私は菜の花畑が好きだ。
これはむかしからずっとだし、こうやって楽しい時を積み重ねているからその感情はきっと、これからも天井を知らずに積み上がっていくのだろう。
夢のようにきれいな黄色の氾濫に頭のてっぺんまで埋まりながら、モンシロチョウを追いかけて掻き分ける。
「ははっ、こら、ありか! そんなに走ったら転んでしまうよ」
「いいもーん、べつに! ころんだらお花さんにうけとめてもらうもん!」
大好きなお父さんが微苦笑を浮かべてたしなめるけど、そんなもので今の私の勢いは止まらない。
春の太陽みたいに爽やかに目に映える花に、白く可憐なちょうちょが止まるのを見て、息を潜めた。
「よーし、うごかないでよ…?」
お母さんが大丈夫かしらなんて、遠くから笑っている。うるさい、もう小学1年生なんだから、そんなに心配しなくたって平気だもん!
こっそり、こっそり近づいて……、思いっきり黄色い波を切ってジャンプ。
飛びかかった先のモンシロチョウにもう避ける術など無い。やや上から飛びかかった私を避けるまでの時間なんてもうないんだ!
かかった獲物をにやりと見つめそして私は……
――急にモンシロチョウが消え去り、ぽっかりと空いた果てない奈落へと落ちる
「夢…かぁ……」
天から落とされるような感覚に強引に引きずり出されるように目覚め、私はせんべい布団から起き上がった。
幸せな夢を見ていた気がするが、最終的にはあまり面白くないことになった夢だったんだろう。寝汗と冷や汗の中間ぐらいの汗が、首筋の悪寒を通じて夢の中身を保証する。
まったく、そんな保証なんていらないのに……。
せめて寝ている間くらい、幸せの絶頂を楽しんでいたい。そんな風にぼやきながらも顔を洗って歯を磨き、軽く先生にバレない程度のナチュラルメイク。
朝ごはんは食べない主義だ。昔は食べていたけれど別に食べなくても平気だし、そのためだけに起きる時間を早くするくらいだったらギリギリまで寝ているほうが割に合うってもの。
着替えを終え、盛大にぶった切られたのをどうにかこうにかみすぼらしくない程度にまで繕った高校のブレザーを羽織る。
今朝も敬愛すべきクソオヤジ様は平常運転なようだ。今日も今日とて居間のアルコール臭がキツい家を逃げるように出た。
―――はぁ…、どこで間違えたんだろう……。
知っている。どうせ母さんと父さんの不和で、二人が離婚した時からに決まってる。
どっちが先かは知らないが、やれフーゾク行ったでしょやらお前もフリンしただろやらなんやら、小学生の娘と友だちがいる状況にも気づかずに口論してた時の方が正確だろうか?
まあ、どっちでも一緒だけど。
学校についても、憂鬱な気分は収まらない。
下駄箱について自分の靴箱がギラギラ光っていることにいきなりげんなりする。
靴に画鋲なんて何時の時代の話だかさっぱりわからないし、それに上履きにこんもり山ができるほど盛りつける意味はあるのだろうか。
私の足が決して大きいサイズでないことを差し引いたとしても、それだけで校舎全体の掲示物をまかなえそうなほどに量がある画鋲たち。
こんなにじゃらじゃらと集めてくる根性なり財力なりがあるんだったら、もっと別のことに費やせばいいのに。馬鹿みたい。
教室に行っても憂鬱は終わらない。特に話すべきこともないし、ただただ沈黙を決め込んで机に突っ伏すだけ。
中学校の頃に唯一の友だちが存在をくらまして以来どうせ味方なんていやしないし、物を自分の目の届かない場所に置いておけないためなるべく減らした結果、暇潰しに本すら持ってこれてない。
教室から目を離すことと単独で人目のつかないところへ行くこと、二重の意味でトイレもおちおち行けないが、幸い膀胱は強靭な方で、私自身我慢強さと根性においては自信がある。
あとはこの根性が学力に繋がっていれば高校で地元の連中からグッバイできていたのだが、あいにくと私の頭の出来はぱっぱらぱーだったご様子。ここまでやっても学力は平均レベルにとどまっていた。
「世界のバカヤロウ…」
嗚呼、この世が憎らしい。なんで私だけこんなに苦しまないといけないんだろう。
もしも私にもう少し、努力が反映される程度に上等な頭があったら、こんな生活なんぞ送らないで、いい奨学金で地元から離れた国立高校にでも通って家でもうちょっとゆっくりできたかも知れないのに。お父さんと仲直りする時間もとれたかも知れないのに。
バイト漬けの生活を抜け出せばきっと、時間ができてお父さんとも仲直りできるはずだ。またしっかり働いてくれて、ふたりだけでも楽しい生活に戻れるに違いない。ぜんぶ時間がないのが悪いんだ。
―――それは欺瞞だ。
ああ、そうだよ。全部わかってる、そんなの。
もしあれがあったら、もっとこうだったら。そんなの世界中でみんな同じことを考えてる。
下校中の列車の中、目の前で座っている生え際の後退したオッサンだってもっと髪があればと思ってるに違いないし、端っこでケータイいじってる中学生だってもっと小遣い増えればなとか思ってるんだろう。
第一そもそもきっと、意思さえあれば時間がないなんて言わずにお父さんを説得しようと頑張れるはずだ。
でも私はそれをしない。結局のところそれはやる気がないからだ。
「はぁ…、せめて妄想の中でくらいは、自分に甘くありたかったなぁ……」
我がことながら損な性分だと思うがやめられない。
もうちょっと人生ラクーに生きられないもんだろうかとも思わないでもないが、かれこれ生まれてからの付き合いで無理だということは分かりきってる。
そんな益体もない考えに、いつまでも時間を浪費するのもよろしくないだろう。
私は電車の中に居る時間を活用すべく数学の教科書を取り出した。
眼に入るのは、ずたずたの表紙。
自分の現状を思い出し、憂鬱は加速する。
本当に、妄想にでもなんでも逃げ込みたい。もうやめたい。
何をやめればいいのかも見当がつかないが、もうなんでもいい、なんでもいいから今のままでいたくない。
―――もう、世界なんてぶち壊してしまいたいっ!
