほとんど反射的に声が出た。

「問二。何だその反応は」
「いや、何で飲み込んだのかなーって」
「解答一。食べてみろ、と言ったのは貴女だ」
「飲み込んじゃダメとも言ったでしょ!」

ミーシャは小首を傾げ、分からないって顔をする。
何でだろう。言葉は通じてるのに、話がまるで噛み合わない。


私の心中なんてお構いなしに、ミーシャは歩き出す。
さも当然のように神裂さんの正面に立ち、小さな手を伸ばす。
その視線は神裂さんの持つ板ガムに真っ直ぐ注がれている。

「ひょっとして、コレも欲しいんですか?」

こくん、とミーシャの首が縦に振られる。

「まあ、別にいいですけど」

差し出されたガムを、今度は何の躊躇もなく受け取るミーシャ。
いそいそと銀紙を剥がし、口の中に放り込む。

「飲み込んじゃダメよ」

平然とした様子で、ミーシャがこちらを振り向いた。
突然声をかけられても、驚いた様子はない。
もぐもぐとガムを噛んでいる。

「すごく気に入ったみたいね、それ」

咀嚼を繰り返しながら、ミーシャが肯く。

「でも飲んじゃダメ。いい?ガムって、要は味の付いたゴムみたいな物なの。だから」

そこで、ごくんとミーシャが飲み込む。

「ねえ聞いてる!?人の話聞いてる!?」

きょとんとした顔で、ミーシャが首を傾げる。

「アンタって、どういう人生送ってきたのよ」
「解答二。神に仕えてきた」
「他には?」
「解答三。神に仕えてきた」
「……」
「解答三をもう一度。神に仕えて」
「聞こえてるから!他の言葉を待ってんのよ!」

しかしミーシャは無表情のまま、くるりと背を向け、歩き出した。

「ちょっと、どこ行くのよ」
「解答四。あの男の下へ。二枚では足りない」

振り向きも、立ち止まりもせずにミーシャは答える。

「私も行こうか?」
「解答五。必要ない。一人で行く」
「どうして?」
「私見二。貴女は面倒くさい」
「アンタに言われたくない!」

そんなやり取りの間にも、ミーシャはどんどん歩いていく。
海に向かうミーシャの背中が、あっと言う間に見えなくなる。
残ったのは私と神裂さんの二人だけ。
重苦しい空気が流れる。

「御坂美琴」
「はい」

肯き、先を促す。

「何度も言いますが、貴女がついてくる必要はどこにもないんですよ」
「何度も言いますが、私、やられっ放しって嫌いなんです」

間髪入れずに、私は返した。
そうですか、と神裂さんが肯く。

「決意は揺るがないのですね」

そう言って、神裂さんは私の隣に並んだ。
何か話そうかと思ったけど、これといった話題が出てくることもなく。
殺意が見え隠れする強烈な日差しの中、私達は黙り込んでしまった。
お互い視線を合わせようとせず、真っ青な空をただただ見上げる。

「申し訳ありません」

視線を空に向けたまま、神裂さんがそう言った。
謝られる理由がさっぱり分からなかった。

「何のことです?」
「私と関わったせいで、あんな目に遭わせてしまって」

しばらく言葉が出てこなかった。
探して探して、ようやく見つかった。

「神裂さんのせいじゃありません」

ニッと笑う。

「運が悪かっただけです」
「……運?」

ようやくまともに視線が合う。

「運、ですって?」
「ええ。アイツじゃないですけど、ちょっと不幸な目に遭ったってだけで」

神裂さんが私の顔をじっと見つめてきた。
驚いたことに、ひどく動揺している。
顔全体が強張っていた。視線も定まっていなかった。
不幸。やがてその口から言葉が洩れる。
不幸。掠れた声。
次の瞬間に起きたことを、私はずっと忘れられなかった。
いつまでもいつまでも。


神裂さんが頭を抱えて、その場にしゃがみ込んでしまったのだ。


最初は何をしているか分からなかった。
あまりにも突然の行動に、私はただ戸惑っていた。
だから多分、十秒くらいかかったと思う。
神裂さんの肩がブルブル震えていることに気づくまで。
神裂さんが恐ろしく小さく見えた。まるで子供みたいだった。


日差しが神裂さんの震える背中で揺れていた。
真っ黒な鞘の表面がその光に輝いていた。
風が吹き、神裂さんの長い髪を掻き乱した。












心が震えた。
身体が震えた。
ああ、私は何をしているんだろう。

「私と関わってはいけないんです。でないと貴女は……貴女は……」


どうして声が滲むんでしょう?
どうして目が熱いんでしょう?
どうして身体が震えるんでしょう?


情けない。私は心の中で繰り返した。
情けない。ただ不幸が不幸がと、小さな子供みたいに呟くことしか出来ない。


説明しなければ。
そうだ、彼女だって分かってくれる。
ほら、早く言いなさい。
私は自分の周り全てを不幸にしてしまうほどの悪運の持ち主だって。
貴女の不幸の原因は、この私なんだって。
言葉はけれど、出てこなかった。


私は随分長い間、そこにしゃがみ込んでいた。
何故、御坂美琴が何も言ってこなかったのかは分からない。
呆れていたのかもしれないし、戸惑っていたのかもしれない。
彼女の顔を見てみたかったけれど、顔を上げることなんて出来なかった。
顔を上げたら、色々なものが零れ落ちてしまう。もう押し止められない……

「神裂さん」

何を言われても耐え切れるよう、私は身を固めた。

「いつもフルネームで呼ぶのって、大変ですよね」

けれど、頭上から降ってきたのは、そんな言葉だった。

「え?」

意外過ぎて、意味が飲み込めなかった。

「美琴で構いませんよ」

可笑しそうに笑う声。


こっそり顔を上げたところ、美琴は何だか嬉しそうに笑っていた。
笑っている彼女は天使のように綺麗だった。

「大丈夫」

まるで犬を撫でるように、美琴が私の頭を撫でてきた。

「私、不幸なんかに負けませんから」

嫌な気持ちはしなかった。
それどころか髪を滑っていく美琴の手の感触やその笑顔がやたらと嬉しくて。
そんな自分の気持ちを悟られないようにするのが精一杯で。


だから、この時には全く気づかなかった。
私の頭を撫でている間に、美琴がタクシーを呼んでいたのも。
タクシー会社に電話をする前に、美琴が誰かと連絡を取っていたのも。











[20924] 第12話 御使堕し編⑩
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/19 20:25
それにしても世の中は理不尽だ。おかしい。間違っている。
例えば、何が間違っているかと言えば……そう、例えば、こういうことだ。


愛想笑いを浮かべていたタクシーの運転手が、私を見た途端にその笑みを引き攣らせた。


そりゃあ、私だって分かってますよ?
二メートル近くもある刀を狭い車内に持ち込むのが、非常識だってことぐらい。
後部座席から助手席の前まで、黒い鞘が占領したら邪魔になるってことぐらい。
でも、仕方ないじゃないですか。非常事態なんですから。
そんな、露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですか。

「本当にすみません」

私は精一杯笑って、しかも明るい声で言った。
ええ、今も後部座席から笑みを送っていますとも。他にどうしろと?
とにかく、世の中にはそんな理不尽なことが多い。
大きなことで言えば、私に付き纏う悪運だって理不尽の固まりだ。


日本には天草式という隠れキリシタンの組織がある。
私は生まれた時から、その頂点たる『女教皇(プリエステス)』の地位を約束されていた。
けど、そのせいで『女教皇』になりたかった人達の夢を潰してしまった。
努力をしなくても成功するほどの才能があった。
けど、そのせいで死に物狂いの努力を積み重ねてきた人達を絶望させた。
何もしなくても人の中心に立てるほどの人望があった。
けど、そのせいで他の誰かが人の輪の外へ弾かれた。


誰かに命を狙われても何故か生き残った。
けど、私を庇うために目の前で大切な人達が倒れた。
飛んできた弾の盾となり、爆風を防ぐ鎧となり。
私を信じて慕ってくれた多くの仲間が傷つき、倒れていった。
私の幸運の犠牲となって、周りのみんなが不幸になった。
なのに、みんながみんな、最期になって私に言うのだ。
貴女と出会えて幸運でした、と。どうしようもないほどの笑顔で、そう告げるのだ。


理不尽だ。
あまりにも理不尽だ。
そういうことはたくさんあった。
ありふれていた、と言ってもいい。


しかし、だ。
これほどまでの理不尽を、これほどまでの間違いを、私は知らなかった。
何がおかしくて理不尽で間違っているかと言えば……そう。
あえて具体的に表現するなら、こういうことになる。


土御門が単独行動に走った!


車内に刀を収めるのに四苦八苦している最中、あの男はふらりとやって来て、

『野暮用が出来たんで、しばしのお別れだにゃー』

さも当然のように美琴達を巻き込んでおきながら、当の本人は姿をくらましたのだ。


ええ、分かっています。分かっていますとも。
あの男がそういう生き物だってことくらい。
風みたいに、まるで掴みどころのない人間だってことくらい。
ですが……むう……何か無性に腹が立ちます。

「美琴」

思いっきり不機嫌な声で、訊ねてみる。

「土御門がどこに消えたか、本当に心当たりはないんですね?」
「え、ええ。もちろん」
「その割に、随分と動揺しているようですが」

目を細めて、隣に座る美琴を睨みつける。

「土御門が何を企んでいるかも知らないんですね?」
「あ、あはは」
「知らないんですね?」

渇いた笑みを浮かべたまま、コクコクと肯く美琴。


これは絶対、何か隠していますね。
でもまあ、いいでしょう。ここは大人しく騙されてあげましょう。
美琴のことです。黙っているのも、きっと何かしらの考えがあってのことでしょうし。
いや、もちろんこれは客観的な意見ですよ?
決して美琴だから信用するとか、もし相手が土御門だったらどんな手を使ってでも白状させてやろうとかってことじゃないんですよ、うん。












すごい迫力だった。
土御門さんを怒鳴りつけた時より、更にすごい。
半分しか開いていない目が据わっていた。
危うく全部喋ってしまいそうになったけど、どうにか堪えた。


神裂さんの頭を撫でていた、あの時。
気がつくと、私はケータイを手に取っていた。
感情のままに、メールを打つため指を動かしていた。

『ちょっと気になることが』

メールのタイトルは、こんな感じにした。
打ち終えると、それを土御門さんに送った。
つまり、そういうことなのだ。
土御門さんが一緒に来なかったのは、私のメールを読んだから。
そして、私の頼みを引き受けてくれたから。


出来ることなら、説明したい。
私が危惧していることを、全部話してしまいたい。
でも、今はダメだ。何せ当事者がすぐ側にいるのだ。
これじゃあ話したくても話せない。
だから、今は待つしかない。
私の不安は、杞憂に過ぎなかった。
そんな連絡が土御門さんから来るのを、ただ待つしかない。












しばらく走っていると、目に見えて人の数が増えてきた。
下手に目立つと動きにくくなるので、野次馬から少し離れた場所で降ろしてもらう。

「しかし大袈裟ですね。たった一人を相手に半径六百メートルの包囲網とは」
「そうですね」

周囲に気を配りながら、美琴が応える。

「多分、発砲許可が下りたんでしょう」
「なるほど。民間人に流れ弾が当たらないよう気を配ったワケですか」
「でしょうね。表向きは」
「表向き?」
「はい」

肯き、美琴は空を見上げた。
あとを追うように、私も視線を上に向ける。
いつの間にか、テレビ局のヘリはいなくなっていた。

「この包囲網は、言ってしまえば結界です」
「結界?これが?」

びっくりして、そんな声が洩れていた。

「外部と内部を隔離するもの。それが結界の定義ですよね」

驚いた。元々は仏教用語であり、いつからか魔術師が身を守る術の総称となった単語。
それを魔術とは無縁の世界で生きてきた彼女が、ここまで完璧に理解しているとは。

「知ってました?結界って魔術の専売特許じゃないんですよ」

美琴が得意げに微笑む。

「魔術の専門家に説明するのもアレですけど、結界そのものに害はありません」

そう、結界自体に危険はない。

問題は外界と遮断した世界で何を行なうか、ということである。

「まさか……」
「はい?」
「日本の警察機構が秘密裏に火野から天使の力を奪おうと?そんなバカな。上半期の報告では、霊能専門の捜査零課の存在は流言と断じられたはずなのに」

私の言葉を聞いた美琴が妙な顔をした。何だか困っているみたいだ。

「えーっと。そういう次元じゃなくてですね」
「は?」
「単に機動隊の二十三口径が火野の脳ミソ吹っ飛ばす瞬間をライブ中継されんのが困るんだろうよ」

今の今まで沈黙を守っていた上条当麻が、初めて口を開いた。

「色々あるんだよ。政治家ってのはアイドルよりもイメージを大切にする職業だからな」
「色々、とは?」
「さあ?その辺の詳しいことはよく分からん」

ふむ、そういうものですか。
このまま聞き続けても、あまり気持ちの良い話は出てきそうもありませんね。


私は三人の顔を順番に眺めて、

「さて、これからどうしましょう?この程度の包囲網、私とクロイツェフだけなら容易く突破してみせるのですが」
「せっかくここまで来たんです。どうせならみんなで当麻の家まで行きませんか?」

あっさりと。あまりにもあっさりと美琴が言うので、私は面食らってしまった。

「どうやって?」
「そんなの、決まってます」

美琴の顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいた。

「そこを通って行くんですよ」












美琴の先導の下、上条当麻の家に向かう私達。
柵を飛び越し、塀を乗り越え、民家の庭から庭へと走っていく。
全ての道路を封鎖している警官隊のすぐ近くを、さも当然のように走り抜ける。
何かの拍子。例えば無線通信に意識を集中したり、物陰から飛び出してきた野良猫の方を見たり、何気なく空を見上げたり。そういった、ほんの僅かな空白を突いて。
しかも、美琴は警官に隙が生まれるまでじっと待ち続けているワケではない。
まるで計ったように、美琴が走り抜ける瞬間と警官に隙が生まれる瞬間が重なるのだ。

「むう……」

一般人がジョギングする程度の速さで走っているにも関わらず、私達三人を引き連れて包囲網を難なく突破していく美琴。
その事実に驚いたが、更に驚いたことに、上条当麻が何故か得意げに笑っていた。

「美琴は能力者の中でも別格の電撃使いなんだ」
「美琴が?」
「電磁波を使った空間把握も得意でさ。半径六百メートルぐらいなら髪の毛一本だって見逃さないんだぜ」

まるで自分のことのように自慢している。

「それにさ。電磁波だけじゃなくて、アイツ、磁力や高圧電流まで操れるんだ。応用力も半端じゃなくてさ。電気の扱いに関しちゃ、アイツの右に出る奴は絶対いないね」

へえ、と唸る。

「すごいですね」

心底から感心して呟く。
上条当麻は嬉しそうに笑ったままだ。

「だけどアイツ、そういうの全然鼻にかけたりしないんだよ」
「美琴らしいですね」
「どんなに強くて、頭が良くて、学園中の注目を集めても、アイツはアイツらしさを絶対に崩したりしない」

上条当麻の言葉に、黙ったまま肯く。
おそらく、それこそが美琴の強さの根源。
能力者としての実力なんて関係ない。
他者とかけ離れた力を手にしながら、それでも己を見失わない心の強さ。

『大丈夫』

声が、蘇ってくる。

『私、不幸なんかに負けませんから』

嬉しかった。本当に嬉しかった。


生まれた時から高い地位を約束されて、周りの全てに慕われて。
それでも、私は全てを捨てた。天草式から身を引いた。
自分を信じてくれる人達が不幸になるのを止めたかったから。
いつまでも一緒にいたかった気持ちを殺して孤独を選んだ。
そんな私に、美琴は人としての温もりを思い出させてくれた。
共に歩いてくれると言ってくれた。
だからもう、逃げたりしない。
今度こそ、自らの意思で大切なものを守ってみせる。


警官隊の包囲網を越えると、しばらく人の姿は見えなかった。
だが、走り続けると今度は装甲服と透明な盾に身を包んだ物々しい面々が現れた。機動隊の人間だ。
『御使堕し(エンゼルフォール)』の影響で、赤ん坊や御老人の姿をした者も混じっているため所々が珍妙に見えてしまう。


美琴が立ち止まり、路上駐車の車の陰に隠れる。私達三人もそれに従う。

「うーん。ここから先はちょっときついかなあ」
「お前でもか?」
「機動隊が当麻の家の周りにびっしり張りついてるのよ。でもまあ、打開策がないワケでもないんだけど」
「まさか強行突破とか言わないよな」
「あれ、分かっちゃった?」
「勘弁してくれよ。んなことしたら俺達全員、洩れなくお尋ね者だぞ」
「だよねえ」

美琴が苦笑いを浮かべた。
やっぱりそうだよねえ、なんて言って、ずっと苦笑いしている。ちょっと変な感じだった。
困り果ててしまうなら分かる。だけど、どうして苦笑いなんだろう。
窮地に立って、それでも何故、いつも通りでいられるんだろう。


普段とさして変わらないやり取りを上条当麻と繰り広げる美琴。
そんな姿を間近で見ていると、今までの自分がバカらしく思えてくる。

「打開策は他にもあります」

決定づけられた運命を、ただ呪うだけだった自分が。

「認識を他に移す、という手法を取るのはどうでしょう」

諦めて、全てをあるがままに受け入れてしまった自分自身が。

「認識を?」
「他に?」

揃って疑問符を浮かべる二人。
全く、こんな所でも意気が合っているんですね。

「つまり機動隊に、上条宅とは全く違う家を上条宅だと誤認させれば良いのです。そうすれば、本物の上条宅で何が起ころうとも機動隊には異常を察知されません」

流れには逆らわない。
それが私なりの生きる術。
数々の悲劇を経て、辿り着いた一つの結論。
でも、美琴に会って、彼女と触れ合って。
生まれて初めて、運命に抗ってみようと思った。

「出来るんですか?そんなこと」
「もちろん」

先程のお返しとばかりに、ニッと笑ってみせる。

「私を誰だと思っているんです?」











[20924] 第13話 御使堕し編⑪
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/10/16 16:08
神裂さんが無人の住宅街を走り回る。
電柱を支点にして、手にした糸を張り巡らせていく。
糸、と言っても裁縫に使うような代物じゃない。
髪の毛よりも細く、太陽光の乱反射でもなきゃ絶対に見えないくらいのワイヤーだ。
神裂さんは触れた途端に指ごとスッパリ切れそうな鋼の糸と電柱を使って、機動隊から少し離れた場所に半径百メートルほどの三次元的な魔法陣を作っている。
この結界を使って、人の認識を他に逸らす特殊な波長の魔力を機動隊にぶつけるつもりなのだ。


それにしても神裂さんは速い。まるで旋風だ。
あっと言う間に、パラボナアンテナみたいな形の結界が形成されていく。
電磁波で神裂さんの位置や動きを把握するのが精一杯だ。


残された私達三人の間で、会話は止まっていた。
住宅街には物音らしい音は何もない。
所々で置き去りにされた飼い犬が真夜中みたいな遠吠えをしているだけだった。
ずっと遠くの方から電車の走る音も聞こえてくる。


神裂さんは走り続ける。
更に速く、更に力強く、更に集中して。
それでも結界の完成には、もう少しだけかかりそうだ。
黙ってじっとしてるのは、どうにも落ち着かない。


そこで、ふと思いついた。
電磁波の流れを当麻の家に集中させてみる。
ちょっとした隙間でもあれば、家の中に電磁波を侵入させることが出来る。
あわよくば、火野の位置を特定できるかもしれない。
そんなちょっとした思いつきで、電磁波を飛ばしてみる。

「うん?」

家の表面に実際に電磁波が触れる前に、ぼうっと微かな抵抗を感じた。
電磁波をいったん引っ込めると、ぱちぱち空気が爆ぜた。
痛いほどじゃない。ごく小さな衝撃だ。
それでも電磁波を伝わって身体中に、目に見えないものが駆け抜けたような感触がした。

「どうかしたか?」

誰もいない住宅街を見回していた当麻が声をかけてくれた。

「ううん。何でも」

気を取り直して、当麻の家に再び電磁波を集中させる。抵抗を無視して電磁波を押し込んでみる。

「あうっ!?」

たちまち目が見開き、髪が逆立ち、血の気が引いた。頭から突き抜けた痛みに心臓が一つドンと打った。
咄嗟に電磁波を引いたので、衝撃はすぐに終わった。でも代わりに、歯の浮くような奇妙な感触が残った。
目に見えない波のようなものが私の身体中を通り抜け、全身の表面から空気中へ、どんどん逃げていくような感触だった。

「美琴!」
「どうしたんです!?」

二つの声に、はっと我に返る。
当麻と、いつの間にか戻ってきていた神裂さんが私の顔を覗き込んでいた。
ひどく心配そうな顔をしている。

「大丈夫。ちょっとクラッとしただけ」

痺れの残る頭を擦りながら、私は応えた。

「ならいいんですが」

言葉とは裏腹に、不安そうな眼差しを向けてくる神裂さん。

「結界が起動しました。上条宅を取り囲んでいる機動隊は三百メートル離れた無人の家を上条宅と勘違いして、包囲を崩しているはずです」

電磁波フィールドを展開して確認を取る。
神裂さんの言った通り、機動隊が移動を始めている。当麻の家から、どんどん離れていく。

「では、参りましょう」

そう言って、さっさと進んでいく神裂さん。
ミーシャと当麻もそれに倣う。
一人置いてきぼりになった私に、当麻が振り返った。

「やっぱり俺達が火野を捕まえるまで待っとくか?」
「ううん。私も行く」

私は慌てて走った。
待ってくれていた当麻と並んで、神裂さんの背中を追う。


走りながら、考えた。当麻の家を調べようとして感じた、妙な感覚の正体を。












“上条”と書かれた表札がコンクリートの端、玄関ポーチにポストや呼び鈴と一緒にくっついている。


当麻の家の向かいにある家。
そこの植え込みの陰に隠れて、私達は様子を窺う。
どこを取っても平凡に見える、木造二階建ての建売住宅。
でも、この真夏の炎天下、真っ昼間から全ての窓を雨具と分厚いカーテンで覆い隠している光景は、それだけで異様だった。
目の前の建物は家庭内暴力や少女監禁事件など、何か陰惨な事件の臭いを感じさせる程の邪気を放っているように見えた。
実際、その得体の知れない直感は間違っていないんだろうけど。


太陽の光を拒むように閉ざされた家。
その中には悪魔崇拝じみた理由で二十八人もの人間を惨殺した殺人犯が立て篭もっているのだから。

「ふむ。ここからでは火野がどこにいるのか掴めませんね」
「どうします?」

そうですね、と思案顔になる神裂さん。

「あれだけ厳重に閉ざしているなら、火野もこちらの接近には気づいていないと思います」
「奇襲するってワケですね」
「ええ。手早く行ないましょう」

上条当麻、と神裂さんが短く呼ぶ。
分かってるよ、とポケットから銀色の鍵を取り出す当麻。

「では美琴と上条当麻は陽動として玄関から、出来るだけ大きな音を立てて突入してください。私とクロイツェフはその音を合図に、別ルートから隠密で侵入します。クロイツェフ、よろしいですか?」
「解答一。肯定」

呟くように告げるミーシャ。
腰のベルトから鋸を引き抜くと、ミーシャが跳んだ。
助走なんて一切なしの、垂直跳び。たったそれだけで、一階の屋根に飛び乗ってしまった。
能力を使った気配はなかった。とすると、ミーシャは純粋に自身の筋力だけで跳んでみせたことになる。
驚きで声が洩れるよりも早く、今度は神裂さんが跳んだ。またもや助走のない、ただの垂直跳び。
それで一階屋根に乗っているミーシャを飛び越し、二階の屋根に音もなく着地する。
そして、そのまま屋根の向こうに。庭に面したベランダの方に進んでいってしまった。


能力を一切使用しないで、あれだけの跳躍。
人間の身体能力って、私が思っていたよりずっと高かったらしい。
ウチの寮監が特別なんだとばかり思ってたけど、どうやら認識を改めなきゃいけないみたいだ。

「さて、俺達も行くか」

二人が見せた驚異の身体能力をさして気にするでもなく、当麻が植え込みの陰から出る。私も慌ててあとを追う。その時だった。


ぞわり、と。全身に先刻の違和感が襲いかかった。
私の身体から常に発せられている微量の電磁波が、この家にある何かと反発している。

「美琴」

振り返った当麻が、あまりにも冷たい一言を放った。

「やっぱ、お前は来るな」
「え……」

何を言われたのか、最初は理解できなかった。

「お前は来るな」

当麻は繰り返した。


またなの?また守られるだけなの?


自分はちっぽけだ。
手をぎゅっと握りしめた。
情けない。不甲斐ない。
どこまで守られればいいんだろう。
自分の弱さを、愚かさを、どこまで思い知らされなければいけないんだろう。


立ち尽くす私を置き去りにして、当麻は歩き出す。
その背が、だんだん遠ざかっていく。


ふいに、お腹の底がチリチリした。
このままじゃ、何か大切なものを失ってしまう気がした。
もちろん、そんなものはただの思い込みだ。突っ走った強迫観念に過ぎない。


下らない。つまらない。


分かってる。そんなこと。


「待って!」

でも私は叫んでいた。

「私も行く」

再び、当麻が振り返る。
呆れたような視線を私に向ける。

「ダメだ。来るな」
「どうして!?」
「それはお前自身が一番よく分かってるだろ?」

私は俯いた。何も返せなかった。
くやしいけど、ホントくやしいけど、当麻の言う通りだった。

「じゃあな」

突き放すような声。
遠ざかっていく気配。
私は一人、植え込みの陰に取り残される。


いいの?このまま当麻を行かせて。
いいの?一人だけ、安全な場所に残って。
いいの?いつまでも、ただ守られるだけで。


……いいワケ、ない。


でも無意識に身体から流れ出る電磁波が。
能力の源であるAIM拡散力場が、どうしても足を前に出させてくれない。当麻の傍に行かせてくれない。

『いいかヒメっち』

ふと土御門さんの言葉が頭を過る。

『力のある奴には責任がある。自分の力を完璧に制御するっていう責任が』

思い出す。ただそこに在るだけで世界を崩壊させるほどの力。
それを完全に抑え、隠し、人間社会に紛れ込んだ天使達の話を。

「完璧な制御、か……」

意識がふっと現実に引き戻された時、当麻は玄関の横のドアに張りついていた。
その手にある銀色の鍵を、静かに鍵穴へと挿していく。


私は深呼吸をして、自身のAIM拡散力場を見据えた。
力場は電磁波の形を成して、今も私の身体から洩れ出ている。


いらっしゃい。


私は思った。


おいで。いいよ。


すると、力場は私の身体に染み込むようにして見えなくなった。
それと同時に、不快感も綺麗さっぱりなくなった。


やった!制御できた!


嬉々として当麻のあとを追って、玄関ポーチへと走る。
玄関横にある背の低い木の枝についた巣箱に頭をぶつけそうになりながら、当麻のすぐ傍に駆け寄る。

「待って、当麻」

返ってきたのは重々しい溜め息。
結局来るのかよ、なんて頭を掻きながら零している。


でも私は見逃さなかった。
当麻の口元に、うっすらと。ホントにうっすらとだけど、笑みが浮かんだのを。

「じゃあ行くか。美琴、後ろは頼む」
「オッケ。任せて」

私の返事に短く肯き、挿した鍵をガチャリと回す当麻。
深呼吸を一つ。それから、勢いよくドアを開け放った。


バン!


