東日本巨大地震:本紙記者の福島滞在記(上)
原子力発電所から50キロのホテルに滞在
ソウル市江南区での取材中、「日本が焼け野原になった」との連絡を受けたのは11日午後3時ごろだった。会社の指示を受けてすぐさま荷物をまとめ、光化門の本社を出発したのは午後4時50分、仁川空港発新潟行きの大韓航空機に搭乗したのは午後6時だった。羽田空港と成田空港が閉鎖されていたため、この日のうちに日本へ着陸する飛行機はこの便しかなかった。
午後7時49分、新潟空港に降り立った。新潟市中心部の新潟駅に到着したのは午後8時20分だった。新潟は今回の地震による直接の影響は受けていないが、新幹線など鉄道や高速バスの運行はすべてストップしていた。そのためタクシー運転手と交渉し、3万5000円の運賃で今回の地震で大きな被害を受けた仙台までおよそ400キロの道のりを、険しい山道を徹夜で走ることにした。
しかし、途中で予想外の出来事に見舞われた。時速50キロほどで走行していたところ、通過したばかりの高速道路が通行止めになっていた。運転手の表情には後悔の色がうかがえた。さらに国道4号線も土砂崩れで通行できないことが分かると、12日深夜3時ごろ、運転手は「この辺りで降りて下さい」と記者に告げた。仙台までおよそ90キロ。深夜4時になって福島駅前のホテル辰巳屋にたどり着いた。その時点で、福島第一原発で何が起こっていたのか、もちろん知る由もなかった。
ロビーでは、20人ほどが毛布にくるまったまま横になっていた。支配人は「どこのホテルに行っても同じだ」と言い、1枚の毛布を手渡してくれた。外は吹雪と冷たい風が吹き、体感温度はマイナス10度を下回っていた。「昨日の夕方5時から何も食べていない」と言うと、支配人はクロワッサン2個を差し出した。するとすぐ横で寝たふりをしていた高齢の女性が、そのクロワッサンをすぐさま自分の懐に入れた。毛布を半分に折ってその間に入り込み横になったのは早朝5時。まるでホームレスになったような気分だ。疲れて視線も定まらないところに、突然ロビー全体がぐるぐる回るような感覚に襲われた。余震だ。しかし、疲れていた私はすぐに眠りについた。
朝7時、地震で再び鉄筋コンクリート製のホテルが揺れ、驚いて外に飛び出した。その瞬間、目の前に広がった街の様子は衝撃的だった。どこにも人の姿はなく、住民は全員が避難しているようだった。