そして、私の願いは叶った。
ぬたり。
空間という空間が、絵の具で上から塗り替えられるようにその意味を変えていく。
おぞましい、世界を呪うような咆哮が頭蓋の一歩内側を荒れ狂い、目と鼻の先から遠近感が狂ってゆく。
でも、それだけの衝撃を受け止めていても、私の心は平静なままだった。
……いや、平静にさせられていた?
自慢じゃないが、私は常識的な人間だ。
そこそこ肝は太い方であるかも知れないが、それは常識の範疇での話であり、天地がひっくり返るような異常事態が引き起こされてはパニックになるのはまず間違いないはずだ。
――正気でいられること、まずそれ自体が狂気。
まるでピカソの絵の中にでも引きこまれたかのようなでたらめな色彩の、距離の概念の崩れた世界に放り込まれてもせいぜい「ああ、道が変わっちゃったなぁ」くらいにしか思えない。
そんなの、おかしい。おかしいと思えない自分がおかしい。陰謀だ。
空に浮かんだ穏やかな顔をした三日月からでたらめな方向にワイヤーが垂れ下がり、虚空からほうぼうに伸びる電柱には規則性が見られない。
夜空にはぐにゃぐにゃに曲がりくねった線路が敷かれ、目玉しか無い車掌服が一心不乱にスカートを穴あけパンチで蜂の巣にしている。
首から上だけが換気扇の羽みたいになっている蛇がレールの上をのたうって、高らかにどこかで聞いたようなクラシックを唄い上げながら絡み合い、楽しそうに笑う。笑う。
私はいつの間にか、ウロボロスみたいな形でぐるぐると輪っかになったまま回り続ける列車の屋根に立っていた。風はなく、側面に張り出した黄色いベンチではアラビア数字の塊が恋人のように睦み合って楽しげだ。
「なんだってーのよ……」
手元にあるずたずたの教科書を見て、逆に安堵する。それはただ刻まれただけでなにひとつ非常識なこともない。
ついさっきまで憂鬱の象徴だったそれが今度は日常の象徴に様変わりする。
「ぷぷっ……」
なんとも滑稽だった。
「あはははははははは!」
――ああ、滑稽で、面白くてたまらない。
なんで私はこんなところにいるのだろう。なんで私はいじめられなきゃならないんだろう。なんで私の父さんはのんだくれてしまったんだろう。なんで私の両親は離婚したのだろう。
なんで
なんで
「■■■■■■」
近くの中学指定のスカートを、ブレザーを、リボンをずたずたにしていた目玉が振り返った。
穴あけパンチをかちかちと鳴らし、真っ青の車掌服が風もないのに宙にたなびく。
「■■■■■■」
蛇たちが振り返った。空気を送るための部位を音もなく回転させながら、脇の虚空から舌をちろちろと出して舌なめずり。
「■■■■■■」
アラビア数字が振り返った。二つのかたまりが指らしき数字の網をこちらに向けて、なにごとか金切音を上げる。
そしてかれらは一斉に私へ寄り始める。
「来るな!」
手元にあった教科書を投げる。アラビア数字が数学の書を飲み込むだなんて、ひどい皮肉だ。
「来るなっ!?」
通学カバンも投げる。受け止めた目玉の群れが、一瞬にして穴あけパンチで蜂の巣にする。
「くるなぁぁああああぁああぁぁぁぁぁああああぁぁ!!!!!」
私は身も投げる。あんなおぞましい連中に寄られるくらいなら、己食らう蛇のドーナツ状になった中心に落ちたほうが万倍マシだ。
何も無い上を無限に回り続ける車輪が遠くなっていくのをただ呆然と見つめ、風を切って落ちる、墜ちる、堕ちる。
「がぐっ!?」
ぐきりと、首から嫌な音が聞こえた。視界が真っ赤に染まり、目鼻口から体液が滴り落ちる。
息を吸おうとすれば何かが詰まり、吐こうとすれば口から湧き水が溢れ出す。
――痛い。痛い。
まるで骨の髄から肉が剥がされるような激烈な灼熱感。
魂ごと鎌で刈り取られる。車掌帽の死神が切符を拝見に微笑む。
―――もうやだ、こんなの……っ!
「僕と、契約をしないかい――?」
声が聞こえた。
「願いごとをひとつ、なんでも叶えてあげるよ」
男の子の声だ。
私への救いは、何一つ正気な部分のない世界で淀みなく聞こえるその声だけだ。
「願いは何だっていいんだ。お金でも、命でも、何でも叶えてあげる」
――それなら、きっと、そう。抜け出せるだろう。わたしは
「僕と契約して■■■■になってよ!」
―――あの頃に、戻りたい
契約は、成った。
☆弁解
3話の「いつもの虚淵に戻ります」宣言で興奮してやらかしました。
先がわからないという性質上見切り発車であることは否定できませんが、SSに使う設定上にゆとりを大きく持っているので、たぶん更新停止にまではならないんじゃないかと思われます。毎週バックヤードでSS内の設定が更新されることになるでしょう。