家どころか住宅街に響き渡るような轟音。
続いて、生温かい空気が流れ出してきた。それも、何かおかしな臭い付きで。鼻や目に突き刺さる刺激臭だ。
闇の奥からは、シュウ、と。タイヤから空気が抜けるような、妙な音が聞こえてくる。


無言のまま、当麻は中へ入っていく。
当麻の背中を追うように、私も暗闇の中に一歩足を踏み出す。
玄関のドアが、スプリングによって背後で自動的に閉まる。こもった熱気が全身を包み込む。


カーテンや雨戸によって光を遮られた室内は、完璧な闇に包まれてはいなかった。
遮光性の分厚いカーテンと、窓枠の間にある僅かな隙間から光が洩れている。
ガムテープとかでカーテンと窓枠を繋いでしまえば、真っ暗闇にだって出来そうなのに。
どうして火野は、そうしなかったんだろう?そんな疑問は、でも、奥に足を踏み入れるごとに晴れていく。そして、思い知らされていく。


何でもない傘立てが蹲る人影に見える。
能力を抑えているせいで電磁波を使った空間把握が出来ない今。
壁の陰からぬっと人影でも出てきたら、誰彼構わず殴ってしまいそう。


そう、火野は真っ暗闇に出来なかったんじゃない。
物の輪郭が分かる程度の薄暗闇を、敢えて創り出したんだ。


靴箱の上に乗ったタヌキや赤い郵便ポストの置き物が、不気味なくらいの陰影を作っている。
傘立てに差さったままの木刀なんて、まるで切断された人間の腕みたい。
壁に掛けられた大きな仮面や床に散らばる大小様々なモアイ像はこっちを見てるみたいだし……って。


この家、何でこんなにお土産だらけなのよ。しかも、宗教色の強いものばっかり。
当麻のお父さんが買い集めてるのかな?多分そうだ。
お近づきの印にとか言って、いきなり干からびたフンコロガシの入った瓶を取り出すような人だし。
まあ、エジプト土産としては結構有名なんだけどさ。輪廻の象徴として。
向こうじゃ確か、スカラベって言うんだったかな?よく覚えてないや。


玄関に入って右側に硝子ドアが一つ。
正面には二階へ続く階段。階段の横にはドアが二つ。
一つは鍵がついている。トイレのドア、なのかな?


当麻はトイレの方に向かい、音もなくドアを開けて中を確かめた。
どうやら火野はいなかったらしい。開けた時と同じように、静かにドアを閉める。


次に、トイレの近くにあるドアを開ける。
シュウ、という風船から空気が抜けるような音が強くなった。
肌に突き刺さるような鋭い臭いも増している。


ドアの向こうは、脱衣所だった。
洗濯機や乾燥機、洗面台などのシルエットが見える。
横には磨り硝子の引き戸があって、その先がお風呂場になっているのは間違いなさそうだった。


当麻は磨り硝子のドアをゆっくりと開けて、中を覗き込んだ。
私も当麻の肩越しに中を確かめてみる。お風呂場は湿気を帯びた暗い空間になっていた。
湯船に浮かべる物なんだろう。ウレタンでできた亀の玩具が転がっている。
当麻は更に浴槽の蓋を開け、中を確かめている。


私は脱衣所に視線を戻してみた。
洗面台の鏡の向こうに、どろりとした暗闇が広がっている。夜の海みたいだ。
洗面台の上にはヘアスプレーやT字型の剃刀と並んで、チェスの駒や硝子の切り出し細工の小瓶が置いてある。
これも当麻のお父さんが趣味で選んだお土産なのかな?


私の身体を横に押しのけ、当麻が脱衣所の先に向かう。どうやら台所のようだ。


……ん?台所?


突如、嫌な予感が身体中を駆け抜けた。
異臭、空気が洩れるような音、台所。これらの単語から連想されるものと言ったら。

「当麻」

出来る限りの小声にしたつもりだったのに、暗闇の中で音は一際大きく響いた気がした。


振り返る当麻。一言も発しない。
どうした、と視線だけで訊ねている。

「この臭い、ガスよ。プロパンガス。アイツ、ガスの元栓を開けてる」

私の言葉に、当麻がビクンと肩を震わせた。
ひょっとしたら、火野は私達の侵入に気づいたのかもしれない。
一足先に家を抜け出し火を放って、まとめて爆破するつもりなのかもしれない。


かもしれない、ばっかりだ。
ホントのところは何も分からない。
とりあえず、はっきりしたことは一つだけ。
この家にこのまま留まっているのは、あまりにも危険だ。


台所から遠ざかるように、後ろ向きのまま一歩二歩と下がる。
当麻も私のあとを追うように一歩足を踏み出した。瞬間、私の意識は凍りついた。


ゆらり、と


当麻の背後――台所の中から、音もなく痩せぎすのシルエットが現れた。











[20924] 第14話 御使堕し編⑫
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/10/16 16:18

「と――」

叫ぼうとした時、既に人影は不気味な曲線を描く三日月ナイフを当麻の頭上に振り上げていた。


バカげてる。正気の沙汰じゃない。
プロパンガスは、とっくに家中を満たしている。なのに、どうしてコイツがここにいるのよ。
以前、と言ってもまだ十日しか経ってないけど。絶対能力進化実験を止めるために単身乗り込んだ実験施設でも、同じような場面に遭遇した。
あの時は単なるハッタリだった。でも今回は違う。この家は、今や一つの巨大な爆弾と化している。


狂っている。イカレている。予測なんて、出来るワケない。
ちょっとした火花でも散らせば建物ごと爆発するかもしれない状況。
そんな中、ガスの元栓を開けた張本人が、一番危険な台所に隠れてたなんて。


当麻はまだ、背後に迫る火野に気づいていない。
何も考えられなくなった。身体が勝手に動いた。
私は当麻の身体を横へ突き飛ばした。
直後、刃が空を裂く音と共に、焼けつくような痛みが腕に走った。


切られた。でも浅い。
痛みに構わず、私は前方を睨みつける。
マズイ。この状況は非常にマズイ。
能力は使えないし、手近に武器になりそうな物もない。
ナイフの先端を私に向け、火野が真っ直ぐ突っ込んでくる。
脱衣所は狭い。身をかわせるだけの広さは、ない。
体重の乗った一撃を前に成す術もなく立ち尽くす。と、火野の身体が横ざまに吹き飛んだ。

「ふざけやがって」

荒い息をして、当麻が憎々しげに呟く。
横合いにいた当麻が、火野に体当たりを仕掛けたのだ。
壁を背にして、よろよろと立ち上がる火野。ナイフは床に落としたまま。
チャンスだ。今度は私がタックルしてやる。上体を低く構えた、その時だった。

「ぎィ!ギビィ!」

火野が鳴いた。獣のように。
大きく開いた口から、粘液じみた唾液が溢れさせて。
瞬間、私は文字通り止まってしまった。
火野が床に落ちていたナイフを拾う。私の横を猛然と走り抜ける。

「待ちやがれ!」

当麻が叫んで火野のあとを追う。
そこまで来て、私はようやく恐怖から解き放たれた。


どうしよう?当麻のあとを追うか、それとも……


迷ったのは多分、三秒くらいだった。
私は台所に飛び込んだ。ひどい臭いだ。呼吸するのも辛い。
これだけガスが充満していれば、衣服の静電気ですら起爆スイッチになりかねない。
猶予なんてない。一刻も早く、ガスの元栓を閉めないと!


薄暗闇の中、アルミの油除けで囲まれたガス台を見つける。
裏を覗き込む。ガスのホースが外された元栓があった。元栓から、ガスが盛大に洩れていた。
ここで慌てちゃいけない。焦って火花でも飛ばしたら、一巻の終わりだ。
ゆっくり、ゆっくりと、私は元栓をひねった。家に入ってからずっと聞こえていた不気味な音は、ようやく止んだ。


ふう、と安堵の吐息。
続いて勝手口のドアを大きく開け放つ。
薄暗闇に慣れた目に、太陽の光はちょっと眩し過ぎた。でも嫌な気はしなかった。
うだるような暑さも、この時ばかりは心地良く感じられた。
絶叫と、激しい足音が聞こえたのは、そんな時だった。


振り向き、耳を澄ませる。
薄闇の向こうから争うような物音が聞こえる。きっと、当麻と火野だ。
二階からもバタバタと足音が聞こえてきた。こっちは神裂さんとミーシャだろう。もう隠れている必要はないって判断したワケだ。


こうしちゃいられない。私も急がなきゃ。


私は走った。二人の争う部屋に、リビングに飛び込んだ。
広い部屋だった。部屋の角に大きなテレビ。硝子製のテーブルが、端で逆さまに転がっている。
床に敷かれているのは毛の短い絨毯。テレビと反対側の壁には戸棚があって、そこにも奇怪なお土産が多数鎮座している。
当麻と火野は部屋の真ん中で対峙していた。やたらめったらナイフを振り回す火野。対して、当麻はナイフがぎりぎり届かない距離を保って反撃の機会を窺っている。


今すぐにでも、当麻の加勢をしたい。一緒になって戦いたい。
だけど、どうやって?どうすれば当麻の役に立てる?
辺りにはまだプロパンガスが漂っている。
下手に武器を持って打ち合えば、ガスに引火してしまう。
ナイフを持った相手に素手で渡り合えるほど、運動能力があるワケでもない。
ダメだ。また届かない。こんな近くにいるのに。大事な時に限って、どうしていつもこうなんだろう。

「ぎヒイイイイィ!」

人のものとは思えない絶叫に、ハッとして顔を上げる。


火野がナイフを突き刺していた。
他でもない自分自身の腕に、何度も何度も。
刺した箇所から例外なく血が噴き出してくる。
なのに火野は笑っている。その口元が、例えようもなく歪んでいる。
私は思わず顔を背け、両目を固く瞑ってしまう。ぴちゃぴちゃ、と頬に生温かい液体が飛び散った。


やっぱりアイツ、狂ってる。


足元が震える。手先が震える。心は、もっと。
頭では分かってる。これは作戦だ。
おぞましい光景を見せつけて、相手の動きを封じる。恐怖によって、相手の行動を雁字搦めに縛りつける。
そんなこと、分かってる。分かってるのに、それでも目を背けてしまう。身体が言うことを聞かなくなってしまう。


ヒュウンッ


三日月ナイフが空を裂く音が、やけに大きく響いた。

「当麻!」

背けた顔も戻せぬまま、私は叫んだ。
銀色の刃が当麻を突き刺す。凶刃の前に倒れ伏す。そう思った。だけど。
恐る恐る目を開けた私が最初に捉えた映像。それは火野の突き出したナイフを手の平で食い止めている想い人の姿だった。
伸ばした左腕の手の平に、深々とナイフが突き刺さっている。


当麻は静かな顔をしていた。
そう、当麻は怯んでなんかいなかった。
顔を背けず、身体も凍らせず、相手の攻撃を真正面から受け止めたのだ。

「許さねえ」

言って、もう片方の腕を火野に伸ばす。火野の顔を鷲掴みにする。

「グギェッ!?」

顔を締めつけられ、火野が甲高い悲鳴を上げる。その手がナイフの柄から離れる。

「テメエは絶対に許さねえ」

火野の顔を掴んだ手の平で圧搾して当麻は言う。
間違いない。当麻は怒っている。でも何に?ナイフで刺されたこと?自分の家で好き勝手されたこと?それとも……

「何せ」

当麻が右手を離す。わずかに後退する火野。

「俺の女に手を出したんだからな」

そのまま当麻は火野の顎を殴りつけた。
腰を回して全体重を乗せた一撃を受けた火野の身体は、たまらず吹っ飛んだ。
床をごろごろと転がり戸棚にぶつかり、ようやく止まった。












あ……ありのまま、今起こったことを話すぜ。


美琴を傷つけた殺人鬼を怒りに任せて思いっ切りブン殴ったら、いつの間にか美琴のことを“俺の女”呼ばわりしていた。


何を言ってるか分からねえと思う。そりゃそうだ。
俺自身、何をやらかしたのか今になってようやく気づいたんだから。
頭がどうにかなりそうだった。催眠術だとか記憶操作だとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。


と言うかまあ、あれだ。よく考えてみるんだ。
さっきまで、死と隣り合わせなんて状況だったんだ。
そんな極限状態だったら、脳が正常に機能なんてするはずがない。
つまり、どんな言葉を口走ってしまったとしても、それはしょうがないことなんだ。
うん、そうだ。全くもってしょうがないことなんだ。だから美琴のことを“俺の女”なんて言っちまってもしょうがない……ワケがねええええっ!


ああ、美琴は俺の発言をどう思ってるんだろう?
さっきから俯いたままで、顔もはっきり見えないんですけど。


俺は言った。

「大丈夫か?」

返事はない。

「怪我はないか?」

やはり返事はない。
美琴はピクリとも動かなかった。
何も言わなかった。顔を上げもしなかった。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。


美琴は俯いたまま。一言も口をきいてくれない。
だから、俺は黙り込むしかなかった。沈黙に耐えるしかなかった。
しょうがないので、俺は俯く美琴を見つめた。
ほっそりとした身体だった。肩から腰へのラインは見事という他なかった。
実に美しい曲線を描いてる。見事という他なかった。
見ているだけで、胸がドキドキしてくるような曲線だ。
それにしても、人間というのは不思議なものだ。
どうしてあの曲線が、これほど魅力的に感じられるんだろう?
花瓶の曲線だって充分に美しいけど、でもそれじゃ全然ドキドキしないだろ?


ふと、思い出した。
手の平にナイフが刺さったままだ。
考え事をしていたせいで、痛みをすっかり忘れていた。
力任せにナイフを引き抜くと、傷口から血が零れ出した。
マズイ、思ってたより出血がひどいな。
傷口を見ながらそんなことを考えていたら、ものすごい勢いで左腕を掴まれた。

「バカ!」

俺の顔を見るなり、美琴は怒鳴った。
そして、俺の左腕をぎゅっと抱きしめた。
手の平から流れる血が、美琴の黒いTシャツに見る見るうちに染み込んでいく。

「お、おい」

恐る恐る、俺は訊ねた。

「何やってんだよ」
「止血」
「必要ねえって。これぐらい平気――」

ギロリと睨まれた。

「こんだけドクドク血を流して、どこが平気なの?」
「いや、血が出てるったって手の平だし。問題ないだろ」
「バカ」
「いや、だから」
「バカ」
「なあ、美琴」
「バカ」

何を言っても“バカ”しか返ってこないので、俺は黙り込んだ。

「バカ」

美琴は繰り返した。

「ホント、バカ」

俺の腕を、ぎゅっと胸に押しつけた。
刺された痛みはほとんど感じられなかった。
Tシャツ越しに伝わる柔らかな感触と温もりが、そんなものを吹き飛ばしていた。

「ショック死とか、失血死だってあるの」
「そりゃそうだけどさ」
「不用意な行動一つで、人間なんて簡単に死ぬの」
「……」
「どうしてそういうこと考えられないのよ」

美琴が睨んでくる。
ああ、その、と口籠りながらも、何故か俺は浮かれた気持ちになっていた。
何だろう、この感じは。少し戸惑った末、気づく。美琴が心配してくれてるのが嬉しいんだ。


美琴は確かに怒ってる。そりゃもう、怒り狂ってる。
俺の爆弾発言すら、きっと頭に残らなかったくらいに。でもそれは俺のためなんだ。
俺のことを思って、怒るくらい心配してくれてるってことだった。

「ねえ、何ニヤニヤしてんの?」
「え?」

しまった。顔に出てたらしい。

「もうっ、このバカ!ムカつく!」
「ぎゃああああっ!絞るな!人の腕を雑巾みたいに絞るな!」
「うるさい!罰よ、罰!」
「分かったから!悪かった!ごめん!ごめんって言ってるだろ!」

全く、たまんないよな。
そりゃ美味いメシを食うのは最高だし、激ムズのゲームをクリアするのも快感だし、誰かに褒められるのだって悪くない。
けどさ、美琴と一緒にいるのは、美琴が笑ってくれるのは、そんなものとは比べものにならないんだ。
まあ、かなり難しいんだけどさ。怒らせてばっかりなんだけどさ、実際は。全く、たまんないよな。


そんなことを思いながら、腕絞りの刑を甘んじて受けていると、

「あー、ごほっ」

実にわざとらしい、そんな咳払いが聞こえた。
顔を上げると、そこに神裂とミーシャが立っていた。
何故か分からないが、神裂の眉間には皺が出来ている。

「お取り込み中、その、大変申し訳ないのですが」

そっぽを向いて、いかにも気まずそうに話を切り出す神裂。

「ですが、その……現状報告、お願い出来ませんか?出来ればそう、早急に」











[20924] 第15話 御使堕し編⑬
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/10/24 21:50
人生というのは、上手くいかないものである。
私は今、その言葉をしみじみと感じていた。
隣にいる当麻も、きっと同じ気持ちだと思う。


全く、人生ってのは上手くいかないもんね……


「貴方達の仲が良いことは重々承知しています。ええ、承知していますとも」

刃の部分だけでも二メートル近くありそうな刀。その鞘の先でコツコツと床を叩きながら、神裂さんはそう言った。

「ですが、少しは自重というものを覚えてもらわないと困ります」

神裂さんは相当怒っているらしく、声がやたらと低い。
ちなみに、私と当麻は薄暗いリビングで正座をしている。
背筋をピンと伸ばして、両膝をきっちり揃え、両手は膝の上って感じだ。


私達の報告を聞き終えた神裂さんが、

「二人とも、ここに座りなさい。異議は認めません。さあ早く」

と、足元を指差しながら言って、私達に正座をさせたのである。


ミーシャはと言えば、部屋の隅で気を失っている火野神作を見張っている。
火野が目を覚ましたら教えてほしいと、神裂さんに頼まれているのだ。


正座を強要されてから、そろそろ一時間。
火野はまだ目を覚まさない。さすがに足が痺れてきた。

「は、ははは」

この状況を打破するべく、私は愛想笑いを浮かべてみた。

「やだなあ、神裂さん。あれはただの止血。仲の良さとか関係ありませんって」

ダメだ。どうも自分でも上手く笑えてない気がする。


神裂さんが半眼になった。

「関係ない?」
「そ、そうです。関係ないんです」

力説。

「へえ。そうなんですか」
「は、はい」

神裂さんの目が、更にほっそーくなった。

「それにしては随分と過激な止血でしたね。怪我人の腕を自分の胸に押しつけるなんて」
「うっ」

当麻が後先考えずに手の平に刺さったナイフを抜いた時、感情に任せて当麻の腕を思いっきり抱きしめた。
神裂さんがそれを知っているということは、つまり、


見られてる。思い出すだけで赤面するようなトコ、ほぼ全部。


ガタガタと膝が震えた。
慌てて、両手で膝を押さえる。
思いっきりビビリながら顔を上げると、神裂さんは不気味に笑っていた。
ふふ、と神裂さんの頬が吊り上がる。

「お話、続けましょうか?」

何故か唇の端を上げて笑う神裂さん。
ちょっ、神裂さん。怖い。めちゃくちゃ怖いですって。


これはもう、覚悟を決めるしかない。
火野が目を覚ます以外に、この地獄は終わりそうもない。
だと言うのに、火野は一向に目覚めない。
視線だけを横に向けると、当麻もこっちを見ていた。

(ちょっと!アンタどんだけ強く殴ったのよ!)
(だってしょうがないだろ!)

私達は口だけを動かして怒鳴り合った。

(少しは加減しなさいよ!)
(あるワケないだろ!そんな余裕!)
(嘘!“俺の女”とか言ったし!)
(おま、今それを掘り返すか!)

「二人とも!」

神裂さんの怒鳴り声が降ってきた。

「言ってるそばから、何をしてるんです?」

睨まれる。
物凄い迫力だった。
私達は苦笑いを浮かべたまま、固まった。
正しく蛇に睨まれた蛙というヤツである。

「どうも反省の色が見えませんね。仕方ありません。もう一時間ほど正座を――」

唐突に、声が途切れた。

「クロイツェフ?」

ミーシャが神裂さんのシャツを引っ張っていた。

「どうしました?」
「解答一。あの男が目を覚ました」

その言葉に、全員が部屋の隅に注目した。


火野が目を開けている。でも起き上がろうとはしない。
倒れたまま、手足をびくびくと動かしているだけ。
顎に受けた一撃が、相当効いているみたいだ。

「さて、早速ですが尋問を開始しますか」
「解答二。了承」

二人のやり取りを横目で見つつ、

「美琴」
「うん」

私と当麻は神裂さんに気づかれないようにそーっと立ち上がる。今の内に逃げ出さねば。












屋内に残っているプロパンガスを一掃するため、俺と美琴は二手に分かれて家中の窓を開けることにした。


俺は一階、美琴は二階。
階段の前で美琴と別れた俺がまず向かったのは、洗面所だった。
負傷した左手を洗っておきたかったのだ。
さすがに血まみれの手であちこち触って、自分の家を汚したくないしな。


それにしても大丈夫か?
この一時間、痛みを全く感じないんだが。
ひょっとして、神経までやられちまったんじゃねえだろうな。
不安を胸に抱きつつ、手の平に水をかける。
痛みを予想して、俺は歯を食い縛った。

「……あ?」

思わず間抜けな声を上げてしまった。


痛くない。全然、全く。


やっぱり神経、イカレちまったのか?
だが、そうではなかった。
血をすっかり洗い流して出てきたのは、傷一つない左手だった。
出血はない。傷跡すら残っていない。


これは一体、どういう冗談だ?
火野のナイフを受け止めたのは、今から一時間ほど前。
怪我をしてから、わずか一時間。
なのに傷口が完璧に塞がってるっていうのは、どういうワケなんだ?












別段、何かを見つけるために来たんじゃない。
私はただ、二階の窓を開けようと思ってこの部屋に入っただけ。
だけど、それどころではなくなってしまったのかもしれない。

「……当麻」

呟いて、私は窓際の机の上に置かれた写真立てを手に取った。


写真には一組の家族が写っていた。
真ん中にいるのは当麻だ。どんなにちっちゃくても、分かる。だって当麻のことなんだもん。
背丈からして、多分、当麻が幼稚園児だった頃に撮ったものなんだろう。いいなあ。可愛いなあ。


当麻の右側にいるのは、私よりも少しだけ長い髪をした女性。
これが当麻のお母さんである詩菜さんの、本当の姿ってワケね。で、左にいるのが……って、え?


背筋に悪寒が走る。
当麻の左側。そこに写る人物は、当麻のお父さんである刀夜さんのはずで。
『御使堕し(エンゼルフォール)』に歪められる前の、本当の姿であるはずで。


でも、実際に写っているのは……


ポケットの中のケータイが震えたのは、その時だった。
取り出し、通話ボタンを押して耳に当てる。その間も、ずっと写真を凝視し続けていた。

「おーっす、ヒメっち」
「……土御門さん?」
「結果報告だにゃん」
「え?結果?」

そうだった。調べてほしいことがあるって、土御門さんに頼んでたんだ。

「結論から言うと、ヒメっちの勘繰ってた通りだったぜい」
「やっぱりそうだったんですか」

参った。この期に及んで、良くない話ばかりが入ってくる。

「言われてみりゃ確かにおかしいわな、『ミーシャ』なんて」
「ええ。ロシアでは男性に付ける名前ですからね」

そう、女の子が『ミーシャ』と名乗るなんておかしいのだ。
例えばほら、『太郎』なんて名前をした日本人の女の子がいたら、どう思う?
物凄く違和感を感じるでしょ。それと同じ。有り得ないのだ。

「しっかし難儀だにゃー。最悪の場合はアレを敵に回す、か。こりゃ人類の歴史はここで終わるかもにゃー」
「縁起でもないこと言わないで下さい」

ただでさえ、実感が湧かないっていうのに。
アレの存在にしても。世界全人類が根こそぎ滅びる力っていうのも。

「ところで、そっちはどうなってんのかにゃん?」
「え?」
「火野はちゃんと確保できたのかにゃー?」
「え、ええ。捕まえました。けど……」

私は話した。この家に存在する異常を。
この家の何かが私の能力に干渉してくることを。
そして、写るはずのない姿が写っている写真のことを。


説明している間、土御門さんは一言も喋らなかった。相槌の一つすらなかった。

「ヒメっち」

静かな声で、土御門さんは言った。

「その家、土産とか置いてあったりするか?」
「土産?」
「お守りとか、民芸品とか、オカルトグッズとか。そういう類のものだ」
「ああ、それならたくさんありますけど」
「どこに何がある?出来るだけ詳しく頼む」

ワケが分からない。
土御門さん、どうしたんだろう?
いつもの余裕を持った喋り方じゃない。
言葉遣いまで変わっちゃってるし。


不思議に思いながらも、私はお土産の位置を一つ一つ思い出しては伝えていく。
玄関に赤いポストの置き物があった。お風呂場には亀の、台所には虎の玩具があった。
洗面所には確か、チェスの駒や硝子の切り出し細工の小瓶があったなあ。
あ、玄関前にあった巣箱もお土産に入るのかな?

「なるほど」

全てを伝え終えた後、土御門さんが発したのはそんな言葉だった。

「ヒメっち、その家から全員出せ。今すぐに」
「はい?」
「あと土産には一切手を触れるな」
「ちょっ、ちょっと土御門さん?」
「いいか、絶対だぞ」

用件を全て伝えた電話は切れた。
私の制止なんてまるで無視。
慌ててかけ直したものの、繋がらなかった。
事情を問いただすことも、断ることも出来ない。
しかし、このまま放っておくワケにもいかない。

「何なのよ、一体」

呟きつつ、窓を開ける。


真っ赤に染まる空が、広がっていた。











[20924] 第16話 御使堕し編⑭
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/11/14 17:46
「分からねえよ」

ぐったりと戸棚に寄りかかったまま、火野はそう答えた。

「何だよ、それ、何ですか。エンゼルフォールって、知らないよ。エンゼル様、コイツら何言ってんですか、分かんないよ、答えて下さい」

小さな声でぶつぶつと呟き続ける火野。
それは独り言のようにも聞こえるし、未だに姿を見せない天使に助けを求めているようにも聞こえた。
と、視界の隅でクロイツェフが動くのが見えた。止める間もなかった。
腰のベルトから引き抜いたL字型の釘抜きを、クロイツェフは床に無造作に投げ出された火野の左手首に向かって何の躊躇いもなく振り下ろした。
凄まじく鈍い音と共に、火野の手首がおかしな方向に捻じ曲がる。

「ぎ、びぃ!ぎがぁ!」

獣じみた咆哮を上げる火野。

「問一をもう一度」

しかしクロイツェフは動じない。

「『御使堕し(エンゼルフォール)』を引き起こしたのは貴方か」

感情を押し殺した声で、質問を繰り返す。
余計な言葉は聞かない。同情なんて一切しない。
こんなものは魔術師の戦い方では決してない。


魔術師は戦いに私情を挟む。
敵の言葉に耳を傾けもするし、一対一で正面から正々堂々と戦おうともする。
魔術師の戦いは、とにかく無駄が多いのだ。
なのにクロイツェフにはそれが全くない。自らの目的のために手段を選ばない。
まるで機械だ。心が欠落しているように見えてならない。

「おかしいよ」

人間兵器の如き少女を前にして、それでも火野の態度は変わらない。

「おかしいんだ、何でこんなことになってるんだ」

力を失い、投げ出したままの手足も動かさず、ぶつぶつと呟き続ける。
マズイ。このままでは有益な情報を聞き出す前に、火野が力尽きてしまう。

「クロイツェフ、待ちな――」
「ああ、ダメダメ」

救いの声が届いたのは、その瞬間だった。
慌てて、振り向く。そこにいたのは、一人の少女だった。

「美琴……」

突然のことに、頭が真っ白になる。
そうして突っ立っていると、美琴はニコリと微笑んだ。

「大丈夫」

そう言って私の脇をすり抜けると、美琴はクロイツェフの横に進み出た。

「この手の輩に暴力で訴えても、なんにも出てこないわよ」

美琴はクロイツェフの顔を見た。クロイツェフも美琴の顔を見た。
互いに互いの顔を観察するように、二人は視線を合わせた。

「問二。では、どのような方法が的確なのか」
「私に任せてくれる?」
「問三。それに対する私のメリットはあるか」
「逆に訊くけど、アンタのやり方でホントにコイツの口を割れると思う?」

その問いに、クロイツェフは黙り込んだ。
沈黙は多分、七秒ほど続いたと思う。

「……賢答。その問いかけに感謝する」

応じる声に、やはり感情は無かった。












「この辺でいいか?」
「うん。ありがと」

私達は当麻の家から外へ出た。
火野は自力では立つことも出来なかったので、当麻が担ぎ出してくれた。

「美琴」

神裂さんの声。

「お願いします」

振り向き、私は力いっぱい肯く。


さて、ここからが本番だ。
まずは火野が『御使堕し』の実行犯じゃないことを証明する。
どうして火野が誰とも入れ替わっていないのか。その謎を解き明かす。


爪の先から火花を散らせる。
抑えていた能力は、家を出てすぐに解放している。
電気を生み出し、自在に操る能力。


私はコンクリート塀に寄りかかる火野の肩を掴んだ。
火野に強烈な電撃を浴びせるためじゃない。
右手に帯びる電気はあくまで微弱なもの。
痺れはおろか、痛みすらも感じないくらい。
電気は火野を傷つけるために流してるんじゃない。
私と火野の間に、電気を介した回線を繋げる。
そう、口を割らないなら、火野の脳に直接訊き出せばいいだけ。


こんな芸当、木山春生と戦う前の私だったら思いつきもしなかった。
あの時は単なる偶然だった。でも、出来たことに変わりはない。
一度やってみせたことが、もう一度やれないはずがない。


電気信号に変換した脳波の波形パターンを、火野のそれと合わせる。
流し始めた時は乱れていた電気信号が徐々に落ち着いていき、やがて二つの脳波は一定のリズムを取り戻す。

「ねえ」

火野の顔を覗き込んで、私は訊ねた。

「エンゼル様って何なの?」
「ああ、エンゼル様、エンゼル様……」

唾液の溢れる口から零れる、不気味な呪文。
同時に、とある記憶が私の頭の中に直接流れ込んでくる。


怯える女性。泣き叫ぶ子供。命乞いをする老夫婦。
みんながみんな、血に濡れていく。見るも無残に切り裂かれていく。

『エンゼル様は、いつも正しい』

記憶の中で、火野は語った。

『だから殺した、エンゼル様の望むままに』

自分がどれだけエンゼル様に尽くしているのか。

『エンゼル様、いつも私の心の中にいる、私が望めば何でも答えてくれる』

どれだけエンゼル様に感謝しているのか。

『エンゼル様、ずっとずっと従っていればきっと私は幸せになれる』

そして、どれだけエンゼル様を崇拝しているのかを。

「手を止めなさい、火野神作」

神裂さんの鋭い声に、はっと我に返る。


火野が右手を動かしている。ビクビクと、イモムシみたいに。
折ってしまいそうな力で人差し指を押しつけ、床に文字を書こうとしている。
とは言え、コンクリートには何一つとして写らないんだけど。

「これは警告ではなく威嚇です。従わねば刀を抜きます」

刀の柄に手を添える神裂さん。
それでも火野の手は止まらない。

「ひっ、ぃひっ。止ま、止まらないんだ。エンゼル様は止められないんだ」

おかしい。火野は全くの本心でそれを言っている。
回線を繋いでいる今なら、火野の心情が手に取るように分かる。
神裂さんの脅迫に怯えきっている。なのに文字を書こうとする手は止まらない。まるで右手だけが別の生き物みたい。


……ちょっと待った。


火野の脳波の流れを辿ってみる。
右手の部分だけ、電気信号が流れていない。
空いている手で火野の右手を掴む。微弱な電気を流す。波長を合わせる。すると、

『殺せ。殺すのだ』

頭に直接、届いた。

『我に捧げよ。望む全てを』

火野神作であって、火野神作ではない声が。

『さすれば示そう。汝の道を』

火野神作のものとは異なる、電気信号が。


そうか、そういうことだったんだ。

「二重人格」
「え?」

ポツリと呟いた単語を、しかし神裂さんは聞き逃さなかった。

「神裂さん」

視線を火野に向けたままで、私は訊いた。

「『御使堕し』の副作用は、外見と中身が入れ替わることでしたよね」
「え、ええ」
「じゃあ、二重人格の場合はどうなるんです?一つの外見の中に二つの中身があるってカウントされるんですか?」

え、と驚きの声。
だからですね、と私は振り返る。

「火野神作の身体の中で、二つの人格が入れ替わっている可能性ってあります?」

返事はない。その場にいる全員が、言葉を失っていた。

「火野神作という身体の中にある二つの人格が入れ替わる。これだと見た目は火野神作のまんまですよね」

立ち上がり、私は一つの真実を告げる。

「火野神作も『御使堕し』の被害者。入れ替わってないように見えるのは、単に併せ持つ二つの人格が入れ替わっただけ」












美琴の言葉に、全員が固まっていた。
ちなみに火野神作は気絶している。
激痛のためか。それともエンゼル様がもう一人の自分だったという事実が余程応えたのか。
いや、そんなことはどうでもいい。瑣末なことだ。
問題は『御使堕し』の犯人を追う手がかりが完全に失われてしまったことだ。


無駄に使ってしまった時間の、何と多いことか。
手詰まりとなった今、一体何から手をつければいいんだろう?
私達に残された時間は、あとどれくらいあるんだろう?
分からない。もう、何もかも分からない。

「神裂さん」

正面から声。
顔を上げると、すぐ側で美琴が立っていた。
右手をポケットに突っ込む。
ポケットから出てきた時、その手は何か持っていた。どうやら写真のようだ。

「これ、見て下さい」

ヒソヒソ声で、美琴は言った。
持っていた写真を私に手渡した。そのはずだった。

「え?」

美琴の動きが止まった。
美琴は手を伸ばしていたし、私も手を伸ばしていた。
あと少しで写真に私の指が触れようかという瞬間、それは忽然と姿を消した。

「解答一、自己解答」

写真を手にしたクロイツェフが、いつもの平坦な声で零した。

「標的を特定完了、残るは解の証明のみ」

ふう、と溜め息。そして写真を握り潰し、

「私見一。とてもつまらない解だった」

言うや否や、どこかへと走り去っていく。

「クロイツェフ!待ちなさい!」

慌てて叫ぶが、彼女は気にも留めない。
あっと言う間に、その小さな背が見えなくなる。


標的。彼女は確かに、そう言った。
美琴から奪い取り、握り潰した写真。
そこに一体、何が写っているというのだろう?
クシャクシャになった写真を拾い、皺を伸ばして広げてみる。そこには、

「なっ……!?」

二つの異常が、あった。


一つは、ぼんやりと霞む女性の姿。
目を凝らすと、それは銀色に輝く髪を持つ親友のようにも見える。
『御使堕し』がついに、記録への干渉を始めたのだ。このままでは近いうちに術式が完成してしまう。


そして、もう一つ。

「入れ替わって、ない……?」

若かりし日の上条刀夜が、写っている。
記録と記憶が一致した状態で。『御使堕し』の影響を全く受けることなく。


その写真に写るのは、三人の親子。
上条詩菜の記録が、あの子と入れ替わりそうになっているのは分かる。
上条当麻の記録が、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』によって守られているのも分かる。


しかし上条刀夜は?どうして彼は、誰とも入れ替わっていない?

「そう、だったんですか」

認めたくない事実だった。
それでも、もう可能性はそれしか残っていなかった。


世界中の人間を巻き込んだ『御使堕し』。
その大魔術を引き起こした犯人は、上条刀夜だったのだ。











[20924] 第17話 御使堕し編⑮
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/06 00:54
「そんな……」

自分で思っていたよりも弱々しい声が出てしまった。

「本当なんですか、それは……」

美琴は黙り込んでいる。

「そんな、バカな……」

冷め切った表情で、私のことをじっと見つめている。

「本当に、アレが……?」

自分の声なのに、そんなふうに聞こえない。
一体、誰が喋っているんだろう?これは本当に私の声なのか?

「アレはロシア成教のシスター、サーシャ=クロイツェフと入れ替わっていました」

ロシア成教。サーシャ。
私は美琴が吐いた言葉を何度も何度も頭の中で繰り返した。
その意味を掴もうと足掻いた。理解しようとした。
けれど見たこともない術式を目の前にした時と同じように、答えどころか、その解き方さえも分からなかった。

「『ミーシャ』って、ロシアでは男性に付けられる名前なんです」

それは知っている。
しかし、別段気にも留めていなかった。
他宗派の者が名乗る名など、どうせ当てにならないのだから。

「神裂さん、知ってます?アレには性別なんてないんです」
「あ……」
「アレにとって、名前っていうのは自分が神に作られた目的そのもの。他人と交換できるワケがないんです」

一つの真実が導き出されようとしている。
真実。それは望んでいたものだった。
真実。何よりもそれを欲していた。
しかしいざ目の前に現れようとしているそれは、棘だらけだった。


私はただぼんやりと美琴の顔を見つめ続けた。
美琴の方も私から目を逸らさなかった。
私の瞳を、その奥底を、じっと覗き込んできた。
美琴の瞳には希望も絶望も宿っていなかった。


しばらくして、私はようやくその真実を口にすることが出来た。

「アレが『神の力』。常に神の左手に侍る双翼の大天使」

やっぱり自分の声には聞こえない。
私は辺りを見回した。ここがどこだか急に分からなくなったのだ。
ここは……閑静な住宅街だ。そう、そして上条宅の前だ。
振り返り、家のドアを見る。何の変哲もない。蹴飛ばすだけで簡単に破れそうな、ちゃちなドア。
私には何も出来ない。この中に儀式場があるはずなのに、正確な位置を特定することさえ出来ない。


そうしてぼんやりしていると、

「神裂さん」

すぐ横で声がした。美琴だった。
その手にはケータイ。誰かと連絡でも取り合っていたんだろうか。

「今タクシーを呼びました。十五分もあれば来るそうです」
「え……」
「追いかけましょう」

美琴は真っ直ぐに私を見据えた。
その瞳には希望も絶望も宿っていなかった。
ただ、意志の光が輝いていた。

「大丈夫」

一切の迷いもなく、言った。

「まだ間に合います」

美琴の心は折れていない。まだ、諦めていない。
風が吹き、私の髪が揺れた。私の心も揺れた。


今、この瞬間、クロイツェフは上条刀夜のもとへ向かっている。
そうだ、私達はまだ何も失っていない。間に合う、そう思った。今ならば、まだ。

「美琴」
「何です?」
「急がないといけませんね」
「ええ。思いっきり飛ばしてもらわないと」
「いえ」

クロイツェフの走り去った方向を見つめながら、言葉を続ける。

「それでは遅過ぎます」

そう、車では遅過ぎる。
アレが天使であるのなら、常人の速さを想定してはいけない。
人の常識は、アレには当てはまらない。


では、どうする?
簡単なことだ。ならばこちらも、人の規格から外れるまで。
神に選ばれし者、『聖人』の力を解放するまで。
己の身と心に刻みつけた、もう一つの名と共に。
己の人生を投げ打ってでも叶えたい、たった一つの願いと共に。

「――『救われぬ者に救いの手を(Salvere000)』」

運命など変えられないと思っていた。
実際には、そんなことは出来ないと考えていた。
でも、今は違う。出来る。いや、変えるべきなんだ。

「神裂さん」

私の変化を感じ取ったのだろう。戸惑いつつ、美琴は言った。

「何を?」

私はニッコリと笑った。

「先に行きます」

そして、疾走を開始した。












警察と機動隊が敷く包囲網の外に出て、タクシーを待つ。
二人並んで、コンクリートの壁にもたれかかる。
二人分の長い影が、私達から見て右手の方向にスッと伸びていた。


タクシーの到着を、私達はただ待った。
辺りはしんと静まり返っている。
当麻は何も話さない。私も何も話さない。


……どのくらい経っただろう。
重い沈黙の中、二人きり。タクシーはまだ来ない。
ケータイで時間を確認する。神裂さんがいなくなってから、まだ五分と経っていなかった。


私と当麻の距離は十センチもないだろう。
だけど当麻は話さない。私も話さない。
二人の人間がこんなに傍にいて会話がないのは落ち着かない。
そんな気まずい沈黙は、いつもだったら、ちっとも苦しくない時間だった。
でも、今だけは違った。沈黙が痛かった。
訊きたいことがあるのに、口に出せない。そんな自分を責めているみたいで、痛かった。


上条一家の写真を見てから浮かんでしまった、一つの疑問。


訊きたい、でも、訊きたくない。
だって、もし思っている通りだったら、当麻は――

「――当麻!」
「はい!?」

無意識の叫びに、当麻は驚いて壁から離れた。

「どうした、何かあったか?」

こちらを覗き見る瞳に私が映っている。
瞳の中にいる私は震えている。


当麻、どうして震えてるの?それとも……震えてるのは、私?

「……ねえ、覚えてる?」

俯いて、当麻の顔を見ないようにする。

「私達の、最初の出会い」

声が震えていた。

「どうしたんだよ、急に」

当麻の声も震えているように聞こえた。

「そんなの、覚えてるに決まってるだろ」
「だよねえ。当麻にとっちゃ、それこそ不幸な出会いだったもんね」
「まあな」

そこで当麻の言葉が切れた。
待ってみたけど、でも、当麻は黙り込んだままだった。
ちらりと、当麻の顔を盗み見る。
思いつめたような顔をしていた。そう、私と同じように。

「当麻の不幸って、ホント筋金入りだよね」

私は言った。

「真っ昼間から不良に絡まれるとか。全く、私が助けに入ってなかったらアンタ、今頃どうなってたのかしらねえ」

嘘だ。こんなの、全くのデタラメだ。
本当は不良に絡まれていたのが私で、助けに入ってくれたのが当麻だった。


今思い出しても、最悪の出会いだった。
見ず知らずの人間を助けようとする、その姿勢には素直に感心した。
だけど、やり方がちょっとばかり気に食わなかった。
だって当麻のヤツ、私を子供扱いして不良を諌めようとするんだもん。
当然の仕打ちとして、不良もろとも電撃を浴びせてやった。浴びせてやったつもりだった。
だけど当麻は無事だった。何事もなかったかのように、その場に立ち尽くしていた。


それが始まり。上条当麻という人間を、私が執拗に追いかけるようになったきっかけ。

「感謝してよね。アンタの身体と財布、守ってあげたんだから」

お願い、早く否定して。
あの日から、まだ二ヶ月しか経ってないじゃない。
覚えてるに決まってるって、言ってくれたじゃない。
だからお願い、否定して。私の嘘を指摘して。
そうじゃなきゃ、だって、そうじゃなきゃ……。

「ああ、分かってるって」

なのに現実ってヤツは、いつだって残酷で。

「ありがとな。あの時は助かったよ」

へらへら笑いながら、当麻は話を合わせる。合わせようとする。


逃げたかった。逃げ出したくてたまらなかった。
耳を塞ぎ、声を張り上げ、言葉という言葉を消し去りたかった。
でも、出来なかった。だって、もう知ってしまったから。
耳を塞いでも、声を張り上げても、何も変わりはしないから。だから、出来なかった。

「やめて」

私は呟いていた。

「分かったから」

震える声で呟いていた。

「当麻が記憶喪失だって、分かったから」

返事はなかった。
傍にいるはずの当麻は、何も言葉を返してくれなかった。
そうだった。やっぱり、そうだった。当麻は記憶を失っている。
だから刀夜さんが誰とも入れ替わっていないことに気づかなかった。ううん、気づけなかったんだ。

「何で」

私は呟いた。

「何で黙ってたの?」
「え……」
「何で教えてくれなかったの?魔術師のこととか、記憶喪失のこととか」
「……」
「ねえ、何で?何で頼ってくれないの?」

私、何を言ってるんだろう。当麻はなんにも悪くないのに。


当麻はただ、守ろうとしていただけ。
私達姉妹だけじゃない。インデックスとも、きっとそういう繋がりなんだろう。
救いを求める人全てに、手を差し伸べてきただけ。
厄介事を見つけては、我先にと首を突っ込んで。
自分の身にどれだけ危険が伴っても、そんなの、知ったこっちゃなくて。


自らの愚かさに、頭の芯が熱くなった。
現実を知らず、知ろうともせず、ただ守られていた自分をブチ殺してやりたかった。

「もっと私を、頼りにしてよ」

無知は罪悪だ。
知らないからといって、許されるものじゃない。

「遠慮なんて、しないでよ」

私はずっと俯いていた。
震えそうになる手に、ぎゅっと力を込めながら。
守られるだけなんて、もうイヤだ。
私だって、当麻を守りたい。当麻と同じ場所に立っていたい。当麻とずっと、ずっと一緒にいたい。

「じゃあ、一ついいかな」

当麻の声が聞こえた。

「え?」

私は顔を上げた。
唇に、何かが押し当てられた。
それは柔らかくて、温かくて。そして、どうしようもなく優しかった。


唇が離れたあと、そのままぎゅっと抱きしめられた。
当麻の腕の中、私の心臓は跳ね回っていた。

「美琴」
「ん」
「あんなこと言われたら、俺、ホントに遠慮しないぞ」

言い終わってしばらく経ってから、当麻は腕の力を緩めた。


私は顔を上げ、当麻を見つめた。

「いいよ」

私はくすくす笑った。

「当麻だったら許してあげる」
「そっか」

当麻もくすくす笑った。
そのまま、おでこをくっつけて、私達はくすくす笑い続けた。











[20924] 第18話 御使堕し編⑯
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/06 00:53
最短距離を走って『わだつみ』に到着。
水平線に先端のみ触れた太陽が、赤々と輝いている。
世界を茜色に染め上げている。


身体が少しだるかった。
参りましたね。私はそう思った。
走っていた時間はおそらく、十分にも満たない。
にも関わらず、この有り様とは。
身体がだるいのは、明らかに悪い兆候だった。
だが、私は止まらなかった。止まっている暇など、あるはずがなかった。


海側の入口から中に入る。

「……?」

おかしなことに気づく。
静か過ぎる。人の気配が全くない。


クロイツェフ……は、まだ辿り着いていないようですが。


踵を返し、私は歩き出す。
浜辺に向かって、歩き出す。












上条刀夜は夕暮れに染まる浜辺を歩いていた。
その顔には疲労が色濃く見える。流れる汗で全身が濡れてしまっている。
今にも止まってしまいそうな足取りで。それでも上条刀夜は足を引きずるようにして浜辺を歩いていた。
その姿は魔術師には見えなかった。戦闘のプロにも見えなかった。

「神裂君!」

疲弊し切っているはずなのに、それでも声を張り上げる。

「当麻を……当麻を、見かけなかったかい!?」

必死の形相で、こちらに近づいてくる。

「夏バテだから海の家で休んでいると言っていたんだ。でも、いないんだ」

その姿は、一般人のそれと同じだった。

「どこにも、いないんだ」

迷子になった子供を探す、父親の姿だった。


一人で先に来たのは、やはり正解でしたね。
恐らく上条当麻は耐えられまい。上条刀夜が尋問される姿に。
『御使堕し(エンゼルフォール)』を引き起こした犯人はお前だろうと、問いただされる姿に。
だからこそ、私がやらなければならない。たった一人で『御使堕し』を止めなければならない。
私だったら大丈夫。たとえ上条刀夜と敵対することになっても。彼の願いを妨げてしまい、恨まれることになっても。


上条当麻は自らの命をかけて、私の友を救ってくれた。
美琴は大いなる優しさをもって、私の心を救ってくれた。


だから、そう。だから今度は私の番。
私の全てをかけて、上条刀夜を救ってみせる。
上条刀夜を日常の世界に連れ戻す。


私は本物の魔術師だ。
その力も、覚悟も、そして恐さも知っている。
ただの子供想いな父親である彼が、私達の世界にこれ以上関わってはいけない。

「何故です?」

私は言った。上条刀夜の幻想を終わらせるために。

「何故あんなものに頼ってしまったんです?アレは貴方の手に負えるような代物では決してないというのに」

刀夜氏の顔から、表情が消えた。

「何を、言ってるんだ、神裂君。それより」
「とぼけてないで教えて下さい。どうして魔術に手を出してしまったんです?」

上条刀夜が目を逸らした。咳払いをした。沈黙が続いた。
まるで私が不吉な呪符であるかのようだった。

「答える前に」

低い声で、刀夜氏は言った。

「一つだけ訊かせてほしい」
「何です?」

顔を上げて、呟く。

「当麻は無事なのか?」

空と海、二重の夕暮れの中、燃えるような茜色の世界で問う。

「どこか痛めたりしてないか?」

この場において、あまりに不釣り合いな言葉だった。
自らの身に危険が迫っている。にも関わらず、彼はまだ上条当麻の、息子の身を案じていたのだ。

「ええ、問題ありません」
「そうか。ならいいんだ」

わずかに安堵の息を吐く刀夜氏。

「さて、と。何から話そうか」

私は黙っていた。
訊きたいことは山ほどあったはずなのに、肝心の言葉が出てこなかった。
それでも、刀夜氏から視線を外すことだけはしなかった。
いかなる時も父親であろうとする男の顔を、私はじっと見つめた。

「あんな方法で願いを叶えようとは。バカなことだとは、私自身も思っていたのだがな」

やがて、刀夜氏は語り出した。

「なあ、神裂君。当麻はね、私達と共にこちらで過ごしていた頃、周りの人達からこう呼ばれていたんだ」

そこで一度、刀夜氏は言葉を切った。


たっぷり五秒は数えられるほどの間を置いて、彼は再び口を開いた。

「疫病神、とね」

吐き出すように、言った。

「当麻は生まれつき不幸な人間だった。だからそんな呼び方をされたんだろう。だがね、それは何も子供達の悪意の無いイタズラだけではなかったんだ」

表情を殺して、彼は続ける。

「大の大人までもが、そんな名で当麻を呼んだんだ。理由などない。原因などない。ただ不幸だからというだけで、そんな名前で呼ばれていたんだ」

刀夜氏の声には抑揚が全くなかった。

「当麻が側にやってくると周りまで不幸になる。そんな俗話を信じて、子供達は当麻の顔を見るだけで石を投げた」

いや、それだけじゃない。
刀夜氏には、本当に何もなかった。

「大人達もそれを止めなかった。当麻の身体に出来た傷を見ても、悲しむどころか逆に嘲笑った。何でもっとひどい傷を負わせないのかと、急き立てるように」

無表情という仮面を被り、それでも尚、押し殺すことの出来ない怒り。
彼にはただ、それしかなかった。そして、

「当麻が側から離れると、不幸もあっちに行く。そんな俗話を信じて、子供達は当麻を遠ざけた」

その矛先は上条当麻に危害を加えた子供達にではなく、

「その話は大人までもが信じた。知っているかい、神裂君。当麻は一度、テレビに出たことがあるんだ。生まれつき不幸に付き纏われているというだけで、カメラに好き勝手撮られた挙句、霊能番組とかこつけて化け物のように取り扱われただけなんだがね」

上条当麻の不幸を面白半分にからかった大人達にでもなく、

「恐かったはずだ。痛かったはずだ。辛かったはずだ。それでも私には何も出来なかった。自分の息子が苦しんでいるのに、何も出来なかったんだ」

息子を不幸から守り切れなかった、彼自身に対してのみ向けられていた。

「当麻を学園都市に送ったのもそれが理由だ。私はね、恐かったんだ。幸運だの不幸だのが、じゃない。そんなものを信じる人間が。さも当然のように当麻に暴力を振るう現実が」

刀夜氏は語り続ける。

「恐かったんだ。あの迷信が、いつか本当に当麻を殺してしまいそうで。だからこそ、そんな迷信の無い世界に息子を送りたかった」

顔色一つ変えずに。

「しかし、あの科学の最先端でさえ、当麻はやはり不幸な人間として扱われてきた。当麻から届いた手紙を読むだけで分かったよ。以前のような陰湿な暴力はなかったようだが」

自らの内に蠢く激情を必死に抑え込んで。

「だがね、それで私は満足できなかった。当麻に付き纏う不幸そのものを、私は打ち殺したかった」

そうか、それが貴方の理由なんですね。

「常識など通じず、科学の最先端手法も効果はなし。となれば、残された道は一つしかない。私はオカルトに手を染めることにした」

それで『御使堕し』なんですね。


もっと下らないものだと思っていた。
人の位に堕ちた天使を捕らえて使い魔に仕立てるとか。
天の位に出来た階位を横取りするとか。
自分勝手な野望を聞かされるものだとばかり思っていた。
けれど、耳に届いたのは、下らないものなんかじゃ決してなかった。
別の、全く予想もしない言葉だった。


天使など、どうでも良かったのだ。
刀夜氏が求めたもの。それは本来であれば副作用に過ぎない入れ替わりの方だったのだ。
上条当麻と他の誰かが入れ替わる。そうすれば『不幸な人間』という肩書きも、同時にその誰かと入れ替わる。
確かに、そうすれば上条当麻の背負っているものはなくなるだろう。


でも違う。刀夜氏は誤解している。
そんなものに頼るまでもなく、既に上条当麻は……。


話を終えた刀夜氏は、そのまま黙り込んでしまっている。
その目は空間のどこかを、いや……ここではない場所を、見つめていた。

「確かに上条当麻は不幸です」
「ああ」

視線を動かすことなく、刀夜氏は肯いた。

「不幸でなければ、当麻はもっと平穏に暮らせた。幸せになれたはずなんだ」

ちっ、と私は舌を鳴らした。

「本当にそうでしょうか?貴方の思うように、彼も考えているんでしょうか?」
「……どういう意味かね?」

刀夜氏の殺気立った問いには答えず、私は海に目を向けた。
とうとう水平線から半分しか顔を出せなくなった太陽が、一日の終わりを惜しむかのように輝いている。


ゆっくりと視線を戻すと、刀夜氏は弱々しい目でこちらを見ていた。

「出会ったばかりの頃の上条当麻は、いつも周りに対して気を遣っていました。笑っていても、それは本心などではなく、自分以外の誰かを安堵させる手段に過ぎなかったんです。おかしいですよね、あの年頃の少年が笑えないなんて」

でも、と一呼吸置いて続ける。

「彼、美琴と一緒だと笑うんです。それはもう、本当に良い顔で。今じゃしょっちゅう笑っています」
「……」
「もちろん、それで彼の不幸が取り除かれたワケではありません。厄介事に巻き込まれるのも日常茶飯事です。でも、そのおかげで彼は出会えたんです。どんな不幸でも一緒になって笑い飛ばしてくれる、そんな女の子と」
「だから当麻は幸せだと。そう言いたいのかね?」

訊ねる声。けれど弱々しい声。
もちろん一片の迷いもなく、私は言い放った。

「世界で一番幸せですよ、あの二人は」
「あっさりと言ってくれるものだ」
「だって、そうにしか見えませんから。思い出してみて下さい。再会した彼は、びっくりするくらい良い顔をしていませんでしたか?」
「……」
「どうです?」
「……」
「していませんでした?」

刀夜氏は答えなかった。
ただ肩を落として黙り込んでいる。
そんな姿をしばらく眺めたあと、私は目を閉じた。
そうして訪れたのは闇ではなかった。


光、だった。


太陽のような力強い光じゃない。
闇夜を淡く照らし出す月のような、優しい光だった。
私には見える。そんな光の中を、肩を寄せ合って歩く少年と少女の姿が。
二人とも、幸せそうに笑っている。


どこまでも行きなさい。私は呟いた。
行ける所まで。大丈夫。貴方達ならきっと、どこまでだって行けます。


目を開け、再び刀夜氏を見る。彼は笑っていた。

「何だ」

気の抜けたような声。

「当麻のヤツ、幸せになれたのか」

ぎこちなく笑っていた。


ええ、と躊躇うことなく肯く。

「バカだな、私は。それじゃ全く逆効果だ。私はみすみす、自分の子供から幸せを奪おうとしていたのか」

刀夜氏は笑っていた。
無表情の仮面を剥がし、笑っていた。


もう、大丈夫。


心の中で、小さく安堵の吐息を洩らす。
刀夜氏が『御使堕し』を引き起こす必要性は、これで完全に無くなった。
あとは早急に儀式場の正確な位置を訊き出し、破壊するだけ――


その時、刀夜氏が何気なく言った。

「といっても、何が出来たワケでもないがな」
「え?」
「全く、私もバカだ。あんなお土産を収集した程度で何かが変わるはずもない。オカルトなんぞに何の力もない。そんなこと、分かっていたはずなのに」

一瞬、自分の耳を疑った。


今、彼は何と言いました?
話を根底から覆すようなことを口走りませんでしたか?
いやいや、焦ってはいけません。ここはひとまず様子を見て、それから訊ねてみましょう。
うん、それが最善です。さっきの言葉も、ただの聞き違いかもしれませんし。


胸の内に妙なざわめきを覚えながら、私は刀夜氏に歩み寄った。と、刀夜氏が振り向き、言った。

「もう出張先から変な土産を買って帰るのはやめにするよ。大体、土産屋に置いてある家内安全やら学業成就やらといった民芸品を買い漁った程度で不幸が治るはずもない。菓子の方がまだ母さんも喜ぶ」

聞き違いでも何でもなかった。


ちょっと待って!待って下さい!


叫びそうになるのを、必死で堪えた。

「あの、一つ確認させて下さい」

その恐ろしい可能性に無理やり目を背けながら、私は訊いた。

「貴方には、私が女に見えますか?」
「ん?どういうことかね?」
「お願いです。正直に答えて下さい」

首を傾げつつも、刀夜氏は告げた。

「昨日の件、まだ引きずっているのかい?気に病むことはない。言葉遣いがどうであろうと、君は立派な男だよ」

その恐ろしい可能性は、一瞬にして真実へと様変わりした。


上条刀夜の顔は、嘘を吐いているようには見えない。
刀夜氏は、私が男だと本気で信じている。だが、それだとおかしい。
『御使堕し』を引き起こした犯人自身が、その影響を受けるはずがないのだから。


ということは、上条刀夜は……いや、でも、そんな……。


考えがまとまらない。
何から考えればいいのか分からない。


頭を抱えたい衝動に駆られた、そんな時、


サクッ


砂を踏む音が唐突に聞こえた。

「……クロイツェフ」

一体いつからそこにいたのか。
隠れる場所なんて全くない砂浜に。
赤いシスターの姿を借りた主の使いが、悠然と立っていた。











[20924] 第19話 御使堕し編⑰
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/06 00:59
「追いつかれてしまいましたか」

夕暮れの砂浜で、私は血の色を連想させる赤い外套を羽織ったソレを見つめる。


白く、折れてしまいそうなほど華奢な身体。
腰の辺りまで伸びた、緩やかにウェーブする金色の髪。
だらりと下げられた右手にはL字の釘抜き。
けれど、ソレはロシア成教に所属する少女ではない。
目の前のソレはクロイツェフではなく、ただ、天界より堕ちてきた神の繰り人形に過ぎなかった。


無言のまま、ソレは刀夜氏を見つめている。
互いの距離は、そう。ちょうど十メートルほど。

「知ってますよ、貴女の――」

私は呟き、ソレは砂を蹴った。
ソレは刀夜氏の頭上へと跳躍して、その頭部に釘抜きを振り下ろす。
きぃん、と金属と金属が衝突した。刀夜氏の脳天を狙った釘抜きと、防ぎに入った私の刀が衝突する。


ほんの一瞬、交錯する視線。
敵意に満ちた私の瞳と、感情の消滅したソレの瞳。


表情一つ変えず、ソレは大きく跳ねた。
私から逃れるように後方に跳んで、海面に降り立つ。
一度の跳躍で二十メートルも離れたソレは、水の上に当然のように降り立ってみせたのだ。
明らかに、人間という存在から逸脱している。

「やはり」

と、私は言った。

「それが貴女の正体ですか」

冷たい私の声に答える代わりに、ソレは釘抜きを天にかざす。瞬間。
茜色に染まる空が、星の散らばる夜の空へと切り替わった。
頭上には禍々しいほどに巨大な蒼い満月。


全く、やりたい放題ですね。
今の月齢では半月が妥当だというのに。
まあ、これも何かの縁です。せっかくですし貴女の正体、暴き切ってみせましょうか。


おそらく、この夜は自身の属性強化のため。
そして月を主軸として置くところを見ると……ああ、なるほど。心得ました。
水の象徴にして青を司り、月の守護者にして後方を加護する者。
旧約においては堕落都市ゴモラを火の矢の雨で焼き払い、新約においては聖母に神の子の受胎を告知した者。


そんな彼女が上条刀夜の命を狙う理由は、まあ、考えるまでもありませんね。
『御使堕し(エンゼルフォール)』は天使を地上へ落とす術式。
ならば、落とされた天使が元の場所へ帰ろうと思うのは当然のこと。
今まで我々と行動を共にしていたのは、標的を見極めるためといったところでしょうか。
『御使堕し』の術者を、確実に殺さねばならない相手を見極めるため。

「殺す、ね」

目を細め、激しい嫌悪と共に呟く。


つまらない。本当につまらない。
そんなつまらない手法では、私の目指す到達点には遠く及びません。

「残念ですが、貴女は上条刀夜を殺せません」

刀を鞘に戻し、青を司る大天使に告げる。

「私がいますから」

答えは返ってこない。
大天使は黙ってこちらを眺めている。
彼女は動かない。そう、彼女自身は指一本動かしていない。


動き出したのは、彼女の周囲だった。
天使の背後にあった海水が突如として噴き上がり、彼女の背に殺到した。
膨大な量の海水は、瞬く間に巨大な氷の翼を形成していく。
五十メートルを優に超えているであろう翼が何十と集まり、彼女の背後でバサリと広がる。
それは何人にも越えられぬ壁にも見えた。あまりにも巨大な水晶の扇のようにも見えた。


ふむ、天使の魔力が隅々まで行き渡った氷の翼ですか。
あんなもの、一本でも振り下ろされたら一巻の終わりです。
おそらくは砂浜ごと、あっけなく潰されてしまうでしょうね。


なんて考えている内に、翼が一本、天高く振り上げられる。
一瞬の間を置いて、私の頭上へと真っ直ぐに振り下ろされる。
その背に庇う刀夜氏共々、何の躊躇もなく押し潰される。

「心外ですね」

押し潰される、はずだった。


鞘より引き抜いた刀で、私は氷の翼を横一線に切断した。そして、完全に殺しきった。
込められた魔力ごと断ち切られた翼はただの氷の粒と化し、夜の闇へと消えていった。

「この程度で止められるなどと、本気で思われていたなんて」

天使が翼を振るう。右から、左から、正面から。

「忘れましたか、私の名を」

次々と襲いかかって来る翼を、私は悉く切り払う。

「我が名は神裂」

天使はただ黙って私を見据える。
斬り飛ばした翼が、新たに海水を取り込んで元の形と大きさを取り戻していく。


応えるように、私は腰に提げた刀の柄に手を触れる。

「神を裂く者なり」

その言葉を皮切りに、命の削り合いが始まった。












戦局は固定されていた。
天使の操る氷の翼の前に、刀夜氏を背中に庇いながら戦う私は防戦一方だった。
迫りくる数十もの氷の翼を、数千もの氷の破片を打ち払い続ける。
しかし斬っても斬っても、翼はあっと言う間に再生してしまう。


攻撃が止むことはなく、むしろ更に激しくなっていく。
百分の一秒単位の速さで次々と襲いかかってくる凍える翼。
瞬き一つですら自殺行為になりかねない状況。
後ろに庇う刀夜氏の無事を確認したいが、それが叶うはずもない。


天使は攻撃の手を緩めない。
数十本もの翼を別々の生き物のように動かして、より一層凄まじい乱撃を繰り出す。
だが、逆に言えばそれだけだった。天使には氷の翼しかなかった。
彼女ほどの魔力の持ち主なら、もっと別の攻め方が出来るはずなのに。
もっと簡単に私を葬り去る術があるはずなのに。


どうして氷の翼にこだわる?
どうして他の手を使ってこない?


ひょっとしたら、とがむしゃらに刀を振るいつつ考える。
使わないのではなく、使えないのかもしれない。
人の身体では、そのあまりに強力過ぎる魔力を扱いきれないのかもしれない。
だとすれば。そうだとすれば勝機が見えてくる。


私は氷の翼を斬り落とし続けた。
海の家に辿り着いた頃より、ずっと身体がだるい。
身体が腐っていくような、壊れていくような感覚。
世界中を探しても二十人もいない、神に選ばれた『聖人』のみが所持を許される聖痕。
その強大過ぎる力を酷使した代償が、私の全身を蝕み始めている。


それでも止まるワケにはいかない。
このまま持久戦を続け、天使の魔力を奪っていく。
私の身体と、天使の魔力。先に音を上げるのは、果たしてどちらか。と、不意に重圧が軽くなった。
絶え間なく続いていた攻撃の手が、遂に緩んだのだ。


勝ったと思った。思ってしまった。
だが、次の瞬間。私の目に映ったのは希望とは全く正反対の代物だった。


頭上の月が、一際大きく蒼く輝いた。
眩い月の周りに生まれる、光の輪。
輪は満月を中心にして一瞬の内に増殖し拡散、夜空を圧倒的なまでの光で埋め尽くした。
更に輪の内部に光の筋が走り回り、複雑な紋章が描かれていく。


魔法陣。それも単に巨大なだけではない。


目を凝らし、絶句する。
ラインを描く光の粒一つ一つが、それだけで別の魔法陣を形成している。
水平線の向こうまで広がる何億もの魔法陣。
規則正しく描かれた陣が、更に巨大な魔法陣を築き上げている。


……何て、こと。


夜空に瞬く光の群れの下で、私は絶望に打ちひしがれた。
あの術式は、かつて堕落した文明を一つ丸ごと焼き尽くした火矢の豪雨そのものじゃないか。


彼女は正気なのだろうか。
ただ一人を狙うためだけに、こんなものを持ち出すなんて。


……いや、違う。


こんなものを持ち出す原因を作ったのは、私だ。
天使は神の命なしに人を殺せない。それでも天の位に戻るためには致し方ない。


彼女は必要最低限の犠牲で、天上へ戻るつもりだった。
自らを下界へ落とした張本人だけを始末して、それで終わらせるつもりだった。
だが、そこに私という邪魔者が介入してしまった。


半端な力では私を攻略することは出来ない。
そう判断した結果が、あの魔法陣。旧約に記されし神話上の術式。この世界を一掃する、滅びの光。


まただ。また私のせいで、みんなが不幸になってしまう。
神様に選ばれなかった人々を苦しめてしまう。
私のせいで。全部、私のせいで。
選ばれなかった人々から、私が幸運を奪い取ってしまったせいで。


天使が氷の翼を振り上げる。
数は三本。勢いをつけ、一斉に振り下ろすつもりなんだろう。


私は刀を構えない。
ただ突っ立っているだけ。


もう限界だった。
息が苦しい。目が霞む。身体が焼けるように熱い。
何より、これ以上自分が足掻くことに意味を見出せない。


このまま上条刀夜と共に殺されてしまえば、少なくとも一掃は止められる。
犠牲者はたった二人で済む。そんな考えが頭を過った、その時だった。


オレンジ色の閃光が、三本の翼を貫いた。
数秒遅れて、氷の翼は思い出したかのように倒壊を始める。
閃光の直撃を免れた他の翼を何本か巻き込んで、粉々に砕け散ってしまう。

「間に合ったみたいだな」

その声は、私の友を救ってくれた人のもの。

「ギリギリだけどね」

その声は、私の心を救ってくれた人のもの。

「……全く」

私は振り返った。

「遅かったじゃないですか」

少し離れたところに、一組の男女が立っていた。


寄り添うように、守り合うように。
上条当麻と御坂美琴が、そこにいた。











[20924] 第20話 御使堕し編⑱
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/05 22:47
全く、何てタイミングで駆けつけてくれるんですか。


目の端に滲んだ雫を慌てて拭う。
横目で大天使の様子を窺いつつ、走り寄る二人を迎える。

「状況は?」

手短に訊ねる美琴。

「最悪です」

私も一言で答える。
再会を喜び合っている時間はない。

「天使が正体を暴露した上、最悪のカードを切ってきました」

こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。

「このままでは世界の半分以上が焦土と化してしまいます」

時間がない。無駄口を叩いている暇はない。

「でも、変わりませんよね」

そんな美琴の声。

「私達のやるべきことは、何も変わりませんよね」

私は黙り込んだ。
彼女と知り合ってからというもの、しょっちゅう、こんな調子だ。
美琴は思ったことを、思ったままに口にしているだけ。
だからこそ、それはいつだって真実に近くて。いつだって、私に勇気を与えてくれて。

「刀夜氏に術式を解除してもらう。それで全て解決します」

ですが、と私は付け加える。

「どうも刀夜氏には自身が『御使堕し(エンゼルフォール)』の術者であるという自覚がないようなのです」

え、と驚く声。

「ホントですか、それ」
「ええ」

私は肯いた。

「しかも『御使堕し』の影響を少なからず受けています」
「と言うと?」
「刀夜氏は私のことを男として認識しています」

美琴は難しい顔をした。


無理もない。専門家である私ですら混乱しているのだ。
魔術に関して素人同然である彼女が、この難問に対する答えを導き出せるはずがない。

「んー」

美琴は困ったような顔で唸った。が、わずか二、三秒の後。

「ま、いっか」

なんて、あっけらかんに言ってみせた。

「はい?」

思わず、間抜けな声を上げてしまう。

「悩んだところで答えなんか出てきませんし」
「いや、まあ、確かに」
「だったら、とりあえず動きましょう」

ね、と言って、無邪気な感じで見上げてくる。

「……」

あっさりと言葉に詰まった。
ぐるぐる色んなことを考えて、ようやく私は口を開くのに。
美琴は実に簡単に自分の言いたいことを伝えてくる。それも、きっちりと。


全く、敵いませんね。太刀打ちすら出来ません。
ぐうの音も出ないとは、こういうことなんでしょうね。

「で、具体的にはどうするんだ?」

上条当麻が美琴に話しかける。

「二手に分かれるってことで、どう?」
「二手?」
「うん。当麻は刀夜さんを連れてここから離れて」

ああ、と上条当麻は肯いた。

「神裂さんも」
「え?」
「『御使堕し』の解除に専念して下さい」

そう言って、美琴は海に目を向ける。

「で、私は」

視線の先には海面で不気味な沈黙を守る、大天使の姿。
その瞬間、何もかも理解した。

「駄目ですっ!」

気がつけば叫んでいた。

「絶対に駄目です!そんなことは許しません!」
「誰かがやらなきゃいけないんです」
「な、なら私も」
「それこそ駄目です」

短い言葉で、割り込まれる。

「そんなボロボロの身体で何が出来るって言うんです?」

心臓が突然、跳ねた。確かに、ドクンと。

「ど、どうして……」
「分かりますよ、それぐらい。態度でバレバレです」

少し間があった。


美琴はきっと待っている。私の言葉を待っている。
それが分かっても、でも、私は黙っていた。
かけるべき言葉が見つからなかった。

「お願いします。一刻も早く『御使堕し』の解除を」

何故か笑いながら、美琴は言った。

「こっちは私が何とかします」
「で、ですが……」
「大丈夫」

美琴が私の顔をじっと見つめてきた。
その瞳には強い意志の光が宿っている。

「私、結構強いんですよ」

美琴は笑っていた。
全てを覚悟し、笑っていた。
彼女の笑みを見ていたら、もう何も言えなくなってしまった。

「分かりました……」

声が少し掠れた。


うん、と満足そうに肯く美琴。
それから上条当麻の方へと振り向いて、彼の胸を拳で叩く。

「じゃ、そっちは任せたわよ」
「おう、任された」

上条当麻も握り拳を作り、美琴の拳に軽くぶつける。
小さく笑い合う二人。そして、同時に背を向けた。

「負けるなよ、美琴」
「当麻も、気をつけて」

もう言葉は要らなかった。
成さねばならないことは二人とも、はっきりと分かっていたから。


上条当麻は父親の手を取り、駈け出した。
愛する者を守るために。愛する者と共に生きる、この世界を守るために。


それにしても、と私は思う。


今、完全に二人だけの世界になってましたね……。












圧倒的なまでの威圧感だった。
向かい合っているだけなのに、緊張で身体が凍りつきそうになる。


……これほどとはね。


知らず知らずの内に流れていた汗を拭い、渇いていた唇を舐める。


ただ佇んでいるだけだっていうのに、どこまでも巨大な存在感。
天使とは人の規格から外れた存在。そんなものに対して戦おうと考える時点で既に間違い、というのは神裂さんの言葉だ。


なるほど、と思う。
あまりにも……この敵は、強過ぎる。
そして同時に、思う。それがどうした、と。


人の規格から外れてる?強過ぎる?
だから何?そんなものはね、とっくの昔に通過してんのよ。


学園都市最強の超能力者を相手に、かつて私は成す術もなく敗れ去った。
相手との戦力差はあの時と同じか、ひょっとしたらそれ以上。
それでも負けるワケにはいかない。ここを突破させるワケにはいかない。


当麻が信じてくれたから。
自分が負けないことを信じてくれたから。
それに応えずして、アイツの彼女が務まるもんか。


とは言っても、今のままじゃ間違いなく瞬殺されるわね。
電磁波を介し、神裂さんと天使の戦いを観察していたから分かる。二人の動きは音速に迫る勢いだった。


百分の一秒単位での攻防。
電磁波フィールドを展開しても、感知するのが精一杯。
攻めに回るなんて夢のまた夢。反応すら間に合わず、一方的にやられてしまうだろう。
生体電気で筋肉を限りなく強化しても、さすがにそこまでの速さは出せない。
常人並の筋力をいくら強化したところで、音速には届かない。


じゃあ、どうする?
その答えはあまりにも簡単だった。


私は無意識に身体から流れ出る電磁波に意識を向ける。
湯水のように溢れていた電磁波をピタリと止め、全身を覆わせる。

「土御門さんには感謝しなくちゃね」

言うと同時、私は自らを覆う電磁波の出力を上げる。


能力の完璧な制御。
そんな発想が可能にした、新しい力。


電磁波は波長によって呼び名が変わる。
その内の一つに、光がある。そう、光は電磁波の一種なのだ。
電波や赤外線、そして医療器具や兵器として使われるレーザーですら、元を正せば等しく電磁波なのだ。


出力を上げた電磁波は黄金に光り、私の身体を包み込む。と、氷の翼が一本、ひとりでに砕け散った。
硝子の破片のようになった数千もの氷の刃が、私目がけて襲いかかる。


でも私は動かない。目を向けもしない。
刃の雨が無防備の私に降り注ぎ……そして、一つ残らず蒸発した。


ふう、と息を吐く。
良かった、通じるみたいだ。
高出力の電磁波は、全てを焼き尽くす障壁と化す。
速さなんて関係ない。あの程度の攻撃、何度やられたって防ぎ切れる。


これで防御面は一安心。
何の気兼ねもなく攻めに回ることが出来る。
私は一瞬ニヤリとし、すぐにまた、拭ったように笑みを消す。
ゆっくりと、瞼を閉じる。最善となる攻撃法を模索する。


超電磁砲は駄目だ。
連射が出来ない上、弾数にも制限がある。
ポケットに忍ばせているメダルは三枚。
主戦力として使うには、あまりにも心許ない。


得意の電撃も、天使が海の上にいるせいで使えない。海水が電気を通してしまうからだ。
いくら加減しても、これではサーシャの身体を傷つけてしまう。それにもちろん、天使だって。


そう、私は天使を倒すつもりなんてない。
助けたいだけだ。在るべき場所に帰ってもらいたいだけだ。
だって、彼女も『御使堕し』に巻き込まれた被害者の一人に過ぎなくて。
誰かが犠牲になる必要なんて、これっぽっちもないはずで。


だから私は、全力で彼女を止める。
『御使堕し』が解除される、その時を待つ。


当麻を信じて。
神裂さんを信じて。
土御門さんを信じて。
そして、自分を信じて。


ゆっくり、ゆっくりと目を開ける。


攻撃法は決まった。
あとは実践するのみ。


大丈夫。


心の中で、呟く。


絶対に、大丈夫。











[20924] 第21話 御使堕し編⑲
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/19 20:24
ずっと立ち尽くしていた。
目の前に広がる光景が信じられなかった。


海の家に辿り着いた途端、耳に届いた轟音。
間断なく響き渡るそれに耐え切れず、私は踵を返していた。
上条当麻の制止の声を無視して、走り出していた。


やはり無理があったのだ。
たった一人で天使の足止めをするなんて。
相見えた彼女の力は、圧倒的なものだった。
人はやはり主の使いには敵わないのだ。
聖人としての力があったからこそ、私は持ち堪えることが出来た。
では、それを持たない美琴は?聖人どころか、魔術師ですらない彼女は?


……駄目です。最悪の結末しか頭に浮かびません。


飛ぶような勢いで、砂浜に続く一本道を駆け抜ける。

「……え?」

そして目撃する。奇跡のような光景を。
青を司る大天使の背を彩る氷の翼が、次々と破壊されていく様を。












美琴は片腕を上げて相手と対峙していた。
右腕を肩と水平になるまで持ち上げている。
その掌は力なく広げられていて、遠くの誰かを呼び止めるような、そんな仕草に似ていた。


彼女の身体は金色の光に包まれていた。
それはまるで、光の衣を纏っているかのようだった。


天使が翼を一本、美琴へ打ち込もうと振り上げる。
なのに、美琴は前に突き出した腕を微かに動かすだけ。
立ち止まったまま、開いていた掌をぐっと握る。それは、何かを握り潰すような動作。
同時に振り上げられた翼が天使の背から離れ、海に落ちた。美琴が攻撃を仕掛けたのだ。
目に見えぬ攻撃。それも、あんな僅かな仕草だけで。


しかし天使は怯まない。
唐突に、五本もの翼を美琴に打ち込んだのだ。
果たして翼は……ただの一本も通らない。
美琴の全身を覆う光に触れた瞬間、蒸発してしまったのだ。


私はただ立ち尽くしていた。
人は主の使いには敵わないなんて、もう言えなくなってしまった。
敵わないどころの話ではない。押している。聖人どころか、魔術師でもない美琴が。


間髪入れず、美琴は突き出した掌を広げ、もう一度強く握り潰す。
また一本、氷の翼が海へ落ちる。天使の背後に舞うのは白い煙……いや、違う。


美琴の攻撃がどういったものなのか、おぼろげながらも悟った。
美琴は空間の一部を焼き潰している。根元に近い部分だけを焼失させ、塔の如き巨大な翼を崩している。
天使の底知れぬ魔力によって強化されているはずである、氷の翼を。
氷から、一瞬にして水蒸気へ。液体を経る過程など、コンマの間さえ与えずに。


美琴が掌を強く握るたび、翼はその数を減らしていく。
天使は再生を試みるが、間に合わない。
凍える翼の攻略は、もはや時間の問題だった。

「すごい……」

私は見くびっていた。
美琴の力を過小評価していた。
一連の光景はあまりに衝撃的で、だから私は棒立ちのまま動けなかった。


美琴の言葉も、意志も、能力も。全てが想像の遙か上を行っていた。
後ろ向きな考えに没していた私など、問答無用で置き去りにして。


――強い。


圧倒的でさえある。


黄金の光を纏い、大天使を前に余裕の笑みすら浮かべる美琴。
その姿に、私はある動物を連想せずにはいられなかった。
草原の世界において百獣の王と恐れ敬われる、獅子という名の猛獣を。


氷の翼が天使の背から剥ぎ取られていく。
一本、また一本と海へ落ちていく。


その時。


膨大な魔力の流れを感じた。
次いで空が唸り、大地が揺れる。


ま、まさか……。


私は魔法陣の放つ光で埋め尽くされた夜空に目を向ける。
それを見た瞬間、私の意識は凍りついて、糸が切れた人形のように指先一つ動かなくなった。


天使の頭上、空の遙か彼方にて新たな魔法陣が一つ出現していた。
空中に描き出されたそれに、魔力が込められていく。無尽蔵に高まっていく。
周囲の魔法陣を圧倒するほどの光を湛えたそれは地上に、いや、真っ直ぐ美琴に向けられていた。


間違いない。あれは砲門だ。
広範囲に放つつもりだった滅びの光を収束し、撃ち出すための砲門。


なんて、こと。


天使は美琴を敵として認識してしまった。
自らの驚異となり得る相手であると、判断してしまったのだ。


魔力の高まりは止まらない。
もう誰にも止められない。

「美琴っ!」

身体を縛りつける恐怖を必死で振り払って、走り寄る。


それを――美琴は片手で制した。


近寄るな、という意思表示。
目を細め、自身を狙う魔法陣を見据える美琴。


焦りも、迷いも、恐れすらも彼女にはなかった。
彼女は絶望などに侵されていなかった。
この期に及んで尚、彼女は諦めていなかった。












異常なまでに光り輝く魔法陣が、真っ直ぐこっちを向いている。


あれは、マズイ。
魔術のことなんてまるで知らない私でも分かる。
今まで見たどんな能力よりも、もっと、ずっと、あれは危険だ。
そう確信すると同時、私は演算を開始する。
弾き出すべき解は一つ。もうすぐそこまで迫っている死に抗う、最善の対処法。


空間を焼き潰す、という手は使えない。
あれは自身で展開した電磁波フィールド内においてのみ可能な技だ。
フィールド内を縦横無尽に動き回る電磁波の出力を、局地的に跳ね上げる。
そうして高熱を帯びた光を収束、空間もろとも標的を圧縮する。
実際に握り潰す動作を行なっているのは、より鮮明に圧縮される電磁波をイメージするためだ。


光の速さで行なう、不可視の攻撃。
それでもこの局面では何の役にも立たない。
距離が遠過ぎる。力を振り絞ったとしても、成層圏の先まではさすがにフィールドを展開できない。


同様の理由で超電磁砲も使えない。
射程距離が五十メートル程度では話にならない。


電撃は、まあ、届きはするだろう。
でもそれだけ。尋常じゃない輝きを放つ光に飲み込まれ、それで終了。
威力が足りない。絶望的なまでに足りない。


でも私は動じない。
そんな暇があるなら、一秒でも長く思考する。
必死に頭を回転させて、打開策を導き出す。


探せ、探し出すんだ。
頭上で燦然と輝く高エネルギーの塊に対抗し得る術を。
射程はもちろん、威力ですら超電磁砲を凌ぐ力の在り処を。


探して、探して、探して。やがて、一つの希望が浮かび上がる。


――荷電粒子砲。


イオン化した微細な粒子を電気的・磁気的に加速、束ねて高速で撃ち出し衝撃と熱によって攻撃する兵器……とまあ小難しい言葉を並べてみたけど、簡単に言えば『超すごい水鉄砲』に過ぎない。


でも、だからと言って甘く見てもらっては困る。
ただ水を標的に向けて噴射するだけの水鉄砲でも、充分に収束させて充分な速度を持たせれば立派な武器になる。
水圧が充分であれば鉄板など易々と貫通し、ダイヤモンドだって削って切断してしまうほどの威力を誇る。


圧力が威力を決める水鉄砲。
対し、荷電粒子砲は電力量によって純粋な威力が大きく左右される。
そう、荷電粒子砲の起動には莫大過ぎる電力を必要とするのだ。
現代の地球上では、たった一発分すら確保できないほど超絶な量の電力を。
理論上は現在ある技術で実現可能にも関わらず、『架空のSF兵器』の烙印を押されている所以はここにある。


しかし逆に考えれば、電力さえ賄えれば実現するのだ。
その瞬間から、荷電粒子砲は本当の意味で完成するのだ。
私という電力供給があれば、『架空のSF兵器』は架空の存在ではなくなるのだ。


……決まり、ね。


口の端を笑みの形に歪める。
左右の手から黄金の光を生み出す。掌を開き、集め出す。
右には正の電荷を帯びた粒子を。左には負の電荷を帯びた粒子を。


それぞれの掌の中、円形の軌道を描いて加速させていく。
粒子同士がくっついて電荷が中性にならないよう二種類の粒子を別々に、しかし同じ速度で加速させていく。


ふと見上げれば、件の魔法陣は直視できないほど力強い輝きを放っている。
どうやら天使の方はもうじき発射まで漕ぎつけてしまうらしい。


ま、それはこっちも同じなんだけどね。


左右の光をぶつけるように両手を胸の前で組み合わせ、そして収束。
膨大な、しかも両手より発せられる光をむりやり掌に押し込める。
同時に身体の隅々に生体電気を流し、筋力を可能な限り強化する。
荷電粒子砲の発射によって生まれる、凄まじい反動に備える。


輝く。強く、強く輝く。
圧縮された光が手から溢れ、周囲を金色に照らす。


準備は、整った。


私は天使を睨みつけた。
天使も私を睨みつけた。


数秒の膠着の後。まるで申し合わせでもしていたかのように、私達は全く同時に仕掛けた。


組み合わせた掌から、黄金の破壊砲を放つ。
巨大な魔法陣から、蒼白い破壊光が撃ち出される。
金と蒼。異なる二色の光が正面から激突し、視界を真っ白に覆い尽くす。


斜め上から降り注ぐ重圧が、身体を大地に縫いつける。
大地が揺れ、風が吹き荒れ、土砂が巻き上がる。

「ぐ、うっ……」

想像を遙かに超える反動、そして力の消費。
万力で締め上げられるような負荷に、全身が悲鳴を上げる。
突き伸ばした両腕を保つことすら苦痛になる。


蒼い光の勢いは衰えない。
金色の光を押し返して徐々に、徐々に近づいてくる。

「……くっ……」

歯を噛み締めて、凄まじい圧力に辛うじて耐える。
ここで気を抜けば荷電粒子砲ごと一気に吹き飛ばされてしまう。


こんなものなの?
私の力じゃ、これが精一杯なの?


ううん、違う。
こんなんじゃ、全然守り切れてない。
こんなんじゃ、アイツに……当麻に会わせる顔もない。

『負けるなよ、美琴』

そうだ。負けてなんかいられない。
私には帰るべき場所がある。いつまでも一緒にいたい人がいる。

「負けない……」

だから帰らなきゃ。アイツの元へ。

「負けたくない……」

早く、帰らなくっちゃ。
誰よりも、何よりも。自分自身よりも大切な、アイツの元へ。
そのためにも、こんな所で負けられない。負けられるワケがない。

「負ける……もんかああああっ!」

私は吠えた。声も枯れよと。
そして残っていた力の全てを解放した。


息を吹き返した黄金の光が一瞬にして蒼い光を飲み込み……その先にある魔法陣に突き進む。
破壊の極光は蒼い光を生み出した魔法陣を貫き、尚も勢いを止めることなく進み続ける。


上空へ、上空へ。極光は、ただひたすら上り続ける。
程無くして成層圏の先まで行き着いたそれは爆ぜ、空が震えた。
耳をつんざく爆発音が響き、空一面を黄金が照らした。











[20924] 第22話 御使堕し編⑳
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/19 20:26
あれから、どのくらいの時間が流れたのだろう。
美琴が魔法陣の群れを吹き飛ばしてから、私は何も出来ずに立ち尽くしていた。


仰向けになって、美琴は砂浜に倒れていた。ピクリとも動かない。
全身を覆っていた金色の光は、跡形もなく消え失せている。
恐らく持てる力の全てを使い果たしてしまったのだろう。


当たり前だ。世界を一掃できるだけの力と、正面から立ち向かったのだから。
滅びの光を一方的に押し返すだけでは飽き足らず、夜空を埋め尽くしていた魔法陣まで破壊してみせたのだから。


だが、魔法陣は修復されようとしていた。
満月を中心にして、光の輪が再び広がり始める。
夜空が光に包まれていく様を、私はぼんやりと眺めていた。
やがて光の輪は夜空の端、水平線の向こうまで消えてしまった。
更に輪の内部で光の筋が走り回り、複雑な紋章を描いていく。
蘇った魔法陣が放つ強烈な光で、私はようやくモノを考えられるようになった。


美琴の元へ走り出そうとし、

「……っ!」

がくん、と足が崩れ、倒れ込んだ。


両足に力が入らない。
水を被ったみたいに、身体中が汗に溶けていく。


そんな……そんなことって……。


私は自分の足に手を触れる。
動かなくなった足は、他人の足のように感覚がなかった。


時間切れ、だった。


戦わなければいけないのに。
美琴を守らなければいけないのに。
まだ心は折れていないのに、肉体はとっくに限界を迎えていたのだ。

「……み、こと」

うわごとのように呟いて、美琴の元へ向かう。
足が使い物にならないので、四つん這いで進んでいく。
一体何をしているんだろう、私は。ボロボロの身体を引きずって。


……そんなの、美琴を諦めたくないからに決まっている。


美琴が好きだから。
美琴には幸せになってほしいから。
これ以上、傷ついてほしくないだけ。
彼女が死ぬなんて、そんなこと、許せるワケがない。
何て物凄いわがままだろう。魔術師の世界に彼女を巻き込んだのは他の誰でもない、この私なのに。


倒れ込んだ美琴は、生きているように見えなかった。
這って美琴の元まで行った。彼女は安らかな顔をしていた。
顔の色は蒼白で、およそ熱というものが感じられない。それでも、呼吸は止まっていない。


私は安堵し、しかし、すぐに後悔が胸を埋めた。
これから私達は殺される。天使の撃ち出す滅びの光によって。


そう、それが事実。
覆すことの出来ない、決定事項。

「ごめんなさい」

私は美琴に謝った。
私が天使を倒していれば、世界が滅びることもなかったのに。

「もう終わりですね」

もっと私が強ければ、貴女が苦しむこともなかったのに。
愛する人と、幸せな未来を築いていけたはずなのに。


でも、これで美琴はもう――


その時、白い指が頬に触れた。


細い指が頬を撫でる。
かするように頬を撫でるそれは、彼女のものだった。

「泣かないで、神裂さん」

弱り切った瞳で、美琴はそう言った。


流れる汗が、彼女には涙に見えたのかもしれない。
ぼうっとした意識のまま、美琴は私の顔を撫でている。


その時だった。不思議な力が全身を駆け巡ったのは。


それは奔流であり濁流であり激流だった。
何もかもを押し流すほどの強さだった。


私は右手で拳を作ってみた。
不思議なことに、身体中に力が満ちていた。
全然だるくはなかった。
とめどなく流れていた汗も、ぴたりと止まってしまった。

「これは……」

ふふ、と美琴が笑う。

「まだ終わりじゃありません」

何を言っているんです、美琴。
そんなこと、あるワケないじゃないですか。
貴女の努力も虚しく、魔法陣が元通りになってしまったんですよ。
滅びの光が私達を狙っているんですよ。
もう詰んでしまったも同然じゃないですか。


けれど美琴は笑っていた。
優しく私を、見つめていた。












頭がクラクラする。
きっと、これは能力を使い過ぎたせい。
ぼうっとした意識で、私はとりとめのないことばかり考えている。
夜空に浮かぶ魔法陣の数とか、明日の自分がどうしているかなんて、意味のないことを。


大体、私はどうして力を求めたんだろう?


低能力者から超能力者へ。
決して平坦な道じゃなかった。
限界という壁にぶち当たることなんて、そんなの、日常茶飯事だった。
それでも頑張って、頑張って、頑張り続けた原動力は、一体何だったっけ?
色々あって、一番初めの理由を忘れてしまった。


私は――たしか。たしか、誰かの助けになりたくて、自分の能力を伸ばそうとしたんだっけ。

『君の能力は筋ジストロフィーの治療に役立つかもしれない』

苦しんでいる人がいた。
どうすればいいか分からなかった。
ただ、何とかしてあげたいと思った。
どんな些細なことでもいいから、力になりたいと思った。


……そっか。私、強くなるために力を求めたんじゃないんだ。


思い出し、泣きそうになった。


私はただ、救いたくて。
助けを求める人達の力に、手を差し伸べたいと思って。
強くなるより、優しくなりたいと思って。
私は自分の能力を伸ばすことに躍起になってたんだ。


なのに、私はそれを見失ってしまった。
強さばかりを追い求めて、最初の目的を忘れてしまっていた。
そうして天使相手にも真っ向から力で挑んで、こんな風に倒れている。


やっぱり私は、弱かった。
ひどく愚かで、無様だった。


――違う。


私には何も出来ない。
文字通りの、電池切れ。


――違う。


もう電撃を飛ばす体力も残っていない。
空っぽの私には何にも、何一つ、出来ない。


――違う!


冗談じゃない。
私はまだ生きている。だから、早く立たないと。
いつまでもこんな所で寝転がっている場合じゃない。

「大丈夫」

よろめきながら立ち上がる。


自分の輪郭が分かるような気がする。
世界と自分が切り離されたような、そんな感じ。

「能力なんかなくったって」

全身を震わせ、叫ぶ。

「私には、出来ることがある!」












私は目を見張った。
美琴の身体から、不思議な光が零れ始めたのだ。
弱く、そして強く、微かに瞬きながら。
光は次第に明るさを増し、やがて小さな太陽のように煌々と輝き渡った。
しかしどういうワケか、その光は眩しさを全く感じさせなかった。
柔らかくて、温かくて。何とも言えない穏やかな気持ちになれる、優しい光。


と、その時。破滅の時を告げる光が魔法陣から解き放たれた。
蒼白い光は夜空を鋭く切り裂き美琴を直撃し……そして、それ以上進むことはなかった。

「なっ!?」

私は自分の目を疑った。


世界の半分を容易く焼き尽くす滅びの光。
それが一瞬にして取り込まれてしまったのだ。美琴の身体を包む、優しい光に。


唖然としている私の横で、美琴は自らの右手を高々と上げる。


彼女の唇が、動く。
鎮まれ、と動く。












「よくやってくれたぜい、ヒメっち」

オレは一人、呟いた。眼下には戦場と化した砂浜が広がっている。

「おかげで下ごしらえも間に合った」

一人、また呟く。


オレは今、海の家の二階から世界の命運を賭けた戦いを観戦していた。
床には、うつ伏せになって倒れている奴らが数名。
カミやんの母親に従妹、それに海の家の店員だ。
クロロホルムで、ちょっとばかし深い眠りについてもらっている。


全く、面倒なことになったもんだ。
まさかこんな事態になるとは、想像もしていなかった。

「まあ、どうでもいいけどな」

そう、どうでもいいのだ。


過ぎたことをいくら悔やもうが、何の役にも立ちやしないのだから。
現実は常にそこにあり、逃げることなど不可能なのだから。


だから、戦うしかない。
戦うからには勝たねばならない。
何が何でも勝たなければならない。


――それでは魅惑の裏切りタイムスタートだぜよ。


ククッと笑う。


悪いねえ、カミやん。どうもこの問題を収拾するには、最低でも誰か一人を生贄にしなくっちゃなんないみたいだぜい。











[20924] 第23話 御使堕し編21
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/27 05:01
一瞬、だった。


夜闇が夕闇へと切り替わった。
本来あるべき世界が、具現化された空想から解き放たれた。
残っていた氷の翼も、その全てが砕け散った。
砕けた翼の欠片がキラキラと、光を反射しながら降り注ぐ。
天使の生み出した天使の領域は、たった一人の人間によって崩壊したのだ。


正体を取り戻した世界の中、美琴は右手をかざしている。


その手の内には、光。


あの光が何なのか、皆目見当もつかない。
しかし魔術師としての経験が告げていた。あれは魔術ではない、と。
天使の力を打ち消す魔術なんて、そんなもの、聞いたことすらない。


でも、だとすれば?
能力者としての力を使い果たしたはずの彼女を包む、あの光は?
魔術という過程を介さずに発現しているあの力は一体、何だと言う?


手がかりとなるのは、たった一つ。
光が広がる直前、美琴が発した言葉。鎮まれ、という言葉。


鎮まれ?鎮まれとは、一体……?


四つん這いのまま、私は混乱していた。
この短時間で起きた現象の全てが、魔術世界の常識すら超越していた。
もう、何もかもが分からなくなっていた。

「神裂さん」

すっかり聞き馴染んだ声。


顔を上げる。しかし美琴は目を合わせようとしない。
真っ直ぐに天使を見て、考え事をしているようだった。

「マズイです」

天使に視線を向けたまま、美琴はそう言った。

「あの子、メチャクチャ怒ってる」

言われて振り向くと、海の上から天使がこちらの様子を窺っていた。
その目には今までと違い、とある感情が浮き彫りになっている。
どうしようもないほどの殺意が、二十メートルという距離をものともせずに伝わってくる。


水の上を、天使は歩き出す。
こちらに向かって、近づいてくる。


肉弾戦に持ち込むつもりだ。
今の美琴に、魔術の類は通用しないと判断したのだろう。

「困りましたね」

相変わらず天使を見たまま、美琴は突然意外なことを言った。
けど、見たことろ普段の美琴と全く変わらない。
困っているどころか、横顔からは強い意思と自信すら感じ取れた。

「実は私、立っているのもやっとな状態でして」

それから、ゆっくりと顔を私に向ける美琴。
悪戯っぽい笑みを浮かべて、一言。

「守ってもらえます?」

ああ、まただ。
やはり美琴には敵わない。
いつだって、彼女は私が最も欲していた言葉をくれる。
明るい道に、私を引き戻してくれる。

「愚問ですよ、それ」

ニッと笑う。美琴を背に庇うようにして立ち上がる。

「守るに決まっているでしょう」

美琴の力が一体どういうものなのか。
そんなこと、分からなくても何ら問題はない。


私が今、するべきことは唯一つ。
美琴を守り、上条父子を守り、道に迷った天使を助けること。

「さて、今一度お付き合い願いましょうか」

刀の柄へ、軽く指を触れる。
体内で魔力を練り、己が身を『神を殺す者』へと作り変える。


もう躊躇わない。迷わない。
今はただ、私にしか出来ないことを果たすだけ。












さて、困った。息子の言っていることが全く理解できない。


夕陽に赤く染まる海の家の前で、当麻は必死に何かを訴えている。
他ならぬ一人息子の願いだ。私に出来る範囲であるなら、何だって叶えてやりたい。


しかし、しかしだ。
肝心の望まれていることが何なのか。
それが掴めなければ、どうしようもないじゃないか。

「なあ当麻。一から順を追って話してくれないか?私には何が何だかさっぱり分からないんだが」

そう、さっきからワケの分からないことが次から次へと起きている。
いきなり襲われたり、夜になったり、光が降ったり。かと思えば、前触れもなく突然夕方に戻ったり。


まるで魔法だ。頭も身体も、とてもじゃないがついていけない。

「だから、そんな時間はないんだって!いいから儀式場の場所を教えてくれ!そうすりゃ、あとはこっちで何とかするから!」
「当麻、落ち着け。落ち着くんだ。焦ったところで何も解決しないぞ」
「分かってるよ、そんなこと!」

ちっとも分かっていない。


当麻は焦りに焦っている。
こんな息子の姿を見るのは初めてだった。


何やら大変なことが起こっている。
それは分かった。そして、どうもそれには私が関わっているらしい。


しかし、それでも分からない。
エンゼルフォールとは一体、何なのだろう?
流行語?歌手の名前?それとも、何かの例えだろうか?

「やめとけよ、カミやん」

突然、玄関口から声がした。


当麻が振り返る。
当麻の視線を追うように、私も振り返る。


そして、絶句。

「『御使堕し(エンゼルフォール)』のことなんて、ソイツは何も知らないはずだ」

そこには一人の青年が立っていた。

「何せ無意識の内に、中途半端に発動させちまったんだからな」

テレビで見る、いわゆるアイドルと呼ばれる輩がニヤニヤ笑いながらこちらを見ていた。












カミやんは黙りこくっていた。
俯き、両の拳を握り、その身を固くしている。
まるで過酷な運命に備えるかのように。


――いや、実際に備えているんだろうな。


上条刀夜が犯人であるという証明は、とっくに済ませた。
カミやんの家全体が、無数の土産品によって偶然にも儀式場として成立してしまったことも話した。


ヒメっちには感謝しないとな。
魔術と能力は互いに反発し合うっていう実例を見せてくれたんだから。
ヒメっちの不調の原因を説明した途端、カミやんの奴、急に大人しくなっちまった。
ったく、風水に関してはまるで聞く耳持たなかったくせに。


風水。それは部屋の間取りや家具の配置によって魔法陣を作り上げる術式。
大地の気をエネルギー源とするため、その効力が術者の魔力量に左右されることのない魔術。


そう、上条刀夜は計画的に『御使堕し』を発動させたワケじゃない。
『御使堕し』の魔法陣は無数に配置された土産品によって、たまたま組み上げられたに過ぎなかったのだ。

「あの家は、無数の切り替えレバーがあるレールみたいなものでね。土産品一つを壊すと、すぐさま他の魔法陣に切り替わっちまう」

カミやんの握った拳が、プルプルと小刻みに震えている。

「ヒメっちから電話で配置を聞いた時には、言葉も出なかったよ。『御使堕し』なんざまだマシな方だ。あそこには『極大地震(アースシェイカー)』に『異界反転(ファントムハウンド)』、『永久凍土(コキュートスレプリカ)』――発動すれば国の一つ二つが地図から消えるような戦術魔法陣まで組み上げられていやがった。あれは駄目だ。決して発動しちゃいけない類のものなんだ」

たんたんと言葉を並べていく。


スパイになってから何度も何度もこの行為を、あるいは儀式を繰り返してきた。
慣れた、と言えば嘘になる。自分に近しい存在と対すると、心のどこかが石のように固くなってしまう。


同じ慣れるなら、死の方がよっぽど簡単だ。
どんなにキツくても、死は一瞬で終わる。時が経てば次第に痛みも和らいでいく。
生きている人間の感情こそが、一番怖い。痛みも、悲しみも、あまりにも強く、長過ぎる。

「だからこそ『御使堕し』を破壊するには土産品を一つずつ、なんて言ってないで魔法陣全体を一撃で破壊する必要があった」

だから、たんたんと喋る。感情を受け流す。

「それで、一旦カミやんを魔法陣から遠ざけて、そこのオッサンの身柄を保護。クロイツェフと和解した後、神裂に協力を仰いでカミやんの実家に向かい魔法陣を一掃」

カミやんの、カミやんの親父さんの、そして自分の感情を全て流し切ってしまう。

「……ってのがベストな未来予想図だったんだが、ちょいとスケジュールを詰め込み過ぎてこの有り様だ」

くそ、と毒づく声。

「何で……何でだよ。何でこんなことになっちまったんだよ」
「理由なんかないだろ」

カミやんの肩がピクリと揺れた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
じっと、オレを見つめてくる。何を待っているのかは、よく分かった。その答えは既に準備してある。

「結局、単に運が悪かったってだけの話だろうが」

カミやんの顔から表情が消えた。だが、それは一瞬だけ。

「……何だよ、それ」

真っ向から苛立ちをぶつけてくる。
冷め切った目からは、剥き出しの敵意を感じる。

「……ふざ、けるなよ。テメエ」

鋭い目つきでオレを貫いてくる。
ここまで、完璧に予測していた通りに事が進んでいる。


いいねえ、カミやん。
呆れるほどに真っ直ぐで。
お前の考え、手に取るように分かっちまう。

「やめとけよ。もう遅い」

どうせ、『御使堕し』だけでも止めようって考えてるんだろ?
そうすれば、少なくても天使の暴走は止められるかもしれないって算段だろ?


だがな、カミやん。それじゃ、根っこの部分の解決にはならんだろう?

「実家まで、ここからタクシーで二十分はかかるんだろ?今からじゃダッシュしたって間に合わんよ」

言葉に詰まるカミやん。しかし、すぐさま反撃に移ってくる。

「じゃあどうしろってんだよ!出来るかどうかじゃなくて、やるしかねえだろ!それとも何か、他に方法があるって言うのか!?」


――待ってたぜ、その台詞。


「それは、あるだろ」

口の端を持ち上げて、わざとらしく笑ってやる。

「この場にいる誰かさんが犠牲になってくれればな」

ニヤニヤ、ニヤニヤと笑ってやる。


カミやんが息を呑む。
その隙をついて、オレは一歩踏み込んだ。

「分かるだろう、カミやん。こうなってしまったらもう犠牲なしには収拾できない」

ニヤニヤ笑いを続けたまま、更に一歩踏み込む。

「なに、犠牲と言っても一人きりだ。コイツはオレが保証する」

カミやんは、愕然とオレを――土御門元春という魔術師を見つめていた。

「だからカミやんは心配しなくていい。カミやんは」
「お前……」

カミやんが一歩前へ出る。
オレは足を止め、カミやんの背後を指差した。
そこにいるのは、度重なる偶然の末に『御使堕し』を発動させてしまった不幸な男。

「いいか、一人だ。たった一人の犠牲で世界が救われる。何もかもが上手くいく。何故それで満足できない?世界が滅びてもいいってのか?」
「……いいワケ……ねえだろ!」

オレに言葉をぶつけるように、カミやんが叫んだ。

「認めない。誰かが犠牲にならなきゃいけないなんて残酷な法則があるなら、まずはそんなふざけた幻想をぶち殺す!」

やれやれ、と心の中で呟く。

「お前の言ってることは理想を飛び越して狂気に近いな」

お前ってホント、どこまでも真っ直ぐなんだな。
闇に手を染めてきたオレには、ちょっとばかり眩し過ぎる。

「悪いがそんな夢物語に付き合ってる暇はない」

だがなカミやん。その程度じゃ、まだまだ足りないぜ。

「一人でも多く、確実に助けられる手段があるってんなら、オレは迷わずそっちを選ばせてもらう」

お前が犠牲の上に存在していいだけの器かどうか、もう少しだけ試してやるよ。











[20924] 第24話 御使堕し編22
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/31 19:53
――まともにやっても勝ち目はない。


自分でも意外なことに、怒り狂いながらも、頭の一部分だけが妙に冷静だった。


ここにいるのは俺の知ってる土御門じゃない。
もっと得体の知れない、正体の掴めない、一人の、魔術師だ。


――奇襲しかない。


頭のどこか、その冴えた部分で、俺は思った。


互いの距離は、既に三メートル程しかない。
なのに土御門はズボンのポケットに両手を突っ込んでいる。
俺を舐めきっているんだ。今しかなかった。
土御門が手をポケットから抜こうとした瞬間、俺は飛びかかった。

「おおおおおおっ!」

渾身の右ストレート。
自分でもびっくりするくらい、上手くいった。
全体重を乗せた一撃が、土御門の顔面に入った。
完璧なタイミングだ。防御も回避も間に合っていない。
けれど拳をめり込ませたまま、俺は立ち尽くしてしまった。


サングラス越しに、二つの瞳がじっと俺を見つめている。
拳は間違いなく土御門の頬を捕らえた。それでも土御門は倒れない。一歩たりとも引かない。
だからどうした、と言わんばかりに不敵な笑みを見せつける。
そして俺はどうしようもないミスを犯してしまった。
伸ばしきった右腕を掴まれるまで、立ち尽くしたままだったのだ。


ドン、と衝撃が来た。
いきなり顔を殴られたのだ。
痛さは感じず、ただ頭がクラクラした。
また衝撃が来た。今度は頬がむちゃくちゃ痛くなった。
更に衝撃が来た。腹を殴られたのだった。
これはもう、本当に苦しかった。息が出来なくなって、ヒイヒイという声だけが喉から洩れた。


それから殴って殴って殴られまくった。
頭を、頬を、腹を、次々殴られた。
立っていられなくなって倒れると、土御門は足で蹴ってきた。何度も、何度も。


ちくしょう、と俺は呟いた。
何で立てないんだ。何で身体に力が入らないんだ。
ほら、立てよ。立たなきゃ、いつまでも蹴られっぱなしなんだぞ!


土御門は容赦なく蹴ってくる。だけど俺は立てなかった。
身体を赤ん坊のように丸め、地面に横たわって――


「やめろっ!」

力強い声。衝撃が唐突に止んだ。

「事情は呑み込めないが、私に用があるなら好きにすればいい」

痛みを堪え、必死に耳を澄ませる。

「だが、これ以上当麻には手を出すな」

一字一句たりとも、聞き逃すことがないように。

「当麻は関係ない。いや、あったとしても、当麻には手を出させない。絶対にだ」

へえ、と感心する声。


土御門の顔は見えない。だが、その表情は間違いなく笑顔だろう。
見る者の神経を逆撫でするような笑みを浮かべているんだろう。

「重ねて言うが、これ以上当麻には手を出すな。それは私が認めない。この私が断じて認めない。それをやれば、私は一生お前を許さない。いいか、一生だ」

素人が、と土御門が吐き捨てた。

「笑わせる。まさか、本気で怒った程度でオレに勝てるとでも?」
「思わないさ」

自嘲気味に笑う声。

「私はただの中年だ。煙草と酒で肺と肝臓はやられ、運動不足がたたってあちこちガタが出始めて困っているぐらいだからな。だが」

父さんが一歩、こちらに踏み込んだのが気配で分かった。

「それでも私はお前を許さない。たとえ敵わずとも、何度敗北しようとも、絶対に許さない。なぜなら」

血の味がする唾液を飲み込み、無理やり顔を上げる。

「それが……父親というものだからだ!」

そして、見た。これ以上ないほど強く、頼りになる、父親の姿を。


拳を握って、父さんが走り出す。土御門に向かって、真っ直ぐに。
それでも俺の身体は動いてくれない。歯を食い縛ることしか出来ない。


失いたくない。
俺は思った。心の底から思った。
たとえ思い出が何一つとして残っていなくても。それでも、この人を失いたくない。
息子の幸せを何よりも、自分よりも大事にしてしまうバカげた父親を、絶対に失いたくない。


失いたくない、はずなのに。
ちくしょう、何でだ。何で動けないんだよ。


土御門の長い腕が、突っ込んでくる父さんの腕を取る。軽く引き寄せる。
体重がなくなったかのように、父さんはくるんと縦に回って、地面に頭から倒れ込んだ。
一連の行為はとても速いのに、そのあまりの自然さで逆にスローモーションのように見えた。


あっと言う間だった。
必要最小限の動きだけで、土御門は父さんの意識を落としてしまった。

「なあ、カミやん」

土御門がこちらに振り向く。

「何でそんな楽観的なんだ。何もかも上手くいくワケないだろうが。世界はお前のためにあるワケじゃない。病気が気合いで治せるか?根性で癒せるのか?希望なんざ……ゴミみたいなもんだ。そんなものにすがりつきやがって。ありもしない幻想ばっかり追いやがって」

言葉がいきなり切れる。直後、また腹を蹴られた。

「寝てろ、素人」

土御門が遠ざかっていく。
襟首を掴んで、父さんをズルズルと引きずっていく。
海の家の中へと、消えていく。

「……ま」

て、と搾り出す声は、自分のものと思えないほど弱々しかった。


このままでは父さんが殺されてしまう。
なのに抵抗する気持ちが湧いてこなかった。


俺は叩きのめされていた。身体だけじゃなく、心も。
殴られようと、蹴られようと、バカにされようと。
俺にはもう、何も出来ない。俺は負けてしまったんだ。


急に痛みがひどくなった。
息が詰まる。意識が白くなる。その直前――


『じゃ、そっちは任せたわよ』


美琴の声がした。


一番大切な人の言葉が、脳裏を駆け抜けた。


そうだ。約束したじゃないか。
『御使堕し(エンゼルフォール)』を止めてみせるって。


俺は丸めていた身体を伸ばし、ごろりと転がった。夕焼けの赤が、そこにあった。
夜空はない。満月もない。空いっぱいに広がっていた光の魔法陣もない。


美琴は約束を果たした。
天使の足止めに成功したんだ。
だったら俺だって、約束を守らなきゃいけない。
自分のために。父さんのために。『御使堕し』に巻き込まれた人達のために。
そして何より、自分のことを信じてくれた美琴のために。


そうだ、俺は負けたんじゃない。諦めようとしていただけだ。
ったく、しっかりしろよ上条当麻。お前の取り柄は何だ。全ての異能を打ち消す右手か?


――違う。そんなんじゃない。


「おおおおあああああっ!」

叫んで、立ち上がる。


俺の取り柄。そんなの、決まってる。
諦めの悪さ。これしかねえだろうが!


俺は――自分でも不思議に思うほどの力強さで、土御門のあとを追った。












最後の丸テーブルを外に出し、ふう、と息を吐く。
全てのテーブルを片付けると、居間は妙にだだっ広い空間となった。


――こんなもんかな。あとは……。


気絶している上条刀夜の襟首を掴む。

「おい」

その声がしたのは、上条刀夜を居間の真ん中に無造作に転がした時だった。

「何してんだ、お前」

見れば、ぞっとするほど冷たい目でカミやんがこちらを睨みつけていた。

「生贄を供える祭壇作りってとこさ。演出は派手な方がいいだろ」

平然と言う。これから犠牲を出そうとしているのに、何も感じていないかのように。

「念のために訊いとくが、この方法を認める気はあるか?」

あくまで挑発的な態度を崩さず、オレはそう問いかけた。


カミやんは答える。斜に構えた強い意思の込められた瞳だけで。断じて否、と。

「そっか」

笑いながら、両腕をゆらりと揺らす。居間の空気が張り詰めていく。
二人の距離は、つい先程と同じく、三メートル程。その中で、オレは目の前の敵を眺めた。


さあて、見せてもらおうか。
いい目になったお前の全力とやらを。


カミやんの身体が弾ける。
一息の内に、互いの距離を零にされる。
握られた拳がオレの顔面を狙う。
だが甘い。それを許すほど、オレは常人じゃない。


オレは、魔術師だ。


突き立てられた拳を肩で受け止める。
拳が痺れたらしく、カミやんが怯んだ。
その一瞬を逃さず、真上から頭突きを振り下ろす。
ふらついたところで、更に追い打ちをかける。


頭に、顔に、腹に。面白いように打撃が決まる。
だがカミやんは倒れない。それどころか、姿勢を低くしてオレに飛びかかってきた。
突然の反撃にふらついてしまったが、倒れはしなかった。
押し倒すだけの力が、もうカミやんには残っていなかった。


――カミやん、もういい。


膝を突き上げる。無防備だったカミやんの腹に食い込む。


――お前は本当によくやったよ。


腹を押さえ、呻くカミやん。
そこに、もう一度勢いよく膝を突き上げる。
真下から真上へ。渾身の膝蹴りに、カミやんの身体が宙を舞った。
浮いた身体はバランスが保てず、そのまま床へと激突した。

「ここまでだ」

仰向けに倒れ込んだカミやんに、そう宣言する。


カミやんは動かない。
ピクリと震えることさえない。
でも、それでも瞳は死んでいなかった。
真っ直ぐにオレを貫く視線は、手負いの獣じみていた。
この期に及んで、カミやんはまだ負けていなかった。まだ、諦めていなかった。


いいぜ、認めてやる。
お前はぬるま湯に浸かった高校生なんかじゃない。
この土御門元春が全身全霊をかけるに相応しい男だ。

「それでは皆さん」

懐からフィルムケースを取り出す。

「タネも仕掛けもあるマジックをご堪能あれ」

蓋を開けて中身をばら撒く。一センチ四方の紙片が大量に、部屋中に舞い上がる。

「本日のステージはこちら。まずはめんどくせえ下ごしらえから」

魔力を練り上げる。俺自身の心象風景を、この部屋に再現する。
イメージは、水。深い森の奥にその身を隠す、澄みきった泉。

「それでは我がマジック一座の仲間を御紹介」

更に四つのフィルムケースを取り出す。
北に亀、西に虎、南に鳥、東に龍。小さな動物の折り紙が入ったフィルムケースを、部屋の四方へ放り投げる。

「働けバカ共。玄武、白虎、朱雀、青龍」

オレの言葉に呼応して、四方の壁が淡く輝き始める。
黒、白、赤、青。折り紙の色に合わせて四つのフィルムケースを中心に光り輝く。と、身体の中で何かが蠢くのを感じた。


――邪魔をするな!


心の中で、オレは吠えた。
術式が完成したら、いくらでも暴れさせてやる。
だから待て。大事なものを守り切るまで、今少しだけ待ってくれ。

「ピストルは完成した。ここでスペシャルゲストの御登場だ」

パチンと指を鳴らす。
気絶している上条刀夜が、淡い光に包まれていく。
やがて、彼の身体から光の柱が立ち昇る。

「目標を捕捉」

『御使堕し』の展開において、上条刀夜が担う役割は決して小さくない。
大地の気を発電機。そして土産品を電子回路と見立てるなら、上条刀夜は変圧器と言ったところか。
そう、上条刀夜は少なからず『御使堕し』と繋がっているのだ。
それはつまり、上条刀夜の気の流れを辿れば『御使堕し』の儀式場――カミやんの家へ行き着くということに他ならない。

「続いて弾丸を装填する」

口の中が鉄錆くさかった。
ぶっと吐くと、それは唾液じゃなく血だった。

「弾丸にはとびっきり凶暴な、ふざけたぐらいの物を」

何かが喉の辺りまでせり上がってくる。

「ピストルには結界を」

どうにか堪えたその時、視線に気づいた。

「弾丸には式神を」

カミやんの顔をはっきりと目にした瞬間、ふっと気が抜けた。

「トリガーにはテメエの手を」

ったく、何て顔してるんだよ。


カミやんはまるで泣きそうな顔をしていた。ひどく痛そうな顔をしていた。


おい、とオレは思った。
何で今、そんな顔をしてるんだよ。
そういう顔は、殴られてる時にするべきだったんじゃないのかよ。


とうとう堪え切れなくなり、口から赤いものが零れる。


能力者に魔術は使えない。使ってはいけない。
その禁忌を破った代償が、オレの身体を蝕んでいく。

「……や、めろ」

掠れた声。懇願する声。
どうやら気づかれてしまったらしい。
オレが一体、何を犠牲にしようとしているのかを。

「なあに、心配するな」

だからこそ、オレは笑った。

「もう一度魔術を使ったら死ぬって、あれ、嘘だから」

歯を見せて、子供のように笑ってみせた。

「オレの能力は肉体再生ってヤツでね。本当は魔術を四、五回やっても問題ないのさ」

カミやんの心にかかる負担を、少しでも軽くするために。

「……それも、嘘なんだろ」

息も絶え絶えに、それでもカミやんは言った。


ったく、こういう時に限って、どうして鋭いんだよ。


ああ、そうさ。
肉体再生って言っても、オレの能力は貧弱そのもの。
破れた血管に薄い膜を張るのが精一杯の、無能力。
追跡魔術ならまだしも、家一つを丸ごと破壊するほどの術式を組んだりしたら、この命は再生を待たずに力尽きてしまうかもしれない。


だがな、カミやん。それでも、この術式は完成させなきゃいけないんだ。
命と引き換えにしてでも、この魔術は万に一つの失敗もなく、絶対に成功させなきゃいけないんだ。
だって、そうだろ。それだけの価値が、お前達にはあるんだから。

「同じ犠牲を払うなら、オレの方がいい」

当然のように言い放つ。

「なんたって、オレは『魔術師(プロ)』なんだからにゃー」

そうして、親友の目の前で。
いつものように、おどけてみせて。
いつもの声で、オレは最後の呪を紡いだ。











[20924] 第25話 御使堕し編23
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:d6e05f02
Date: 2010/12/31 21:00
目が覚めると、そこは知っている場所だった。
古めかしい電灯カバーのついた蛍光灯が、俺を見下ろしている。
六畳一間の和室は、夕日で真っ赤だ。

「起きた?」

視界を遮るように、逆さまになった美琴の顔が飛び込んできた。
白い肌が夕日のせいで、ほんのりと色づいている。
すっきりしない意識のまま、俺はぼんやりと美琴を見ていた。


何があったんだろう。
どうして美琴は逆さまなんだろう。
柔らかい枕はどこの商品だろう。
買い替えたいから教えてもらおう。

「あのさ」

けど、そろそろ現実を直視した方が良さそうだ。

「何?」
「もしかして、膝枕?」
「そうですが、何か?」

素っ気ない返事。ふざけている。人を弄んでいる。

「あのな……」

でも、これ以上の言葉を口にしなかった。いや、出来なかった。


目を奪われた。
心まで釘付けにされてしまった。
俺の目の前で、美琴は嬉しそうに微笑んでいた。
おぼろげだった意識が、一瞬にして収束した。


そして思い出す。薄れゆく意識の中、焼き付けられた記憶を。
身体のあちこちから血を流し、それでも俺に笑いかけた土御門の顔を。

「気分はどう?」

美琴の質問に、首を横に振る。
身体は大丈夫そうだ。どこも痛くない。
でも、心の中は最悪だった。

「ちくしょう……」

自分のバカさ加減が嫌になる。


土御門だって人間だ。
魔術師である前に、俺達と同じ人間なんだ。
平気な顔して人を殺せるワケがなかったんだ。


そんなことにさえも思い至らなくて、気が回らなくて。
自分のことで精一杯で、根拠もないくせに突っ走って。
他人の意見を聞きもしないで、真っ向から否定して。


でも所詮、根拠がないワケで。
守りたかったものを、結局、守り切ることが出来なくて。


おかしいなあ……おかしいよ……そうだろ……。


子供の頃は、大きくなったら色んなものに手が届くようになるって思ってた。だから少しでも早く大人になりたいって。


でもさ、全然届かねえよ。
十六になっても触れられないものばっかじゃねえか。
守れないもの、ばっかじゃねえか。

「カミやん、や~っとお目覚めぜよ?」

何てこった。土御門の声が聞こえるような気がする。
こんな時にも陽気で、悩みなんて一つもありませんよって感じの声が。

「ええ。でもまだ意識がはっきりしてないみたいで」

おいおい、どんだけ良く出来た幻なんだよ。
美琴にも見えるのか?声まで聞こえてるってのか?

「そんで膝枕は続行か。ちっ、羨ましいヤツめ。さっさと起きないと全力でデコピンかましちまいますぜい?」

そんな声と一緒に、額に痛みが走った。

「ぬわっ!?」

急激に我に返る。

「おはよーさん」

幻じゃない。幽霊でもない。
ニヤニヤと笑いながら俺を見下ろしているのは、紛れもなく本物の土御門だった。


一瞬、信じられなかった。
だって、土御門が生きている?

「いやー、お互いよく生き残れたよなー」

しかもコイツ、傷がすっかり治ってやがる。
身体中から血を流していたのが、まるで嘘みたいに。


――いや、待て。俺だってそうじゃないか。


あんなに傷ついたはずなのに。
あんなにボロボロになったはずなのに。
きれいさっぱり、治ってやがる。


部屋は夕日で真っ赤だ。
三十分か、それとも一時間か。詳しくは分からない。
けど、これだけは確実に言える。気絶していた時間は、それほど長くなかった。


なのにどうして、こんなに元気なんだ?
気絶している間に一体、何があったんだ?

「分からないって顔してるな」

心底楽しそうに笑いながら、土御門が言う。

「ま、詳しい話はヒメっちに聞くんだな」
「は?」

ここでどうして、美琴が出てくるんだ?

「全部聞いたら……ククッ。カミやん、きっとびっくりして腰抜かしちまうぜい」

ニヤニヤと笑ったまま、土御門は踵を返す。

「おい、行っちまうのか?」
「おうとも。事の顛末を上に報告せにゃらならんし、それに」

土御門は振り返って、一言。

「馬に蹴られたくないしにゃー」
「なっ!?」
「えっ!?」

俺と美琴の声が重なる。

「そんじゃごゆっくりー」

その反応に満足したのか、口笛を吹きながら土御門は部屋を出ていった。

「……」
「……」

膝枕をされたまま、俺は視線を上げる。
美琴と、ばっちり目が合った。
たはは、と困ったように笑う美琴。
その頬に差した赤みは、夕日のせいだけじゃなさそうだ。


それで、と俺は言った。

「一体、何があったんだ?」

あのね、と美琴が話し出す。

「ちょっと長い話になるんだけど」












日が沈もうとしていた。
世界が、夜の帳に包まれようとしていた。
日暮れの近い砂浜で、私は一人、立ち尽くす。
水平線に隠れつつある太陽を見つめながら、天使と戦っていた時のことを思い出す。


あの時は必死だった。
正しく命懸けの戦いだった。
今、こうして生きているのが不思議なくらいだ。
それだけ激しい戦いの最中であれば、奇跡だって起こる。


頬に触れた、美琴の手の温もりが蘇ってきた。
あまりにもそれは優しくて、心地良くて。


ボロボロになった私や上条当麻の身体を、美琴は瞬く間に回復させてしまった。
瀕死の状態にあった土御門ですら、いとも簡単に完治させてしまった。


あの力は一体、何だったんだろう?
魔術では有り得ない。かと言って、能力によるものだとも思えない。
土御門は言っていた。能力者が有する力は一人につき、たった一つだと。
美琴は電撃使いだ。傷や疲労を癒したり、天使によって具現化された空想を打ち破ったり。そんな真似が出来るはずがない。


しかし、では、何だと言う?
あの力は魔術でも、能力でもない?


そんなバカな。それでは、あの少年の……上条当麻の右手と同じではないか。
彼の右手に宿る力、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』と同じではないか。


――あの力は、一体……?


「お待っとさん」

そんな声がしたのは、思考に行き詰まってしまった頃だった。


振り向くと、背後に土御門が立っていた。
沈みゆく太陽に視線を戻して、私は言った。

「結局、貴方の思惑通りになりましたね」
「うん?思惑?」
「ただ一人。貴方自身を犠牲にして、今回の件を解決させたことですよ」
「犠牲?何のことかにゃん?」

ああ、白々しい。


振り向き、土御門を睨みつける。

「とぼけないで下さい。美琴から真相を聞いた時点で、貴方は自らの身の危険を顧みず魔術を使う覚悟を決めていたんでしょう?」
「何だ、バレてんのか」
「分かりますよ、それぐらい。短い付き合いじゃないんですから」
「なかなか面白かっただろ」

土御門は悪びれることもなく、うははと大声で笑った。

「ただ解決するだけじゃ、つまらないからにゃー」
「……面白くないです」
「オレは面白かったぜい」
「ああ、そうですか」

全く、何て性格の悪い男なんだろう。
私の過去を知っているくせに。覚悟だって知っているくせに。
なのに、私に守らせようとしてくれない。逆に、私を守ろうとしてくる。


今回だって、そう。
彼が命を賭けて組んだ赤ノ式のおかげで、この世界は救われた。
そして、私も救われたのだ。『背中刺す刃(Fallere825)』という魔法名を己の身と心に刻み込んだ男に。
嘘を吐いてでも、何かを裏切ってでも目的を果たしてみせると誓った、この男に

「で、何考え込んでたんだ?」

隣に並び、土御門が問いかける。

「美琴の力についてです」
「あー、カミやんの右手並に意味不明なアレね」
「貴方はどう思います?」
「不思議不思議」
「バカにしてるんですか」
「いんや」
「じゃあ、どういう意味です?」
「さあ?」
「……」

全く、この男はどうして真面目な話を続けられないんだろう。
私をからかうのも、大概にしてほしいものです。

「ま、冗談はさておき」
「やっぱりバカにしてたんですね」
「今回の一件。一体誰がその責任を取ればいいのやらってことだぜい」

口にしかけた文句を咄嗟に呑み込む。

「イギリス清教の魔術師っていう立場上、オレ達には教会から問われたら真実を話さないといけない義務があるんだが」

『御使堕し(エンゼルフォール)』を引き起こしたのは上条刀夜だ。
そのせいで世界中が混乱の渦に巻き込まれ、滅亡の危機にまで陥った。


責任の一端は、やはり刀夜氏にあるのかもしれない。
しかし彼は魔術世界と一切関わりのない一般人。加えて、親友を救ってくれた恩人の肉親だ。
何とかしてあげたい。しかし無罪放免にするワケにも――

「けどメンドイし土御門さんは基本的に嘘吐きなので適当にでっち上げるにゃー」
「な……ええっ!?」

ちょっ、土御門!?貴方、何さらっととんでもない発言してるんですか!
教会に虚偽の報告をして、それがバレてしまったらどうするつもりです!?待っているのは、絶え間ない拷問の日々ですよ!

「大丈夫大丈夫。イギリス清教じゃ嘘吐きは拷問の始まりなワケだけれども、そんなこと言ってたらスパイは勤まらないんだぜい」
「いや、そうかもしれませんが!」
「それに、ねーちんは知ってんだろ。オレの正体」

視線だけで、肯く。


土御門は学園都市に潜り込んだスパイと明言している。
だが、実のところは逆なのだ。味方のフリをしてイギリス清教の秘密を調べる逆スパイ。
そんな彼なら、確かに虚偽の報告だって何の躊躇いもなくしてしまいそうだけど。

「しかしそれも嘘」
「は?」
「ホントはイギリス清教とか学園都市の他にも色んな機関や組織から依頼を受けてるから、逆スパイどころか多角スパイですたい」
「どれだけ危険な橋渡ってるんですか貴方は!と言うか、それってただの口が軽い人じゃないですか!」

声を大にして叫んでも、土御門はどこ吹く風。
あっはっは、と軽く笑い飛ばしてしまう。

「そんなワケだから、ここはオレに任しとけって」
「賛同しかねます」
「けどにゃー。この場合、不本意でも信じてもらうしかないんですぞ?」
「……違います。貴方を信用できないという意味ではありません」

反論する私を、土御門は無言で見据える。

「またですか?」

一呼吸置いて、続ける。

「また一人で背負い込むつもりですか?」

あらゆる情報を一人で掌握し、そしてそれを他人と共有しないで。
手に入れた情報を、結局は他人を欺く材料にしかしないで。
そうしてまた、一人で戦うつもりですか。
誰もが嫌がる汚れ役を、自ら買って出るつもりですか。

「貴方だけに重荷を負わせるワケにはいきません」

そう、そんなことは許さない。
私自身の信念を曲げるような真似をするつもりなんて、ない。


じーっと、不審そうに私の顔を見る土御門。が、やがて疲れたように溜め息を吐き、

「じゃ、とりあえず口裏合わせてもらうかな?」

笑った。子供のように、笑っていた。


……どうしてだろう。


その笑顔から目が離せなかった。
この男が笑っているところなんて、飽きるくらい見ているはずなのに。


よく分からない。自分のことなのに。

「で、どうする?ここは和風っぽく立川流の残党でも生き残ってたことにしとくかにゃーん?」
「誤魔化す気なら、もう少し信憑性のある話にしなさい!」

それに、この男の思考回路も、やっぱりよく分からない。











[20924] 第26話 御使堕し編・その後①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/02/05 00:59
薄い雲が太陽を隠すと、少しだけ部屋の中は暗くなった。


とある高校の男子寮。
七階にある自分の部屋で、俺は美琴と見つめ合っていた。
わずかにつり上がった目。艶のあるしなやかな髪。透き通るように綺麗な肌。
すれ違えば誰もが思わず振り向いてしまうであろう美少女と、見つめ合っていた。

「当麻」

薄い唇に名を呼ばれ、目線で疑問を返す。

「私、したことないから」

美琴の淡々とした声音が部屋の沈黙を満たしていく。
言葉が途切れると、お互いの息遣いが聞こえてくる。

「あ、ああ」

額から滴る汗を、Tシャツの袖で拭う。
天気予報によると、今日はこの年一番の猛暑日になるそうだ。
昼の時間を過ぎてからも、太陽は一向に衰えを見せずにいる。
美琴の肌も、ほんのりと上気して薄紅色に染まっている。

「いきなり最後までは無理だろうから、やれるとこまでだな」
「ダメよ」
「お前な」
「途中だと困るでしょ?」
「けど……」
「私は大丈夫。だから最後まで……ね?」

じっと俺を見つめてくる美琴。
その瞳に迷いはない。そのつもりで今日はここにいるのだと、言葉以上に語っている。

「分かったよ」

美琴には言い出したことを絶対に曲げない強さがある。
とことん頑固な性格なのだ。だから俺が折れるしかない。

「じゃあ、見せて」

一度、唾を飲み込む。わずかな迷いが生じる。

「……見るのか?」
「じゃないと出来ないでしょ」
「でも、いきなりってのは」
「今更、何言ってんのよ」
「いや、でもな……」
「ああもう、じれったいわね」
「さすがに恥ずかしいというか」
「恥ずかしがってる場合か!いいから宿題全部出しなさい!明後日までに終わらせなきゃいけないんでしょ!」












あ~あ、と私は思う。


当麻の部屋で、ガラステーブルを挟んで向かい合わせに座って。
二人っきりになれたのに、雰囲気だってバッチリなのに。なのにどうして、こんなことになっちゃったんだろう。
夏休みは、あと二日しか残っていないのに。限られた時間を、当麻と一緒にのんびりと過ごしたかったのに。


全部、当麻が悪い。夏休みの宿題なんてものを、今日の今日まで終わらせずにいたのが悪い。
原因は火を見るより明らかだ。でも、それが分かっただけじゃ、事態は一つも好転しない。
このまま放っておいたら、当麻は補習を受けざるを得なくなってしまう。一緒にいられる時間が減ってしまう。
そうでなくても新学期が始まったら、放課後までは会えないっていうのに。
それだけはイヤだ。絶対にイヤだ。だから当麻には、何としてでも宿題を全部片付けてもらわなきゃ。

「というワケだから、宿題見せて」
「怒らないか?」
「怒らずにはいられないほど酷いの?」
「美琴次第だな」
「内容次第でしょ!」
「そうとも言うな」
「そうとしか言わないから!いいから見せなさい!」

おずおずといった様子で差し出されたプリントの束を受け取る。


ふーん、これが夏休みの宿題ってヤツなんだ。
枚数はざっと二十……いや、三十といったところか。
うん。量は結構あるけど、二日もあれば何とかなるんじゃないかな。
数学は単純な計算問題と因数分解だけだし。英語も基本的な文法事項の復習と単語練習しかないし。
古典は……ちょっと簡単過ぎでしょ、これ。こんなの活用表さえ覚えていれば楽勝じゃない。


――何だかなあ。


溜め息を一つ。


常盤台中学が夏休みの宿題を出さないのも、肯ける。
別にこんなものをやらなくても、気は緩まないし学力も低下しないんじゃない?
まあ、どうでもいいか。私が教えられる範囲で良かったと、ここは素直に喜ぶべきよね。


そんなことより、今は目の前のプリントだ。
一枚ずつ確認していくに従って重くのしかかってくる、現実だ。
計算問題は白紙。単語練習も白紙。……以下、同文。
どのプリントも見事なまでに真っ白だ。


一体何がどうなって、この惨状が出来上がったんだろう?
宿題に手をつける時間がなかったんだろうか。それとも内容が難しくて手が出なかったんだろうか。

「あのさ」

ここは是非とも前者のみであってほしい。そんな願いを込めて訊ねる。

「伊能忠敬って、知ってる?」
「日本で初めて国産鉄砲の製造に成功した人だろ」
「それ、八板金兵衛でしょ!語呂も全然近くないし!」

これはもう、色々とヤバイかもしれない。

「当麻」

腹を決めて、口を開く。
当麻一人じゃ、どう考えても間に合わない。
一旦寮に戻って着替えるとか、そんな悠長なことは言ってられない。

「頑張ろう」

こうなったら仕方ない。
今から付きっきりで勉強を見てあげるしかない。
それしか方法がないんだし、それに……一緒にいられるって点は問題ないしね。












何だか、どうにも不可解だ。
世の中にはまあ、不可解なものが色々あるけどさ。
例えば姿に格好、話し方全てにおいて小学生にしか見えない幼女先生とか。
甘ったるい香水の匂いを漂わせ、右目の下にはバーコードの刺青を施している愛煙家の神父とか。
でもニコニコ笑ってる美琴ってのはもう何と言うか……とてつもなく不可解だ……。


俺は隣でニコニコ笑う美琴の顔を、ちらちらと見つめていた。
美琴曰く、隣に来ないと文字が読めないから、ということらしいのだが。

「何よ」

美琴が訊ねてくる。

「い、いや、何でもない」

俺は慌てて言った。

「ふーん」

まだニコニコ笑っている。


おかしい……絶対におかしい……。


美琴が怒っていたとしても不思議じゃないんだ。
どうして宿題を終わらせてないんだって、叱りつけて当然なんだ。
そのせいで、美琴はまだ自分の寮に帰っていない。
海の家『わだつみ』から学園都市に戻ったその足で、一緒に家まで来てもらっている。
中学生に勉強を教わる高校生という、何ともシュールな図が出来上がっている。


なのに、だ。さっきから、美琴はずっと笑っている。
それどころか、俺の顔をじーっと見つめてたりするんだ。
上は半袖のブラウスにサマーセーター。下は灰色のプリーツスカートという、常盤台中学の制服姿で。

「……お前、何笑ってんの?」
「べっつにー」
「……何かいいことでもあったか?」
「べっつにー」

その声も弾んでいる。
全くワケが分からない。気味が悪い。
と、いうワケで。上機嫌な美琴とは対照的に、俺はビクビクしながら英文和訳に取り組んでいた。

「えーっと」

単語ごとに日本語に直してみたが、文として全く成立していない。
どうなってんだよ、おい。どこをいじったら、ちゃんとした文章になるんだよ。

「どうしたの?」

美琴が手元を覗き込んできた。

「解けない問題があるの?」
「それっぽい日本語に直せないんだよ。単語の意味は分かるんだけど」
「ふーん、見せて」

美琴のほっそりとした肩が、俺の肩に少し触れる。
彼女の息遣いを感じる。温もりを感じる。


俺は緊張して、思わず固まった。
すぐ目の前に、美琴の首筋があった。
綺麗なラインを描いて、それは顎へ、耳へ、伸びていた。
瞬きが出来ない。そんなもったいないこと、出来るワケがない。
俺は息することさえもやめて、ただじっと、目の前にある至福を見つめていた。

「じゃあ、注意しなきゃいけない単語を確認してみようか」
「あ、ああ」
「この単語の意味は何?」
「“九十”だろ」
「じゃあ、こっちは?」
「“生活した”……いや、違うな。“生きた”……かな、多分」
「正解。よく気づいたね」

美琴の吐息を感じた。温かい。柔らかい。
もし今、美琴を抱きしめたら怒るかな。それとも、もしかすると――

「じゃあ最後。これは?」

美琴が手を伸ばして、とある単語を指差した。

「“すること”か“するため”……じゃないのか?」
「ここではね」
「他にもあるのか?」
「うん。不定詞の中でも、ここで使ってる用法はかなり特殊なんだ」
「どうすりゃいいんだ?」
「不定詞に意味があるって考えないこと」
「うん?その心は?」
「不定詞っていうのはね、欠けている内容を補ってるだけなんだよ。この文だと不定詞が出てくる前に“彼が生きた”ことまでは分かるけど、何歳まで生きたかは分からないでしょ」
「確かに」
「ここで不定詞の後ろに注目。いくつって書いてある?」

なるほど。それで“九十”なのか。

「すげえな、美琴」
「へへえ」

美琴は得意そうだ。そんな美琴の笑顔はむちゃくちゃ可愛かった。

「次の問題もやり方は一緒だよ」
「ってことは、こう……か?」
「そうそう。出来てる出来てる」

隣で美琴が満面の笑みを浮かべる。

「偉い偉い」

そして俺の頭を撫でてくる。
俺は敢えて不機嫌な調子で言った。

「犬じゃねえぞ」
「褒めてあげてるんだよ。ほら、偉い偉い」
「だから、犬じゃねえって」

不機嫌に言いながらも、俺は嬉しくてたまらなかった。
何か、こういう美琴もいいな、うん。
ちょっとしたことで感心してくれたり、笑ってくれたり、得意げになったり。
うん。こういう美琴の笑顔は全然悪くないぞ。











[20924] 第27話 御使堕し編・その後②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/02/19 02:06
夕方になった。
ちょっとでも宿題を進めておこうと、俺は一人で数学の教科書を読んでいた。


今、美琴は部屋にいない。買い物に出かけているのだ。
何故かと言うと、冷蔵庫の中身が空っぽになっているからである。
当然ながら、なければ買いに行かなければならないワケで。


あちこち拾い読みするうちに、必要な公式を見つけ出すことが出来た。
美琴に言われたとおり、順番に気をつけて計算してみる。
最初に括弧内の計算を済ませる。掛け算と割り算を優先して、足し算と引き算はその後に。うん、どうにか解いていけそうだ。
シャープペンシルをプリントに走らせる。一枚目を数字と記号で埋め尽くし、二枚目も埋め尽くし、三枚目にかかったところで、ふと思い立って顔を上げた。いつの間にか室内は薄暗くなっていた。


ああ、全く気づかなかった。
明かり、つけなきゃな。それに腹減ったな。
同じ体勢でずっと書いていたので、肩の辺りが痛かった。
明かりをつけようと立ち上がる。と、ズボンのポケットの中でケータイが鳴った。

「やっほー、当麻」

美琴だった。

「どう?順調?」
「あ、ああ。おかげさまでな」

びっくりした。

「そっか、御苦労様。疲れた?」
「疲れたよ。肩もすげえ痛いし」

明かりをつけ、フローリングに腰を下ろす。

「計算問題って、メンドくさいのばっかりなのな」
「宿題だからねえ」

いや、それを言われちゃ元も子もないんだけどさ。

「ね、当麻」

美琴が言う。

「一つお願い、聞いてあげよっか」
「お願い?」
「今日の夕飯は何がいいか言ってみなさい」

俺は色々なメニューを思い浮かべた。
美琴は料理の腕だって抜群なのだ。実に器用で何でも作れる。


麻婆豆腐?
悪くないけど、何か違うな。


生姜焼き?
いや、洋食がいいかな。


ロールキャベツ?
あ、それがいいな。うん、ロールキャベツがいいや。

「そうだな、ロールキャベツが食いたいな」
「よし。その願い、叶えてあげよう」












「終了ーっ!」

シャープペンシルをテーブルに置き、大きく伸びをする。
気がつけばもう七時を過ぎていて、外は真っ暗だった。

「出来た?」

エプロン姿の美琴が歩み寄る。

「ああ、計算問題は全部」

プリントの束を差し出す。

「どれどれ」

受け取ったプリントを美琴はぱらぱらと見て、次に俺を見た。ニコリと微笑む。

「うん。全部合ってる」
「そっか。良かった」
「この調子なら因数分解も今日中に出来そうだね」
「だな。でもその前に飯、食える?」

うん、とプリントを俺に返して美琴が肯いた。

「出来てるよ」

その後は、あっと言う間だった。


ご飯が盛られた茶碗。
赤いトマトとレタスのサラダ。
麦茶が入っているポットに、氷を入れたグラス。
ほかほかと美味しそうな湯気を上げるのは味噌汁と、深皿に盛られたロールキャベツ。
二人分の料理が次々と目の前にあるガラステーブルに並べられていく。

「すげえな……」

何度見ても、その手際の良さにはマジで感心する。


へへえ、と美琴は得意げに笑った。

「ほら、冷めないうちに」
「そうだな。じゃ、いただきます」

俺はロールキャベツにかぶりついた。
むちゃくちゃ美味かった。キャベツはとろとろだし、その中の肉は何かのスパイスが微妙に効いていて、それがホワイトクリームとばっちり合っている。

「この肉、何が入ってるんだ?めちゃくちゃ美味い」
「ホント?美味しい?」
「ああ、めちゃくちゃ美味い」

向かい側に座った美琴は嬉しそうに笑った。

「手間かかってるんだよ、それ。まず玉ねぎを三十分炒めるの。飴色になるまで。それから挽き肉と合わせて、塩胡椒をして、そこにシナモンでしょー、ナツメグでしょー。あとカルダモンのパウダーも入れてるんだ」
「へえ、すげえな」
「当麻、頑張ってるしね。それくらいはやってあげるわよ」
「自業自得なんだけどな、この窮地」

笑いながら、ご飯をかき込む。
続いて、サラダを口へ放り込む。
ドレッシングの風味が素晴らしい。きっと手作りなんだろう。
ご飯も本当に美味い。料理好きの美琴は、ご飯の炊き方まで色々こだわっているのだ。
流水で洗ってね、それから一時間水に浸して――なんてことを前に話してたっけ。確かに手間をかけたと分かるご飯だ。


――ホントありがとな、美琴。


ガツガツ食べながら、俺はそんなことを思った。

「どうしたの?」

視線に気づき、美琴が首を傾げた。


俺は慌てて言った。

「すっげー美味い」

えへへ、と美琴は笑った。
嬉しそうに、幸せそうに笑っていた。












「ふいー、ごっそさん」

夕御飯を食べ終えると、当麻はベッドにごろんと横になった。
仰向けになり天井を見上げる形で、両手を頭の後ろに組みながら目を閉じる。

「ちょっとー、お行儀悪いわよ」
「へいへい」

むう、右から左に流してるし。なんて思いながら、私は誘蛾灯に誘われる虫のようにふらふらと、無防備な顔を晒す当麻の傍に寄っていく。
普段は飄々とした印象があるけれど、この時の当麻はどこかあどけない。可愛い、と感じる数少ない状況。


私はするりと当麻の目の前へ移動する。
こっちの接近を察したのか、上体を起こす当麻。でも、目は瞑ったまま。
大丈夫。いける。さん、にい、いち。

「うわ、ぎゅうぎゅうだ」
「……おい」

大成功。ベッドに腰かける当麻に、私の身体はすっぽり収まる。

「お前の方が行儀悪くないか」
「何よー、別にいいじゃない」

背中に当麻の体温が触れる。
当麻の息遣いを感じる。

「どうせヤじゃないんでしょ?」
「……うっせ」

くつろぐ私の顔のすぐ右脇に、当麻が顔を寄せた。
わずかに右を振り向くだけで表情が覗けるくらい、近くに。

「なあ、どうして訊かないんだ?」

当麻の声が、耳元で聞こえた。

「何を?」

意味が分からず、私は訊ねた。
次の瞬間、当麻の口から出てきたのはこんな言葉だった。

「俺のことだよ」
「当麻の?」
「俺の記憶のこと」

心臓が突然、跳ねた。
確かに、ドクンと。

「知りたいんだろ、俺がどこまで覚えてるか」

少し間があった。


当麻はきっと待っている。
私の言葉を待っている。
それが分かったから、言った。

「うん、知りたかった。当麻に何があったのか、すごく知りたかった」

何だかんだ言って、当麻は鋭い。
私の微妙な言い回しに気づいた。

「かった?」

出来るだけ、あっさりと言うことにした。

「でも、もういいや」

笑いながら、私は言った。


当麻の過去が気にならない、なんてことは絶対ない。
どんな些細なことだって気になるし、知りたい。だって好きなんだもん。



だけど私には自信があった。
確かに記憶は大事かもしれない。
積み重なっていけば、光り輝くかもしれない。
それでも記憶は一番じゃない。

「当麻がいれば、それでいいや」

湧き上がってくる気持ちのまま、そう言った。


ちゃんと分かってるんだ。一番は当麻だって。
何があっても、そのことだけは決して変わらない。
だから、当麻の過去を知らなくても、私は構わなかった。
そんなことよりも、当麻といられることが大切だった。
この世で一番のことを手に入れようと思ったら、何かを失くしたり落としたりしなきゃいけない場合だってある。
それは払うべき代償だ。そうだ、言い切ってやる。子供の戯言だって切り捨てるヤツがいたら、私はそいつを思いっきりぶっ飛ばしてやる。


この想いを、気持ちを、どうしたら当麻に伝えられるんだろう。
学園都市で三番目に優れた頭脳の持ち主なくせに、私の頭の中には気持ちを上手く表現できる言葉がなかった。
だから私は手を伸ばして、ベッドに投げ出された当麻の大きな手をぎゅっと握りしめた。
これが、この手の中にあるものが、私の一番だ。何よりも大切なものだ。この世界よりも、自分自身よりも、大切なものだ。


気持ちが伝わればいい。
温もりで、それ以外の何かで、伝わればいい。


当麻はそっと握り返してきた。

「ロールキャベツ、すげえ美味かった」
「うん」
「また作ってくれよ」
「うん」

そんなことを言いながら、私達は互いの温もりを感じ合った。











[20924] 第28話 御使堕し編・その後③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/04 23:43
気がつけば十一時を回っていた。
この時間では最終バスも過ぎてしまっている。
とんでもないことになった。本当に本当に、とんでもないことになってしまった。
美琴に外泊許可が下りていたのは昨日まで。だから今日は門限までに帰さなきゃいけなかったのに。


どうにかなるはずだった。
飯を食って、食後にちょっと休憩したって間に合うはずだった。
意識を落としさえしなければ。そう、美琴の温かさに負けて、ぐっすりと眠ったりしなければ。

「起きた?」

美琴を後ろから抱きしめたまま、俺はそんな声を聞いていた。

「もうすぐ明日になっちゃうね」

その通りだった。
あと一時間もしないうちに明日に、八月三十一日になる。
一ヶ月以上あった夏休みも、あと二十四時間を残すばかりになる。

「ごめん、美琴」

俺は慌てて言った。
ほったらかしだったことで、美琴は怒ってるかもしれない。

「大丈夫」

だけど美琴は全然怒ってなかった。
それどころか、何だか優しい顔をしていた。
あまりにも意外だったので、俺はちょっとぼーっとしてしまった。

「でも、どうしようか」
「うん?」
「今から走って寮まで行っても、日付け変わっちゃうし」
「……」

くそ、俺のバカ。クズ野郎。
また自分のことでいっぱいいっぱいになりやがって。
落ち込んだそばから、またこれだ。救いがない。
それにしても、どうして美琴は優しく笑ってるんだ。どうして俺の顔をじっと見てるんだ。


情けなさでいっぱいになりながら、美琴の目の前で交差させていた腕を解いた時、

「あのね、当麻」

俺に身体を預けたままで、美琴が声をかけてきた。

「お願いがあるんだけど」

右の肩に顎を乗せて、美琴の顔を覗き込む。

「お願い?」

悪い予感がした。

「うん」

美琴は優しい顔をしたまま、肯いた。












悪い予感ってヤツは、どうして当たるんだろう。全く理不尽だ。
例えばサイコロを振ると、出てくる数字は半分が奇数で、半分が偶数だ。
世の中には大体同じくらいの幸運と不運があるんだろうし、いい予感も悪い予感も等しい確率で当たるはずなんだ。
ところが、だ。当たるのはいつも悪い予感ばっかりだった。


全く、この世界ってのは理不尽だ。だから俺は参ってしまう。
いやいや、もちろん参ってる一番の原因は、この時間じゃどこにチャンネルを合わせても面白くない番組ばっかりだってことだ。
『呼吸でレベルアップ講座』とか、とにかくつまらない。あんな番組があるなんて、どうかしてる。
あの程度で能力を上げられるなら、この街はとっくに超能力者で溢れ返ってるだろうに。
それにコツコツと努力を積み重ねて力を手に入れた美琴のような人間をバカにしているように思えて、どうしても好きになれない。


そう、面白くないテレビ番組のせいで参ってるだけだ。それだけだ。

『今日、泊めて』

美琴の声が時々心に響くのは、全然関係ない。


俺は軽く溜め息を吐いた。
それからテレビを消し、耳を澄ませる。
ドア一つ隔てて、水の流れる音が聞こえる。
また落ち着かない気分が込み上げてきた。
美琴が風呂に入っているのだ。


優しい笑顔で、美琴がそう言ったのだ。ここに泊めて、と。
お前なあ、と俺は呆れた声を返していた。


あのテレポート女を呼び出せば喜んで迎えに来るだろ。黒子にここの場所ばらしてもいいって本気で思ってんの?あー、そりゃマズイな。
でも散々門限破った上に無断外泊なんてして、寮の方は大丈夫なんかよ?だってほら、黒子に連絡すると今後色々面倒だし。それに、その……邪魔、されたくないし……。
お前……よくそんな恥ずかしいこと口に出して言えるなあ。何よ、いいじゃない。少しくらい本音言ったって。ははは。笑うなあっ!
もう、からかわないでよ。ちょっと汗掻いちゃったじゃない。悪い悪い。ね、当麻。お風呂借りていい?ダメっつったってどうせ入るだろ、お前は。
沸かし方分かるか?うん、台所と一緒よね。あ、そうそう。ん?覗いたら殺すわよ。いいから入って来い、中学生――と。


俺達は普通に悩み、普通に怒り、普通に笑い、普通に喋った結果、普通じゃない状況に陥ってしまったりした。


しかし何考えてんだよ、美琴のヤツ。
何の躊躇もなく男の家で風呂に入るなんて。
俺達って今、正真正銘、二人っきりなんだぞ。
こんな状況で、何とも思わないワケないじゃないか。


これはまさか、アレですか?誘われてるってことですか?


い、いや、考え過ぎだよな。
単にアイツが無防備だってだけで。
そうだ、深く考えたら負けだ。
平常心。ここは平常心で乗り切るんだ。
そんなことを考えていると、カチャリと音を立てて件のドアが開いた。


俺は反射的にそちらを振り向き、

「お待たせー」

そして凍りついた。

「ん?どしたの?」

美琴が着ているのは白いYシャツ一枚、ただそれだけ。

「ちょ、おまっ!ちゃんと服着ろよ!」
「着てるじゃん、当麻に借りたシャツ」
「それだけじゃダメだろ!」

正直、目のやり場に困る。
胸元の膨らみとか、その先端部分とか、色々と浮かび上がってしまっている。

「何か着けろよ、下着的なものを!」

視線を下に逃がす。だが、残念ながらそこにも罠が仕掛けられていた。

「なっ!?」

雪のように白い肌と、細くて長い足が出迎えてくれた。

「下も履け、下も!」

シャツの裾はギリギリ股下まで。
美琴が身体を動かすたびに裾がひらひらと揺れ、隠れた素肌がちらちら見える。

「見えそうで見えないところがいいでしょ」

美琴は笑った。
ただし、意地悪そうに。
それは小悪魔の笑みというヤツだった。


ほんの少し濡れた髪に、上気した頬。
胸がドキドキする。思わず息を呑む。
このまま振り返って美琴を抱きしめたかった。
その綺麗な髪に、柔らかい首筋に、顔を埋めたい。
だけど理性を総動員してどうにか堪える。
遠慮なんかするな、なんて美琴は言ってくれている。
だけど、それでもまだ早いと思うんだ。
何が早いかと言うと……それはまあ、あれだが、とにかく早いんだよ!

「とりあえず髪を拭け、髪を!」

美琴の首にかかっていたバスタオルを取り上げる。それを美琴の頭に被せ、わしわしと髪を拭く。

「と、当麻、やめて……やめてってば!」

不満そうな声。でも聞き入れるつもりなんて毛頭ない。
男心を弄ばれた苦痛、一端でもいいから味わわせてやる。

「安心しろ」
「何が?」
「すぐに乾く」
「そういう問題じゃない!」

悲鳴のような抗議をする美琴を無視して、俺は髪を拭き続けた。
そうさ、気持ちの整理がつくまで拭き続けたんだ。












私の髪を拭き終えてすぐ、当麻はユニットバスに直行してしまった。


逃げられちゃったな。
私って、そんなに魅力ないのかな。
胸だって、同年代の子よりも小さめだし……。


リビングに取り残されて、だんだん醒めてきた。
何をしてるんだろう、私は。あんなことをして、当麻が喜ぶワケがないのに。
さっきまでの自分を思い返す。熱が顔に集まってくる。


――もしかして私、とんでもないことしちゃった……?



だんだん不安になってきた。
私、何であんなことしたんだろう?ひょっとして、焦ってた?
でも、何に?そもそも、焦るようなことなんて……。


――ある、かもしれない。


当麻は誰にだって優しい。
困っている人がいたら、ついさっきまで自分の命を狙っていた相手だろうがお構いなしに手を差し伸べるようなヤツなのだ。
私は知ってる。そんなアイツを慕う女の子が、実は大勢いるんだってことを。しかも魅力的な娘ばっかりだってことを。


ああ、勘違いしないでね。
別に当麻のことを疑ってるワケじゃない。
問題は私なのだ。まだまだ守られてばかりいる、私の方なのだ。


私はインデックスみたいに当麻を気遣ってあげられてない。
舞夏みたいに家事を完璧にこなせるワケでもない。
姫神さんみたいに御淑やかでもなければ、神裂さんみたいに強くもない。
胸だって、その、満足させてあげられるほどないし……。


何だか無性に悔しくて、心の奥が締めつけられる。
私の一番は当麻だ。誰が何と言おうが、それは絶対に変わらない。
でも、私は?私って、本当に当麻の一番になれてるの?












「要は能力者が繰り広げる大運動会ってワケか」
「うん、だから外部からの注目度も高いんだよ。期間中は都市への出入りも自由だし」
「にしても大覇星祭、か。随分と仰々しい名前だな」
「そうだね。何か由来でもあるのかな」

お風呂上がりの当麻とベッドに腰かけ、二人で色んなことを話した。と言っても、話しているのはほとんど私だった。
当麻は聞き手に回っていた。肯いたり、突然神妙な顔をしたり、苦笑したり。とにかく飽きずに聞いてくれた。
お風呂に入る直前のことなんて、まるでなかったみたいに自然な態度だった。

「もうこんな時間か」

気がつけば、時間はもう二時近くになっていた。
明日のことを考えると、さすがに寝ないとマズイ。

「そろそろ寝るか」
「だね。ところで当麻」
「何?」
「毛布だけは頂戴」
「ん、何で?」

真っ直ぐな瞳に他意はない。
どうやら本気で分かってないらしい。

「私、下で寝るから。ベッドは当麻が使って」

当麻が顔をしかめた。

「何言ってんだよ。ベッドはお前が使え」
「ダメ。ここは当麻の家なんだから」

折れるつもりなんて、これっぽっちもなかった。
私は今日、冷たい床で寝なきゃいけなかった。それを望んでいる自分がいた。

「ベッドは当麻が使って」


――ああ、そうか。


毛布を掴み、腰を浮かせて、ふと気づいた。


――私は自分に罰を与えたいんだ。


「断る」

当麻の目が険しくなる。
立ち上がりかけた私の腕を取る。

「ちょっ、やめて!」

強く抵抗する。なのに当麻は離してくれない。
私の腕を掴む、その力を緩めてくれない。

「離して!離してってば!」

私は必死だった。


私は罰を受けなきゃいけない。
じゃなきゃ、自分自身を許せそうにない。

「離して!」

それでも当麻は離してくれない。諦めてくれない。
それどころか、振り返った私の腕を強く引いてきた。
私達は揃ってバランスを崩し、二人してベッドに倒れ込んでしまった。
私が上で、当麻が下で。まるで私が押し倒したような、そんな体勢になった。


当麻は硬くて、重い感じがする。
薄いYシャツ越しに、当麻を感じる。
触れている部分の体温が、どんどん上がっていく。
熱くて、汗が出てきて、それが心地良い。
もっと触れたくなる。他のところに手を伸ばしたくなる。
邪な願望が私の中で膨らんでいく。けど当麻と目が合うと、欲望はあっと言う間に消え失せてしまった。

「どうしたんだよ」

真剣な眼差しに、かける言葉が見つからない。

「ほら、泣くなよ」

なんて言って、そっと目元を拭いてくれる当麻。
この時、私は初めて自分が泣いていることに気づいた。

「そういうとこ、会った頃から全然変わってないな」

何で?何で怒ってないの?どうしてそんなに優しいの?
勝手に怒って、泣き出して。そんな私に、どうして……?

「当麻……」

身体を浮かせて、当麻の顔を覗き込む。
何故か、慌てて視線を逸らされる。

「何?」
「お前、もうちょい自覚持てよ」
「は?」
「ディフェンス甘過ぎ」

自分の胸元を確認する。
開いた襟元から、ちらちらと胸の先端が見えている。


――ひょっとして、ううん、ひょっとしなくても、見られた?


瞬く間に顔が熱を帯びていく。

「スケベ」
「うっせえ!」

自棄になって叫ぶ声。次の瞬間、抱きしめられた。
ギュッと。壊れそうなくらい。力いっぱい、抱きしめられていた。

「ったく、何焦ってんだよ」

慰めるように、当麻が私の頭を撫でてくれる。

「焦らなくても、怖がらなくても、俺は美琴のものだよ」
「で、でも……!」

突然のことだった。一瞬だけ身体が強張っちゃったけど、すぐに受け入れられた。


当麻からの、キス。
目を閉じて、必死に当麻を求めた。
もっともっと、当麻を感じていたい。
お願いだから、傍にいさせて。私を不安にさせないで。
私だけを見てなんて、そんなワガママ、もう言わないから。


私達は随分と長いこと、お互いの唇を味わった。
お互いの全てを感じ合えるくらい、口づけを交わした。

「……激しかったね」
「それだけ好きってことだよ」

うん、ホントにそう。
抱きしめてくれて、当麻との距離がゼロになって。


いつも、いつもそうなんだ。
いつだって当麻は、私が一番欲しがっているものをくれる。
私を幸せな気持ちで満たしてくれる。


でも、そろそろ寝ないと明日が大変になっちゃう。
このまま終わりっていうのは残念だけど、こればっかりはしょうがないよね。

「もう寝よっか」
「ごめん、無理」


――え?


予想だにしていなかった言葉。

「……この状況で、さすがに何とも思わないワケないだろ」

更に、更に。

「って言うか、そろそろ限界なんですけど」

それは恥ずかしいけど、嬉しかったり。

「バカ」

微笑んで、呟く。


私達の夜は、まだまだ終わりそうにない。











[20924] 第29話 八月三十一日①
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/04 23:43
「ふう――」

小さく吐いた息が、やけに大きく聞こえた。
旅行用の大きなバッグを肩にかけ直し、私は空を見上げた。
夏の夜明けは早くて、まだ六時だと言うのに、太陽は元気よく輝いている。
恐怖が一気に、胸の中で膨れ上がった。


――マ、マズイ。早く帰らないと寮監に怒られる……。


その恐怖感に急かされ、私は駆け出した。
近代的な街並みの中を走っていると、三階建ての古めかしい建物が見えてきた。
石造りの洋館を思わせるそれは、常盤台中学の学生寮だ。


周囲の気配に耳を澄ましながら、正面玄関に向かう。
目の前で開いた自動ドアを、おっかなびっくり通り抜ける。
電磁波を飛ばして、辺りの様子を窺う。


――よし、誰もいない。


私は慎重だった。以前、寮監に待ち伏せされたことがあるのだ。あの時の寮監はむちゃくちゃ怒っていた。
一緒にいた黒子の首を捻って瞬く間に意識を落とした上に、だだっ広い学校のプールの掃除を命じたのだった。
そりゃあ私だってさ、規則を破っていいなんて思ってないよ。でもさ、れっきとした理由がある時ぐらいは融通を利かせてくれてもいいんじゃない?


ロックを解除し、ホールへ続くドアをそっと、そーっと開ける。


――いけるかな?


ドアを開けたまま、身を固める。
気配を探る。音に注意する。そっと顔を出す。
人の姿はない。ホールは静かなものだった。
ホッと息を吐く。第一関門、突破だ。


中に入り、静かにドアを閉める。
足音を殺すために靴を手に持ち、小走りで階段を上る。
身を隠すものは何もない。寮監が通りかかったら終わりだ。
出来るだけ足音を立てないようにしながら、駆けていく。
心臓がドキドキした。慌て過ぎたせいで足がもつれ、危うく転びそうになる。
でも、どうにか体勢を立て直し、そのまま速度を上げた。


二階に辿り着くと、一気に廊下へ出る。
突破成功だ。ここまで来れば大丈夫。
私と黒子の二人で使っている部屋はもう、目と鼻の先だ。
胸に達成感が湧き上がってきた。


しかし!


ドアに手をかけた、その時だった。

「お帰り」

背後から、誰かの声。

「ところで今日、何日かな?」

慌てて振り返ると、そこには思った通り、寮監の姿があった。
背中の辺りまで伸びた黒髪。びしっと決まったスーツ。
腕組みをして、眼鏡越しにこちらを凝視している。


私は両手をブンブンと振った。

「りょ、寮監、違うんです!これにはワケが――」

私の必死の弁解は、途中で切れた。
正面から喉を鷲掴みにされたからだ。
頸動脈を絞められ、私の意識は呆気なく落ちてしまった。












海に出かける際、私は八月二十九日までしか外泊許可を取っていなかった。
つまり、昨日は無断外泊だったワケだ。そのたった一日の無断外泊は、意外と大きな波紋を生み出してしまった。
まず私が予定通りに帰って来ないことに黒子が泣き叫び、続いて当麻と一緒に学園都市の外に出ていたことが発覚して……。
どこをどうしたらそうなるか分からないんだけど、駆け落ちという説が学生寮中を駆け回ったらしい。


――うーん、駆け落ちかあ……わりと思いつきやすいシナリオなのかなあ……。


と、そんなことをしみじみ思いながら、私はひたすら足の痛みに耐えていた。


学生寮の前で正座させられてから、既に三時間が経つ。
何故こんなことになっているのかと言うと、まあ要するに無断外泊の罰である。


目を細くした寮監が、

「規則破りには罰が必要だ。そうは思わんか?」

と言って、私に正午までの正座を命じたのだった。


反省を促す姿勢として、それは間違っていないと言えば言えるだろう。
だけどここは路上。コンクリートの上。座っているだけでも固くて痛い。
こんな場所で正座をするのはやっぱり、かなり間違っていると思う。
それに午前十時を過ぎた今では太陽にも気合が入り、私の上に容赦なく降り注ぐ。
設定気温を下げてほしいとお願いしたいところだけど、何しろ相手は一億五千万キロ彼方。声は届きそうにない。


――それにしても、駆け落ちかあ……。


その言葉は本当にドラマチックな響きがした。
当麻と手を繋いで、どこまでもどこまでも行くんだ。
ここじゃないどこか遠くの、そうね、あまり大きくない町に辿り着いたら、どこか古ぼけた感じのするアパートでも借りて。
共働きで生活費を稼いで、でも帰りは絶対に私が先で。当麻が仕事から帰って来るのを、ご飯を用意して待ってたりして。

「ただいま」

なんて、当麻は笑顔で言ってくれてさ。


もちろん私は笑う。

「おかえり。ご飯にする?お風呂?それとも……」


――ストップストップ!何を想像してんのよ、私!


とは言え下らない妄想に励んでいると、この惨めな状況と足の痛みを忘れることが出来るのも事実なワケで。
だから私は妄想の続きを、ありったけの想像力を駆使して思い浮かべた。まあ、ああいうことやこういうことだ。
そして、思わずニヘラと笑っていると、

「何だ、御坂さんじゃないですか」

すぐ側で、声がした。


まだ妄想に半分くらい浸ったまま、顔を上げる。
私より一つ年上の、背の高い男が立っていた。

「何をなさってるんですか?」

海原光貴。近頃しょっちゅう付きまとってくる男だった。

「えっと、ちょっとばかり正座を……」
「どうしてこんな所で?もしかして、趣味の一環ですか?」
「い、いや、そうじゃなくて……」

どこの世界に正座が趣味の女の子がいるっていうのよ。

「あと、どうして顔が赤いんです?」
「え、ええと、それは……」

よからぬ妄想をしていたからです、とはもちろん言えなかった。

「あ、足が痛くて……」
「え、大丈夫なんですか?」
「う、うん。平気平気……」

しかし、ふと素に戻ってみると、足の痛みは限界に達していた。
膝がギシギシ痛み、お尻の下の足首は今にも折れそうだ。
私は自分の顔が青くなっていくのを感じた。


――ヤ、ヤバイ。


危機を感じ、慌てて立ち上がろうとしたが、それがいけなかった。
痺れ切った足がまともに動くはずはなく、立ち上がろうとした次の瞬間、頭から床に突っ込んだ。

「御坂さん、大丈夫ですか!?」
「へ、平気平気」

駆け寄ろうとした海原光貴を、私は声を上げて制した。

「でも鼻の頭、赤いですよ」
「身体を張ったギャグよ、ギャグ」

床にへたり込み、すっかり痺れてしまった両足をさすりながら言った。

「やっぱり辛いんじゃないですか?」
「平気だって。あと少しの辛抱だし」

たはは、と笑って再び正座体勢に戻る。


そうだ、正午になれば自由の身になれるんだ。
そうしたら真っ先に当麻の寮に行こう。
今頃は残りの宿題相手に奮闘してるはずだから。
何か美味しい物を作って、少しでも応援してあげよう。
何がいいかな。こんなに暑いんだから、冷たい物がいいよね。となると、やっぱり素麺かな。

「お助けしますよ」

救いの手を差し伸べようとする海原光貴。
この男だったら、確かに現状をどうにか出来るのだ。
だってコイツ、常盤台中学理事長の孫だったりするんだから。
コイツの頼みだったら、たとえ寮監でも聞き入れるしかないだろう。


でも私はブンブンと首を振った。
この男に借りなんて作りたくなかった。
見返りに何か面倒なことでも頼んでくるかもしれないし。

「だから平気だってば」

断言。


海原光貴はニコリと笑った。

「一刻も早くあの方に会いたいとは思わないんですか?」
「あの方って?」
「上条当麻さん、でしたっけ」

その返答に、めちゃくちゃ驚いた。


――何でコイツ、当麻のことを……?


口を半開きのまま、海原光貴の顔を見ていると、

「知ってますよ」

海原光貴がそう言った。

「御坂さんのことですから」

何が楽しいのか、ニコニコと笑い続けている。


おかしい、と思った。
近頃しょっちゅう、こんな調子なのだ。
この男とは挨拶を交わす程度の仲だった。
なのに一週間くらい前からだろうか。
適当に理由を作っては、しつこく付きまとってくるようになったのだ。

「お助けしますよ」

ただし、と海原光貴は付け加えた。

「条件があります」
「条件?」
「近所に魚料理が美味しいお店があるのですが、お付き合い願えませんか」

しばらく、何を言われたのかピンと来なかった。


――魚料理?お付き合い?


その二つの言葉が繋がるのに、ちょっと時間がかかった。

「お付き合いって、食事の誘い?」
「ええ。この条件を呑んで下さるのでしたら、今すぐ貴女を解放して差し上げますよ」
「条件って、それだけ?」
「はい」

気づくべきだったのだ。この時。
こんなに甘い取り引きがあるワケないのだと。

「まあ、それぐらいならいいけど」

でも、何にも知らなかった私は、あっさりと肯いてしまった。


八月三十一日。夏休み最後の日は、まだまだ始まったばかりだった。











[20924] 第30話 八月三十一日②
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/10 01:07
第七学区の公園は大した遊具もなく、子供が集まらない閑散とした場所だった。
人が二人ほど座ればいっぱいなベンチ。故障気味の自動販売機。それだけしかない。
そんな公園に足を運ぶのは、自律走行するドラム缶型の清掃ロボと、静かな場所を求める人ぐらいだ。


あたし、佐天涙子は静かな場所を求めていた。


八月三十一日、正午。
夏休みの宿題を終えて手持ち無沙汰になったあたしは、暇潰しも兼ねて軽い散歩をすることにした。
最初からあの公園に寄るつもりだったので、昼食用にコンビニでコロッケパンとコーヒー牛乳を買って。


家の中より綺麗な空気を味わって、すぐ帰るつもりだった。
ベンチに座って、お昼御飯を食べて、一人きりの時間を満喫できればそれで良かった。
なのに、それなのに。どうして先客がいたりするのかなあ。


先客はツインテールの女の子だった。
ベンチに座り、ノートパソコンのディスプレイと向き合っている。
鮮やかに輝く金色の髪を風に靡かせ、キーボードを叩いている。
赤いランドセルを傍らに置き、あくまで真面目に、真剣に取り組んでいる。


何となく、興味を抱いた。

「こんにちは」

ただそれだけの理由で、あたしは彼女に話しかけてみることにした。

「何してるの?」

返事はない。反応すらしない。


むう、愛想のない子だなあ。
それとも日本語が通じてないだけ?
この子、日本人じゃない?
髪も染めてるんじゃなくて本物っぽいし。

「は、ハロー?」

とりあえず、英語で話しかけてみる。

「何か用?ロングヘアのお姉さん」

思いっきり日本語で返された。


何だ、日本語喋れるんだ。
だったら最初から返事してよね。

「隣、いい?」
「ダメ」

ノートパソコンの画面に目線を向けたまま、女の子は答えた。

「どうして?」
「気が散るから」
「そこを何とか」
「ダメなものはダメ」
「どうしても?」
「そもそも、何で私に構うの?」
「こういう出会いは大切にしなきゃ」
「……」

女の子は無言でキーボードを叩く。

「このタイミングで黙らないでよ!」

声を張り上げても、女の子はお構いなし。

「何してんのよ、一体」

ノートパソコンの画面から、女の子がようやく視線を上げた。

「お姉さんには関係ないよ」

いや、そう言われるとすごく気になるんだけど。

「ねえ、何してんの?」

玉砕覚悟で、同じ質問をぶつけてみる。

「お姉さんには関係ない」

やっぱり同じ返事が返ってくる。

「教えてくれたっていいじゃん、ケチ」

その発言を無視して、女の子は私から視線を外した。
再びノートパソコンの画面に顔を向けた。随分長い間、彼女は画面を見つめていた。
一体、何を見ているんだろう。好奇心に負けて、ベンチの後ろに回って画面を覗き込んでみた。


映像が浮かんでいた。
学生が二人、活気の溢れる通りを並んで歩いている。
一人は日本人離れした白い肌をしている、背の高い男。そして、もう一人は、

「御坂さん?」

そう言った瞬間、女の子の動きがいきなり加速した。
少し慌てたような感じで、こちらに顔を向けたのだ。

「今、何て言ったの?」
「え?」
「今だよ、今」
「いや、だから御坂さんって……」
「知ってるの?」

勢い込んで訊ねてくる。彼女の目は真剣だった。
その視線に怯みながら、あたしはどうにか説明した。

「そりゃまあ、友達だし」
「ホントに?」
「う、うん」

彼女は再び、画面に目を向けた。
また沈黙が訪れる。けれど、その沈黙に気まずさは含まれていなかった。
彼女はあたしを無視するためにではなく、何か別の目的で、画面を見つめていた。


あたしは女の子の背中に声をかけた。

「好きなの?御坂さんのこと」
「え?」

彼女がこちらに顔を向けた。
何を言われたのか分からないって顔をしている。

「だってそれ」

ノートパソコンの画面を指差し、

「さっきから、すごく熱心に見てるし」

或いは憧れなのかもしれない。


学園都市二三〇万人の頂点。
七人しかいない超能力者の第三位。
『超電磁砲(レールガン)』の異名を持つ、常盤台中学のエースに。


だけど――


「違うよ」

意外なことに、彼女は否定した。

「好きじゃない」
「え?」
「でも、嫌いでもないかな」

ワケが分からない。


呆けたような顔のあたしを見て、彼女は微笑んだ。

「時間ある?黒髪のお姉さん」
「ないこともないけど」
「じゃあ、こっちに来てよ」

そう言って、彼女は自分の横をぽんぽんと叩いた。

「聞きたいな。超能力者のお姉さんのこと」












海原光貴は女子にモテる。
それはもちろん、彼が二枚目だからだ。
髪は流行の感じにカットしてあって、少し長いその毛先が見事なまでの爽やかさを撒き散らしている。
顔の彫りは深く、目は綺麗な二重で、長い睫毛が色の薄い瞳にかかっている。
唇を吊り上げる笑い方は気障っぽい感じがするけど、それが全然嫌味じゃなくて、妙に様になってたりする。


まあ、どうだっていいんだけどね。私には当麻がいるんだし。
とにかく、そんな二枚目と一緒に、私は第七学区の表通りを歩いていた。
ちょうどお昼の時間ということもあって、飲食店はどこもかしこも満席御礼。
参った。なかなか食事にありつけない。こっちは目覚めてから今の今まで、水の一滴すら飲んでないっていうのに。


それだけでも苦痛なのに、更に、

「だからね、御坂さんは人に対してもっと自分の意見をはっきり伝えるべきだと思うんですよ」

妙に艶っぽい感じで、海原光貴は言う。

「正直、自分は貴女の本音というものを聞いたことがあるという自信はありません。一度もですよ」
「えーっと、それは何と言うか……すいません」
「全く。そこのところをはっきりしないから、自分みたいな人間がいつまでもいつまでもずるずると追いかける羽目になるんですよ」

空きっ腹で、どうして説教なんて受けなきゃいけないんだろう。


海原光貴がチラリと、一瞬だけ私の顔を見た。

「自分は本気でアタックしているのですから、貴女にも本気で答えてほしいものです」

本気なんですから。
海原光貴は繰り返した。
そしてまた、一瞬だけ私の顔を見た。
海原光貴が視線を外すと同時に、私は俯いた。
本気で答えてほしい、この男はそう言った。
答えなら最初から出ていた。


ごめん、私には恋人がいるの。
だから貴方の想いには応えられない。
ごめんなさい、本当にごめんなさい……。


声が枯れるまで、そう叫びたかった。
もちろん、出来なかった。怖かった。ただただ、怖かった。
人を傷つけてしまうことが。自分自身の幸せのために、他の誰かを不幸にしてしまうことが。


――どうしよう?


言わなきゃいけない。でも、言えない。言いたくない。

「御坂さん」

迷っていると、海原光貴が口を開いた。

「どうしたんですか?気分でも優れませんか?」
「ううん、大丈夫」
「もしかして、上条当麻さんのことを考えていたんですか?」
「ああ、いや……」

まあ、違うとも言い切れないけど。

「羨ましい限りです」

溜め息混じりの声。

「彼のような右手が、自分にもあればいいのに」


――あ、そうだったんだ。


寂しそうに笑う彼を見て、やっと自分のやるべきことが分かった。
そうだ。私はどうしても、この男に伝えなきゃいけない。

「ねえ、場所を変えない?」

突然の申し出。


彼は一瞬だけキョトンとして、だけど笑顔で肯いた。












「ねえ、お姉さん」
「うん?何?」
「ありがとう」
「な、何なの急に」

礼を言われて、ちょっと焦った。
ありがとう、なんて言葉がこの子の口から出てくるとは思ってもみなかった。

「おかげでよく分かったよ」
「え?」
「常盤台のお姉さんのこと」

やけに素直な感じで、女の子は笑った。

「超能力者って、やっぱり遠い存在だね」

その瞬間、闇に落ちていく自分を感じた。


御坂さんがどれだけ凄い能力者なのか。
それを説明したのは間違いだったと、あたしはようやく気づいた。
超能力という言葉の意味を、あたしは深く考えていなかった。
曖昧にそれを受け止め、その響きに宿っている、どこか肯定的で前向きな部分しか見ていなかった。
学園都市でも指折りの実力者である御坂さんに対する憧れだろう、と。けど、違ったんだ。この子は諦めるために超能力を知ろうとしたんだ。
悪い冗談としか思えないような、デタラメな力。そこに行くには突破の足がかりさえ掴めない、高く厚い壁があるということを。

「まあ、分かってはいたんだけどね」

カチリという音が聞こえたと思った。
それは多分、歯車が違う方向に噛み合わさってしまった音だった。

「違う!」

女の子の手を、ギュッと握りしめる。

「御坂さんは美人だし、すごい能力者だし、頭だっていいけど……でも、そうじゃなくて」

手放そうとしている。この子は何かを諦めようとしている。

「御坂さんの強さは、そんなんじゃなくて」

それが何なのかは、はっきりとは分からない。
でも、これだけは分かる。それは絶対、手放しちゃいけないものなんだ。

「ただ、知ってただけなんだよ」

意を決して、あたしは言った。

「一番大切なものは何かって」

そう、これだけは伝えておかなきゃいけなかった。
能力の強さを簡単に引き上げると噂された『幻想御手(レベルアッパー)』を巡る事件を経て、あたしが辿り着いた一つの結論。


あの時のあたしはホント、バカだった。
つまんないことに拘って、内緒でズルして、親友である初春を危険な目に遭わせて。
能力なんかより、ずっとずっと大切なものをもう少しで失くしてしまうところだった。
そんなあたしを御坂さんは、文字通り叩き起こしてくれた。本当に大切なものを、思い出させてくれたんだ。
だから今度は、あたしが伝えなきゃいけない。何としても、どんなに時間をかけても、伝えなきゃいけない。


けど、女の子は、


はあ?


という顔をした。

「分かってるよ、そんなこと」
「そ、そう?」

何、この反応は。

「ひょっとして、落ち込んでるとでも思った?」
「え、違うの?」
「全然。まだまだ遠いなあって、ちょっとウンザリしたけど」
「……あ、そう」

気恥ずかしさのあまり、目を逸らしながら言う。
それが可笑しかったのか、くすくすと控えめな笑みを女の子は洩らした。

「あ、笑うことないでしょ」
「うん。そうなんだけど、何だか可笑しくて」

笑っている彼女は、さっきまでよりもずっとずっと可愛かった。
こんなに可愛いんだったら、いつも笑っていればいいのに。











[20924] 第31話 八月三十一日③
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/10 01:13
「そろそろ行かなきゃ」

すぐ横で、小さな呟きが聞こえた。
それはどことなく寂しそうな響きだった。


ノートパソコンをたたんで、女の子がベンチから立ち上がる。

「じゃあね、お姉さん」

別れの挨拶もそこそこに、女の子は歩いていく。公園の出口に真っ直ぐ向かう。

「あ、そうそう」

かと思ったら、突然立ち止まった。

「お姉さんって、強能力者?」

振り返り、そんなことを訊いてきた。

「違う違う。ただの無能力者だよ」

あたしは御坂さんや白井さんとは違う。
学園都市に住んでいるけど、ホント、それだけ。
あたし自身は、いたって普通の中学生に過ぎない。
あたしが強能力者?有り得ないって。
それだけの力があったら、常盤台中学にだって入れちゃうじゃない。


なのに女の子は、

「え?」

信じられないって顔を、こちらに向けてきた。

「ホント?」
「ホントだって」
「流れは悪くないのに」

え?何それ、どういう意味?

「まあ、いっか」

じゃあね、ともう一度別れの挨拶を告げて、今度こそ女の子は去っていった。


遠くなっていく背中をしばらく見送ってから、ぼんやりと思う。


――名前、聞きそびれちゃったな。


また会えたら、ちゃんと訊いてみるか。












大通りから脇道に逸れる。
入り組んだ裏路地を歩いていく。
路地の角を曲がる際、私は一瞬だけ背後に視線を向けた。
後をついてくる、海原光貴の顔を見た。
その表情は、いつもと変わらない。今朝からずっと見てきた、海原光貴の顔だ。

「ねえ、ちょっと話がしたいんだけど、いい?」

視線を前に戻し、歩みは止めずに声をかける。

「もちろん。貴女とのお話でしたら、いつだって大歓迎ですよ」

思っていたより裏路地は短く、うっかり大通りに出てしまった。
私は心の中で舌打ちすると、向かいにある裏路地に足を踏み入れた。
背後から、あの男の足音がひたひたとついてくる。

「当麻の話なんだけどさ」
「当麻?ああ、上条当麻さんのことですね」

うん、と肯く。

「どうやって調べたの?」
「はい?」
「当麻のこと」
「どうって」

苦笑して、彼は言う。

「そんなの、『書庫(バンク)』を使ったに決まってるじゃないですか」
「当麻の力についても?」
「ええ。それ以外にないでしょう?」

確かに『書庫』の優秀さについては疑う余地もない。
能力者リストも兼ねるデータベースには、学園都市に関する様々な情報が収められている。

「ホント、とんでもない代物ですよね。異能の力であれば右手で触れるだけで例外なく打ち消してしまうなんて」

学園都市第一位の能力ですら記されている、学園都市の万能辞書。
そんな情報の宝庫に、一学生に過ぎない当麻の情報が載っていないはずがない。
でも違う。大事なのは、そこじゃない。


路地裏から更に路地裏へと奥まったその場所で、私は足を止めた。そこは建設中のビルの中だった。
中、と言ってもコンクリートで塗り固める前の段階であるそれには壁も天井もない。
鉄骨を組んで作られた、巨大なジャングルジムにしか見えなかった。


周囲に人がいないのを電磁波で確認して、私はようやく振り返る。
いつもの笑みを浮かべて、彼は少し離れた場所で佇んでいる。
私達の距離は、そう、ちょうど五メートルくらい。

「確認するけどさ」

俯いて、私は訊ねる。

「情報源は『書庫』なんだよね」

ええ、と彼は答える。

「そうですよ。それで充分、事足りるでしょう?」
「それ、本気で言ってる?」

顔を伏せたまま、私は言う。

「だとしたら、貴方は嘘を吐いている」

彼は押し黙った。

「情報源が『書庫』だけなんて、有り得ない」

沈黙が続く。しばらくして、小さい声が聞こえてきた。
よく聞くと、それは押し殺すような笑い声だった。

「では御坂さん、自分はどうやって上条当麻さんの情報を知り得たというんです?」

この男は、まだそんなことを明るい声で話している。


うん、と私は顔を上げる。

「そこが問題なんだよね」

そして、彼を見据える。
見据えられた彼は、だけど、何の動揺も見せない。

「だからさ、貴方に訊こうと思って」

これを言ったら、もう引き下がれない。

「ねえ、教えてくれる?」

でも、引き下がる気なんて最初からない。

「魔術師さん」

返事はない。また、彼は黙り込んでしまう。
前髪に隠れて、その表情は見えない。

『彼のような右手が、自分にもあればいいのに』

この男が口にした、何気ない言葉。そこで気づいてしまった。

「当麻はね、学園都市じゃ無能力者で通ってるの」

学園都市のあらゆる情報が手に入る『書庫』。そこに登録された当麻の能力値は、無能力。
当麻の右手には『幻想殺し(イマジンブレイカー)』という謎の力が確かに宿っている。
でも学園都市の能力測定機械じゃ計測できなくて、無能力者の烙印を押されている。
なのに、それなのに。この男は、どうして当麻の力を知っている?

「だから当麻の力を知ってるのは、当麻とよっぽど仲のいい友達か」

彼は何も話し出さない。多分、何も話す気がない。

「それとも、魔術に関わっている人間のどちらかだけ」

だから私から話すしかない。

「私は海原光貴って人間をよく知らないけど」
「だから自分が魔術師であっても、おかしくないと?」

私は首を振る。この男からは見えてないだろうけど。

「正直、まだ分からないことだらけ」

でも、と私は付け加える。

「これだけは間違いなく言える」

胸を張って、断言する。

「海原光貴は他人を騙しても平気な顔でいられるような人じゃない」

ようやく彼の表情が見える。
目を見開き、こちらを凝視している。

「だから」

ついに、この言葉を口にする。

「貴方、誰?」

疑問をぶつけた、次の瞬間、

「……ふふ」

彼の顔から、海原光貴が消えた。


顔が変わったワケじゃない。
なのに、浮かべた笑顔の中に海原光貴はいない。
海原光貴の皮を張りつけただけの、偽物。魔術師の本性が剥き出しになる。

「全く、上手くいかないものですね。人を騙すって」
「迂闊、失言だったね」
「迂闊?」

魔術師は心底おかしそうに、クスクスと笑う。

「迂闊なことなんて何一つありませんよ。変装も完璧でしたし。あんな言葉一つで自分に気づいてしまう貴女が異常なんですよ」
「そんなことないでしょ」
「では貴女は、らしくない行動を取っている人間を見ただけで、この人は別人だなんて考えるんですか?」

確かにそれはない。どんなに不審な行動をしていても、その人が別人だと考える発想は突飛過ぎる。

「それでも貴女は自分に辿り着いた。これを異常と言わずに何と言うんです?」

やけに嬉しそうに、魔術師は喋っている。
そんなこと、別にどうだっていいのに。

「で、本物の海原光貴は?」
「殺しましたよ」

あっさりと。魔術師はそんなことを言った。

「今は大事な潜伏期間ですからね。正体がバレないよう最善を尽くすのは、当然のことでしょう?」

微笑みを崩さず、彼は言う。

「さて、御坂さん。お知り合いが亡くなったと聞いて、それで貴女はどうするんです?」

本当に楽しそうに、問いかける。

「自分を殺してみますか?」

そして、懐から黒い石で出来た刃物のような物を取り出した。

「これなるはトラウィスカルパンテクウトリの槍」

まるで商人が自慢の売り物を見せびらかすように、魔術師は刃物を動かしてみせる。

「その力の本領は、破壊に非ず」

そう言うと、彼は徐に黒い刃物を振るった。瞬間、何かが顔の横を通り過ぎた。

「ただ全てを分解するのみ」

数呼吸の後、異変が訪れた。
金属を打つような轟音が、突如として鳴り響いた。
そして、ネジやボルトが通り雨のように次々と降ってきた。


まさか――


思わず頭上を見上げる。
支えを失った太い鉄骨が、今まさに降り注ごうとしていた。

「さあ、どうします?」

魔術師は変わらずに微笑んでいた。











[20924] 第32話 八月三十一日④
Name: スネーク◆d7bf9510 ID:287d5538
Date: 2011/03/16 22:57
「出来た……!」

感無量だった。
国語、数学、英語。合わせて三十枚もあったプリントの束。
数多くの学生を苦しめる夏休みの宿題が、たったの二日で終了した。


全部、美琴のおかげだ。
美琴が俺のことを全力でサポートしてくれたおかげだ。
美琴には感謝しなくちゃいけない。気持ちだけじゃなく、ちゃんと形にして伝えたい。
しかし最悪なことに、そういった経験が皆無な俺には何を渡すべきなのかさっぱり分からない。
無論、美琴が好きな物ならいくつも考えつくのだが、いざプレゼントに、となるとちょっと違う気がするワケで。


でも、じゃあ、美琴が喜んでくれるプレゼントって何なんだ?












おかしい。おかし過ぎる。
数百キロの重量はあるだろうと思われる鉄骨が、地面のあちこちに突き刺さっている。
間もなく建設中のビルそのものが、雪崩のように崩れ出す。
なのに御坂さんは動かない。逃げようとも、立ち向かってこようともしない。


――何故です?何故、そんな悠長に構えていられるのです!?


心の中で毒づきながら、彼女を睨みつける。

「貴方って」

突っ立ったままで、彼女はそう言った。

「ホント、嘘吐きだね」

すぐさま肯いた。

「これが自分に課せられた使命ですから」

ふふ、と御坂さんが笑う。

「キツイね、使命」
「そうですね」
「でも良かった」

え?良かったですって?

「貴方を傷つけずに済んで、本当に良かった」

微笑む彼女の顔を見ながら、自分は泣きそうになった。
彼女が優しい言葉を口にしたことに打ちのめされた。


この期に及んで尚、御坂さんは自分の心配をしてくれている。


自分はただ、怒鳴ってほしかったのに。
どうして騙していたんだと、叱ってほしかったのに。
取り返しなんてつかないほど、恨んでほしかったのに。
そうすれば、何もかも諦められると思ったのに。
けれど彼女は笑っていた。優しく自分を見つめていた。

「貴方が嘘吐きで良かった」

真っ直ぐに自分を見つめる彼女が、いつもよりずっと大きく見えた。

「……嘘じゃない」

何を考えていたのか、自分でもよく分からない。

「貴女への気持ちは、嘘なんかじゃない!」

気がつくと、叫んでいた。

「海原だってね、本当は傷つけたくなかったんです。だって、それが一番幸せじゃないですか。誰も傷つかない方がいいに決まってるじゃないですか!」

自分のすぐ横で鉄骨が突き刺さったが、全く気にならない。

「自分は、この街が好きだったんです。一月前、ここに来た時からずっと!」

ギシギシと不気味に軋むビルを無視して、叫んでいた。

「たとえここの住人になれなくたって、御坂さんの住んでいるこの世界が大好きでした!」


――七月三十一日、自分は御坂さんと出会った。


今でも、彼女を見ると我を失ってしまいそうになる。
ただ見ているだけなのに、身体中に痺れが走って、息をすることも忘れてしまう。
自分の心はどんどん侵食されていった。学園都市に住む、奇跡のような女子中学生に。


多分、自分は彼女に恋をしている。
話したこともなければ、声も聞いたことのなかった頃から、ずっと。
その想いは日に日に比重を増して、恐いぐらいだった。

「でもね」

でも、そんな日々も今日で終わる。自らの手で終わらせる。

「やるしかなかったんですよ。結果が出てしまったから。魔術とも能力とも言えない力を持つ貴女と上条当麻は危険だと、上層部が判断してしまったから」

間もなく始まるであろう崩壊すら気に留めず、続ける。

「どうして魔術に触れてしまったんです!?力なんて手に入れてしまったんです!?貴女がもっと穏便でいてくれたら、問題なしって報告させてくれたら、それで静かに引き下がれたのに!自分は海原を襲うことも、貴女を騙すこともしなくて済んだのに!」

情けない、みっともない。
こんなの、ただの八つ当たりに過ぎない。
スパイのくせに、利用しようとしたくせに。


始める前から終わってしまっていた恋だとしても。
彼女に恋人がいると、とっくの昔に気づいていたとしても。
それでも、どんなに醜くても、これが自分の本音だった。
自身の弱さ故に、大切なものに手をかけるしかなくなったスパイの本音だった。


頭上で派手な音がした。恐らく最上部が崩れ始めたのだろう。

「一つだけ、いい?」

御坂さんが訊ねる。

「何です?」
「名前を教えて」

発言の意図が分からず、顔をしかめる。

「貴方の名前」

彼女はそんなことを訊ねる。

「……エツァリ」

囁き声のような返事に、彼女は微笑む。

「エツァリ」

自分の名前を口にして、微笑む。

「いい名前だね」

その優しい声を、自分はじっと聞いていた。

「……ありがとうございます」

そうして微笑んだ。
そう、演技なんかじゃなく、ごく自然に笑えたんだ。
この勢いで、御坂さんに気持ちを伝えたかった。好きだと言ってしまいたかった。
チャンスは今しかない。死は、すぐそこまで迫っている。
でも、言えなかった。言ったら、今度こそ彼女を失ってしまう気がした。


ビルの最上部が無数の鉄骨に姿を変え、バラバラと降り注いでくる。

「もう終わりですね」

次々と雨のように降り注ぐ鉄骨を前に、しかし自分は頭上を見上げたりしない。
そんなことをして、何かが変わるワケでもない。間もなく自分は、この場所で御坂さんと共に息絶える。


本当は、自分だけが死ぬはずだった。
自分だけが死ねば、少なくてもこの場は丸く収まったはずだった。
御坂さんを殺すなんて、自分には絶対に出来ない。かと言って、組織を裏切るだけの力も勇気もない。


だから……そう、だから御坂さんの心を揺さぶろうとしたのに。
海原光貴を殺したなんて嘘を吐いて、自分を憎ませようとしたのに
何の遠慮もなく、躊躇いもなく、敵である自分を殺せるように。
なのに出来損ないのスパイには、それすらも許されなかった。
どれほど足掻こうが、喚こうが、もう未来は変えられない。

「そんなことない」
「え?」
「そんなことないよ」

輪郭がはっきりした声。
その時、彼女と目が合った。
彼女は笑っていた。凛々しく、頼もしく、笑っていた。


直後、大量の鉄骨が降り注ぎ、地面が振動した。












「……はは」

大量の砂煙が舞い上がる中、自分は力なく笑った。
ぺたんと尻餅をついた自分の両足の間に、鉄骨が突き刺さっている。
それだけじゃない。辺り一面に鉄骨が突き刺さり、覆い被さり、隙間だらけの屋根がついた出来の悪い小屋のようになっていた。
絶妙なバランスで辛うじて形を保っているそれは、ちょっと風が吹いただけで崩れてしまいそうで。
これだけの大惨事にも関わらず、自分は生き埋めにされずに済んだ。
腰が抜けて立てなくなっているが、それだけ。傷の一つすら、身体にはついていない。


――そうだ、失念していました。


運が良いとか悪いとか、そんな次元じゃない。


――彼女は電気を主軸としたものであれば、どんな事象も再現できるんでした。


おそらく電気の力を応用し、磁力で鉄骨の軌道を曲げたんだろう。

「エツァリ」

名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。
今にも崩れそうな鉄骨の屋根の下、彼女は両手を腰に当てて立っていた。


それは自分が恋をしていた、女の子。

「生きてたんだ」

ええ、と肯く。

「おかげ様でね」

それから、彼女をじっと見つめた。
彼女は全く嫌がらなかった。優しく微笑み、自分の言葉を待っていた。


もし出来るなら、こんなことは言いたくない。
だって自分は御坂さんが好きだったから。この気持ちに嘘なんてなかったから。
なのにどうして、自分には彼女を傷つける言葉しか許されないんだろう?

「きっとね」

観念して、口を開く。

「攻撃は今回限りで終わりません。自分みたいな下っ端が一回失敗した程度で、彼らが退くとも思えない」

あんまりだと思う。最後の最後まで、彼女を傷つけるような真似をさせるなんて。

「むしろ余計に危険視する可能性すらあります」

それでも自分は、もう選んでしまっている。

「貴女や上条当麻さんの元には自分以外の者が向かうと思いますし」

海原光貴を襲った時点で、選んでしまっている。

「最悪、自分にもう一度命令が下るかもしれません」

御坂さんは悲しげに顔を伏せた。
優し過ぎる彼女が、傷つかないはずがなかった。

「だったら」

なのに彼女は、すぐに表情を変えた。

「また止めてあげる」

彼女は言ってくれた。

「誰も死なせない、殺させない」

笑顔で。本当に心からの笑顔で。

「何度だって、止めてあげる」

こんな笑顔を、自分は見たことがなかった。

「全く」

苦笑し、呟く。

「最低な返事だ」

そんな笑顔を見せられたら、諦めきれないじゃないですか。












地面に突き刺さった鉄骨の陰に身を隠しながら、私は二人の会話を聞いていた。


と言っても、一部始終を聞けたワケじゃない。
『超電磁砲(レールガン)』のお姉さんは監視カメラの死角に入っちゃうし。
慌てて追いかけてみたら、建設中のビルが突然崩れ出しちゃうし。
それに近づき過ぎたらお姉さんの電磁波に捕捉されちゃうから、二人の会話は断片的にしか聞き取れてない。
それでも、自分が一番知りたいと思っていたことは分かった。


――困ったな。


鉄骨に背中を預け、空を仰ぐ。


この二日間、どんな小さな悪事でも見逃すまいと目を光らせていたのに。
みんなが憧れる超能力者に相応しくなかったら、『風紀委員(ジャッジメント)』の権限を駆使して拘束してやろうと思っていたのに。


――あのお姉さん、すっごくいい人だ。










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